これ、ほんとにコーエン兄弟が撮ったの?というのが見終わった直後の印象。後味の悪さがいつもより足りない気がして……。
西部劇。悪党に殺された父親の仇を討つため少女は犯人追跡の旅に出る。(まあ、なかなか旅に出ないのだが)アル中の保安官と格好つけのテキサス・レンジャーとともになんだかんだの道中の末、少女は父の仇と対峙する。しかし、この父の仇、どんな極悪人かと思ったら、間抜けすぎて拍子抜けするような、頭の悪い下っ端の小悪党として描かれていて、ひどい扱い。もちろん仇討ちのカタルシスもない。
パンパンパンと軽い銃声が鳴って、人がバッタバッタ死ぬ。この映画。娘を助ける保安官は自分の人生でこれまで何人撃ったのか、何人殺したのか覚えていない。何のためらいもなく、銃を撃ち散らかして、弾丸の飛んでいく方向にたまたま立っていれば人は死ぬ。
上っ面を見れば、法や道徳を超えて銃がすべてを支配する単純明快な西部開拓時代への礼讃とも、生き残ったもの=正義という弱肉強食の原理や暴力への肯定とも、あるいはもっと単純に勧善懲悪ものとも、受けとれる映画だ。
けれど、物語の中盤、期せずして惨劇の現場となった山小屋を立ち去りながら、あるいは、クライマックス、決闘の舞台となった野っ原を、負傷して馬で運ばれながら、死体を数えるようにみつめる、少女の眼差しはいつも後ろめたい。
そこに含まれるものが、たんなる幼い少女の抱く大人の男たちへの恐怖なのか?それとも、アメリカ社会のありかたに対する疑義なのか?判然としない。
この作品、北米ではよい興行収入をあげたというが、いったいどういう受け入れられ方をしたのだろう?銃規制反対派や保守反動のオヤジたちを喜ばせただけなのか?
見終わって数日、いまだに解けない疑問が残る。
雑魚たちの薄っぺらな死の上に達成された価値って結局何だったのさ?
健気な娘の仇討ち?少女のために命の危険を顧みない男たちの人助け?
トゥルー・グリットって何?
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私は地震の前日にこの映画を見て地震の後この感想を書いている。どうしてもそちらの方向に考えが流れていってしまうので素直にそのまま書こうと思ったが時間切れ。また別の機会に書く。