2011-03-04

『名前のない少年、脚のない少女』クロスレビュー:「ここではない世界」への憧れを、圧倒的に甘美な映像で描く このエントリーを含むはてなブックマーク 

 主人公はブラジルの村に住む十代の少年で、日常をつまらなく感じながら、インターネットを通じて投稿動画の中のミステリアスな若い女性に惹かれ、ボブ・ディランのコンサートに行くことを夢みているという形で登場する。
 彼のそんな心情の背景や、動画に映っているのが誰か?といった、物語の具体的なことはあえて後回しにして、さらには映画の展開を時間を前後しながらの解りにくいものにしているので、映画はずっと登場人物の想いや出来事が曖昧なままで進み、様々な解釈が出来うる結末で終わる。

 そんな曖昧な展開でも緊張感を途切れさせずに映画に目をくぎ付けにさせていたのは、圧倒的な映像センスの高さ。
 それこそ、「何年かに1度の」と言ってもいいくらい。
 あの映像を作り出せる自信があったからこそ、曖昧なストーリーにしても問題ないという勝算があったのかも。

 そのように具体性が無かったこと、特に主人公の設定が曖昧だったからこそ、彼を特定の状況下の人間と簡単にみなすのではなく、彼の表情や言動から彼の心情を探って、自分と重ねて理解しようとしながら観ていた。
 彼は、「絶望」「反抗」「無気力」といった言葉で表せる心情にはどれもピッタリ当てはまらず、しいて言えば「漠然とつまらない」のだと思った。
 それは、田舎の十代が抱きがちな「ここは自分の居場所ではない」という想いを感じさせる。
 そんな心の持ち主なら、女性が写っている動画の甘美さ(この映像も素晴らしい)になびくのも無理はない。
 たとえ数々の動画や、そこに女と一緒に写っていた村の男になど、彼の興味の対象には「死」のイメージが色濃く漂っていても、現状の閉塞感の前には障害にならない。
 そして私も、決して過去も現在も死に対する憧れがあったわけでもないのに、この映画には強く惹かれてしまった。
 それは十代のころの外界への憧れが身に覚えがあったことに加えて、「現実とは違う世界」や「甘美なもの」を求める主人公の心情が、同じことを期待しながら映画を観ている自分と符合したからかもしれない。

 映画でしかできない表現をしていることも合わせて、映画的な想いにたっぷりと浸れる映画だった。

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さるべ

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