急に決まった翻訳のバイトや報告の準備等で忙しく、また中国電力による上関原発の建設工事の強行のことが気になって、手持ち無沙汰にしている暇も落ち込んでいる隙もなかったのが幸いしたのか、先週から何とか「復活」しました。
休肝日はつくれてませんが、飲み過ぎることはなく、あくまでも僕なりにですが、規則正しい生活をしています。
先週、春一番が吹いて、シャツ姿でも汗ばむほどの陽気だったのが、週末から一転、月曜からは完全に冬に戻ってしまったような寒さになってしまったのには、参りましたけど。巷ではインフルエンザも流行っているみたいだし…。
今日は夕方から行きつけの下高井戸シネマに映画を観に行って来ました。行きも帰りもいつも通りウォーキングだったのですが、行きは冷たい向かい風でしかもパラパラと小雨も降っていて、ダウンジャケットを着て出なかったのを後悔したほどの寒さでした。
観たのは『ルイーサ』(原題“Luisa”、監督:ゴンサロ・カルサーダ、脚本:ロシオ・アスアガ、出演:レオノール・マンソ他、2008年、アルゼンチン・スペイン)。
公式ホームページは↓。
http://www.action-inc.co.jp/luisa/
タイトルは、アルゼンチンが軍事独裁政権下にあった1978年に、夫と幼い娘を一度に失ってから、ブエノスアイレスのアパートで飼い猫とひっそり暮らす、59歳の主人公の女性のファーストネームから。
ルイーサは突然仕事を失い、電気も止められてしまうほど、経済的に困窮してしまう。心の支えだった飼い猫も急死するが、荼毘に付すお金があろうはずもなく、亡骸をビニールでグルグル巻きにして冷凍庫に入れておかなければならない。
それまで利用したことのなかった地下鉄で、大勢の物売りや物乞いを目の当たりした彼女は、必死の思いで一念発起して物乞いを始める。最初は全くうまくいかなかったが、身体に障碍のある振りをして、僅かながらも日銭を得ることが出来るようになる。
それと同時に、地下鉄の構内で物乞いをして暮らす、片足のない老人と懇意になり、彼女の失業と困窮に同情して、電気代を立て替えてくれた親切な管理人とも、打ち解ける。
ルイーサは、ずっと人付き合いを避けて、夫と幼い娘の思い出だけに生きてきた。ただし二人の記憶は、恐らく事故で一遍に亡くなった際に受けたショックゆえに、ルイーサにとって心の拠り所と言うよりはむしろ、トラウマになっている。
彼女は無一文になり、唯一の友であった愛猫も失って、物質的にも精神的にも追い詰められてしまったからこそ、現実世界と向かい合わざるを得なくなった。その結果、彼女にとっては、夫と娘を亡くした30年前から止まっていた時間が動き出し、周囲の人びとにも心を開くようになった。
飼い猫の遺骨を夫と娘の墓の間に埋め、二人と一匹のお墓に赤いバラを備えるシーンは、新しく生き直すための、死者に対する別れの挨拶のように感じられた。
いい作品だと思うけれども、僕自身もどん底状態なので、観ていて正直、いたたまれなくなってしまった。舞台が遠いアルゼンチンで、フィクションだからよかったものの、日本のドキュメンタリーだったら、最後まで見続けることが出来なかったかもしれない…。そんなこともあって、作中に差し挟まれる、ユーモラスなシーンも、今一つ楽しめなかった。
きっかけはお金に困ってやむを得ずであったとは言え、ルイーサは生まれ変わった…僕はどうやったら生まれ変われるのか、そしてどのように生まれ変わったらよいのだろうか…そんなことを考えさせられた。
研究では、来週末の研究会での報告のために、1970年代の米国のフェミニスト心理学の本を読んでいます。最低限これをまとめて、出来れば対象関係論のアウトラインも押さえられればと思っています。
ところで、サビで“biosphere〔生命圏〕”(※)という語が使われている「遠い音楽」を、偶然耳にしたのをきっかけに、先週から動画サイトで「暖簾分け」以前のZABADAKを聴きまくっています。現在ここ十年で一番貧乏なのに、ライヴDVDを二枚も買ってしまいました(笑)。
※僕がこの言葉を知ったのは、ジェレミー・リフキン、星川淳訳『地球意識革命——聖なる地球をとりもどす——』、ダイヤモンド社、1993年(Rifkin, Biosphere Politics, 1991.)からです。
ではこれから、酒の肴のブリ大根をつくります(笑)。