「我はいかにしてGONZOになりしか」はこの映画で描かれない。ハンター・S・トンプソンはいつからか自分の中にGONZOを発見し、そのように名乗り、そのようにふるまい、そのように書いた。GONZOという人格はおそらく70年代半ばまでは乗りこなすには最高の器だったかもしれないが、それ以降、彼はGONZOで「しか」なくなっていく。仮面は憑き物となりいつしか彼そのものを呑み込んでいった。この映画はその顛末である。
気がつけば酒とタバコをのみ暴れ回っていた。フィッツジェラルドのグレート・ギャッツビーをタイプライターで清書し文体を身に染み込ませフリーのジャーナリストに。ヘルズ・エンジェルズへの密着取材でブレイク。それ以後、自身の行動を中心に据えたルポを次々と発表する。保安官選挙にも立候補した。
ハンターが見たもの。革ジャンを着込みハーレーで暴走し女に暴力をふるう暴走族。動物のように生きドラッグに夢を託し愛と平和を歌うヒッピーたち。ベトナムでの無意味な戦争を支持する政治家。いったいこれは「何」なのだろう。それはGONZOという人格でもってしか、見も聞こえも賛成も反対もできなかったものなのだ。「こうでもしなきゃ、やってられない」と。
創作(ジャーナリズムも含める)と人格/人生が一致してしまった人々は、時代とのレゾナンスが強い分、波長がずれはじめると急激にまた時代から取り残されるものだ。そして皮肉なことに、逆に自身と自身の産み出したものが、老いるにつれ一つに収斂していく。晩年、彼は正真正銘のGONZOとなり、家族を集め自分の頭を吹き飛ばした。
20世紀、世界の矛盾はアメリカの矛盾でもあった。イデオロギー闘争はソ連と同じくイデオロギッシュな国家アメリカの矛盾であり、時代のスタイルを身につけた不良たちはエリート思想の裏返しである。映画の冒頭、911をテレビニュースで知り、キータイプを始めるハンターの再現が映し出される。しかしこの瞬間、世界の矛盾はアメリカが包摂できる臨界点を確実に超えた。アメリカのデタラメさの化身=GONZOですら、崩壊するビルを前にスパイダーマンの隣で頭をかかえこんだのである。彼は何を書こうとしていたのだろう?この時代に何を残そうとしたのだろう。残念ながら彼がその後残したものは気がきいた遺書だけだった。
題名は、
Football Season is Over.
彼は審判ではなくプレイヤーであり続けた、スタジアムに入ったときから、出て行くときまで。観客と一緒にゲームを盛り上げ続けたが、なにせアメリカというゲームが終わったのだ(ハンター「花」火葬のセレモニーとともに)。帰るしかない。うまく帰れただろうか?・・・そもそもどこから来たのだ、GONZOよ。