うわーこれは……ショック。明らかに、ぼくの青春時代の恩人と言っていい人。
若い映画ファンは名前も知らないだろうけど、70年代後半から80年代初頭の映画ファン(特に邦画ファン)なら絶対忘れられない名画座「上板東映」の支配人だった人だ。当時大学の映画研究会にいて、年間300本ぐらい見ていたぼくが、もっとも頻繁に通った映画館だった。
ビデオが普及する前の名画座全盛最後の時代。当時邦画専門の名画座というと銀座の並木座、池袋文芸地下、それから上板東映だった。古い大家の古典的名画の上映が多かった前2者に対して、上板東映はそこから少し外れた、東映のヤクザ映画とか日活ロマンポルノ、それから東宝や松竹でも若い作家の作品やB級ものの上映が多くて、そのぶん若い客が多かった。とくに2番館として、封切りが終わった近作をいちはやく上映してくれたのが助かった。4本立てというのもうれしくて、早起きしていそいそと東上線に乗って出かけ、夕方まで4本見て、それから池袋に出て文芸地下にいくか、高田馬場のパール座とか飯田橋のギンレイ(ここはロマンポルノが充実してた)にいくのが日課だった。大学なんて全然通ってなかったねー。元記事にもある通り、監督や俳優などを招いたイベント形式の上映会もよくやってて、それがまた若い映画バカの心を捉えたのだった。
小林さんはすごく人格温厚で優しい方だった。ぼくのようなどこの馬の骨だかわからない映画青年(当時はそういう連中が一杯上板東映に出入りしていたはずだ)にも気さくに接してくださった。確か小林さん自身はそんなに映画狂というほどでもなかったけど、こうやって若い映画ファンと接するのが楽しいのだ、というようなことをお聞きした記憶がある。あのときはほんとに映画が好きだったし、小林さんとお話するのが楽しかった。映画雑誌に投稿したり(ぼくの原稿が最初に載ったのは音楽誌ではなくムービーマガジンという映画誌だった)、将来映画の仕事につければいいなと思っていた。学祭のとき映研で、当時青春映画の俊英として活躍されていた山根成之監督をお招きして、ぼく司会でトークショーをやったのも、上板東映=小林さんとの交流があったからこそだったと思う(ロック夜話みたいなイベントを、このころからやっていたんだな)。あのときそのまま映画の道に進んでいたら、ここでこんな文章を書いていることもなかっただろうけど。
でもぼくは結局大学を卒業すると映画とは何の関係もない会社に就職してしまい、仕事の忙しさを口実に映画館に通わなくなってしまう。必然的に上板東映からも足が遠のいていく。小林さんが「狂い咲きサンダーロード」をプロデュースされた話はもちろん知っていたが、そのときも上板東映には足が向かず、そのうち時代の波に抗しきれず閉館となってしまい、結局卒業以来一回も小林さんにはお会いしていない。お亡くなりになって、とうとう一生不義理をすることになってしまった。小林さんにとってぼくは、一時期狂ったように映画にのめりこみ、ある時期が過ぎるとツキモノが落ちたように卒業していく、掃いて捨てるほど小林さんの周りにいた若造のひとりだったにすぎないのだろうけど、それがたまらなく悔しい。
やっぱり不義理はよくない。お世話になった方がご存命なうちに、そしてこっちの五体が満足なうちに、いろいろな方にご挨拶しておかなきゃ。
小林さん、ありがとうございました。安らかにお眠りください。