先駆的な概念の意味はその文化圏によって異なっている場合がある。だがその文化圏における物事の意味は即に自明的なものになっておりそれなしに日常生活を送ることは困難であると言える。たとえば「椅子」は座るために存在するものであり「トイレのビデ」は肛門にお湯をかけることで糞の産出を促進する本質があると誰もが思って疑わないはずである。
それにもかかわらず物の本質を真っ向から否定し実存的な生き方をアプローチする知識人が存在していた。その名はジャン・ポール・サルトルである。彼は現実に存在している=実存を武器にあらゆる先駆的概念に真っ向から奇襲を仕掛ける生き方を望み好みそして教示したのだ。
では実存的な生き方とは具体的にどういったものなのであろうか?老若男女の疑問である。
さきほど「椅子」は座るために存在すると述べたと思う。なぜ「椅子」を見て本質が座ること
だと思うのであろうか?行動主義の条件理論か?現象学的な志向性か?アフォーダンスに
よって椅子に引き寄せられているのであろうか?様々な影響を考えることは可能だ。
ただ私たちは「椅子」は絶対的に座るものであると思い込み実行することを強いられているのは確かだ。では実存的椅子の使用方法とは一体何なのであろうか?実存的には座ってもいい、殴ってもいい、蹴飛ばしてもいい、自殺の道具として使ってもいい、投げてもいい、舐めてもいい、嗅いでもいい話してもいい無視してもいいと多種多様な実存的使い方が主体に求められてしまうのである。あらゆる有用性など超越してしまうのが実存的日常生活の特徴である。
「トイレのビデ」も同様である。朝起きて顔を洗うもよし、シャワーの変わりに使うもよし、炭酸水の変わりに飲んでもいいのである。何もやましいことなどしていない。やましいと思うのは本質から見た実存的行為だからであり本質に先立ってしまった実存主義者には馬耳東風である。
また人はよく他者の行為を見て笑うことがあるがこの現象は実存と本質の差異が他者を笑いの坩堝に叩き落としているのでありあらゆる娯楽は実存的な思考が背景にあると言ってもいい。
だが実存的日常生活はそれほど有用的な生き方ではないことを伝えなければならない。実存的日常生活を行い続けるのは各人の自由だがたまに本質が実存を上回り生命の危険に直面する可能性は高いのである。たとえば、「赤信号」は本質的には止まれだが実存的には行けであったり走れであったりするかもしれない。そうした場合十中八九軽乗用車に轢かれるであろう。
また本質的には本は読むものだが実存的には食べるものかもしれない。そうした場合図書館の司書に憤怒されてしまう場合がでてきてしまうかもしれない。出入り禁止である。
しかしそれがどうしたのだ?あらゆる本質に縛られて生活している人たちはシステムに疎外
され没個性化した人間たちではないか。いくら捕まろうとも怒られようとも退かれようとも
刑務所に入ろうとも精神病院に入院しようともいいではないか。疎外された保守派が
そこまでできた人間たちなのか?実存主義者は真っ当な人間であるかどうかはわからない。
本質的には過激で合理的で快楽的でワガママな有機体であるかもしれない。
だが「実存は本質に先立つ」抑圧思考の自己欺瞞の本質主義者に実存を喰らわせ生きていけばいい。車に衝突せよ、本を食べよ、コップやビンを投げろっ!
あらゆる行為にアンガージュ(参与)し実存的日常生活を満喫するのだ!