人は社会的動物であるため自分の存在だけでは生きていくことが困難であり自我同一性(アイデンティー)もまた他者の存在なくして成立はしない。またその文化圏や時代における善悪とは他者の思想、行動を模範することによってでしか産まれない。普遍的な善悪などそもそも存在しえないのであると考えるのが筆者の見解なのである。
ところがそれとは正反対な理論を提唱した心理学者が過去に存在した。カール・グスタフ・ユングの提唱した「普遍的無意識」という概念である。この「普遍的無意識」とはフロイトの提唱した「無意識の構造モデル」よりも深い場所に位置する人間共通の普遍的な
無意識であるとユングは言うのである。どこにそんな根拠があるのか?老若男女の疑問だ。
その問いに永久中立国出身者ユングは科学的根拠を一切踏まえず経験論のみで結論をだす。
ユングの診察していた妄想型分裂症の患者はユングにこう述べたそうである。
「太陽にはペニスがあり、その動きが風を引き起こしている。」とその4年後ユングは
とあるミトラ教の祈祷書を読んだところ驚くべきことにほぼ同じことがエクリチュールされ
ていたらしいのである。そしてユングはあらゆる文化圏と時代の深層には普遍的な無意識が
存在していると確信してしまったのである。科学的根拠は一切なし。ユングの普遍的主観が
「普遍的無意識」という超摩訶不思議概念を創造してしまったのである。
そして「普遍的無意識」の中に含まれる普遍的なシンボルやイメージがあると
ユングは考えるに至った。このイメージやシンボルのことをユングは
「元型(アーキタイプ)」とエクリチュールしたのである。ここからが本題である。
ユングいわくこの元型の統制を人間は受けていると述べるのである。たとえば自分の心を
動かす異性が現れればアニマ(男性の中の女性のイメージ)かアニムス(女性の中の男性
イメージ)の作用が働いているとユングは考える。怨恨を持つ人間がいればそれはシャドウ
(他者には見せたくない汚い部分)を対象に投射しているのである。もしくは絶対的な
救世主を求めているならば英雄が対象に投射されると考えてもらえばいいだろう。
ユング的には外界の対象は全て投射によって成り立っていると考える。つまりあらゆる
元型(アーキタイプ)は個人の心の中に存在しており気がついていないのだとユングは
示唆する。そこで対象に投射することで自分の深層に眠る元型(アーキタイプ)が
どういったものであるか?を確かめることができるというわけである。
またユング自身は自分自身が創造した元型(アーキタイプ)と会話することを欲して
いた。アクティブイマジネーションを使うことによって老賢者フィレモンや女性元型アニムスや神であるアイオーンと会話することによってユング自身は支えられ楽しかったのだろう。
確かに精神医学的に考えればユングは精神分裂病だと診断されるかもしれない。
だがユングは確かに声は聴いていたし会話していたのだろうと推測されるし彼は元型という
自分自身に内在された大勢の友達たちと支離滅裂な世界で楽しんでいたのである。
晩年はあらゆる元型を取り込み無意識の世界に到達し超越論的世界に旅立ったのである。
私は「普遍的無意識」と「元型」の信憑性など皆無に等しいほど信用はできないが
ユング的な生き方を否定することはできないと考える。友達や恋人や家庭や夫婦を持物
の延長としか考えず「どれだけ持っているか否か」を重視する唯物主義的な汚れた人たち
よりも自分の深層の中に元型が潜んでいると考えその元型と一生を供にしたユングという
分析心理学者にこそ観念論的で普遍的な友情が潜んでいると思ってならないのである。