2010-10-29

『スプリング・フィーバー』クロスレビュー:各人が愛を求める このエントリーを含むはてなブックマーク 

センセーショナルな同性愛シーンの話ばかりを耳にする本作であるが、上映前にロウ・イエ監督は「これは愛の物語だ」と述べた。

確かにそうなのだ。この作品をゲイ映画として避けていたら、もったいない。冒頭のベッドシーンは、異性愛者の私には強烈で、少しの嫌悪感を隠さなければいけなかったが、物語が進むにつれ、彼らの性別は全く気にならなくなった。彼らのひりひりした心、内に秘めた孤独感、狂おしいほどの欲望は、男女のそれとなんら変わらない。実際、主要人物の女性に「彼の手も、こうして握るの?」というセリフを言わせている。二人の人間の間にある愛が、彼女と彼の間にあったものと同質だと、観客に伝える。それと同時に、主人公ジャンも、物語の進み具合に合わせてカッコよく見えてくるから、不思議だ。無機質な高級マンションに住みながら、元恋人の死でとめどなく涙を流す姿に、人間臭さを感じるからかもしれない。

南京に暮らす5人の若者は、(1人を除いて)仕事を持っているものの、何か政治や社会と切り離された存在に思える。しかし単なるオシャレな恋愛ドラマではなく、湿度と親密さをもった、若者の日常に仕上げている。それには、手持ちのデジタルカメラが大きな効果をあげているようだ。自在に動き、寄り、揺れるカメラは、登場人物の心情の変化に観客を寄り添わせる。傷つけあう彼らの若さに呆れながら、一方で、彼らに愛着に似た愛情を抱かせる。彼らの旅はいつまでも続いてほしかった。微妙なバランスを保ってほしかった。それは、安定を望む大人だからか。しかし、不器用な彼らは、互いの孤独を埋めることができずに、また離れていく。それは惑星が自分の軌道に沿って、寄っては遠ざかっていくように。関係に執着しないのは現代の若者らしさなんだろうか。対照的に、強い愛と執着に突き動かされた女性もいる。いや、彼女も愛にさまよう無力な存在なのかもしれない。随所で挿入される郁達夫(ユイ・ダーフ)小説<春風沈酔的晩上>の響きが美しく印象的である。小説の前後がわからないので、意味を汲むことはできないが、強い漢字のデザインとともに、強烈に心に響いてくる。登場人物の心情とともに、自身にも何か共通する部分があるのか。

私にはラストが両義的に思え、もう一度確認したくなっている。これはハッピーエンドだという言葉を信じると、ジャンは数々の恋愛と、人々との交わりを通して、変化したのであり、かすかな希望を含んだ温かい空気に感じられる。それにしては、ジャンはずいぶん無気力な表情にも見えたけれど。繰り返しの鑑賞に堪え、そのたびに新しい発見があるという作品は、最近には貴重な存在だ。

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