この映画では、経済格差、情報に振り回される人々、正義感のはき違えなどの、社会問題に関する人々やエピソードが登場する。
そんな理不尽なことを世の中に蔓延させているのは、他ならぬ人間自身。
でも、一人ひとりの人間は、世の中を悪くしようと思っている恐ろしい存在では決してなく、個人のささやかな想いが集合すると、世の中をおかしくするまでにエスカレートしてしまう。
ちょっとした願望が強欲に、清く正しい世の中を願う気持ちが潔癖症的な不寛容に、といった具合に。
社会の悪の根源をたどると、そこはむしろ個人の善意だったりするので、人間の営みに善悪の区別はつけられない。
そんなつかみどころのない人間に対して、そのあるべき姿を追及するなんて、バカバカしく思えてくる。
それどころか、そんなことを真面目に考える向上心こそ、人間を間違った方向に陥れることになりそうである。
映画の中で、「他人に与える神様と、何もしない神様と、どっちになりたいか?」という問いが示されるが、まさに「何もしない神様」を選んだ方が良いと思えてくる。
そんなわけで『堀川中立売』という映画は、人間社会を描く映画を作るに当たって「クソ真面目よりも適当にバカバカしく」した方が適切という考えに則っているのだと思えた。
人間のつかみどころのなさを妖怪になぞらえておぞましさを示すと同時に、妖怪退治モノとしてスカッとした娯楽性も兼ね備えている。
妖怪が出てくる映画にふさわしい、狭い路地が入り組んだ京都の住宅地の雰囲気、妖怪退治に乗り出すのがグウタラとヤクザ風と子供という風変りな設定、そして、それらの庶民的なイメージが対峙するのが、IT化が進んだ今日ではあっという間に世界中に広がる人間の邪念という壮大なイメージだというギャップの大きさ等々、数々の奇妙な感覚が魅力的なファンタジー映画だった。