一つ目。
『旧約聖書』の中の「ヨブ記」の内容を一言でいえば、それは完全に非の打ちどころのない男が、完全に何の理由もなく、想像を絶する苦難に突然会わせられる話である。これは一体どういうことだということを問い詰めているのが「ヨブ記」という作品である。(略)……信仰の問題を抜きにしても、「ヨブ記」はなにやら不思議な力を以てわれわれに迫ってくる。
われわれはお互い非の打ちどころのない人間などではないから、自分を襲ってくる苦痛や困難の原因を、意識的無意識的に自分の〝非〟や他人の〝非〟でとかく説明してしまう。説明してあきらめたり腹をたてたり処理したりしながら、何とか毎日を渡り歩いている。そのくり返しが人間というものだというような気についなっていて、その底の深みにある根源的ななにものかの存在について考えることを忘れている。それはごく個人的な事情についても、また公害問題の追及のような場合についてもそうだというふうに思う。
(中略)
短い文章の中で意を尽し得ないが、冒頭にいったような「ヨブ記」の内容をばかばかしいといってしまえばそれきりであり、私もそう思ったこと、思おうとしたことがないではない。が、にもかかわらず「ヨブ記」は、自分でも忘れてしまったほどの以前から、私の心にからみついて離れない。とんでもない時にひょいとそれが読みたくなって読み返すことがしばしばである。(後略)
(木下順二「ヨブ記──わたしと古典」 サンケイ新聞(東京版)1971年9月9日夕刊)
二つ目。
「……歴史において重要なのは、勝利か敗北かということじゃなくて、誇りか恥辱かということなんです。」
(エンツェンスベルガ『ヨーロッパ半島』晶文社一九八九年、『鶴見俊輔著作集2 先行者たち』「オルテガ」より孫引き)
ちなみに後者の文章、この文章の書き手であるドイツの詩人(エンツェンスベルガ)が、呆れていたはずで、其処まで含めたたかったが、手元にないので不完全な形で引用しました。