今週前半は何もやる気が起きず、雨続きだったこともあって、最低限必要なことだけをして、それ以外は寝ていました。
昨日の夕方から復活しつつあったのですが、その夜、昨夏に判断ミスで安請け合いしてしまった結果、何の得にもならず、ただひたすら面倒と心労のもとと化していた仕事でまたもめ事が起こってしまい、グッタリ…。今日の朝眼を覚ましてから布団の中でいろいろ考えた末、その仕事からは降りることに決め、昼前にこれまでの経緯を知っている知り合いに予め電話で事情を説明して了解を得てから、その旨メールで関係者に通知しました。本当はもう少し穏やかにフェードアウトしようと思っていたのですが、もう限界でした。
今日は一昨晩作ったヴェジカレーで遅い朝食兼昼食をとってから、会員証の有効期限もギリギリになっていたので、秋雨の中バス〜JRと乗り継いでラピュタ阿佐ヶ谷へ。
観たのは「孤高の名優・佐藤慶」企画の一つとして上映されていた、『儀式』(監督・脚本:大島渚、出演:河原崎建三、賀来敦子、中村敦夫、小山明子(大島渚のお連れ合い)、佐藤慶他、1971年、日本ATG)。
下記のラピュタのホームページの作品紹介では、「地方の旧家を舞台に、敗戦後も旧態依然とした家父長制度の中で生きることを強いられた若者たちの苦悩を描く。一家に君臨する祖父を佐藤慶が堂々と演じ、『日本の悪霊』(監督:黒木和雄、1970年)とともにキネマ旬報男優賞を受賞」とのこと。
http://www.laputa-jp.com/laputa/program/satoukei2/sakuhin3.html#18
佐藤慶演じる祖父を中心にした、異常に権威主義的でエロティックな地方の旧家が舞台。前者は兎も角、なぜ異常にエロティックかと言うと、祖父は女性という女性と手当たり次第性的関係を結んでしまう人物だから。息子の許嫁や恋人もその例外ではなく、舞台となる旧家の子ども達は皆腹違いの祖父の子ども。そしてその子ども達も祖父の子を産んだ義理の母(主人公は「叔母さん」と呼ぶ。法的には祖父の養女ということになっている)と、あるいは腹違いの兄弟姉妹同士で肉体関係を持ち、内縁関係を結んでいる。
主人公は旧満州から母親と二人、命からがら引き揚げてきた子どもで、旧家の跡取り息子(その家の長男である父は敗戦前に帰国していたが、二人が帰る直前に自殺)。避難の途中で足手まといとなる乳のみ子の弟を生き埋めにしてきたことが忘れられず、ことあるごとに地面に耳を付けて弟の呼吸の音を聴こうとする…。彼が地面に耳を付ける仕草は武満徹の音楽と共に、この作品の暗く不条理な基調を成している。
死の影に飲み込まれるのは弟だけではない。一族の中で比較的若い人達…主人公の母、主人公が恋心を抱いていた義母が、警察官になったその息子が、そして最後に祖父に可愛がられていた聡明で意志強固な主人公の異母兄が孤島で自殺し、彼が自分で死亡を知らせる電報で呼び寄せた主人公と内縁関係にあるが実はずっと異母兄を慕っている上記の叔母の娘は、彼の死体の隣で服毒自殺する。ラストシーンでは大切な二人を失って茫然自失状態の主人公は、幻影として現れた、父の実家に身を寄せて間もない頃主人公と野球をした時の、若き義母、幼い頃のその息子と娘、同じく小学校高学年くらいの頃の異母兄に向かって、彼女等/彼等の名を呼んだ後、実際には旧満州で既に土中で分解されて跡形もないであろう弟の呼吸を聞こうと砂浜に耳を傾ける…。
これまでラピュタで観た昭和30〜40年代の邦画は当たり外れが大きく、特に娯楽ものは今一つピンと来ないものが多かったが、この『儀式』は滅入りはするがいろいろとイマジネーションをかき立てられる、含蓄のある佳作だった。しかし旧家の家風なのか1970年代初頭の流行なのか分からないが、叔母とその娘がばっさりと眉を剃っているのが変に気になった。それと若き中村敦夫があまりに男臭くてビックリ。
上映終了後、阿佐ヶ谷南口のアーケード街をぶらついて、殆どアーケードが切れる辺の小さなパン屋さんで明日の朝食用にハード系のパンを購入して駅に引き返し、中野で降りて小雨の中自宅までウォーキング。途中スーパーで安売りしていた秋刀魚等を買って帰宅。涼しいとは言え雨で湿度は高いので、家に着いた頃にはもう汗だくでした。
週末から読んでいるル=グィン『言の葉の樹』はもう終盤。ますます面白く考えさせられる名作。学問的にはフェミニスト神学と関連するのかな。もっと彼女の近作を読んでみたい。