2005年、20歳の時に、1ヶ月ミャンマーに滞在したことがある。ヤンゴンから車で30分の山合の小さな僧院の門をくぐり、毎日、瞑想と托鉢の暮らしをした。静かな暮らしだった。ミャンマー人の人々は、紅い袈裟を纏い托鉢を繰り返す、僧侶たちに目を閉じ手を合わせていた。
ヤンゴンの街は、舗装されていない道路に、パゴダが輝き、所々に警察官が立っていた。それが普段の暮らしであるかのように思えた。その異様感は独特のものだった。
「ビルマVJ」を鑑賞して、気付かなかった民衆の怒りが静かに膨れ上がっていたのだろうことを改めて実感した。圧倒的な軍政と力と、祈りの力の衝突。それが、大きなニュースとして世界的に報道されたのが、2007年の大規模なデモの事件と、日本人ジャーナリストの射殺。閉ざされた国で、今では100名を超えるビデオジャーナリスト達が、軍の目から逃れながら、撮影し、外へ発信している。この映画を観ていると、デモの際の民衆の視線が、決して特別なものとは思えなかった。自分の周りにいる人達が時折見せる視線と、重なり合う不思議な感覚に陥った。また、撮影しているVJ達の緊迫した様子が、ありのままに映し出されている部分は、とても生々しい。きっと彼らは、「死」を恐れているだけではないのだ。もし、逮捕された時にその後の情勢を伝える人々の事を意識して行動しているように見えた。
あの暴動は、世界的なニュースとして発信された、それは、まだ第一歩の経過にすぎない。そしてこの映画が、日本に届いた今もまだ「経過のひとつ」に過ぎないことを実感した。
そして、民主化を訴え続けている人、ひとりひとりのことを見つめようとすることは、せめて、日本人が普段大きなことができずとも、せめて身近な人達を意識して思うことと並べて捉えるほどのことでもある。
映画として、「ビルマVJ消された革命」は、見せよう、という思いより、能動的に見せる力が非常に強い。怒りに震える人もいるだろう。ただ、驚愕する人もいるだろう。何が起こっているのか、ミャンマーに限ったことではない。いつも、何かが起きていて、名も知らぬ人が何かを起こそうとしている。そのことに気付かせてくれる力を持った近年稀に見る作品である。