SM雑誌に連載していた『家畜人ヤプー』を断片的に読んだのは高校生の頃だ。そのときすでにSMをおぼろげに知っていたから究極のマゾヒズム小説というようなコピーやヤプーという存在、小説の世界観に激しく興奮した覚えがある。
その後、大人になってあらためて文庫版を読んだのだが、高校生の頃ほどの興奮はなくなっていた。
登場人物を巡るメインストーリーとは別の、イース人が日本の過去に深く関わっていたとするこじつけ描写にうんざりしたのだ。小説ではその点ばかりが印象に残った。
今回復刻という形だが、以前に出されていたことはまったく知らなかった。知っていれば買っていたと思う。というのは漫画になればこじつけ描写が薄れ、メインストーリーの展開を期待していただろうし、今回の復刻版にも同じ期待があった。
だが、結論から言えば、小説ほどうんざりはしなかったが、満足もしていない。
もともと難解な原作は具体的な形にしてみせる『漫画』という手法でも限界があるようだ。用語解説ページが付け加えられたのは、漫画だけではより難解になると感じたからかもしれない。原作ではイース世界の情景描写はおおまかにしか書かれていないから、石ノ森氏があるいは編集者が読者に理解できるか危惧したのだと思う。僕は小説を読んでいるとはいえ、今回用語解説を無視したほうが楽しめたように思う。
用語解説は原作にまかせて省き、メインストーリーを進めてほしかった。『ムサシとコジロウ』の決闘の下りも省くかさらに簡素化し、さらに進めれば(マゾヒストにとってはより印象的な)イース人の日常的なヤプーの扱いが展開できたように思う。
ただ、ここに描かれているのは小説の3分の1ほどしかない。後の展開もこじつけを省けばさらに短くなるし、主役の出てこない部分も多い。
そうした提案があってもよかったのではないだろうか。
満足しなかった部分はそこに尽きる。
本の帯にも書かれている「彼は何になるのだろう?」というセリフは小説全体に影響を及ぼすが、Mである僕にとっては「調教の楽しみは畜化度の低さにある」というセリフのほうが好きだ。
前者のセリフはサディズムが感じられないが、後者は調教というサディズムを指しつつマゾヒストにも向けている。
マゾヒストにとっては興奮を覚える作品だが、作品が目指しているのはSとMの関係ではなく主人と奴隷という関係性と従属思考である。
リンはマゾヒズムを意識してはいない。ただ受け入れることで所有者の喜びを自分の喜びと考えられるようになれた。クララも一貫してサディズムを意識してはいない。クララはイース人の日常的な思考を受け入れただけだ。
『家畜人ヤプー』を究極のmasochism小説と評する人は多いが、僕はsubmissive小説だと思っている。
僕のようにMに目覚め、そうした関係を短いながらも作り、調教を経験したものにとっては新たな調教者にその楽しみをあまり与えられないことに気づかされる。
改造も調教も喜んで受け入れるので、イース人に出会えないものだろうかと、小説を読み終えたときと同じ妄想をしている。
書評というには学のないものになってしまった。その点は申し訳なく思っている。
作品を誤解していると思う人もいるかもしれないが、ご容赦を。