これまで観た石井裕也監督作品は、その面白さが言葉で説明するのが難しいタイプのものだった。
登場人物の言動やストーリー展開が意表をつきまくったり理屈が通らなかったりで、納得しながら安心して観ていられない。
台詞の量が多い会話部分も、漫才でいうツッコミにあたる台詞がかなりの部分を占めているが、ツッコミはそれ自体には内容が無く、つまりはリズムをとるためだけの一見無駄な台詞が多い。
そんな普通の映画からはなかなか得られることの出来ない突拍子の無さに、つい引き込まれてしまう。
『川の底からこんにちは』も、そんなこれまでの作品同様の面白さを持っていた。
そして、ストーリーから改めて感じられたのだが、上に述べた彼の作風は、
「映画も含めたあらゆる物事に対して、単純化された小奇麗なイメージだけで当たり障りなくとらえて、すべてを解ったつもりになる。」
という思考パターンに対する反発からなのでは?と思った。
裏を返せば、
「世の中ってそんなイメージだけの小さな世界じゃなくて、その外側には下世話で、生々しくて、無意味かもしれないことだらけの理屈が通らない世界があって、でも本当はそっちの方が重要かもしれない。」
ということである。
キャッチフレーズを使って小奇麗なイメージを万能マニュアルのように発進している某女性誌の名前が劇中にチラッと登場するのも、嫌悪すべき考え方の象徴として使われたのかも?
主人公の彼氏が口にする「エコ」という言葉も、世間的にもスマートなイメージ先行で、でも実は人糞を畑にまくような世間のエコイメージ外の事こそ、よっぽどエコだったりする。
そして、この映画の重要な要素である親子関係について、「血のつながり」という言葉には、「血がつながっていない関係とは明らかに違う確かな関係」のイメージがつきまとうが、現実には実の親子間の殺し合いは日常的に起きている。
親子関係も他の人間関係と同様に、嫌なことにも向き合って、面倒なこともやって初めて築き上げられるもので、血がつながっているだけでは良い親子関係は望めないし、血がつながってなくても親子同然になれる。
「スマートさ」「解りやすさ」「理屈」よりも、「生々しさ」「モヤモヤ」「パッション」。
人間を描くにあたって、美化するのではなく嫌な部分も受け止めなければならないと思っている監督だからこそ、イライラや不可解さも感じる作風の映画になっているのではないだろうか?
『川の底から~』は、石井監督の初の商業映画ということで、多くの人々に受け入れてもらえるように、とっつきやすい映画になっている配慮も感じた。
でも人間を描き続ける限り、彼はこれからも「誠実に」意地悪な作品を作ってくれるだろうという期待を抱くことができた。