2010-03-20

それぞれのホーミーが、それぞれの場所で鳴っている。 このエントリーを含むはてなブックマーク 

映画の冒頭、主人公のひとりであるザヤーが、アパートの屋上に立ち、ホーミーを奏でるシーンがある。大都市ウランバートルに職を求めたこの若者が、このとき何を想い、そして歌うのか、観客はまだ知らされていない。東京ほどではないが、鉄筋コンクリートのビルが建ち並ぶ近代都市、夕陽に染まる空に向かって放たれる、あまりにも強く叙情的な唄。何ら説明もなく挿入されるわずか数分間のこのシーンに、感情が強く揺さぶられ、迂闊にも涙した。

物語は、ホーミーの名人を父に持つザヤーと、名門劇場でその才能を発揮する若きホーミー奏者、ダワースレンの日常を中心に展開する。映画の副題ともなっている「ホーミーの源流」とは、モンゴルのホーミーが生まれたとされるチャンドマニ村のことだ。ザヤーはチャンドマニ村で生まれ、遊牧民の父からホーミーを習った。彼は大都市での生活を経て、その源流へと帰る決意をする。対してダワースレンは、職業的ホーミー奏者としての使命感と興味から、その源流へと向かう決意をする。

彼らは偶然にも同じ乗り合いバスに乗り込み、チャンドマニ村を目指す。長い旅の途中で、語り合い、唄い、土産物のチョコレートを分け合い、そして肩を貸し合って眠る。モンゴルの大自然を疾走するバス。その狭い車中に詰め込まれた人々が繰り広げるささやかなドラマに、素朴で温かなモンゴル人の像が垣間見えたような気がした。

結局、ザヤーとダワースレンが同じ場所でバスを降りる事はない。それどころか、彼らはともにホーミー奏者だということを知らずに別れる。

光と影、正と邪・・・私たちは時として頻繁に、そのような明確で分かり易い対比を駆使し、あらゆる事象を理解した気分になる。しかしこの映画で描かれるザヤーとダワースレンの対比は、そういった単純な言葉に置き換えることはできない。冒頭のシーンで、ザヤーが奏でるホーミーが圧倒的に胸に迫るのと同じように、映画のラスト、辺境の地でバスの運転手だけが聴くダワースレンが唄うホーミーもまた、観客の琴線に圧倒的に触れる。

いわば「それぞれのホーミーが、それぞれの場所で鳴っている」のだ。

ワイドショーではモンゴル人横綱についての報道が連日のように為されたが、そもそも私たちはあまりにもモンゴルのことを知らない。近いようでいて遠い異国、そんなモンゴルの現在を垣間見せてくれるロードムービーであり、若者の葛藤と成長という普遍的なテーマを備えたヒューマンドラマでもある。そしてもちろん、ホーミーや馬頭琴、オルティンドーなどの著名な演奏家による証言や実演は、この映画の最たる見所であろう。

余談だが、大関日馬富士が自らのブログ「真っ向勝負!」でこの映画を紹介している。「ホーミーをずっと撮影したそうですが、日本人にとって冬のモンゴルは大変だと思うよ」と。

厳しい環境に屈せずこのような映画をつくりあげられた、亀井監督と古木カメラマンに心より敬意を払いつつ、次作に期待しまくりたいと思います。

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