一見、美しい地域における貧しいながら誠実な少年の成長物語、といった体裁だ。
もちろん皮肉ではない。特異な風景という意味では、広大な塩湖という映像は圧倒的だった。そこで塩を切り出す仕事を手伝い、学校に通い、友だちと遊ぶ少年の姿は、詩的でさえあると思った。特に、妹が落とした人形を探しに走って行くときの、広い広い中のちっぽけな大事なものを描き出す描写は、とても印象的だ。
しかし、この美しい物語の背後に秘められたメッセージは、さらに奥深く、深刻だ。
少年を連れてキャラバンに旅立った父は、塩と引き換えに食糧を手に入れる。そのような物々交換という経済が、既に不便な山間地でしか成立していないことは、映画のそこかしこで示される。実際に、山の村々で快く食糧や蜂蜜を貰っていた父子だったが、街のバザールでは、オカネがないので何も買わないのだ。さらに、ある飲食店では、タダで何か食べさせてくれと転がり込んできた男が、店主に罵られ、力づくで追い出される。
すなわち、物々交換と貨幣経済、コミュニティのあり方は、経済成長する街と、昔ながらの生活を続けている村々とでは、明らかに全く異なってきているということだ。これはすべて、少年の眼を通じて描かれる。おそらく少年が大人になるころには、さらに変化が進んでいることだろう。そのような危うい時点でいまだ成り立っているコミュニティだからこそ、私たちの眼には儚く美しいものとして映る・・・と言ってしまえば、元も子もない、残酷な「上からの目線」になってしまう。
解決策は示されるわけではない。そんな簡単な問題ではない。しかし、まさに米国流の行き過ぎた新自由主義に対する一石としてこの映画が提示されているのである。そのことは、松下俊文監督が、反帝国主義の映画を作り続けている「ウカマウ集団」のホルヘ・サンヒネス監督の存在を知り、ボリビアに着くとすぐにサンヒネスを訊ねたという逸話でもわかる。
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