“アニメーション”という技法は、作家の表現したいことを実写より忠実に、直接的に作品に反映することができる。平面であれ、立体であれ、CGであれ、アニメーションにおいて作家の描いていないものが画面に登場することは、ほとんどない(人形アニメーションで関節から針金が見えていることもあるが、これはまた別の問題を孕んでいるのでここでは割愛する)。ティム・バートンやリチャード・リンクレイターの名を挙げるまでもなく、より作家性の強い映像表現を目指そうとする作家が、アニメーションを選択することは大いに納得できる。
だから、『セイント・クララ』(1996)で無国籍な近未来をとびきりキッチュに描いてみせたアリ・フォルマン監督が、自身の体験に基づくノンフィクションをアニメーションで撮り、しかもその内容が“レバノン侵攻”をイスラエル側から描いた自己批判的なもの、と聞いた時も、その内容に興味をそそられたものの、驚くには至らなかった。折しも、マルジャン・サトラピ&ヴァンサン・パロノー監督のアニメーション映画『ペルセポリス』(2007)やジョー・サッコのマンガ「パレスチナ」など、シリアスな中東問題をポップな表現で描こうとするユニークな試みが多く見受けられるようになった昨今にあって、本作の登場はむしろ腑に落ちるものさえあった。
映画は酒場での男2人の会話から始まる。映画監督アリは戦火の街をさまようイメージが頭から離れない。そこはどうやら“サブラ・シャティーラの虐殺”の現場らしいのだが、自分がそこで何を見たのか、記憶がない。アリは当時を知る関係者をたずね、失われた記憶を取り戻そうとする。
“サブラ・シャティーラの虐殺”は、1982年9月16日に実際に起きた、レバノン民兵によるパレスチナ難民に対する大量虐殺事件である。死者1800人以上といわれるこの惨劇は、パレスチナ問題を象徴する事件として、今も人々の心に暗い影を落としている。
これほど悲劇的な事件を主題に据えれば、観客の涙腺を刺激するような感動作として仕上げることも可能だったはずだ。しかし、アリ監督はエモーショナルな演出を巧妙に避けている。映画はアリ監督が訪ねる関係者の証言を軸に進むため、視点は常に客観性を獲得し、語り口はややオフビート気味に描かれていく。その意味では、印象としてかなりB級映画に近づいていると言える。
思えば『セイント・クララ』は低予算を逆手に取ったようなシンプルさが、良い意味でB級映画を感じさせる作品だった。アリ監督が実際にB級映画を志向していたのかわからないが、限定されたシチュエーションや会話シーンの軽妙なやり取りなど、観客を作品世界に引きずりこむ心地よいリズムは、アメリカ低予算映画の美徳を引き継いでいるように感じられた。
その愛すべきB級映画精神は本作でも発揮されている。特に、アリ監督が関係者を訪ねるくだりのロードムービー風タッチは本作の大きな魅力だ。アリ監督を旅へと誘う私設セラピスト、オーリ・シヴァンの背後でうろちょろしている男の子の危なっかしい行動や、元戦友のカルミ・クナアンと1本の煙草をまわして吸うハードボイルドな振る舞いなど、主題のシリアスさを越えて可笑しさすら感じさせる印象深いシーンになっている。
また、タイトルにもあるショパンのワルツが流れる(やや風変わりな)ダンスシーンは、美しさと狂気が極限状態で昇華された忘れ難いシーンとなっている。このシーンはコレオグラファーによる振り付けがされるほど入念に演出されており、監督のこだわりが感じられる。このシーンに流れている乾いた空気は、まさにアメリカン・ニューシネマのものである。
このような本作を貫く逞しきB級映画精神は、アニメーションならではの映像美とも相まって、観客の安易な共感をかわし、作品に普遍的な力を与えている。そして、だからこそ本作の重い主題が、より深く、より鋭く、見ている者の胸に突き刺さるのだ。
そして、映画は唐突に、監督の情熱が極限まで達したおそるべきエンディングを迎える。それまで映画を貫いてきたタッチはすべて無に帰し、観客は監督の純粋なメッセージだけ持ち帰ることとなる。アニメーション映画としてこのような幕切れが許されるのか、疑問の声もあるかもしれない。しかし、私はここに、映画と刺し違えてでも自分の伝えたいことを表現するのだ、というアリ監督の強烈な覚悟を感じた。アニメーションにはまだやれることが多く残されている。その可能性を感じるためだけでも、本作を見る価値は十分あると思う。