この映画が描き出しているのは、現代社会、否、欲望むき出しの人間社会の本質である。それは、「新自由主義」だとか「『テロ』を生む社会的背景」だとかというお行儀のよい言葉でくくられるレヴェルではない。さらに原初的なケダモノの仲間としてのヒトの集団のありのままの姿だ。
佐野監督は、そうした真実を覆い隠している「美しい羽衣」をやさしくはぎ取り、ウジがわくほど汚い弱肉強食のドロドロを我々の前にそっと提示してくれる。しかし監督は我々が目をそむけたり、つむったりすることは静かに、しかし明確に峻拒する。
その手法は、人物、舞台設定、撮影などを含めて実に自然でわかりやすい。極論すれば、主人公の少年をウイグル人とする必然性さえないほどだ。世界のあちこちで起こった/起こっている/起こりえる普遍的な「現状」が明快に描写されている。それがカザフ人の少年カエサル、ロシア人の街娼の少女マーシャ、ウイグル人のアユブとして表象されているということになろう。
パンドラの箱に最後に一つだけ残っていたという希望さえ失われたとき、あらゆるものをなくして絶望の淵をさまようヒトには、唯一空ろな肉体しか残されていない。三人それぞれの死の暗示の中で、最後に監督は我々に暗転という手法で「想像すること(imagine)」を求める。この映画の饒舌な語りは、まさにそこから始まると言ってもいいのかもしれない。