先日ジムオルークの新作「the visiter」の視聴会にいってまいりました。
いったい今“あたらしいCDを出す”ということに対してどれだけの多くの人の生活や願いがかかっているかということは容易に想像できるものではないが、beatlesのリマスタリング音源があれほどメディアに騒いでもらいつつ発売される運びには、いづれの方面にあっても相当な危機感を持ってお仕事なさっているんではないかと邪推していまして。
ライブを行わないミュージシャンにとっては音源が唯一の発表の手段ですが、ジムオルークに関して言うとこれでもかとライブをしている印象を受けます。それでもなお“あたらしいCDを出す”ことにしたのは、もちろん周囲の要請もあってのことなのでしょうが、自身の中でライブでの演奏だけでは欲求不満になってしまっている現実があって、ライブでは不可能なことをやってみたくなったということでは?
会場に着いて座席に座ると、前方には高そうな、天井に届きそうな背は実際に高いスピーカーがライトを浴びて立っていた。間もなく照明が落ち、スピーカーが鳴り始めた。
やはり新譜を聞くという場合、期待するのは僕の場合驚きや発見である。だから聴く前に、作者はどういう手で来るのかということを想像する。いざ聴き始めてからも、あれこれと想像したあとにできたシナリオめいたものを早く裏切ってほしいと思う。最初の一手は?さあでは次は?僕はこの場合あまり驚かなかった。かなり多くの楽器を使って、それぞれの音色を対比させ、間を生かして十分にその音が消えていくまで聴かせてくれるというものは今までのジムの作品でも体験している。まだ驚けない。
少しあきらめ気分で聴いていて何箇所か気がかりな点があった。それは音のパンだった。ベースラインとして据えてあるピアノや何かその他の低音パートは目線より少し右寄りにあった。そして、冒頭あたらしさを感じさせなかったアコースティックギターは真ん中に置いてあったが、いつの間にか二つに増えるが、それぞれ音空間の右の端と左の壁際に追いやられたように設置されており、結果的に音空間の中心部分は空洞になっていた。と思うと時折丸いぬるっとしたような音がその空き地に現われて、またスッと消えていった。そのせいでまた現れた空洞が気になっていく。そういう風に時折真ん中には誰か別の音ががやってきて、また去っていく。その気分はまるで、自分の家に遊びに来ていた友達が帰ってしまった時の孤独感であったり、いやな訪問者がようやく帰りほっとして、部屋の壁にもたれ安堵感に似ている。開いている部分は窓でありドアでありまた室内の壁や障子に区切られたスペースでもある。ひいてはジムオルークが今回我々に提供してくれたのはある一つの軽やかな音をリースのように編んで作った“枠”ではないか。そこに我々招き入れてくれたのである。そして今回僕は室内で結構なスピーカーの前に座ってこのアルバムを聴いたが、再生装置の大きさや、あるいはポータブルプレイヤーなどであれば、散歩などしながら聴いたら日々歩きなれたコースもまたあたらしい気分を持って僕たちに迫ってくるのではないだろうか。
特筆すべきはその音の軽やかさである。今回かなりの音量で聴いたにもかかわらず、近くの人や、壁を隔てた隣のスペースにいる人たちの楽しそうに笑う声も聞こえたのだった。
真ん中の開いてるスペースには、聴いた人が聴くたびに歌を入れてもいいだろう。そういう風にジムの音楽に“お邪魔する”こともできる。
個人個人がどうしようもなく分断された今その窓を通して我々が世界とまた新たにつながっていくきっかけにもなるのかもしれないと思った。今回のジムオルークの新作「the visiter」は、そういう望遠鏡のような、お茶室のような、アパートのような、公園のような、音の工芸品である。