「パティ・スミスとは何者?」という動機のため、この映画の監督である写真家スティーヴン・セブリングが11年にも渡って撮影してきたという事実にまず驚きます。
彼ほどの強い執着心はないですが、僕も彼女の存在を知ったときから「パティ・スミスとは何者?」という問いはずっとあり、彼女はずっと僕自身の常識を混乱させるような存在であり続け、常にオルタナティヴな存在です。
彼女の人生は映画化向きなドラマックなものですし、そのストーリー性は多くの人の共感と感動を呼ぶのかもしれません。しかし、このドキュメンタリーは、彼女のドラマチックな部分にあまり依拠していません。
時間軸もバラバラで散文的なこの構成は、ネットで検索すれば簡単に分かる程度の知識をしつこく映画の中で復唱するような内容の映画ではないということです。
そのような解説的な映画では、「パティ・スミスは何者?」という問いを何も満たさないことをセブリングは考えているようです。
この映画を1度観ただけでは、正直、多面的な彼女の姿を消化しきれないのですが、はっきりとした印象は実に生々しいということです。
「パティ・スミスとは何者?」という問いに対する答えは、「パティ・スミスはとにかく生々しい」という最初から分かりきっていたことを、スクリーンを通して体感して再認識させられました。
生きている人は本来すべて生々しいはずだけど、メディアを通して接する人間はおろか、実際に会って接触する人間でも最近は生々しさを感じることが少なくなってきた気がします。
何がその生々しさを消し去っているのかと考えると、「常識」と呼ばれる厄介な先入観に端を発するものだと言っても差し支えないでしょう。
何かのインタビューで、パティ・スミスは「ローリング・ストーンズのライヴを初めて観た時、処女だったけど興奮して濡れた」と言っていたことを記憶しています。
男だったら、「童貞だったけど興奮して勃起した」とでも言うような発言なのかもしれませんが、そんなことを言うこと自体に衝撃を受けました。
しかし、そのようなことを言ってはいけないなどという規制も法律もなく、単なる「常識」でそんなことを言うものではないという先入観によって、ほとんどの人はそのようなことを言わないのでしょうが、パティ・スミスは言ったそうなのです。
僕がこの映画で特に好きなシーンはレッチリのフリーと海岸でくだらない話をしているところです。
その話は、乗り物などでトイレが我慢できないときに、いかに密かに瓶で用をたしてきたかという自慢合戦です。
異性間でそんな話をするかよと、また「常識」でつい反応してしまうけれど、2人の会話の空気は男友達同士の親密な空気を生んでいます。それが実に良い空気なんですね。
つまり、パティ・スミスを観ていると自分のつまらない「常識」というものが、自然体の彼女の「生々しさ」の前でグラつくのです。いかに自分は「常識」に囚われているかと身につまされ、そこがパティ・スミスがオルタナティヴに思える所以な気がします。
その最たるグラつきはパティ・スミスのヒゲです。年齢的な問題によるもので、女性も放置しているとあのようにヒゲが生えるのか、詳しい事情は分かりませんが、いつの日からか、パティ・スミスには無視できないほどヒゲが生えています。
デビュー時からトランスジェンダー的な魅力を自他共に認めてきた女性ではありますし、僕もその魅力に惹かれてきましたが、「さすがにヒゲは処理しろよ」と、ここでも自分の「常識」が問われます。
過去のインタビューなどで性別を超越した存在になりたいという願望を持っていることは事実のようなので、女性を捨て去る実践という意味ではヒゲを処理しないことは理解できます。
そうは言っても、この映画撮影時は、パティ自身のバンドのギターリストであるオリヴァー・レイという25歳も年下の男を恋人としているということです。また彼女の「生々しさ」の前で僕の「常識」がグラつくのです。
多くの女性が気にしている加齢による見た目の劣化を気にしないようなので、顔は近くで見ると実年齢以上に感じられますが、ステージの上に立つと、ヒゲもシワも見えにくいし、シルエットは見事なまでに現役のロック・スターの風格を漂わせます。
詩人であり、ロッカーであり、写真家であり、反戦運動家であり、母であり、娘であり、男のようですらある女性の生々しい存在の大きさを感じられる映画です。
そして、これからもパティ・スミスはずっと僕の常識を混乱させる存在であり続けてくれるでしょう。きっと今年のフジロックでも、60歳代の女性という常識を覆すパフォーマンスを期待出来そうです。