前の晩から布団を夏用に変えたお陰もあって、20日の夜は、何とか不快感なく眠ることが出来た。とは言え、朝起きたら、汗で湿ったTシャツが気持ち悪く、即脱ぐ。
未だ熱帯夜とまではいかないものの、最低気温20度以上で湿度が高く、蒸し蒸しした日本の夏がとうとう始まったよう…。憂鬱だ…。
21日のお昼までは、結構な雨…。その後雨脚は弱まったものの、夜まで降り続いた。
一時間前後原稿を書いて、朝昼ご飯の後、掃除。その後、身支度をしてから、早稲田に、『関西クィア映画祭が東京にやってくる』Bプログラムに。
http://kansai-qff.org/2009/TOKYO/
開場時間からやや遅れて現地に到着したら、既に半分以上会場は埋まっていた。その後も来場者は相次ぎ、最終的には120パーセント以上入っていたように思う。多分その六割前後がFtM(Female to Maleの略。身体的には女性であるが性自認が男性)、一割強がレズビアン、MtF(Male to Femaleの略。身体的には男性であるが性自認が女性)がごく少数、残りは僕も含めたリベラルな異性愛者という印象。勿論漠然とした見た目や、映画上映後のトークショーでのオーディエンスの発言で、判断した限りでの話だが。
※この問題について私は殆ど素人なので、FtMとMtFついて等、Wikipedia日本語版の「性同一性障碍」を参照した。
この日上映されたのは、『男子であること』(原題:“Boy I Am”、監督:Sam FederとJulie Hollar、米国、2007年)
http://boyiam.mayfirst.org/About.html
本作は、乳房切除術前と後の、三人の米国のFtMの方(二人は所謂白人、一人はアフリカ系)へのインタヴューを中心に、家族や職場のマジョリティの異性愛者との関係、男性中心主義社会で貶められてきた「自然な・もって生まれた」肉体の復権を唱えてきたフェミニストとの関係、様々な形態をとってきたLGBTの歴史等々、FtMを取り巻く様々な問題をめぐって行われる、四人のLGBTの研究者・社会運動家のインタヴューを織り交ぜながら、構成されるドキュメンタリー作品。
この『男子であること』が提起する様々な問題について、上映後二時間以上に渡って行われた、三人の日本のFtMの方と、会場からの質疑応答を踏まえて、印象に残った点を箇条書きすると、
とりわけ周囲の目という点から、特に薄着になる夏期には、性別を識別する最大のメルクマールとなる乳房は、FtMの人々にとって、深刻な悩みのタネであり、自分自身の肉体を受け容れられない、一番の原因である。ホルモン療法によって、性自認に肉体をかなり近づかせることは出来るが、乳房だけは、外科手術で切除する他ない。
FtMの人々にとって、性自認と生物学的な肉体の相違は、自分自身の肉体への違和感にだけではなく、周囲の人々による性別の識別と、自らの性自認の相違から来る、様々なトラブルの要因となる。それは、街ですれ違った人の何気ない好奇の目に留まらず、就職などに際しては、FtMの人々にとって、非常な不利益を招いてしまう。
社会が男性か女性かの相違をあまり問題としなくなって初めて、FtM(とMtF)の人々の生き辛さは緩和されるだろう。
映画それ自体では勿論、トークショーでも、MtFの当事者のお話が聞けなかったのが残念だった。とは言え、意識的にリベラルになろうと努めてはいるものの、異性愛者で、性自認と肉体の相違に悩まされたことがない僕にとって、LGBTの人々の抱える問題をリアルに考える、よいきっかけにはなった。
ただ、あまり広くない会場にすし詰めで、それ程冷房も効かずに蒸し暑く、かなりの時間立っていたこともあって、体力的にはずっしり疲れた。行きも帰りもバスと地下鉄利用で、運動らしい運動はしていないのに、帰宅後シャワーを浴び、炊飯器をセットしてから、二時間以上死んだように眠ってしまった程…。
この六月末の『関西クィア映画祭が東京にやってくる』に加えて、七月前半には東京国際レズビアン&ゲイ映画祭2009も行われる。こちらの方はかなり大掛かりで、料金的にも結構するけれど、幾つか気になる作品を観に行こうと思う。
http://tokyo-lgff.org/2009/index.html
しかし、蒸し暑い〜!