ある家族の日常を、スクリーンという窓を通して垣間見た気がした。
この映画を観終わった今でも、泉水と春が生きているように思える。そう思うのは、過去の悲劇から個人それぞれが押し殺して抱き続けていた葛藤が、事件へと繋がっていきながらも、静かに流れている日常が妙にリアルだったからだ。
そのリアル感が、静かに胸に響くのがとても切ない。
また、私は原作を読まずにこの映画を観たのだが、この映画には文学的な良いセリフが散りばめられているところには、とても惹きつけられた。
特に、偉大な人物の言葉をさらりと言い放つ春のセリフから、ストーリーが展開するにつれて、その言葉の数々が彼の葛藤、苦しさと対峙しており、その言葉が彼自身の支えとなっているように思えたのである。
このように、この映画にはいろんな部分から対峙しているものを感じとれる。
やさしさと悲しみ、家族のつながりと孤独感、温かさに潜める残酷さ、湧き上がる憎悪と浄化・・・紙一重に存在する両方の感情が、壁のアートや炎、遺伝子記号、蜂、そしてピエロと重ねるように表しているのではないかと思った。
また、この映画のリアル感から、もしこのような生き方をしている人達が存在したら・・・と思うといたたまれなくなった。ふと、これからの裁判員制度で、このような事件が扱われる事になったら、彼はどのような判決になるべきだろうかとも思ったのである。
この映画は、多方向にいろんな見方・視点を促す要素がとても詰まっている作品だと感じる。
さらに、親が子供を選べないように、子供も親を選べないとはよく耳にする言葉だが、この家族こそ、この意味を理解して生きているように感じた。それが、『俺たちは最強の家族だ』と言う父親、その父親の言葉を受け止めながらも父に確認する泉水の姿に表れている。
お互いの愛情を確かめ合う会話には、本当に胸が締めつけられた。
この映画では、それぞれの家族にある、それぞれのつながりや愛情を再確認できるのではないだろうか。事件の謎を解くキーこそ、観る側がそれぞれ持っているのかもしれない。