僕もメンヘラー。
心に患った厄介な同居者と共に、一歩一歩毎日何とか生き延びている身。
そんな立場である僕として、どうしても見てみたかった作品。
精神科にカメラを入れ、赤裸々な現場の姿、患者の姿を映し出したという作品。
「精神」。そこに映されているのは、他人の姿なのか自分の姿なのか。
人は何に悩み、どのように変わってしまうものなのか。
自分のこれからのことも考えながら、健常者との間にあるカーテンを如何にして取り外せるのか、それはなくてはならないものなのか、そんな思いも持ちながら鑑賞に当たった。
「選挙」で名を馳せた想田和弘監督による観察映画第二弾。
そこには、ナレーションもなく、説明・BGM一切なしで、観客が自由に考え、解釈できる。
今回扱われたテーマは「精神病」。
精神病を患う人と健常者には、どんな違いがあるのか?
その二つを分け隔てているようなカーテンは、何故存在するのか?その意味は?
カーテン向こうに広がる世界は?
監督本人が疑問に感じたところを、精神病を患った患者たち、そしてそれに真っ向から治療に当たる医師、周辺で彼らを支える人々、そういった人々をターゲットに観察映画を作製、インタビューを時折交えながら、タブーとされてきた精神科にカメラを入れ、モザイクも何もなし、ありのままの姿を映し出した、驚くべき作品。
「こらーる岡山」、そこには素晴らしい精神科医がいる。
患者の声を真摯に聴き止め、患者と共に問題解決に当たろうとする山本昌知医師。
古くからあるボロ家を診療所としているようで、決して小奇麗なクリニックとは違う。
しかし、街の中にオアシスのように佇むその独特の景観、そして山本医師の人力に魅了されて、彼を頼って来る精神患者は後を絶たないようだ。
皆、経歴は様々だ。
病気も様々、きっかけも様々。
でも、皆山本医師を頼って来る。
生活保護を受けている身の人々、精神障害者保健福祉手帳を持つ人々、何とか一般世間に溶け込もうと努力しながら病とうまく付き合おうとする人々、病の重さに耐えかねて、自殺願望から逃れられない人々。。。
どうしても、健常者としてカーテン越しに彼らを見るわけではなく、彼らと共感する部分が大いにしてあるものだから、登場者側の目で映画を見がちになってしまう。
何とか意識して、双方の目を持ちながら、作品を見続けようとした。
人には誰しも悩みがある。その大きさも人それぞれだ。
同じようなきっかけで、同じような悩みを抱えたとしても、そのショックの大きさは人によって変わる。
では、精神病を患ってしまうような人は弱い、というのだろうか?
僕も、自分は弱いから……とついつい情けなく落ち込みがちであったが、最近は受け止め方が違ってきた。
これも何かの縁なのだと。
映画の中で、憂う人と書いて優しい、という言葉が出てくる。
非常に心救われる言葉だ。
25年間病と付き合いながら、写真と詩で心を落ち着け、病とうまく付き合おうとする彼の姿は素晴らしく輝いて見えた。
精神病者と健常者、区別されているようだけど、その正体は曖昧なものではないか。
健常者とは、なにをもって健常というのか?
どこかに心のひずみがあることはないのか?
その大小はどこで区別されるのか?
カーテンは、お互いが無意識に築いてしまっているものであり、本来はそんなものないんじゃないだろうか?
人は心があるから憂うものであり、そもそも弱い部分だって持ち合わせているから立ち直るのに時間がかかることもある。「弱い」という意味も様々だ。
いい意味で「弱さ」というものを捉えてもいいのではないか。
頼りあって生きる動物なのだから。
この作品、多くの人に見てもらい、是非偏見や先入観を捨てて、じっくり観察してほしい。
自らの報酬など気にも留めないかのように、しっかり患者に耳を傾け、患者の本当の望みを聞き出そうとする山本医師の姿。
こんな先生に出会えた人々は、それだけで幸せだと思う。
待合室で、何気なく会話したり、一人時間を潰す患者たち。
レベルも病の内容も様々だから、一概に共感を持てるわけではないだろうが、彼らの話をじっくり聞いてみると、普通の人にだってあり得ることがどんどん出てきていると思う。
一生懸命生きているんだ。
一人ひとりの人間として。
どうも残念ながら、出演した患者の中には公開前に命を落としてしまった方々もいらっしゃるようだけど、でも、皆それぞれ必死に生きているんだ、毎日を。
それって、きっと健常者だって同じだと思う。
度合いが違うことはあっても、ひとりの人間として、日々を一生懸命生きているのは同じはず。
是非、メンヘラーに対する先入観や偏見は捨て去って、同じ人間として見てほしい。
妙な壁を築いたり、カーテン越しに人を見ることをやめて。
我々だって、かつては健常者。そして、そこに戻ることを目指している部分だってある。
だけど、それって間違っているのかも。
そもそも、そんな区別はなくて、単に病院に通っているかどうか、それだけの差かもしれない。
想田監督がカメラを通して虚心坦懐に見つめてくれた当事者たちの姿、彼らの姿を見て何も感じない人はいないだろう。
何かを感じ、我々メンヘラーが豊かな人間性を持っている、そういう部分も理解してほしい。
そして、行政には「国民を守る」ということが、本来どういうことなのか、今一度十分に実態を把握し、それに見合った保護が受けられるよう、制度の見直しをお願いしたい。
(Story)
『精神』は、外来の精神科クリニック「こらーる岡山」を舞台に、心の病を患う当事者、医者、スタッフ、作業所、ホームヘルパー、ボランティアなどが複雑に織りなす世界をつぶさに観察したドキュメンタリーである。
山本医師の診察室に入るなり、「もう死にたい!」と泣き崩れる女性。彼女の両手首には、無数のリストカットの跡。前の日、大量服薬をして病院に運び込まれていた。二児の母だが、子供たちは施設に暮らし、離ればなれの生活。生活保護で命をつないでいる。
別の女性は、家に帰ると「お前はここにいるな」という男性の声が聴こえるので、前日まで野宿を強いられていた。初めての赤ちゃんが生まれたとき、母親や夫との度重なる確執などから崖っぷちにまで追い詰められ、混乱し、自暴自棄になり、泣き叫ぶ子供の口を思わず手で塞いでしまい、死なせてしまったという。必死に人工呼吸しても蘇生せず、警察に捕まり、「あなたはこれを一生背負っていかなくてはならないんだ」と警官に言われ、その言葉が心に突き刺さっている。彼女も自殺未遂と精神科病院への入退院を繰り返していた。
ある男性は、10代の頃発病し、その後25年間、山本昌知医師の診察を受け続けている。高校生の頃、1日約18時間勉強し、それを半年続けた末に倒れた。当時、学校の期末試験で答案用紙に答えを書かず、「あなたは教え方がうまいので70点」などと先生に点数を付けて提出したら、「頭がおかしい」と言われて山元医師の世話になったという。今はこらーるに通いながら、写真を撮り、詩を書いて、自分の気持ちや世界観を表現する。
一方、「頭の中にいるインベーダーが、いつ何をしでかすか分からない」と語る別の男性は、毎週訪れるヘルパーさんに料理の仕方を習い、生活する力を身につける努力をしている。刻々と迫る老いに直面し、将来に対する不安を山本医師に吐露する。福祉が切り捨てられていく中、自分は果たして今後やっていけるのか…。
ちょうど国会では、障害者自立支援法案が通過しようとしており、スタッフや患者の危機感は募るばかり。診療所の事務室では、医療コストを削減しようと次々にサービスをカットしてくる行政側と、そうはさせまいとする診療所スタッフのせめぎ合いが、連日のごとく続く。
映画は、山本医師による診察、心理療法、薬物療法、訪問看護師の教育、当事者が集う待合室、スタッフ、作業所での活動、ホームヘルパーによる在宅支援などを映し出し、精神医療の多面的な様相と課題を浮き彫りにする。また、当事者たちの日常生活、思想、不安、悩み、苦しみや喜びに肉薄し、人間としての彼らの素顔に迫りながら、その豊かで魅惑的で複雑な世界を描く。
(プレスシートより抜粋)