2009-04-16

見る側、見られる側 このエントリーを含むはてなブックマーク 

わたしは精神障害者です。精神科に通い続けてもう6年になります。
きちんとした病名をここで皆さんにお話しすることもできますが、それは少し無意味のように思われますので、結果、病気のせいで激しいうつ状態に見舞われるとだけお話しておきます。
わたしは病気をふだんカミングアウトする姿勢をつらぬいています。(時と場合にふさわしい方法をとりますが。)病気のことを話さなければ、みなわたしが健常者だと疑わないでしょう。
それくらい、わたしは(幸運なのかもしれませんが)友人や家族の支えに励まされこの社会に溶け込んで生きています。
さてそのわたしなのですが、普段は「障害者」として見られる立場に身を置いています。
それが今回この映画では初めて“見る側”にまわりました。
確かに病院などでは多くの患者さんに接します。しかしこれはわたしの体験なのですが、わたしたちはけっして目をあわせようとはしません。互いに表情を読み取られまい読み取られまいと行動するのが普通です。
それが、この映画ではカメラが診察室にまで切り込んだ。
泣きじゃくりながら飛び込んでくる患者、あれはわたしのともだちではないのか、「ともだちがみんないなくなった」先生は尋ねます「いなくなったらどうなるのん?」「死ぬ」。
ある女性は処方されている薬をざーっとテーブルに並べます。わたしの飲んでいる薬と同じです。
わたしはこの映画をみながらしばしば視座が反転するのを感じました。一体見ているのは誰なのか、わたしなのか、それとも誰かなのか。
「うつの苦しみは体験したものにしかわからない」というある女性の言葉に深くうなづきながら、詩を発表し自分の可能性を試している男性には希望が見えました。
最後に「追悼」と表示されていた御三名はどうしたのでしょうか。
悲しいなくなり方をなさったのでなければいいのですが…。

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marita

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