今週、ヴァニラ画廊では新たな展覧会を開催しております。
■3月9日(月)~3月14日(土)
■水元正也展「子供たちは森に消えた」
水元正也プロフィール
1984 愛知県生まれ
2007 名古屋造形芸術大学美術学科卒業
2006 第4回プンクト展(青木画廊/銀座)
2007 第5回プンクト展(青木画廊/銀座)
絵画を気晴らしのための娯楽だと考えるのなら、私の絵は無意味だ。私の絵は気晴らしも娯楽も与えないから。理解や共感という見方ではなく、感染してほしい。見る人の体を侵食するような作用を望んでいる。安全で平穏な生活を望む人には、私の絵は嫌悪の対象でしかない。しかし生き苦しさ、不安、焦り、怒り、恐怖、孤独を抱えている人々には少しでも生きる勇気を与えられることを願っている。
感動を強制する不気味な世の中から解放される手助けになればいい。
私の絵に深い意味はないし、明確な狙いもない。ただ、誰もが見て見ぬ不利をしていること、見えているのに気付いていないものを探求していきたい。それが何なのかはわからない。しかしそれによって生かされているのは確かだ。
本人ですら気づいていない、自分自身のなかの暗部を。目を凝らしてよく見てほしい。そこには何が見えるだろうか。
水元正也展《子供たちは森に消えた》 文・Mistress Noohl
そういえば・・・と、あれこれ思い出します。世に言う身体改造も誰もが幼きころ自らの手で行っていて、今よりはずっとたやすく変身してみせたり、水面や鏡にこっそり接吻してみては、なんともいえぬひんやり感を味わいながらあちら側の世界のことを夢想してみたり・・・。いったい、いつを境にわたしたちは、そうすることを止めて懐かしさだけを友に持つようになるのでしょう?
展示作品の多くは、指で顔(殊に鼻)を変形させた「変な顔」、そしてそこに描かれているのは大人たち。子供ではありません。変な顔をする勇気とチャンス、大人のわたしたちには見つけにくいものであることは確かです。そんなわけでタイトルから推測してしまうのは、「私たち大人の中の子供の部分は森(という名の何処か)に消えてしまった」、事実、目の前にある大人の変な顔からは、変身や外つ国との往来を遥か遠くに思い出させる微笑ましさを感じます。あるのはただ、懐かしさ。
大人になっても子供であり続けるとはよくきくフレーズですが、本当に、そんなことってあるのでしょうか? 希望は持ちたいものですが、少し、疑いたくもなります。何がしかの逆らい難い引力でもって、大人の中の子供の部分(感受性やら想像力やら)ではなく、文字通りまさしく子供たちがごっそり森へ消えてしまっている、わたしたちの子供時代が生身の身体をともなって森の中で生き続けていると考えるほうが自然・・・そんなふうな哀感が、水元の鉛筆画にはあります。懐かしさを呼び水に、懐かしさを裏切るやさしい残酷がそこにはあります。
絵画のフレームはさしずめアリスのうさぎ穴でしょうか。いいえ、そこは入口でも出口でもありません。まるで硝子細工のようなうすいうすい被膜、奥の様子をうっすらとうかがい知ることはできても、決して出入りはできません。その被膜の表面で、わたしたち大人は「変な顔」をするのが精いっぱい、森に消えていった子供たちを取り戻そうとあるいはもっと遠くへ追い払おうと、空しい仕草を重ねているだけなのかもしれません。懐かしさはやがて、見知らぬものへの困惑に転ずるでしょう。被膜の奥はもはや、わたしたちであってわたしたちではないのです。
子供たちは森へ消えた。探しても、無駄です。もはやわたしたちのうちに子供はいません。そのことを否定すべく探そうとしたせいでしょうか・・・、被膜にはちいさな亀裂と破片が舞い、いまにも破れそうに存在を震わせています。そっとしておきましょう、消えた子供たちのために、いえ、嘘は止しましょう、何よりもわたしたちのために。