2009-01-31

★寺山修司の言葉 このエントリーを含むはてなブックマーク 

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1980年代の終わり・・・もう90年にさしかかる頃、十代のボクは大阪でひとり悶々とした生活をしていた。

別に何をするわけでもなく、毎日昼頃に起きて、部屋の外から見える淀川をボケーッと見て過ごしていた。

やったことといえば、当時大阪で人気絶頂だったダウンタウンの番組「4時ですよ~だ」をビデオに録画して、夜は繰り返し見たりするだけだった。

入学した専門学校にはほとんど行かず、授業料は使い込んでしまった。
居酒屋のバイトをしようとしたのだけれど、朝起きることができず、遅刻ばっかりしていた。
店長に「おまえはナンデ遅刻ばっかすんねん!」と言われて、
「気持ちだけは行く気満々です。でも、朝・・・起きられないんです・・・。」
と答えたら殴られた。
当然クビになった。

お金なんて全然なかった。
たまに実家から送られてくるインスタント食品がつまった段ボールの底にビッチシと貼り付けられた封筒に入っていた、おばあちゃんのお小遣いだけが収入源だった。

大阪に単身やってきたのには理由があったはずだ。
それは渋谷や新宿を共に徘徊していた悪友たちとの縁を切りたかったからのはずだ。

当時、世の中はバブルだったせいもあって毎日遊びまくった。
学校なんて全く行かず、朝イチで遊技場に行けばお金なんてスグに出来た。
こんな浮かれた毎日が一生続くと思った。

高校も卒業に近づくと、悪友たちは、急に進学だとか就職だとか言い始めた。
それまでさんざん遊びほうけていたクセに、急に人生を知っているかのようなワケ知り顔で自分の将来設計を話した。
ボクは彼らの未来に全く魅力を感じなかった。

しかし、彼らはそれまでの遊びグセから一転して、急に受験勉強なんてシコシコとやるはずもなく、当時は凄く高価だった携帯電話を持ってファミレスで人にモノを売りつける商売を始めた。

当然誘われた・・・・。

「こいつらと一緒にいたら、ダメになる。」

卒業式の翌週、ボクは彼らから逃げるようにして大阪に向かった・・・。

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大阪は、自分にとってほぼ外国といってもいいくらい別世界だった。

独特な街並み。
イントネーションの違う言葉。
東京と違うテレビのチャンネル。

新鮮だったのは、ほんの数週間だけで、その後、不安ばかりが襲ってきた。

そして、待っていたのは「孤独」だった。

「孤独」なんていうと大げさだけど、それまで我が儘し放題の10代の自分にとっては大きな事だった。

知らない人たちばかり・・・・。
親もいない。
おばあちゃんもいない。
つるんでいた友人たちもいない。
誰もあてもない。

誰も自分の話を聞いてくれないような気がした。

東京では自然と周りにいたから意識してなかったけど、いざとなると友達の作り方がよくわからなかった。
3日しか続かなかったバイト先の人には、「おまえの東京弁が嫌いやねん。」と言われた。
耐えきれず、大阪のために別れた彼女に電話すると、受話器の向こうでは自分が知らない別人になっていた。

どうしていいかわからなかった。
どんどん追い込まれていった。

自分の都合を優先する「大人の象徴」として見ていた大嫌いな親でさえ、そばにいて見方になってほしいと思った。

ひとりで生きていけるつもりになっていた自分には、何もなかったことを知った・・・・。

「自分はこれからどうなってしまうんだろう?」
毎日、来るべき自分の未来について考えていた。

時間はたっぷりあった。
淀川をあてもなくぶらぶら歩いた。
アパートの途中にある、エアコンが効いててお金もかからない図書館に行くことが日課となっていた。

むさぼるように本を読んだ。
本を読むことで、少しでも苦しみから解放されたかった。

その中で、手にとった一冊の本があった。

「書を捨てよ、街に出よ」

本の内容はよくわからなかったが、タイトルの如く、本ばかり読んでいても何も解決しない・・・とにかく行動を起こせ、ということなのだと解釈した。

作者は・・・・寺山修司。

アングラ的で耽美な部分がクローズアップされることも多いけども、
あたりまえなこととして世の中に存在しているものを、いちいち疑ってかかったのが寺山修司だ。

自分を縛っている窮屈なもの・・・彼の本からは、それを解くヒントが隠されているような気がした。

10代も終わりにさしかかる頃、約2年暮らした大阪を後にして、再び東京に戻る決心をした・・・・。

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この後、演劇の世界に入っていくんですけど、そんな話も含めて、大阪ではトークしていきたいと思います。

寺山修司に関しては、最近、当時、生で接していた人の話を聞く機会が増えました。
ショーのDVDを出しているアップリンクの浅井氏もそうだし、今回の大阪でも、当時の大阪で天井桟敷と寺山修司を取材していた、ぷがじゃの松原氏もそうです。
時代を超えて、彼の言葉は生きていて、また、そこに引き寄せられていく自分がいるのを再認識しています。

もう、今日になってしまいましたが、今日のトークでは、彼の活躍していた1970年代と、今ボクたちの生きているこの時代を比較しながら、この時代に足りないものは何か・・・・・?
6%DOKIDOKIに置き換えれば、ボクがなぜ、6%DOKIDOKIを続けているのか・・・・?
というのを、皆さんと一緒に考えたいと思ってます。

そして、大阪時代の10代の自分への回答のひとつになればと思っています。

UPLINKの協力により、天井桟敷と寺山修司の生前インタビューの映像も流します。
大阪ですが、興味があれば是非。
トークの後、交流会も開いていただけるので、そこで直にお話ししましょう。
当日いきなり来ても恐らく入れます。

★芸創ゼミ
http://www.artcomplex.net/art-space/sche/index.php?itemid=2054

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増田セバスチャン

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