今日は久しぶりに日中よいお天気で夜になっても比較的暖かかったです。とは言え、僕自身は朝寝て昼過ぎに起きた訳ですが…(苦笑)。
(以下、論説調へ)
夕方今日の第一食目を食べて後片付けをした後、徒歩二十分前後のところにあるイベントスペース(?)plan-Bに、映画『山谷〔やま〕ーーやられたらやりかえせーー』(一九八五年、監督:佐藤満夫・山岡強一)と自称「思想系・音楽文化論系フリーター」平井玄氏のトークショーへ。
plan-Bに行ったのは初めて。自宅と中野駅まではよく歩くので、傍らを通りながら、ライヴハウスでもあるのかなと思っていた、かなり古いマンションの地下。十畳くらいのスペースが二つあって、上映会場の隣の部屋にはトイレとキッチンがあった。見えなかったけれど恐らく風呂もあって、元々は住居の一つだったのを改装したんだろう。トイレも古いタイルと和式で、基本的にあらゆる点でボロボロ。昔の学生会館をイメージしてもらえると分かり易いと思う。
http://homepage3.nifty.com/joeii/
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hirai/
映画『山谷』は、肉体労働者の立場に立って、資本・権力およびそれと協力関係にあるヤクザを批判するというスタンスで、山谷をはじめとする全国の日雇い労働者街と、廃山となり廃墟と化した九州の炭坑の街を撮ったドキュメンタリー映画。そのスタンスの徹底性は、佐藤・山岡両監督が共に山谷の日雇い市場を支配しようとしたヤクザによって殺されてしまったというエピソードが証ししている。
詳しい内容はリンク先を参照。
個人的に特に印象に残ったのは、日雇い労働者が団結して、様々な口実で賃金を引き下げ、あるいは労働者から金を奪取しようとする雇用者を団体交渉の場に引っぱり出し、最終的に不当な搾取を止めるとの誓約書にサインさせることに成功するシーンや、都庁で冬期の支援とヤクザの排除を求めて、のらりくらりと話をかわして逃げようとする肥満体の中高年の公務員を、これまた団体で激しく糾弾するシーン等、働く者同士の団結と互助という、今日では殆ど眼にすることの出来なくなった光景が、しかも最底辺の生活・労働条件を強いられている日雇い労働者の間で観られたという点だった。
現在の日雇い労働者たる、住むところもない派遣労働者の間でも、労働組合が結成されているというが、その実態もこういうものなのだろうか。
暴力や騒乱が苦手なヘタレ野郎としては、観ていて決して気持ちのいいものではなかったが、貧困が社会全体に広がりつつある時代に生きる、貧困の当事者として、大いに考えさせられる映画だった。
上映終了後休憩を挟んで平井氏によるトークショー「〝六八年の神話〟から遠く離れてーー一九六〇〜八〇年代新宿の顕微鏡的階級地図ーー」。
平井氏は一九五二年五月五日新宿二丁目に個人経営のクリーニング店の息子として生まれ、六八年の新宿騒乱事件の様子を一高校生として目撃していたと言う。現在はゲイの街として知られる二丁目は、当時も最下層の水商売関係者や労働者が多かったそうで、家業のクリーニング店の顧客も彼女等/彼等が主体だったとのこと。
話の細かい点を一々紹介する気も時間もないけれど、特に印象深かった点を以下に書き記しておく。
・現在自営業・フリーター・(日雇い)労働者の間の境界線が消失しつつある。
・レジュメ末尾の、「山谷は残酷な〝本源的蓄積〟の場所だった。資本主義はリセットと初期化、再起動を(幾度も幾度も)繰り返す。そして自営業の衰退とは、新たなエンクロージャーの一環である(〔新宿駅東口のルミネの〕ベルクの追い出し、下北沢の再開発)。八十年代の民活法から、九十年代の規制緩和ーーネオリベラリズムへ。そして今、フリー・カメラマン労組の出現ーー自営労働者(フリーター)の運動へ。〝素人の乱〟が高円寺で店舗を始めるーー払える値段で得る自助システムへ」という下りと、それに関する私の質問に対するコメントだった。
「〝素人の乱〟・従業員による品川のホテル選挙運動・ルミネによるベルクの追い出しに反対する署名への支持の、これまでにない広がりに、互助の空間としての〝新たなコモンズ〟の兆しを感じる。しかしそれは能動的な動向と言うよりもむしろ、社会全体の貧困化によってそうならざる得ない状況に向かいつつあるということだ」。
・歌舞伎町の「再開発」は、資本・警察・ヤクザの共働によって、歌舞伎町の表面から「薄汚いもの」や「猥雑なもの」を暴力によって排除して、『三丁目の夕日』で描かれたような「古き良き六十年代」にしようとするもので、それは六八年を「上」から「回収」しようとする試みに他ならない。
・「社会の工学的変容には逆らえない」として、昨今の都市の「再開発」とファーストフード化を礼賛する東浩紀は、「再開発のイデオローグ」であり「デベロッパーの回し者」だ(笑)。しかし貧困の普遍化によって、彼が提唱するような「物語」は来年には破綻するだろう。
昨今の貧困の普遍化と反貧困運動を、よくあるように単に運動レヴェルでではなく、歴史的・思想的にもっと掘り下げて考えようという平井の姿勢には感銘を受けた。
聴衆は平井氏が大学等で教えている学生が多かったこともあるのだろうが、意外にも二十代の若い男女が多かった。もしかしたら時代は新(不)自由主義と排外主義から離れようとしているのかもしれない。勿論もしかしたら、だけれども。
今日は実質殆ど自分の勉強をしていないのに、もう夜中の一時前。お腹が減ったよ…。