数学で言うところの、ねじれの位置関係は、上から見ると交わっているようだが、横から見ると決して交わる事のない平行線である。
社会というものの仕組みは、実はこういったものなのかもしれない。
視界からとらえる錯覚が交錯する世の中というものは、一見かみ合っているように見えて実はそうではなく、深層心理を探ろうとすればするほど答えのない禅問答と化す。
これが、政治のもたらすカオスである。
文民統制、立憲君主の崩壊から政治を主体とする社会変革はもはや無味蒙昧とし、変革はナノ単位の人間細胞の変革へと移行し、人間細胞からの変革はやがて意識下の均一化をもたらすであろう。
均一化された精神からは、可も否もなく、社会は安定を恒久化し、治安の良識化された社会はあたかも幸福な世の中に見えることだろう。
我が世の中は、幸福という名の元、対峙する何かをなくしてしまう。
ねじれの位置関係の政治社会は、やがて郷愁と化したカオスにより、再び対峙を求め、細胞変革された人々はその社会に流れる本当の血流が血栓によりもはやパンパンに膨れ上がり、破裂寸前である事に気づき、混乱ではなく動揺という名の元、初めて己の存在意義を悟り、ねじれの位置関係ではない接点をお互い見出し始めるのである。
そのとき、本当の意味で世の中というものは動き出す。