私たちは、共存という社会生活の上に成り立っている。
常々思うのは、人間は常に何かを犠牲にし、そしてその代価の下共存しているのではないかという事である。
サクリファイスの精神は、その代償としての平穏を求める。
平穏が犠牲の代価だとしたら、その代償は大きく計り知れないものがある。
だから国家の関係性は、その大きな代償のもと、たとえ統率者が変わろうと、さして大きく揺らぐ事はない。
今私たちに必要なのは、経済という血流を血栓で詰まらせる事なく、過去、歴史という崇高なる生贄の下、精神という代価を代償なく昇華させ、目に見える事象的な、実体的歓楽革命論である。
つまりは、男はもっと女を知り、女は男をもっと知るべきであり、そのことこそが、私たちの本来の社会的革命の境地へと至るのではないかということである。
男も女も、有形無形の犠牲の上に成り立ち、今日の社会は目に見えぬ崇高なる犠牲の上に成り立つのである。