かつて、京都学生運動の象徴たりえた京都大学熊野寮に監視カメラが設置されるようになったという。
自治会側の要請との事だ。
時代というものも変わるものだ。
私としては、こんな事でいいのか学生達よ!と叫びたい心境である。
自由が自由たりえた時代があった。全てが叫びと変わった時代があった。
時風というのは移ろい行く。
だが、変わってはいけない何かもある。
京大西部講堂はどうだ。
今だに自由表現の場として健在である。
京大吉田寮食堂などは、私たちの表現の場であった。
学生自治も、それをまた取り囲んでいた。
外部からの表現を自由に受け入れる京大のおおらかさに私は憧れていた。
そして、その京大の自由な空気に憧れ、京大を目指す若者も多くいる。
アカデミズムだけでなく、京大は、その自由の象徴たりえなければならない。
今後の京都大学の行く末を、はるか東京から見守りたい。