黒沢清監督の映画は、彼の映画理論を実践する実験室のようなものではないだろうか。膨大な映画知識を武器に、常に映画の可能性と革新性を追い求め、作品ごとにその作家性を研ぎすませてきた。自分もそのような黒沢作品に魅了され、新作を楽しみしている一人である。
新作『トウキョウソナタ』は〈家族〉の物語だ。本人も表明しているように、これまで黒沢監督は〈家族〉を描くことを意識的に避けてきた。それは映画で〈家族〉を描くことの難しさー例えば「食卓」といった卑近な日常風景の画にならなさーといった映画作家としての危機回避によるものと思われるが、今回、持ち込まれた企画とはいえ、黒沢監督として初めて〈家族〉をテーマに据えている。それも、父と母、大学生と小学生の息子というごく平凡な4人家族の物語だ。黒沢監督がどのような切り口で見せるのか、否が応でも期待は高まる。
現代の東京に暮らす4人家族が、父の失業をきっかけに、それまで隠れていた綻びを露呈させ、それがやがて修復不可能な亀裂となって家族を崩壊寸前の悲惨な状況へと叩き落とす。という筋を読むと、なるほど、これなら黒沢監督の得意とするホラータッチで不安感を煽り、家族の崩壊へと至る過程をじわじわ描いていくに違いない、と想像できなくもないが、それは良い意味であっさり裏切られ、そして思いもよらないところへ私たちを連れて行く。
随所に見られるけれんのある演出は、まさに黒沢世界のものである。家族の住む家の室内はスタジオセットで建てられている。そのため、本来ならステージもアングルも照明も思うままに調節できるはずなのに、あえて不自由な条件で撮影されており、その空間に漂う不気味な特殊性が、ありふれた家族の日常を非日常に染め上げている。また、裏庭から室内に吹き込む激しい風雨、ゾンビのように歩く失業者の群れ、落ち葉に埋もれる父、段ボールのサッカー、唐突に発生する交通事故など、これまでの黒沢作品で見られた、見る者を決定的瞬間に立ち会わせるような息をのむシーンも多く、忘れ難い強烈なインパクトを残している。
しかし、本作には、これまでの黒沢作品には見られなかった驚くべきショットが紛れ込んでいる。例えば、人物。会話シーンでの視線の交わらない正面の切り返しや、キャメラ正面方向に人を振り向かせるショット。例えば、風景。家族が帰宅するときに通る細い坂道を捉えた俯瞰ショットや、幾何学的な美しさをたたえた東京の遠景。これらのショットに触れるとき、思わず「小津」の名前を口にしそうになる。かつて、ヒッチコックと小津だけは真似するものじゃない、とまで口にしていた黒沢監督が、である。考えてみると『トウキョウソナタ』という題名は、同じ「東京」を冠した小津の諸作を連想させる。
果たして黒沢監督が小津を意識していたかどうかはわからないが、彼の映画を見続けてきた者としては、この新たなイメージの登場こそ、本作の真に驚嘆すべきところであった。そしてなにより重要なことは、これら本作を特徴づける豊かなイメージが、オマージュや模倣といった表面的な形式を超えて、まったく新しい映画の文体が生まれたかのような、瑞々しく奔放な輝きを放っている、ということである。黒沢作品の禍々しい魅力を残しつつも、わたしたちが映画から感じるもっとも原初的な感情、すなわち「感動」が呼び起こされるのだ。
これは、ショットの力によって見る者を戦慄せしめるという黒沢監督の作家性が、〈家族〉という抑圧的な主題を描くことによって図らずも実現したものではないだろうか。この作品から受ける素直な感動は、かつての日本映画にあったような普遍性を獲得しているように感じられてならない。これもまた黒沢監督の実験の成果であるなら、彼は恐ろしい高みにまで達していると言えるだろう。
この家族がどのような結末を迎えるかはぜひ劇場で確かめていただきたい。ただ、驚愕と感動が津波のように押し寄せるラストシーンの奇跡のような美しさに、不覚にも涙がこぼれた、ということだけは、正直に告白しておこうと思う。ここには、日本映画の最良質の系譜が脈々と息づいている。映画はまだ奇跡を起こしうるということを証明してみせた黒沢監督に心から拍手を送りたい。ふだん映画を見ない人にこそぜひ見てほしい傑作である。