2008-08-30

舟越桂展 @東京都庭園美術館 このエントリーを含むはてなブックマーク 

UPLINKさんにイベントの打ち合わせをしに行ったら、このwebDICEのことを案内していただき、さっそく入ったわけだが、mixiもしてるし、blogも始めたし、海外向けにmyspaceもしていて、数えてみると、この手の類いのもののブックマークが6つもある。しかもブックマークしてない忘れ去られたやつにも入っている。実質、稼働してたのが、mixi、ameblo、myspaceで、ちょうど、役割分担も行えていた。mixiではふざけたことばっかり書いてたし、日記も関西弁か2チャン用語連発だ。mixiならではの身内感を楽しんでもいる。対して、blogは、まじめに書いてる、というより、写真家仲間から、真摯な姿勢でblogをつけることを強くすすめられたからなのだけれども、amebloはなかなかよくできていて、アクセスログ解析が優秀で、おもしろい。例えば、いっしょにイベントをする花結い使TAKAYAさんがテレビ出演したら、さっそく検索ワードに出てくる。myspaceは海外向けとはいえ、ちょっとほったらかしだが、検索してみると、今のところ、7名の方が、トップフレンドという最初のページに出てくるリンク集に載せてくれてるので、アクセス数は悪くない。

webDICE、別に登録だけしてほったらかしててもいいのだが、イベント告知だけしてっていうのも味気ないし、なにより、雑誌版を立ち読みしてた記憶もあるし、ちらほら見てるところ、なかなかおもろいサイトじゃないかと思うので、少し大切にしようかと思う。

ここでは、見聞したいろいろなものの、感想文BLOGにしようと思う。

まずは一発目は、これだ。
舟越桂展 @東京都庭園美術館 〜2008/9/23
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/funakosi/index.html

いろんなところにポスターが貼ってある。いつだったかどこだったかで、そのポスターが目に留まった。だけど、今、舟越桂を見に行くかよ〜とも思いつつも、次の待ち合わせまでの時間つぶしってわけじゃないが、気になった僕は、本屋で、作品集を探していた。
タイトルのつけ方が詩的でいいよな。
作品タイトルって、やっぱり大切で、その言葉を聞くだけで、世界観が共有できるようなものがいい。それでいてかつ、うな重の山椒のように、作品世界の味わいを、より広げてくれるものがいい。タイトルとは、俳句よりも短い、世界で一番短い文学なのだと思っている。
文学というヤツは、これだけは、言語である以上、模倣の上に成り立つ芸術だという人が多い。それを根拠に、創作とは、インプットしたもののアウトプットだとか、すでにある作品を参照に、それ以上に模倣することをよしとする人がいて、僕は違和感を感じている。模倣をよしとしていいのは、伝統工芸だけだ。現代美術が、語源であるコンテンポラリーアートが同時代の芸術という意味であるのは、刻々と前のめりに進むしかないことだとも思う。創作とは、まったくもって、心の奥深くに眠る衝動を起こすことでしかありえない。というのが僕の考え。
そう思うと、僕には文才がない。言葉に関していえば、随筆だとか評論は書けても、純文学は僕には書けないのだろうと、文才のある人への羨望にも似た感情がある。まれに、いるでしょ。ほんのみっつくらいの単語を並べただけで、広がりのあるものを書ける人って。技法としての言葉は、後天的なものだけれども、そうではないなにかがあるのだろうな。
男の脳と、女の脳というのは違うらしい。よくゲイじゃなきゃファッションはできないなんていうが、それは、女の気持ちもわかる男じゃないとということではなく、女の脳構造じゃなければできないセンスが、今のファッションだからなのではないだろうか。で、あまり、専門的な正しいことはわからないのだが、右脳と左脳とを結びつける部分が、女の脳の方が優れているらしい。右脳は想像、左脳は論理、なんていうが、論理と想像を分けてしか考えられない男の脳に比べて、女の脳は、想像しながら論理を組み立てられるということなのだろうか。つまりは、男の理屈、女の勘、ってやつなのか。
まっここでは、そんな専門外でよくわからない話をしたい訳ではなく、芸術が生まれる時とは、現実と夢とが入り交じった瞬間なのではないかということがいいたいわけだ。現実に起きていながら、夢を見ているような、そういう時に、今まで見たことのない、新しい表現が生まれるのだと思う。いわゆるインスピレーションの瞬間ってやつだ。
それは、脳構造としてどういうことが起きているのだろうか。心の奥深くという言葉を上の方で使ったが、実際には、脳全体が活性化する一瞬なのではないかと思っている。人間の脳の中の、爬虫類的な部分も、夢見る部分も、昨日おこった出来事を記憶している部分も、視覚だとか聴覚だとか、なんやかやもが一瞬スパークするってやつなのではないだろうか。そこを理屈や経験や技術で、外に出すのが芸術なのだと思う。だから、記憶という部分でのインプットはあるだろう。だけど、それに頼りすぎると、爬虫類の時代からとか胎児の記憶とかといったわけわからん部分が霞みはしないかとか、考えてしまうがよくわからない。

かなり脱線してしまった。んでこんなよくわからない感想文になったのかというと、舟越さんの作品が、夢と現実の狭間をいってるからなんだろうな。ずっと、次の作品撮影のことばかり考えてしまった。夢の世界をどれくらい引き出して来れるかななんて。

それとイベントタイトルのことももやもやと考え込んだ。結局、そんなこんなで、『太陽と月と大地が重なる時』と名付けたが、これは、3人のコラボレーションという意味でもある。実際には、あれだ。『なのはなや つきはひがしに ひはにしに』と与謝野蕪村の俳句があるが、満月の日の、日の出+月の入り、日の入り+月の出、の瞬間のことでもあるかもしれない。今回のイベントは、もともと、秋の花、大輪の菊や、ダリアなど、キク科の植物の開花シーズンに合わせた一面もある。ダリアなどを見て、太陽のようだ考え、太陽神話を題材にできるのではないかなどと話し合った。神話の扉が開く、魔法の言葉を、舟越桂さんの作品を見ながら空想した。

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舟越桂 / 東京都庭園美術館


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米原敬太郎

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米原敬太郎

“ビジュアルショックフォトグラファー”


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