リオのカーニバル、コパカバーナ、コルコバード、、、観光案内からは陽気で明るいブラジルは想像できても、この映画の舞台となるファヴェーラのことはわからない。リオデジャネイロの美しい空と海は、高級リゾート海岸の観光客にも、ファヴェーラのデッドエンドヒルの住人にも分け隔てなく惜しみなく光を当てている。しかしデッドエンドヒルには、どこのスラム街にも共通する貧困ゆえの社会問題が住民を蝕んでいた。ドラッグ、ヤクザ、暴力、家庭崩壊、失業、、、そのしわ寄せを受けるのは子どもたちだ。
映画の主人公はデッドエンドヒルで兄弟のように育った20歳そこそこのアセロラとラランジーニャ。二人ともまともな教育も受けていないし、自分たちの住む世界の外に広がる世界のこと、あるいは将来のことまで関心が及ばない。アセロラにはすでに2歳になる男の子がいて、一方、ラランジーニャは父なし児だった。二人にとっては今日を、今をどうやって飢えずに生きていくかが問題であった。
いわば貧困の犠牲者である二人だが、生まれながらのハンデなど跳ね除けんばかりの彼らの精神はしごく健全でまともだ。暴力の世界へ、闇の世界へと堕落していく方がたやすい環境にあって、それを踏みとどめさせていたのは、恐らく二人の友情と、家族の絆という人間本来の力なのだろう。
二人と並存しているのはデッドエンドヒルの暴力団抗争だ。暴力団と住人とは区別があるようなないような状況で、アセロラもラランジーニャも彼らを積極的に否定も肯定もしていない。危険を孕む隣人なのだが共存せざるを得ない。そのあたりがスラムの現実なのだろう。共存の様子はアセロラやラランジーニャがいつ暴力のワナにはまってしまうか、見る者を最後までハラハラさせる。
そうだ、この映画で一番印象的なのは、危うい綱渡りをしているような二人の若者が、事の重大性には無意識のまま、一つ一つ自分たちで考えて下す判断・決断の真っ当さに対する心地よさである。その点から言うとこの映画は人間讃歌の映画だと思う。
アセロラが特に良かった。演技とも思えぬ自然な演技は、アセロラが役者自身を投影する等身大の役であったからだろう。間違って授かってしまった子どもを前に戸惑う若い父親の感情もよく出ていた。2歳の坊やはまさか演技ではあるまいが、シーンに溶けこんだ上出来の「演技」に脱帽。(監督のなせる業か)
そして感動的なラストシーン。見ているときはそれほどでもなかったが見終わって時間がたつほどに、ラストの感動がじわりじわり広がって来た。
ラストで初めてアセロラとラランジーニャは、それまで無意識だった自分たちの「将来」についてハタと意識するのだ。
決して無難ではなさそうな道だが、それでも朝の光の中を、子どもを挟んで手を繋いで歩き出す姿に、私は期待と祈りを込めることができた。