2016-08-26

遺された物・語り(histoire) - 『フリーダ・カーロの遺品』と『Frida is』 このエントリーを含むはてなブックマーク 

もうずいぶん前のこと、聴くとはなしに流れていたラヂオから、「フリーダ・カーロは不幸のどん底だったにもかかわらず、vive la vida 人生万歳と描いて死んだ」というようなナレーションが流れてきて、憤慨したことを思い出す(開局間もないJ-waveだったような気がする)。「不幸」「にもかかわらず」という、本人の意思とはかかわりない思い込みの言葉遣いが、どうしようもなくいやだった。彼女は不幸と思ってなかったかもしれない。不幸を生き抜いたから人生万歳と言いたかったのかもしれない。それは誰にもわからない。

同じ頃だったか、メキシコのポール・ルデュク監督の映画「フリーダ・カーロ」が公開された。もう記憶は定かではないけれど、幾多の困難な出来事を携えてなんとヴィヴィッドに生きた人よ、と感じたことをおぼえている。

石内都がフリーダ・カーロの遺品を撮影したと知って、これは見たい見なければと思った。石内都の「ひろしま」や「背守り」の写真を見たとき、誰かがかつて身につけたもの、持ち主に慈しまれたもの、ものの記憶、ものの歴史を、そのもの自身が語り出すような撮り方に打たれたから。フリーダ・カーロの遺品を撮るのに、これほどふさわしいひとはいない。

その撮影旅行の様子を映画に撮ったドキュメンタリー「フリーダ・カーロの遺品ー石内都、織るように」(小谷忠典監督)と、資生堂ギャラリーでの展覧会「 石内都展 Frida is」を見た。

映画を先に見た。その順番は、すくなくともわたしにとってもとてもよかった。ちょっと不思議なドキュメンタリー映画だ。フリーダ・カーロに収斂しない、石内都にも収斂しない。むしろ両者が、長く深い歴史を持つメキシコの多様な文化に溶かしこまれていくような印象。

フリーダの死後50年封印されていた遺品の撮影を依頼されて、そう熱烈な興味はなかったフリーダの遺品と出会いはじめた石内は「すごーい」「すごーい」というわりと凡庸な反応を示すのだが、フリーダの身につけたモノと対面し、そのモノにまつわる情報を現地のキュレーターたちから受け取るうち、ひとつひとつのモノと対峙して、それらがかつて着られていたすがた、遣われていたかたちを抽き出しはじめる。「フリーダはどう使っていたのか」を「想像する」のではなく、モノ自身の記憶を取り戻すかのように、例えばブラウスのウェストをしぼり、スカートのひだをたぐり寄せていく。ああ、なんだかそんなことがあった、思い出しそう、待って、こうじゃなかったっけ、と記憶をまさぐるようなことってあるじゃない? 昔できたことをやってみようとして、さびついた体の感覚を取り戻していく感じってあるじゃない? フリーダのスカートやコルセットや靴に、そうやって「かつてフリーダに着られていた時のこと」を思い出させているみたいに見えたのだ。古びたモノたちのリハビリテーションのように。あるいは記憶の底をさぐるセラピーのように。(松谷みよ子の「ふたりのイーダ」の椅子を想起する。)

映画は、メキシコの風景も映し出す。フリーダの愛したメキシコ。テオティワカンを訪ね、フリーダの母の生地オアハカの地を訪ね、オアハカの伝統的な衣装、その衣装を身につけた踊り手を映し出す。フリーダの絵のあの狂乱と極彩色の源泉は、彼女自身の内奥とメキシコの地両方にあることを知る。

少し脱線する。オアハカといえば、カスタネダの一連のドン・ファンのシリーズによく登場する街。1960年代、UCLAの文化人類学の学生カルロス・カスタネダが、先住民文化についてフィールドワークのため情報提供者を探して、ドン・ファン・マトゥスという呪術師に出会う。気が付いたら研究どころか、呪術師の弟子になっていたという、その経験とドン・ファンの一統の呪術の体系についてカスタネダは書き記した。ドン・ファンは実在するのか虚構なのかと論争にもなった。コロンブスによる新大陸「発見」以後、スペイン来襲以降、南北アメリカ大陸の先住民は、不意打ちの侵略、徹底的な破壊に見舞われ、独自の文化を持ち多様に共存していた幾多の人々が、殺戮され蹂躙され、追い立てられ囲い込まれていったのは、誰もが知っている通りである。スペイン人に征服されたメキシコで、存亡の危機に見舞われた呪術師と呼ばれる者たちが、部族を超えた呪術師ネットワークを築き、水面下で汎メキシコ的な呪術の伝統を存続させてきた、というようなことをドン・ファンは語ったと、カスタネダは書く。4000年の系譜さえドン・ファンは口にする。その古代メキシコに連なる変幻自在の呪術師ドン・ファン・マトゥスは、ヤキ・インディアンの父、ユマ・インディアンの母の子として生まれ、アリゾナ、ソノラ砂漠、そしてオアハカに住んだ。

1492年、突然、異なる世界が奔流のように到来し、先住民文化はさまざまなものを取り込んだ。混淆した。そうなるよりほかなかった。それゆえ、いま先住民の人々の伝統文化と思われているものも、コロンブス以降の、スペインやその他の文化が渾然一体となっているものもある。それが歴史。それがメキシコ。

フリーダ・カーロが身につけ自画像にも描かれている衣服、その中には、彼女の母の出自のオアハカの伝統的な花の刺繍に彩られているものがある。その刺繍はチベットの工芸がスペインを経由してきたもので、オアハカの女たちはそれを真似、オアハカに咲く花を縫いこんでいったのだという。その衣装、刺繍する女たち、受け継がれた衣装を身につけて踊るダンサーが、映画には登場する。

メキシコの死者の日の祭りの場面も挿入される。髑髏の仮装をして賑やかに踊る人々、飾り立てられた祭壇、墓所を花で埋めロウソクを灯し、いまは亡き者たちと静かに語らう人々。祈り。これもまた、メキシコの古い祭りとカトリックの諸聖人の日の祝祭が融合したもの。

不意に、腑に落ちる。何の落ち度があるわけでもなく、ただ偶然に、病気に見舞われ、事故に遭い、精神的にも身体的にも苦しみぬきながら、父と母、ヨーロッパとメキシコ、二つの出自の歴史を混淆させて、彼女でしかありえない絵を描き、彼女でしかありえない生を生きたフリーダは、メキシコの似姿ではないか。メキシコそのものではないか。

途中、石内都の個人的な出来事を、映画は少しばかり映し出す。人間に否応なく訪れるゆらぎの瞬間のようなもの。なんというか、それが、その人生の不意打ちのような出来事が、フリーダと呼応する。映画を見ている私たちとも呼応する。この写真家のメディウム(媒介者)性を、映画は控えめに垣間見せてくれる。

フリーダが暮らした青い家は美術館になっている。その青い壁の前で石内都がインタビューを受けている場面がある。粗く柔らかい風合いの青い壁のところどころ、強烈な陽光に白く照らされている。木漏れ日なのか、その白い光はゆらぐ。ざらついたやわらかい風合いの青い壁は、そうやって映されると、壁なのか何なのかよくわからない。ルイス・バラガンの建築を思い出したりする。壁をこんな色に塗ることができるのはメキシコ人だけだ(と、ちょっといい加減なことを言ってみる)。

映画の中で石内都は、ニコンF3を構えて被写体に寄って寄って撮っていた。今となってはフィルムカメラで撮るなど、途方も無い大博打のように思えて身が竦む。シャッターを切るという賭けの結果、一体なにが写されたのだろう。撮るものと撮られるものの拮抗を映画で見たあと、写されたものを、資生堂ギャラリーのFrida is展で見た。

フリーダの衣装。フリーダの靴。コルセット。櫛。マニキュア。モルヒネの瓶。そういったモノが、一瞬それが何であるのかわからないほど、接近して、容赦なくモノとして撮られた写真、それが思いがけないほど引き伸ばされ、ヴィヴィッドに塗られた壁に展示されていた。感傷的な物語を紡ぐことを阻む圧倒的な即物性。とはいえ撮られたものは語ることを禁じられているわけではない。写真の中から物語ならざる声が、目に、聴こえた。

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