先週東京を経由する用事があったので、オープニング時にはまだ設営がなかった物販コーナーと配布物の扱いがどうなっているのかだけ確認しようと思い上野の森美術館に数分だけ立ち寄った。
物販はしっかり陳列されていてとてもありがたかったが、作品に言及した、ある種の説明というかコンセプトを匂わす英文を(敢えて英文のみにしました)、いかにもなポートフォリオのような提示の仕方は嫌だったので、ゴリ押しで手に取ってもらおうという意図で配布用として納品していたのだが、そのテキストは他展の宣伝ではないのが明らかなのにも関わらず、他の出品者の宣伝DMと同じスペースに置かれていてショックを受けた。すぐ受付のスタッフの方に変更を要請したのだけど、その方は丁寧に応じてくださったが、館内の連携というか事務局の動きがどうも信用ならなかったので(というのも、カタログの原稿の確認の際、事前に天地の間違いがないように細かに説明・指示を出していたにもかかわらず、右に90度回転された状態で送られてきたという経緯があるから)、立ち寄った際に急いでいて確認を忘れた、閲覧用の作家資料がどう扱われているかの確認も兼ねて後日電話で尋ねたところ、そのままになっていると言う。しかも変更は受け付けかねるとの返事がメールで送られてきてしまう始末だ。加えて、閲覧用の作家資料は前回のレポートで「敢えてとんちんかんなものを用意した」と書いたが、それのみを閲覧用としてください、との事前の要請にも関わらず、他の去年の秋に提出した資料と一緒に同一のファイルに入ってどちらも閲覧可能な状態になっていると言うから、ダブルでショックだった。それらは、展示作品との相関関係を意識して、僕らの(学芸員と僕の綿密なディスカッションを経て完成させた作品です)皮肉まじりの制作意図を来場者に正しく与えられるように、全て計算ずくで厳選した一切無駄がないものだったのにもかかわらず、だ。
その意図がことごとくスポイルされていたのだから呆れた。そもそも本当はこのVOCA展というドメスティックの祭典のようなイベントにそこまで本気で関わって疲労を溜め込むというのは嫌だったし、どうでもいいと感じていたが、作品のコンセプトが立ち上がるとそれを完遂させないと気が済まない性格だから作品自体はちゃんとつくった。だからそれに関わる情報としての配布物がこちらの意向通りになっていないというのは、作家としてのプライドもあるから受け入れ難くクレームを入れずにはいられなかった。何度も変更の依頼を試みたが、取り合ってくれない。厳密には、取り合ってくれたと思ったら、後に返上されてしまう。
そもそも展示される作品との相関関係を示唆するものを来場者に閲覧させ、また物販のラインナップを見せて、その作品についての理解を促す、といった複合的で多元的な表現方法が在るのだ、ということについて無知なのだろう。ただし断っておきたいのはそれらがひとつの作品を構成するとか、ある作品の要素だとか、そういう話ではない。独立した複数の作品とその他の独立したものがそれぞれ自律しながら緩やかにつながっていて、その意味が同じポイントに収斂されるような状態をつくりたかったのだ。そういう前例がなく、今回もないのだろう。事務局や参加者や来場者の素朴な態度に驚くばかりだ。かといって、去年や一昨年にあった、あからさまな抵抗やボイコット(携帯番号だけの貼り出し、アクリル版を壁に立てかけるだけ(これは会田誠に受賞を目的とした絵を描かせそれを展示するという、ぼくから言わせれば取るに足らないあまりに直球でひねりのない制度批判が頓挫した結果らしい))もつまらない。20年以上続いたイベントの構造にはそういった反逆的な一発ネタは、すぐさまその強固なシステムに飲み込まれ回収される、もしくはただスルーされる。それに比して、僕はVOCA展という容れ物の中で、そのフォーマットを見かけ上遵守しつつ、脱構築的に中指を突き立てた、つもりだった。その意図が完遂できなかったことは、僕が考え抜いた結果を、自覚もなく踏みにじられたということだ。つまりは僕の試みもスルーされてしまったということなのかもしれない。ただ、上記のストレートな制度批判とは質が違うということだけは強調しておきたいとは思う。
明日またメールがあるだろう。その後にまたここにレポートを書こうと思う。
とにかく、全く期待はしなかったが、こんなにもひどいとは思わなかった。
素朴なやる気に溢れているアーティスト(志望)以外の人が、面白おかしくシニカルな態度で参加をしても徒労に終わるということが分かったので、どうにか一石を投じたいと考えている学芸員の方なども、あまりそういった努力をされない方がいいのかもしれません。
ひとつ参加者の作品で気になったことを書いておく。大山エンリコイサム氏のグラフィティを出発点とした絵画作品が佳作だったか、何の賞だったかを受賞したが、このドメスティックに閉じたイベントに参加するにあたりどのようなモチベーションで臨んだのだろう。馬鹿でかい作品からはひしひしとやる気を感じたが、グラフィティという、美術という制度の外側にあるものを、純朴な態度で、メタ的な批評性をもたずに(本当は持っている人のはずだと思ってたが)美術の枠内に閉塞させてしまったように、少なくとも僕には思えて、なんだかなという感じがした。
彼の作品は、僕の見た感じの印象では、グラフィティというグローバルな文化から帰納的に導かれる共通要素を絵画に転用するという試みのはずだが、それであればまったくグローバルでないVOCA展への参加はおろか受賞するということに根本的な錯誤がありはしないだろうか。その皮肉といってもいい状況をどう捉えているんだろう。既存の美術の枠組みに、もっと言えばより矮小な、日本の美大・芸大が支配的に示す美学(というほど厳格なものでなく時代遅れのしみったれた言論ごっこだ)に迎合してしまっていないだろうか。僕が彼だったら、今回の僕がそうだったように、推薦者との信頼関係を考慮して参加はするかもだけれど、受賞は辞退するな。ストリートから誕生した無作法が保守性に迎合したら終わりでしょう。そもそも彼は本当に路上で書く/描くという(違法)行為の経験があるんだろうか。そのリスクの背負い方や、その背景にあってしかるべき音楽に没入する姿があんまり想像できないのは僕だけなのかな。
迎合という意味ではContact Gonzoにも関わるグラフィティに出自を持つらしいのNAZE氏も大きな作品を出品していてちょっとショックだった。みんなチャンスを掴もうとしてるんだなあ。
でも僕は迎合しない。僕の作品こそヒップホップやパンク、エクストリームなメタルなどの反骨精神を引き継いだものだと思うけどな。まあ、カウンターカルチャーもレベルミュージックもアナキズムも幻想だから別にどうでもいいけど(でも、そういう考え方はすごく好きだったりするし、努力目標としては有効だと信じたい。事実、正直に言うと、10代〜20代前半までパンク・ハードコアの思想に割とまじにどっぷりと感化されてしまったことで、今こんな状態、権威はまず疑い批判の対象として捉える、主流の考えにはツバを吐きかける、広告その他のマスな情報によって大衆を囲い込む側の欺瞞とそれに無自覚に従ってしまう人々への強い嫌悪を示す、などなど、になっています。いい年こいて恥ずかしいですが)。
もうひとつ。展覧会が始まってから、この僕にとっての未知のイベントについて来場者がどんなことを言ってるんだろうと思って、毎日ねちねちとツイッターで検索してみてるんですが(僕はツイッターやってません)、「今年もつまらなかった」とか「見たけど今更期待もないから批判もしない」みたいな態度の人がけっこう多いみたい。
でも!!!
「おいおい、アンタそんな言うわりに毎年(少なくとも2回以上)行っとるんかいな!!! 俺なんかよりよっぽど興味もっとるやん!!!」
と思います。そうでしょ!?
それと、素朴な価値観を共有している保守的な美術好きの人々がフェイバリットとして挙げる作品は、彼らのセンスのなさが反映されていて、それが垂れ流されている。美大も芸大もこんな状況を強化するために存在するのだったら全部なくなってしまえ!独学の方が1億倍マシ!!!まじで気持ち悪い!
ツイッターていうのは、未消化な自我の排泄を見せられているようで、こっちが下痢になりそうです。口からウンコが出ちゃう人向けのガラス張りのボットン便所ですね。
最後に、きちんとした場所に置かれるはずだったテキストを以下に載せておきます:
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Text for VOCA 2016, March 11 - 30, 2016 by Yoshihiro KIKUCHI
Statement (in one sentence) :
“I DETEST HUMAN, THUS I NEGATE HUMANITY”
Detailed Description:
My works spreading out various styles* such as drawing, collage, painting and installation have been principally made on the following concepts/definitions:
1) A posteriori disorganization of a traditional pan-language value system with reference to linguistic theories (by extension, extraction of a universal common structure in linguistic phenomena, and its deconstruction).
2) Interposition/interference of ‘Eroticism’ to 1).
3) Applying ‘indeterminacy/contingency’ to 1) and 2).
4) Elimination of direct physicality, and reconstruction/extension of indirect physicality in actions of 1), 2) and 3).
5) Observation and fundamental re-examination of societal institution through 1), 2), 3) and 4).
6) Negation of humanity derived from 1), 2), 3), 4) and 5).
THE ABOVE CONCEPTUAL DEFINITIONS
ARE NOT RELATED TO THE TWO SMALLER WORKS
IN THIS VOCA 2016 [except ‘definition 3)’]
THEY BEHAVE AS
DOMESTIC VIOLENCE WITH
LOCAL LANGUAGE