2008-06-12

From Earth café OHANAでの正木高志トークライヴ このエントリーを含むはてなブックマーク 

 一昨晩深夜mixiで、インド哲学の立場から環境倫理を説く一方で熊本で農園を営み、そして最近では徒歩で日本中の原発を訪ねて回る運動「ウォーク9」でも知られている正木高志さんのトークライヴが、十一日(水)夜(=昨晩)三軒茶屋であることを知る。昨年出た『空とぶブッダ』を除き日本語で書かれた正木さんの本を一昨年末から昨年の初めまで集めてそれなりに熱心に読んだことを思い出す。「予習」のために少し繙いてみると、ティク・ナット・ハン等、最近自分が親しむようになった名前もチラホラ。

 http://masakitakashi.com/

 http://walk9.web.fc2.com/index.html

 少し迷ったが、問い合わせると未だ空きがあるとのことなので、参加することに。

 以上のような経緯で昨日は夕方から三軒茶屋のFrom Earth café OHANAへ。映画を観によく行く下高井戸からは約一年半ぶりに東京に残る数少ない路面電車の一つである東急世田谷線に乗る。

 三軒茶屋に来たのは、学部学生の一年の時仲のよかった友人のアパートに何度か遊びに来た時以来だから、十五年ぶりくらい。世田谷線のホームのあるキャロットタワーから少し歩いてcafé OHANAのある国道246号線を歩いていると、そういえば飲んで泊まった翌朝の三茶の風景はこんなんだったなあと思い出す。

 初めての割には比較的スムーズにcafé OHANAに到着。椅子や机といった家具やテーブルクロスはエスニック風で、壁には最近のチベットでの民衆弾圧に抗議するポスターが貼られ、社会運動系のチラシコーナーが設けられている。如何にも反原子力運動・環境運動・平和運動にもコミットしている自然食レストランという感じ。

 とは言え、だからイヤだという訳ではない。トイレもキレイだし、オーガニック食材を中心としたメニューもとても美味しそう。肉・魚・卵・乳を使わないヴィーガン料理なので僕でも安心して食べれそうだし。

 http://www.cafe-ohana.com/

 昨日はお腹も空いていなかったし手持ちも少なかったので、雑穀珈琲しか口にしなかったけれど、電車ならウチから30分強程だし、是非今度しっかりと食べに行こう。

 正木高志さんのトークライヴは聴衆の集まりに合せて予定より三十分程遅れて開始。ギャラリーは僕以外は女性ばかりで十人程。最初と途中と最後に太鼓を叩きながら歌われる、「私達は森から来た、私達は森へ帰る」等の正木さんの歌を挟みながら、約二時間程。

 1945年生で現在六十代前半の正木さんは、日に焼け、白髪を伸ばし、ジーンズ、サンダル、Tシャツの上に半袖シャツ姿で、若々しく精悍な感じ。最近は何年か先に行われる国民投票で九条堅持に少しでも多くの賛成票を獲得するために、自宅のある熊本をしばしば離れて東京に長期滞在し、講演等を積極的に行っているとのこと。

 トークライヴは内容的に大まかに言って、以下の四部構成。

 (一)ウォーク9を始めたきっかけと日本中の原発を歩いて訪ねて回る過程で実感したこと。それは人間と自然環境は「あっち側」と「こっち側」に別々に分たれているのではなく、人間は自然に抱かれている存在であるということ。それゆえに、人間の側からではなく自然の側から、すなわち例えば原発周辺の放射能で汚染され悲鳴を挙げている海の側から考えるようにならなければならない。そして実際に参加した若者の間に広くそのような意識変革が起こった。それは同時に危機感から始まった運動が海や山に抱かれるという喜びへと変わる瞬間でもあった。

 (二)「日本海」という日本を中心にしてつけられた名称も、「東海」という韓国・中国・ロシアの側からつけられた名称も、共に自民族・自国民中心主義に囚われている。しかしそのような自民族・自国民中心主義こそ戦争の主要な原因である。それゆえに国際的に市民レヴェルで所謂「日本海」の新しい名称を考える運動に着手するつもり。それは民族や国民レヴェルから地球レヴェルへのアイデンティティの拡張という歴史の趨勢にも合致したものである。

 (三)『文明の衝突(clash)』でハンチントンは航空路が発達し一般民衆が気軽に利用可能な程に航空料金が下がった結果地球が狭くなったという事態を、専ら異なる文明同士が衝突する危機的事態(emergency)だと捉えた。しかしそれは同時に一般市民レヴェルで異文化との日常的な出会いが可能になり、それによって諸文明の「融合」が起こり、民族や国民国家レヴェルから地球市民レヴェルへと人々が自己意識ないしアイデンティティを上昇(ascension)させるチャンスでもあるはず。そしてこれはまさしく蝶や蛾が芋虫から蛹を経て美しい成虫になるプロセス、すなわち羽化(emerging)に準えられるべきものだ。
 来るべき憲法をめぐる国民投票は、日本人の自己意識ないしアイデンティティを民族や国民国家から地球市民レヴェルへと上昇させ羽化させる絶好のチャンスでもある。
 これに関連して正木は、憲法をめぐる国民投票の話を脇に置いても、実際にこれから十年後には若い世代の自己意識は地球市民レヴェルになっているはずだと、所謂「明治維新」の五年前には○○藩レヴェルであった人々の自己意識が「維新」五年後には「日本人」レヴェルへと上昇していたという例を援用して説明し強調した。それに対して私も含めて幾人かの参加者から出たのは、その場合個々の言語・宗教・文化等はどうなるのかという質問だった。それに対する正木の回答は、
(A)正木の言う「融合」はグローバリゼーションのような支配文明による画一化とは異なり、全ての個別的な文化的伝統を「アメリカ化」するようなものではない。(B)個々の文化的伝統に閉じこもりそれをひたすら純粋培養して、他の文化的伝統と敵対するという道には未来はない。従って今日のような時代において好ましき未来へと繋がる道は「融合」にしかない。
というものだった。
 (B)に関しては異論はないが、問題は(A)だ。個人的に再度表現を変えて質問したが、正直に言って納得のいくような説明を受けることは出来なかった。多かれ少なかれ他の参加者も同様だったのではないかと思う。歴史的なアイデンティティの「上昇」の事例として「明治維新」を持ち出してしまったこと、また多様性の「融合」概念規定、言い換えればそれと画一化の相違が今一つ明確ではないことが、ウイークポイントだと思う。
 
 (四)地球市民意識と並んで重要なのは、人間中心主義から地球中心主義への「グラウンディング」(grounding)だ。
 都市化としての文明化が現在の環境破壊を生み出した。従って現代という時代は再度人類発祥の地である森へと方向性を向け変えるターニングポイントにある。今日の地球環境の危機的事態は裏を返せば、「自然に帰り」、「森に帰る」、そして人間中心主義から地球中心主義への「上昇」のチャンスでもある。
 人間にとって自然環境は魚にとっての海のようなもので、通常意識されてはいないものの生命の基盤(ground)なのだ。と言うのも人間は自然環境無くしては生きることは出来ないから。実際に人間の身体は食べ物から出来ているが、食べ物は自然環境無くしては存在し得ない。
 正木自身が人間中心主義から地球中心主義への自己意識の転換を実感したのは木を植えた時だったとのこと。

 トークライヴ終了後持参した『木を植えましょう』にサインを貰う。…ミーハー(笑)。

 正木の著書は以下の通り。『スプリングフィールド』以外新品で入手可能。

 正木高志『スプリング・フィールドーー新しい時代意識の目覚めーー』、地湧社、一九九〇年
 正木高志『木を植えましょうーーSustainability & Spiritualityーー』、南方新社、二〇〇二年
 正木高志『出アメリカ記』、雲母書房、二〇〇三年
 正木高志『空とぶブッダ』、ゆっくり堂、二〇〇七年

 
 帰りも世田谷線で。十時前後だったけれど満員だった。下高井戸からはウォーキング。未だ夜はじっとしていると涼しいけれども三十分強のウォーキングで家に着いたら汗びっしょり。

 付記:正木さんのインタヴューが掲載されているホームページが在ったので、URLを貼付けておきます。

 http://www.wacca.com/88/08/masaki/masaki.html

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知世(Chise)

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