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終了二人展「medium」 船井美佐 川久保ジョイ

不思議で素敵な繋がりに曳かれて二人展をすることになった。

  • 日程
    2011年08月10日 ~ 2011年08月27日

  • 時間
    13:00

  • 会場
    Ohshima Fine Art

まず、川久保ジョイである。写真という素材を使っているため、当然「写真家」との肩書が付く。しかし、作品を見て判るように、非常に静謐な画面を創り上げている。 
川久保は言う、シャッターチャンスは一日に一回だけだと。全神経をそれこそ、耳栓までして、その一秒に満たない一瞬の刻を‘創造’する。
これらの作品は確かに現実の風景などを元にしているはずだが、リアリティを喪失した感覚を抱かせる。写真は物理的にどこかに存在するものを写し込んでいるはずだという思い込みがその気持ちを増幅させるのか。
音が聞こえない。人の気配が無い。ただ海が在る。ただ山が在る。

唐突だが、船井美佐はあのイタコである と断言する。
それはアーティストと同義語である。見えないモノを見せてくれたり、何かを媒介する人 という意味であれば腑に落ちるだろう。
一連の鏡の作品では、誰も行ったことはないが、誰でも知っている「楽園」のイメージを鑑賞者に提示し、体験させ、考えさせられる。その仲介者としてのアーティスト、そしてあちらの世界と我々の世界のちょうど境界にあるもの としての「鏡」なのだ。
地上の欲望にまみれた世界に対して、楽園は純化した思いが集積された聖域であるが故に、世界中で驚くほど似通った人間の共通認識の結晶が見える。
この船井の鏡の作品は、川久保の作品と呼応しての展示のほか、今回だけ特別に、川久保の作品の題材そのものに使用され入れ子の共作が出来上がる。 
しかし、船井の今回のメインは、一枚一枚個々のドローイング作品だ。  
短絡的に言ってしまえば、唯の絵の具の滲み、有機的な線 が何かに見え始める分岐点がある。その時間的要素も船井の描く“境界”なのだろう。そして、作品は画面に描いたなにかを現すはずなのだが、ここで作家は、最初からそれを論理的に示す必要があるのか。といった現代絵画の根源的な問いかけを用意している。

さて、前回の小泉朋美の個展について「生きていくこと とは、変わっていくこと だけが変わらない理なのだろう」と書いた。そして、今回の二人展を企画する際、変化しないものが悠然とそこにある。と全く反対の意味になるかのようなものが二人の作家の表現の核心にあることに気付いた。
こんなエピソードを入れたい。
船井美佐は数年前に、川久保ジョイは今回、それぞれ琵琶湖と周辺を取材している。
琵琶湖は世界でも珍しい湖だ。普通は土砂で埋まっていく運命の湖でこれだけ古いもの自体貴重なのだ。事前に打合せしたわけでもなく、期せずして二人が惹かれた琵琶湖は、古来の神話時代から、そこに“ある”存在だったのだろう。
この世界がどんなに移ろおうとも、必然と在る と。
作家のクリエイションも同様で、変らず表現するべき何かを其々が変わらずに営々とやっていけばいいのだと思う。

船井は東洋の最東端の日本で生まれ育ち、川久保はヨーロッパの最西端のスペインで生まれ育っている。対極のその地で培った制作に関する二人の姿勢は、普遍的な題材を表現しようとしたからこそ必然にシンクロしたのだ。
船井の視線は『穴』を通して、あの世や楽園からこちら側を覗いている。一方、川久保は『光の箱』を通して、現実世界からあの世を切り取る。
その世界感は恐ろしいほどの現実感の希薄さを湛える。この世のものとは思えない、「彼岸」の風景を想像させずにはいられない。
まさに、此岸と彼岸、船井と川久保の創造物とその思想が‘合わせ鏡’の様相で対峙する。

結局、船井美佐も川久保ジョイも、物事や人間やこの現世やらの本質をどこまでも追いかる探究者だ。それがどんなに手の届かない先にあろうとも。

キーワード:

船井美佐 / 川久保ジョイ


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