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終了photographers’ gallery企画「金村修展──ヒンデンブルク・オーメン」

この度photographers’ galleryでは、企画展として「金村修展──ヒンデンブルク・オーメン」を開催する運びとなりました。

  • 日程
    2013年07月23日 ~ 2013年08月09日

  • 時間
    12:00

  • 会場
    photographers’ gallery、KULA PHOTO GALLERY

photographers’ gallery企画「金村修展──ヒンデンブルク・オーメン」
2013年7月23日(火) − 8月9日(金)
12:00 − 20:00 会期中無休
会場/photographers’ gallery、KULA PHOTO GALLERY

この度photographers’ galleryでは、企画展として「金村修展──ヒンデンブルク・オーメン」を開催する運びとなりました。本展は写真作品100点と映像作品の2部構成となり、それぞれphotographers’ galleryとKULA PHOTO GALLERYを使って開催いたします。写真・映像ともにすべて新作の今回の展示では、金村修の新たな側面を発見することができるのではないでしょうか。ぜひ、ご高覧下さい。

▼作家ステイトメント
「どもりは、あともどりではない」(武満徹)。
どもりは修飾された言葉に亀裂と修復不能な断片の分節化を要求する。どもりは指示機能の役割すら棄却させ、なにも指示することのできない不能の言葉になるまで、いつまでもどもりつづける。文法に回収され骨董屋のように店先に並べ替えられる言葉の宝の山化に対して、“あ”なら“あ”、“い”なら“い”を何度もどもることで言葉を廃物屋の側に、名前も所有権も拒否した物質的は廃物屋の側に呼び戻そうとする。
どもりは言葉の遅滞化であり、海という言葉は、“う”、“み”という引き延ばされた時間のなかで、“う”、“み”という意味のない響きに解体される。海から想起されるあらゆる想像はどもりの、解体され散乱する発声の前でその行き場を失うだろう。海という言葉から連想される美しい想像を、“う”、“み”という犬が遠吠えするようなどもりによって、言葉は現実的対象とその再現という循環の回路を閉鎖され、“う”、“み”は廃物屋化された、“う”、“み”として断片的にあらわれる。
海を比類のない単純な海と書いたデュラスの海は、イメージの代理物としての海ではなく、代理関係を放棄した物質的言語としての海であり、海からイメージと観念を追放するために「Body&Soul」のサビのフレーズをつたなく何度も弾きなおすユージン・チャンドラーの脱臼したギターと同様に、吃音者は何度も同じように、なぞるようにどもるだろう。
どもることは言葉を連ねる循環回路の積極的な失調、恐慌であり、ヒンデンブルク・オーメンの出現を期待する、恐慌の肯定として言葉はどもられる。
どもるとは言葉の廃墟化であり、朽ちていく言葉はなにも語らない。役割を放棄され棄却された亡骸のような言葉に吃音者は恋をする。言葉の廃墟を促進するどもりだけが、言葉を物質の現場に連れて行き、吃音だけが言葉の亡骸まで行くことができる。
どもることは発声と対象のあいだで溺れつづけ永遠に対象に辿りつかない溺死直前の状態であり、永遠に対象と出会うことができない。
恐慌は循環回路のあちこちに障害物を出現させ、それは恋愛のようにいつまでも障害物の壁に平行線のように立ち続けることを強制する。
恐慌的恋愛下の二人は決して出会わない。出会わないからこそ、出会いという出来事は持続される。分離と解体は恋愛を成就の結果として固着させるのではなく、生成の進行形として遂行させるのなら、恋愛は彼我の合一の禁止としてあらわれるだろう。成就された恋愛は他者が喪失された自意識の内部に閉塞された状態であり、他者のいない自己のなかに回収された恋愛は、いったい恋愛と呼ばれるのだろうか。
恋愛はあらゆるオルガスムスを否定する。到達点はつねに一人のものであり、到達点を二人で分け合うことの不可能性。オルガスムスは自意識の球体に拘束された主体の肯定であり、恋愛は主体の球体に他者を閉じ込めるのではなく、主体の球体を破裂させ、主体の機能停止、主体の恐慌状態を積極的に促進することが恋愛の吃音化を押し進めるだろう。
恋愛において快楽の極北を求めることは放棄される。快楽は個別的所有に回帰されるブルジョワ的形態であり、恋愛のプロレタリアートは私的所有制度としての快楽の廃止を訴え、オルガスムスを廃棄し無限の持続として、決して頂点で交わることのない平行線のような快楽が称揚される。渾然一体化した恋愛ではなく、平行線の恋愛、交わることのない恋愛。恋愛は恋する対象との出会いではない。出会いを成立させない隔離された壁こそが恋愛であり、壁の溶解ではなく、いたるところに壁を建築することが恋愛の本質なのだ。
恐慌を肯定することは主体を根拠づける記憶の保存、生産と維持の機能を脱落させることであり、主体の機能停止を積極的に担う恐慌的恋愛はスターリンの民族移動政策のように記憶を強制的に忘却させる。記憶を棄却された主体はなにものでもない、まるで誰かの排泄物のようであり、世界から排出された受動としてのわたし達は排泄物のように生き、排泄物のように死んでいく。どもることの果てに発見される物質としての言葉は誰かの排泄物であり、それは誰の排泄物であろうともうどうでもいいことだ。
アルバート・アイラーのでたらめな童謡のようなメロディーは肛門性欲期のような音楽を想起させる。肛門性欲期のアイラーは脱糞の快楽と他者としてあらわれる排泄物への執着と恋愛感情であり、メロディーの解体の果てでアイラーは排泄物化された音楽にもう一度恋をするだろう。それは排泄物という産みだされたものを、もう一度自己に一体化させる作業ではなく、誰のものでもない排泄物と共に、なにも理解しないまま生きることであり、統合不能な自己を永遠の平行線のまま統合不能として生きることをアイラーは要求する。
恋愛下の二人にとって断片的にどもられる言葉の数々はどんな予兆にも解釈できる星座のようなものだ。世界はアナロジーで結びつき、どんな想像も許容する幸せな暗号に変貌する。けれど吃音的恋愛は、アンソニー・プランクトンのサックスのように予兆や希望を物質の無関心へ変質させていくだろう。アナロジーは断ち切られ、出会えないことで予兆と期待と失望が永遠の平行線のまま重なりあうことがなく、犬の排泄物のようにあちこちに点々としている。
1929年の暗黒の木曜日は紙幣が意味のない排泄物のような白い紙束であることを暴露したように、恐慌は宝の山としての紙幣を廃物屋のがらくたに転化する。恋愛は宝の山ではなく、がらくたになった廃物に恋をすることであり、価値を失った白い紙束としての紙幣に熱烈に恋をする。金村修

▼展示内容/photographers’ gallery/ゼラチンシルバープリント、508×610mm、約100点、KULA PHOTO GALLERY/「No room for squares」 映像作品2本、カラー、各約15分

▼トークイベント
展覧会会場にて本展作家とゲストによる対談を開催いたします。
*『どもりは、あともどりではない』 金村修×倉石信乃(写真史・明治大学教授)
*7月26日(金)19時~(開場18:30) 料金:1000円 定員25名 要予約
予約フォーム:https://ssl.form-mailer.jp/fms/ff558e0a253726

▼ワークショップ
金村氏による参加者の作品講評を中心としたワークショップを行います。
*7月28日(日)16:00 ~19:00(休憩あり) 参加費:3000円 定員15名 要予約

予約フォーム:https://ssl.form-mailer.jp/fms/3498aeaa253735

キーワード:

金村修


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