webDICE 連載『DICE PHOTO GALLERY』 webDICE さんの新着日記 http://www.webdice.jp/dice/series/6 Mon, 16 Dec 2024 20:46:12 +0100 FeedCreator 1.7.2-ppt (info@mypapit.net) 「困難を超えた人にしか見えない景色がある」写真家・宮下マキインタビュー http://www.webdice.jp/dice/detail/2142/ Wed, 02 Dec 2009 20:37:42 +0100

1997年に第10回写真ひとつぼ展グランプリを受賞した作品「部屋と下着」でデビューしてから12年。写真家・宮下マキは、3冊目にあたる写真集「その咲きにあるもの」(河出書房新社)を出版した。乳がんを患う“洋子さん”に2年半にわたり密着して撮影したフォト・ドキュメンタリーだ。2年半に及んだ撮影について、そして彼女が追い求めるテーマについて聞いた。





「きれいな胸の状態のヌード写真を残しておきたい」という依頼を受けて



── 「乳がん」というテーマを日常的にニュースとして聞くことがありますが、ビジュアルとしてみると胸に迫るものがありました。治療の経過などを赤裸々に記録していて、まるでドキュメンタリー映画を観ているようでした。被写体となっている洋子さんとの出会いは?




通常の雑誌などの仕事の他に、個人から撮影の依頼も受けているんです。子供の1歳の誕生日にとか、ご夫婦の思い出の場所でとか、指定されて出向く。ヌードを撮るのも好きなのですが、それを知っている知人を通して、主婦である乳がん患者・洋子さんから「片方の乳房を切除しなければならないのでその前にきれいな胸の写真を残しておきたい」という依頼がきたのです。



── そういう依頼は初めて?




そうですね。基本的にはお祝いとか記念など、ハッピーな瞬間が多い。でも、今回は依頼を受ける受けないと決める前に、依頼のメールに添付されていた彼女の写真に衝撃を受けたんです。彼女が自分の子供と一緒に噴水の前で写っている写真だったんですね。満面の笑みを浮かべて笑っているというのに、私には彼女が泣いているように見えた。根拠もなく、なぜかそんな風に思ってしまった。私は人との出会いから作品を作ることが多いのですが、この人を長期に渡って撮ることになるんじゃないかという直感がこのときすでにあったんです。そして、今回の依頼撮影を受け、それでもまだ撮り続けたいと思ったら再度お願いしようと思って。そのときのヌード撮影も衝撃的だった。通常依頼の仕事の場合は、2時間とか、半日とか、時間を決めて撮影するんです。でもこのときは時間を決めず、とことん納得するまで撮りました。この時点で彼女は一週間後に手術を控えていたのですが、この人のことを追いかけてみたいなという欲求と、それがどれだけ困難なことであるかという葛藤があり、洋子さんや家族のことを思うと勇気が必要でしたが、思い切って依頼を。「あなたを撮らせてください」と。





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── そのときの洋子さんの反応は?




「それは私を撮りたいということ? それとも乳がんの私を撮りたいということ?」と言われました。すごくストレートな質問。実際そう聞きたくなる気持ちがわかる。でも、きっと彼女が乳がんでなけれ私に依頼していない。必然的に出会わなかった。その事実を受け入れて、「乳がんを抱えて生きていくあなたを撮りたいんです」と答えた。彼女の中には、戸惑いというより、撮られるからにはちゃんと向き合って欲しいという気持ちがあったのではと思う。今回は乳房ですが、失くした人の悲しみは、経験した人にしかわからないし、わかりえない。そういう喪失感がある。例えばそれが他の病気でも、または病気ではなくても、日常というものを改めて見直すということや振り返るということは、自分だってなかなかないのですが、それを彼女を通して見たかった。なので、手術して終わりではなく、むしろそこからが始まりであり、いつか彼女が新しい日常に戻っていくまで、という過程に軸を置きました。そこは最初から最後までぶれませんでした。



── 他人とは思えないほど、とてもプライベートな表情が出ています。宮下さんとの間の信頼関係から生まれるものでしょうか?




それもありますね。出会ってから本になるまで、2年半。会って撮らないこともありました。撮影するというよりは、一緒に時間を過ごして、その中で1枚だったり、100枚だったりを撮っていくという感じでした。それと大抵、すごく近くで撮っているんですよ。手術後の、号泣したり、彼女の中で葛藤や揺らぎがある中、すごく近くで。彼女が乳がんになったとき、自分と自分以外の人たちとの間に大きな溝ができてしまったようなんです。現実だけど、その新たな現実に入り込めない。決定的に自分だけが変わってしまったような気がした。でも子供たちは生きているし動いている、その現実を直視できない。私には、一緒にいる、見つめる、話しを聞く、そして待ち続ける……くらいしかできないんです。




困難を超えた人にしか見えない景色がある



── 一番印象深い一枚は?




百合の花を持ってもらっている破顔の写真ですね。あとは後半の、再建の手術が済んで新しい人工の乳房がある状態です。それは、乳がんというものを受け入れて生きていこうとしている彼女のシルエット。撮影を始めた2年半前には想像もつかなかった姿なので、ああここまできたな、と感慨深いものがありました。前を向いて歩いていこうとしている姿を見ることができたとき、この人を撮ろうと思った最初の直感は間違いじゃなかった、きっとこれが見たかったんだ、と思いました。また、ヌードで始まっているし、ヌードで終わろうと。この撮影に臨めたことはとても意味がありました。1人の女性である私と、1人の乳がんを患った洋子さん、お互いが向き合うというか見つめ合ってきた中で、私自身も日常についてすごく考えさせられた。そして困難にぶち当たっても、それを超えた人にしか見えない景色があるということを、彼女を通して見ることができました。



── お花の写真が効果的です。




彼女は花が好きで、入院していたときから、行くたびに花を持って行っていました。季節の移り変わりを表したりとか、ヌードにはガーベラをとか、花というのもひとつのテーマになっています。撮影のときには、常に花があった。そういう意味で、タイトルに使った言葉も「その先」ではなく「その咲き」。未来や希望という意味を込めました。



── 乳がんときくと暗くなりがちですが、表紙のビジュアルも明るく、最後も前向きに終わっていますね。




そうですね。最後に子供、家族の写真が入ったことがすごく良かった。最終的に彼女は、子供や家族の存在によって現実の世界に救い上げられたので、彼らの写真が最後に入ることは自分にとってもすごく意味がある。母としての顔は子供と一緒じゃなきゃ撮れないですから。



普段大切にしている中でも見落としてしまいがちなこと



── 写真集には、お子さんの絵や、お子さんと携帯で話している様子も。




子供ってちっちゃいくせに凄い力があって、その存在だけで人が生きるということ、突き動かされることがあるんだなと思いました。手紙をよく書く子供たちだったんですよ。子供たちの言葉ではっとしたり、彼女が涙を流したり。子供がいることで、明日のことを考えたり、生きていくことを考えたり。当たり前のことなのかもしれないけれど、そういう当たり前さ、普段大切にしている中でも見落としてしまいがちなことを、それを今回たまたま洋子さんという人を通して表現できたと思う。それは全く特別なことではなく、日常の中にあることだと捉えてもらえると嬉しいかな。



── これまでの作品を観ると“女性”というのがひとつのテーマになっている印象がありますが、それはありますか?




ありますあります。興味があります。ただ、単に元気がある人が女性が多いんです(笑)。その人の生き様なり、生きている過程、生活にすごく興味がある。好奇心をかきたてられますね。それと、自分が写真を撮り始めたきっかけがヌードだった。女性ならではの丸み、例えば妊婦姿の曲線などの身体のラインが好きです。



── そもそも、写真を撮り始めたきっかけは?




映画の仕事がしたくて、映画科のある短大へ進学したんです。そこで写真の授業があって撮り始めたら、自分の部屋を暗室にしてしまうくらいのめりこんで。20歳前後ですね。現像所でアルバイトをしている中で出会った師匠となる先生がヌード作品を撮る方で、その方に弟子入りさせてもらって。その後も、写真以外にしたいことがなかった。選択の余地がありませんでした。入口は映画だったので、今でも映画を撮るように写真を撮っています。しかし、大人数で制作する映画に対し、写真は被写体さえいれば何でも1人でできちゃう。そこが潔くていいなぁと。どんどん写真が好きにというよりは、とにかくたくさん撮りたいという欲望があった。被写体は人物ですね。時間があれば友人を撮っていました。その中で公募展の存在を知って、ただ撮るよりどんどん外へ出していこうと思って応募を。「ひとつぼ展」に応募したとき、入選はしたけれど公開審査でボロボロに批評された帰り、有楽町から見えた東京の街並に心を奪われました。建物がひしめきあい、部屋に灯る光はそれぞれ違っていて、あのひとつ一つの部屋の奥にはどんな住人が住んでいるんだろう、そう思ったのをきっかけに「部屋と下着」を撮ろうと思った。結局その作品で次回の「ひとつぼ展」でグランプリをとりました。だからあの時落選してなければ、「部屋と下着」は生まれていません(笑)。



── 今後もフォト・ドキュメンタリーを撮影していきますか?




「部屋と下着」のとき、100人の被写体を撮りました。それがだんだん100人の中のひとり、対ひとり一人、という撮り方になってきた。今はこういうテーマで撮りたいな、と思うものが常にあるのですが、基本的に私の写真は、人との出会いで始まっているので、そのテーマに重なる対象者が現れるまで、よく探し、よく待ちます。今は“家族”や“生”をテーマに撮影しています。撮影の仕方として、密着して撮影するのが自分らしく撮れる。個人依頼などでも、日常のワンシーンとか、またグラビアでも密着していいよと言われると楽しめる。今回の写真集の最後にある子供たちとの写真も、前の晩に泊まって撮っている。そうすることで、よそいきではない、素の顔を見ることができる。人間の内と外を撮りたい。これからも写真を撮ることを通して、内から外に変貌する瞬間とか、そんな変化を見たいと思います。


(インタビュー・文・構成:世木亜矢子)



■宮下マキ プロフィール


鹿児島市生まれ、東京在住。京都芸術短期大学映像科卒業。コマーシャルフォトスタジオKOZO入社。木村晃造に師事。1997年、ガーディアン・ガーデン第10回写真ひとつぼ展グランプリ受賞。2000年に写真集「部屋と下着」(小学館)出版。2001年は文化庁在外派遣員としてニューヨーク渡米。その他国内外で多数の個展・グループ展を開催する。2007年に写真集「short hope」(赤々舎)、2009年に写真集「その咲きにあるもの」(河出書房新社)を出版。

公式サイト



その咲きにあるものカバー_1





「その咲きにあるもの」発売中

宮下マキ著



河出書房新社

A5 96ページ

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“写真が自分の想像を超える”―『佐々木睦 写真展』16日まで http://www.webdice.jp/dice/detail/1364/ Fri, 13 Mar 2009 15:33:54 +0100

グラフィティ、フォトグラフ、メタルワークを作り続けるアーティスト集団「ESCAVAL」(エスカバル)のメンバーで、写真家の佐々木睦による3年ぶりの個展が、3月16日(月)までアップリンク・ギャラリーで開催されている。ここ最近撮影されたモノクロ写真が壁一面にぎっしりと埋め尽くされ、佐々木睦の世界観がたっぷりと味わえる。




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── 写真を撮り始めたきっかけを教えてください。



撮り始めというより、この先仕事をどうしようかなって感じでバイトしていたときに、同じバイト先に写真家の人がいて楽しそうだったんです。だから、自分もカメラマンになろうと思って、22歳の時に求人募集を探して。でも最初、間違えて映像の方にいっちゃたんですよ。まったく漠然とカメラマンになろうと思っていたので、写真と映像で全然ちがう事を知らなくて。
まぁ、これはこれでいいかなと。それで3年ぐらい経って、やっぱり写真をやりたいなと思って写真家の中川昌彦さんを紹介してもらい、弟子入りしました。それが25歳の頃です。その間にコンパクトカメラで、遊びにいった場所で適当にスナップ撮影する程度で、何となく時間が過ぎてった感じで。



── 写真のどこに魅力を感じますか?



単純に撮って現像してプリントして、本作ったり写真展したりする中で、写真が自分の想像を超えるところですね。



── 今回の個展は3年ぶりだそうですね。



今回は、ここ半年で撮った東京、北海道、アメリカ、パタヤ(タイ)の写真です。東京は日常で、北海道は墓参りに行ったとき。アメリカは友達がやっているバンド「NUMB」と「CREEPOUT」のアメリカ・ツアーに同行したとき。パタヤは年末年始に行ったときに撮りました。なので、撮影が目的で行ったというより、行く先々で出会った人や物、風景を直感や影響で撮影した断片写真を展示しています。




── 今後の予定を教えてください。



今カメラマンの友達と2人で作業場を借りていて、そこでちょっとした自分達や身近な周りの人達のエキシビジョンを出来るようにしたいと考えています。とにかく自分の写真を撮り続けていきたいので、その場所でオリジナルプリントや本やポスターを販売したり、話ができる場所にしたいですね。それが出来れば写真を撮り続けられる環境づくりになると思っています。春頃には、そこで一回目の写真展が出来ればいいですね。






佐々木睦プロフィール


1974年生まれ。写真家・中川昌彦に師事。現在フリーランスのフォトグラファーとして活動中。




『佐々木睦 写真展』


日時:2009年3月16日(月)まで

場所:アップリンク・ギャラリー(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1F)[地図]



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写真家・石田昌隆:撮り終わった後もその写真について考え続ける人が写真家なんじゃないかな http://www.webdice.jp/dice/detail/1330/ Mon, 02 Mar 2009 15:58:20 +0100

ロック、レゲエ、ヒップホップ、ジプシーなど国も人種も音楽性も様々なミュージシャンを20年以上撮りつづけている写真家・石田昌隆。

かつて撮ったミュージシャンでこの世を去った者も多い、しかしなお記憶の中で彼らは生き続けている。この状況はミュージシャンの特質を最も顕著に感じることができるのではないか、それを確かめるため石田昌隆はこの世を去ったミュージシャンに焦点を絞り写真展を企画した。タイトルは「セルジュ・ゲンスブールとジョニー・サンダースとカート・コバーンとフェラ・クティとオーガスタス・パブロとイアン・デューリーとラモーンズとジョー・ストラマーとジェイムズ・ブラウンとアルトン・エリスへのトリビュート」。3月31日までGrand Galleryにて写真展が開催されている中、石田氏に写真と音楽の関わりについて話を訊いた。



石田 昌隆

ミュージシャン・ポートレート 全10点







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── まずは今回の写真展についてお聞きします。ジャンルも国も様々なミュージシャンに実際に会って写真を撮るということは色々エピソードがありそうですね。ニルヴァーナの写真はとても印象的でした。



今回の写真展の作品でフェラ・クティ以外は、日本で撮ったんだよね。例えば、ニルヴァーナの写真は、唯一の来日公演の時に撮った写真なんだ。撮影したのは、92年2月19日。場所は、中野サンプラザの本番直前のバック・ステージ。カート・コバーンは、前々日に川崎で買ったというパジャマを着ていて、そのうえにカーディガンを羽織っていた。このままの姿でステージに上がったんだ。当時『ネヴァーマインド』(91年)はすでにブレイクしていたけど、日本ではまだまだオルタナティヴな存在だったんだよ。ちょうど時代は音楽バブルで海外の大物ミュージシャンがガンガン来日していた頃だったから、ニルヴァーナもよく来る話題のバンドのひとつに過ぎないって思われてたと思う。

ニルヴァーナは名古屋、大阪、川崎、東京でライブだったんだけど、最終日の中野サンプラザの日は、東京ドームではガンズ・アンド・ローゼスのライブだったんだ。しかも東京ドーム3日間、当時は圧倒的にガンズ人気のほうがすごかったんだよね。そっちに行ったロック・ファンのほうがずっと多くて、だから今になってニルヴァーナのライブに行っとけば良かったって言う人も多いんだよね。



NIRVANA

NIRVANA(1992年) 撮影:石田昌隆


リアルタイムで評価していた人たち、つまりライブに行った人たちですら、僕も含めてだけどニルヴァーナの本質を当時は分かってる人が少なかったと思う。僕の場合、撮る対象に対して意味が完璧に分かってからシャッターを押すということはあまりなくて、撮る段階では2割くらい、予感含めて半分くらいこの人は撮っておこうかなっていうレベルがほとんどなのね。ニルヴァーナの写真を撮った後に『インユーテロ』がでて、そのアルバム後に僕の中では彼らはミュージシャンとしてやはり凄かったという確信に変わった。



92年に来日して93年に『インユーテロ』を出して、94年4月5日にカート・コバーンは自殺してしまった。00年代になって、『ニルヴァーナ・ボックス』(04年)の中のドキュメンタリーDVDや、DVD版『アンプラグド・イン・ニューヨーク』(07年)を見てから、やっと判ったことも多いんだよね。

そもそも音楽自体が年月とともに違って聞こえてくるように、写真も年月を経るにしたがって、違って見えてくるんだよね。撮ってるミュージシャンも知り合いじゃないから一瞬の邂逅なんだけど、それで撮り終えた後に手元にフィルムなりネガなりが残るんだけど、写真はそこからがすごく長い旅が始まる。このニルヴァーナの写真のように重要な写真、10年以上生き残る写真が僕の中にあって、だから今回の写真展をしてみようと思ったわけ。



── という事は撮り終わってからその人について考えていくという事が石田さんの中では大事なんですね。



たぶん写真家と写真家じゃない人の分かれ目って、撮影技術は別に大して重要じゃなくて、撮り終わった後でその写真について考え続ける人が写真家なんじゃないかなって言っても過言じゃないと思う。



── 石田さんの写真は音楽と強く繋がってると思うのですが、その辺りの石田さんのルーツについてお聞かせいただきたいのですが。



ミュージシャンの写真の本質を語る、考えるときに、亡くなった人の写真は実はすごくいい。というのは、僕は70年代後半から写真について色々考えるようになったんだけど、当時アサヒカメラで中平卓馬が『決闘写真論』を連載していて、その中で中平卓馬は世の中の写真家の中でパリの風景写真を撮ったウジェーヌ・アッジェとアメリカ南部の農村を撮ったウォーカー・エバンスがいかに秀でてるかっていうのを書いてたんだ。



ウジェーヌ・アッジェは画家に売るための素材の参考資料を撮るという極めて職人気質の人、ウォーカー・エバンスは1929年の世界大恐慌の後の南部の貧しい村の農民を撮った写真家なんだ。だけどアッジェのパリの街の風景にしろ、エバンスのアメリカ南部の農村の写真にしろ、当初はとりあえずの目的があって写真を撮ってた、つまりアッジェが画家に売るために撮ってたとか、エバンスが恐慌の時の農民の生活をドキュメントしたりとか、だけど何十年も経過すると当初の目的よりもただ写真だけが残ってるという状況になってくる。つまり写真は撮ってから何十年も経過すると、事物としてそこにただ存在するだけという写真の強さというか凄さが浮き彫りになる。この二人の写真を中平卓馬は「饒舌の行きつく果ての沈黙」っていう表現をしたわけ。周辺の状況とか意味づけとかが忘れ去られて全部排除されて、それでも残ってる沈黙の深さが写真の本質なんじゃないかっていうのが中平卓馬の言わんとしているところなんだ。その感じは今回の写真展に繋がると思う。



── 数々のミュージシャンを撮ってきてますが、元々の写真を撮るきっかけは何なのでしょうか。今のスタイルのように音楽、ミュージシャンに興味をもって写真を撮りはじめたんですか?



僕らの中学高校の頃は写真を撮るといえば鉄道写真か天体写真しかなかった。その後に写真雑誌の『キャパ』が創刊されてから、望遠レンズでアイドルを撮るって文化が生まれたんだけど、僕は元々鉄道写真派だったんだ。でも、写真を撮るために人間をやってるという意識は10代の頃からはっきりあった。1975年に蒸気機関車がなくなっちゃって、その後に電車の写真も撮ったけど、やっぱり蒸気機関車のほうがおもしろくて外国で撮るしかないなと思い始めて、インドの蒸気機関車を調べ始めていくうちに藤原新也さんの写真に出会った。その凄さに気づき写真全般に興味を持ち始めたんだよね。それでインドに7か月くらい行って。でも、インドに行って藤原新也の真似事みたいなのをやるともうね、手遅れだということがすごくよくわかった。



── どういう点で手遅れだったんですか?



写真のうまさがかなわないとか、そういう以前に藤原新也は1969年に初めてインドに行って2回目が1971年、つまりヒッピーとかフラワームーブメントの後にインドに行くかシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに行くか、そのタイムリーな中で藤原新也はインドに行く必然性を持って行ってる。だから単に写真が全然かなわないとかじゃなくて時間的に手遅れだと思った。

それで大学に入ってボブ・マーリィを知り、色々コンサート観にいったりするうちに、今撮るべき場所はどこかって考えたらジャマイカしかなかった。ジャマイカ行って音楽関係の写真をとってるうちに気づいたら音楽写真家になってたってんだよね。



── その時のタイミングは重要ですね。



写真はタイミングの問題がすごく多くて、僕がインドに行ってすごい手遅れだと思ったし、帰国してニューヨークに今から行っても手遅れだろうとその時は思った。ニューヨークについてはブルース・ダヴィッドソンの『East 100th Street』(70年)という写真集を70年代後半に初めて見て、ものすごい衝撃を受けた。60年代のニューヨーク、イースト・ハーレムのアパートに住む黒人とヒスパニックの人たちを大型カメラで撮ったモノクロ写真による作品集なんだけど、ハーレムに住む黒人とヒスパニックの家を一軒一軒ノックして訪ね、撮らせてくれって頼んでOKだったらカメラをセットして、ぼろいセットなんだけど写真がすごくかっこよくて。これを見たら60年代のニューヨークがすごすぎて80年のニューヨークは腑抜けで終わってるっ思っちゃってた。実は終わってないって後から気付くんだけど。



── 石田さんが惹かれる写真には何か特徴があるんですか?



僕が惹かれる写真はブルース・ダヴィッドソンにしてもそうだけど、基本的に有名人が写ってないんだよね。有名人が写ってると、みせびらかす感じでかっこわるかったし、有名人が持ってる業績とか人気に写真が引きずられるような気がしたんだ。だけど無名の人たちの写真を撮ると、その向こうに見える土地の景色とか匂いとか気配とか空気感が出るから、写真としては正しいと思ってた。だからジャマイカに行った時もミュージシャンの写真を撮るとは全く考えてなくて、むしろ町のかっこいい兄ちゃんを撮ろうと思ってたんだけど・・・



── それでジャマイカでは何を撮ったんですか?



ジャマイカ行ったらその頃はまだ日本人もほとんどいなくて、ニコンの一眼レンズを2台持ってるってだけですごいプロが来たって思われたんだよね。それでレゲエが好きだって言ったら、ミュージシャンの写真が成り行き上たくさん撮れちゃったんだよね。



── そのうちのひとりがオーガスタス・パブロだったんですか?



そう。その頃からオーガスタス・パブロがすごい好きだったから撮らせてくださいってお願いしたら、向こうは日本からジャーナリストが俺の取材に来たって思って、サンプルレコードだしてきて思いっきりプロモーショントークをはじめたの。その当時素人の僕に(笑)。だからただのファンですって言えなくなっちゃって(笑)。



AUGUSTUS_PABLO

AUGUSTUS PABLO(1986年) 撮影:石田昌隆


── ジャマイカに行って撮ったオーガスタス・パブロの写真はどこかに売り込みに行ったんですか?



東京もまだクラブ文化がない時代で、当時東京でレゲエが聴けたのは渋谷の百軒店にあった「ブラック・ホーク」っていう店だけだった。そこはいわゆる昔のロック喫茶的な作りのお店で、踊れる店というよりは、黙って聴きながらコーヒーを啜ってるって感じの店なんだけど、そこしかレゲエを聴ける店がなかったから当時のレゲエ評論家たちは全員そこにちょくちょく来ていたんだ。だから帰国してジャマイカの写真を見せびらかしに行くのはそこしか思いつかなかった(笑)。音楽雑誌に売り込みに行くのは全然その頃思いつかなかったな。写真見せたら店の人に「すごいね兄ちゃん、オーガスタス・パブロ撮ったんだ」って言われて、その店が作ってた『レゲエマガジン』になる前身の『サウンドシステム』って雑誌に掲載してもらえることになって、またちょうどその時に『ラティーナ』の編集者にもその店で会って、「おもしろいね。うちでもやってよ」ていう話になって…



── すごい勢いで繋がっていきますね。



当時の一般誌もちょこちょこレゲエ特集を組みはじめた頃で、そういう雑誌の人も写真とか文章書ける人を探しにブラックホークに来てたんだよね。書く人は何人かいたんだけど、写真持ってる人があまりいなくて、僕のところに依頼が来るようになって、『ポパイ』や『ホット・ドッグ・プレス』に写真がでるようになってきて、その後はミュージシャン以外の写真やラーメン屋の写真とかも仕事としてとれるようになっていった。



── 学生時代にジャマイカに行って、仕事も舞い込むようになったということは普通の学生のように就職活動はされてないんですか?



僕が通ってた大学は行っても行かなくても年間の授業料が96,000円だったから、中退しないで、7年間大学に通った。この一連の出来事は学生時代に起きちゃったから、第一希望は無職っていってたね。だからいわゆる企業に就職するというのは一度もしてないんだよね。



── ジャマイカへ行って以来、色々な場所で色々な音楽を現地で触れてきたんですか?



80年代のニューヨークも本当は終わってなかったし、実はめちゃくちゃおもしろかった。「パラダイスガラージ」ではラリー・レバンがDJやってて、それが後のハウスミュージックに繋がっていって、まさに一番いい時期。ニューヨークのSOHOのすみっこの倉庫のようなクラブでそういうことが実は起こってた。でも僕は完全に見過ごしてた。だからリアルタイムで体感するのは凄く難しい。



84年にロンドンに行ったときもジャマイカ系移民がロンドンで相当おもしろいことをしてるってのはわかってたんだけど、まさかブリストルでブリストルサウンドのもとになるようなワイルドバンチ(マッシブ・アタックの前身)なんかが路上でDJしてるなんてわかんなかった。だから色んなとこで色んなものを見逃してると思う。100回のうちの10回のチャンスをものにすればいいほうだよね。ライターは8割方理解しないと文章書けないけど、写真のいいとこは1~2割の理解で着手できるってとこなんだよね、だから僕はいろんなジャンルのミュージシャンを撮ってるけど、ライターとしてこれだけ広範囲にフォローするのは僕には不可能だよね。



『ミュージックマガジン』で長年連載をしているのが僕の中で大きいんだけど、もし僕がライター専門だったら今みたいにはなってない。レゲエの写真みせて次にきた仕事がエコー&ザ・バーニーメンを撮る仕事だった。その時はニューウェーブも全く知らないし、エコー&ザ・バーニーメンの「エ」の字も知らなかった、だから2割どころかゼロだよ。たまたま頼まれて行ったらおもしろくて、目を見開かされたことも沢山ある。それこそライターじゃ味わえない写真家ならではの楽しみだよね。








■石田昌隆(いしだ・まさたか)PROFILE


フォトグラファー。1958年千葉県生まれ。千葉大学工学部画像工学科卒。著書は『黒いグルーヴ』(青弓社)。共著は『Ruffn' Tuff』(リットー・ミュージック)ほか。現在『ミュージック・マガジン』誌に「音楽の発火点」を連載中。CDのジャケット撮影は、Relaxin' With Lovers、ジャネット・ケイ、ガーネット・シルク、ジェーン・バーキン、タラフ・ドゥ・ハイドゥークス、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、フェイ・ウォン、矢沢永吉、ソウルフラワーユニオン、ズボンズ、カーネーション、H-MANほか多数。映画『ジプシー・キャラバン』の劇場パンフレットにジプシーミュージシャンの写真と解説文を提供。

公式サイト






写真展タイトル


石田昌隆写真展 開催中




「セルジュ・ゲンスブールとジョニー・サンダースとカート・コバーンとフェラ・クティとオーガスタス・パブロとイアン・デューリーとラモーンズとジョー・ストラマーとジェイムズ・ブラウンとアルトン・エリスへのトリビュート」




会場:Grand Gallery[googlemaps:東京都渋谷区宇田川町36-4 豊田ビル4F]

(東京都渋谷区宇田川町36-4 豊田ビル4F)

期間:2009年3月31日(火)まで 13:00~20:00

休館日:毎週水・木曜日

ギャラリーへのアクセス





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éclipser─光と影の聖地パレスチナ:写真家・村田信一氏によるスライドトーク・イベントレポート http://www.webdice.jp/dice/detail/1023/ Fri, 24 Oct 2008 16:40:52 +0100

元々は10年以上に渡りパレスチナを含む世界の紛争地帯でショッキングな報道写真を撮っていた村田さんは、ある時期から紛争とは程遠いような美しい写真を撮り始める。しかし写真を撮っている土地は変わってはいない。
パレスチナで紛争が起こっていることは紛れもない事実だが、その報道の過熱ぶりにより、パレスチナ=紛争地帯というステレオタイプなイメージが世界的に定着したのも事実だろう。
村田さんの写真が変わり始めたのは、そういう状況に疑問を抱き始めてからであり、その写真は戦地を写しながらも、地獄とも楽園とも異なる、不思議な旅情に満ちたパレスチナの情景である。



映画の上映が終わると村田さんが登場し、ついさっきまで市民の怒号や銃声が絶えない様な紛争の映像が映し出されていたスクリーンにうって変わって静かで美しいパレスチナのイメージが映し出された。それにあわせ、時折村田さんの朗読が重なる。
以下に当日配布されたテキストと写真の一部を掲載。







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光と影の聖地パレスチナによせて



パレスチナに関する報道。その映像、写真、記事、人々の脳裏に植え付けられたイマージュ。それらは多くが戦争、紛争に関係するものであり、死、哀しみ、憎悪に関係づけられたものである。そして、多くの人々が、少なからずそれを鵜呑みにしてしまっている現実があるように思う。



しかし、それらの事実がありながらも、やはりパレスチナ(国家や人種などを特定するものではない、歴史的な呼び名としてのパレスチナ)は、圧倒的な聖地であり、圧倒的な歴史とそこから迸る未来が約束された地でもある。表現を変えれば、だからこそこれほどの紛争地と化しているのであり、多くの人々の苦しみや困難が長い間続いているのだともいえるかもしれない。長い間というのは、現在のいわゆるパレスチナ問題に留まらず、有史以来の幾多の戦乱のことであり、現在の紛争もその流れの中のひとつに過ぎない。



もちろん、当事者としての人々の苦しみや苦悩は、私たちの想像を絶する次元にあり、またそれは私たちが安易に共感したり、同情したりといったことを超えた極みにある。
では、パレスチナやその他の世界の場所を訪ねて、そこで何らかのイマジネーションやインスピレーションを得た私たちが出来うることは何なのか。そして、表現者としての私たちにもし何らかの義務があるとすれば、どういう表現をして、人々に伝えていけばいいのだろう。誰もが問いつけられる命題に、私も何度も突き当たり、現場で身動きが出来なくなることもしばしばあった。



今回のスライドトークは、そういう中から生み出された答えに至る過程である。もちろん、完全なる完成というのはあり得ず、自分がどこまで見通し、写真として表現できうるかという果てしなき道のりでもある。しかし、目の前のセンセーショナルな情勢に惑わされずに、長い時間をかけてこの地に漂い続ける、ある同じ感覚、匂い、人々の記憶に擦り込まれた慣習、そして未来へと同じように続いていくそれらを、ささやかながら私も感じて、それを表現していけたら素晴らしいことだと思う。その感覚を少しでも多くの人と共有できるとき、現代社会に表出している多くの問題も、自ずから霧散していくだろうから。



── 2008年10月19日 村田信一









また村田さんは写真だけではなく映像表現も試みており、その一部は下記のサイトで見られる。ニュースで見るパレスチナとは違う、また別の表情をしたパレスチナを見て頂きたい。

TRAVEL OVER THE SACRED GROUND #01

写真家・村田信一 聖なる道を辿る旅 プロローグ - GHTV


http://www.groovinhigh.tv/video/murata001







村田信一 プロフィール


村田信一 : ガザビーチ


1990年以来、ドキュメンタリー写真家としてパレスチナ、ソマリア、ボスニア、チェチェン、アルジェリア、コンゴ、ルワンダ、ブルンジ、コソボ、イラク、レバノン、シエラレオネなど戦場を主に撮影。最近では、戦場だけではなく、スイスやハワイでも撮影し、広い意味での旅的な写真にも取り組んでいる。いわゆる戦争報道やフォトジャーナリズムとは一線を画した新たな表現を志向するとともに、戦争報道にとどまらないより本質を表す表現を追求している。近著に「バグダッドブルー」(講談社刊2004年)。2009年2月にコニカミノルタプラザで写真展開催予定。



公式サイト

http://web.mac.com/shmurat/














DVD情報




DVD『1000の言葉よりも ─報道写真家ジブ・コーレン』



2008年11月7日(金)発売

価格 : 3,990円(税込)

監督 : ソロ・アビタル

出演 : ジブ・コーレン、他

購入はコチラ



果てしなく続くパレスチナ問題。その最前線でシャッターを切り続ける、戦場カメラマン、ジブ・コーレンの生き様に迫るドキュメンタリー!








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家族の様子を赤裸々に撮った写真家・殿村任香 http://www.webdice.jp/dice/detail/984/ Tue, 14 Oct 2008 13:53:28 +0100

家族の赤裸々な日常生活を撮影し、一連の人間ドラマに仕立て上げてしまう若手写真家・殿村任香。全て計算されたような構成だが、一切の演出もなく彼女の表現に対する渇望と家族との絆が偶然を超えた物語に仕立てる。写真家・荒木経惟に「写真界に現れた黒女豹」と評された殿村任香が、今年10月初旬に初の写真集『母恋 ハハ・ラブ』(赤々舎)を出版した。彼女の写真に対する姿勢、家族について聞いてみた。



殿村 任香

写真集『母恋 ハハ・ラブ』より 全10点

















祖父が戦時中に使ってたカメラが押入れからポーンと飛んできたんです。



── 写真家になろうと思ったきっかけを教えてください。


今でも写真家という意識は全くないんですけど(笑)。専門学校の放送映画学科にいた頃、8ミリカメラでずっと家族を撮ってました。ある日、パタッと何もできなくなって、しばらく毎日七転八倒、何をしていいかわからない状態が続いてたんです。卒業制作で撮ったものが、自分のなかで「ああもういい」みたいなところがあって。



── その映像自体に?


いえ、一段落ついた10代の特有な感覚、つまり憑き物が落ちた様な状態になった時に、何もできなくなってしまったんです。でも、ある日突然、何かしたいけど何も出来ない時に、祖父が戦時中に使ってたカメラが押入れからポーンと飛んできたんです。



── 信じられないような話ですね(笑)。


信じてもらえないと思うんですけど、本当にポーンと。で、「なんじゃこれ」と思って「そうか、カメラって手があるなー」と。その頃、母の体にあった傷跡が格好いいと思っていたので、それを撮ろうと思って。最初に撮るヌードは絶対に母がいいと思っていました。



── それはなぜですか?


漠然と女を撮りたいと思っていて。それは映像でもどちらでもよかったんですけど、写真は写真屋さんに出せばすぐ見れるじゃないですか。とにかく飢えてる状態だったから、早く自分の中のものを形で見たかったんです。それが、写真だったんです。で、台所の前で撮らしてもらったのが1番初めに撮ったものです。



写真にいつも教えられます。



── 『母恋 ハハ・ラブ』の中の写真で、キッチンの壁に「我が家の幸い家庭」という貼り紙があってインパクトありましたね。


これは母が知り合いの人から「こう書いてれば幸せになれる」って言われて貼ったんです。



── 演出ではないんですね。


ええ、もともと貼ってあったものです。そこから私が題名を頂いただけです。これを撮ったのが2002年ぐらいで、その後に「我が家の幸い家庭」(2004年個展)になるんですが、自分の中ではここがリンクしていています。「我が家の幸い家庭」を映像にたとえるなら、冒頭のシーンのようなものです。全てはここから始まったんです。



── 「我が家の幸い家庭」は、撮る前からずっと思い描いてたんですか?


いえ、全く思ってなかったです。たまたま事件が起こると、撮っていましたね。それで、撮った順番に並べていくんですが、写真が「こっちこっち」という感じで私を呼ぶんです。それで題名を考える時に、「これは外せないなぁ」と思って撮った写真を見たら、「我が家の幸い家庭」って書いてあることに気づいて「これだー!」と思って。



── 偶然がうまくタイトルに結びついたんですね。


でも、私が気づかなかっただけで決められていたことだろうと思います。写真にいつも教えられます。それから、タイトルの後に副題で母のなんちゃって俳句を付けたんです。「その時は、死んでもいいと思ったよ」ってつけたら、なんて素晴らしいんだって思いました。



── お話を聞いていると、写真と映像がつながっているような感じがします。もともと映画は好きなんですか?


はい。映画キチガイと言っていいくらいです。学生の頃は、実験映画や寺山修司、デレク・ジャーマンが大好きでした。やっぱり、映像は自分にとって大事なものですね。でも、写真が映像を超える瞬間を見てしまってからは、写真の凄さに気づいたんです。



── それは自分の作品で?


いえ、違います。私が本当にすごいと思う方の写真です。すごい瞬間を目撃したんです。それで、あたしは間違ってるけど、間違ってないっていうふうに思えたんです。



── 殿村さんの写真は真面目に撮られてる半面、いい意味で遊んでるような感じがしますね。


「我が家の幸い家庭」の時は、1枚1枚の重要性なんて全く関係ないし「とりあえず撮ろう」と思って撮ってました。今から考えると、写真で映画をしようとしていたんだろうと思います。やっぱり、生理的に気持ちいいんです。間合いとか、文章で言う行間みたいなところが、映像でも入れられるんです。聞こえる音ではなくて、映像が流れて「ウン、タタタタン」みたいな感じで流れる自分のリズムがあって、気持ちいい音のリズムなんです。それを写真でやろうとしてるんです。『母恋 ハハ・ラブ』に関しては少し違いますけど。




── 今回の『母恋 ハハ・ラブ』はスキャンダラスな内容がありますが、周りの反響はいかがですか?


とても冷ややかなものでしたけど、出来事が面白いという方向にとられるのでその辺は気にしてません。それは当たり前のことだと思うので。その点を通り越して見てくれる人がいると、本当に有難いと思います。



── とにかく面白い絵を撮ろうとしたのですか?


あまり考えてないですけど、後から見るとそうかもしれません。撮っている最中はこうやりたいとかは全く考えませんが、編集作業は常に頭でしながら撮影はしています。



── 技術的な意識はなくとも、次々にストーリーができてるということですか?


そうですね。自分の中で一連の私小説、物語はできていて。そこに、はめこんでいく作業ですかね。でも、それもあとから考えれば、です。



こうしたいんじゃなくて、撮らせていただくっていう側です。



── 写真集は、写真の色にもこだわってるようですが。


手焼きなんですけど、闇のようなぬめる黒にしたくて。黒光りするような黒さだけど光る、深紅の漆のような黒にしたかったんです。



── 撮影中、気をつけていることや被写体のこの部分を撮りたいっていう意識はありますか?


撮りたい部分というよりも、そこにいるものが返してくるものを私が受け入れて返すだけ、という作業です。こうしたいんじゃなくて、撮らせていただくっていう側です。向こうが表現していることを、私が代わりに媒体となって撮ると思っています。



── それは受動的なようで能動的な、その人が持っているものを見つけて自分なりに表現しているということでしょうか?


そこで受け取って返してという作業の中で、やっぱりぶつかる瞬間がないと全然よくない写真になってしまいます。ガチっとくる。私もその分、返すっていうことです。



── では、いい写真が撮れた時は、ぶつかってるっていうような感覚があるんでしょうか?


そうなんですかね。やっぱりその時間の生を、瞬時に受け取る側なので、そういうことかもしれません。



── 生活や人に密着した写真を撮られてますが、それはなぜですか?


それしかできないから(笑)。



── そこに心が動かされるからでしょうか。


やっぱり人、特に家族が一番血が濃いですから。一番興奮しますし、一番冷静な部分を通り越したものが存在すると思うんです。



── 写真を撮ることによって、殿村さんは何を求めてるんでしょうか?


それが分かったらもう辞めていると思います。こんなしんどいこと、もうやりたくないですし。



── 今も探し求めてるということでしょうか。


探し求めてるというよりは、欲しいもの、その場に欲しくてたまらないもの。自分のものにならないのなら、せめて写真の中で殺してしまいたいくらいの欲求でやっています。そして生き返らせて、仮死状態にしてという作業を繰り返して。探し求めるという感覚ではなく、確かめたいのかもしれません。



── それが「創作活動=写真」の原動力ですか?


わからないですけど、なにか分からないものが私をそうさせているってことかもしれません。



(取材:山口生人)






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■殿村任香(とのむら・ひでか)プロフィール


1979年神戸生まれ。2000年ビジュアルアーツ専門学校 放送・映画学科卒業。2002年より写真を撮り始め、2003年初個展「渦」開催。以降、2004年個展「我家の辛い家庭-その時は、死んでもいいと思ったよ-」(新宿・大阪ニコンサロン)、「殿村任香写映劇」(アップリンク・ファクトリー)、2005年「殿村任香写映劇-〇三〇五-」(アップリンク・ギャラリー)、2007年「ビバ・ホステスライフ」(歌舞伎町クラブ銀子)。2008年9月中旬に初写真集『母恋 ハハ・ラブ』を赤々舎より発売。



画像 : 初写真集『母恋 ハハ・ラブ』



【関連リンク】

殿村任香 公式サイト

写真集『母恋 ハハ・ラブ』赤々舎ページ(先行購入可能)









イベント情報



殿村任香×コザック前田(ガガガSP) トークショー


日時 : 2008年11月6日(木)19:00~

場所 : タワーレコード新宿店10F [googlemaps:東京都新宿区新宿3-37-1]



殿村任香×ハービー・山口 スライドトークショー


日時 : 2008年11月8日(土)19:00~

場所 : 青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山 [googlemaps:東京都渋谷区神宮前 5-53-67]

http://www.aoyamabc.co.jp/45/45210/



殿村任香×櫻田宗久 スライドトークショー


日時 : 2008年11月11日(火)時間未定

場所 : 恵比寿 Bar エンククイ [googlemaps:東京都渋谷区恵比寿1-8-7三恵8ビル1F]

http://entkukui.jp


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【DICE PHOTO GALLERY】“チカーノ・ギャング”を撮影した写真家名越啓介の視点とは? http://www.webdice.jp/dice/detail/755/ Sat, 23 Aug 2008 21:58:21 +0100

撮り手の存在感を消して、限りなく被写体に近づき、撮影する写真家。実際に被写体の人々と寝食をともにして撮る。だからその表情、背景は圧倒的なリアル感で迫ってくる。2000年世界中のストリートを鮮やかに捉えた『EXCUSE ME』を発表した彼が、アメリカで最も恐れられているチカーノ・ギャングを被写体に選びこの度、写真集『CHICANO』(東京キララ社)を発表した。リアルであるが、その手法はいつも同じではなく、その場の状況で変幻自在に撮影する。
その辺のことを中心に写真家名越啓介に話を聞いてみた。



名越 啓介

写真集『CHICANO』、『EXCUSE ME』より 全13点




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―写真家になろうとしたきっかけを教えてください。


10代で旅に出る時、たまたま知り合いからカメラを貰いました。旅の途中、サンフランシスコで、スクワッターと知り合ったんです。不法占拠者の集まりに入って行って。「なんだ、こいつら」みたいな感じで初めは見ていたんですが、気付いたらチョコチョコ撮ってたのがきっかけです。



―スクワッターに何か共感するものがあったからですか?


そうですね。今まで日本では見たこともなかったですから。それで何年後かにそこへ行った時に、一緒に生活しながら、ごみ漁ったり、飯を食ったりしてて、なんか楽しかった。2ヶ月くらい一緒に生活してましたね。



―最近、日本人はもとより観光客もめったによりつかないロサンゼルスのギャングのいる地域へ行ってチカーノギャングを撮影されてましたが、どんなきっかけで行かれたんですか?行かれたのは、ロサンゼルスだけですか?



ロサンゼルスとサンディエゴ、ティファナの主に3ヶ所ですね。経緯は釣崎さんから初め「チカーノに興味ない?」と言われ、それから出版社の東京キララ社の方を紹介されました。
本当は、「ムービーを撮って欲しい」という話で、写真集を出すことなんか予定になかったんです。でも、興味があったから初めは自費で行ったんです。
実際、今までチカーノを紹介する物もなかったし、大分ハードコアだとは思ったんですけど。
実際行ってみて、みんなちょっと正統派というか真面目だなと思いました。
ファンキーな部分とかはあまりなくて、今まで追いかけたものは屑みたいな(笑)、どうしようもない人ばっかりだったけど、あの人たちはキチンとしてるし、メキシコ系という影の部分があって、どこまでいけるか分からなかったんですが。
一人で行ってた時に段々打ち解けたからよかったんですけど。



CHICANO cover


―チカーノの撮影中、あちらサイドの抗争があって撮影場所が大変な事態になってしまった時でも名越さんだけは机の上に立って、そのシーンを撮っていたとお聞きしてます。いつでも、カメラマンとしての使命感が無意識に働くのですか?それとも、怖いけど撮らなくてはというような使命感で撮影されるのですか。



はい、そんなこともありましたね。
それは、あんまり刺されたとか伝えるべきことではなかったんですけど、全体の一冊の表現の中で強弱が欲しくて。あまりにも平坦になったり、反対に人間臭くなるとそれはそれで違うし、やっぱり現実だったので。
一番リアルだと思ったのが、周りにいる人たちは目の前で刺されても普通で、ああ、またかみたいな対応の仕方っていうか。ああいうのも結構、撮影したかったんですけどね。



『CHICANO』¥3,500+税(東京キララ社)


―その時の撮影は無意識で?


いや、もちろん怖いですよ。興奮して撮ってるわけじゃなくて。
ああいう事態になったら色んな人の表情が見えるから。
まあ、刺されたことがどうとかじゃなくて。
撮るの怖いけど、まあ、空気になりながら、移動しながらススッと。
パッパッパと撮って。その辺は逃げ足は速いんで、自信はあるんですけど。
こういうことは今まで培ってきたから。








―そういう時もイメージを沸かすんですか?


思ってても、撮ってるときはスポーンと飛んじゃってるから。
悲惨なとこはあんまり撮りたくないっていうのはあります。
そこは、リアリティあるものが必要かなって思ったし、チカーノのイメージが悪くなってもいけないんですけど、日常に起こったっていうのは、リアルに一杯あるので。
スクワッターの撮影してた時、友達が死んじゃったことがあって、色々知り合ってるけど、泣くわけでもないし、客観的にも見れないし、この距離感は計れませんね。
今回は、野球のスタンドだったら、外野席の奥の方から見てる感じでわざと傍観者的な視点で撮ってたから。



―名越さんのスタイルは被写体に身も心も近づいて撮られるようですが、今回チカーノの撮影も同じスタイルだったのですか?



いや、今回は同じスタイルで撮ってないですね。
ある程度の距離感じゃないと撮れないと思いました。
アジアのストリートギャングみたいな奴はなかなか心を開いてくれないけど、一緒に転がっていたらなんとかなるんです。
けど、チカーノは組織もあるし、カッチリしてますし。一回信用されると仲良くさせしてもらえたりしたんです。
先日、撮影に協力してくれたチカーノ達が日本に来たんですが、「写真集おめでとう」って言ってくれたり、仲良くしてくれたんです。
自分はギャングじゃないから、一枚の写真として、今回は勝負したいなと。そこのところはカッチリ決めて、撮影したっていうのもありますね。



―テーマは撮影に行くまえから決めてるんですか?



いや、いつも現地に行ってからですよ。
現場はセッティングされてないので、
どう作っていこうか考えますが、作りこみ過ぎるとその人たちが映ってないから難しいんですが。



―今回の『CHICANO』を見ていると、もちろん危険な写真もありますが、ギャングとか危険な人とかいうより、人間の触れ合いと絆や背景が浮かびあってくる気がします。それは、現場で人の生き様や背景とかを感じて?



題材はチカーノだったけど、10代の若者だったり、ギャングのボスにも家族がいたりして、日曜はどんな生活してんのかなとか考えると、ギャングという見方はやめて単純に一人の人として見ていました。
一瞬の光の部分を撮ろうと思ったんです。今回出会った人たちは、ギャングだったから、格好よく撮るというか、なんていうのかな、彼等の魅力が伝わったらいいと思って撮ったのはあります。



―このソファでくつろいでいる写真とか哀愁が漂ってますね。


その写真はどうしても入れたかったんです。はじめ、省かれちゃったんですよ。
けど、やっぱり何人か日本人でもずっとチカーノの所で生活してた人がいるんですが、編集の林さんが、そういう人に見せに行ってくれて。
やっぱり出てくる車であったりとか細かい刺青のディテールってわからないじゃないですか。
プロデューサーのKEIさんとは別の人で10年位チカーノと一緒に居た人がいて、その人に見せに行ってくれたら、これだけリラックスした表情は見たことがないから、やっぱりこれも入れようってことになって。意外とみんな、格好つけたりとか構えちゃうんですよ。
普段ビシッとしてるからだけど。でも、夜になるとみんなだらしなくなっていったりとかして。これは、その極地ですね。



―今までの中で気に入った作品は?


完全に満足はしてないですけど、スクワッターですかね。
一番最初に撮ったスクワッターのやつは頭にも残っているし、いいのが撮れたかな、みたいな。




―スクワッターは初めて撮った対象ということで、今後も撮り続けていくのですか?


一番始めのきっかけだし、一番いい写真だった気がします。
あのスタイルが結構基本になってます。
6年ぐらいずっと追いかけてたからっていうのもある。それも、ビームスギャラリーで発表しました。



―ビームスギャラリーで展示されていたのは、先程おっしゃった亡くなられた方の写真ですか。あれはどこですか?


そうです。あれは、ロサンゼルスですね。

―撮影に行く先々で色々なトラブル(韓国、ロサンゼルスでの事件)が起きているようですが、どうしてなんでですかね。



はは。いやあ、なんかトラブルをは呼んじゃうんですよね。ひどい目には合わないですけど。
沖縄に行った時も軟禁されたり。チカーノの時もいっぱい人がいる中で人が刺されて、パターンパタンて倒れて、俺酔っ払ってるのかな、みたいな。近くで人が血噴き出してるし。
なんか韓国の時も僕が乗ってたバイクだけ、カブで。。。置いていかれて、挙句の果てタクシーに絡まれて、警察に捕まって。。。。
でも、やっぱりトラブルに巻き込まれれば、巻き込まれるだけネタ的にはおもしろいですよね。笑いに出来るっていうか。
チカーノに刺されたっていうのは笑いにならないですけど。



―やっぱり被写体に近づいて撮るから?


それもあると思いますね。時間かかるんですよね。
空気になるっていうか存在感ゼロで。誰かを撮影するってことになった時には、意識されると駄目なんで、存在感ある人とか、俺はこうで、こういうの撮りたいって構えられると大変なことになると思うんです。
サーってフェイドアウトできたらドキュメンタリーとしてはいいのが撮れるんじゃないですかね。



―そういうスタイルは『CHICANO』の時も同じような?


そうですね、一人で行く時は、いつものスタイルでやりながら、今までにない写真の表現方法をちょっと変えて。



―写真集や個展の時はそのためにテーマを決めますか?


それは、全然ないですね。一応題材的にアジアっていうのはあるけど。
特にない。毎回あるようでない。



―次はテーマを決めて行く予定はないですか?



そうですね、あんまりテーマが無いっていうのも問題ですけど、ある程度伝えるものっていうのがあった方がいいと思うし。
けど、あんまりそこをがっつり決めると今度は周りの風景が見えなくなるから。




―作品によって表現方法は違うと思うんですけど、スタイルは意識的に?


いや、結構同じことやりたくないんで。
今回のチカーノは自分の中では違うと思ってるんですけど、もっと色んなやり方が多分あると思うんで、難しいんですけどね。凝り固まってくると、オナニーになるじゃないですか。
別にギャング、ギャングって言いたいわけでもないし。
いろんな、違う方向で次やりたいなって思ってるんですけど。表現方法や、被写体も。光や影があるなら影の方ほう、貧乏人ばっかりスポットを当てちゃっているので。
同じ人として金持ちの中にも面白い人はいるんで。でも、行ったら行ったで、コロッと変わっちゃうんですけど。
転げまわる瞬間が一番おもしろいんですけどね。英語なのか何語なのか全くわからなくて、自分でも何やってるか分からん瞬間があって。
グシャグシャになってる瞬間がすごい面白い。
瞬間も最中もいいんですよね。
例えば、昔レイブとかで踊ってたら、段々気持ちよくなってすごいことになって、ちょうど気持ちいい瞬間ってなるんですよね



―その時がシャッターチャンス?


そうですね。




―被写体をずっと待って撮影する人もいるけど、名越さんは?


色々やります。今回『CHICANO』の場合はありえない場所に人立たせたりして、人の動きが交差してくる時まで待って撮影したり、わざとリアクション起こさせたりとか。
ドキュメンタリーでリアリティがあってフィクションというか漫画的要素を入れつつみたいな。
やっぱり、あり得ない空間とか世界っていうのは、単純に人に感動を与えると思います。一枚の写真見せて、オオーッみたいな。
一発ギャグというか。そういうのも面白い。まあ、チカーノはギャグにしたら殺されてしまうんで。



―その間も実は名越さんの中では転げまわってる?


いつもは転げまわってるんですけど、今回はさっきも言ったように引いて見てたんで、ある種違う頭というか、いつもは一対一で行くとこを思い切りぐっと引いて、人と周りの状況であったりとか、そういう引いた写真を色々考えて作ったんで、その時は転げまわってるっていう感じじゃないですね。
冷静にいきましたね。
例えば、チカーノの人たちが沢山集まって、自分も入れたかもしんないけど、同じ人種にはなれないんで、引いてその模様を観察してたみたいなとこがあるかも。
動物の観察というか、なるほど、こういう動きするんか、みたいな。
あの人たちすごい純粋だと思う。わかりやすいですよね、誰と絆がある、みたいな。



excuse-2


―前回の『EXCUSE ME』とは違った出来栄えですね。


今回は、アートディレクターの大橋さんていう人のセレクションの仕方が勉強になりましたね。一枚の写真の見せ方がすごい勉強になった。
写真集ってチームプレイなんで一人じゃやれないんですよね。
なんかバンドなんですよね。
デザイナーの方と三人でくしゃくしゃになりながら作って、まあ、『EXCUSE ME』の時もアートディレクターの人最高だったんですけど。
そこでもやっぱりくしゃくしゃになる瞬間があってウーッてなりながら。
いい写真と悪い写真というのはお互いみんな違うし、現場に行ってみて無かった何かがある。
逆にチカーノにすごい詳しい人だったら偏って専門誌みたいになるところが、一枚の写真としてちゃんとしてくれる。今回頼んでよかったなって。



『EXCUSE ME』¥2,500+税(TOKIMEKIパブリッシング)


―今回の写真集は、チームプレイで完成したという事ですね。


写真集って自分だけのものじゃないから。もちろん映っている人たちの背景もあるし、作る側もね、やっぱり色んなものがあるし。








―個展についてもチームワークみたいな


いや、個展はほんとに自分の好きな写真をやるっていう感じですよね。



―どちらが好きですか?


僕は写真集とか本が面白いですね。
普段、喧嘩しながら何か作るってあまりないじゃないですか。かしこまったり、言いたいこと言わなかったりしますし。
アートディレクターの人もお金で動くような人達じゃないから、写真集はある意味仕事じゃないと思ってます。



―次回撮影の予定はありますか?


フィリピンに行きますよ。やっぱりフィリピンは落ちつくんです。
スモーキーマウンテンとか、フィリピンもう一度キチンとやろうと思って。
あとは、インドに行ってジプシーのサーカス団を撮りたい。
そういう人たちを追いかけに行こうと思ってるんですけど。
うまいこと金が入ってきたら。行く時って金がないんですよね。
そこまで、写真集もバーンと売れる感じじゃないから。
あんまり、商売に出来るもんじゃないじゃないですか。下手したら赤が出るみたいな。



―だったら雑誌の取材とかやってたほうが?


お金にはなるからいいんですけど。おもしろい人と一緒に仕事してアホなこと言い合って出来るんならいいんですけど。
なんか別にいい車乗りたいとか、いい家に住みたいからこういうことやってるわけじゃないしみたいな。今の所は。



―結構、バンバン仕事入ってきているイメージあるんですけど。


いや、いや、全く。いつも崖っぷちがけっぷちですよ、全く。



―名越さんにとって写真とはなんですか?


生き方って感じじゃないですかね。ちょっとカッコつけると。「なんちゃって」ですけどね。撮ったものが全部反映するわけじゃないですか。
発表する時、自分が、自分が、ていうのは好きじゃないけど、活動してきた経緯とか、一応、自分が生きてきた証になる、その場に居たっていうのは。
写真に全部残るし、やっぱり生き方なのかなって、調子にのると。



―影響うけた人は?


(あえて好きな人を挙げると)ジョセフ・クーデルカって写真家の人。マグナムのメンバーなんですけど。ジプシーを撮っている人ですね。
でも、写真よりも音楽の方が影響受け易くてね。






名越 啓介 (ナゴシ ケイスケ) プロフィール


1977年奈良県生まれ。大阪芸術大学卒業。1996年よりLAにてスクウォッター(不法占拠生活をするパンクスたち)との共同生活による撮影を開始。被写体のコミュニティに交わり、彼らの流儀の中で、寝食をともにし、最短距離で撮影する作品からは、他には見ない程のリアルな息づかいが感じとれる。世界中のストリートを色鮮やかに切り取った作品が好評を得て、2006年9月1日にアジアのパンクスやストリートギャングなどを撮影した初の写真集『EXCUSE ME』(トキメキパブリッシング刊)を発刊。現在も様々な分野において活動中。


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