webDICE 連載『3.11以降を生きる』 webDICE さんの新着日記 http://www.webdice.jp/dice/series/42 Mon, 16 Dec 2024 20:31:34 +0100 FeedCreator 1.7.2-ppt (info@mypapit.net) Shing02が語る内部被曝「ファイナル・アンサーは個人の免疫力」 http://www.webdice.jp/dice/detail/3477/ Wed, 04 Apr 2012 15:30:52 +0100
Shing02


被爆医師として広島の原爆投下直後から現在まで低線量放射線、内部被曝の問題を訴え続けている肥田舜太郎医師のドキュメンタリー映画『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』が4月7日(土)から渋谷アップリンクで上映される。今回は、「僕と核」と題して2006年よりウェブ上で原子力について自らの研究結果を発表し、先ごろその最新レポート「僕と核2012」をリリースしたMC/活動家のShing02によるテキストを掲載する。



政府がなかったことにしようとしているのは、今も昔も変わらない




僕は2006年に坂本龍一さんから六ヶ所村の核燃料再処理工場に反対するプロジェクトに誘われたのをきっかけに、原子力について調べたレポートを「僕と核」というかたちでウェブで発表してきました。そして鎌仲ひとみ監督の映画『ミツバチの羽音と地球の回転』(2010年)と、新作『内部被ばくを生き抜く』の音楽を担当しています。その鎌仲さんの新作にも、肥田先生はインタビューで出演しています。

『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』では、311以降議論されてきた内部被曝という脅威と、広島・長崎での被爆との間を、体験としても解釈としても被曝とは何かを知る肥田先生が繋げています。歴史の文脈で見ていくと、そこがリンクしていることがわかります。

被曝の問題は、結局は細胞に対する暴力です。 バイオレンスとは、必ずしもフィジカルなものだけではなく、人権にも健康についても言えるし、情報や映像もバイオレンスになりうる。なにをもって暴力と呼ぶのか、公共の場で行われているコミュニケーションや消費活動など、対人関係の基本的なところから振り出しに戻して考えなければならないと思います。

今年の3月21日に、この一年間のレポートを『僕と核2012』としてインターネットに出しました 。そこで僕は、個人の健康と免疫について触れることで、原子力は怖いというイメージをいちどニュートラルにしています。けれど、『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』を観た人が、原子爆弾と原子力発電のふたつのイメージをどう処理していくのか。ひとつのパレットにごちゃまぜになっているところをどうやって伝えていくかは 、すごく難しいことではないでしょうか。

そして、多くの人が新聞やテレビといったメディアを通して学んでいる裏で、このような原爆の歴史を知ることは大事です。311の事故がなかったとしても、みんなが学ばなければいけないことだし、政府がなかったことにしようとしているのは、今も昔も変わらない。まとまった意見としての存在価値がこのような映画にはある。そして、能動的なアクションとして学ぶこと。情報を記憶するだけではなく、学んだ分パワーアップするんだ、という意識が必要だと思います。



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映画『311以降を生きる:肥田舜太郎医師講演より』の一場面





強い意思を持って前向きに生きることが大切



肥田先生をはじめとした専門家が低線量被曝について語っていることも、安全だという人とそうではないという人のどちら側にも偏見があるというのが、この一年間調べてきたなかでの率直な意見です。僕はスターングラス博士に直接インタビューしているけれど、彼の言葉だけが全てとは思いません。たとえばスターングラス博士は、アメリカで原発の近くに住んでいる子供たちの乳歯から検出されたストロンチウム90は、かつての核実験の時代と同じくらい高くなってきていて、これは原発が放射性物質を出し続けている確固たる証拠だと語っています。しかし、内部被曝が多くの病気の増加や、学力の低下にまで100パーセント関係しているのかは、統計をもってみても言い切れません。

でも、そこで議論することは重要ではありません。僕はそのファイナル・アンサーは、科学者の出した統計ではなくて、個人の免疫力だと思います。そこまで健康にこだわるのであれば、放射能以外の問題もこれだけあります、ということをフェアに言う必要があるでしょう。

アートに無限の解釈があるように、情報を提供して、その人なりに理解してもらった以上、その情報はその人のものです。教育も同じで、情報を受けとった人が他の人に伝えられる力がなければなりません。情報の点と点を繋げると線になり、その線を繋げるとなにが見えるのか。それを促すために、このような映画という手法があると思います。

最新の科学も示しているように、人間の健康はホルモンなどを通して精神状態と密に繋がっていますから、心をタフにすることも健康を守ることに大きく貢献しているのではないかと思います。

僕が肥田先生の言っていることでいちばん共感したのは、放射能の不安と戦うためにも、生まれ持った免疫力を保つために早寝早起きをして、食事はよく噛んで、規則正しい生活をしろ、というところ。

そして、強い意思を持って前向きに生きることが本当に大切だと思います。



(『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』パンフレット『311以降を生きるためのハンドブック』より転載 構成:駒井憲嗣)














映画『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』

2012年4月7日(土)、渋谷アップリンク他、全国順次公開




監督・脚本・撮影・録音:マーク・プティジャン

助監督・編集:瀬戸桃子/製作:オンライン・プロダクションズ

日本版ナレーション:染谷将太

フランス/2006年/日本語・英語/53分



併映作品:『311以降を生きる:肥田舜太郎医師講演より』

日本/2012年/日本語/27分/アップリンク製作



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/kakunokizu/



▼『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』予告編


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大江健三郎氏が綴る肥田舜太郎医師と内部被曝 http://www.webdice.jp/dice/detail/3472/ Sun, 01 Apr 2012 22:09:53 +0100
映画『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』より


内部被曝の実態を訴える肥田舜太郎医師を描くドキュメンタリー『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』が4月7日(土)より渋谷アップリンクで公開される。

肥田医師は1945年広島で原爆に被爆、直後から被爆者救援と治療にあたり、95歳となった現在も自身の経験を元に低線量被曝、内部被曝についての講演を精力的に行っている。フランス人のマーク・プティジャン監督による本作に加え、3月11日の福島第一原発事故以降の日本でどう生き抜くかを説く講演のエッセンスを記録した『311以降を生きる:肥田舜太郎医師講演より』も同時上映される。

作家の大江健三郎氏は、1991年に被団協新聞の企画で肥田医師と対談。以降も、原爆と原発による低線量放射線による被曝を存在しないことにしようとする政府を糾弾する肥田医師を支持し続けている。大江氏、肥田氏ともに、昨年12月に設立された、被爆者の証言や記録を収集し平和のために普及することを目的とする「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の呼びかけ発起人となっている。

今回は、大江氏が2011年8月朝日新聞に寄せた、311以降の肥田医師の提言を紹介したエッセイを掲載する。





広島・長崎から福島へ向けて

──大江健三郎(作家)



肥田舜太郎先生に手紙をいただきました。原爆直後から救急治療にあたられ、広島を離れて医療を始められても、後遺症に苦しむ人たちに注目し、さらには日本被団協の組織内で数少ない被爆医師として引退まで数千の被爆者に接して来られました。

肥田先生は、いま現在の福島県の子供たちを憂えられるのですが、本来《アメリカと日本政府が意図的に隠してきた放射線による「内部被曝」の被害こそが、人類の未来にとって最大の脅威であることを学び、訴えつづけて》こられた専門家です。

先生は私に、二〇〇三年から七年間、各地の被爆者が政府を相手に内部被曝を含む放射線の有害性を巡って闘った集団訴訟の記録が出ることを、まず教えてくださったのでした(『原爆症認定集団訴訟たたかいの記録』日本評論社)。原告の被爆者三〇六名のうち二六四名が認定をかちとる大きい勝利を得ました。

《しかし、政府は今まで内部被曝の被害を否定してきたことの誤りを認めず、正しかったと開き直っています。根拠は、「アメリカの説明によれば、内部被曝は放射線が微量で、人体には影響がない」の一点張りです。》

その放射線医学の、今に残る穴ボコを被爆者たちそれぞれの証言が明らかにして勝訴をもたらしたことを記録は示します。長崎で被爆された作家林京子さんは、『長い時間をかけた人間の経験』(講談社文芸文庫)で、ずっと持続されている肥田先生の面魂を、S医師として描いていました。

福島の事故で政府が20キロ圏内の居住者に避難勧告をした時、アメリカは80キロ圏内のアメリカ人全員にそれをした。林さんはこの違いを質問したと、『被爆を生きて──作品と生涯を語る』(岩波ブックレット)で話します。

《すると先生は、人の命、人権に対する認識の度合いの違いです、と即答なさいました。私は深く納得しました。》

テレビで責任ある人から、《「内部被曝」ということが初めて使われましたね。私はこの言葉を聞いた瞬間、涙がワーッとあふれ出ました。知っていたんですね彼らは。「内部被曝」の問題を。それを今度の原発事故で初めて口にした。

(中略)長崎の友だちはあの人も、この人も、と死んでいる。それも脳腫瘍や、甲状腺や肝臓、膵臓のガンなどで亡くなっている。それらのほとんどが原爆症の認定は却下でした。内部被曝は認められてこなかったんです。闇から闇へ葬られていった友人たち。可哀想でならなかった。》



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映画『311以降を生きる:肥田舜太郎医師講演より』の一場面





現在の危機において、肥田先生の永い経験に根ざす緊急の提言は勢いを増しています。

《福島原発による軽い初期症状の被害者が福島県内はもとより、関東平野に広く現れ始めています。現在、日本政府が大至急に行うべき急務の一つは、日本の幾つかの大学医学部(広島、長崎両大学医学部など)に、放射線内部被曝者の診断と治療についての研究を国として命じ、そのための予算を計上すること。医師会を通じて、福島原発の放射線被害を訴える患者には、親切に治療に応じるよう協力を要請し、これから現れる可能性のある新しいヒバクシャに対応する体制を整えることです。》

林さんはフクシマをきっかけに、国家の原発政策を大転換したドイツの出版社が、先の長編小説を急ぎ翻訳出版することを申し出てきたこともつたえています。

《事故以来、さまざまに報じられるニュースを聞きながら、日本は被爆国ではなかったのか、とあまりの学習のなさに絶望していましたので、この申し込みに私は救われました。/世界には判ってくれる人がいる。物事の基本で考えられる人がいる。本当に救われました。書いていてよかったです。》

すぐにもドイツの若者に読まれる、その結びの一節の、広島・長崎の経験に立っている励ましの言葉を、福島の若い人たちに向けて写します。

《二十世紀は、人為的に作り出した核エネルギーで殺人を行った世紀です。これは種族としての、人の命のつながりを絶つことです、人体に与える影響を知りながら、それを行動として行った科学者や為政者たちを、僕は許せませんね、とS医師がいった。

(中略)核には人類を滅亡させる毒がある、助かる道がみつからないまま権力者たちは核の道をつっ走ってきた、しかし僕は希望を捨てません、希望は一般の人たちです、庶民が生きのびる知恵と力を得るでしょうね。生物は本能的に、滅びまいとする努力をするものです、といった。》



(朝日新聞2011年8月17日「定義集」より転載)
























映画『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』

2012年4月7日(土)、渋谷アップリンク他、全国順次公開




監督・脚本・撮影・録音:マーク・プティジャン

助監督・編集:瀬戸桃子/製作:オンライン・プロダクションズ

日本版ナレーション:染谷将太

フランス/2006年/日本語・英語/53分



併映作品:『311以降を生きる:肥田舜太郎医師講演より』

日本/2012年/日本語/27分/アップリンク製作



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/kakunokizu/



▼『核の傷:肥田舜太郎医師と内部被曝』予告編


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原発事故後のチェルノブイリと福島の少女の交流を描く『なのはな』 http://www.webdice.jp/dice/detail/3460/ Fri, 23 Mar 2012 11:19:45 +0100

3.11後、いち早く原発事故後の福島を題材にし、各方面で話題となった表題作「なのはな」を含む萩尾望都の最新作品集『なのはな』が3月7日に発売された。表題作の他、「プルート夫人」、「雨の夜-ウラノス伯爵-」、「サロメ20××」、「なのはな」の後日談を描いた描き下ろし「なのはな ―幻想『銀河鉄道の夜』」が収録されている。いずれも、3.11以降でなければ、描かれなかったはずの作品だ。



原発事故により、突然、住み慣れた土地を汚されてしまった人々の行き場のない悲しみや怒りが癒されることはあるのだろうか。「なのはな」では、原発事故後に一変し、異常な状態が日常となった生活が淡々と描かれている。物語の鍵となるのは菜の花。主人公のナホは、チェルノブイリでは、土壌の汚染を除去するために植物が植えられているのだと知る。



ナホはチェルノブイリに住む少女の夢を繰り返し見る。言葉のわからない彼女との夢の中での交流を描くことで、二人は互いに痛みを共有し、癒されていく。この痛みは同じような経験をした者にしか理解できないだろう。わかってくれる他者の存在が共にある。それだけでも、張り詰めた気持ちを抱えた彼女にとってどれだけ優しい希望を灯すことだろう。




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『なのはな』より (c)萩尾望都/小学館


また、放射性物質を擬人化した「プルート夫人」、「雨の夜―ウラノス伯爵」では、原子力という魔法のような力に翻弄される人間を滑稽に描いている。東京大学「見聞記」に掲載されたインタビューによると、プルート夫人のアイディアは映画『100,000年後の安全』でプルトニウムが無害になるのに10万年という永遠のような長い歳月が発端になっているという。



現在、アップリンクでは12年後のチェルノブイリの現実を描いた『プリピャチ』、福島・双葉町からの避難を余儀なくされた住民の日々を追ったドキュメンタリー『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』が公開されている。マンガを読んだ人には映画を、映画を観た人にはマンガをおすすめしたい。





(文:吉田アミ)












萩尾望都作品集『なのはな』



ISBN:978-4091791351

価格:1,200円

版型:212×154ミリ

ページ:162ページ

発行:小学館





★作品の購入はジャケット写真をクリックしてください。Amazonにリンクされています。












映画『プリピャチ』

渋谷アップリンク他公開中、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/





▼『プリピャチ』予告編


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映画『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』

渋谷アップリンクにて公開中




監督:佐藤武光

ナレーション:市原悦子

製作:「立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~」製作委員会

企画:「Fukushima FUTABA」Project

配給:イメージ・サテライト

2012年/HD/99分

公式サイト:http://www.imagesatellite.sakura.ne.jp/futaba.html




▼『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』予告編


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DVD『100,000年後の安全』

発売中



監督・脚本:マイケル・マドセン

脚本:イェスパー・バーグマン

撮影:ヘイキ・ファーム

編集:ダニエル・デンシック

2009年/75分/デンマーク、フィンランド、スウェーデン、イタリア/英語/カラー/16:9/ビデオ





日本語吹替版ナレーションには田口トモロヲ氏を起用

視覚障害者対応日本語音声ガイド付


ULD-617

3,990円(税込)

アップリンク




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4万8千の人が居なくなり幽霊都市と化したプリピャチに興味を持った http://www.webdice.jp/dice/detail/3467/ Tue, 27 Mar 2012 11:35:54 +0100
渋谷アップリンクXのトークショーに登壇した『チェルノブイリ──家族の帰る場所』スクリプト担当のフランシスコ・サンチェスさん(中)とイラスト担当のナターシャ・ブストスさん(右)、翻訳の管啓次郎さん(左)


現在渋谷アップリンクで公開中の映画『プリピャチ』トークショーに、グラフィック・ノベル『チェルノブイリ──家族の帰る場所』(朝日出版社刊)を刊行し、バルセロナより来日中の著者、フランシスコ・サンチェスさん(スクリプト担当)とナターシャ・ブストスさん(イラスト担当)が登壇した。愛する土地に留まり続ける老夫婦、プリピャチを突然去ることになった家族……本書は物語でありながら、プリピャチを実際に訪れて大きな衝撃を受けた作者の体験がベースになっている。本書の訳者、管啓次郎(詩人・比較文学者)さんも駆けつけ、お互いに深く響き合う本映画と本書について語っていただいた。





かつての活気があった頃の町の姿を想像し描いた(ナターシャ)



管啓次郎(以下、管):今回この本を翻訳するにあたりさっそく読んだところ、非常に大きな衝撃を受けました。あまりに大きな状況を前にしたときに、焦点の定まった誰かの人生、誰かの生活や、非常にはっきりした表情や息遣い、そういうものが感じられるなかでしか、私たちは本当の具体的な状況を想像することができない。僕が感じたのはそういうことです。本題に入る前に、まずはお二人がこれまでどんな仕事をされてきたか、簡単に振り返ってみたいと思います。



フランシスコ・サンチェス(以下、フランシスコ):私は長いあいだコミック系の編集に携わってきましたが、今回のようなグラフィック・ノベルを出版したのは初めてのことです。これまで短編映画なども作ってきましたが、もっぱら編集の仕事に携わってきました。



ナターシャ・ブストス(以下、ナターシャ):私はイラストレーターをしています。マンガも書いています。フランシスコと一緒にこのような形で日本に来られて、私たちのストーリーをこうして皆さんにお話できるのはとてもうれしいことです。ありがとうございます。



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『チェルノブイリ──家族の帰る場所』より


管:先ほど話がいきなり核心に行きそうになったのですが、この本『チェルノブイリ──家族の帰る場所』は三世代の家族の物語なんです。おじいさんとおばあさんはもともとチェルノブイリのエリアに住んでいた農家の人達。そしてお父さんとお母さんはプリピャチに住み、原発で働いていたお父さんは事故がもとで亡くなります。原発事故を子供時代に体験したお兄ちゃんと、当時生まれたばかりだった妹が、事故の20年後にもともと住んでいた家をたずね、おじいさんとおばあさんが既に亡くなって埋葬されている家もたずねる、という三世代の3パートに分かれた話になっています。

これがとても胸を打つ構成だと感じたのは、当然のことながら昨年3月の事故を体験したからです。それによって、以前から存在する「チェルノブイリの事故」がわれわれに対して持っている意味もまったく変わってしまったと僕は思いました。

この本は台詞がないコマが多く、そのほとんどが絵だけで表現されていく。このイラストが本当に素晴らしいんです。そして非常に丁寧な取材に基づいて作られているなという印象を受けました。本をつくるきっかけや、取材について話をうかがえますか?



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『チェルノブイリ──家族の帰る場所』より





フランシスコ:実は、この本を作るまで、私は放射能や放射線についての関心をほとんど持っていませんでした。あるとき弟が、もともと私が住んでいるバルセロナでチェルノブイリ事故20周年を記念する展覧会があると教えてくれまして、これがきっかけとなり関心を持ち始めたというのが実際です。

そのなかでも一番衝撃だったのが、このプリピャチの町のことでした。4万8000人の人口があったにも関わらず、原発事故によって幽霊都市と化してしまったというインパクトは私にとって非常に大きいものでした。そして、その町に住んだ人たちの歴史に興味を持ちました。事故から36時間後に避難せざるをえなくなったのですが、彼らはそのとき何も分からずに、2、3日したら家に戻って来られるだろうという気持ちで町をあとにしたわけです。しかし帰宅はかなわなかった。その「人のストーリー」「人の歴史」に深く胸を打たれたのです。







ナターシャ:イラストを描くにあたっては、情報源として本や写真などを探しました。インターネットでは、現在のチェルノブイリ周辺の写真が多く出てくるようになったので、その意味で写真を見つけるのは比較的簡単でした。今は幽霊都市と化したプリピャチの町の写真なんかも割とあるんです。データベースは多くあったのですが、難しかったのは、事故以前の町の姿や、人々が活き活きと生活している姿の写真を探すこと。そのために、避難した方々の個人的なホームページから写真を探して、かつての活気があった頃の町の姿を想像しなくてはなりませんでした。




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『チェルノブイリ──家族の帰る場所』より



管:フランシスコさんは、実際にチェルノブイリやプリピャチにいらっしゃったのですよね?



フランシスコ:はい。現地に行く前に、自分の頭のなかではストーリーはできあがっていました。本を読んでいただくと分かるのですが、第3部に、若い世代の二人、つまり、兄と妹がツアーに参加してプリピャチで数時間を過ごすという場面があります。そこにしっかり色付けするために、自分でも行ってみることにしたのです。その当時、インターネットで調べてみると、プリピャチを訪れるツアーがありました。作中の若い二人の兄妹が自分の家に戻った気分を味わうために、プリピャチに行ったのです。



管:まさにその取材によってディテールがすごく生きていると思います。いま見ていただいたこのドキュメンタリー映画『プリピャチ』は1999年作ですね。つまりこれはチェルノブイリ事故の12年後の風景で、いまはさらにかなりの時間が経ちました。このフィルムを見て何か気づいたことはありましたか?



フランシスコ:私が行ったときには、やはり事情が事情で現場には3時間しかいることができず、映画との比較ができるほど印象に残った場所というのが思い出せません。しかし、本を作る資料集めのときに、多くの写真や映像を通じで出会った人たちが映っていたのです。たとえば映画の冒頭に出てきた老夫婦です。驚きとともに懐かしく感じました。



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映画『プリピャチ』より、冒頭に登場する老夫婦



管:この映画を見たあとで本を読みなおすと、農村の風景が本当によく描かれていることが分かります。映像に出てくる風景とまったく同じですね。日本語だとマンガの「コマ割り」と言うのですが、この本のストーリーボードは全部ナターシャさんが考えたのですか?



ナターシャ:そうです。



管:描かれている細部に気をつけながら見ていくと非常に面白いのですが、この本のなかで僕が一番衝撃を受けたコマがこのコマなんです(本書77ページ)。まさに原発が爆発する瞬間が捉えられている。しかしセンセーショナルではなく、星でいっぱいの夜空に、ずっと遠くから引いた視点で、おそらく誰も見ていなかったであろう風景がこのように描かれているということに、まさにコミックでしかできない表現を強く感じました。





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『チェルノブイリ──家族の帰る場所』より、原発爆発を描いたページ



同じようなことが最後のシーンにも言えるのですが……読んでいない皆さんに見せるとよくないので見せませんね(笑)。青年になった二人が、おじいさんたちが住んでいた家を訪ねて、隣人の老夫婦に会って別れを告げるのですが、この最後の一コマが素晴らしい。そこで一気にエモーションが高まっていく素晴らしいコマですので、皆さん本を読んでみてください。
表現の話をもう少し続けます。いまのドキュメンタリー映画は白黒でしたね。特にナターシャさんにうかがいたいのですが、白黒の映像を見たときに何か感じることはありますか?



ナターシャ:職業柄よく分かるのですが、スペインではマンガは色付きのものが主流なんですね。ですから、この本を出したときに「なんで色を付けないの?」って訊かれました。しかし私はやっぱり「白黒の力」というのはそれだけで表現力があると思っています。この映画を日本語が分からないまま観ても、モノクロであるがゆえの映像のインパクトを感じます。映像であれマンガであれ、黒の醸し出すコントラストは非常に大きな表現力を持っていると思うんです。



私たち人類は自然をないがしろにしてはいけない(フランシスコ)



管:ナターシャさんは中国に住んでいたことがあるそうですが、そこで何か中国や日本の白黒の絵に影響を受けましたか?



ナターシャ:墨を使って絵を描くところまではいかなかったのですが、中国で絵具を使って描いてみたことはあります。中国では書道展や墨絵展などがたくさん開催されていて、何もない半紙に墨一色だけで色々な絵を描いていくのを見て感動し、自分でも色々と挑戦したこともありました。この本では実際にハケや筆を使って墨で描いています。最近のコミック作者はコンピューターで絵を描いたりしがちですが、墨やインクを使って描くということのよさは、描いてみたことのある人ならやはりお分かりになると思います。




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『チェルノブイリ──家族の帰る場所』より




管:そこで映画『プリピャチ』の話に戻ります。白黒の表現というのはカラーの表現よりも一段と抽象度が高いと思うのです。われわれが現実に見ている映像とはまったく違う世界を見せられているわけですから、そこで心のなかに、ある種の飛躍というか、少し浮かんだ状態で現実を把握している体験が生まれる気がします。むしろこの回路を通じて、現実がはっきりと見えてくることがある。コミックの表現は、さらにもう一段抽象度が高いですよね。つまり、線と面とで構成されつつも、最大の特徴は音がないということです。音がないのだけれど、音のある世界を描いている。そうやって捉えられるものが、何か感情にとても強い働きをおよぼすように思います。

また、コミックの場合、コマからコマへのつながりやストーリーの展開をずっと追っていっても、物語を読む段階での「現在」と、その前の過去のイメージがどんどん並列的に並んでいくわけですよね。したがって、人の心のなかの記憶をあつかうには、コミックはたいへん力強いメディアだとあらためて感じました。ある意味、映像を超えている部分がありますよね。映像は撮ってこないと始まらない。コミックはそれを超えて、思い出のなかの出来事と、いまの現実を交えて描くことができるんだと思いました。

実は僕はフランシスコさんと同年代です。僕自身がチェルノブイリの事故を体験した頃はソビエト連邦の最期の時期にあたり、非常に恥ずかしいことですが、なんというかまだまだ「どこか遠い国の出来事」という感じがしていました。ユーラシア大陸のすぐ隣の国だったにもかかわらず、そして上空のジェット気流なんかの影響で、いくらでも放射性物質が飛んできているにもかかわらず、です。チェルノブイリの事故をフランシスコさんはどう体験されましたか?



フランシスコ:核エネルギーが制御不能になったというニュースは、ヨーロッパの国々とロシアを非常に近いものにしました。実際の数値を考えてみても、チェルノブイリ事故に起因する放射性物質はヨーロッパ近隣20ヵ国に影響を与え、2000キロ以上離れた土地にも影響をおよぼしたと言われています。



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『チェルノブイリ──家族の帰る場所』より



管:もちろん日本でも多くの方がチェルノブイリ事故の危険性に早くから気がついて、本を書いたり作品を作ったり、色々なかたちで表現をしてきました。がん研究などの分野でもチェルノブイリとの因果関係が調査され続けてきたわけです。しかし、その意味が本当には重く受け取られないままに昨年福島の事故を迎えて、日本に住む人全体が、かの事故がいかに重大で、われわれの現実と直結しているか、25年経ってやっと分かったんだと思います。

原発事故は人間の世界だけで話が完結するわけではなく、野生動物や植物すべての生態系が全面的に影響を受けています。地球がゴム風船ほどの球体だとしたら、われわれがふつう考えている動植物の生命世界は、ごくごく薄いゴムの表面ぐらいしかありません。そこにもともと存在しえなかった化学反応を人間が持ち込むことで、人間の社会だけではなくすべての生物が影響を受けている。しかもこれから何万年にも渡って。





フランシスコ:私たちの本にそういったメッセージを付け加えればよかったのかもしれませんが、直接的な表現は控えることにしました。ですので、私たち人類は自然をないがしろにしてはいけないということ。私たちはこれからも自然に敬意を払って生きていかなくてはいけないというメッセージを、ここでお伝えしたいと思います。



管:それはもう充分に伝わっていると思いますよ。馬や羊の描き方にしても、生命と自然の描き方は本当に素晴らしいと思います。



(2012年3月13日渋谷アップリンクXにて 構成:綾女欣伸)














『チェルノブイリ──家族の帰る場所』

フランシスコ・サンチェス[文]、ナターシャ・ブストス[画]、
管啓次郎[訳]



ISBN:978-4255006383

価格:1,155円

版型:210×148ミリ

ページ:192ページ

発行:朝日出版社





★作品の購入はジャケット写真をクリックしてください。Amazonにリンクされています。










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映画『プリピャチ』

渋谷アップリンク他公開中、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/





▼『プリピャチ』予告編


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双葉町、大熊町は血反吐を吐いても国家のためにあの土地を提供します http://www.webdice.jp/dice/detail/3454/ Sat, 17 Mar 2012 13:32:37 +0100
映画『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』より


3月17日(土)より渋谷アップリンクで公開の映画『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』の国会試写会が3月16日に開催。試写会には衆参両院の議員、秘書・スタッフの方々30数名が来場、作品鑑賞と共に、「立入禁止区域」から避難されている双葉の住民の方の訴えを聞いた。



『立入禁止区域・双葉 ~されど我が故郷~』は、福島出身の佐藤武光監督が、福島原発から3キロに位置する双葉高校など3月11日の東日本大震災後立入禁止区域となった福島県双葉の被害の状況、そして避難所や仮設住宅での暮らしを強いられている住民の心情を捉えたドキュメンタリー。



上映後登壇した大熊町野上に住む住民は、大熊町が先日平成32年までに完了する方針を発表した集団移転について遅すぎると述べ、「せめてあと5年以内に完了を目指さなければ、私たちの生活は成り立たない。大熊町に中間貯蔵施設を建てるための幹線道路ないしはインフラの整備が中心に行われなければならない。福島県民の子どもが毎日外で遊べないという状況が続いていて、このままでは福島から誰ひとり子どもがいなくなってしまう。そして賠償保障の問題も、前に住んでいたのと同等の食べ物と土地を提供してもらいたい」と嘆願した。




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『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』国会上映に登壇した双葉の住民の方々


民主党の最高顧問で会津若松出身の渡部恒三氏は、「先ほどの大熊町の代表の方のお話を聞いて、涙がとまりません。それほどの尊いお気持ちをあの被災のみなさんがもっておられる。国の対応の鈍さを考えると、本当に、みなさん申し訳ございません。しかし、みなさんが45年間、東京や横浜や、あるいは京浜工場地帯のエネルギーを提供してきた、そしていま、こんな酷い目に遭っていることを、国民は世界の人はぜったいに忘れてはなりません。また、いま映画を観ておりましたら、会津に避難しておられている方もある、もしそこで失礼なことがあったら、この場をお借りして心から謝ります。お許しください。必ず、みなさんが故郷をとりもどし、そして家族の生活を立派に幸せにやっていけるように、国は全力を挙げなければならないということを、これからも訴え続けてまいります。みなさん、元気に、明るくがんばってください」と激励した。




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映画『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』試写会に出席した渡部恒三氏






また、福島県双葉郡富岡町に住み、現在は会津若松に避難している住民は「野田さんは立派なことを言ってるけど、今の政府はなんにも実行していない。自分の任期中はそれなりの仕事をやっていただきたいです」と檄を飛ばした。



富岡町から東京・荒川に避難している住民は次のように語った。「国会議員の皆様、そして各省庁の官僚の皆様、第一原発に行って、体感してみてください。原発の不気味な音を聞いてみてください。あの背筋が凍るような音を聞いた上で、〈死の町〉と呼ばれるその通りの町を訪れてみてください。その上で原発の是非をぜひ論じてもらいたい。そしてもう少し人間優先の政策をやってほしい」。




webdice_海岸から原発の排気塔を見る

映画『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』より



大熊町から会津若松の仮設住宅に避難している住民は「今日来るときに私の仮設のなかでは3人がうつ病になり、いつ自殺するかわからないと友達にいわれました。どうか、政府の方々が直接住民に話しかけて、早く希望の出るように、そして放射線のないところに町ができるようにしてほしいです。それから福島県民を助けるためにも、ぜひ原爆と同じように被災地管理者手帳を作ってほしい」と避難住民の健康面での問題について提言した。



webdice_津波被災地

映画『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』より



最後に映画のなかでも中間貯蔵施設について言及している双葉町喜久田仮設自治会長の天野正篤氏は、「細野(豪志環境相)さん、平野(達男復興相)さん、県庁やホテルで相談するのではなくて、ぜひ仮設に来て、我々と直接話をしてください。どんなことがあっても、双葉町、大熊町は血反吐を吐いても国家のためにあの土地を提供します。そうすれば、国民の信頼も得られますし、我々のことも考えてもらえるでしょう」と訴え、国会試写会は終了した。




(取材・文:駒井憲嗣)










映画『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』

渋谷アップリンクにて公開中




監督:佐藤武光

ナレーション:市原悦子

製作:「立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~」製作委員会

企画:「Fukushima FUTABA」Project

配給:イメージ・サテライト

2012年/HD/99分

公式サイト:http://www.imagesatellite.sakura.ne.jp/futaba.html











▼『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』予告編


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歴史から学ばなければ、また同じことが繰り返されてしまう http://www.webdice.jp/dice/detail/3451/ Thu, 15 Mar 2012 19:47:21 +0100
渋谷UPLINK ROOMで開催された映画『プリピャチ』のトークイベントに出演したプリピャチ・ドットコムのサーシャ・スィロタさん




チェルノブイリ原発から12年後、4キロの街に住む人々の暮らしを描いた映画『プリピャチ』を公開している渋谷アップリンクで、福島第一原発事故から1年となる3月11日、プリピャチ・ドットコムの副代表サーシャ・スィロタさんがトークショーを行った。プリピャチ・ドットコムは、映画の舞台となる街・プリピャチの現在の状況、そして原発事故の教訓を世界に発信するサイトで、この日は事故当日の街の模様を捉えた短編映像も日本で初めて上映された。



「事故が起きたその日に避難できていたら、もっと被害は少なかったかもしれない」




サーシャ・スィロタさんは9歳のときチェルノブイリ原発事故で被曝し、現在はプリピャチ・ドットコムの副代表を務めるかたわら、チェルノブイリ原発の見学者のためのガイドをしながら、この問題を世界に問い続けている。映画『プリピャチ』の上映後に登壇したサーシャさんは「この映画に出てくるのが、僕が生まれ育った街です」とプリピャチを紹介し、トークをスタート。2003年に開設したプリピャチ・ドットコムについてサーシャさんは次のように解説した。



「まだソーシャルネットワークが普及していないときでしたが、プリピャチに関わっていた人たち、そこにかつて住んでいた人たちを繋げるための、ネットワークを作ることが目的でした。各地で写真やビデオ、新聞の記事を集めることから始めました。最初はプリピャチ出身の人たちのためのサイトを考えていたのですが、それが拡大して、全世界の人が登録して、チェルノブイリに興味のある人たちが訪れフォーラムに参加しています。今はサイトに国や地域は様々な50,000人を超える人が登録していて、毎日5,000人がアクセスしています。活動が拡大していったので、2007年に団体を作り、国際的な活動を行なっています。また今回の作品のように、過去に撮影された映像を編集してサイトにアップすることも行なっています」。





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『忘れがたきこと』より



今回のイベントで日本初上映された『忘れがたきこと』は、35歳で亡くなるまでに多くのチェルノブイリ原発事故についての映像を残したミハイル・ナザレンコの手によるもの。事故が起きた1986年4月26日、そして翌日の27日の街の様子が監督自身のナレーションとともに収められている。発生したガンマ線により、フィルムにフラッシュのような光が写っていることが街の危険な状況を生々しく物語っている。この作品は3月17日(土)より渋谷アップリンクでの『プリピャチ』12:50の回上映で併映されることが決定した。




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『忘れがたきこと』より







観客とQ&Aでサーシャさんは、『忘れがたきこと』に記録された事故当日と2日目の政府の対応についても答えた。

「私の家から発電所まで直線で1.5キロくらいしかなかった。事故が起きたその日の時点でもし避難できていたら、もっと被害は少なかったかもしれません。誰かが決定し、告知されるまでの時間は遅かったと思います。当時共産党の官僚で決定権を持っていた人たちは、いまよくテレビに出て取材に答えているのですが、彼らは『準備はできていた』『対策を講じていた』と口々に言いますが、それは嘘だと思っています。いちばん適切な対策は、すぐに市民に『家にいて、ドアと窓を閉めて濡れた雑巾で窓を拭いて外に出ずに指示を待っていてください』と伝えることだったと思います。でもそれをしなかった言い訳として彼らは『パニックになってもっと犠牲が多くなるから、すぐには知らせなかった』と言っているのです」。




「いま福島の人々に大事なのは精神面でサポートすること」



現在のプリピャチについてサーシャさんは「器官がやられてしまうので、たばこを吸ってはいけない、長袖の服を着る、外で食べ物を食べないといったことを注意すれば、短時間いても問題ない」と報告。放射線量は下がっているものの、人が住めない状態であることは変わらず、皮肉なことに、ウクライナ有数の緑のある地域として知られるようになっているという。観光やサーシャさんのような研究作業のために入る人が少なくなく、放射能より建物が崩れる危険性のほうが高い。また事故後も稼働していた3号炉を2000年に停止したチェルノブイリ原発についても、「12年経った現在も廃炉にするために3,000人くらいの作業員が残って作業していて、管理が必要とされている」と語った。






プリピャチ・ドットコムは、プリピャチを博物館のように残し、訪れた人たちに、プリピャチとチェルノブイリで起きたことを知ってもらいたいと計画。そして「チェルノブイリから25年経っても昨年の福島で事故が起き、人は学んでいないのではないかという印象を受ける。世界で人間の愚かな活動による事故が起きないようにしていきたい。歴史から学ばなければ、同じようなことが起きてしまいます」と提言した。








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映画『プリピャチ』より





サーシャさんは、それまでは病院に行ったことはないほど健康だったものの、事故後1986年の5月に入院し、そのまま4ヵ月病院で過ごして以来、1996年まで毎年2ヵ月ずつ入院しなければいければならなかったという。入院していたとき、周りの子どもたちにいちばん影響が出ているのは胃腸や甲状腺、血液関係の病気で、サーシャさん自身、25年経った現在も心臓の薬を持って出歩かなければならない。




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映画『プリピャチ』より




日本でも心配されている内部被曝の問題についてサーシャさんは、「内部被曝について測定するのは難しいですが、食べ物や空気から体のなかに入る汚染は非常に危険です。私の知っている限り、発電所の事故を処理していた人たちや住民の人たちで、体に問題がない、という人がいない。何らかのかたちで被害を受けています。ただ、精神的なストレスの可能性もありますし、放射能の影響には個人差があって、大量の放射線を浴びるような発電所で働いていても、問題がないという人もいる。何が原因で体を悪くしたかを突き止めるのは難しいのです。でも食べ物や水についてはこれからも警戒していかなければなりません。そして大事なのは精神面でサポートすることだと思います。特に福島の人たちが暮らしやすいように、優しい環境を作るのがその人たちの健康につながるのではないかと思います」と訴えた。

サーシャさんはこの上映の後福島に赴き、現地での取材の模様はプリピャチ・ドットコムでレポートされることになっている。






(取材:駒井憲嗣)


















映画『プリピャチ』

渋谷アップリンク新宿武蔵野館他公開中、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/




3月17日(土)より12:50の回終了後

チェルノブイリ事故当日のプリピャチの模様を収めたドキュメンタリー『忘れがたきこと』を上映
(監督:ミハイル・ナザレンコ/約10分)




トークイベント開催




3月16日(金)19:30より トーク付き上映会

ゲスト:池田香代子氏(ドイツ文学翻訳家)


http://www.uplink.co.jp/factory/log/004336.php

以上、渋谷アップリンクにて開催














▼『プリピャチ』予告編


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いま福島県の人々は心配する自由さえない http://www.webdice.jp/dice/detail/3442/ Tue, 06 Mar 2012 19:26:36 +0100
映画『プリピャチ』トークイベントに登壇したおしどりのマコ(右)、ケン(左)



現在公開中のドキュメンタリー映画『プリピャチ』トークショーに、夫婦音曲漫才のおしどりマコ、ケンの両氏が登壇。東電の記者会見に頻繁に出席し、福島での取材も多数行いDAYS JAPANなどでレポートを続けているふたりが、3月11日以降の活動について解説。福島に住む人の声を聞いてほしいと、胸の内を語った。



震災のあった3月11日、とろろ昆布を買い占めて子どもたちに配っていた



おしどりマコ(以下、マコ):私たちは普段吉本興業で漫才をしているんですけれど、いまあちこちの会見に行ったり、福島に取材に行ったりしています。去年大阪から東京に引っ越してきて、3ヵ月で地震に遭ったんです。神戸の生まれと育ちで、長田高校に通っていて、地震のときに被害を受けたところだったんです。その後鳥取大学医学部生命科学科に3年行って、中退して、そこは医学部でも研究関係をするところだったんですが、鳥取から神戸の避難所によく行っていました。



おしどりケン(以下、ケン):僕はそのときパントマイムで慰問に行きましたよ。



マコ:パントマイムやってるからあんまりしゃべらないんです。



ケン:そうです、だから気にしないでください。



マコ:神戸の友達が、けがも病気もしていないのに、暗い顔で毎日「死にたい」と言っていて、でも大学に戻ると、病院で末期がんの患者さんにすごく明るく「地震だいじょうぶ?元気出して」と言われるんです。そのときに、健康ってなんなんだろうと。笑って明るく生きられる状態こそ健康というんじゃないかと。それで3年で大学を中退して、芸人になろう、笑かしていこうと思ったんですよ。わりあい自然な流れですよね。



ケン:ちょっと強引ですけどね、変わってると思います。ちょうどその頃に出会って、僕と結婚してくれたんだよね。



マコ:まぁそのへんは割愛して。それで東京に引っ越してきて、そのときに住んでいた家がめちゃくちゃあばら屋で、3月11日はびっくりするくらい揺れていたんです。神戸の地震を経験していたので、この家に住んでたらぜったい死ぬと、近くの小学校に避難したんです。






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『プリピャチ』より



ケン:そしたらけっこうな数の避難している人がいて。



マコ:広域避難所のところで、200人くらい避難していまして、そこの視聴覚室でみんなでテレビを観ていたら、地震や津波の話より、原発のほうが話題になってきて。福島第一原発が電源喪失をして、冷却できないという情報が出たときに、爆発したら東京にもヨウ素を高く含んだ放射性プルームが飛んでくる可能性があるのでホットスポットになると、小学校の校長先生に「ここの学校は安定ヨウ素剤を備蓄していますか?」と聞いたんです。そうしたら校長先生は「えっなんのことですか?」って、もしそういう状態になったら、国がきちんとするだろうとおっしゃるんです。それで私たちはコンビニに行って、まだ誰も水とかトイレットペーパーを買い占めていないときに、とろろ昆布を買い占めて、なにかあったら子どもたちに「1日25グラムずつ食べなさい」と配っていました。



ケン:そんな初日だったんです。




誰も聞きたいことを質問してくれる記者がいないので、東京電力の記者会見に行くようになった




マコ:ヨウ素を吸う内部被曝が怖かった。大学で勉強していたことはすっかり忘れているんですけれど、なんとなくおばあちゃんの知恵袋的に「原発が爆発したら、放射性物質を吸うかもしれない、そんなときはわかめとか昆布とか食べておけ」というのが染みこんでいて、気をつけていたんです。
そんな3月11日を過ごした後、毎日あった吉本の仕事が1週間ぐらいぜんぶなくなったので、毎日テレビを見ていたんです。そうすると原発が爆発していって、余震もすごいときに、テレビが「レントゲン1回分だからだいじょうぶです」とか「東京-ニューヨーク間の飛行機の線量だからだいじょうぶです」と、外部被曝に関することしか言っていなかった。



ケン:そのニュースが流れるたびに、マコちゃん「おかしい、またこれ言ってる」って怒ってて。



マコ:日本でレントゲンに関する危機感って低いけれど、無用に受けることは外部被曝で、晩発性で心筋梗塞が出るリスクが厚生労働省のホームページにも書いてある。例えばヨーロッパだったら、レントゲン手帳みたいなのがあって、年間の被曝線量を管理するんですよ。特に子どもには徹底している国が多い。客室乗務員やパイロットの年間線量限度も会社によって違いますけれど決まってる。ICRPの世界レベルで年間5ミリシーベルト、つまりきちんと管理しておかないといけないものなんですよ。そもそもレントゲンとか飛行機に乗って、ヨウ素もセシウムも吸うわけないので、原発事故と比較する対象として出してくること自体おかしい。それで、世の中に対してどんどん不信感を抱くようになって、地震も原発事故も怖いけど、なにか別の大きなものが私たち住民をだまして殺しにきてるんじゃないかっていうくらい、その後のニュースの報道がものすごく恐ろしかった。



ケン:ニュースの伝わり方に違和感を感じたのよね。



マコ:そして5日後くらいに、吉本興業の劇場が再開して、そこの出番の芸人だけ呼び戻されて、春休み子どもキャンペーンというのをやっていたんです。私たちはその品川プリンスシアターっていう吉本の劇場の看板キャラクターで、毎日小学生以下の子どもたちにプレゼントを渡していて。その頃既に3号炉が爆発して、私は風向きが東京に向かっているのを見て、小さい子どもがいる知り合いの芸人とか社員さんの家や妊婦さんに「ちょっとやばいので逃げてください」と電話して、仲良しの子どもたちは関西や九州に逃げてたんですよ。でも劇場がはじまって、自分が毎日小学生にプレゼントを渡してる状況に矛盾を感じて。こんな仕事はできないわと、劇場の支配人と相談して、原発は東京にいても危ないと思っていることを舞台で言いたい、と伝えたんです。けれど、それは会社としてノーだったので、考えた末に、私が思ったことをブログに書いて、劇場に来たちびっ子にはりがねのプレゼントを渡すときに、一緒に来ているお母さんに「私のブログをよかったら見てください」って言うことを始めたんです。



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映画『プリピャチ』より


ケン:何も言わずに「劇場に来てください」と呼ぶのはできなかったね。



マコ:それで自分でいろんなことを考えたり調べたりしてブログを書きはじめた。そうすると人に伝えるためには、正確な情報を知らないといけないと、テレビや新聞だけでなく、東京電力の記者会見をネットで毎日見るようになったんです。はじめは何言ってるかあんまりわからなかったので、記者会見の内容、出てくる情報と質疑応答をぜんぶ書き起こしてたんです。質問する記者さんの名前と所属媒体と質問内容と所要時間を膨大な量書いてた。そうしたら、どの人がどういう質問をするかがなんとなくわかってくるんです。3月の東京電力の記者会見ってものすごく荒れてて、もっと堅苦しいものかと思ってたので、なんでこんなに怒鳴り声とかヤジが飛んでるんだろうと。



ケン:テレビではあんまりそういうところは見られない。



マコ:インターネットだから「そんな質問聞きたくないんだよ!」とか「お前たちだけの会見じゃないんだ!」って言ってるのも全部流してる。そして必ず手を挙げても当たらない人が何人かいて、最後に東京電力の人が帰ろうとするときに「待ってください!質問させてください!」って言ってるんですよ。会見を見ながら、「またクソだとか言ってるわ」と突っ込んでたんですけど、家にいてもストレスが溜まるだけだし、その頃1日1回か2回吉本の劇場だけっていう暇な状態だったので、東京電力の本社は自宅の品川から自転車でも行けるな、って行くことにしたんです。それは質問をするうんぬんではなく、野次られてる人たちがどう考えても少数派で、私たちはその人たちの質問を聞きたかったので、その人たちが「そんな質問聞きたくないんだよ!」と言われたときに「私たちが聞きたいんです!」って野次り返すために行ったんです。



ケン:でも行ったはいいけど、入り方がわからない。



マコ:東京電力の前で、完璧にお揃いの服着てたんですよ。「どっから入るんだろう」ってふたりで立ってたら、後ろに警察官が8人くらいいて、ものすごく怪しまれて。これはすっと入らないと入りにくいなと思ったのと、誰でもいいから記者さんと仲良くなって、どうやって入るかと聞こうと、携帯で入りやすい会見がないかと調べたんです。そうしたら、たまたま自由報道協会の記者会見が同じ時間にやっていて、誰でも入れる会見だったので、そのまま歩きながら携帯のメールで申し込んで、そっちの会見に行ったのね。



ケン:上原春男先生のね。



マコ:佐賀大学の元教授で、福島第一原発の3号炉の冷却装置を設計した先生の会見だったんです。いろんな人がいたなかで、ひとりすごい派手な和柄のジャンパーを着た人が質問していて、その方が大川興業の大川総裁だった。それで芸人でも質問していいんだと。そのときに、司会をされていた上杉隆さんに「すいません、東京電力の記者会見ってどうやって入ったらいいんですか」と聞きまして、返ってきたのが「誰でも入れるよ。行ったらわかる、ちょっと薄暗いからつまづきそうになるけど、下の階段に気をつけたら入れるよ」という答えだった。



ケン:丁寧に教えてくれたのよね。



マコ:次に行ったら、受付の人に「おはようございます」って言ってすっと入れたんですよ。それで東京電力の会見に行き始めて。そのとき、質問することはあんまり考えていなかったんですけれど、でもそれまでに書き起こしたりして記者会見をずっと見ていて、私たちが聞きたい質問を記者さんの方々がどなたもしてくれてなかったんですよね。






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『プリピャチ』より




ケン:最初マコちゃんは記者さんの邪魔にならないようにすごく遠慮してて。



マコ:私があまり時間をとってはだめだと、最後にものすごく早口で質問してたんだよね。その頃3月、4月に福島第一原発をライブカメラで中継していて、何日かに1回、夜に白い湯気のような煙がよくブワーッと上がっていたんです。爆発しているんだろうかとか、ベントしてるんだろうかとかネット上で話題になっていて、なんであんなに煙が原発から出ているのに、誰もニュースにしないんだろうと、「あの煙はなんですか」といちばんはじめに聞いたんです。そうしたら「水蒸気です」みたいな回答で、「それには放射性物質が含まれてないんですか」って聞いたら、「含まれてございます」って言われて「ございますじゃないだろ!」と。次に「その夜に出てくる湯気に、だいたいどれくらいの放射性物質が含まれていのか、概算でいいので出してもらえませんか」と4月の10何日かに聞いたんですよ。そのときに「夜といいますか、昼夜問わず出てございます」と答えられてまたびっくりしたんです。



ケン:昼間は湯気が見えないのね。





福島では『プリピャチ』のように

30キロ圏から出入りするときに車を乗り換えたりしていない



マコ:記者会見にしょっちゅう行くようになって、評価中みたいな回答が続いていたので、毎週ぐらいしつこく聞いてたんです。そのたびに「5月頭には評価が出ると思います」とか「5月中頃に延びました」みたいなことを言いながら、最終的に出てきたのが7月17日でした。そのときに、大気中に出てくる放射性物質の量は1号炉から3号炉までトータルして毎時10億ベクレルだと。毎時ですよ。しかも、原子炉の上に宙吊りか直接置くことをしなければ正確な数値がでない。



ケン:そのために時間がかかるから、待ってくださいって言ってたのに。



マコ:結局そのときは建屋のうえにモニタリングポストを置こうと考えたけど、無理でした、ということで、周りに置いてあるモニタリングポストから算出しました、と。それが工程表とともに発表されたときに、私は「それ、4月の段階で私が聞いたときに、同じような方法で出せましたよね」って聞いたら、「おっしゃるとおりでございます」って言うんですよ。なんかいちいちどういうこと!?みたいな。「じゃあ今はその数字ですけど、4月の段階だとどれくらいの量なんですか」と聞いたら「4月4~6日までで、概算で毎時2.9×10の11乗でございます」という回答だったんです。ちなみに今年の1月の段階では、0.7億ベクレル毎時、7,000万ベクレル毎時出ています。



ケン:7,000万ベクレルってちょっとよくわからないですけど。



マコ:事故直後と比べたら2,000万分の1だみたいなことを言われるんですけど、それって評価の対象になるのかなと思いながら。



ケン:事故前はそんなに出てない。



マコ:作業員の友達に7,000万ベクレルってどういう感じの数字なのって聞いたことがあるんです。いまは出っぱなしなので、福島の方々のお母さんは「フレッシュな放射能」という言い方をするんですけれど、除染しても除染しても、あちこちから降ってくるんです。原子炉からも出てるし、家の周りを掃除したとしても、風に運ばれてくる。それでも、まだ原発から出てないのであれば、せっせと掃除していればいつか減るのかもしれないですけど、今まだ出続けていて、除染をはじめるのであれば、せめて1号炉から3号炉まできちんとカバーリングをして、毎時0.7億ベクレルとか外にでない状態じゃないと、除染してもあまり意味ないんじゃないかなと言っていたけどね。でもそういうことはあまり外に出てこない声なんですよね。



ケン:『プリピャチ』を観ていて、30キロの立入制限区域から出入りするときに、車を乗り換えたり、服を着替えたりするのが印象的。日本にはそういうことをあまりしていない。



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映画『プリピャチ』より



マコ:福島では30キロ圏内を取材する人も、いったん少し家に帰る人も、車をまったく乗り換えてないんです。去年の9月くらいに避難所に話をしにいったときに、たくさん並んでいる車をガイガーカウンターで測ってみたら、たまにびっくりするくらい高い線量の車があって。タイヤとかゴムは取れにくいからね。車を乗り換えることっていうのはすごく必要なことだと思う。



『プリピャチ』を観たあと福島の状況を見直すと、

日本はチェルノブイリ以下だったんだなと思う




ケン:瓦礫をどこか外にやったりということも問題があるのかな。



マコ:そう、だから『プリピャチ』に出てくる研究員の女の人もゾーンの中と外とでぜんぶ着替えているけれど、福島はそうなってない。でも、そういうことを言うことが頭がおかしいみたいな圧力があるみたいで。例えば郡山のおうちでも、旦那さんが山林関係の仕事をしているので、きっと靴とか服に土がつくのでほんとうは玄関で着替えてほしいんだけど、そういうことを言うと、旦那さんは放射線だいじょうぶだと思っているから喧嘩になることが多いんです。

1月末に、第5回県民健康管理調査検討委員会というのがあって、山下俊一先生が座長で、福島県の健康調査をやっているんです。第1回から第3回までは、まったく傍聴もできず議事録もなく、密室な会議をしていて、でも福島県の被曝に関する健康のことはそこだけで話し合われていたので、「傍聴に行かせろ」と毎週電話していたんです。

去年の10月に第4回に行ってびっくりしたのは、既に骨組みがぜんぶ出来上がっていて、決まったことを言うということしかなくて、どんな議論があったかぜんぜんわからなかった。ただの検討委員会という名の広報みたいな感じで、意味ないなぁみたいな。

この間の5回目の検討委員会は、健康調査の話もあり、18歳以下の甲状腺エコーの数字も出たんですが、もうひとつ気になったのが、福島県としてアドバイザリーグループというのを立ち上げましたというんです。現在福島県の人たちが不安やストレスに晒されているのは、ネットとかで間違った情報を入れているからだと。そのストレスや不安をとるために、県内の各自治体がそれぞれ先生にアドバイスをもらったりしている状況を、県のアドバイザリーグループに揃えて放射線に関する知識を一本化していきましょう、という話を検討委員会でしているんです。それを聞いてひっくり返って。



ケン:個性を取られるみたいな。



マコ:放射線に関するいろんな話のなかで、共通の認識ってよく聞くんですが、福島県の方々は心配する自由がない。放射線に関する不安や思いを口に出せない、それが汚染された地域以上に歪んでるなというのが実感で。今日もここに来る前に、郡山から自主避難している人と話してたのが、いま福島では被災した人同士で心を許すことができなくなっていると。ほんとうはみんなでひとつになって助け合っていきたいのに、放射線に関することで夫婦間や親子で仲が悪かったり、友達同士とかお母さん仲間ですごくいがみ合っているので、ものすごい辛いって言うてた。なので、せめて放射線のことに関しては怖がったり心配しても頭おかしいって言われないようにしてほしいって言われて、もうなんだろう、この切ない願いは、って悔しかった。だから、『プリピャチ』を観たあと福島の状況を見直すと、日本ってチェルノブイリ以下だったんだな、みたいに思うことがあるよね。



(2012年3月6日渋谷アップリンクXにて 取材・構成:駒井憲嗣)















映画『プリピャチ』

渋谷アップリンク新宿武蔵野館他公開中、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/




トークイベント開催



3月13日(火)18:50の回上映後

ゲスト:フランシスコ・サンチェス氏、ナターシャ・ブストス氏(『チェルノブイリ 家族の帰る場所』[朝日出版社刊]著者)、管啓次郎氏(詩人、比較文学者)


http://www.uplink.co.jp/pripyat/news.php#2217





3月16日(金)19:30より トーク付き上映会

ゲスト:池田香代子氏(ドイツ文学翻訳家)


http://www.uplink.co.jp/factory/log/004336.php

以上、渋谷アップリンクにて開催














▼『プリピャチ』予告編


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『プリピャチ』ゲイハルター監督は人間と技術の問題を撮り続ける http://www.webdice.jp/dice/detail/3447/ Fri, 09 Mar 2012 15:40:01 +0100
長崎の軍艦島で新作の撮影を行った『プリピャチ』ニコラウス・ゲイハルター監督 撮影:四方幸子



現在渋谷アップリンクで公開中、チェルノブイリ原発から12年後の立入制限区域に生きる人々を描いたドキュメンタリー『プリピャチ』のトークショーに、キュレーターの四方幸子氏が登壇。渋谷哲也氏(ドイツ映画研究)とともに、今作の日本公開に尽力した四方氏が、ニコラウス・ゲイハルター監督のこれまでの作品について、そして昨年監督が来日した際、新作のために行った長崎の軍艦島での撮影のエピソードを披露した。




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渋谷アップリンク・ファクトリー『プリピャチ』のアフタートークに登壇した四方幸子氏





特定の空間や時間がタイトルにつけられたゲイハルター監督作品









『The Year After Dayton』(Das Yar Nach Dayton)[1997年]




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『The Year After Dayton』(Das Yar Nach Dayton)より


『プリピャチ』の前の彼の初期の作品で、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結が公式に宣言された1995年の「デイトン合意」の翌年に撮られました。デイトン合意の後にどういったことが起きているか、収束していないんじゃないか、現地の人はどう考えどう生きているのかを、『プリピャチ』のように人々に会って取材して作られた映画です。手法的には『プリピャチ』にかなり近いです。ちょうど翌年の春・夏・秋・冬と4回に分けて撮影され、人々の声で織りなされています。






『プリピャチ』[1999年]


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『プリピャチ』より


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映画『プリピャチ』より





『Elsewhere』[2000年]



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『Elsewhere』より


この『Elsewhere』(どこかで)が撮影された2000年は、ちょうどミレニアムで、これから21世紀だと全世界が期待に胸をときめかせていた時期ですが、そんななか、アラスカやパプア・ニューギニア、アフリカやインドなど、昔ながらの生活がある、ほとんど現代文明が届いていない場所、もしくは届きはじめた世界の辺境の地に毎月行って撮影されました。各地を20分にまとめて240分の映画になっている、構造的にクリアな作品です。特定の場所や特定の時間を決めてシステマティックに撮って映画にしています。ゲイハルター監督は、自分なりのしっかりとした構成を持って映画を作っている人だと思っています。






『いのちの食べかた』[2005年]


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食の生産現場とそこで働く人々を描き、日本でも話題を集めた『いのちの食べかた』より





『7915 KM』[2008年]


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2007年ダカール・ラリーの道程を描き、日本でもイメージフォーラム・フェスティバル2009で『7915キロ ダカール・ラリーの轍の上で』として上映された『7915 KM』より





『眠れぬ夜の仕事図鑑』(原題:Abendland)[2011年]



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『眠れぬ夜の仕事図鑑』(原題:Abendland)より


ゲイハルター監督の最新の映画です。Abendとは〈夕暮れの〉〈夜の〉という意味で、「Abendland」には〈大文明が黄昏る地〉という意味もあると思います。ヨーロッパ各地で夜の時間帯だけを撮影した映画なんです。ミュンヘンのオクトーバーフェストという有名なビールのお祭り騒ぎや、夜になっても継続されているEUの会議、全世界のカトリック司祭がバチカンに集まりローマ法王に本音を語る場面とか、火葬場とか、クラブとか、いろんな場所を取材して構成しています。日本で今年の夏『眠れぬ夜の仕事図鑑』というタイトルで公開されます。『いのちの食べかた』の『Our Daily Bread』という英語のタイトルは、キリスト教の「日々の糧」からとられていますが、日本では既に出ていた本(著:森達也『いのちの食べかた』)からつけられました。絶妙なネーミングですけれど、監督によるシンプルなタイトルとちょっと違うなと思うので、原題もぜひ覚えておいてほしいと思います。というのは、彼のほとんどの作品には、特定の空間か時間がタイトルとしてつけられているんです。彼は、一般の人があまり見向きもしない場所や時に関してすごく興味があって、それを追求している。タイトルからもそれが明確に見えるのではないでしょうか。



長崎・軍艦島で撮影された新作『Some Day』



ゲイハルター監督が昨年来日するにあたって、軍艦島に行けないかと打診されました。彼がやっていることは、例えば今すぐ福島に行って何かをするというよりも、時間が経ってしまって、メディアも振り向かなくなりほとんど忘れ去られようとしている状況や場所に対して、そこで何が起きているかを当事者の話をしっかり聞いて集めること。その意味で、彼にとって、自分のなかで構想しているものを進めるためにかつて炭坑として栄え、現在は廃墟となった軍艦島に行きたかったのだと思います。



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撮影:四方幸子





軍艦島はいま長崎市に属しているんです。長崎の中心部からバスで50分くらい、近くの野々串港から船で10分くらいです。周囲を歩くと20分くらいでまわれる、電気も水道もガスもない島ですが、1960年には5,200人以上が住んでいて、日本一の人口密度があったそうです。



現在ごく一部が観光ルートとして整備されていますが、一面瓦礫でほとんどの場所は立入禁止になっているんです。世界遺産の暫定リストに入っていて(九州・山口の近代化産業遺産群)、市もその関係で忙しくて、アートとか文化といってもなかなか難しい。結果的に2ヵ月半以上の交渉の末、撮影許可をいただくことができました。



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撮影:四方幸子



私が通訳とコーディネーターを兼ねて、今回は本人が自らカメラを持って、いろんな場所で三脚を立てて2日間撮影しましたが、言葉にしきれない、得がたい体験をしました。
軍艦島は次作の主な撮影地のひとつなんですけれど、仮タイトルが『Some Day』なんです。今回は人を入れない撮影で、人間がいなくなった後に文明の跡に自然がどのように入り込んでいくのかを考えているとのことです。『プリピャチ』では、最後のほうで原発の研究所で働く女性が、事故前に住んでいた自宅の方へいきますよね。あのときに「りんごの木が生えている、自然の力だわ」と言ったのが印象的で、ついそれを思い出します。自然の力がだんだん戻ってきて、文明の跡を支配してしまう。そういった状況を構想しているのかなと。



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撮影:四方幸子


最新の電化製品を揃えていたし、日本ではじめてのコンクリート建築もこの島でできたということで、人々はいわゆる文化的な生活を送っていたそうです。でも1974年に閉山になり、誰もいなくなってしまった。19世紀以降、機械化・近代化され現在廃墟となった場所は世界各地にあります。



軍艦島もその一つですが、元の面積を3倍に拡張して、人間が資源を取るために大規模な施設を作って、へばりつくようにこの島に住んで、なくなったら廃棄されてしまった。



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撮影:四方幸子



こういった文明のあり方とか思考法がここ150年から200年くらいあったと思うんですけれど、今はそういった時代じゃない。それは311以降の状況でも、すごく感じられたんです。なので、こういったものを作ってしまったこと自体も考えなきゃいけないと思います。




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撮影:四方幸子





ゲイハルター監督の作品は、公共的な俯瞰と、人々の語りにみられるように、生きている一人一人の実感がうまく対比されています。彼が一貫して取り組んでいるのは、忘れられがちな人々の声や場所に向き合い可視化しようとしていること。眼差しとしては、人間とは何かということを問いかけているのかなという気がしていて。『プリピャチ』におけるチェルノブイリ原発のことも、それ以外の作品も、人間と技術の問題を描いていますよね。
人間というのは自然の一部なのに、自然を切り離し対象化して操作できる存在でもあると思うんですが、人間は自分たちのために大規模な技術やシステムを開発して、『いのちの食べかた』であれば食料を大量生産するとか、『プリピャチ』の原子力発電所もそうですが、自然を支配する方向に向かってきた。そういったものが人を幸せにしたのか、と。これからは新しい技術を使って、大規模なエネルギーや製品の生産や使用から、地産池消のようなかたちの分散的なエネルギーや製品の生産や流通の可能性を考えていく時代だと感じています。そしてそれぞれの人が、自分で考えたことを実行したり人と話していく時代だと思います。一部の人に語らせるのではなくて、いろんな人が語りはじめるような社会、そのような社会に向けて私も動いていきたい、と思います。




(2012年3月4日、渋谷アップリンク・ファクトリーにて)










映画『プリピャチ』

渋谷アップリンク新宿武蔵野館他公開中、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/




トークイベント開催



3月16日(金)19:30より トーク付き上映会 ゲスト:池田香代子氏(ドイツ文学翻訳家)

http://www.uplink.co.jp/factory/log/004336.php

以上、渋谷アップリンクにて開催



チェルノブイリから来日するサーシャ・スィロタさんの無料トークイベント開催

3月11日(日)16:20~


会場:UPLINK ROOM(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル2階)

ゲスト:サーシャ・スィロタさん(プリピャチコム副代表・チェルノブイリ被曝者互助団体「ゼムリャキ」広報担当)

料金:無料

http://www.uplink.co.jp/news/log/004348.php












▼『プリピャチ』予告編


[youtube:l0ZDHvfSxA8]



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鎌田實氏が綴る映画『プリピャチ』とチェルノブイリ原発事故現場 http://www.webdice.jp/dice/detail/3435/ Thu, 01 Mar 2012 11:35:50 +0100
1986年に爆発したチェルノブイリ原子力発電所4号炉まで300メートルの地点で撮影。
2010年7月、放射線量は毎時18マイクロシーベルト。事故後24年経っても、放射能はいまだに高い。(写真提供:鎌田實氏)



チェルノブイリ原発事故から12年後、稼働し続けていた原子炉内部に潜入、そして立入制限区域となった周辺地域に住む人たちの暮らしを捉えたドキュメンタリー映画『プリピャチ』が3月3日(土)から渋谷アップリンク新宿武蔵野館ほかで公開。福島第一原発事故後、東北支援や講演活動を精力的に行なっている作家・医師の鎌田實氏に、映画のカメラと同じようにチェルノブイリ原発の敷地内や原子炉内に取材で入った際のエピソード、そして福島に住む人たちへの思いを綴っていただいた。



世界中のどこにも、二度とプリピャチのような町をつくってはならないと思わせてくれる




優れた映画である。啓蒙的でもない。断罪してもいない。ニコラウス・ゲイハルター監督は、立入制限区域で生きるに人たちの姿を静かに映し出す。観客をある方向へ誘導しようとしていない。

だが、監督が自己主張しない分だけ、カメラの前の人たちが大切なことを伝えてくれる。20世紀、人類がどんな間違いをしてしまったのか。世界中のどこにも、二度とプリピャチのような町をつくってはならないと思わせてくれる映画である。

チェルノブイリ原発事故から12年後に作られた。その当時、この映画をもっとたくさんの日本人が見ていたら、この狭い日本に54基もの原発があることに疑問を抱き、少しはまともな議論をしたのではないかと思う。日本のどの町も、プリピャチのような町にしてはいけないという声が出たかもしれない。少なくても安全神話にだまされず、原発を推進する学者や電力会社の幹部、政治家たちがつくる、見えないネットワーク“原子力村”に、もう少し対抗できたかもしれないと思うと残念である。

ぼくは、20年前からチェルノブイリに通っている。初めて訪ねた1991年1月は、プリビャチのゲートまでたどり着いたが、押し問答の末、中に入れてもらえなかった。



1993年、あらためてきちんとした許可書をもらい、30キロ圏内に入った。チェルノブイリ原発の敷地内にも入り、3号炉にも入った。プリピャチ市の遊園地も見た。爆発した4号炉はすでに石棺で覆われていた。一帯は石棺の名の通り、文明の墓場のようであった。

2010年7月、再び30キロ圏内に入った。24年経っても森や草むらは放射能が高かった。

多くのところが毎時10マイクロシーベルトを超え、いちばん高いところでは毎時18マイクロシーベルトだった。




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チェルノブイリの体育館にあった温水プールの残骸(写真提供:鎌田實氏)


21世紀、ぼくたちはどんな生き方をしなければならないか見えてくる



汚染された森が自然発火で燃えると、放射能が大気中に放出され、風に乗って汚染を広げてしまう。それを防ぐため、30キロ圏内には多くの消防士が配されていた。

すでに3号炉も停止し、チェルノブイリ原発の息の根はすべて止まった。だが、4号炉の燃料棒はまだ取り出せていない。“モンスター”を管理するために、今も多くの人が働いていた。石棺の老朽化でひび割れがひどく、石棺をドームで覆う計画が立っていた。ここに、だれかが住めるようになるなんて、思っている人はだれもいかなった。文明の廃墟である。

原子炉のそばにある冷却水のため池には、映画と同じように、巨大なコイやナマズの姿が見えた。コイやナマズも放射能で汚れている。森のシカやイノシシも、そうだ。

30キロ圏内やその外側にできたホットスポットは、強制移住の命令が出され、地図から消された。たが、故郷を離れられないお年寄りがそこに残り、今も暮らし続けている。彼らは、「サマショーロ」と呼ばれている。ロシア語でわがままな人という意味だ。

だれにとっても故郷は特別なものだ。年をとると多くの人は故郷から離れられない。一度都会に出たものの、都会の生活になじめず、息子や孫を置いて戻ってきたお年寄りたちもいる。

ベラルーシ共和国のゴメリ州ベトカ地区には、「埋葬の村」がある。高汚染のため家屋を埋めた。住んではいけない村だ。ぼくはその村を毎回訪ね、診察をしている。そこに残ったおばあちゃんが、こんなことを言った。

「村から出てった同年代の人たちはみんな都会で死んだ」。

放射能は明らかに、リスクである。しかし、生きるうえでのリスクは放射能だけではない。絆がなくなること、仕事がみつからないこと、生きがいを失うこと、それらもすべてリスクである。





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1986年5月1日にオープンするはずたったプリピャチの遊園地。その直前の4月26日に4号炉が爆発した。観覧車は、一度も子どもたちを乗せることなく、さびついている。(写真提供:鎌田實氏)




映画『プリピャチ』に出てくる30キロ圏内に住み続ける人たちは、みんな故郷にこだわっている。絆も、仕事もなくなり、電話もつながらない。汚染地に残っても、辛いのだ。

故郷に住みたい人から故郷を奪ってしまうことは、どんなにむごいことか。今、福島の人たちを見ていて、心からそう思う。福島を出て行った人たちも心に傷を残している。だから、「逃げた」なんて言ってはいけないのだ。福島に残った人たちもみんなつらい。みんな不安のなかで生きている。

この映画をじっくり見ると、21世紀、ぼくたちはどんな生き方をしなければならないか見えてくるような気がする。二度とチェルノブイリやフクシマを起こしていけないと、この映画は静かに語っている。

たくさんの人にみてもらいたいと思う。そして、世界中のどこにも三度、こんな悲しい事故を起こさないように何をすべきか決断するときがきているように思う。



(文:鎌田 實[医師・作家] 『プリピャチ』パンフレットより)









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映画『プリピャチ』

2012年3月3日(土)、渋谷アップリンク新宿武蔵野館他、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/



特別先行上映会



双葉町出身者、関係者、双葉高校同窓会対象の特別先行上映会を開催

2012年3月1日(木)

18:50開場/19:00上映 上映終了後、意見交換会/21:30終了予定

会場:アップリンク・ファクトリー(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1F)

料金:無料

定員:50名 ※ご予約の先着順になります。ご了承ください。

詳しくは下記まで

http://www.uplink.co.jp/news/log/004331.php



連日トークイベント開催



3月3日(土)12:50の回上映後 ゲスト:渋谷哲也氏(ドイツ映画研究)

3月4日(日)12:50の回上映後 ゲスト:四方幸子氏(メディアアート・キュレーター)

3月6日(火)18:50の回上映後 ゲスト:おしどりマコ・ケン氏(夫婦音曲漫才)

3月8日(木)12:50の回上映後 ゲスト:佐藤幸子氏(子供たちを放射能から守る福島ネットワーク)

3月16日(金)19:30より トーク付き上映会 ゲスト:池田香代子氏(ドイツ文学翻訳家)


http://www.uplink.co.jp/factory/log/004336.php

以上、渋谷アップリンクにて開催



チェルノブイリから来日するサーシャ・スィロタさんの無料トークイベント開催

3月11日(日)16:20~


会場:UPLINK ROOM(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル2階)

ゲスト:サーシャ・スィロタさん(プリピャチコム副代表・チェルノブイリ被曝者互助団体「ゼムリャキ」広報担当)

料金:無料

http://www.uplink.co.jp/news/log/004348.php












▼『プリピャチ』予告編


[youtube:l0ZDHvfSxA8]



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未来が見通せない状況でも人が生きていられることに感動した http://www.webdice.jp/dice/detail/3432/ Wed, 29 Feb 2012 12:04:33 +0100
『プリピャチ』のニコラウス・ゲイハルター監督 (c)Philipp Horak


『いのちの食べかた』のニコラウス・ゲイハルター監督がチェルノブイリ原発事故から12年後に近隣の街の住民や労働者、そして当時まだ4号機の事故を起こしながらも稼働していた原子炉の中にカメラを向けたドキュメンタリー『プリピャチ』が3月3日(土)から渋谷アップリンク新宿武蔵野館ほかで上映される。

ゲイハルター監督は、ヨーロッパで事故当初から次第にメディアの報道が減り、忘れ去られようとしていた原発事故を忘れさせないために、この映画を製作したという。今回のインタビューでは、ほかにも事故現場から4キロの街での撮影の様子や、福島第一原発事故後の日本で公開されることについて率直に語っている。



福島原発事故は意外なことでも偶然でもない



──1999年に制作されたこの映画が、3月11日の第一原発事故後の日本で公開されることについて、どのように感じていますか。



私は原発というテーマに関する専門家ではありません。そして、12年前に偶然この映画を制作しました。ただ、今作がいま日本で公開されることは偶然だとは思っていません。

私は14歳のときチェルノブイリの原発事故を体験しましたが、その時にメディアは様々なかたちで原発事故を紹介し、話題になりました。しかし、生活は続き、人々からだんだんと忘れられていくなかで、社会は変わっていきません。ですから、そのあと25年たって福島でも同じ状況が起こったのです。




福島のことを聞いたときショックを受けましたが、不思議だとは思いませんでした。まさにこういう状況が起こるというのは25年の間にずっと考えてきましたから。ただ、次にこういう原発事故が起こるのは日本であろうということまでは想像していませんでした。ニュースで見る映像からすると、この映画で撮影したチェルノブイリのゾーンという立ち入り禁止区域の非常にさびれた様子と福島の様子は、同じであると推測することができました。

とても高価な車を買っても、その車が木に衝突する事故を起こして死んでしまうこともある。つまり、どんなにすごいテクノロジーでも、どんなにお金をかけても、事故を起こす危険は必ずあるのです。ところが、人間はそれを忘れてしまい、忘れたころに大事故が起こる。原子力発電のシステム自体がそうした要素を含んでいるということからすると、意外なことでも偶然でもないということです。






──福島第一原発事故の報を聞いたとき、チェルノブイリの事故当時を思い出しましたか。



チェルノブイリ事故の時は、例えばミルクは飲んではいけないとか、風の強い日に表に子供は出ちゃいけないとか、遠く離れたヨーロッパでもそうしたことが言われていました。あまりパニックを起こさないようにと思いながら、その一方で大変なことが起こっているんだなということはわかりました。メディアがはっきりと伝えてくれないので、いったい何が起こったんだ、とずっと不安を感じていたことは覚えています。チェルノブイリの事故は、ソビエトという国が非常に複雑だから情報が発表されないのだとそれまで思っていましたが、福島の事件が起こったとき、やはり同じように矛盾している情報が数多く出てきたことに、非常に苛立ちを覚えたのです。




福島の事故でも、メディアが紹介するときは、人々の興味を惹くことしか頭にありません。だからこそ私は『プリピャチ』を作りました。チェルノブイリも事故が過ぎ去ってしまうと、メディアはまったくとりあげなくなってしまったからです。このような映画が作られて、その後で人々の意識や民主的な行動は少しは変わったかもしれません。ただ、メディアがやっていることは今も昔も変わっていないと思います。はっきりとした解決法はないのですが、私はこの映画を作りながらそのようなことを考えていました。

しかし撮影中、いちばん感動的だったのは、ゾーンの中に戻った人たちが、危険があるということを知っていながらも、なんとか生活を立て直そうとしていること。未来が見通せないこうした状況の中でも人が生きていられるということでした。





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『プリピャチ』より


防護服は着ないで撮影した



──撮る前にゾーンの中がどういう状況かわかって撮りに行ったのですか。また、撮った後で自分の想像と違うことがありましたか。



もちろん映画を撮る以前に様々な報道で写真を見ていたので、ゾーンの中がどんなものなのかという知識はありましたので、実際に入って見たことに関して驚いたことはありません。想像していた通りのものを撮影できました。ただ、その中で本当に人々が生活している姿というのは驚きではありました。ゾーンというのはコンパスで描いたように丸くなっているのですが、実際にその地域に住めるか住めないかは円では分けることができません。そういう点では疑問も感じましたし、福島でも同じことだと思います。30キロのゾーンの外でも非常に汚染の強い地域もあれば、ゾーンの中なのにずっと線量の低い地域もあります。ゾーン内の線量の低い地域では生活もできるし物も作れる状況なんですが、ゾーンの外になると別に除染作業はされないわけです。



──撮影期間はどのくらいでしたか。また、どれくらいの村人に取材しましたか。



映画の制作には2年くらいを費やしましたが、そのなかでゾーンの中は、3回に分けて撮影を行い、中断を含んで3ヵ月間とどまりました。ドキュメンタリー映画として当然のことですが、観ていただいた以外にも大量のマテリアルを撮影したものの、本編には使われませんでした。

インタビューしたのは10~15人くらいですね。3ヵ月しかいなかったので、その間にいろんな人と知り合い、関係を密にして、インタビューできる人をさがしました。この時期の村人たちは、完全に外から切り離され、忘れ去られている中で生きていたので、わたしたちのようなチームがやってきて話しかけてくるのを非常に喜んでいました。交流をもったうえで話しかけると、みんな撮るのを了承してくれました。



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『プリピャチ』より



──スタッフの人数は?その中に放射能を怖がっている人はいませんでしたか。



3人のオーストリア人とウクライナ人2人の5人組で撮影を行いました。このチームでゾーンの中に入り、いろんな人を訪ねて、そこにとどまりリサーチを重ねました。ゾーンの中でも、呼吸したりものを食べたりしても大丈夫な地域というのがあるとわかったので、注意しながら生活しました。映画の中で働いている人がしていたように、普段は普通の格好をしていても、例えば埃が舞ったときだけマスクをつけるというような状況です。ただやっぱり、キノコをどうですかと勧められた時は、「ちょっと食べられません」と断ることはありました。防護服については、着るのに手間がかかることと、村の人たちとの距離も生じてしまうので、着ませんでした。そして撮影の前後では、ウィーンの放射能の研究所でホール・ボディ・カウンターを行い、どれくらい被曝したかということをチェックしました。



──そのウィーンでの被曝の検査結果はどうだったのですか。



オーストリアでは専門家が1年間に浴びていい線量が決まっているのですが、3ヵ月の滞在でそれを超えるくらいの線量を記録はしました。私たちは1回受けただけですが、それを現場作業員はずっと受け続ける、というのを考えると……ガイガーカウンターですべての線量を測り、外から持ち込まれる食べ物だけを食べて身を守るといことができない人たちもいるわけですから。



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『プリピャチ』より



問題は未解決のまま残っている




──モノクロで撮っていることについては、どんな意図があるのでしょうか。



なぜ白黒で撮ったかというと、放射能の見えない危険性を何らかの形でわかるようなものに表現したいと思ったからです。そして白黒で撮ると、テレビと違い、これが映画であり、撮影されたものであるということがずっと意識されます。つまり記録されたものであるということが観客の意識からなくならないようにしたかったのです。そこに映っているのはまさにゾーンの中のものです。それを繋ぎ合わせることで、ひとつのまとまった世界を見せたかったのです。



──長回しや音楽を使わないといった手法について聞かせてください。



そこに映っている人を体験でき、感じられるようにするためです。観客がこの映画の空間の中に自分でどんどん浸っていって、自分で見て考えることができる、その空間を体験できるようにすることを心がけています。そこにナレーションや伴奏音楽が入ると、当然、自由な空気を体験することを妨げてしまいます。特にこの映画のような場合には、そこに流れている自然の音や言葉といったオリジナルの音、まさにそこで鳴っている純粋な音を残すというのは非常に重要なことだと思います。




──最後に、現在の原発反対運動、人々の対応、今後の技術の発展、そして原子力発電のこれからについてどう思われますか。



私の意見としては原子力に未来はないだろうということです。科学者は開発を進めますが、最後がどうなるかということまでは考えてないでしょう。つまり、稼働すると廃棄物がどんどんできていくということです。ただ一つの国でさえ廃棄物をどのように最終処理するか見つけていない。その問題は未解決のまま残っているわけですから。

福島の後、同じことが起こらないようにとヨーロッパは考えています。地続きのヨーロッパと違い、島国の日本で新しいエネルギーを開発するのは大変難しいことだとは思います。とはいえ、日本の高度な技術を今こそ用いて新しい解決策を見つけていくべきではないでしょうか。もし今カメラを持ち、原発の問題をテーマに新しい映画を作ろうと思ったら、日本で撮ることになるでしょう。日本はこれからの新しいエネルギーを考えるのに極めて大きなチャンスがあると思います。





[2011年12月3日 アテネ・フランセにて]









ニコラウス・ゲイハルター プロフィール


1972年オーストリア・ウィーン生まれ。食べ物の大量生産の現場を描く『いのちの食べかた』(2005年)が話題を呼ぶ。2011年制作の『眠れぬ夜の仕事図鑑』(原題:Abendland)が2012年初夏公開。










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この映画が描いているのは間違いなく数年後のフクシマなのだ:事故後のチェルノブイリ原子炉内と立入制限区域に潜入した映画『プリピャチ』コメント(2012-02-21)











映画『プリピャチ』

2012年3月3日(土)、渋谷アップリンク新宿武蔵野館他、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/



特別先行上映会



双葉町出身者、関係者、双葉高校同窓会対象の特別先行上映会を開催

2012年3月1日(木)

18:50開場/19:00上映 上映終了後、意見交換会/21:30終了予定

会場:アップリンク・ファクトリー(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1F)

料金:無料

定員:50名 ※ご予約の先着順になります。ご了承ください。

詳しくは下記まで

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連日トークイベント開催



3月3日(土)12:50の回上映後 ゲスト:渋谷哲也氏(ドイツ映画研究)

3月4日(日)12:50の回上映後 ゲスト:四方幸子氏(メディアアート・キュレーター)

3月6日(火)18:50の回上映後 ゲスト:おしどりマコ・ケン氏(夫婦音曲漫才)

3月8日(木)12:50の回上映後 ゲスト:佐藤幸子氏(子供たちを放射能から守る福島ネットワーク)

3月16日(金)19:30より トーク付き上映会 ゲスト:池田香代子氏(ドイツ文学翻訳家)


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以上、渋谷アップリンクにて開催












▼『プリピャチ』予告編


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この映画が描いているのは間違いなく数年後のフクシマなのだ http://www.webdice.jp/dice/detail/3425/ Tue, 21 Feb 2012 17:27:43 +0100
映画『プリピャチ』より、チェルノブイリ原発内でインタビューに答える作業員


1986年のチェルノブイリ原発事故から12年後、4号炉の事故のあとも稼働し続けていた原子炉内の撮影を敢行し、立入制限区域となった現場から4キロの街に住む人々にインタビューを行ったドキュメンタリー『プリピャチ』が3月3日(土)より渋谷アップリンクで公開される。日本でも話題を呼んだ
『いのちの食べかた』のニコラウス・ゲイハルター監督が原発事故後の実態を捉える今作品を観た漫画家、詩人、ジャーナリスト、写真家、キュレーター、映画監督の方々からのコメントを紹介する。




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──しりあがり寿(漫画家)


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映画『プリピャチ』より



私は南相馬市に六年ほど暮らした。昨年の暮れに、二十キロ圏内に防護服を着て入った。よく遊びに出かけた小高区や浪江区に行って現場を見てきたが、涙が止まらなくなってしまった。この間まで親しかった土地の表情はがらりと冷たいものに変わっていた。何にもつながっていない世界が広がっていて、たとえようのない静閑さがそこにあった。春頃まで暮らしが営まれていたはずなのに、無人地帯は残酷なまでに私に何も語らない。



圏内は、爆発後すぐに避難指示があって、立入禁止となった。津波に巻き込まれて、その後に命からがら浜に打ち上げられた人々…。救助の手をもらえず、そのまま寒さにうち震えながら、命を落とした方がたくさんいらっしゃった。その海辺に行き、手を合わせた。



絶望だ。人類の静けさを現代に、後世に伝えなくてはいけない。『プリピャチ』はこの静寂と足し引きなく向き合っている大切な映画である。本編の人々の語る言葉に、耳に訪れた浜辺の鳥たちの声を想った。合間の沈黙に、生きることのかけがえのなさがある。




──和合亮一(詩人)





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映画『プリピャチ』より



『プリピャチ』で描かれるのは、淡々と続く「チェルノブイリ」後の日常だ。畑を耕し、川魚を釣りあげ、大地と共に暮らす人々。風にそよぐ木々の上からは、歌うような鳥の鳴き声も聞こえてくる一見のどかな、どこにでもある田舎の風景。だが観客が「見えない放射線」を感じ取ることができるようになると、それらはまったく別物となる。汚染された灰色の世界、その中で暮らすことを余儀なくされた人々。彼らを襲うのは、正確な被曝量が分からない不安、他人には理解されない孤独。それだけでなく、経済的にも追い込まれていくのだ。映画『プリピャチ』のモノクロ映像は、それら一連の不安と恐怖を、否応なく見る者に想像させてしまう。「黙示録」と呼んでも良いかもしれない。この映画が描いているのは、間違いなく数年後のフクシマなのだから。




──桃井和馬(写真家・ノンフィクション作家)



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撮影:桃井和馬



『プリピャチ』を初めて見たのは2011年6月。事故後も現地で生きる人々の日常や思いが語られるその内容、そしてゲイハルター監督の、つつましくその場や人々に寄り添う姿勢に共感し、ぜひとも多くの人々に見てほしいと公開に向けて動いた。チェルノブイリ事故12年後を描いたこの映画を今見てもらう意味を強く感じたこと、感銘を受けた『いのちの食べかた』の監督であること、また個人的にはチェルノブイリ事故の時、ドイツに滞在していたことが原点となっている。『プリピャチ』をはじめとする多彩なドキュメンタリー作品においてゲイハルター監督は、世の中から忘れられつつある場に静かに分け入り、各人の言葉や自然の息吹を丹念にすくいあげる。彼が一貫して問いかけているのは人間と技術、そして自然との関係である。取り上げられるのは歴史の舞台から外れた時間や空間であり、連綿と息づく人々や自然である。彼の作品は寡黙で、それゆえに問いを雄弁に投げかける。彼の作品は切なく、そして真摯に美しい。




──四方幸子(メディアアート・キュレーター)




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映画『プリピャチ』より





老人が馬車でゆっくりと村を一周する。汚染されている川で今も漁をする老人が、ゆっくりと船を漕ぐ。今も発電所の研究所で働く女性は、廃墟となったわが家を訪ねてみる。カメラは、ゆっくりとその場所を移動する人々を延々と追い続ける。そこは「ゾーン」と呼ばれ、そこから何も持ち出しては行けないし、何も持ち込んでは行けない場所。しかし、その計り知れない危険がカメラに写る訳ではない。特別なことは何も起きない時間と空間。老人が言うようにそこは実は安全で「不安は無い」のかもしれないし、警備員が言うように「100年後も人は住めない場所」なのかもしれない。しかし、当然ながら放射能は写らないし匂いも色も無い。危険とは「情報」でしかないかもしれないのに、ここにはその情報さえ無い。『プリピャチ』は決して声高に主張せず、その孤島のような場所で日常を生きることの不確かな不安、決して視覚化されることの無い恐怖の質というものを、明晰なカメラによるシンプルな映像言語で浮かび上がらせる。「たいして恐ろしくない」ということがどれほどの悲劇であるのかを私たちは思い知る。




──諏訪敦彦(映画監督、東京造形大学学長)











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タイムマシーンでフクシマの未来を見てきたかのような気がする:チェルノブイリ原発周辺の立入制限区域にある日常を捉えた映画『プリピャチ』へのコメント(2012-02-15)











映画『プリピャチ』

2012年3月3日(土)、渋谷アップリンク他、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/










▼『プリピャチ』予告編


[youtube:l0ZDHvfSxA8]




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タイムマシーンでフクシマの未来を見てきたかのような気がする http://www.webdice.jp/dice/detail/3420/ Wed, 15 Feb 2012 19:39:13 +0100
映画『プリピャチ』より



3月3日(土)から渋谷アップリンクで公開となる映画『プリピャチ』は、1986年のチェルノブイリ原発事故から12年後、多くの人が避難するなか周辺地域30キロ圏の立入制限区域に留まり生活する人々を捉えたドキュメンタリーである。『いのちの食べかた』(2005年)で知られ、今年新作『眠れぬ夜の仕事図鑑』公開を控えているニコラウス・ゲイハルター監督が、音楽やナレーションに頼らず描き出す風景を、福島在住の人々やジャーナリスト、評論家はどのように見たのだろうか。



『プリピャチ』を観ると、タイムマシーンで「フクシマ」の未来を見て来たかのような気がする。

「ゾーン」の中で生活する老人がいることは、人間の生命力の強さを感じる、「帰りたい」と思う人に「希望」と「勇気」を与える。

収束作業にかり出された若者たちは、放射能に関しての知識もなく無用な被曝をさせられ死んでいったと、悔やむ女性技術者とは対照的に、「今後、事故は起こさない」と断言している責任者。
広大な大地を汚染し、多くの人々の人生を狂わせてしまった原発を、チェルノブイリでさえ止めずに稼動し続ける現実に、原発の魔力にとりつかれた人間の「欲望」を見ることが出来る。
未だに馬車を走らせ、バケツで水を汲むプリピャチは、日本の昭和30年代を見ているような懐かしい風景。モノクロの映像がなお郷愁を誘う。その中に、映像には決して映らない「放射能」が存在する。それと、どう向き合うのか、「フクシマ」に課せられた大きな課題でもある。



──佐藤幸子(子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク世話人/NPO法人青いそら設立理事長)





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映画『プリピャチ』より



チェルノブイリ原発事故の処理関連の仕事でこの立ち入り制限地区に入った人は、そこを平気で「ゾーン」と言う。

けれど、住み慣れたふるさとが外部からある日突然「ゾーン」などと命名されて、穏やかでいられる人はいない。原発建設とともにニュータウンに移り住み、今は外から発電所に通うかつての住民は、ずたずたの心をその饒舌にあらわにする。原発以前からの旧住民、それは仲のいい老夫婦なのだが、この二人は過酷な現実を威厳とユーモアではね返す。きのこや魚をとって食べるのは、貧しいからでも無知だからでもない。それが、祖先の知恵と努力が染みついたふるさとでの、誇り高い生き方だからだ。

モノクロの、人物を真正面から捉えたロングショットという話法は、ラストの老人の述懐に至って、叙事詩の作法だったと思い知る。寡黙きわまる映像にもかかわらず、それを追う者の内部にはおびただしい思念が渦を巻き、気がつくと深く心を耕されている。




──池田香代子(ドイツ文学翻訳家・口承文芸研究家)




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映画『プリピャチ』より



映画撮影のために監督たちは3ヵ月間《ゾーン》に滞在した。低線量の場所を選び、食物も外部から取り寄せたという。にもかかわらずオーストリアの放射線作業従事者の年間許容量を超える被曝をした。恐るべき危険な撮影だとこちらが息をのむ間もなく、監督は「その土地には線量計も持たず、外部から食料を取り寄せることもできず生活している人たちがいる」と指摘した。映画『プリピャチ』を見るという体験は、日常や社会通念が完全に食い違ってしまった2つの世界を往来することに等しい。郷土愛を語る言葉はまるで遺言のように響く。一方で「この土地には150年経っても人は住めない」という専門家の声は、10万年後というSF的な次元の話ではなく、今まさに人間の生活圏が壊れつつあるという現実を直視させる。『プリピャチ』のモノクロ映像は、《ゾーン》という領域がまさに不可逆的に生まれてしまった不条理を象徴しているのかもしれない。



──渋谷哲也(映画研究、ドイツ映画、比較文化)




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映画『プリピャチ』より


プリピャチはチェルノブイリ原発そばの村の名前である。原発から4キロという近さだ。原子炉から吐き出された冷却水を運ぶ川の名前でもある。

チェルノブイリ原発事故後、30キロ圏内は立ち入り禁止区域となり、プリピャチ住民5万人が避難した。避難後に戻ってくるなどして、事故から12年後の映画撮影時(1998年)には700人が立ち入り禁止区域で生活していた。

元原発作業員の老夫婦が冒頭と最後の場面に登場する。二人はプリピャチ川に釣りに出かける。「昔は川の水を汲んで茶を沸かした。川は浅かったけど水は澄んでいた。この河畔で生まれたんだから、ここで死にたい」。淡々と話す老人の口調が観る者の胸をえぐる。

「ここで死にたい」と願い、線量の高いことを知りながら福島に住み続ける老人は数えきれない。『プリピャチ』でチェルノブイリ原発事故から12年後に起こったことは、すでに福島で起きている悲劇である。




──田中龍作(ジャーナリスト)




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映画『プリピャチ』

2012年3月3日(土)、渋谷アップリンク他、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/










▼『プリピャチ』予告編


[youtube:l0ZDHvfSxA8]





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南相馬は、こうはさせない! http://www.webdice.jp/dice/detail/3414/ Tue, 07 Feb 2012 15:51:29 +0100
映画『プリピャチ』より



『いのちの食べかた』のニコラウス・ゲイハルター監督が、チェルノブイリ原発事故の12年後、立入制限区域となった現場から4キロ離れた街に住む人々、そして原発や関連施設の関係者を捉えたドキュメンタリー『プリピャチ』が3月3日(土)から渋谷アップリンクで公開される。誰もがフクシマのことを思い出さずにはいられないこの作品について、アーティストや作家、評論家、福島在住の方々からの感想を3回にわたり紹介する。



プリピャチ・30キロ・ゾーン、この言葉は南相馬に住む私には胸がざわつく響きをもたらす。白黒の画面が動き出し、建物の残骸が現れる。チェルノブイリ原発事故から12年を経たプリピャチのこの風景を目にしたとき、直感的に「南相馬は、こうはさせない!」と思った。原発事故から一年、私たちは30キロゾーンでしっかりと生きている。だれもの胸の奥には放射能への不安が重低音のように流れ、日常会話の多くがプリピャチの住民の言葉と重なるが、みんなこの町で新しい未来を創ろうと動き出している。今、南相馬で暮らす市民は、顔つき、目の光が少しずつ変わってきている。新しい未来を創るために放射能と真正面から向き合いそれを乗り越えるという志を持った若者を中心とした動きが新しいうねりを生み出している。世界中の叡智が集まる兆しが私たちに希望をもたらしている。

南相馬は死なない!

みなさん、南相馬に来てください!

一緒に人類の新しい未来を創りましょう!



──高橋美加子(つながろう南相馬/(株)北洋舎クリーニング代表取締役)





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映画『プリピャチ』より



私がプリピャチの街に実際に入ったのが1997年なので、ほぼこの映画撮影と時期だ。当時出会った老人も出演していたので再体験するように記憶がよみがえる。
映画のように、会う老人全てが気さくでとびきり優しく、遠い国からの訪問者を喜んで歓迎してくれた。わが身の不幸をぶちまける事無く黙々と日常を過ごす姿にその時はまだ笑顔で返せていた。しかしゾーン内に住む3歳の坊やに出会ったときはさすがに私の心の中は行き場の無い怒りに震えた。

「人類はなんて愚かなものに手を出してしまったのか…」。
その怒りのエネルギーが今でも作品を作り続ける原動力となっている。

この映画は見る人の多くにそういう体験を与えてくれるのだと思う。



──ヤノベケンジ(現代美術作家)




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映画『プリピャチ』より



昨日、今日と福島県飯舘村のKくんが東京の私の家に泊まりに来ています。「一緒に『プリピャチ』見る?」と誘ったけど、めんどくさいのか興味ないのか乗り気でない感じ。村が放射性物質で汚染されたことをとても憂えて、子供たちが被曝してしまったのではないかと本当に心配して動いているKくん。だけどやっぱり『プリピャチ』はまだ見たくないのかもしれない。

グーグルアースでチェルノブイリを探し始めたKくん。「わー拡大したら石棺が見えるね」「プリピャチってここだ、ちかーい!」などなど騒ぎながら見たあとに、飯舘村を見出して。「僕んちここですよ、ここが畑。トマトとか白菜とかいっぱいあって。」「Iさんちはどこ?」「えーと、ここ!」「Hさんの牧場は?」「ここ!あ、猪がいる!」「ここが線量高くってね」「ここが汚染廃棄物の仮置き場の候補地になっちゃった」空から飯舘村を案内してもらいながら、こうして、故郷を眺めるプリピャチの方々もいらっしゃるんだろうか、とふと思いました。



──おしどり♀マコ(夫婦音曲漫才)




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映画『プリピャチ』より


3.11に関する幾つかのドキュメンタリーを観ながら一喜一憂していたある日『プリピャチ』を観た。繰り返し観た。何度観ても新鮮なのは何故だろうと考えながら観た。1999年に語られた「立ち入り禁止区域」で暮らす人々の言葉は10年以上経った今も褪せる事なく私たちの心に突き刺さる。声を荒げる事も無く疑問や矛盾を“普通”の言葉で率直に語る“普通”の人々の言葉は、原発問題に揺れる今の私たちに重くのしかかる。「ゾーン?30キロ圏外なら安全か?有刺鉄線が放射能を防ぐのか?」と語る老夫婦。「政府の対策は間違っている」とカメラに向かって語る発電所の職員や医師。誇らしげに原子炉について説明した作業員もいつしか緊張が解け生活もままならず家族を養えないと訴える。医療器具もない診療所で老婆が呟いた。「生きるには働かないと。でもどう生きれば?」かつての“普通”は戻らない。新たな“普通”になりつつある今を考えさせてくれる100分。



──ヤン・ヨンヒ(ジャーナリスト、映画監督)













映画『プリピャチ』

2012年3月3日(土)、渋谷アップリンク他、全国順次公開




監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター

1999年/オーストリア/100分/HDCAM/モノクロ



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/pripyat/










▼『プリピャチ』予告編


[youtube:l0ZDHvfSxA8]





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