webDICE 連載『Filmmakers in N.Y』 webDICE さんの新着日記 http://www.webdice.jp/dice/series/27 Mon, 16 Dec 2024 20:16:17 +0100 FeedCreator 1.7.2-ppt (info@mypapit.net) ニューヨークを駆け巡る神出鬼没の野外上映プロジェクト「ルーフトップ・フィルムズ」 http://www.webdice.jp/dice/detail/3871/ Fri, 17 May 2013 15:55:15 +0100
ブルックリンのTHE OLD AMERICAN CAN FACTORYで行われたルーフトップ・フィルムズ(2012年)


神出鬼没の野外上映集団「ルーフトップ・フィルムズ」は、5月-9月にかけてニューヨークの様々な野外スペースで約50-60上映イベントを開催し、毎年ニューヨーカー約3万人を動員する、ニューヨークのインディー映画界における夏の風物詩的な存在である。サステイナブル・フィルムメーキングについて考察するシリーズの一環として、今回はそのルーフトップのプログラム・ディレクターであるダン・ヌクサール氏に取材した。自分たちの作品制作と生活維持のために、前回の記事から大分時間が空いてしまったことをお詫びいたします。





ルーフトップ・シネマ・ヒストリー




始まり 1997





「アンダーグラウンド映画を野外で」(筆者訳。オリジナルは “Underground Movies Outdoors”)をタグラインに1997年に生まれた“ルーフトップ・フィルムズ夏の上映シリーズ”は、超低予算・劇場未公開の優れたインディー/アバンギャルド映画の新作を紹介するイベントである。始まりは、ニューヨーク州ヴァッサー大学卒業後マンハッタンに帰郷したマーク・ローゼンバーグ氏が、こんなに沢山の映画が作られているのに見せる場所がないことを不可解に感じ、自分の借りていたイーストヴィレッジのアパートの屋上に16ミリの映写機と白いシーツと安い音響システムを持ち込み、友人・近所の住民を集めて行った一度の上映会であった。その日に集まった300人ほどの観客の中には、自作の映画の缶を持参した輩も多かったらしく、記念碑的となったその夜の上映は深夜まで及んだという。その後家主に見つかってマーク氏は家を追い出されてしまう。



ブッシュウィック時代 1998-2003



イーストヴィレッジのアパートを追い出されたマークは、大学時代の友人達に助けを求める。そのうちの一人が今回取材したダン氏である。ダンともう一人の友人は当時、プエルトリコとドミニカ共和国からの移民の街であり、高犯罪率の貧困地区であったブルックリンのブッシュウィックに、もと倉庫をロフトに改築して住んでいた。3人はそのビルの屋上に骨組みのしっかりしたスクリーンを組み立て、そこで上映を始める。98年夏に1回、99年夏に5回、2000年夏には8回の上映が行われている。その頃ブッシュウィックにはアーティストやミュージシャンが安い住居/活動スペースを求めて移り住み始めており、ルーフトップはそれら若いアーティスト(白人系が主体)と、長年の住民たち、また彼ら貧しい移民を支えて来た地元のNPO団体などをつなげる役割として、活気溢れる新コミュニティ作りの一翼を担う。2001年に、マークをアーティスティック・ディレクター、ダンをプログラム・ディレクターとして、彼らを含めてスタッフは全員ボランティアながら、正式な非営利団体として登録する頃には、夏を通しての金曜日上映が始まり、上映前には新進バンドの演奏も取り入れた。ブルックリンだけでなくマンハッタンからの客も増え、動員数も応募数もかなりの数を保ち続ける人気スポットになっていた。



ガワナス時代 2004-現在



ニューヨークの街は、移民や黒人地区にアーティスト達がまず入り込み、カフェやレストランが建ち始め、次第に地価と家賃が跳ね上がり、人口分布がまた変わる。ブッシュウィックのコミュニティ作りに貢献したルーフトップも、2003年、再度ヴェニューを失った。しかし翌年、ブルックリン・パークスロープにほど近い工業地帯ガワナスで、もとはオールド・アメリカン缶工場だった巨大なビルに移る機会を得た。そのビルをアート&デザイン空間として再生するプロジェクトを進めていた若手の建築デザインチームとの共同事業の話がまとまり、その屋上に幅19メートルを超える大型スクリーンを設置、パーマネントな上映スペースを確保できたのである。またその一室に初めてオフィスを構えた。それ以来、缶工場の巨大な屋上をホームグラウンドとしながら、夏にはブルックリン各地及びマンハッタンやスタッテン島まで、野外上映可能なおもしろい場所があれば遠征し、労を厭わずスクリーンを張りめぐらし、ニューヨークの町を縦横無尽に駆け巡る忍者的上映集団になった。2008年には通年フルタイムの有給スタッフ7人を抱える非営利団体に成長、最近は夏以外のシーズンにも時勢に合わせた内容の上映会などを行っている。毎夏の動員数2-3万人は、ある意味偉業に思える。アングラ系映画やドキュメンタリーに多くのお客さんを集めるのは、ニューヨークでも至難の業なのだ。1920年代初期ロシアの未来派詩人マヤコフスキーが「街路はわれらの絵筆、広場はわれらのパレット」と言い、70年代の日本で寺山修司がそれを映像化しようとしたが、ルーフトップはニューヨークという生き物みたいな街そのものを、野外劇場に変えているように見える。





ダン・ヌクサール(Dan Nuxoll)さんに聞く



ルーフトップとは




── まず、ニューヨークのインディー映画界についてよく知らない日本の読者の皆さんに、ルーフトップ・フィルムズとは何か、説明していただけますか。



創設当初のルーフトップはもっと若くて小さな団体だったけれど、僕たちのゴールはずっと変わっていないんです。僕らがいなければ支援も受けられずオーディエンスも見つけられないような映像作品に、その二つを提供すること。マークが屋上でやるようになったのは、金銭的な理由からでした。ニューヨークで劇場を借りるのは高いし、ここには劇場も映画祭も五万とある。アート関連イベントもどこかしこで毎夜開かれているから、競争が激しすぎる。巨額な広告費がない限り、名もない映画の上映に人を集めるのは簡単ではありません。そこで、アクセスのあった自分たちのアパートの屋上でやってみたら意外と皆が気に入ってくれたので、毎年4回、8回、16回、30回、50回……と年々拡張してやってきているというわけです。そのうち団体として成長して、活動も多岐に渡るようになったけれど、核である夏の上映シリーズは基本的にずっと同じです。おもしろい場所、景色のいい場所でやることにも重点は置いているけれど、何より大切なのは楽しいイベントにすること。誰もが来やすいイベント作りが僕たちの信念です。だから入場料は普通の映画館より安いです。上映前にはライブ演奏もあるし、上映後には何らかの形でパーティを企画して、皆がリラックスして飲んで話して、フィルムメーカーに会えるようにしています。夏の上映シリーズがルーフトップが世に知られている姿ですが、その他にも色々やっています。フィルムメーカーのためのグラントや、他の上映会を企画運営したり。




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ダン・ヌクサールさん






団体としての成長のヒケツ



── ルーフトップの躍進はめざましいものがあると思うのですが、年々次第に成長したのでしょうか。それともある年に急に大きくなったのですか?



 2003-04年が急成長の年だったと思います。始めてから5-6年が経って、マークと僕と、もう一人当時大学時代の友人の女性スタッフがいたんですが、その3人が他のプロジェクトをとりあえず手放して、これにフルタイムで携わるようになってから、だと思います。マークは実は今はルーフトップの仕事から少しまた離れて、自分の作品の制作に戻っているんです。長編処女作の脚本を書いて、監督もするので、そっちに今は集中しています。でも、 成長の過程は決して奇蹟ではなく、秘訣もなく、次第に大きくなって行ったもので、勤勉な労働とたゆまぬ努力によるものです(笑)!助成金の確保、上映機材レンタルビジネスの拡張、スポンサー探し、それにいい評判を保つ努力、などなどです。特にルーフトップは制作者コミュニティに支えられているから、彼らを大切に扱って、ルーフトップでの上映で彼ら自身が多くを得られるようにすることは最重要項目です。彼らにとっては無料のプロモーションになるわけだから、どの映画祭で上映するかを選ぶにあたってルーフトップを選んでもらえるように、制作者間での評判を落とさない事は大切ですね。



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コニー・アイランドで開催されたルーフトップ・フィルムズ





── ルーフトップで上映される作品の監督は、宿泊も含めてNYに招待してもらえるのですか?



長編の監督はどうにか招待できるように工面しています。ホテル代が捻出できなければ、スタッフのアパートに泊まってもらう、とかね(笑)。



── お客さんの数は、創立当初、2003-4年、そして今、と変遷があったのでしょうか。



最初からずっと大勢の人が集まってくれてはいたんです。3-400人はいつでも来てくれていました。でも、それまでずっと年に一度か二度のイベントで、多くて五回でしたから、問題は、夏の上映本数、イベント回数を増やしていく中で、観客動員数をいかに維持できるか、でした。今は一夏50回くらいの上映で、約3万人の動員数なので、平均一回600人の人が来てくれていることになります。



── 毎年の応募数と選考プロセスを教えてください。



毎年2200-3000作品の応募があり、そのうち2/3が短編です。選考委員は25名くらいです。



── 現在のスタッフ数は?



 今は6人が通年フルタイムとして働いていて、3-4月にあと数人夏のイベントマネージャーを雇います。夏に増員するフリーランスの上映テクニシャン系人材も入れると、夏は全体で20-25人くらいの大所帯になります。それにボランティアの皆もいます。 その他にも機材レンタル部門もあって、通年上映イベントなどに雇われて機材/テクニシャンの貸し出しをしているので、そこにもフリーのテクニシャンが出入りしています。




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ブルックリン実業高等学校で開催されたルーフトップ・フィルムズ





野外上映スポット選び



── 昨年のシリーズで野外上映した場所を教えてください。



いくつかのコア会場で10-20回ずつ上映して、あとは他の色んな場所で1-2回ずつやりました。人気のスポットは、マンハッタンのロウアーイーストサイドにある公立高校の屋上にある“オープン・ロード・ルーフトップ”という、壁という壁がグラフィティに埋め尽くされた素晴らしい会場、それにここオールド・アメリカン・カン・ファクトリー、1860-70にかけて建てられたこのビルですね。今では様々な新進気鋭アート団体が入っていますが、5つのビルディング・コンプレックスであるこの建物の屋上は、昔の工業地帯の香りがプンプンしてとてもいい。他に、コニーアイランドの大観覧車のすぐそばのビーチに巨大スクリーンを立ててやったのも見物だったし、セントラルパークでもやったし、マンハッタンのイースト23丁目のイーストリバー沿いにある太陽発電で電気を回しているアート・センターのビルの屋上での太陽発電上映もやりました。それと、スタッテン島の水際にあるヤンキーズのマイナーリーグである“スタッテン島ヤンキーズ”の野球場でもやりました。フェリー乗り場のすぐそばで、かっこいい場所なんです。クイーンズの水際のソクラテス彫刻公園でもやりました。水を挟んでマンハッタンが見えて雰囲気のいい場所です。



── 水……がキーなのでしょうか?



ははは、そうですね。水があると、景色がいいですから。でも、町中の公園など野外スペースでもやりますよ。セントラルパークなどもそうだったのですが、市のイベントの一環として大きな非営利団体に雇われて、スタッフを送り込んで上映する時もあります。そういう時には王道系映画の上映の場合が多いのですが。そういう雇われ系上映で稼いだお金はまた、ルーフトップのコア事業に回されますから。長年かけて色々試行錯誤してやってきて、ビジネスプランを調整しながら今に至っています。





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空中公園ハイラインで行われた際の様子(2011年)




ヒミツの予算情報



── 予算についてお聞きしたいのですが、 差し支えないでしょうか。



もちろん……かなり複雑ですが。非営利団体ですから、予算は公表されていますし、隠せませんよ(笑)。うちの場合は予算年間は10月締めで、昨年度の予算は80万ドル強(1ドル100円として、約8000万円強)でした。そのうち収入の部は、概算で、助成金が15万ドル(約1500万円)、チケット売り上げが15万ドル(約1500万円)、商業スポンサーからの資金協力が20万ドル弱(約2000万円弱)、レンタルビジネスや他のイベントでの出張上映サービスが昨年度は大分伸びて最大収入源になったんですが、それが22万ドル(約2200万円)、それにコンサルティングや他団体への上映支援サービスが10万ドル(約1000万円)、そして一般の方々からの寄付(クラウドファンディングなどを通して)が4万ドル(約400万円)くらい、という感じでしょうか。



── ルーフトップ・フィルムメーカー・グラントの内容はどんなものですか。



これは、過去にルーフトップで上映したフィルムメーカーが次の作品制作のために応募できるというグラントで、総額2万5千ドル(約250万円)の助成金に加えて、総額4万ドル(約400万円)相当のサービス・グラントも出しています。現金の助成金の出所は色々で、まずルーフトップのスクリーニングの入場券のうち1ドルは、すべてグラントに回されて貯められる仕組みになっています。これが短編部門のグラントになり、一人につき最高額3000ドルが与えられます。昨年のシリーズではスポンサーである電話会社のAT&Tが1万ドル(約100万円)のグラントも出してくれたので、それも特別グラント枠として選ばれたフィルムメーカーに渡すことができました。サービス・グラントとしては、編集/マスタリングのラボから1万ドル(約100万円)相当のサービス券や、撮影照明器具会社から2万ドル(約200万円)相当のトラック一台分の照明機器が与えられます。応募作品はどれも低予算で、2万ドル(約200万円)が全体予算の長編作品もあるのが現実ですから、助成額はそれほどではなくても、実際には助かっていると思います。



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スタッテン・アイランド・ヤンキース・スタジアムでのルーフトップ・フィルムズ(2012年)





ルーフトップが助成する作品



── 助成を受けた作品で、映画祭サーキットで成功を収めた作品にはどのようなものがありますか?



 最近では、ベン・ザイトリン監督。2005年に彼が大学の卒業制作で作った短編をルーフトップで上映。その後の短編『グローリー・アット・シー』にはルーフトップの機材グラントが与えられています。それがSXSW映画祭で初上映されて、その成功をもとに資金を集めて作られたのが『ビースト・オブ・ザ・サザン・ワイルド』。この作品はサンダンスで初上映、最優秀作品賞を受賞し、ご存知の通り、今年のアカデミー賞監督賞にノミネートされました。フォックスが買い上げ、売り上げは15-17ミリオンドル(15-17億円)と聞いています。



── アメリカ国外からの応募も受け付けていますか?



もちろん海外の監督にも助成金を出しています。イギリス人のルーシー・ウォーカー監督の『津波、そして桜』(作者注:東日本大震災の津波被災者を追った短編ドキュメンタリー、2012年アカデミー賞ノミネート作品)にルーフトップ短編グラントが与えられていますし、スエーデンの監督ヨハネス・ニホルムが撮った、超笑える酔っぱらい赤ちゃん短編映画『ラス・パルマス』もルーフトップ・グラントで作られました。この作品は人気で、youtube予告編のヒット数は17億、カンヌ映画祭で最優秀短編映画賞を受賞しています。





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コニー・アイランドで開催されたルーフトップ・フィルムズ(2012年)





ルーフトップのビジョン



── 今後のビジョンは?ルーフトップはこれからどのように成長を続けていくのでしょうか?



何より大切なのは、今まで築き上げたものをどう維持して行くか、だと思っています。非営利団体はどこでもそうだし、レイコ達も映画祭をやっておられるからご承知だと思うけれど、やめないでいる事、存在し続けること自体が最大の試練、一番大切なことでしょう?(汗笑) ルーフトップを始めた時、僕らはまだ21歳で、無限のエネルギーに満ちていて、誰もが独身で養う家族もなかった。どんなに重労働で見返りがまるでなくてもオッケーだった。今でもお金に縁はないし、それでよしとしている人生だけど、でも、スタッフも増えたし、とにかくきちんと維持していけたらいいな、と思っています。かと言って、野心がないわけでもないんですよ。ルーフトップはただ映画を観せる場所ではなく、心を揺さぶる場所、おもしろい事に出会える場所、存在自体がアート的に意義のあるイベントであり続けたい。それをいつも考えている。だから、上映できる新しいスポットの開拓から、インディー映画界で今何か新しいか、見落とされている大切な作品はないか、など、いつもアンテナを張っています。そういうことが実現できていれば、団体としてハッピーでいられると信じているんです。




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ルーフトップのホームグラウンド、缶工場の屋上で




また、ルーフトップを別の町にも作れたら、なんていう夢も膨らみますが、資金的にそれはすぐにできるものじゃありませんよね。出張上映はこれまで何度もしているんです。天然ガスの水圧破砕(ハイドロ・フラッキング)の問題を取り上げたドキュメンタリー『ガスランド』を、その問題を抱える東海岸の地域に持って行ってツアー上映したり、ロス、スエーデン、トロント、モントリオールなどでも上映ツアーはしたことがあります。でも、新しいルーフトップをインフラから別の町に作るとなると大変です。この町にもあれば住人の人達は喜ぶだろう、とはよく感じるんですが、どこよりもアート活動の多いニューヨークでインフラを作り上げ、それを維持するのにこれだけ苦労なんだから、他の町ですぐまた始められる事ではないですよね。その町で是非やってほしいというスポンサーが現れるか、または僕らがものすごいグラントをゲットしてから、の話ですね。




── 私がルーフトップを見ていてすごいなあ、と思うのは、現代の事件やイベントに敏感に反応する足の速さです。例えばウォール街占拠運動(オキュパイ)が起きた少し後には、オキュパイを取り上げた作品を集めた上映会を開いたり、スーパーストーム・サンディーの後には、ルーフトップが上映したこともあった水際の地域で堤防が決壊し野外劇場が壊れてしまったのを受けて、掃除ボランティアを組織したり。また、サンディーがもうすぐ来るという晩には、人々が家で不安な一夜を過ごしている中、新型バッテリー搭載のタブレットをスポンサーに、「電源要らず8時間連続上映だから、途中で停電しても映画が観れる」というフレコミで、ハロウィーン仮装上映マラソンをブルックリンでされていませんでしたか?




ははは。あの日は結局地下鉄も止まってしまって、あまり沢山の人は来られなかったのですが、それでも100人くらいが集まりました。他州から制作者が来てくれていたので、延期できなくて。ルーフトップは小さいから、小回りが利くんです。リンカーンセンターやBAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)みたいな大手のアート団体は、何ヶ月も前からスケジュールが決まっていて簡単に変更できない。僕らは気分次第で、「明日上映するぞ」って言う事ができる。もちろんできても、商売を潰してしまってはいけないので注意が必要なんですが(笑)。オキュパイの時は、優れた短編をいくつもたまたま見たし、僕らが小回りが利く事を知っているから、上映会リクエストも沢山いただくんです。なので、これは大切だ、と思う時は、上映機材も何セットもあってレンタルに出ていても1セットは必ず余っているのだから、やらなくては、という社会的義務感を持って対処することもあります。




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BAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)で行われたルーフトップ・フィルムズ






── 上映前に演奏するバンドを選ぶ基準は何ですか?




ミュージック・コーディネーターと呼ばれるスタッフがいまして、年間を通じて新進気鋭のインディー・バンドを探してくれています。メジャーなバンドがうちに来ることはほとんどなく、まだ発掘されていないバンド、そのうちメジャーになりそうな勢いのいいバンドばかりです。上映作品が決まるとすぐに、コーディネーターに作品の内容やバイブを伝えて、上映作品と何らかのつながりが感じられるバンドや曲を選び、連絡を取ってもらいます。ロマンチックな映画ならそういう音楽、アナーキーな内容ならパンクロック、とかね。直接のつながりが持たせられる場合、例えば映画に楽曲を提供した人がバンドを持っているような場合は彼らを招いたりもします。レスリングのドキュメンタリーを見せた時は、レスリングのリングをレンタルし、Q&Aの代わりに、というか、途中から、言い争いになってリングに上がって戦う、みたいなイベントもやりました(笑)。これもまた予算との相談をしっかりするべきなんですが(笑)、イベント性のあるのは、好きですね。ドキュメンタリーにはユニークな方々が多くでてきますし、彼らに映画から飛び出すような形でそのままイベントをやってもらったり。





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ローワー・イースト・サイドで開催されたOPEN ROAD ROOFTOP(2012年)より


サステイナブル・フィルムメーキングとルーフトップ




── 今までお答えいただいた中に既に大分答えがあるとは思うのですが、サステイナブル・フィルムメーキングという意味で、ルーフトップが果たしている役割は何だと思いますか。



サステイナビリティーは大きな問題だよね。これだけの数の作品、特にドキュメンタリーがここアメリカで作られているという事実は、本当にすごいことだと思う。他の国では、政府や財団からの助成なしで、劇場公開用の長編映画を個人が作るなんて、完全にバカげているとみなされることが多いでしょう?ヨーロッパに行って、ドキュメンタリーを作っている、って言うと、どうやって?と聞かれる。「いや……ただ作ってるんだ」って答えると、眉が上に上がる。アメリカには、誰にも頼らずに自分で作品を作っている制作者がこんなにいることには、僕は本当に日々驚かされる。この国のインディペンデント映画コミュニティは多様で、多産で、すごい。それはいいことなんだけれど、一方で、あまりに作品数が多すぎて、一般のマーケットに乗っかれない作品もあまりにも多い。たとえスターを起用していても、すごいスペシャルエフェクトを使っていても、爆発シーンがあっても、そのすべてが詰まった作品であっても、一般の人々がエンターテイメントに使うお金は限られている。これは、見落とされがちな点だと思う。競合する作品の数が2倍になれば、それだけ使った制作費を回収できるチャンスは減るわけだ。僕たちは映画の商業的側面に注目しているわけでは決してないし、皆それぞれが辛くても信じる道を自分の選択で歩んでいるのは知っている。それを承知の上で、彼らがサバイブし、アート作品制作を続けて行けることが、ルーフトップの願いです。



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ローワー・イースト・サイドで開催されたOPEN ROAD ROOFTOP(2012年)より




そのために、僕らは自分たちができる範囲で、サステイナブル・フィルムメーキングを実現するために様々な支援活動を行っています。まず第一に、前述のルーフトップ・フィルムメーカー・ファンド。自分たちのチケット売り上げから、年間15作品に最高額3000ドルの助成金を提供しています。3000ドルでは作品は作れない、というフィルムメーカーも多いかとは思いますが、予算ゼロ・ドルで手持ちのカメラとコンピューターで仲間と短編を制作している人々、彼らにとって3000ドルは決して意味のない金額ではないんです。他には頼らず、その3000ドルだけで作品を仕上げる人達もいます。そして彼らの作品は決してとるに足らないアマチュア作品ではなく、サンダンスやロッテルダムやベルリン映画祭で上映されています。彼らがプロフェッショナルでないわけではないのに、お金が回って来ないだけなのです。政府のグラントも、特にアメリカの人口に対しては、他国に比べて非常に少ないですし。第二の支援活動は、自主映画コミュニティを築いて行くのに貢献すること。すでに皆、 機材やオフィスを共有し、役者からスタッフまで無料で助け合いながら制作を続けていますが、それはとても大切なことだと思います。彼らのそういうスピリット、コミュニティ意識を盛り上げていくのがルーフトップの使命、そう思いながら様々な活動を組織し、雰囲気作りに努めています。アメリカの年間ベストに入るインディーズ映画のクレジットを見てみると、出演している役者が他の作品の監督だったり、お互いの作品で演技し合ったりしているでしょう?二人のフィルムメーカーがそれぞれの作品で監督とカメラを交代でやったり。映画は一人では作れないから、チームを作って助け合うのが必須なのです。それで、彼らの作品を見せ合える場になれば、とも思っています。スターや監督をステージに上げて特別視するのではなく、観客と制作者が皆で楽しんで、上映後にはバーで飲んでまた新たな仲間を見つけて一緒に作品を作って行く、そんな場を創れたら、と願っています。




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この質素な小さな空間から夏のルーフトップ・ワールドが創り出されているとは!


また、ルーフトップはお金儲けの面では協力できないけれど、オーディエンスを提供する事はできます。これが僕らの第三の支援活動です。たとえニューヨークで劇場公開にたどり着けた作品でも、その一週間の上映各回の総来場者数を上回るような人数の聴衆を、僕らは一晩の上映で集める事ができます。集客に関しては僕らには実績と評判があります。彼らをリッチにはできないけど、違うものが与えられると思います。何年もかけて一つの作品を作っている人、予算なしで制作を続けている短編制作者、彼らにとって苦労して仕上げた作品を見てもらえない、聴衆が見つけられないというのは恐怖です。ルーフトップの評判がいいことで、家族や制作仲間ではない、作品のことを聞いた事もない人々に作品を見てもらえる、しかもクールな雰囲気の中で上映される、というのは、彼らにとって、新たな聴衆を開拓するチャンスにつながる、意義ある経験だと思います。これが、ルーフトップが果たしている一番大きな役割かもしれません。




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ローワー・イースト・サイドで開催されたOPEN ROAD ROOFTOP(2012年)より


── ルーフトップは、映画祭、なのですか?



便宜上、そう呼ぶ時もあります。正式名称はルーフトップフィルムズ・サマー・フィルム・シリーズ。商業ベースの大手映画祭とは大分違う面もありますが、映画祭的要素も上映シリーズ的要素も両方持ったイベントなので…。どう呼んでもらってもいいのだけど、「劇場公開されていない優れた自主制作映画を長編短編問わず夏に野外上映する非営利団体」というよりは、映画祭の方が簡単でしょ(笑)。新しい言葉を作ればいいのだけど、一般のお客さんにとっては、何だそれ?となってしまうでしょう?



── 以前に一度、公立高校の屋上でのルーフトップ上映会に行ったとき、始まる前にダンは屋上のネットでバスケのシュート練習をしていましたよね。それを見て本当に驚きました。私たちもルーフトップにインスパイアーされて、日本の岡山で夏の野外上映シリーズを2010年に始めましたが、上映前はとにかく確認・準備で大わらわで主宰の二人はテンパっていて、リラックスして遊んでいるダンの姿は、非常に衝撃的でした。うちのスタッフはこれを読んで笑うと思います(笑)。



あの日はたまたまそうだったんですよ(笑)。会場について、たまに、あの日みたいに、ああ、準備できてるな、皆に任せられるな、という日があって。そういう日は、いいですね。友達と話したり、バスケできちゃったりして(笑)。あの日は雨が降らないという予報で、前日の金曜の晩に機材を搬入しケーブルも置いておけたので、普段なら機材を持って屋上まで階段を上がったりして5時間かかる作業が2時間ですんだのです。そうじゃない日がほとんどですよ(笑)!



きさくで、誠実で、ユーモアがあって、楽しいことが好きで、しかも社会的な責任感とインディー映画コミュニティへの愛を持ってルーフトップを切り盛りするダン・ヌクサールさん。彼は、私たちが岡山で夏に開催する宇野港芸術映画座(Uno Port Art Films)でテクニカルな問題に直面した時に、上映の適切なアドバイスをくださった方でもあります。ソフト的にもハード的にも、ルーフトップフィルムズという集団の存在そのものに、彼と彼の仲間たちの気持ちが表れているなあ、だからこんなに人を動かすのだろうか、と感動を新たにした取材でした。今年もすでにシーズンが始まっており、いい映画と元気をニューヨーカーに届けてくれることでしょう。お天気の週末が続きますように!



(文責:タハラレイコ)










ルーフトップ・フィルムズ公式HP http://rooftopfilms.com/



▼ルーフトップ・フィルムズ2013年トレイラー


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直島からすぐ近くの宇野港で開催される手作りの映画祭 http://www.webdice.jp/dice/detail/3590/ Fri, 03 Aug 2012 19:15:38 +0100
昨年のちびっこのための生吹き替え上映の様子。画面はフランス名画『白い馬』。




皆さん、サステイナブル・フィルムメーキングの記事が抜けてしまっていて、大変申し訳ない。ニューヨークで大人気を博す夏の野外上映シリーズ「ルーフトップ・フィルムズ」の取材承諾を得ているが、担当者殿現在大変ご多忙で、夏の間は無理そうである。かく言う私も忙しい。来る8月11-14日に岡山県玉野市宇野港で開催の第3回宇野港芸術映画座(Uno Port Art Films、通称UPAF=ウパフ)の準備に追われている。今回は手前味噌ながら、みどころなどご紹介したい。




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UPAF2012フライヤー表紙




宇野港芸術映画座とは、私の夫であり映画制作のパートナーでもある上杉幸三マックスと私が3年前に始めた夏の上映シリーズである。「Life, Art, Films 生きる・創る・映画」をテーマに、制作者の人生が見えてくるようなソウルフルな作品を古今東西世界中から集めてご紹介する。大半がインディペンデント映画で、海外の映画祭や美術館などで認められながらも日本では公開されていないレアものばかりである。それを、数名のワンダフルなバイリンガル・ボランティアの仲間と一緒に翻訳し、日本語字幕をつけて上映。昼は室内、晩は港の埠頭の空き地に巨大トレーラーを設置し、それをシアターとして満点の星空の下で上映する。上映後には制作者とスカイプでQ&Aができる場合も多く、制作者と観衆を直接結びつけたい。




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中国のエミリー・タン監督とのスカイプトーク(プロデューサーの通訳を挟んで!)


瀬戸内アートと宇野:おいでませ!




宇野港はまた、瀬戸内アートの中心であるベネッセアートサイト直島にもっとも近い港で、フェリーで20分しかかからない(高松からは40分)。独特の緑の濃さと島の暮らしと現代アートの融合で知られる豊島(てしま)までも直通フェリーが出ているし、新幹線からのJR乗り継ぎが便利なため、外国人のアート観光客の姿も近年激増し、他都市から移住して来るアーティストも年々増えている。来年開催の第二回瀬戸内芸術祭では、宇野港周辺も公式開催地に指名されており、ますます盛り上がるだろう。マックスは3年前に20年住んだブルックリンを年の3分の2ほど離れ、故郷の宇野に住んで私たちの次作ドキュメンタリー(彼のお父さんが、戦前戦中の大思想家・大川周明主宰の大川塾出身だったことが数年前に発覚、二人で作品にまとめている)を進めつつ、外国人旅行者のためのゲストハウスを始めた。そこで彼が世界中からの旅人と触れ合う中で、UPAFをやろうという話になり、私が暮らすニューヨークと彼が暮らす岡山のいいところを合体させたイベントが生まれた。宇野の地元の住民と普段は宇野を通り過ぎてしまう国内外からの沢山の旅行者が一同に会すことのできる国際的空間を作る、というのももう一つの目的なので、作品はどれも日本語と英語どちらでも楽しめる。






関西地区の皆さんはもちろん、関東からの皆さんも、この夏、瀬戸内アートと世界のアート映画を楽しみに宇野までいらっしゃいませんか?ご近所の旅館が超お得なUPAFシーズンチケット付き特別宿泊プランを用意してくださったので、3-4日のんびり泊まって直島・豊島を回りつつ晩はUPAFというコースもできますよ。詳しい情報はウェブサイト( http://unoportartfilms.org )に載っています。クリエーターで移住を考えておられる方々には、うのずくり委員会がやっている“うのきゃん”(宇野でキャンプ)も、ちょうどUPAFと同時開催です。最近は関東地方から小さなお子さんを連れたクリエーターのご家族の移住もあるようです。




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ご近所の昭和レトロな菊水旅館がUPAFシリーズパス付き超お得な宿泊プランをご用意くださいました。


今年のみどころ:ドキュメンタリーの部




さて、今年のみどころ、まずは新作ドキュメンタリーの部。前回の記事でもご紹介したニューヨークのミーアキャット・メディア・コレクティブという、十数名の監督が共同監督で制作し、サステイナブル・フィルムメーキングを目指してフィルムメーカー共同体を作り上げているユニークな制作集団の新作『ブラスランド』。各作品とも、もっと詳しい情報や制作者紹介は公式サイトへ。




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『ブラスランド』より



バルカン音楽がこんなにすばらしかったとは。作品は、旧ユーゴ、セルビアのグチャという小村で毎年開かれる世界最大のトランペットフェスティバルが50周年記念事業として始めた国際コンペに出場を決めた、一風変わったアメリカ人のヒッピー・バルカン・バンドの旅を追ったもの。セルビアはアメリカ率いるナトー軍空爆の傷跡を引きずっている国、そこで彼らにとって国家の誇りであるバルカン音楽を演奏するアメリカ人バンドの胸中はおだやかでない。また昨今台頭してきたカリスマ実力派セルビア人(白人)バンドと、バルカン音楽のルーツを継承するジプシー(もとはインド系)バンドとの確執も描かれる。政治ありドラマあり音楽ありの奥深い作品だ。各国映画祭を先行してのスニーク・プレビュー上映。




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『スケーティスタン』ポスター



またアフガニスタンからはアフガニスタン/ドイツ/アメリカ合作のドキュメンタリー『スケーティスタン』。戦争に引き裂かれた町カブールに救援ワーカーとしてやってきた二人のオーストラリア人がスケーボーをしていると、子供達が磁石に吸い寄せられるように集まって来た。彼らが数人にスケボーを教え始めると、少年少女達が毎日集まってくるようになった。間もなくして、女の子は12歳になると公の場でスポーツをしてはいけない、というイスラムの法律にぶつかる。そうして1年後についに最新ランプ(坂)を取り揃えたインドア・スケボー施設を創設するまでの、『スケーティスタン』の活動を記録した作品。ベルリン国際映画祭主催の「Cinema for Peace」で2011年最優秀ドキュメンタリー賞を受賞。日本初公開!



今年のみどころ:フィクションとドキュメンタリーの境から



ドキュメンタリーとフィクションの間で浮遊しながら真実を凝視しようとする作品もご紹介したい。ご存知の方も多いだろう、あの『新しい神様』の鬼才監督、土屋豊の7年ぶりの待望の新作『GFP Bunny』を、これまた世界の映画祭や劇場公開に先行してスニーク・プレビューする。



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『GFP Bunny』より


2005年にタリウムによる母親毒殺未遂事件を起こして世間を騒がせた、いわゆる「タリウム少女」にモチーフを得た16歳の少女が主人公のメタフィクション。物語は、[少女]と声のみで登場する[監督]との対話によって進行して行く。“監視・マーケティング社会”、“キャラクター化するアイデンティティー”、“バイオテクノロジー”という、私たちの周囲の“現実”の中で“現実感”を失ったタリウム少女はどうやって“自分”を取り戻せるのかー“システムと人間”、また“プログラムと生命”について問いかけた、ラディカルでしかも愛に溢れた作品。個人的には、普段ゲーム・プロデューサーとして生き(言っていいのかな?)、長年ビデオアクティビストで、しかもサブカル系に身を置いて「生きたい」と頑張って生きている人達を優しく描きながら、自らの“現実感”を模索する土屋監督でしか作れない秀作品になったと思う。マックスの最初の感想は『H(変態の)な映画!』。主役にはグラビアや映画で活躍中の倉持由香、それをサポートするのが実力派の渡辺真起子(『殯の森』)、古館寛治(『歓待』)と、身体改造アーティストのTakahashi。




今年のみどころ:フィクションの部




フィクションの部では、まずイランの大巨匠マジッド・マジディ監督の名作『太陽は、ぼくの瞳』をご紹介したい。



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『太陽は、ぼくの瞳』




UPAFでは世界の優れた子ども映画(もちろん大人も完全楽しめる)を毎年上映したいと思っている。しかも、字幕の読めないチビっ子たちも楽しめるよう、岡山の腕利きパフォーマーのめぐさんにお願いして、生吹き替えで弁士上映する(ブルックリン子供映画祭から借りたアイデア。ナマ感覚で楽しい。子供達はすーっと入っちゃう)。昨年は1956年のフランスの名画『赤い風船』と『白い馬』(アルベール・ラモリス監督)をやった。今年上映する『太陽は、ぼくの瞳』は、テヘランの盲学校に通う8歳の心優しい少年モハマド君が、お父さんにうとましく思われ大好きな田舎のおばあちゃんや妹達(可愛すぎて癒されます)と引き離されながらも、耳と手で自然と会話し神を見たいと強く生きようとする感動の物語。




映画の奇跡が沢山詰まった名作ながら、日本での上映権は失効しており、今ではレンタルにも出回っていない。これはなおさら日本の子供達にお届けしたいと思い立ち、3月頃から各国配給会社や映画祭などに連絡し、上映権のリサーチ・交渉に当たった。苦節3ヶ月、イランに電話すること10回以上、でも英語では話が通じない。毎回電話を切られ、なんだか怒られたように感じる。ギリシャやトルコのトリリンガル系友人たちを介してようやく監督のアドレスを入手。半分あきらめかけていたのだが最後に渾身のメールを書いたら、新作撮影中のご多忙の身にかかわらず担当の方を通してていねいなお返事をくださり、快く宇野での上映を許可してくださった。お金はいらない、そういう文化的なことに貢献できて嬉しい、と。不安の中で生きる日本の子供達に頑張ってほしい、と。世界の映画祭でグランプリを何度も取ったりアカデミー賞にもノミネートされているマジディ監督、すばらしい人物です。彼からの日本の人達への贈り物であるこの作品、是非沢山の人に観てもらいたい。日本の大画面では(いや小画面でもかも)もう観れない作品!



その他、今年はハワイ国際映画祭とニューヨークのヴィルチェック財団の協力を得、ニュー・アメリカン・フィルムメーカーズ(NAF)シリーズという、各国からアメリカに移民した監督達の作品から秀作品を提供していただいた(私たちの前作『円明院~ある95歳の女僧にいれば』も同シリーズに選ばれている)。





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『フクロウとスズメ』より




ベトナムからは『フクロウとスズメ』。この作品は日本で2008年に『地球で一番幸せな場所』という題で劇場公開されているが、DVDにはまだなっていない。意地悪なおじさんに引き取られた孤児のトゥイ(10歳くらい?)は、自分で人生を切り開くため、貯金箱を壊してホーチミン市にやってくる。そこで他の孤児の子供達と花売りをしている時、孤独な一人の美人スチュワーデスと孤独な動物園の飼育係の男に知り合う。トゥイちゃんのパワーで、バラバラだった人達がつながり幸せになっていく、アップビートで優しい映画。インディペンデントスピリット賞でジョン・カサヴェテス賞にノミネート、またサンフランシスコ国際アジア系映画祭最優秀ドラマ賞、ロサンゼルス映画祭観客賞を受賞している 。超低予算ながらストーリーと配役で世界の人々の心をつかんだ本物のインディー映画だ。トゥイちゃんは本当にすてきな子だ。




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『台北の朝、僕は恋をする』より



今回もう一つの NAF作品である『台北の朝、僕は恋をする』は、台湾生まれアメリカ育ちで現在は台湾で活躍中の新進監督アーヴィン・チェンの長編処女作。ベルリン国際映画祭フォーラム部門最優秀アジア映画賞作品。『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』そして最近話題になった『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』のヴィム・ヴェンダースが製作総指揮として全面バックアップしている。彼女がパリに留学してしまったさみしいカイ青年と、本屋でバイトをするちょっと寂しげで可愛い女の子スージーが、変な事件に巻き込まれ台北の夜を駆け抜けるキュートなラブコメディ。 都会の片隅で生きる小さな人間達に優しい映画的な光を当てて瑞々しく描く目線が、ジャームッシュやヴェンダースなど80年代インディーズ映画を彷彿とさせる。日本でも過去に公開された作品で、今回NAFを通じて特別に再上映させていただけることになり、プロデューサーのイ・イナさん、世界上映権を管理するドイツのベータシネマ、また日本のアミューズエンターテイメントの各担当者の方々に感謝したい。



今年のみどころ:短編特集のとんがったドキュメンタリー・実験映画




と、今回フィクション系はNAFシリーズのおかげもあって、インディー系の中でも日本で公開されたこともある比較的一般受けしやすい作品が集まった。それとバランスをとるため(?)、今年の短編特集は中々観られないとんがったドキュメンタリーや実験映画を集めた。




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『トゥギャザー:スピナー・ドルフィンと踊る海』(監督:チサ・ヒダカ)



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『ケイト・ボーンスタインはクィアですてきにキケンなヒト』(監督:サム・フェイダー)


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『ボルダーーブルックリン:往復書簡』より(監督:ジョエル・シュレモビッツ)





性転換パフォーミングアーティストで国際的に著名なジェンダー研究者でもあるケート・ボーンステインのポートレイト作品、太平洋のど真ん中で野生のイルカと優しい即興ダンスを踊りビデオに収める日本人ダンサーの目を見張るような映像作品、大手スーパーのゴミを拾い食べて生活しているフツウのブルックリンの住人達などなど。また、実験映画も充実。半分エジプト人、半分日本人のビジュアルアーティストのアイコン(Ikon)が生まれ育ったエジプトから日本を訪れ、自分の半身を捜す旅を綴った作品や、幽玄の心で震災後の日本の印象を綴ったアメリカ人監督ジョエル・シュレモビッツ(会場ゲスト!)のトライベッカ出品作品、また言葉にならない焦燥感やあこがれのような気持ちをストイックに映像美で表現し続ける若き才能あふれる映像作家クレイグ・シェイヒングの作品などを紹介する。





今年のみどころ:ユース・プログラム





毎年、世界各国で若者のビデオ教育に携わるアドビ財団の協力を得て、彼らの指導のもとティーンが制作した作品を厳選、字幕を付けて上映するのがユース・プログラム。ティーンの作品とあなどるなかれ、グラミー賞6度受賞のヒップポップグループのブラック・アイド・ピーズが青少年のミュージックビデオ(MV)教育のために作ったピーポッド・アカデミーとアドビ財団とが協力してできたアドビ若者の声ピーポッド・アカデミーで放課後に作られるそのミュージックビデオの質はもうプロ並み!麻薬や拳銃に走るよりヒップポップで自分たちのことを歌え、作曲を学べ、自分たちの生活を映画にしろ、と励ます大人達の指導のもと、優れた作品が全米各地で作られ、新世代マイノリティ・クリエーターたちが誕生している。



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『トレイヴォン・マーティンに捧ぐ』より17歳シンガーのメッカ


今年はそのアドビ若者の声ピーポッド・アカデミーから2作品を上映。今年2月にフロリダで起こった、非武装のフツウの黒人高校生トレイヴォン・マーティン君がフードを被っていて“怪しげだった”という理由だけで射殺された事件に対する、同じ黒人高校生としての怒りをぶつけたミュージックビデオ『トレイヴォン・マーティンに捧ぐ』と、カリフォルニアのゲットーで育ちギャングから抜けて真っ当な道を歩もうとする兄弟のドラマ『オレの空の天使』。また、ロンドンの高校生が、自分たちが買っているあまりに安いジーパンはどこで誰が作っているのかを調べたドキュメンタリーや、ろうあ者の女の子たちが作ったMV、日本で育ったベトナム人ラッパーの生い立ちを歌ったMVなどもある。



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ユースプログラムのチラシ



昨年やった作品の幾つかも、お客さんが少なかったので今年また上映する。どれも驚くほどまっすぐな目で私たちに疑問を投げかけていて力強く、昨年見た人はその質に驚いていた。ではなぜ人が入らなかったのか。宣伝が悪かったのだろうと思い、今年は地元の中学・高校で生徒たちにチラシを配ってもらった。アメリカのマイノリティの高校生監督数名には上映後のスカイプQ&Aもお願いしてあり、日本の人達とつながれるのをとっても楽しみにしてくれている。地元での呼びかけはできることはやった。もし日本全国で青少年ビデオ教育に携わっているお知り合いの方々がいたら、是非情報を回していただきたい。遠方からでも見に来て後悔はしない内容だ。



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2011年ボランティアの面々。Join Us!



ボランティア募集!



今年はまたとりわけ予算が少なく、どうなることかと思ったが、関係者の皆さんやボランティアスタッフの協力でどうにかここまでこぎつけた。ニューヨークのルーフトップ・フィルムズの方々からも、上映技術の新たなアドバイスを得た(毎年どんどん進化している! 秋には彼らの活動をしっかり取材しますので、お楽しみに)。 宣伝に手が回らず毎年苦労するが、今年は玉野と岡山の若いスタッフがビラやポスターをずいぶん撒いてくれた。自分たちからメディアに働きかける時間がとれずにいる。皆さんどうぞフェイスブックやツイッターで皆さんのコミュニティーに回して下さい。当日ボランティアも募集中で、ベタに入って下さる先着数名はシリーズパスの他、宿代を出せるかもしれない。興味のある方は早めに連絡してほしい。info@unoportartfilms.org



自分も記事を通して探っているサステイナブル・フィルムメーキングに、少しでも貢献できれば、という気持ちでマックスと二人(あと、高校生になった娘も)続けている。世界で頑張っている制作者仲間たちと、日本のお客さんが作品を通じてつながれたら、とても嬉しい。赤字にならなければ、なお嬉しい!



最後に



前述の通り、宇野港は瀬戸内芸術祭2013に向けて各方面で開発されつつあり、私たちが過去2年間使わせていただいた埠頭の巨大な空き地には、現在、温浴/宿初施設が建設されつつある。あまりに巨大な土地なので、今年はその半分を使用させていただいてできる運びとなったが、もしかしたらあの場所での野外上映は、今年が最後となるかもしれない。




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文責:タハラレイコ

写真:UPAFボランティアが撮った写真と映画制作者の方々からいただいた写真を使いました
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ワークショップで練り上げるブルックリン流インディー映画制作術 http://www.webdice.jp/dice/detail/3507/ Tue, 08 May 2012 23:05:04 +0100
ブルックリン・フィルムメーカーズ・コレクティブのメンバー、ミアーキャットメディアの新作(製作途中)『ブラスランド』より。



私の地元ブルックリンは今大変ブレイク中である。かつて川を挟んだマンハッタンとは別の市として独立した文化を持っていたこの町は、市役所、裁判所、図書館などの建物もたいそう立派で、住宅も19世紀に建てられたしっかり広々とした石造りの家々が多い。そして、マンハッタンとは、時間の流れが違う。



私がブルックリンに最初のアパートを借りた20年前には、そこは実は雑多なコミュニティがキレイに住み分けられている大きな区なのだが、黒人人口の多さからか、ただ漠然と「危険」という印象で、留学生仲間は橋を渡ってくるのを珍しがったり怖がったりした。まあ、実際に今よりはずっと危険ではあった。人種の混じった比較的安全な地区だったとは言え、近所で銃の打ち合いを見たり聞いたりしたことも何度もある。近所の住人にも、2ブロック向こうから先は立ち入らないように、とか言われたものだ。



それが、90年代半ばにジュリアーニ前市長がタイムズスクエア周辺のポルノ映画館や麻薬売りを一掃し、ナイキなど大型チェーン店を誘致したクリーンNY計画の頃からか、また9.11やあまりに高い家賃や2000年代半ばのサブプライムローン熱も原因か、何となく文化を失ってしまったマンハッタンを自由人達が住みにくく感じ、ブルックリンに目を向け始めた。ブルックリンの中でもマンハッタンにほど近い地区には、実は古くからリベラル系ユダヤ人など、多くの白人がステキな家に住んでいて基盤はあったし、何せ開拓せずにはおれない民族である。90年代半ば以降、より人間らしい暮らしと新たな挑戦を求めて白人(特にアート系、文筆家、建築家、デザイナー、広告業など)がどんどんブルックリンに物件を買い、店を出し、人種を問わず世界中からの若者や学生も次々に橋を渡って越してくるようになった。




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ブルックリン、ボエラムヒルのスミス・ストリート http://www.hotel718.com/blog/wp-content/uploads/2012/01/smith_street_brooklyn_shopping.jpg より。


今では、“Live, Work, Create”をテーマにしたブルックリンのデザイナーズ・ブランドがチェーン展開し、アート関係の団体は次々にダンボ(ダウン・ビロウ・ブルックリン・ブリッジ)にオフィスを移し、ウィリアムスバーグ、パークスロープ、ボエラムヒル、また一時期は99%黒人でNYで最も危険と言われたベッドフォード・スタイベサント(ベッドスタイ)などにも新しい目抜き通りが次々と生まれ、レストランとブティークとヴィンテージストアとカフェとネイルサロンとヨガ・スタジオがひしめき合うようになった。



私のアパートの周辺も20年前にはヒスパニックが多く、店もTシャツの卸売店などばかりだったが、今では真新しいコンドミニアム・ビルが建ち並び始め、きれいに見えていたお月さんの代わりにニュージャージー・ネッツ(もうすぐブルックリン・ネッツ)の新設スタジアムが、どのブロックからも空にそびえて見えるようになった。美味しいコーヒーや種類豊富な生ビールは飲めるようになったが、移民経営のご近所の定食屋は次々に消え去り、家賃は高騰し続けている。



元々の住人だったハイチ人やプエルトリカンたちは何処へ?というのは根深い問題であり、この“ジェントリフィケーション”と呼ばれる急激な変化は一概に喜べるものではない。同時に、流入してくる白人達にもヤッピー系やリベラル系やベジ系やおたく系など色々いるし、地元に根付く黒人コミュニティ内部にも知識人層や中産階級層もいる。移民の子供達はもう移民ではないし、でもゲットーはそのままそこここに残っている。とにかく単純な構図ではない。




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私の近所のブルックリンのカフェ http://www.tealoungeny.com/wp-content/uploads/wide-1024x682.jpg より。



5年ほど前だったか、近所のカフェで自分たちの作品の構成を練り直していると、周りのテーブルから聞こえて来る会話がどれも制作中の映画プロジェクトの話ばかりで、自分がその他大勢の中に埋もれてもがいているように感じられた日があった。自分の長く住んで来た町が急に姿を変えてうねり、食べられてしまうように思えたのだ。



今のブルックリンの活気を体現する、

ブルックリン・フィルムメーカーズ・コレクティブ



このコラムのテーマは「サステイナブル・フィルムメーキング」で、今回はその第2弾。なぜ長々とブルックリンの変遷を語ったかというと、今回ご紹介する新進気鋭の映像制作者集団、ブルックリン・フィルムメーカーズ・コレクティブ(Brooklyn Filmmakers Collective, BFC)が、まさに今のブルックリンのある種の活気を体現してるからだ。



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BFCメンバー。



サイトを見ると、とにかく多くのフィルムメーカーが参加しているようだ。毎週水曜日に「ワークショップ」と呼ばれる会合があるということで、ブルックリンのボエラムヒルという地区の大通りアトランティック・アベニューにあるザ・コモンズというコミュニティ・スペースに行って来た。




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広いコミュニティスペースに突然現れた、30人くらいのフィルムメーカーの寄り合い!



会場に着いてから知ったことなのだが、実はこの日の「ワークショップ」はウォール街占拠運動とフクシマとソーシャルメディアの記事で紹介した『コンセンサス』の制作者でもあるミアーキャットメディアの新作長編ドキュメンタリー『ブラスランド(Brasslands)』のワーク・イン・プログレス上映だった。その中でもお伝えした通り、十数名の共同監督で作品を作り続けるユニークな集団ミアーキャットこそが“サステイナブル・フィルムメーキング”のコンセプトを私に紹介してくれた人達であり、嬉しい偶然に驚いた。彼らの詳しい活動はまた別の機会にご紹介したいと思っているのだが、この『ブラスランド』という作品は私は数ヶ月前にドキュクラブ(前回記事参照)で前のバージョンを見ており、すっかり惚れ込んで、私とパートナーの上杉幸三マックスで共同主催する岡山県玉野市宇野の夏の上映シリーズ宇野港芸術映画座で上映したいと希望している作品でもあるのだ。



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制作者の一人、ミアーキャットのジェフが、どんな箇所を観てもらいたいかまず説明。





『ブラスランド』の主人公はバルカン音楽に取り憑かれた中年アメリカ人バルカンバンドの面々。セルビアのグチャ(Guča)という人口2,000人の小さな町が、夏の数日間だけ、60万人の音楽ファンで埋め尽くされる。アメリカのかつてのウッドストックのような存在らしい。2010年、そのグチャ・トランペット・フェスティバル50周年を記念して、インターナショナルコンペが始められた。過去30数年間、日中のそれぞれの仕事以外すべての時間をバンド活動に費やして来たアメリカ人バンドは、そのコンペに出場を決める。



作品は、左派ヒッピーである彼らがバルカン音楽に抱いて来たファンタジー、初めて旧ユーゴを訪れグチャに出場した時の思い出、ナトー/アメリカ軍によるベオグラード空爆の後初めて、意を決して再出場した時の経験などを織り込みながら、強敵であるセルビア人の本場カリスマ・トランぺッターや、現地では差別を受けている元チャンピオンのローマ(ジプシー)のトランぺッターなどの姿も捕らえて行き、ついに最後のコンペティションの日を迎える。



何と言っても音楽がすばらしい。バルカン音楽があんなにソウルフルでかっこいいことを、この作品で初めて知った。その中に政治あり、人間ドラマありで、編集は大変複雑だ。私は二回目だったので前回からの沢山の変更点に気付いたが、同時に、ほとんど全員が今回初めて映像作品としてつながったのを見たというBFCのメンバー達の上映後の批評の鋭さに、大変感銘を受けた。外部者の私の目には「キッツイなあ」という批評も当たり前のようにバンバン出され、ミアーキャットの皆も心外な表情などまるでなく、熱心に耳を傾け、ノートを取っていたのが印象的だった。



[youtube:99m9GigTHHg]
『ブラスランド』予告編


「ここでもらう批評が他のどこでもらうものよりダントツで役に立つ」



もう一人、メンバーをご紹介したい。アレックス・マリス(Alex Mallis)さん。もちろんフィルムメーカーである(彼のサイト:http://1.analectfilms.com/)。

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アレックス・マリスさん。



彼の最新短編ドキュメンタリーは『スポイルズ(Spoils)』(筆者注:spoilは名詞としては廃物、複数形では戦利品や勝ち取った利権、動詞で使えば食べ物等が悪くなる、または子供を甘やかす、などの複雑な意味がある)。アメリカの大型食料品店チェーンであるトレーダージョーズのブルックリン店から晩に出される大量のゴミ。賞味期限の切れた、あるいは切れかかったチーズ、肉、魚、パン、つぶれた野菜やパック牛乳……アレックスのカメラは、 それを拾い食べて生活する全く背景の異なる3組のブルックリン人達を追う。



この「ダンプスター・ダイビング」と呼ばれる行為は決して新しいものではない。60~70年代の政治運動家アビー・ホフマンが書いたヒット本『この本を盗め(Steal This Book)』にも浪費社会アメリカでのサバイバルスキルとして紹介されているし、ヌーベルバーグの女性旗手アニエス・ヴァルダの2000年ドキュメンタリー作品『落穂拾い(The Gleaners and I)』の題材にもなっている。ある人は生活のために拾い、ある人は政治的な行為として(または両方の目的で)拾う。アレックス自身が1年間あまりダンプスター・ダイビングで生きており、それを通じて知り合った“競争相手”と仲良くなり取材させてもらったというから、ハードコアだ。



この作品はまさに先週、ボストン・インディペンデント映画祭で世界初上映を果たしている。まず彼の作品の予告編をご紹介した後、ワークショップ後に快く応じてくださった彼とのインタビューをリポートする。BFCの他のメンバーの作品については、彼らのサイトhttp://www.brooklynfilmmakerscollective.comを通じてリンクできる。




アレックスの最新作『スポイルズ』の予告編



──まず、ブルックリン・フィルムメーカーズ・コレクティブとは誰が参加していて、どんな活動をしているのか教えてください。




メンバーは全部で3~40名かな。もちろんアクティブ度に程度はあるけれど。最初は、2~3人のフィルムメーカーがカフェやバーに集まってお互いの作品を批評しあうことから始まったんだ。コレクティブの活動の中心は「ワークショッピング」。毎週ここに集まって、メンバーの2~3名が「ワークショップ」する。一年を春と秋の2シーズンに分けて活動していて、メンバーは全員、毎シーズン何かをワークショップしなくてはならない。ワーク・イン・プログレス(制作途中作品)だったり、20分の資金集め用のカットだったり、これから作品にしようか考えているコンセプトでも題材でも、何でもいいんだ。それを他のメンバーに見せたり説明する。そしてグループはそれに誠心誠意のフィードバックをあげる。



一番いいなと思うことは、感想を言ってくれる人の性格や作風をよく知っているから、まず信用できるし、他人からもらう批評に比べて判断基準がはっきりわかる。それに、フィルムメーカー同士だから、特定の種類のフィードバックをお願いすることもできる。例えば、「縮めたいんだけどどこを切れると思う?」とか、「どの登場人物の性格がよく出ていて働いている?誰がだめ?」とか、「サウンドミックスのバランスを聴いてほしい」とか、「全体の印象を聞かせて」とか。何を観てほしいかをはっきり自分で把握してお願いすることで、フィードバックの質が変わってくる。それもワークショップしているうち、わかってきたことなんだ。僕はメンバーになって3年、何度もワークショップしたけれど、ここでもらう批評が他のどこでもらうものよりダントツで役に立っているよ。



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活発な意見と笑顔が飛び交うワークショップ風景。ビールやピザを持ち込みで。



──制作者仲間からの批評というのは、 一般のお客さんからの感想とは大分違うかと思うんですが、そのあたりのバランスというのは皆さんどうしていますか。




例えば今夜がとてもいい例だと思う。ミアーキャットの『ブラスランド』のラフカットに対して、制作者の目から見た意見が沢山出ていたでしょう?あの作品は少し前に別バージョンをドキュクラブでも見せたらしくて、それは一般のお客さんも沢山来るパブリックイベントだから、もっと一般視聴者の反応を見ることができたんじゃないかな。そういう場はニューヨークには他にもいくつかある。それはそれで利用するとして、ここではそうじゃなく、制作者のシビアでメディア的に成熟した目で見た批評をみな欲しているんだ。




──他の人のワークショップを見たり、それを批評していくのはとても勉強になるのでしょうね?



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“ワークショップ”での上映の様子。



もちろん。すごく参考になるよ。他の制作者がどんな手法をどんな理由から選んで、どういう場合にそれが働き、また働かないかがよく見えるし、また他の人の作品制作の過程を見ることで、自分自身の制作者としての趣味趣向もわかってくる。自分一人で何でも一から試すことはもちろんできないけど、こうしてドキュメンタリーから実験映画やフィクションまで様々なジャンルの制作者が身近にいるおかげで、彼らの手法のどんな部分が自分のプロジェクトでも適用できるか、などをいつでも考えるクセがついているよ。



映画制作の心の支えになってくれるコミュニティ



──ブルックリン在住でないと参加できないのでしょうか?



いや、どうしても参加したいという人は受け入れるし、今でも数人はマンハッタンやクイーンズからも来ている人もいるみたい。でも実際大半のメンバーがブルックリンに住んでいるんだ。ブルックリンにはこんなに沢山のフィルムメーカーが住んでいる、それにもかかわらず、ネットワーキング……という言葉はきらいなんだけど、制作者同士がつながって、コミュニティを作るのは難しい。コレクティブはそれを実現するためのグループとも言えると思う。




──どうやったらメンバーになれるのですか?



簡単な申請書に記入してもらって、あとは作品へのリンクと、どうしてBFCに参加したいのか、自分はどんな部分でコレクティブに貢献できるか、を一段落くらいで書いてもらう。それにコレクティブのサブコミッティーの数人が目を通し、話し合い、受け入れるかどうかを判断する。会員になったら、春と秋のシーズンごとに5~60ドルのフィーを納め、それでこの会場の借り賃を払うんだ。他にも時々イベントやパーティーを開く。例えば昨年秋にはメンバーの何人かがウォール街占拠運動を初期段階からカメラにおさめ作品に仕上げていたので、それをまとめて幾つか上映したんだ。イベントは大成功で、その時集まった資金で今日使っていたプロジェクターを購入したし、あとウェブサイトの運営等にも充てられているよ。



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昨年秋のBFCのイベント。中央で話しているのがアレックスさん



第一の目的はあくまでワークショッピングだけど、でもそれ以外の得るものもとても大きいよ。何よりもまず、友達ができる。自分の作品を手伝ってもらいたいと思えるカメラマンや編集者に出会える、フリーランスの仕事が入ったら、腕のいい友達に回して上げられるし、回してももらえる。機材も皆で貸し合えるし、メンバー専用の活発なメーリングリストもあって何でも質問できる。技術的なことから、フリーランスの仕事、家探し、ニューテクノロジーの紹介などなど。



BFCが輩出した成功例の一つとして、メンバーであるキース・ミラー監督/編集の2012年作品『ウェルカム・トゥー・パインヒル』があります。撮影を、ベゴニア・コルマー、リリー・ヘンダーソン、そして僕の3人が担当、ジェレミー・レヴィンとジェイ・ストレンバーグが編集顧問、皆BFCのメンバーです。機材もすべてBFCのメンバー間で調達、作品はBFCでワークショップされて出来上がったものです。そして今それが完成して、スラムダンス映画祭とアトランタ映画祭でグランプリ受賞、ナッシュビルで特別賞、サラソタ映画祭で主演男優賞、今週末にはボストン映画祭で上映されます。すごいでしょう!(筆者注:拾った犬をめぐって繰り広げられる、白人監督のキースとブルックリンの彼の家から数ブロック先に住むもとドラッグディーラーの黒人シャノンの友情のオフビート・ストーリー。ドキュメンタリーとフィクションのぼやけた境界上で作られた、とてもおもしろそうな作品です。要チェック!サイト:http://www.welcometopinehill.com




『ウェルカム・トゥー・パインヒル』予告編



それともう一つ、コレクティブが力を入れていることがあるんだ。それは……言葉にするとなんだかいやらしいのだけど、ブランディング。名前を知らしめること。先日メディアの取材も受けたんだけど、そこでもBFCの名前を前面に押し出すように心がけた。もしもある映画が、サンダンス・インスティテュートの支援プログラムから出てきた作品だったら、映画祭のプログラマーにせよ、配給会社の人にせよ、「そうなんだ」ともう一回注目してみるでしょう?BFCもそれと同じように扱われるようになりたいんだ。「ああ、BFCの作品か。もう少しちゃんと見てみよう」って言われるようなね。



──それはすでに少しずつ起こっていると感じますか?



一晩明けたらどうこうっていう話ではないけど、少しずつ、ブルックリン内のプログラマー達との関係は築いていっていると思う。例えば、昨晩と先週には、BFCで作られた7本の短編を、ルーフトップ・フィルムズという上映団体と共同作業で1時間にまとめた番組が、ブルックリンのパブリック・アクセス・テレビの『ブルックリン・インディペンデント・テレビジョン』で放映されました。番組側から、BFCの作品を上映したいと申し出た企画。理想的には、ブルックリンのフィルム・コミュニティについて知りたかったらBFCに来い、と言えるような存在になりたいと思っています。




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ワークショップの後のもう一つの定例会。近くのバーで、インディー映画談義は続く……。


──このシリーズのテーマ「サステイナブル・フィルムメーキング」という観点からいっても、今日聞かせてくださったお話はとても参考になったのですが、他にアレックスがこのテーマを聞いて思うことがあれば聞かせてください。




サステイナブルっていう言葉は、人によって定義が色々変わってくると思うんだ。僕がその言葉を聞いて思うのは、環境問題としてではなく、肉体的・精神的・金銭的な、映画制作の現実のサステイナビリティ。映画製作は本当にしんどい道のりで、だからこそコラボが必要、根気が必要。でも時には疲れ切ってしまうこともある。そんな時に心の支えになってくれ、足をつける大地となってくれるこのコミュニティがあって、本当によかったなと感じています。参加するコミュニティがあり仲間がいるから、励まされ、また前に足を踏み出し、制作を続けることができる……それが僕にとってのサステイナブル・フィルムメーキングです。



(文責:タハラレイコ 写真:記載以外は筆者)


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編集途中のドキュメンタリーを観てメディア・リテラシーを鍛える http://www.webdice.jp/dice/detail/3468/ Wed, 28 Mar 2012 14:18:34 +0100
サミュエル・L・ジャクソンも出演する『Miracle on 42nd Street』の上映の様子


読者の皆様、前回のウォール街占拠(OWS)の記事からかなり時間が空いてしまって、申し訳ないです。フルタイムの仕事に就かなくてはならなかったりで、ちょっと忙しくしてます。OWSムーブメントのアップデートをしますと、昨年11月にリバティー・スクエア(ズコティ公園)をブルームバーグ市長に追い出されたその後、冬の間息を潜めていたようです。しかし各地で、それぞれのコミュニティで住人達が直面する問題を自分たちで話し合う場として、はたまたポエトリーや音楽等の分野で、より裾野へ広がった形で現在も活動が続けられています。これから春にはまたメディアをにぎわす予感さえします。3月17日には占拠6ヶ月を記念してズコティ公園で再会集会が開かれ、また、3月21日には、フロリダ州のトレイボン・マーティン君事件の無罪判決(武器を持たないごく普通の黒人高校生、17歳のトレイボン君を射殺した白人の自警団員が、正当防衛を認められ無罪放免になった事件)に対する抗議デモ「ミリオン・フーディ・マーチ」がニューヨークで組織され、平日にもかかわらず沢山の人が集まりましたが、OWSもそれに共鳴、参加しています。そして3月24日には、ニューヨーク警察の横暴と市警本部長レイモンドケリーの解雇を求めて(最近NYでも、武器を持っていなかった18歳の黒人少年の警察による射殺事件があったばかり)、OWSがズコティからユニオンスクエアまで平和行進し、また多くの逮捕者が出た模様です。それから、東日本大震災から、一年経ちましたね。ニューヨークでも、3月11日には、追悼ビジル、ラン・フォー・ジャパン、コンサート、反原発マーチなど、色々な行事がありました。何に行こうか数週間迷ったあげく、やっぱり原発がなくならないと…と思い、娘と反原発マーチに行きましたが、日本人の姿は少なく、ちょっと拍子抜けしました。一年前にPray for Japanで燃えて募金運動をされていた方々は、今は静かに追悼の方へ行ったのだなあ、と思いました。





さて、今回からできれば毎月一回頑張って続けて行こうと思っている、新シリーズ「サステイナブル・フィルムメーキング」。もちろん、金銭的なサステイナビリティー(持続可能性)も重要な要素です。ですが、今回のシリーズでは、お金のことに加えて、撮る人(制作者)─撮られる人(被写体)─見せる人(興行主、配給、映画祭など)─見る人(観客)というサイクルのつながりや、何かそのつながりの中でのギビングバック、還元という意味も考えていきたいと思います。顔の見えないお客さんや映画祭の審査員のために作品を作るのではなく、映画制作に関わる皆が顔を見せ合い、作り、見せ、売り、買い、大切な何かを共有する。舞台は、劇場であったり、ネット上であったり。そのつながりの中で、映画という媒体の役目も進化して行くように思われます。ニューヨークの2012年のインディー映画を支える団体やそこで踏ん張っている制作者の皆さんに、一団体/一個人ずつ、話を聞いてみようと思います。










制作者同士のハブ的な存在からスタートした

メディア団体・アーツエンジンと批評会・ドキュクラブ



第一回は、ドキュクラブ。 ロウアー・マンハッタンで月一回開催の、制作途中のドキュメンタリー作品の批評会である。私が見た限り、これが毎回盛況で、大変おもしろい。まだ完成していない作品を、緊張の面持ちで初めて一般の人に見せる制作者。上映後点灯された満席の会場で身を乗り出して、作品の強い点、弱い点、分かりにくい点、率直な感想を述べる人々は、映画制作関係の人ばかりでもないようで、そこがまたおもしろい。長年このドキュクラブの運営責任者として活動して来たフェリックス・エンダラ(Felix Endara)さんに話を聞いた。



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ドキュクラブの運営責任者フェリックス・エンダラさん


──まず、日本の読者の皆さんに、ドキュクラブがどういう経緯で生まれて、どんな人達が利用しているかを説明していただけますか。



ドキュクラブは、その母体であるアーツエンジンという団体の主宰者でもあるスーザン・カプランが、映像制作者仲間の間で編集途中の作品への感想をお互いに言い合える場を作るために、彼女のオフィスで1994年に始めたイベントです。時とともに定例化されて、現在では月一回の会合になっています。今まで、マンハッタンの色んな場所で開催されてきています。IFCシアターとか、クアッド・シネマとか(筆者注:ともにダウンタウンのインディー系劇場)。参加する映像制作者は、ベテランからこの道に入りたての人まで様々。ドキュクラブは、ドキュメンタリー制作を生業とすることを目指すすべての人達のためにあるんです。お客さんは、映像関係の人達とドキュメンタリーのファンと、両方ですね。



──現在のドキュクラブの運営について聞きたいのですが、会場や、上映作品の選抜方法、また、毎回大変盛況に見えますが、イベントの宣伝方法等、教えてください。



過去2年間はずっと、ダウンタウン・コミュニティ・テレビジョン・センター(DCTV)か92Yトライベッカ(筆者注:前者はチャイナタウンのメディアアートセンター、後者はトライベッカにあるカルチャーセンター)で開催しています。キュレーター/マネージャーが一人いて、上映作品はその人が選びます。98年以降は僕がその役割を果たしてきました。選ぶ基準は制作者のニーズにより変わるのですが、編集のどの段階にあるかについては基準を設けています。ラフカットと言っても、見る人が話の流れや登場人物のことをちゃんと理解できる程度には構成がきちんとされていること。宣伝は、アーツエンジンのニュース配信や、ツイッターやフェースブックなどのソーシャルメディア、それにドキュリンクDワードといったオンラインの映画コミュニティーサイトを活用しています。



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どこがまだ未完成かを上映前に説明する、この日上映作品の監督のアリス・エリオット( Alice Elliot)さん。後方で見守るフェリックスさん。


──フェリックスさんは、もともとどういうきっかけからアーツエンジンで働き、ドキュクラブに携わるようになったのでしょうか?



僕自身が長年インディペンデント映画制作者、そしてキュレーターとしてやってきていて、それでアーツエンジンのフィルムメーカー・サービス・マネージャーという職に応募したというわけです。アーツエンジンでの僕の仕事は、このドキュクラブと、フィスカル・スポンサーシップの運営です。(筆者注:フィスカル・スポンサーシップとは、個人アーティストである映像制作者が助成金等に応募できるように、アーツエンジンの非営利団体ステータスを貸したり、集めた資金を管理してあげたりするプログラム)



──アーツエンジンのサイトでみたのですが、ドキュクラブから巣立って行った作品の中には『未来を写した子どもたち』(原題は『売春宿に生まれて』Born Into Brothel、アカデミー賞受賞作)や『Boys of Baraka』(日本未公開。シルバードック観客賞受賞作。『ジーザスキャンプ』の監督の前作品)、『メタリカ:真実の瞬間』(原題:Metallica: Some Kind of Monster)など、かなり有名なドキュメンタリー作品があるようですね。他にはどんな作品が世に出ていますか?



キンベリー・リードの『Prodigal Sons』やニコル・オパーの『Off and Running』なども各地の映画祭で大きな成功を収め、観衆の心をつかんだ作品です。2009年にサンダンスへ行った『Disturbing the Universe』もドキュクラブ上映作品です。



──フェリックスがドキュクラブに関わって来た過去14年というのは、世界でもアメリカでも猛烈な変革の時代ですね。9.11、アフガン・イラク空爆、オバマ、欧米経済破綻、 テレビからネットへのメディアの移行、中国・インドの台頭、アラブの春、ウォール街占拠運動、日本の核汚染などなど。その間、そうした社会情勢の変化がどのような形でインディー・ドキュ・コミュニティーに影響を与えて来たと思いますか。もし質問が抽象的すぎたら、1~2の出来事に絞って答えてくれてもいいです。



うーん、一般的な答え方になりますが、フィスカルスポンサーシップで色々なプロジェクトを見て来て、確かに時事はその時々に作られる作品に色を落としていると感じますね。例えば、オバマが当選した後、僕らは2つのプロジェクトをスポンサー作品として選抜したんですが、そのどちらもがオバマの選挙についてでした。一つは2008年の選挙の日の記録、もう一つは乱戦だったペンシルバニア州でのキャンペーンの組織者たちに焦点を当てたものでしたよ。



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アーツエンジンのウェブサイト、最初のページ


──最近は、映画祭や大手配給に乗る事で、ドキュメンタリーもより商品として取り扱われる機会が増えてきましたよね。それを目指してドキュ制作の道を選ぶ人も今は多いかと思います。フェリックスの目から見て、最近のドキュ制作者の皆さんは、世に認められたい、お金を儲けたいという欲望と、世界を少しでも平等で住み良い場所にしたいという欲望とをどのようにバランスを取っているように映りますか?



これは映像制作者にとって、とても難しい問題ですよね。「お金持ちになりたい」という欲望があるのかどうかはわからないけど、映画制作で暮らせるようになりたい、というのは、やはりドキュクラブで上映する制作者たち共通の願いではあると思います。言い換えれば、インディペンデント映画制作者の多くは、CMやテレビや商業映画のフリーランスの仕事で生活費を稼いでおり、それは本心に逆らう行動で魂を売らないとできないこともあるでしょう?(筆者大きくうなずく)でも生活はあり、支える家族はあり、情熱を傾けたい作品作りには金がかかるわけで…。



──今回から続けようと思っているシリーズのテーマは、「サステイナブル・フィルムメーキング」。そのサイクルの中で、ドキュクラブやアーツエンジンの活動はどこに位置づけられると思いますか?またその活動の中で、インターネットが果たす役割のようなものはありますか?



アーツエンジンとドキュクラブは、フィスカルスポンサーシップやメディア・ザット・マターズ映画祭(アーツエンジンが2001年以来開催する、今では普及しつつあるインターネット映画祭の先駆け的存在)なども含めて、様々なプログラムを通してインディペンデント制作者を支援しています。それらすべてを通してプロモートされているのが、コラボレーションの心。例えば、アーツエンジンのプロダクション部門であるビッグマウス・フィルムズが作る作品には、活動で知り合ったフリーランスの制作者がよく起用されます。そういう意味で、アーツエンジンはある意味“ハブ”(拠点)的な存在で、ともすれば孤立しがちなインディペンデント・フィルムメーカー達が集える場所として位置づけられると思います。



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オーディエンスの意見に熱心に耳を傾けるアリスさん。左はモデレーターのケイトリン・ボイル(Caitlin Boyle)さん。


──作品を上映したフィルムメーカーや参加したお客さんから感想が寄せられることはありますか?



あります。制作者の方達は公的なスクリーニングの場が持てたこと(友人知人だけでなく、第三者も含めてという意味で)への感謝の気持ちや、また支援的で評価や結果を恐れなくていい環境で、作品への正直なフィードバックがもらえてとても参考になった、という内容が多いですね。










クラフトマンシップを理解した上で、

能動的にドキュメンタリーを見る観客を増やす



私が取材した日に上映していたのは、アリス・エリオット(Alice Elliot)監督の『Miracle on 42nd Street』(筆者訳:『42丁目の奇跡』)という長編ドキュメンタリー、のラフカット。マンハッタンのシアター街すぐ西にある、ショービジネスを支えるパフォーミング・アーティストのための巨大格安アパートビル、“マンハッタン・プラザ”の歴史を綴った内容。かつてサミュエル・L・ジャクソンがガードマンをやっていたり、アリシア・ケイが生まれ育ったり、ジェリー・サインフェルドとともに人気コメディ番組『サインフェルド』を創りだしたラリー・デイビッドが住み、出演のクレーマーは今なおそこに住んでいるという、伝説のアパート。またその数千人のアーティスト・コミュニティの長として長年働いた牧師さんは、エイズが蔓延した80─90年代にエイズにかかってしまった住人たちが他の住人たちに支えられて生きられるための非営利事業を立ち上げた人物でもあったという。観客の反応はまちまちで、こんな珍しい話はなく素晴らしい、スターが沢山出てきておもしろい、というものから、マンハッタン・プラザの宣伝みたいだ、名もないアーティスト達にもっと光をあててほしい、劇場用の尺は長すぎる、1時間のテレビ番組にぴったりだ、といった批評も聞かれた。



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ラフ編集中なので、アーカイブ映像はまだタイムコードが画像に入ったままの配給会社からのコピーを使用


ドキュクラブは、映像仲間のフィードバックの場として始まったということだが、今ではこうして、一般のドキュメンタリー好きのお客さんがひと月に一回編集途中の作品に触れ、制作者同士の批評を聞いたり、また自分の印象を作り手に伝えている。これは実は、大変意義深いことに思われる。制作者にとっては、絶好のプロモーションの場となるだろう。お客さんに興味を持ってもらって、ソーシャルメディアや口コミで事前に作品を広めてもらえる。お客さんにとっては、普段みられない、完成に至るまでの編集の裏側が見られる。制作者同士の批評では、作り手の意図と映像や音のデザインがうまくかみ合っているかとか働いていないとか、この登場人物のイメージをこう変えた方が全体としてのメッセージがわかりやすくなるとか、そういうことが話し合われる。つまり、普段必ずしも観客に気付いてほしくないメディア要素の操作の面が、作り手同士だから当たり前に話し合われる。なぜなら、よくも悪くもそれがストーリーテリングであり、映画のクラフトである。観察映画でもナレーション付きのドキュ映画でも、言ってしまえばフィクション映画でも、同じ事だ。そのため、主催者の意図に関わらずとも、一般のドキュメンタリーファンは、ドキュクラブに毎月参加する事で、メディア・リテラシーというか、ドキュメンタリーが作り物であることが、よくわかる。



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上映前に歓談するオーディエンス


ドキュクラブ(見せる人/仲介人)が制作者(作る人/売る人)同志をつなげるためのイベントが、自然にもう一つのグループ、観客(見る人/買う人)までも、商品が完成する前につなげてしまった。気付かずにいたドキュメンタリー制作の操作を知ってしまって、興ざめする観客もいるかもしれない。でも私は、知った方がやはりいいと思う。裏の操作=クラフトマンシップを理解した上でドキュメンタリーを鑑賞する人が増えた方が、実は健康的だし、今はそういう時代だ。制作者にとっては、ドキュメンタリー=真実うんぬんの議論から抜け出してより自由になれるし(かといって観客をだましてもよいと言っているわけでは決してないし、被写体への責任はもちろんあるが)、観客は、制作者の意図を理解した上で、クラフトの部分を楽しみながら、かつ、自分なりの真実を探そうかな、と思いもできる。つまり、作品の中の見知らぬ世界に連れて行ってもらいたい自分と、この世界にとどまって作品の真実性や芸術性を評価し楽しむ自分と、デュアル・プロセッサーを回しながら、能動的に作品を見る観客が増える。



私とスクラブル(アルファベットのタイルで言葉を作るゲーム)をしながら刑事もの番組のストーリーを理解し、かつ携帯で算数ゲームもふんふんとこなし、はたまた友人からのテクストメッセージに返事を書くことが同時にできる高校1年生の我が娘を見ていると、人間の脳はまだまだ開発できる、と思わざるをえない。ながら族はダメ、と育てられた私には厳しいが、スクラブルゲームで時間がかかるのは私なので、こういう場合は、一つの事に集中しなさいと言わないでおいている。話はずれたが、ドキュクラブはこうして、孤立しやすい制作者のハブとなってくれるだけでなく、一般のお客さんにとってのドキュメンタリー講座的な性質も持っているように思えた。



さて、次回のサステイナブル・フィルムメーキングでは、どこを取材しようかな。候補は、1)60年代に始まって以来ずっと、インディーズとアヴァンギャルド映画の制作者たちが自分たちの作品を自分たちで配給する母体として続けられてきたマンハッタンの“フィルムメーカーズ・コープ”、2)ブルックリンを拠点に活動する新進気鋭の制作者集団“ブルックリン・フィルムメーカーズ・コレクティブ”、3)ブラックシネマをリンカーンセンターなどのハイソなフィルムソサエティーなどで上映しながら新たなブラック・アート・シネマの配給の道を開拓する集団“イメージ・ネーション”などなど…。お楽しみに。



文章/写真:タハラレイコ 『Miracle on 42nd Street』の写真はアリス・エリオットさんの承諾を得て使用

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ソーシャル・メディアを利用した革命、OWS(オキュパイ・ウォール・ストリート)とは何か─現地NYからレポート http://www.webdice.jp/dice/detail/3284/ Wed, 02 Nov 2011 12:09:35 +0100
ワシントンスクエア(10/8) 写真:ステファン・オブライアン


Occupy Wall Street(OWS)をムーブメントの名称として9月17日にウォール街近くのズコティ・パーク(別名リバティー・スクエア)を数百人の若者が占拠して始まったこの動きは、一ヶ月以上たった現在 どんどん成長している。10月15日の世界的ソリダリティー(連帯)の働きかけには全米100都市、全世界で1500都市で同様なデモ行進などが行われた。日本ではその実体は広く伝えられていないようなので、このムーブメントは一体何なのか、ニューヨークに住む一市民の立場から、またメディアに関わる者の視点からリポートする。また同時に、一見関係していないように見えて、日本各地で起こっている“原発やめろデモ”や皆さんの日常抱いている思いとも接点があるように思えるので、その共通性も考えてみたいと思う。




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ウォール街占拠の拠点ズコティ・パーク内(9/28)


これまでの急速な発展



私が最初にOWSのことを知ったのは、占拠第3日目にあたる9月20日火曜の晩。私が教えるハンターカレッジ・メディア修士課程のドキュメンタリー史の授業で、生徒の一人が、ウォールストリートで占拠が起こっていて大事なミーティングがあるらしいので授業を早退したいと言って来た時。わけがわからないながらしぶしぶ今回だけと了解したが、その後調べたら、カナダの活動家雑誌アドバスターズの広告に呼応したニューヨーカー達により、夏から占拠準備が始まっていたらしく、ふうん、そんなことが起こっているのか、と。ところがその週末、 白服警官(地位の高い警官)が歩道で行進していた一般女性5人をオレンジネットで追いつめペッパースプレーをかける姿がインターネットをにぎわせた(*1)。その頃には多数の携帯画像に混じってキレイな映像のドキュメンタリーらしき作品も登場し、フェースブックやメールでそれらを見て、意外に平和的でオーガニックな雰囲気に興味を覚えた。



最初に行ってみたのが9月28日。その日の印象は、いい感じだけど、白人学生中心のヒッピーの集まりっぽいな、という感じ(*2)。ところがその翌日、教師・エンジニア・鉄道などの労働組合が支持を表明し、一気に人種や社会階層の壁を越えた運動に発展。10月5日のコミュニティ/レーバー行進( *3)は雑多な普通の人々が参加していて、マンハッタン12ブロックに及ぶ人々の群れになった。コーネル・ウエスト(現代の公民権運動をリードして来た黒人思想家)、ナオミ・クライン(企業グローバリゼーションの搾取原理を摘発したカナダのユダヤ系女性作家)など影響力のある知識人や、映画監督のマイケル・ムーア、作家/マンガ家のニール・ゲイマン、ミュージシャンのトム・モレロなどが次々に支持を表明、あまりの勢いに政治家たちも放ってはおれなくなり、ニューヨーク市長からオバマまで色んな政治家が色んなことを慎重に発言している(*4/5)。その間、ロン・ポール(反軍産複合体・反連邦準備銀行のリベタリアン立憲主義の大統領候補)とラルフ・ネーダー(反商業主義極左)のラディカル右派左派の同盟発表も起こった(*6)。 10月15日、夕方のタイムズスクエア結集には相当数の市民が参加、タイムズスクエアは人々で埋め尽くされた。その数は5万人とも20万人とも報道されているが、メジャーメディアはあまり取り上げないし、本当の数はわからない。



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タイムズスクエアに結集しつつあるマーチャー(10/15) 写真ソース:http://www.clearingandsettlement.com/2011/10/occupy-wall-street-hits-times-square-2/


軍人達の参加



またここ数週間は、各地のOWSの集まりに9.11.後のアフガニスタン紛争やイラク戦争を戦った20-40代の退役軍人たちが多く参加するようになってきており、同時に各地で平和的公園占拠やデモ行進を行う市民への警察の暴行がネットで多く摘発されている。10月15日のNYマーチの後、タイムズスクエアで乱暴になった警察に向かって「恥ずかしくないのか!この人達は武器を持っていないアメリカ市民だぞ!戦いたいならイラクやアフガンに行け!お前等の仕事はこの人達を守る事じゃないのか!」とどなりつけた服役軍人のビデオがyoutubeの大ヒットとなった(現在のヒット数253万超。*7)。10月25日には、オークランドのOWSマーチで警察が市民に向けて催涙ガスキャニスターを多数投げ込み、それを頭に受けて倒れた一人を助けに戻った10名ほどの市民の輪の真ん中に、また警官が催涙弾を投入した映像がネットに出回った(85万ヒット。*8)。倒れた人は2回のイラク勤務を昨年終えた24歳の退役海兵隊員スコット・オルセンで(頭蓋骨損傷で意識不明の危篤となったが、現在は意識が戻っているらしい)、イラク服役軍人たちの間に広がる反戦運動に大きな影響を与えている。



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ズコティ・パークのメディアステーション(9/28)


ソーシャル・メディアの果たす役割



と、これまでの動きをざっと追ったが、アラブの春と同様、OWSムーブメントでもソーシャル・メディアの役割は非常に大きい。Youtubeやvimeoといったビデオ共有サイトの他、リーダーのいない運動のため一つのサイトというよりは幾つかのサイトで動きが追えるようになっており、occupywallst.org、occupytogether.org、またニューヨークの全体集会の動きはnycga.net(*9-11)、各地には各地のOWSのサイトが開かれており、週末の平和行進や勉強会、ミーティングの予定や、ファミリー・キャンプアウトの晩等、これまでの活動状況が把握できるようになっている。 occupywallst.org にはライブフィードのリンクもあり、ズコティ・パークやマーチからの生中継(スペイン語放送もある)やこれまでにアップされたビデオやミュージックビデオ、世界各地での運動の様子等も常時流れているし、サイト内のフォーラムでは凄いスピードで色々なことが世界各地から話し合われている。そしてその動きの逐一がフェイスブック、ツイッターなどを通して広がっている、という構図だ。



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10/31深夜2時過ぎ、ズコティ・パークからのライブ中継。占拠者がテント状況について語っている。


ズコティ・パーク内にはメディア班のコーナーがあり、数週間前に室内のアパート(誰かが場所を提供したと思われる)に移るまでは雨の日も風の日も、公園内で編集やウェブ管理が行われ、占拠してそこで寝ている人、家から通っている人、たまに公園をのぞいてみる人、などなど様々な人がメディアコンテンツを提供したり編集の手伝いをしたりしている。たった今メディア班のページを開いてみると、こんな書き込みがあった:「会計班のメンバーなんだけど、メディア班の誰か、下の件で一般の人々の意見を聞くアンケートをどこかに上げてもらえないかしら?質問はこれ:占拠運動にこれまでで50万ドル(本日の為替レートで3,788万5000円)の寄付が集まっています。この一部を私たちの運動のために各都市が余分に負担しなければならなかった、清掃・ゴミ収集・補足警官費用の一部に充ててもらうため、グループが各都市行政に支払うとしたら、あなたはグループに対してどんな感情を抱きますか:A) いい印象を受ける、B) よくない印象を受ける、C) 変わらない」。



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10月31日朝9時。朝のGAが始まっている


OWSの実体とは



さて、ではOWSとは一体何なのか。大きな動きであることは理解いただけたかと思うが、マスメディアが警察との衝突や逮捕者数ばかりを切り取って報道しているため何かアブナイ感じがすると感じたり、また要求がはっきりしないという批判をよく目にする方も多いかと思う。百聞は一見にしかず、ということで、今回はOWSの初期段階で大きな役割を果たしたビデオ2本とその作者たちを紹介することにした。今回の記事のために特別日本語字幕をつけたので、お楽しみください。
まずは、これ。


▼『誰も革命の瞬間を知らない』




[youtube:Ve1sHINaKzI]

(原題:"Nobody Can Predict the Moment of Revolution" by Martyna Starosta & Iva Radivojevic 7分30秒)


この作品はポーランド出身ドイツ育ちのマルティーナ・スタロスタ(*12)と、セルビア出身キプロス共和国(トルコ南の東地中海の島)とニューヨーク育ちのイヴァ・ラディヴォイヤヴィッチ(*13)国際派コンビが、占拠第5-6日目に撮影、第7日目の9月23日には早くも仕上げてアップしたビデオ。運動初期に最も早く出されたドキュメンタリー“作品"的な記録映像の一つとして、世界中で観られている。現在youtubeで約21万ヒット、Vimeoで約6万3000ヒット(*14)、Vimeoの統計欄で見ると10月3日、ちょうどブルックリンブリッジでの700人逮捕の報道の週末開けに一日で1万2000ヒットが記録されている。アップ後、最初の1週間、occupywallst.org で紹介されたため、世界の人がOWSに注目してそのサイトを訪れそこから彼女たちのvimeoページやyoutubeに飛んだものと推定できる。私も恐らくその一人で(どうやって観たかは覚えていない)、そしてこのビデオで「何かいいな」と感じ、その数日後ズコティ・パークに実際に足を運んだのであり、きっと私のような人がゴマンといたのだろうから、功績は大きい。



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マルティーナ・スタロスタ&イヴァ・ラディヴォイヤヴィッチ


そして実は、ずいぶん経ってから知って驚いたのだが、私の授業を第3日目に早退した大学院生こそが共同監督の一人のマルティーナで、一緒に作ったイヴァもまた、私のクラスの生徒だったのだ(学期が始まったばかりで知り合って日が浅かったため、しばらく気付かなかった)。手近な作品を紹介していると思われては困るのだが、私がその作品を見たのは彼女たちとはまるで関係のないルートだったし、彼女たちのもとには各国の見知らぬ人々から、「元気づけられた」、「自分たちもビデオにあったのと同じやり方で運動を始めた」というメッセージが届けられ、ビデオのパワーに自分たちが圧倒されているという。またさらに、今回この作品に日本語字幕(*15)をつけるにあたって、彼女たちのVimeoからビデオをリップする許可をもらいネットで調べていると、この作品が誰か別の人の手で各国語で字幕が付けられるサイト(*16)に上げられ、すでにロシア語、スペイン語、マラヤーラム語に翻訳されている事もわかった。私も乗っかって、そこにも日本語訳を入れた(そのサイトの翻訳ツールの都合でどうしてもタイミングがずれてしまうのだが)。それを彼女たちに知らせると、まったく知らなかったと心底驚いていた。



OWSに流れる哲学



次にご紹介したいのが、このビデオ:


▼『コンセンサス』


[youtube:89dMrnqqx0U]
(原題:"Consensus"8分30秒。制作チーム: Meerkat Media Collective: Bryan Chang, Eric Phillips-Horst, Jay Arthur Sterrenberg, Jeff Sterrenberg, Karim Tabbaa, Marie Mounteer, Nathan Storey, Russell Brandom, Sam Stein, Tal Bar-Zemer, Zara Serabian-Arthur)


このビデオは、占拠27日目の10月13日にアップされており、youtubeとvimeoで約7万7千ヒット、フェイスブックでのシェアー回数は2万7000回以上(*17)。日本語版のyoutubeサイトはここ(*18)。制作はブルックリンのミアーキャット・メディア・コレクティブ(*17)。10数人のメンバーによる共同制作をモットーとするユニークなメディア集団で、普段はウェブ用のプロモなどを作り資金をかせぎ(半数の人は教師や音楽家などメディアとは関係ない職業を持つ)、生活し、その一部を機材費と共同オフィス費に充てて、皆でこれは絶対作るべきという主題を選んで制作しているという。2005年以来20以上の短・長編を制作しており、映画祭などに出している("sustainable filmmaking=持続的フィルムメーキング"と彼らは呼んでいた)。彼らの制作のプロセスはOWSとまったく同じ、一人を監督(リーダー)としないコンセンサス方式で、ズコティ・パークに行き、自分たちと同じ方式、しかも手の動きま同じ仕方で運動をしているOWSの面々に共感し、応援する気持ちでこの作品を作ったと言う(彼らとのインタビュー、下に掲載)。



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左からエリック・フィリップスーホースト、タル・バー・ゼメール、ジェイ・アーサー・ステレンバーグ、 (ミアーキャット・メディア・コレクティブ)。ブルックリンのザ・コモンズで開かれた『メディアを占拠せよ』イベントで


このビデオが撮影されたのは10月8日(土)の週末前後で、一つ目の作品から2週間以上が経過している。その間、ムーブメントの規模が大分大きくなっている事が見て取れるだろう。その頃にはズコティ・パークが破裂しそうに人で埋まってしまい、もっとずっと大きいワシントン・スクエアへの移動がウワサされていたが、後者は市の管轄で午前1時以降は公園が閉まるためそれは起こらず、この作品に登場するラリー・シーンのあと、ズコティ・パークに帰ったようだ。もともとの占拠者たちが知っていたのかどうかわからないが、ズコティ・パークは実は土地開発会社のブルックフィールド社が所有する公園で、そのために警察も自由に踏み込めないという背景もあった。



ただ、このビデオが上がった13日の晩には、ブルックフィールド社がブルームバーグ市長に公園の一掃を願い出て(確かにこの頃はすごい数の人が寝泊まりしていて、ちょっと匂いがきつくなってきていた)、占拠側ではニューヨーク市民に占拠を守って!と呼びかけ、皆で公園内を大清掃、 寄付金でゴミ回収車も雇ってこれ以上掃除のしようがないほどにモップやタワシで磨き、徹夜で木の周りに皆で手をつないで何層もの人間リングを作り、市民も自宅から市長室に電話するなどして、結局掃除が“延期"そして中止になるという一幕もあった(*18)。この頃には毎日無数のビデオが上げられるようになっていたが、その中でこの合意のプロセスに焦点を当てた作りは視点が新しく、しかも運動の本質を捉えており、注目を集めた。



人間マイク



どちらの作品にも出て来る人間マイク(やまびこ方式)であるが、なぜこうなったかと言うと、占拠後数日間に何人もの逮捕者が出たが、その中に「メガホンを公園で使うのは違法だ」として逮捕された人がいたため。それ以降は人間マイク方式が取られるようになった。2つ目のビデオにあるように、すごい人数になりやまびこが2回繰り返されるようになり、一時はビデオプロジェクターで発言者の言葉を即時タイプして映すという試みも行われたが、スピードに追いつけず、人間マイクが連帯感を強める役割も担ってきていたので、今はまたそれに戻っているようだ。私たちの肉声や身振りも含めて、ビデオやプロジェクターまで、メディアというものは、 人間のコミュニケーションのためのツールなのだなあ、と実感させられる。



CUNY.GradCenter.Symposium.2

NY市立大で開かれた『福島3/11後の世界』シンポジウム(10/21)


OWSと3.11 Fukushima



さて、これらの作品について調べたりOWS周辺のイベントに参加しているうち、ちょうど10月21-26日まで、ニューヨークで「3.11. Fukushimaの世界的意義」(*19)と題される4日間のイベントが開催されていることを知り、それにも行って来た。ゲストは池上善彦さん(『現代思想』元編集長、ライター)、木下ちがやさん(政治学者)、後藤あゆみさん(歴史学者、大阪日雇い労働者関連アクティビスト)。これを組織したのはTodos Somos Japon(スペイン語で“みんな日本"*20)というニューヨークの日本人団体で、Fukushimaは日本だけの問題ではなく消費社会を生きる世界のすべての人々の問題であると捉え、日本から伝わって来る情報を英語に、また英語で寄せられる励ましの言葉や分析文などを日本語に翻訳、解釈して流すことを目的とする団体である。



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マンハッタンのメディアセンターDCTVで開かれたフクシマ上映会後のトーク(左から:後藤あゆみさん、木下ちがやさん、池上善彦さん、Todos…の殿平有子さん)


私がこの記事を書きたいと思ったきっかけが、日本で不安な毎日を生きている皆さんに、それと無関係とは思えないがあまり報道されていないアメリカの大衆運動の姿を、できるだけ誠実に伝えたいという気持ちだったので、もっとずっと前からこうして点と点を結ぶために活動しておられる日本人の方たちがNYにいることに改めて感謝を覚えた。そしてまた、私自身遠くに住んでいて、日本で3.11.以降、週末のデモなどがあちこちで起こっているのは見聞きしていたが、その発起人や参加者の方々の素顔をドキュメンタリーを通して見ることができ、非常に元気づけられた(上映作品情報*21)。



後藤さんがシンポジウムのオープニングのスピーチで反原発デモに参加する日本の多くの女性達の態度が「私たちはフェミニストでもアクティビストでもないけれど、子供達の事を心配しています」というものだと語ったのも、心に響いた。従来の左派右派のイデオロギーに捕われる運動家ではなく、物溢れや勝ち組/負け組など日本を覆う価値観に疑問を抱き、そして原発事故とその後の政府の対応に怒り、子供達の将来を憂い、皆で話し合い気持ちを共有することを求める人達を見て、励まされた。日本から来られていた方々が、OWSの人々やNYで福島のことを真剣に考えている人達と友達の輪を拡げておられることが頼もしかった(Todos …の Sabu Kohsoさん達は、その前にもズコティ・パークで3.11.の講演会なども開いていたようだ)。



そして、日本の状況に関してはまだまだ勉強不足で、いまだにマスメディアに頼っている部分が自分にもあるなあ、と感じた。池上さんや木下さんが強調されていた通り、ごく普通の人々が参加しているのが今回の日本全国のデモの広がりの特徴である事、また政治とアート・文化を自然体で融合(日本の参加者の衣装やバンドなど、すごく凝っている )させているところなども日本ならではで、参加したいと思った。



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『Fukushima以降の日本のプロテスト』(原題:Radioactivists)予告編サイト 5月の原発やめろデモ。 発起人の一人高円寺「素人の乱」店長、松本哉さん挨拶


共通項─私たちは99%?



アメリカでは失業・経済破綻・戦争、日本では原発、目前の問題は違っても、経済界と癒着して国民を第一に置かない政治のあり方への蜂起、また企業グローバル化により世界の不均衡と環境破壊を増長する人間性を失った経済のあり方への疑念と反発、という意味では大変似通っている。アラブの春は、独裁政治への怒りであると同時に、それら独裁者たちと裏で手を組み、軍事援助と引き換えに石油の利権を確保して来た西側諸国(特にアメリカ)への怒りでもある。私たち自身今回のことまで気付かなかったことだが、日本が原発に頼って来た産業構造自体に、敗戦、そして冷戦時代を通じて今まで政府が必死で守って来た米従属の構図が隠されている。実際それによっての恩恵も日本人は得て来た。特に私たち40代は、80年代には豊かな時代を過ごさせてもらった。その裏には50基を超える原発と、アジアや南米の安い労働があった。




そして今、色々な意味でそのツケを、若者たちが払っている。子供を産むのが不安になっている若い女性たちや、被曝している福島の子供達が払っている。第2次世界大戦の日本の立場と同じように、私たちは被害者であり、加害者である。アメリカの大衆蜂起のスローガンである「我々は99%」は、もともとはアメリカ国民のみに対して向けられた言葉だったかも知れないが、この5週間でアラブや南米の人々との大衆レベルでの国際交流がネットを通じてものすごい勢いで進み、お互いがそれまでの偏見や憎しみと向き合い、そしてお互いが奪われている者同士(奪われ度に差があるのは否めないとして)であることを学び合い、じゃあ、どうしようか、どうすればいいのか、という座談会の場としてこの運動が広がっている。この蜂起に至るまでには、2001年9月11日以来醸造されてきた一般のアメリカ人の若者たちの気持ちがあると私には見える。




彼らは9.11.とその後のブッシュの8年間で世界が自分の国を嫌っていることを感じて育ち、敵のいないでたらめな戦争がマスメディアで正当化され世界で沢山の人々が死んでいることを感じながら、自分は変わらない豊かな生活の中に育てられて来た。進歩的な学校教育を受け、非暴力と話し合いでの民主的問題解決を教えられながら、大人の世界のダブル・スタンダードを心底嫌う気持ちと、それでもそれを肯定する商業社会のコマとして生きなければ生活できないジレンマに悩んでいる。 そして、マスメディアに見切りをつけ、自分たちでネットで情報を集めまた発信し、世界の99%の大衆間での話し合い(ビデオの中で「座談会」と表現されていたように)にこそ打開の道がある、と信じているように見える。色々な思いはあるけれど、反米や反日のような言葉に踊らされることはもうやめて、彼らと話し合ってみれば、何かが実際に変わる、私たちが変えることができる時代になったんじゃないか、という気がして来る。時代の精神(zeitsgeist)という言葉があるが、世界中で、今それがここに来ていると感じずにはおれない。



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9月19日「さようなら原発五万人集会」東京、明治公園 写真ソース: http://blogs.yahoo.co.jp/mxx941/6725506.html


“占拠”の意味



「占拠」という言葉の使われ方についてだが、私が取材したりイベントで見聞きした多くの人々が表現していたのは、もちろんエジプトのタハリール広場占拠に呼応してのことであり、また今の社会で私有化されてしまっている公共の場や資源(公園、電波など)を一般市民が取り戻す意(詳しくは後述のインタビュー参照)で占拠という言葉を使っているようだ。しかし同時に、占拠(オキュペーション)という言葉は占領も意味するため、アメリカが占領、もしくは植民化して来た国々の人々(イラク、プエルトリコなどなど、日本もですね)はそれに抵抗を覚えもするだろう。実際、イラクでは「Un-Occupy Iraq # We Are The 99% 」(“イラク占領解除:我々こそが99%”)という名前のフェイスブックページも作られているが、そこはイラクとアメリカの一般市民の意見交換の場とされているのだから、ユニークなツイストである。私には、世界で映されて来た(ハリウッドや政治で)アメリカ像が自分たちを映していないことへのアメリカ市民の反乱でもあり、だからこそ、反米感情を押さえてアメリカの本当の人々と話をしようじゃないかという世界の市民の気持ちも、この運動の広がりに内含されているように見える。




ニューヨークの3.11.FUKUSHIMA イベントの最終日、ホストであるDCTV(アメリカ草の根メディアを支援するメディアセンター)のキュレーターの人が上映後のQ&Aに出演していたパネラーに「今回NYに来られてOWSをご覧になり、どう思われましたか」と尋ねのに対し、後藤あゆみさんが「アメリカの人達に、アメリカを変えてほしいと思います」と英語で答えられていたのが非常に胸に残り、気持ちもよかった。日本の戦争はアメリカでは完全に過去の事であるし、原爆のことも皆よく知らない(今回被爆者のドキュメンタリー上映に連れて行った非常に頭のいいハーバード大出身のアメリカ人の友人でさえ、「被爆者はほとんど皆その時死んだのかと思っていた!」と驚いていた)。教えられていないのだから、仕方がないことだ。福島のことも、もう記憶の隅に追いやられようとしている。日本では、どれもが私たちを作り上げている生きた歴史なのに。なのでなおさら、皆忙しいだろうけど、今情報を外に向けても発信してほしい。アメリカは今、教えられなかった歴史に耳を傾けたがっているように見える。



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「アメリカの人達にアメリカを変えてほしい」と答える後藤さん


10月24日放送のPBS(米公共放送)人気番組チャーリー・ローズの『カレント・アフェアーズ』(現代の時事)に出演したエイミー・グッドマン(80年代から活躍する草の根ジャーナリスト 、『デモクラシー・ナウ』ホスト)が言っていたが、マスメディアはもはやマスメディアではない、アメリカのほとんどの人がOWSを支持しているのに、それがマスメディアには反映されていない(他にも的確なことを沢山言っています。*21、英語の分かる人はご参照ください)と言っていた。10月2日の週、毎日40万人近い人々が訪れるOccupywallst.orgのサイトで行われた調査によれば(1619人の返答に基づき、ニューヨーク市立大の教授が分析)、92.5%がムーブメントを支持、70%が政治的には共和党でも民主党でもないインディペンデント、64%が34歳以下、92%が短大卒以上の学歴保有者、という結果も出ている(*22)。この数字からも見える通り、そしてこれも日米共通に思えるが、政治家に頼らないポスト・ポリティカル(反政治的、もしくは脱政治的)な運動と言える。



これから進む道



3.11Fukushimaイベントで聞いた池上さんの言葉で非常に心に響いたものがあった。日本の54基の原発のうち43基が今止まっているのは、一般市民の運動が社会的圧力をかけたから、という彼の指摘に対して、アメリカ人の来場者から「あとの11基も再稼働させない見込みはあるのか」という質問が出た。彼はそれはわからないが、皆でベストを尽くす。それにも増して重要なのは、今回のムーブメントは、私たちの生き方自体を変える覚悟の上のものであること。今年日本は、暑い夏を電力をなるべく使わずに皆で協力して乗り切った。43基が止まっていても、電力は足りることを証明した。エネルギーの消費を抑えて生きる、物の消費を押さえて生きる、そういう気持ちがこのムーブメントの根底にある、という主旨のことを言われた。アメリカは京都議定書に署名もせず、今だニューヨークの日々のリサイクルのシステム等、日本の人達が見たらさぞ腹が立つだろう。たとえ政治的にリベラルを気取る人達の中にも、エネルギーを押さえよう、食べ物を無駄にしないようにしよう、と思い実践している人達は少数派に見える。彼の言葉を皆に聞かせたい、日本の皆さんの頑張りを世界に見せたいと感じた。



ニューヨークでは、10月15日の全世界ソリダリティー(連帯)運動の日、そして10月17日の1ヶ月記念日を境に第2段階に入った様子だ。それを示唆するものとして、15日にはタイムズスクエア結集の前に、マンハッタン数カ所やブロンクス、ブルックリンなどで、反戦・学生集会・経済セクターと政治との癒着反対・環境問題など様々なテーマの集会が同時に行われ、そのスケジュールを縫うようにして、ファイナンシャル・ディストリクトからタイムズスクエアまでマンハッタンを縦断する平和的な行進が行われた。つまり、ズコティ・パークを離れ、方々に散り、各人の問題を各人のコミュニティで話し合おう、しかもなおかつ、市内、国内、国際的な連携を失わずに四方八方から経済と政治に庶民が圧力をかけ参加しようという動きに進化している。



メディア制作者たちの思いと役割



今回翻訳した2つのビデオの制作チームも、引き続きムーブメントを映像に収め、世界へ発信して行く気持ちでいる。映像作家のクリス・マーカーが示した通り、自分たちの歴史は自分たちで綴って行かねばならない。マルティーナとイヴァのチームは、今回載せた最初の作品の後、すでにOWSを追った作品をあと2本発表しており(*13)、現在は移民の子供達を多く含みながら活発化しているニューヨークの学生運動の動きをカバーしている。ミアーキャットの面々も次の光の当てどころを検討している。インタビューした中で、彼らのOWSの捉え方がよく現れている部分を以下に少しご紹介する。マルティーナとイヴァはブルックリンのカフェで(写真は上に掲載)。ミアーキャットは彼らのブルックリンのオフィスで、その日いた制作メンバー:ブライアン、エリック、ジェイ、ジェフ、タル(小学校の先生のタルは忙しい中昼休みに電話で参加してくれた)に話を聞くことができた。ジェイとジェフはカナダとの、タルはイスラエルとの2重国籍保有者。



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ブルックリンのミアーキャットのオフィス


──このムーブメントに参加しよう、応援しようと思った一番の動機は?



イヴァ:最初の作品(今回ご紹介したもの)は、単純に何が起こっているんだろうという興味で作った。でもそこへ行って、色んな人の話をするうち、自分たちの信じるものとの共通点に気づき、また皆が支援しあってリスペクトしあっている連帯感ある共同体=コミュ二ティの意識にとても感動した。難しくても誰も除外せずに物事を決定していくシステムに共感した。こういうコミュニティがそこかしこにあったらいいと心から思ったし、参加せずにはいられなかった。今もその気持ちは同じなので、これからもビデオで記録して流し、皆に知ってほしい。



マルティーナ:OWSムーブメントは必ずしも連帯感だけに溢れた空間ではないし、その連帯感が達成されているとも思えない。でも私が一番魅かれるのは、そのユニークな人と人の出会いの場としての可能性と、そこで起きる衝突を人々がどう解決して行くかの可能性。なので、私にとって、リバティースクエアや他都市でOWSの中心になっている場所は、人々の連帯の場というよりは、古代ギリシャで“アゴラ”と呼ばれていた市民の広場、つまり政府や議員など市民を代表する機関なしに一人一人の市民が個人として政治に参加し物事を解決して行く場、それがこのムーブメントにくっついているとても魅力的な手段(ツール)なので、注目しています。



ジェイ:まず行って思ったのは、南米などの外国を旅行した時に見て来た“プラザ"に似ているなと。そこでは色んな階層の人々がたむろしてしゃべっていて、アメリカではとても話さないようなことも話している。それがついにアメリカでも起こった。公の場所を人々が取り返している!と思って嬉しくなった。



ジェフ:僕はそれまでメディアで見ていて乱暴な印象があったので、行ってみてなんて組織立った運動なんだろう、って思った。寝袋は置くところがないから積み重ねてはあったけど、起こっている事は整理され、まとまっていた。



ジェイ:集会に参加して、 僕らも彼らと同じコンセンサス方式で、上下関係のない共同作業として6年間メディア制作をやってきていたので、驚き興奮した。そこら辺のジャーナリストより、また実際ムーブメントの渦中にいる人達よりも、僕らの方がこれについては経験も長く短編作品を短い期間で作れるユニークな立場にいると思えたので、この作品が生まれた。



──どうやって自分たちの作品をプロモートしたの?



ジェイ:ほとんどフェイスブックからなんだ。



ジェフ:フェイスブックで5-6年も連絡なかった友人からすごいね!ってポストがあってシェアしてくれたり……。



ジェイ:何が嬉しかったかって、youtubeのコメントとかで、マスメディアでは紹介されていないムーブメントの真髄を紹介してくれてありがとう、よくわかった、って。これをツールにして自分たちのミーティングも司会進行してみた、とか。それが目的だったから、とても嬉しい。



──9.11.、アフガニスタンとイラク空爆、そしてそれ以降の出来事とこのムーブメントが、アメリカ人として、どう繋がっていると思いますか?



タル:9.11.は、ある意味、グローバル・テロリズムの話によって、世界を取り巻く本当の問題、企業グローバリゼーションとか国際通貨基金などに反対するムーブメント、への注意をそらし隠すために、作り上げられたような気がするの。その10年間の間に、いつの間にか世界経済に関する規約が色々なところで緩められ、アクティビストたちは運動を続けてはいたけど、世界中が9.11.やイラクで一色になり、世界経済の問題は地下に追いやられた。今回のムーブメントは、それをもう一度地面に出して、不均衡を正さないと、というのが主眼にあると思う。



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ミアーキャットのエリック、ジェフ、ブライアン


──私にとっては、このムーブメントが市民間の国際対話を可能にしているというところに注目しているのだけれど、例えばイラクの市民とアメリカの市民が対話しているっていうのは、すごいことだと思うの。それで、9.11.とその後の二つの戦争で反米感情というのは世界により広がったわけだけど、その中でブッシュの8年間に育って来た若いあなた方が、ハリウッドで映されるアメリカ人のイメージや、実際の政治で形作られて来たアメリカという像に対して、自分たちは本当はそんなんじゃない!と声を上げているように見えるんだけど、これって私が創り上げたお話にすぎないかしら?



エリック:それは確かに要因にあると思う。『コンセンサス』は自分たちにすごく近い経験で、自分たちが共感できることを多くの人が支持しているのを見て、今これを作るのが大切と思えたんだ。
ジェフ: テレビでいつもティー・パーティーなどのゴミみたいなものばかり見させられている僕にとって、その通りだ!と自分が思える事をメディアに映せる、というのが嬉しかった。



タル:2005年に色んな国を旅行した時、アメリカ人はこうだとか言われているのを聞く度に「私はアメリカ人だけど、そういうアメリカ人じゃない」と弁解しなきゃならなかった。だから、今回の動きは、それを声を大にして、皆で言えるっていうか...私たちのほとんどは外国の人が思ってるようなアメリカ人じゃない、そんな風になりたくなんてない。今までの対話は私たちとは考え方が違う人達によって主導されて来たけど、これからは自分たちが世界はこうなればいい、という気持ちを表して行きたい。



ブライアン:これは確かに、9.11以降のブッシュ時代から行われて来た不人気アメリカ外交政策への長い期間かけてのリアクションであると思う。これじゃあアメリカはひどい国だと思うに決まってるよな、自分が世界の警察だと思っていて、自分勝手で自分の利益しか考えない国だと...でも実際はアメリカは雑多な国で、それに反発していた人達も沢山いた。そしてオバマになって期待したけど、今それが裏切られた気持ちになってる。メディアで見る国内政治談義は、ワシントンの政治をそのまま閉じ込めた窓のない反響室みたいな感じで、それに共鳴しない残りのアメリカの人達の声はどこに響かせればいいのか、 右派とか左派とかそんなんではなくて、でも色々考えていて、景気は悪く生活はきつくて、だからOWSは、そういう僕らに、思う事を声にする場を与えているんだと思う。現状をよかれと思っていない人、この国の貧富の差をそういうもんだと思わない人、政治の両極化をいいと思っていない人、そういう人達の行き場であると思う。



──OWSの中にも色んな政治的思想や宗教をもった人がいて、今後広がって行くのは素晴らしいと思うけど、一つの答えにはならないに決まっている。 99%のスローガンに、世界中の99%が呼応したらいいと思うけど、歴史的しがらみや宗教の違い等、色々難しそう。そういうことについては、今後どうなっていくのかしら。



イヴァ:それは私も思っている事。恐い…っていうわけじゃないけど、このアイデアには成功してほしい、と思ってるから、心配。だからこそ、それぞれのコミュニティの問題に戻って行かないといけないと思うし、そういう意味で、ニューヨークOWSには今後も色んなコミュニティにアウトリーチして行ってほしい。その中で、メディアメーカーの役割というのは大きいと思う。アメリカ国内でもすでに色んなコミュニティに広がっているし、国際間の運動に広がっていったら、誰がどうやってそのイメージを伝えて行くのか。一人の人や一つのグループができることじゃない。だからそれぞれのコミュニティのメディアメーカーがリポートするという形で行くしかないと思う。それと、政治的には、資本主義とか社会主義とか、そのいつもの争いで終わるんじゃなく、何か新しい形の政治形態が求められていると思う。



マルティーナ:OWSの中には、昔の資本主義に戻そう、とか言っている人もいる。50年代、60年代の。でもその人達のアメリカの古き良き時代の資本主義自体が、有色人種や女性達の犠牲の上に成り立っていた。だからこそ、今、このムーブメントに、有色人種や女性達の声が届けられるのが必要だと思う。だって、そういう歴史をたどる過程なしに、99%なんて言えっこない。99%というのはユートピア思想、それに向かって行くための指標だと思う。



これを書き上げている今日(10月29日)のニューヨークは季節外れの雪とみぞれの降る気温1度の寒い寒い日だ。Occupywallstのサイトでは、ズコティで寝泊まりする占拠者用の防寒具や雪靴、カイロなど緊急の冬用補助物資寄付が求められている(*23)。本当に大変だろうと思う。東京では、福島の女の人達111人が、か霞ヶ関の経産省前で座り込みを終え、11月5日までは全国の女性達に一緒に座り込みをするよう呼びかけている(*24)。ランチアワーだけでも、行ける人は顔を出して、頭数を数えてもらってほしい。そしてビデオをアップしてほしい(できれば英語字幕付きで)。自分たちの歴史を自分たちで語り作り、そしていつか、銀行の契約書の細かい字まで目を通さなくても信頼できる世の中になれる(戻れる?)ように願っている。




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ズコティ・パークで


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ブロードウェイで


w_P1150676

渋谷で 写真ソース:http://picasaweb.google.com/112808523819835759271

文責:タハラレイコ 写真:記載以外は筆者


リンク:



*1:ペッパースプレー事件の映像:


[youtube:TZ05rWx1pig]

*2:9月28日の映像は、アワープラネットTVのサイトでリポートしました: http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1243



*3: 私がiphoneで撮ったマーチの映像


[youtube:PdG3AYrKpJs]

*4:ブルームバーグ市長 on OWS (9/30&10/18): http://thinkprogress.org/economy/2011/09/30/333038/mayor-bloomberg-wall-street-make-ends-meet/

http://gothamist.com/2011/10/18/bloomberg_occupy_wall_streets_tents.php



*5:オバマon OWS: http://www.nbcnewyork.com/news/local/Wall-Street-Protests-Obama-Occupy-Wall-Street-Unions-Jobs-Labor-131221814.html



*6:Ron Paul & Ralph Nader Interviewed Together!:


[youtube:kwIZ4syCFLc]

*7:1人の海兵vs30人の警官:


[youtube:WmEHcOc0Sys]

*8:催涙弾ガスキャニスターで倒れた海兵隊員スコット・オルセン


[youtube:OZLyUK0t0vQ]

*9-11:OWS sites

http://occupywallst.org

http://occupytogether.org

http://www.nycga.net/



12: マルティーナ・スタロスタ vimeo page (見応えあり):

http://vimeo.com/user2265047




*13:イヴァ・ラディヴォイヤヴィッチ関連ページ(どれも見応えあり):

ブログ: http://www.ivaasks.com/

vimeo (イヴァとマルティーナのOWS関連作品4つもここにアップされています):
http://vimeo.com/ivarad/videos


*14:『誰も革命の瞬間を知らない』英語オリジナル版サイト:


[youtube:OwWInp75ua0]

Nobody Can Predict The Moment Of Revolution from ivarad on Vimeo.



*15:『コンセンサス』英語版サイト:


[youtube:6dtD8RnGaRQ]

CONSENSUS (Direct Democracy @ Occupy Wall Street) from meerkatmedia on Vimeo.





*16: 上記ビデオが何か国語にも翻訳されているサイト:

http://www.ivarad.com/

http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1243





*17:ミアーキャット・メディア・コレクティブ・ウェブサイト:http://www.meerkatmedia.com/



*18:清掃/追い出し中止発表の瞬間 :


[youtube:xzsiuJlkUxs]

*19:「3.11. Fukushimaの世界的意義」イベント: http://www.jfissures.org/todos-somos-japon-presents-global-significance-of-3-11-fukushima/



*20:Todos Somos Japon: http://www.jfissures.org



*21:http://www.charlierose.com/view/interview/11961



*22: http://occupywallst.org/media/pdf/OWS-profile1-10-18-11-sent-v2-HRCG.pdf



*23: http://occupywallst.org/article/urgent-winter-donation-needs/



*24: http://onna100nin.seesaa.net/




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逆境にめげず世界中で制作し続ける仲間たちと共に、つくり手とオーディエンスが直接つながれるスペースを創る─第2回宇野港芸術映画座 http://www.webdice.jp/dice/detail/3268/ Wed, 19 Oct 2011 10:25:59 +0100
宇野港芸術映画座2011

第2回宇野港芸術映画座の閉幕からはや1ヶ月半が経った。岡山県玉野市宇野港で昨年から始まった夏のアート映画上映シリーズ、国際イベントなので英語の名前もある。Uno Port Art Films (UPAF) 、ウパフと読む。映画制作/人生の相棒の上杉幸三マックスと二人で始めたこのイベントは、娘(今13歳)も巻き込んでの小さな家族イベントだが、今年は素晴らしいボランティアの仲間が地元や岡山・倉敷など県内各地や東京などから外国人も含めて12-3人入り込んでくれたおかげで、ワイワイ楽しい6日間になった。


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野外上映の風景

UPAFとは


20年近く住んだニューヨークを離れ故郷の宇野港で外国人アート観光客のためのゲストハウスを経営しながら私たちの新作に取り組んでいるマックスと、娘とニューヨークに残り大学でドキュメンタリーや日本映画のクラスを教えながら暮らしている私の二人が、離れた距離と空間を結びつけながら他の色んな人とつながるために昨年始めた実験的試みがUPAF。詳しい経緯は一年前の記事をご参照願いたい。私たちの基本姿勢はあくまで制作者として、できる範囲で続けて行くこと。逆境にめげずに世界中で制作し続ける仲間たちの力強い作品を毎年集め、つくり手とオーディエンスが直接つながれる、空間も言語も超えたスペースを創りたい、という気持ちでやっている。自分たちの作品ももちろん上映する。


根底に流れる大きなテーマは「生きる・創る・映画(Life, Art, Films)」。それを今年支えたのは、作り手の人生を映しながら観る者の心を揺さぶる濃厚な37作品(残念ながら今年は自分たちの作品はなし)。アニメ、フィクション、ドキュメンタリー、実験映画、ジャンルは関係ない。チリ、中国、アメリカ、ケニア、日本、イギリス、などなど13カ国から集められた作品それぞれが、その土地の歴史や文化を内含しつつ作り手の(ドキュメンタリーの場合被写体のも)人生を映しているから、UPAFを真に楽しむ条件は、映画が好きで、他の人々の人生・歴史・文化に興味があること、人と映画のつながりに興味があること、自分自身という点と世界中の時間軸と空間軸とその間に散らばる確かに存在している無数の点を少しずつ結んでいきたいという気持ち。お客さんも昨年より大分増えた。地元のみなさん、東京や大阪や姫路や神戸、倉敷などから集まってくれたお客さん、それに瀬戸内アートを見に直島(宇野港からフェリーで20分)を訪れる海外からの観光客も混じって、室内・屋外上映14プログラム、上映後は会場ゲストやスカイプで世界中からの制作者とのトークもあり、ユニークな空間となった。


staff 2011

室内上映受付エリアで記念撮影ーUPAF2011スタッフ(ここに映っていない人達もいます)&ゲスト

宇野トレーラーシアターの意味


宇野港は瀬戸大橋ができるまでは旧国鉄が本州から四国へ連絡線で乗り入れていた四国への玄関口であり、70年代には外国定期船が多く停泊した国際港として、また三井造船の街として栄えていた。マックスが育った頃は港へ続く大通りは物を運ぶトレーラーでいっぱい。商店街は活気にあふれ、子供だらけだった。それが80年代以降は不況と過疎の街となった。それが今、瀬戸内現代アートで再び人々が帰ってきた。しかし、直島が香川県にあるためなのか、瀬戸内アートの中心である直島から一番近い宇野港は現在のところJRからフェリーに乗り換える通過地点になってしまっている。でも、地元育ちのマックスはもともと人とモノの流れの通過点であった、よくも悪くもない宇野の特徴をそのままUPAFの特徴にしようと、トレイラー・シアターの構想を考えついた。ひと時止まって、瀬戸内アートを楽しみつつも、宇野の街と映画を楽しんでもらえるようなイベントになればと思っている。


その彼の思いを反映して、今年は上映の前の待ち時間に、昔の宇野港界隈の商店街の移り変わりや大正時代からの宇野駅の変遷を映す写真を綴ったスライドショーを流した。しかも野外会場の宇野港第2埠頭は、かつては連絡船発着所であった宇野駅構内で、“モノ”を運ぶ貨物列車が行き来していたまさにその場所だ。BGMには直島に行くために昨年宇野を訪れたオーストラリア人DJがプレゼントしてくれた、黒人音楽にことのほか敬意を払ったリベラルな選曲のDJ番組が「今」の音を伝える。それに混じって、廃止された玉野踊りの歌もかかり、地元の人の耳はピクリと動く。スライドショーを見て懐かしがって、興奮気味に自慢げに説明していた近所のおじいさんもいた。今年はお盆休みで帰省する人達のことも考えて、お盆を含めた2週末に開催したが、その間の週中には、すてきな映画たちを映してくれたそのトレーラーくんは、ガッツリ物運びの仕事(東北の震災復旧のための!)をしており、2週末目を控えた金曜日にまた埠頭の空き地に帰って来てくれた。 映画はmovie、動く映像。モノを運び、心を動かす映像を見せてくれるトレーラーくんが、実は私たちのヒーローなのである。


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変身前のトレーラーシアター

今年のUPAFはとにかく楽しかった!


今年は震災でゲストハウスが大打撃を受け、開催が危ぶまれたが、瀬戸内アートを支えて来たベネッセ・コーポレーションが運営する福武学術振興財団と福武教育文化振興財団からの助成と、 IndieGoGo(ネットで資金を集めるクラウドファンディング)で支援してくださった沢山の方々の暖かい気持ちで無事開催できた。翻訳は今年は数人のボランティアが手伝ってくれたし、またまた娘が翻訳と字幕付けで活躍してくれた。しかし、宣伝・字幕付け・上映素材準備は資金がないので自分たち、特に上映技術に関しては、撮影/デリバリーのフォーマットが年々進化し、しかも世界中から違うフォーマット、様式のビデオが集まるため、試行錯誤を繰り返しながら実践で学ぶしかない。アメリカ出発前にグラントでラップトップを一台購入し、最新のFinal Cut Pro X(ビデオ編集ソフト)を入手したが、それと他の2台のパソコンに入っている古い Final Cut Proとの互換性が全くなくて四苦八苦、Xは超パワフルで早いが、縦書き字幕が入れられなかったり、入れたはずの字幕が文字化けしていたり、直前まで色々大変だった。上映技術に関しては今回はニューヨークのルーフトップ・フィルムズ(NYで大変人気の夏の上映シリーズ)のダン・ヌクソルさんからご多忙の中アドバイスをいただいた。感謝したい。


UPAF 2011 projection booth

日通から借りたコンテナが野外映写室に

いいのかなあと思いながら生まれて初めて栄養ドリンクを一日3本飲んだ日々、人間寝ずに結構機能できるもんだと感心した日々、疲れたけど、今年のUPAFはめっちゃ楽しかった。来てくれた人達も、映画を創って見せた人達も、それをオーガナイズした人達も、皆とても楽しんでいて、ずっと笑顔で過ごせた。新しいことを沢山吸収して色んな人とつながれた。大型トレーラーを2週末快く無料で提供してくださった商船三井フェリーさん、大して儲からないとわかっていながら毎夜応援に駆けつけ出店してくださった焼き鳥屋やたこ焼き屋の皆さんにも心から感謝だ。


確実に、何かが昨年とは違っていた。小さな自分たちよりもっと大きなエンジンは回っていて何かの力に押されながらゆっくり大きく走り始めている、という感覚。きっと来年も、何かがまた変わって、そうやってUPAFはいろんな人を巻き込みながら、ゆっくり成長して行くんだろう、そうなったらいいな、と思う。 少ないけど、チケット収益の20%は東北義援金にも回せた。長編を提供してくれた制作者には謝礼を出すこともできたし、スタッフと制作者全員にTシャツの贈り物もできた。皆さん、ありがとう。


<ボランティア・スタッフの総評>

・UPAF 2011で過ごした数日間は私にとってとても刺激的でした。心に残るような作品とも出逢えて、初めて会う人と作品に対する意見を交換したり、感想を言い合ったり、本当に充実した時間でした。?作品と観客、観客とクリエーター、そして観客と観客が、海や世代を越えてこんな風に繋がることが出来る機会はなかなか無いですよね。?映画の可能性をもっと広げられる貴重なイベントだと思います!?宇野港の夜風も気持ちよかったです!また次回も楽しみにしています!──津崎みぎは 大学院生、 芸術作品修復専攻 岡山県笠原市在住



・UPAFとても楽しめました。?特に自分としてはドキュメンタリーを通じて世界の色々な国の事情が垣間見れたのがよかったです。(アメリカ、中国、チリ、ドバイ等)?あと、夏の夜に海の近くの野外で映画を見るのは気持ち良い。劇場で公開されていない作品にも良い作品が色々とあるんだということが分かった。来年もきっと行きます。──西坂毅 ソフト開発技術者 東京在住 40代



・この映画祭は、私の人生で最も充実した経験の一つになりました(大げさでなく)。字幕翻訳や素敵な夜の野外シアター設営のお手伝いから沢山のことを学びましたが、それ以上にエキサイティングだったのは、スカイプを使ってのフィルムメーカーとの交流トーク!他の人達の意見や質問を聞いて、同じ映画でも違う見方があることもわかり視野が広がったような気がします。(筆者和訳)──Haruna Higuchi 倉敷市 英語教師 20代



・映画はもちろん、ユニークな宇野港の姿をいっぱい見たことが印象的でした。あんな田舎(ごめんなさい・・)にリュックを背負った多数の外国人。野外上映時はシート上に寝転がったり、座りながら観ている家族、生吹き替え上映、出店の手羽先(めちゃウマっ!)。町の盆踊り大会?と重なって上映中に生バンドの演奏が聞こえたり…それは、すごいファンキーな光景でした(笑)。そして準備、片付け、通訳などに奔走する手作り主催者家族(来年のUPAFグッズも楽しみです!)。映画にまつわる素敵なこと、大変なことなど色んなことが味わえる映画祭だと思う。なにより、ボランティアスタッフ、監督など、たくさんの人と交流できたことが嬉しかったです。──山口達也 俳優 東京在住 30代


UPAF2011の映画たち


そういうわけで、今年のレポートは、ボランティアの皆やお客さんからいただいた感想を混ぜ込みながら、 UPAFの基軸である上映作品を紹介したいと思う。今年のサブテーマは「核とわたしたち」「映画の力」「世界の若者の声」。37作品中6割強が日本初公開、8割が日本語/英語字幕を新たに自分たちで制作しての上映。ここでしか見られないレアものぞろいだ。


『光と陰のはざまで』(2009)


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『光と陰のはざまで』監督:ルシアナ・ブルマキ(写真提供:制作者)

ブラジルの女性監督ルシアナ・ブルマキの長編力作ドキュメンタリー。主人公は当時ラテンアメリカ最大の刑務所だったカランディル刑務所の塀の中に暮らすブラジル黒人ラップ・デュオ509-E(彼らのセル番号)のメンバーであるデクスターとアフロX、服役囚たちのアートを通しての社会復帰を信じ彼らを支え続けた元女優の白人女性ソフィア、そして彼らにアート活動のための外出許可を与え刑務所システムをもう少し人間らしくできると戦った一人の判事。ドキュメンタリーは、暴力と人間の本質を探りつつ、2000年以来の彼らの7年を追った。 2010 グアダラハラ国際映画祭(メキシコ) ラテンアメリカ・ドキュメンタリー・コンペティション、グランプリ受賞作品。



ブルマキ監督はブラジル社会を世界有数の差別的・暴力的社会、と呼ぶ。サンバやボサノヴァなどブラジル音楽のファンは日本にも多いが、それもやはり奴隷貿易に起原を持ち、白人中産階級のために奏でられた黒人音楽の歴史を汲んでいる。ブラジル人の友人も多いのに(考えてみれば、ニューヨークで出会う彼らはほとんどが白人だ)、ブラジルに白黒の人種の厚い壁があることさえも認識したことがなかった。判事はその二つの世界をソサエティの「光と陰」と呼び、ソフィアは「こちら側とあちら側」と呼ぶ。


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カランディルを歩くソフィア


囚人の二人は、自分たちが育った貧困地区の子供達を犯罪の連鎖から助けたくてラップを歌う。物のない場所に生まれたから物が欲しくなったんだ、犯罪しか手に入れる方法はなかった、でもラップはコカインよりハイになれるぜ、犯罪の代わりにラップをやろう、と呼びかける。カリスマと才能のあるデクスターはチェ・ゲバラやマルコムXを学び、システムが悪いと歌い、早くここから出て君に会いたいと歌う。ナショナルヒットを生む二人だが、その後その影響力に警戒した“システム”は緩めた縄を縛り上げ、殺人歴のあるデクスターは遠い刑務所で刑期38年の日々を孤独に過ごす。アフロは出所し、白人の人気歌手と結婚して革命を歌うギャングスタ・ラッパーのきらびやかな道を歩む。判事は郊外の貧困地区の刑務所に左遷され、ソフィアは取り壊されたカランディル刑務所跡地で、囚人たちに演劇を教えレコード会社を探しライブを調整し刑務所内に病棟を作った20年のボランティアの月日は一体なんだったのだろうと一人たたずむ。


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ルシアナ・ブラマキ監督(提供:制作者)

この作品を観ると、出演者の誰かに加担したくなる。わたしたち親子3人も、翻訳しながら食事の際に討論した。上映後のディスカッションに地元の中年女性が数名おられて、その中の一人が、映画中に登場する国会議員がラッパーデュオの二人を“殺人者、社会の癌細胞、出て来るな!”とこき下ろした場面に共感した、と発言し、他の女性達が賛意を示した時にはハッとした。誰もがデクスターとアフロにも共感や理解を示すに違いないと思っていた私は、司会をしながら一瞬言葉につまった。が、詳しい事情は出てこないがデクスターには殺人歴がある。おばさんの意見もありえるものだろう。日本の刑務所や服役囚たちがいかに私たちの暮らしから遠くに切り離されており、あたかも社会の一部ではないかのように思われているか、との話も出た。他の国の囚人から自国の囚人たちの思いを学ばされる。意見は別れたが、ソフィアは誰もの強い共感を集めた。そしてふと時間が経ってみると、この作品の魅力は、こうしてスクリーンのこちら側の安全で日のあたる場所から、他者の人生を評し判断しているわたしたちに、お前は一体誰なのかと鋭く問いかけてくれることだ、と思えて来る。


『パーフェクト・ライフ』(2009)


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『パーフェクト・ライフ』監督:エミリー・タン

中国第6世代に属する女性監督エミリー・タンの長編第2作。ジャ・ジャンクーと親しい仲間であり、この作品もジャ監督が共同プロデュースしている。架空の人物(フィクション部分)と実在の人物(ドキュメンタリー部分)を混ぜ込みながら、しかもその二人がある場所・時間で重なる斬新な構成で、今の中国を強くしなやかに生き抜く労働者階級の女性をリアルに描いた作品。


背景にあるのは、70年代以降の市場開放政策により国からの援助を打ち切られた田舎の若者たちが都会部に流れ込んだ動きと、また90年代に鄧小平が南中国の開放政策と経済政策を説き中国復活の道を目指して以来でき始めた、中国南部の新工業都市。その中の一つ、深圳(しんせん)は香港に近く特に人気で、人口1200万人中1000万人は移住者であるという。その大多数が若い女性達。そうした、新しい生活を求めて国を南へ大移動する不特定多数の中国現代女性達にタン監督のまなざしは置かれる。2009年バンクーバー国際映画祭「Dragons & Tigers」選抜作品。天安門事件をドラマ化した彼女の第一作は、いまだに中国当局のブラックリストに載せられている問題作。


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エミリー・タン監督&プロデューサーのチョウ・クァンさんQ&A

仲間のハン・ジェ監督の新作『ミスター・ツリー』がロカルノ映画祭に出品していたため(11月に東京フィルメックスで上映)、スカイプトークはヨーロッパから。パートナーでプロデューサーのチョウ・クァンさんと共に参加してくださり、タン監督の言葉をチョウさんが英訳、それを私が和訳、という電車会話だったが、この日はアートでの町おこしを目指す「うのずくり」委員会の夏の企画「宇野夏キャンプ」=宇野キャンが行われており、それに色々な都市から参加している方々も映画を見に来てくださり、盛り上がった。和やかなムードの中、ドキュメンタリーとフィクションを混ぜようと思った経緯、中国映画界で女性監督として生きるとは、中国映画に描かれる香港のイメージについて、など、興味深い質疑応答となった。


『パーフェクトライフ』に加え、今回 彼らの制作団体/会社である Xstream Pictures からジャ・ジャンクー監督の短編3本をご提供いただけたが、いずれも日本では東京フィルメックスで上映されたのみで、それ以外では国内唯一の上映となった。


『アヒルの子』2005


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『アヒルの子』監督:小野さやか(写真提供:ノンデライコ)

小野さやか監督デビュー作の長編ドキュメンタリー。今まで生きて来た自分をとことん嫌悪する小野監督が、死ぬか、あるいは映画を作ることで家族を壊し何かを見つけるかの選択肢を自らに課し、後者を選んで紡いだ痛々しくも渾身のセルフドキュメンタリー。ヤマギシ会に預けられ親に捨てられた気持ちと実兄からの性暴力のトラウマを乗り越え、自分の現在像、未来像を見事に見つけ出した勇気ある女性の物語。日本映画学校時代に原一男監督の指導のもと製作するが、家族の了承を得るのに5年を費やし昨年やっと劇場公開された問題作。


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スカイプトークに登場した小野さやか監督

今作には多様な反応が寄せられた。


──チョウパワフルな映画。エネルギーマックス。


──自分の気持ちばかり大切にしている。悪いけど、子供っぽい。(20代女性)


──これを映画と呼ぶか?(50代男性)


──原一男「恋歌1974」を脅かすドキュメンタリー史に残る作品。(40代男性)


──家族の人たちが良く公開を許したものだと思う。(40代男性)


──「えっ・・」「なにこれ」と思いながら、すごく不快な感じのまま、でもスクリーンから離れられず、最後まで観た。直後、観たくなかったと思った。でも逃げられなかった。...自分の内面をぐしゃぐしゃにエグられた感じ。上映後のQ&Aでの、監督の明るさにさらに衝撃。私にとっては忘れたいけど、たぶん忘れられない作品。(30代男性)


──見ているうちに、ぼく自身というものやそれを形作って来た教育や家族関係などにも、同じような濃い影が存在していることに気付かされた。...観る者の誰もが自分の人生を見直してしまう作品だと思う。(20代アメリカ人男性。筆者和訳)


──テンポよく繰り出される彼女のいわば戦闘シーンに一々ハラハラさせられ息をのみ、最後に全てを乗り越えたところで彼女が達した境地を見届けて、見ている我々は思わず喝采をおくりたくなる。そう、この息をつかせぬ展開、まるでアクション映画だ。(中略)この若い年齢でこれだけのものを作り上げてしまうと、この後が続くのだろうかと少し心配になってしまうものの、今後もひるまずに体当たりで、その血だらけの闘争の記録を我々に見せつけて欲しい。本人には辛いことだろうけれども。(40代女性)


私個人としては、ドキュメンタリーは戦場であっていいと思っている(そうでなくてももちろんいいが)。それが魅力でもある。傷つけ合う場、他者を傷つけ、自分も傷つく。だから成長していける。きれいごとで終わる作品が多い中、この作品はあっぱれと思ったし、マックスも私も、悩める多くの若者に観てもらいたい作品だと思った。親しい間柄の友人知人の中でうつ病と戦ったり性暴力の経験を持つ人々の顔が浮かんできて、胸が苦しくもなった。来場者の感想にある通り、スカイプトークに現れてくれた小野監督の笑顔はまぶしくて、映画中ほとんど鼻水をたらして泣きっ放しだった彼女からは考えられない姿で、ある意味、お客さんを魅了。人生自分の力で変えられるんだという希望を、キラキラと瀬戸内の海に撒いてくれた。


『黒い雨』(1989)


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『黒い雨』監督:今村昌平

広島で被爆した若い女性(田中好子)の原爆症との戦いをリアルに描いた日本映画の名作。井伏鱒二の同名小説の映画化。今村昌平作品。これは大切な作品でありしかも岡山県内での撮影作品とあって、昨年も今村プロダクションのご厚意により黒い雨が実際に降り注いだ瀬戸内の海を眼前に広島原爆記念日に野外上映したのだが、放射能障害が別の意味を持った今年、再度上映させていただいた。田中好子さんのご他界もあって再注目されたこの作品を抱えて中国地方を行脚中だった今村プロ代表で監督の息子さんの今村竑介(ひろすけ)さんがこの日の特別ゲストとして来場してくださり、貴重なお話を聞くことができた。内容は、『黒い雨』の各地での反響と、原爆と原発の関係について、また本来は映画の終わりにカラーのシーンが20分もあったにもかかわらず、作者の意図が原作や現実の前に出ないことを選んでカラー部分すべてカット(DVDの特典映像に収録されているそうです)した今村監督の作り手としての姿勢、などについて話された。


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今村竑介さんトーク

前日の8月6日に広島県尾道市しまなみ交流館であった上映会では500名近い入場者で広い会場がいっぱいになったとのこと、やはり広島県内の方々の意識は高いのだなあと感心した。広島はすぐお隣の県なのに、宇野港では残念ながらこの作品を見に来てくれたお客さんは期待するほど多くなく、はだしのゲンの中で広島の被爆者が別の村や町に行って差別にあったり冷たくされたりした光景が浮かんでしまった。人の痛みを感じるのは難しいことだ。でも、映画はその手助けをしてくれると信じる。また、日本映画の名画が海外では広く見られているのに日本国内では感心を持たれない、という事実もあるのだろう、と思う。来場のアメリカ人男性(30代?)が、自分は日本映画通だと思っていたけど、実際の瀬戸内の海を前にしてこの映画を地元の色んな世代の人々と一緒に見て、こういう映画の見方のパワーに驚き、自分のおごっていた気持ちに気付かされた、と感想を言ってくれた。


『100,000年後の安全』(2009)


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『100,000年後の安全』監督:マイケル・マドセン

ご存知アップリンク配給の、フィンランドのオルキルオト島に建設中の永久核廃棄物地下埋蔵所オンカロをめぐり、その建設現場と科学者たちに取材した作品。未来的な映像美で描かれる無人のオンカロが、人類の恐ろしい行く末を暗示。震災後、「核とわたしたち」シリーズを今年のUPAFに絶対に入れようと二人で決めた時、アップリンクのサイトで知り、即予約。地元の人々からも前もって「こんな作品を玉野でやるんだ、行きたい」などと聞いていたので、上映もディスカッションも楽しみにしていた。スカイプゲストにこの作品を日本に持って来た浅井隆さんをお招きしたいと連絡したところ、わざわざ岡山まで来てくださった。ありがとうございました。朝の室内上映は会場ほぼ満席。晩の野外上映後のディスカッションでは、原発はやめられるのか、人間は欲を追い求める生き物なのか、本当の情報はどこで集められるのか、などをめぐって熱い議論が深夜まで続いた。


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浅井さん(右)とマックス

興味深いことに50-60代(“人間は欲の生き物だ”派)vs20-40代(“それは変えられる。ネットを使ってリサーチ・連帯しないと”派)という感じの論議になった。お客さんの中に某電力会社の社員の方がいらっしゃり、東電が払う保証を他の電力会社がどうかぶっているか、給料カットや震災後の広報活動等について話してくださり、大変参考になった。食べ物や大気からの放射能汚染に関しては日々の切迫した恐怖感は岡山の人々にはないので、やはり東北・ 関東とは一人一人の意識が違うんだな、というのが実感でもあったが、一方で高知県東洋町の核処理場建設反対運動や山口県上関の原発建設計画など、原発は中国・四国地方にも決して無縁ではなく、気付いた時に遅すぎるとならないよう、住民がしっかりとした意識を持つことが望まれる、という話もあった。


大変勉強になったのは、浅井さんがお話の中で紹介された、94年NHK制作のドキュメンタリー『原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略』の内容。1950年代、GHQ検閲も終わり朝鮮戦争や第5福竜丸事件で反米反核が日本各地で叫ばれている中、しかも地震大国日本で、なぜ原子力発電が「安全なエネルギー」として日本で受け入れられ一気に広まったのかについての歴史検証番組だ。それには、 読売新聞の正力松太郎とその部下柴田秀利、そして対ソ冷戦下で原水爆開発に力を入れる一方で世界中に原子力平和利用と技術提供をキャンペーンしていたアメリカ政府が大きく絡んでいる。


『ヒバクシャとボクの旅』2008


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『ヒバクシャとボクの旅』監督:国本隆史(写真提供:制作者)

「核とわたしたち」シリーズとして上映された中に、神戸在住の国本隆史監督のこのドキュメンタリー作品があった。これは、ピースボートの船旅に参加した被爆者の方々が、世界各国で戦争で苦しめられて来た人々と出会い交流する様子を捕らえながら、被爆体験を後世に伝えていくことの意味について考えた作品。


飾らない自分の言葉と若い人達へのインタビューを通して、国本監督は若い世代の原爆への思いを代弁する:ヒバクシャの話って、最初はいいんだけど、その後はどれも同じに聞こえて、それに発言は許されなくてただ聞いているだけって感じで、自分の生活と直接関係ないし、どう思えばいいか、わからない…。しかし旅を続けるうち、当時幼く被爆記憶がない若い被爆者たちに接し、彼の気持ちは変わって行く。それまで被爆手帳はあるが自分とは関係ないこととして、ある意味そう思おうとして行きて来た若い被爆者たちが、ベトナムの枯れ葉剤犠牲者の子供達で重度の障害を持って生まれた人々や、ギリシャのナチによる虐殺を子供時代に村でただ一人生き延びた男性が今もその時の光景を次世代に伝えている様子に触れ、交流を深める。そして、間もなく記憶のある被爆者たちがこの世から消えた後、自分たちは何を語ればいいのかについて考え始める。


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国本監督トーク

大震災前に作られたこの作品だが、今これを観ると、“被爆”と“被曝”の意味が震災前とは違い、原爆と原発を関係ないものとしてはもはや語れないことに気付かされる。この作品は反響が大きく、Q&Aも盛り上がった。


『赤い風船』(1956) &『白い馬』(1953)


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『赤い風船』監督:アルベール・ラモリス(写真提供:クレストインターナショナル)

心にしみ入る美しい映像と少しのセリフで創られた魔法のフランス名画。 子供を主人公にした(監督の息子パスカルくんが両作品に登場)シンプルなストーリーには、第二次世界大戦を生き延びたアルベール・ラモリス監督の、戦争・世の中の善悪のしくみ、そしてその中で今後も戦って行きていく子供達への思いなど、沢山の気持ちが込められている。日本が将来への不安を抱えてふんばっている今年に、子供達につらい状況をごまかすのではなく、それに打ち勝って夢を持って元気に育ってほしいという願いを込めて、子供たち(=いのち)への愛が詰まったこの2つの映画を贈りたく、上映を決めた。


名画の上映権はとても高く、私たちのような非営利の小さなイベントにはなかなか手が出ない。しかし、配給元のクレスト・インターナショナルが事情を理解してくださり、特別ディスカウントしてくださったので、上映が可能になった。ありがとうございます。アート映画という耳慣れない言葉のせいだろうが、多くの地元の皆さんには、UPAFは近づきにくい存在かもしれないと思い、今年は子供向けのこの上映ともう一つ世代を超えて皆が楽しめる作品として『ミリキタニの猫』の2作品のために特別ビラを用意、近所のスーパーや市の施設に置かせていただいた。


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『赤い風船』生吹き替え上映風景(弁士:メグさん)

当日本当に地元の子供たちや家族連れが現れた時は感動してしまって、スタッフの皆でこっそり抱き合って喜んだ。字幕の読めないちびっ子たちのために、岡山の素晴らしいパーフォーマーのメグさんに生吹き替え(弁士!)をお願いし、満月のもと、ミスティカルで不思議な夜になった。上映後、小学校3年生くらいの女の子に、どうだったか尋ねた。横にいたお母さんが「珍しい映画だったわねえ」と先に答えてくださったが、女の子はしばらく考え込んで、おもしろかったけど、男の子が主役の映画だったから、来年は女の子が主役の映画をやってほしい、と答えた。うん、わかったと約束した。


『ナース.ファイター.ボーイ』(2008)


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『ナース.ファイター.ボーイ』監督:チャールズ・オフィサー(写真提供:制作者)

前回のブラックシネマの記事で絶賛した『ナース.ファイター.ボーイ』も、上映権の複雑な仕組みでぎりぎりまで上映が決まらず字幕付けに苦労したものの(初回に来てくださったお客さん、すみません)、どうにか無事に上映することができた。ここ何年もの映画館で観た映画のどれよりもよかった、DVDで欲しい、などの声がお客さんから聞かれて、嬉しかった。広く配給されていない、日本語ではここでしか観られない、と話すと、不思議そうだった。その他、反響のあった短編を幾つか紹介する:


『ミラージュ』(2010)


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『ミラージュ』監督:サージャン・ケカ(写真提供:制作者)

「街が主役」ブログラムの中で上映。セルビア出身若手監督のサージャン・ケカが描く、砂漠の蜃気楼ドバイの街の多面性 。セルビア人の父とアルベニア人の母を持つ彼の前作は、バルカン戦争で戦った後、鬱病となり一人で死を選んだ父親を描いたセルフドキュメンタリー『おやじへの手紙』。今回の作品でも、家族や文化から隔離されて生きる者たちの孤独と欲望が大きなテーマとなっている。


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ケカ監督スカイプトーク

『KURAYOSHI』(2011)


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『KURAYOSHI』監督:中村智道(写真提供:制作者)

心の奥にあるダークなテーマをコンセプチュアルで独特の手法で描くアニメ(『ボクのまち』『蟻』)で知られる、岡山県赤磐市の映像作家、中村智道監督の初実写作品。鳥取県倉吉という、日本の田舎のどこにでもあるような街、しかも自分の知らない街を描きたかったという中村監督が、携帯電話の映像やスナップ写真を住民から集め、廃校になった小学校の一室をそれらで埋めるアートエキシビションを住民と一緒に作る過程を描く。


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中村監督(右)と筆者

中村監督とのQ&Aでは、街を映像で描くことについてや、実在の他者を扱うドキュメンタリーとすべてを作り手がコントロールできるアニメの違い、それにまつわる責任、表現形態としての制限と可能性などについて、地元で活動するアーティストたち(画家、造形作家など)も巻き込んで熱い議論が展開され、私たちも非常に触発された。UPAFのサイトに来場者の批評・感想を今後掲載予定。


『ボデガ』(2007)


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『ボデガ』by ラフィ・カム、ダラス・ペン、カシミア・ノズコウスキー

ブロンクスの街角の激安食料品店で売られる体に悪そうな激安ジュースやお菓子(ブタ皮チップス、絶対古くならないケーキ、など)を、ブロンクス出身のヒップポップ・ビデオ・ジャーナリストのラフィとダラスが皮肉たっぷりにユーモラスに紹介(これも私の前回の記事で紹介)。こんな栄養的にひどいもので育ってきた住民代表として、マンハッタンのお金持ちたちや大統領や政治家たちに、こういうすてきな文化をブロンクスに残してくれてありがとう、そしてブロンクスの皆には、伝統を守り抜いてくれてありがとう、と皮肉って終わる。


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ラフィとのスカイプトーク

「世界の若者の声」プログラム


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ケニアの高校生の作品『愛の手』

昨年はニューヨークのアドビ財団の協力を得て、ニューヨークの子供たち(小学生から高校生まで)が創った力強い作品を紹介した。今年は神戸のわいわいTVのご協力も得て、日本のマイノリティの子供達の創るビデオも紹介させてもらえることになった。日本で育った若きベトナム人ラッパーのMC NAMさんがゲストとして来てくださることにもなった。そこで、世界の若者の声、と枠を拡げ、アドビ財団とかけあって、彼らが青少年ビデオ教育を主催する国々からの秀作を提供していただけることになった。それに私の教え子の大学生等の作品も加え、今年の「若者の声」プログラムは、イギリス、ケニア、コロンビア、日本、アメリカなどからかなり質の高い秀作が集まった。


ブルックリンの高校でビデオ制作を教えるキム・ジェマーソン先生と相談して、ブルックリンの黒人の高校生とMC NAMさん、それにうまく行けば地元玉野市の高校生とがスカイプで対話できる機会を作ろうということで盛り上がり、彼女はいい作品を仕上げた生徒のアイゼア・マイルズさんに自分のウェブカムを貸してあげ、スカイプ通話の練習もしてくださったようだった。日本側ではマックスが事前に地元の高校のPTAに声をかけたりして頑張ったが、地元の高校生は今年は現れてくれなかった。子供ばかりか、無料プログラムだったのにもかかわらず、お客さんが他のプログラムに比べてまるで少なかった。作品集め、翻訳・字幕付けにかなりの労力を払っているし内容はいいのに人が来ない、ユースプログラムにどうやって人を集めるかが来年の課題となった。以下、ユースプログラムのハイライト:


『私みたいな女の子』(2005)


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『私みたいな女の子』監督:キリ・デイビス(写真提供:制作者)

アメリカ社会の暗黙の「美の基準」が、黒人の女の子たちのセルフイメージに幼少時からどう影響し劣等感を育んでいるかについて、黒人コミュニティ内部に存在する肌の色の濃淡への差別意識について、当時16歳だった黒人少女キリ・デイビスが真っ正面から取り組んだドキュメンタリー作品。大人たちの心をナイフで刺すような、少女ならではのまっすぐな視点が話題を呼び、トライベッカやシルバードックなど大手の映画祭に出品、オプラ・ウィンフリー・ショーにもゲスト出演した。


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キリ・デイビス監督スカイプQ&A

この作品は若者の声セクションのみにとどめられずに、短編特集にも組み込んで上映したので、短編の回には野外上映後にキリとスカイプトークができた。すっかりキレイな女性に成長した姿を見せてくれ、今後もフィクションやドキュメンタリーを通じて黒人像をメディアに増やして行きたい、と語ってくれた。また、イギリス人男性から出された、今や黒人女性もオプラ・ウィンフリーやハル・ベリーなど皆が憧れる存在の女性が多く出ているが、そのことについてはどう?という質問に対し、それは嬉しいが、彼女たちの容姿は必ずしもアフリカ的ではなく、ヨーロッパ的な特徴と黒い肌の融合なので、アフリカ的な美が世界で認められているわけではない、と答えた。


『私はろうあ、バカじゃない』(2011)


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『私はろうあ、バカじゃない』イギリスに住むムスリム系の聾唖の女の子達が制作

イギリスに住むムスリム系で聾唖の女の子達が製作したパワフルなミュージックビデオ。最初音楽付きで始まり、彼女たちの手話と字幕で語られるメッセージにあれ?と思った頃に、アップルコンピューターの音声調整のアイコンが画面に現れ、音声が消される。その後は、彼女たちのまっすぐな目線と手話と字幕でパワフルなメッセージが私たちの心に届けられる。今年度アドビ財団が主催する「アドビ若者の声」プログラムで世界グランプリ受賞作品。これは、ボランティアスタッフにどの作品がよかった?と尋ねた時に、彼らの多くが口にする作品だった。


『オレの歌』(2010)


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『オレの歌』監督:MC NAM

神戸で生まれ育ったベトナム人ラッパーMC NAMが数年前に書き下ろした歌のミュージックビデオ。ボートピープルとして日本にたどりついた両親の過去とそれを知らずに育った自分、日本人の名前を名乗り素性をひた隠しにして育って来た自分、健康保険もパスポートもない自分の家族の暮らしなど、複雑な思いを歌に託したパワフルな作品。ゲストとして来場され、当日のスカイプトークのゲストだったブルックリンの高校生アイゼア・マイルズさん(黒人コミュニティでの“男さしさ”についてクラスメートや先生に取材した作品『マンフッド5K』を同プログラムで上映)とお互いの作品についての意見交換。


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ブルックリンからスカイプで参加してくれた高校生のアイゼア・マイルズさん(写真提供:キム・ジェマースン先生)

残念ながらお客さんは少なかったが、スタッフは全員一緒に上映に参加し、彼らにとってもブルックリンの黒人の男の子と話したりナムさんと話したり、貴重な体験になったと思う。作品の感想と言っているのにナムさんは「で、君は陸上選手でかっこいいけど、彼女はいるの?」とアイゼア君に尋ねるお茶目な性格。アイゼアくんも、お客さんからの「今日本では男性がベジ化していると言われるけど、作品から黒人社会でもマッチョ派とベジ派に分かれるみたいな印象を受けた。で、君はどっち派?」という質問に、「ぼくは恥ずかしがり屋で大人しい性格だから多分ベジ派」と答え、皆の笑いをとっていた。何だか和気あいあいとして、笑いと思いやりにあふれた空間で、今思い出しても胸があったかくなる。


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アイゼアくんとのQ&A。少人数だったのでラップトップで直接トーク!

ナムくんとのQ&Aでも、お客さんから今までいかに日本に生きる外国人の人達と出会う機会もなければ興味を持つこともなかったか、またベトナム人として日本で生きる実情を尋ねる正直な質問が出され、それに一つ一つナムくんがていねいに答えてくれた。そしてその中でヒップポップの意味や、ベトナムでベトナム語を学んできた体験などについて話してくれた。


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MC NAMさんとのトーク

この日ユースプログラムに参加したスタッフは、意外な質の高さと内容の濃さに驚いていたので、それをどうやって宣伝で伝えるか、またこの1年で日本国内のユースビデオ団体などに存在を伝えて行く努力が大切なのだろう。情報持っている方、是非ご連絡ください。


UPAF 2011 LS

UPAF2011

来年に乞うご期待


以上、ハイライトをお伝えした。他にも沢山、意義ある力強い作品が集まり、沢山のフィルムメーカーと話すことができた。これから一年かけて、自分たちの制作を続けながら、来年のUPAFのために“生きる・創る・映画”を体現してくれる作品を探して行く。自薦、他薦歓迎。ボランティア歓迎(特に翻訳、字幕作成、宣伝素材デザイン、それとウェブマスター!)。ではまた来年、宇野の港でお会いできる日を楽しみにしております。


(文責:タハラレイコ

写真提供:記載以外は、ボランティアスタッフの西坂毅さん&赤田竜一さん)

UPAF 2011プログラム:


UPAF2011_Flyer_Front.JAPA.FINAL_2



UPAF2011_Flyer_back.JAPA.FINAL



リンク:

宇野港芸術映画座サイト:

http://unoportartfilms.org

http://www.facebook.com/UnoPortArtFilms

マックスのゲストハウス:

http://unoslopehouse.com

http://www.facebook.com/unoslopehouse

Rooftop Films (NY)

http://rooftopfilms.com/

『光と陰のはざまで』インフォ&予告編:

http://unoportartfilms.org/archives/1453

509-E の歌声はここで聞けます(ポルトガル語):


[youtube:lmXvIDo3y5w]
[youtube:GkWOrznOTN8]

『パーフェクトライフ』インフォ&予告編:

http://unoportartfilms.org/archives/1233

「映画の森」記事(日本語)

http://eiganomori.net/article/143378230.html

チョウさんのインタビュー記事(英文):

http://www.europe-asia-documentary.com/2011/03/1523/

『アヒルの子』インフォ&予告編:

http://unoportartfilms.org/archives/1539

オフィシャル・サイト&小野監督ブログ

http://ahiru-no-ko.com/

http://sayaka-ono.jugem.jp/

『黒い雨』インフォ&予告編:

http://unoportartfilms.org/archives/1354

ウィキページ:http://ja.wikipedia.org/wiki/黒い雨_(映画)

『100,000年後の安全』

アップリンクサイト映画紹介ページ:http://www.uplink.co.jp/100000/introduction.php

『原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略』NHKドキュメンタリーhttp://video.google.com/videoplay?docid=-584388328765617134&hl=ja#

『ヒバクシャとボクの旅』インフォ&予告編:

http://unoportartfilms.org/archives/1572

『赤い風船』インフォ&予告編:

http://unoportartfilms.org/archives/1525

オフィシャル・ウェブサイト:http://ballon.cinemacafe.net/

『ナース.ファイター.ボーイ』インフォ&予告編:

http://unoportartfilms.org/archives/1490

オフィシャル・ウェブサイト(英文):http://www.nursefighterboy.ca/

『ミラージュ』インフォ&予告編:

http://unoportartfilms.org/archives/1319

オフィシャル・ウェブサイト(英文):

http://skeca.com/mirage/

『KURAYOSHI』インフォ:

http://unoportartfilms.org/archives/1441

監督ブログ:http://nakamuragahaku.blog110.fc2.com/

『ボデガ』インフォ:

監督たちのブログ(笑えるビデオも沢山見れるー英語):http://internetscelebrities.com/

ボデガ on youtube(英語):


[youtube:11nsZ3lEWD0]

『私みたいな女の子』インフォ:

http://unoportartfilms.org/archives/1272

作品ビデオ(英語):


[youtube:YWyI77Yh1Gg]

英文インフォ:http://www.mediathatmattersfest.org/films/a_girl_like_me/

『私はろうあ、バカじゃない』『オレの歌』『マンフッド5K』(世界の若者の声プログラム)インフォ:


http://unoportartfilms.org/archives/1591

『私はろうあ、バカじゃない』(英語)ビデオ:


[youtube:I0PQAtko8Cc]

『オレの歌』(日本語)ビデオ:


[youtube:603WmJrV2pw]




タハラレイコ公式サイト
webDICEユーザーページ



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デジタル配給革命の波に乗って大陸間に広がるブラック・シネマ─ビデオ・オン・ディマンド、ウェブ配給、マルチ・プラットフォーム http://www.webdice.jp/dice/detail/3080/ Mon, 30 May 2011 17:15:46 +0100
トーマス・アレン・ハリスの『ネルソン・マンデラの12使徒』より(著者訳。原題"Twelve Disciples of Nelson Mandela")写真提供:Chimpanzee Productions

R-2会議

少し時間があいてしまったが、前回に引き続き、マンハッタンのグリニッジ・ビレッジにあるニュースクール大学で開かれた『リミックス&リマスター:グローバル時代の黒人像と黒人メディアの配給』(Re-Mixed & Re-Mastered: Defining and Distributing the Black Image in the Era of Globalization リンク参照)という会議の後半戦をリポートする。4月8日と9日にかけて、上映、公開討論会、ワークショップなどを通じて話し合われた主題は、「黒人メディア制作者は、今後どうやって、主流に挑みつつ、自分たちの文化を映す作品を創り配給していけるのか」というもの。

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「一般の人に届きやすい配給」ワークショップの模様。

自主配給ワークショップ

第2部の最初は、自主配給ワークショップ。テーマごとに4つのグループに分かれて行われたワークショップにはそれぞれ違うモデレーターと4-5人のパネリストがいて、彼らの経験談を聞くことができる。テーマは 「ソーシャル・メディアを活用した自作品のブランド化とオーディエンス開拓」、「インターラクティブ・メディアとメディア媒体の多様化に対応したストーリー・テリングの手法」、「一般ユーザーに届きやすい配給:ビデオ・オン・ディマンド、ウェビソード、デジタル・ダウンロード」、そして「映画祭と劇場公開」の4つである。うーむ。どれも参考になりそうだが、一つ選ばなくてはならない。私が選んだのは「一般の人に届きやすい配給」ワークショップ。

ビデオ・オン・ディマンド

この中で印象に残ったのは、自分でキュレートした自主製作の作品をビデオ・オン・ディマンドとして有料でストリーミングし、一般のユーザーがそれぞれの端末(パソコン、ipad、スマホなど)で見られるサービスを提供しようという試み。サイト名はbigshadetree.com(リンク参照)。プロデューサーのトレバイト・A・ウィリスがこの夏から開始するサービスで、まだ本格的に作動していないのでサイトから支払い方法や値段などを知ることはできないが、おそらくPaypalを使ったpaypalアカウントかクレジットカードでの支払いで、ユーザーは好きな時に好きな作品を好きな場所で見ることができる。大手の配給網にひっかからないが内容のいい作品を選んでユーザーにお届けしようという、制作者にとってもユーザーにとってもいい話ではある。配給する作品を厳選し“キュレート”しているという点では既存の配給会社と基本的には同じであるが、配給形態は最新。つまり宣伝費をかけて劇場公開しその後ビデオで売り出してもとをとるという従来の配給形態や、劇場へかけずにDVD市場に直接下ろしてしまう方法からさらに進化して、最初からパッケージングや宣伝費用をかけずにエンド・ユーザーに直接デジタルに商品を届けることで利益が即出るようにし、それを配給と制作者で分配しよう、という試みである。

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自主制作映画のオン・ディマンド有料配信サイトBig Shade Tree(この夏に開始)

自分のサイトで自分の作品をオン・ディマンド配給?

トレバイトはさらに、こういう“キュレート”された新しい配給の仕方がこれから出てくるだろうが、自分が製作した作品があるなら、ウェブサイトでオン・ディマンドとしてユーザーがインスタント・プレイですぐに見られるようにするべき、とフィルムメーカーに呼びかける。また、配給会社と契約する際に、独占契約にしないよう必ず交渉するように、とのアドバイスも彼女から出た。これは仲間の制作者たちからもよく耳にすることだが、何年たっても自分の作品を好きなように売ったり人に見せたり、資金はないが自分が賛同するような市民団体等に上映の許可を与えることができない。かといって、満足の行くように宣伝してくれるわけでもなく、自分が長年かけて作った作品が、配給会社の棚の上で停滞してしまう、という嘆きだ。 ただしここでモデレーターでありこの会議全体の主催者であるミッシェル教授が指摘したのは、オン・ディマンドでの配給は即時性という面では魅力的だが、大勢の人の目に触れクリックしてもらわないと単価が安くお金にならないため、例えば作品数が沢山ある作家や、ある程度テーマやジャンルで“キュレート”されたオン・ディマンドのサイトが人気をあげていけば今後オン・ディマンドが有効になっていくだろうが、一本作品を作ってそれをサイトで見れるようにしてもあまりお金には結びつかないかも、ということ。つまり、 配給体系やユーザーの多様化がこれだけ進んでいる中、 配給会社に任せるだけでも足りないし、自分一人でも戦いは辛い。 色んな人と協力して配給していけるよう自分の権利を主張しつつ、自分のオーディエンスを自分で開拓しながら新旧の配給網を活用せよ、ということか。

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ダラス・ペン(右)とラフィ・カムのヒップポップ・ジャーナリズム『ボデガ』

ネットを活用したヒップポップ・ジャーナリズム・ビデオ

他のパネリストの一人、自分のコミュニティの食事情を題材にしたソーシャル・コメンタリー・ビデオ『ゲットー・ビックマック』と『ボデガ』を作ったダラス・ペン(第一部でも紹介 リンク参照)も同じように“自分のオーディエンスを知る”という点を強調した。彼の場合、作品でお金をもうけようとは思っておらず、社会派メッセージを自分の仲間に届けることが第一義だという。彼が仲間と呼ぶのは、ヒップポップ・ジェネレーション。「アメリカで一番貧しい都市部の町と言われるブロンクス、大手の銀行もスーパーもない。そこに住む住人(ほとんどがブラック・ヒスパニック)は体にいい食べ物へのアクセスがない。じゃあ彼ら、つまり俺らは、どこで何を食べて育ってきたんだ?」と始まった彼と相棒ラフィ・カムのビデオ調査、まず最初はマクドナルドの$1メニューのダブル・チーズバーガーとポテト(小)を組み合わせ店員におねだりしてビッグマック・ソースをただでもらって作った『ゲットー・ビックマック』(2006年制作)。これがyoutubeで大ヒットした(これまでのヒット数118万人以上)。その後作った『ボデガ』では、お腹がすいて仕方がないが貧乏なラフィを$1.50(約200円)でランチが食べれるボデガ(ラティーノが経営する街角の小さな食料品屋。ダラス青年幼少時代の御用達)にダラスが連れて行き、懐かしの食品を紹介しながら、発ガン性が指摘されている安息香酸ナトリウムや合成着色料などたっぷりの成分表にちょっとたじろぎ、でも色とりどりの食べ物を買って安いねえ、と喜ぶ内容である。

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ダラス・ペン in『ボデガ』

この作品もヒップポップの曲が無料でダウンロードできるサイトやダラスとラフィのブログなどで紹介、youtubeのヒットは約14万回、その彼が“Know your audience”と言うと、何とも説得力がある。 自分たちが普段食べている安い食べ物が、実はどんなに栄養的に劣悪で肥満や病気の原因になっているかもしれないことを、ゲットー出身の仲間たちと笑いながら一緒に考えたい、上から目線で外部者が撮るのではなく、自分たちの育った環境を自分たちで語るんだと、ヒップポップと同じまっすぐで真剣な気持ちでビデオを作る。しかもそれがまじめにバカげていておもしろい。彼らは一時は“インターネット・セレブリティ”として人気を博し、当時人気だったThe Daily Reelというサイトのコミッションでサンダンス映画祭を取材したり、フォックス・チャンネルに「もっと有名にしてやる」と企画を持ち寄られたこともあると言う。でも、「有名」をエサに低賃金で働かされることが見え見えだったのでお断り申し上げたそうだ。次の作品は食べ物から離れて「チェック・キャッシング」所。これは、 貧乏なエリアによくある、小切手を現金に換えてくれる店で、中産階級には縁のない場所。手数料は取られるが、銀行口座を持たない(持てない)不法移民や日雇い労働者などを支えている場所でもある。ダラス氏曰く「アメリカの経済破綻を見てみろ。銀行なんて不正直な商売だ。チェック・キャッシング所は這いつくばって生きている労働者を支えていて、銀行なんかよりよっぽど高潔だ」。自分の活動をヒップポップ・ジャーナリズムと呼ぶダラスさん、骨のある、今後が楽しみな人物だ。

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『31』ウェビソードシリーズ

ウェビソードとは?

さらに、トレバイトが新たに関わっているプロジェクトに、31シリーズという“ウェビソード”がある(リンク参照)。これは、ホラー好きの聴衆のために総予算390ドルで製作したというホラーHDドラマで、2011年3月31日から31日間に渡り、31秒ずつ毎日アップされた連載ウェブ番組。最後にはファンのために「もう一つの結末」まで作って上げている。31秒x31日とすると、全体で約16分の作品ということになる。ツイッターなどを使ってのバイラル・キャンペーンをかけている、と言っていたが、youtubeのヒット数のカウントをオートにしておいたら0に戻ってしまったアクシデントもあったようで、どういう展開になっているのか、よく見えにくい。ダラスも、カウントに惑わされてはいけない、と言う。大切なのは拡げて行くこと。自分のオーディエンスにターゲットをしぼったウェブ・ブロギング、youtubeやvimeoにまずパスワード付きでビデオをアップして、プレスにそれを配る、誰か書いてくれる人を見つけてツイートしてもらう、ファイスブックに書き込みしてもらう、などなどその努力を怠らなければ、必ずオーディエンスは見つかる、と言う。ブートレッグは大歓迎、プロモだと思ってどんどん配る…うーむ、作品を創るのは大仕事だが、自分なりのお客さんの開拓も制作者の仕事なると、これは大変なことだ。しかも、それがすぐにお金に繋がるとは限らない。まず大切なのは、自分の作品の性質とオーディエンス層を知ること、誰のために、何のために作っているのかを知ること、その上で、自分の作品を見たい人は映画祭に足を運ぶタイプではないと思えば、それなりの方法で彼らにリーチアウトする、そうでなければ従来の方法で映画祭-配給を狙うのが妥当だろうが、同時にどうやったら自主配給をお金に結びつけられるかの挑戦が世界各地で今後繰り広げられて行くだろう。

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自主配給ワークショップパネリスト(左から2人目がトレバイト、一番右がダラス)

これからどこに向かうのか─公開討論会

さて、次のプログラムは、『これからどこに向かうのか』と題したこの日最後の公開討論会。ゲストパネラーは日本では知られていないが世界の映画祭で評価を得ている実力派黒人男性監督2名:もとアメリカのプロ・ホッケー選手で2000年以降は故郷カナダのトロントで劇映画やドキュメンタリーを作っているチャールズ・オフィサー(デビュー短編『朝が来る時』筆者訳はトロント映画祭、長編デビュー作『ナース・ファイター・ボーイ』はベルリン映画祭などへ出品)と、ニューヨークでドキュメンタリーをPBS(公共放送)などに出しているトーマス・アレン・ハリス(代表作品は南アフリカの反アパルトヘイト活動家だった義父を題材にした『ネルソン・マンデラの12使徒』、サンダンス、ベルリン、トロントなど出品・受賞多数)、黒人シネマをプロデュース・ブランド化し、フォーカス・フィーチャーズという大手の配給会社との契約を取り付けているやり手の黒人女性プロデューサーのキーシャ・キャメロン・ディングル(コンプリーション・フィルムズ代表)、南アフリカ出身で政治科学の分野でメディア、グローバル化、民主化の接点について研究しながらマスメディアの中のアフリカ像を批評するブログ『アフリカは一つの国』を立ち上げた学者のショーン・ジェイコブス、ナイジェリア出身のNY州認定エンターテイメント弁護士(MITで工学士、コロンビアで法学士、MBAと学歴もすごい)で、アフリカ全土にまたがる低所得者層へのデジタルシネマ配給システムを構築する会社、234メディアのCEOであるダヨ・オグンイェミ(各パネリストの活動詳細はリンク参照)。

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左から:ミッシェル・マテレ教授、チャールズ・オフィサー、トーマス・アレン・ハリス、キーシャ・キャメロン・ディングル、ダヨ・オグンイェミ、ショーン・ジェイコブス。写真はR-2会議のフェイスブックより。

まず、チャールズが指摘したのは、第一部で紹介したタンベイ・オベンソンの主宰するブラックシネマ・ブログサイト『シャドー・アンド・アクト』(リンク参照)など、ネット上のコミュニティ・サイトの重要性。自主制作者がプロデューサーに企画を持ち込む時、面白いねとは言われても、そのオーディエンスが見えなければお金を出してもらえないが、最近はタンベイのサイト等の活躍によりブラック・シネマのファンはいることが形として見えるようになってきた。こういうことが広がれば、どんどん企画も通りやすくなるだろう。

ハリウッドがアフリカ映画の配給を開始

キーシャは過去に、ニューラインシネマなどの大手配給会社で働きながら、アフリカ大陸のフィルムメーカーの作品をプロデュースしアメリカに紹介して来た。4年前、それまでの経験を活かし、ハリウッドのユニバーサル・スタジオのアートハウス/外国映画の配給部門であるフォーカス・フィーチャーズに働きかけ、アフリカ大陸の若手監督支援プログラムの契約をとりつけた。彼女が主宰する「フォーカス・フィーチャーズ・アフリカ初短編プログラム」と呼ばれるそのプログラムでは、毎年フォーカスからアフリカの若手新進監督5人に各1万ドル(今の相場で約82万円)の制作費が出る。また彼らをニューヨークに招待し、ワークショップやメンター・プログラムなどで、映画製作の指導をする。それで(または追加資金を集めて)作られた作品の北米配給権はフォーカスが所有、北米以外の世界での配給権は制作者に帰属する、という契約だ。

アメリカのスタジオとしては権利を制作者に残すとは気前がいいように聞こえるが、ヨーロッパでは個人が所有すべき著作権を会社が買い上げるというのは個人の権利の冒涜とみなされるらしく、ヨーロッパと関係の近いアフリカ諸国(特に旧フランス領諸国)では同じ意識が浸透しているため、そういうことになったのだという。また、今後大いに延びるであろうアフリカ人の客層に届ける新素材を求めて、将来的には彼らにアメリカに来て長編映画を撮ってもらいたい、というビジネス戦略の一部でもあるらしい。そしてこの企画は大成功で、それらアフリカ人監督の作品はサンダンス、ベルリン、ロカルノ、ロッテルダムなどの大映画祭で脚光を浴び、いつまでも無料で見せ続けるのはよろしくないということで、第一弾が4月26日にituneやアマゾンでデジタル・ダウンロード(貸し出しもあり)とDVDでリリースされた(リンク参照)。

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フォーカス・フィーチャーズ・アフリカ初短編プログラムのサイト

キーシャがそれらの監督にいつも言うのは、お金をもらったり映画祭に出たりするのはもちろんいいけれど、プレスリリースや名刺は必ず持参して、自分と自分の作品をいつでも毅然と自分で説明できるようにしておくことだという。でないと「こんないい企画をやっているフォーカス」とそちらに注目が行ってしまったり、作品だけが商品として注目されてそれを作った本人はただの顔の黒い人、になってしまう。なので、自分の名前と作品をちゃんと知ってもらって、オーディエンスが自分という人間を追いかけてくるようにしろ、とアドバイスしている。業界を知る彼女の目には、現在の映画産業は資金は縮小、配給は薄利多売で拡大、なので配給会社としては一つ一つの作品を大切に扱いきれない。制作者自身が自分のオーディエンスがいることを配給会社に伝え、証明するような気持ちで臨まないと、埋もれてしまうか取り残されてしまう。

ナリウッドとアフリカ大陸のデジタルシネマ建設

ダヨの話も面白かった。彼はナイジェリア出身であるが、10年前にはニューヨークでエンターテイメント弁護士をしていた。ある日ナイジェリアの有名プロデューサーを知っていると言う友人から電話があり、ナイジェリアの映画がアメリカに多数流れ出しているが、不法だ。キミは著作権を扱うんだろう、どうにかしてくれと頼まれた。そこでどんな映画か知りたいので数本送ってもらったが、どれも見られるものじゃなかったので放っておいたという。1年後、サンダンス映画祭で出会った人に、キミはナイジェリア人だって、“ナリウッド”について教えてくれ、と声をかけられた。何それ?が彼の返事で、ナイジェリアに90年代以降わき起こっている映画産業の存在を当時まだ知らなかった。そのさらに1年後、ナイジェリアの友人からまた電話があり、ナリウッドのやり手プロデューサーたちに会うべきだと言われ、それでナイジェリアに飛び、混沌としたナリウッドの実態を知った。

Nollywood
アメリカのビデオ屋に並ぶナリウッドの作品群 ソース:http://www.jamati.com/online/film/nollywoods-cross-over-appeal/

ナリウッドの特徴は、撮影はすべてデジタルカメラで一本数十万円の予算で作られ、編集は家庭用のパソコンで監督の自宅で行われ、そのままDVDに出され即配給に流される。ストーリーは大概が家族内や友人間の裏切りや愛がテーマで、メロドラマ調のモラル・ストーリーだという。最初はアフリカ内だけで流通していたのが、今ではアメリカ、ヨーロッパ、南米等に完成するそばから毎週運ばれ、ビデオ屋やストリートの違法コピー等で売られる。アムステルダムにはナリウッド専門店もあるらしい。それでようやくハリウッドや映画祭も注目しているというわけだ。

ダヨがナリウッドについてまず気付いたのは、法的な問題ももちろんあったけれど、クリエイティブな仕事をしている人達が適当な時期に弁護士を立てて話を進めていないことに問題があること。彼自身、ニューヨークでかつて80年代にDJをしていたしヒップポップのプロデュースもしていたので、ニューヨークやアメリカのヒップポップ・アーティスト達とナイジェリアの監督たちの間に類似点があるように思われた。これでは利用されるだけだ。ナイジェリアの映画産業は、商業目的で作られる作品数の多さでは、1位のアメリカと3位のインドの間、世界で2番目だそうだ(知らなかった!)。けれどもその利益の99%はDVD販売から。

それに対し、インドの“ボリウッド”では、75%の利益が劇場公開から来る。インドの映画の歴史は、アメリカくらい古いからだ。スクリーン数を比較すると、人口3億人のアメリカには3万7000のスクリーンがあり、 人口10億人のインドには1万2000のスクリーン数が存在する。 それに対し、人口8億人のアフリカ大陸には、南アフリカを除いては、技術的に世界レベルのスクリーンが全部で100枚もない。つまり、アメリカには約8千人に一枚のスクリーン、インドには約8万人に一枚のスクリーン、そしてブラック・アフリカには約800万人につき一枚のスクリーンということになる。これでは劇場公開の歳入があるはずがない。そこで現在、ダヨは仲間とともに、アフリカ大陸規模でのデジタル・シネマの建設プロジェクトを始めている。アフリカの低所得の人達が映画を大スクリーンで楽しめるように、そしてそのスクリーンがねじまげられたブラック像を映さないように、インフラだけでなく、コンテンツもオリジナルなブラックシネマを多く含んだ内容にしていくという。ブラジルは南米の中でも黒人の人口が大変多い国であるため、ブラジルとのコンテンツの交換なども予定されているらしい。

Nollywood-shoot
ナリウッド撮影風景 ソース:http://www.psfk.com/2009/01/nollywood-babylon-the-rise-of-the-nigerian-film-industry.html/

その他、グローバル化の中のアフリカ最新メディア事情

ショーンが指摘したアフリカ大陸の新しいメディアの動きとして興味深かったのは以下の点。1)劇場に頼らずにデジタルで利益を出しているナリウッドのシステムがなぜ働いているかをフランス政府が調査しに訪れたという事実、2)アメリカでは人気のないアラブ資本のアルジャジーラTVの英語放送がアフリカ映画に力を入れていて、特にアフリカからのドキュメンタリーに特別枠を設けていること、3)南アフリカの会社マルチチョイスが95年に開設したDSTVアフリカという衛星テレビ局は今ではサハラ以南のアフリカ諸国にテレビ、ネット、モバイル放送を拡大しており、特にアフリカの低所得者層のほとんどはパソコンを持っていないから、携帯での映像受信/配信が現在ものすごい勢いで進んでいること。

前々回のキミ・タケスエの記事ではロッテルダム映画祭がアフリカ大陸の映画制作事情を調べるために12人の映画監督をアフリカに送った話がでてきたが、グローバル化とはどういうことなのか、を改めて考えさせられる。それが、ナリウッドなどが現れ、アフリカの映画産業がハリウッド等に利用されないように守ろうとしての行為なのか、それとも芸術支援でしばしば非営利である国際映画祭も世界のトレンド・リーダーでいるためなのか、それは私にはわからない。非営利や芸術という言葉の裏で、世界の映画祭が大小配給会社を支える見本市であり、映像作品を商品化する機能を果たしていることは疑いの余地はない。制作者もそれを必要としているし、配給会社は常にフレッシュな作品を探している。色んな意味で、西側は貧しい国々の人々を放ってはおかない。テクノロジーと世界経済の混沌の中で、これまで資源を取られ、労働力として掘り出され低賃金で働かされて来た第3世界の人々が、今度はコンスーマーとしてなけなしのお金を搾り取られ、またコンテンツを安く提供する機構になっていく。彼らはいつでも群れとして扱われ、彼ら一人一人の夢やパーソナリティまでもが、優しい気持ちからではなく、マーケティングの数の一つとして調べられ、利益のためのデータとして使われて行く。日本人や日本から発せられる文化は、世界のコマースの中でどう使われているのだろう。日本は利用する側なのだろうか、される側なのだろうか。

Thomassundance
サンダンス映画祭のパネル・デョスカッションに出演のトーマス・アレン・ハリス ソース:http://throughalensdarkly.wordpress.com/2009/01/15/award-winning-filmmaker-thomas-allen-harris-speaks-at-sundance-film-festival/

トーマス・アレン・ハリスがアメリカ社会に発信する黒人像

サンダンスやトライベッカで引っ張りだこのトーマス・アレン・ハリスは現在4作目の長編ドキュメンタリー『レンズの中に、暗く』(筆者訳:原題”Through a Lens Darkly”)を製作中だが、その中で配給を念頭に置きながら、どのように新しいテクノロジーを取り入れて口コミ・キャンペーンを展開しているか、という話も参考になった。彼の新作のテーマは、アフリカ系アメリカ人が今も続く市民権運動の中で黒人の写真家たちがカメラという機械をどのように社会変革に利用して来たか、について。写真が発明されたのはリンカーンが1863年に奴隷制度を廃止した約20年前、それ以来、技術の進歩で様々な撮影機材が多くの人の手に届くようになっていくにつれ、マイノリティー人種が自分たちの像を撮り歴史に残すことで、(カメラを持つ)撮る側vs(カメラを持てない)撮られる側、という根深い問題と戦ってきた。この作品では、アフリカ系アメリカ人コミュニティでのその戦いの歴史をたどる。トーマス曰く、毎回製作中は、作品を仕上げたら大々的に配給キャンペーンするぞ!と思うのだが、いざ仕上がると精神的にも経済的にもすっかり疲労していてそれどころでなく、すぐに次の作品のための資金集めに奔走しなければならなかった。だから、今回は制作に入る前から配給キャンペーンの戦略を練った。

マルチ・プラットフォームを利用した配給戦略

トーマスがカナダやヨーロッパの映画祭などのワークショップに参加しているとき、ヨーロッパのテレビ局の人達が盛んに“マルチ・プラットフォーム”という言葉を使ってることに気付いた。そこで、自分もやってみようと、試してみている。ドキュメンタリー作家なら知っている通り、記録映画は長時間撮影して、その中から90分なりを選ばないといけない。でも本当は本編に入れられなくてもおもしろいフッテージがたくさんある。今のネットに溢れているのは、多様なプラットフォームに散在する短いコンテンツ。それなら作品の全体像が見えてくる前に、興味深いセグメントの幾つかを最終作品のDNAとして、前もってリリースしていってみてもいいのじゃないか、と思えた。そしたら色んな人の反応も、全体を作る前に知ることができる。この作品は公共放送用にITVS(Independent Television Service)からの資金で作られている。ちょっと前だったら、テレビ放送前にそんなこと絶対に許されなかったのが、今では契約書にオッケーとちゃんと書いてある。

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黒人写真家と市民権運動を扱ったトーマス・アレン・ハリスの新作『レンズの中に、暗く』より 写真提供:Chimpanzee Productions

家族の写真と国家や世界の歴史との関係

もう一つ彼の話で刺激的だったのは、前述の作品を作りながら自然発生したもう一つのプロジェクト。彼が黒人によって撮られた黒人像を探す中で出会った沢山の人々と、彼らの所有するそれぞれの家族の写真。それらを貴重な歴史的財産として扱うネットテレビシリーズ企画への資金が集まり、長編ドキュメンタリーを制作する傍らそれもやることになった。昨年始まったこの“デジタル・ディアスポラ・ファミリー・リユニオン”と命名されたプロジェクトでは、アトランタ、ボストン、ニューヨーク、DCなどの都市を回って一般市民に写真を持参してファミリーの歴史を語ってもらい、それをテレビ番組としてインターネットテレビで放送している。しかし実は、彼の本当のパッションは、テレビ番組で終わらず、 一般市民が自分の家族の写真を家族の物語を添えてアップロードでき、皆と共有することができるアーカイブ・サイトの設立だった。でもそちらには資金が集まらなかったため、自分のそれまでの経験とコネクションを活かしてテレビというフォーマットで資金を集め、同時にアーカイブ・サイトも立ち上げた。トーマス曰く「一番悲しいのは、家族の誰かが亡くなって一箱の写真をもらう、でも写っている人が誰だかわからない。親や祖父母や先祖が誰だったのか、国や世界の歴史が彼らにどう影響し、また彼らの人生が歴史をどう動かしていたのか、それを子供達に伝えるのが僕らの役割なのじゃないかな」。彼のこのプロジェクトは、NYタイムズのアートセクションの一面にも取り上げられた。

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トーマスとデジタル・ディアスポラ・ファミリー・リユニオン・ロードショーの参加者。写真提供:Chimpanzee Productions

ファミリー写真や8ミリ、またホームムービーというのは、その家族の歴史だ。そして本当は、それらの集合体が、コミュニティの歴史になる。でも、大抵、オフィシャルな歴史というのはジャーナリストや有名な写真家の撮ったイメージで誰かに編集されて綴られ次世代へ残されて行く。しかし今の時代に、私たち一人一人が、その間違った、というより偏ったり足りなかったりする歴史を少しずつ修正補足し、書き換えて行くことが可能になった。トーマスだけでなく、世界のあちらこちらで、家族のポートレートや映像の歴史的な価値が見直されている。私の親しい友人でレバノン人映像作家のアクラム・ザアタリも、ベイルートでアラブ・イメージ・ファンデーションという非営利団体を90年代に起こし、アラブ世界の家族の生活を捕らえた映像を集め保管し、市民がオンラインなどで閲覧、使えるようにしている。情報や映像が市民に公開されにくく、一般の市民もまた自分が歴史を紡いで行く役割という意識のあまりない日本だからこそ、すっごく大切な気がする。いつかやりたい、またはどなたか一緒にやりませんか!

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デジタル・ディアスポラ・ファミリー・リユニオンで集まった写真たち。写真提供:Chimpanzee Productions

自主配給-将来への希望

ミッシェルがここで、今日は一日、資金や配給について色々考えどうやったら自分たちのイメージを曲げずに伝えていけるかを話し合って来たけれど、では今、まだ起こってはいないけれど、自分と自分の作品が今後こんな風になったらいいなという希望があるか、と各パネリストに尋ねた。

制作者の繋がりたい心─チャールズ・オフィサー

チャールズ:こんな風に色んな場所に旅して、自分の作品をより多くの人に見てもらいたい。配給会社はあって作品はそれなりに流通しても、作り手の自分たちは取り残されたり無視されたりすることが多い。 一つ忘れないでほしいのは、カナダにもブラザーズ・アンド・シスターズがいるということ(会場笑)。市民権運動の奴隷亡命組織経路(underground railroad)でも、カナダも一部だったでしょう(会場と本人笑)?だからカナダを外さないで、北米として考えてほしい。まず、トロントにこんな会合があったらいいな。資金を集めて作品を作ることはもちろん大事だけど、その作品を通じてこうやって自分のコミュニティを拡げて色んな人と繋がっていきたい。作品を作っていると、自分の作品やメッセージにのめり込み過ぎて、パートナーがいてもその小さなユニットだけで煮詰まりながら作品を作るわけで、実は孤独だから、こうやって今日色んな方法論を聞いて、すごく刺激された。トーマスみたいにコンテンツを作品のリリース前に小分けに公開していくのも面白いし、僕が働くカナダの公共放送でもインターラクティブ性が最近とても強調されている。僕の作品では音楽がとても大切なんだけど、劇場公開ばかりに心を奪われずに、作品の曲を作ってくれたバンドのコンサートでDVDを売ったり、できることはまだまだ色々ある気がする。ハリウッドvsインディペンデントにとらわれずに、 心からの作品を作り続けて、自分のコミュニティを開拓して繋がっていけば、自由でいられて、生き残って行く道を探せるんじゃないかと思った。

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チャールズとモデレーターのミッシェル教授。R-2フェイスブックから転載。

ハリウッドに入り込むチャンスは─キーシャ・キャメロン・ディングル

キーシャ:今がエキサイティングな時代であることは明らかよね。巨大メディア産業は淘汰されつつあるけど、今は必ずしもそういう巨大メディア会社を通さなくても自分のオーディエンスと繋がれる時代。今度プロデュースする作品なんて、私はまだ脚本の1ページも読んでいないのに、すでに映画のフェイスブックのページができていて、400人のファンがいる。それは原作者の女性がソーシャル・メディアにマメな人で、すでに彼女を応援し、彼女の本が映画になるのを待ち望んでいる人が大勢いるから。もう待たなくてもいいのよ。笑っちゃうことに、ハリウッドの人達は…お金持ちでしょ(笑)。 金持ちっていう人種は2つおもしろい面を持ってる。まず第一に、彼らはナマケ者(笑)、私もいつかナマケ者になりたいけど。私の周りの人達は「キーシャ、この台本、急ぎだから今日送らないと!」とかヤッキになってるけど、ハリウッドの人達はのんびりとハンティングを楽しんでるわ。ハングリーじゃない人には時間はゆっくり流れるでしょう?第二に、彼らはいつでも怖いの。金持ちじゃなくなることが怖いの(笑)。誰かが自分の富を狙ってる、と思い込んでる。

この2つの特徴は、私たちには今は好要因よ。だって彼らは今すっごくおびえて夜も眠れないでいるわ。DVDなんかもう売れないかも、スタジオなんかなくても皆映画を作ってる…指導してくれるスタジオ・チーフなんかもういない。ハリウッドがこれまでに知っていたこと、彼らのすがってきたビジネスプランは、完全にもう死んでるのよ(笑)。だから彼らも、私たちと同じように、この時代のあまりに早い流れにおびえきっているわ。だからこそ、今がブラックシネマを作るチャンスよ。朝起きて、テンション高くして、自分のやらなきゃいけないことをやって、進む道は見えているって毅然とした態度をとるのよ。ヘイ、私、ビジネスプランあるわ、オーディエンスもいるわ、お金儲かるわよってはっきり示して、どっしり構えて待っていれば、あっちから「どう、元気?」って電話してくるわ。タイラー・ペリーがやったみたいに。同情とか親愛の情なんてないわ。ヤツらは金持ちでレイジーよ(笑)。お金が儲かるんなら動くわ。こっちが入れて入れて、って態度だと、入れてくれないのよ(拍手喝采)。

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キーシャ。右隣はダヨ。

トーマス:僕の作品『ネルソン・マンデラの12使徒』は教育関連の配給会社が扱っていて、過去5年間よく売れてチェックが送られて来てハッピーだったけど、今その契約のおかげでネットフリックスやオン・ディマンドで見せることができない。そう考えると、高い買い物だったなあ、と。制作者としての自分の権利を守ることは大切だなあ、って思い知らされてる。

世界の黒人人口が、自分たちのオーディエンスの数─ダヨ・オグンイェミ

ダヨ:この2日間、皆が言ってたことと同感で、“繋がっていくこと”が大事だと思う。必ずしも、ブラック・コミュニティだけじゃなく、世界のすべての有色人種やそれを応援する人々と繋がっていくことが大切だと思うんだ。それを強調した上であえて数を見れば、北米に4-5千万人、カリブ諸国とラテンアメリカを合わせれば1億5千万人以上のブラックがアメリカ大陸にいる。アフリカ大陸には8億だ。(僕らのイメージを欲している人達の数の)足し算をする必要もない…よね?(会場拍手喝采)

最後にミッシェルが、会場に来ていた、マイノリティ作品を過去数十年に渡り草の根的に配給し支えてきたNPOの「サード・ワールド・ニューズリール」の代表の女性とトーマスの作品の配給をしている教育関連の配給会社の女性に、配給側としてはこのデジタル配給革命をどう捉え、どう対応しているのか尋ねたが、その答えが興味深かった。前者は、制作者がこうしてどんどん”自治”に目覚めて頑張っていて、配給会社を必要としなくなってきているので、現実、どうしていいかわからない状態なんだけれど、どうやったらそれを助け支援して行けるのかを考えている、そして後者は、制作者に置いて行かれないよう、他の配給団体やNGOなどと連携を深めながら排他的にならないように気をつけて皆で盛り上げて行こう、そして自主制作者支援ネットワークとしてのブランドイメージを構築して行こうと思っている、と答えた。ハリウッドも非営利の配給団体も、時代の波と自主制作者の結託と自治に戸惑いまくっているのが現状のようだ。

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Nurse.Fighter.Boyより。ジュード(キャレン・レブランク)とサイレンス(クラーク・ジョンソン) 作品サイトから転載。

Nurse.Fighter.Boy

討論座談会も終わって会議の締めくくりとして上映されたのは、パネリストの一人でカナダから参加していたチャールズ・オフィサーの”Nurse.Fighter.Boy”(ナース・ファイター・ボーイ)というドラマ作品だった(リンク参照)。正直、カナダにもブラザーがいることを忘れないでね、と言っていた大変謙虚な感じの人だったので、さして期待もせずに、せっかくここまで参加したのだから、娘も今日は友人の家にお泊まりしているし最後まで参加しよう、というくらいの気持ちで残ったのだったが、あまりの作品のパワーに、うちのめされた。前回の記事に書いた通り、近年見た中で私が最も“いい映画”と感じ、なぜだか感動して涙が止まらなかった。

ジャマイカ人系カナダ人でシングルマザーの看護婦ジュード(キャレン・レブランク)は、やはり看護婦だった母や祖母に育てられた。若くして死に別れた夫を想いながら12歳の一人息子シエルを育て、働かないと生きていけないからごまかしながら暮らしているが、鎌状赤血球病(シックル・セル病)という不治の病と闘っている 。盛りを過ぎたボクサーのサイレンス(クラーク・ジョンソン)は、不法試合で生活費を稼ぐファイター。音楽を愛するシエル(ダニエル・J・ゴードン)は、魔法の力でお母さんに幸せな夢を見せようとする少年。ある夏の終わり、深夜の格闘で病院に運ばれたファイターが看護婦の手当を受けたことから、3人の運命は永遠に深く絡みあって行く…。ボクシングの多少のアクションと大人たちの多少のラブシーンの他は、静かな映像の、静かな物語だ。近所の人の隠された日常を見てしまっているみたいに淡々とした日常が描かれているのだが、登場人物の感情は私たちの日常の感情のようにとてもリアルで、シエル少年の存在は自分や身内の子供の存在のようにマジカルでいとおしい。各シーンは派手ではなく、クローズアップよりむしろ遠景気味の人物の全身が入る構図や色使いには繊細な絵心があふれている。音楽の使われ方がまた、にくい。そして全体として、映画美のある作品だ、と私には感じられた。特にジュードの、時に切なく、悲しく、悔しく、そして息子を愛する気持ちは、許してくれーというほどに静かに強く、胸にひしひしと迫った。上映の後、会場の人(女性が多い)も涙目だった。質疑応答から、監督がジュードと同じ病気を抱える自分の姉を思って書き上げた作品で、自分を育ててくれた母や、各地で頑張ってるブラック・ママへの感謝の気持ちを込めて、長年かけて完成した渾身の作だと知った。不思議だったのは、ブラック・シネマの会議に参加しているのをすっかり忘れてしまうほど、肌の色など超越した共通性があった。特に女性には響くだろうと思う。

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これから夜勤、家に一人残している息子を想い電話をかけるジュード。 作品サイトから転載。

こんなにいい作品が世界に届けられていない

そしてまた、この作品はトロント国際映画祭やバンクーバー国際映画祭にも出品され、配給会社がついており、カナダでの劇場公開もしたものの、その配給会社の意向で他の大手の映画祭には向こうから作品を送ってくれと頼まれているにもかかわらず「出しすぎるといけないから」という意味不明の理由で応募もしてもらえなかったり、カナダ以外への配給も力を入れてプロモーションしてもらえなかった。ニューヨークでもこれまでNY近代美術館で一度上映があったきりで、せっかく35ミリの美しい映画なのに、相応の配給努力がなされていないこともわかった。チャールズはその後他の作品を手がけ、忙しく生活はしているが、長年かけて産み、育てた作品がもっと多くの人に見てもらえていないことをとても悲しく思っている様子だった。完成は2008年だったから、もう遅いだろうと、彼は半ばあきらめ気味だった。人種も国境も超える映画の魔法を持っていながら、典型的な黒人像を描かないブラック・シネマは未だ大手の配給に乗りにくい、ということなのだろうか。完成が何年でも、いい映画はいつまでも人の心を揺さぶることができるのに。会場のその場で、この作品は本当にいいから、是非もう一度ニューヨークで35ミリで見られるように協力し合おうと幾人かの観客(ミッシェル教授も含めて)が意気投合し、上映委員会が発足した。

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チャールズとミッシェル。R-2フェイスブックから転載。

会議がすべて終了した後、ダメもとで、チャールズに、この作品を今年8月の宇野港芸術映画座(相棒のマックスと私が昨年より岡山県宇野港で始めた夏のアート映画上映シリーズ。 リンク参照)で上映させてもらえないか尋ねた。なんと返事はイエス!35ミリは予算が足りないので無理だが、それでも十分きれいだ。日本の皆さんとこの映画が一緒に見れるのは本当に嬉しいので、がんばって翻訳する!今年の宇野港芸術映画座(第2回)は2011年8月5(金)~7(日)、12(金)~14(日)の2週末に開催決定!皆様、お盆休みは瀬戸内の海と心を揺さぶる映画の数々(と直島のアート)を見に来場されたし。晩の上映は野外トレーラー劇場で瀬戸内の島々とフェリーを背景に、ビール片手に、気持ちいいですよー。皆さんのチケット代の20%は東北復興ののために寄付させていただいきたいと思っています。

感想

今回この会議に数少ない非黒人の参加者の一人として出席して、色んな意味で刺激を受けた。まずその時感じて今でもなお感じるのは、うらやましい、ということ。アフリカン・ディアスポラやアラブ・ディアスポラという言葉がよく聞かれるようになってきたが、ディアスポラとは、奴隷例や虐待や教育や生活向上や、様々な理由で世界中に散った民族を表すギリシャ語を語源とする言葉だが、前述の使い方では、遠く拡散しても、民族としてのアイデンティティーを保ちながら生きていく、という意味を込めて使われる。報道される日本と中国や韓国との関係を見ると、また西側に向いた日本の外交やアイデンティティーを見ると、アジアン・ディアスポラはいつか生まれるのだろうか、と疑わしくなってくる。もしかしたら、虐げられただけでなく虐げた歴史も持つ日本がいることで、それが形成されずらくなっているのだろうか。いつかその歴史さえも乗り越えて、同じ民族としての連帯感を築き、そうして他の民族とも繋がっていけたらいいなと願う。

また、ダヨの盛んに示していた数字に実はとても深い意味が隠されていると思った。これまで世界の巨大産業任せで、自分たちには物流の流れを変える力等ないと思っていた(というか、そんな可能性も考えなかった)小さな人間の私たちは、王様のようなハリウッドが流す(虚)像の虜になってお金を貢いできた。でも、なぜ世界中の(数的には多数派の)マイノリティ達が、ハリウッドが「美しい」と定義する(自分とは似ても似つかぬ)人間の像を、お金を出して消費し続け、結果「自分たち」は醜い、と感じ続けなくてはならないのか。自分たちと似た像がスクリーンに映し出されることが増えれば、人々の「美しい」という定義もそれぞれのコミュニティで変わって行くし、「リアル」な感覚や「共感」の概念も変わって行く。アメリカのマイノリティ運動の時と同じ気持ちが、今世界規模で広がっている。

そしてその時、大きなキーとなるのが、言語である。植民の歴史ゆえに、英語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語を共通語とする肌の色の濃い人々が世界中に散在し、彼らは同一言語圏で比較的自由にコミュニケーションをはかることができる。例えばヨーロッパの元祖ポルトガルは今では小さく貧しい国だが、南米大陸ブラジルのブラックと、アフリカ大陸のアンゴラやモザンビークのブラックは、ポルトガル語を共通語として字幕なしでDVDの交換配給ができるのだ。

なんだかこの物流の流れの革命的変化の中で島国日本は取り残されてしまいそうに思うのだが、私たちにできることは何だろう。なぜかこの会議に出席して以来、何度も思い出すのが、フランス人監督クリス・マーカーの『ソン・ソレイユ』(サン・レス。マーカーは『12モンキーズ』の基となった短編SFクラシック『ラジュテ』のクリエーターでもある)。日本ではあまり知られていないが西側世界では大変有名なこの詩的なエッセイ・ドキュメンタリーは、主に日本とアフリカのギニアビサウで撮影されていた。カメラを抱えて世界中を旅しながら植民地主義と生涯戦って来たこの映像作家は、自分の白い肌とフランス人という立場を痛いほど意識しつつ、あえて製作当時(1982年)西洋諸国主導経済に唯一の非白人として参戦していた超近代国家日本(白人を怖がらせる存在として)と、 ポルトガルからゲリラ戦で独立を勝ち取った後に内紛と政治腐敗で自滅した国家のギニアビサウの映像を隣同士に並べることで、何かを描こうとした。ここでは書ききれないほど内容の濃い作品なのだが、黒人シネマの会議に出席している日本人の自分を考える時、その映像の切れ端がなぜか頭に浮かんで来たのだ。どこに自分の映像を置くか、世界の映像パズルをどう並べるかは私たち次第だ。となり同士に並んだ映像や人物は対照的に思えても、実は構図や色使いや世の中を映す目の光に多くの共通点を持っている。

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Nurse.Fighter.Boyは、チャールズ・オフィサーが彼の長年の友人であるプロデューサーのイングリッド・ヴェニンガー(INGRID VENINGER 写真右)との共同脚本で5年かけて一緒に仕上げたコラボ作品。作品のサイトから転載。
(文章:タハラレイコ 写真:記載以外はタハラ)

リンクス

R-2会議フェイスブックページ http://www.facebook.com/R2conference
会議全体がビデオ・ストリーミングでアップされています(Re-Mixed and Re-Mastered Part 1-6)。

[youtube:aCGpAiTg5TI]

自主配給ワークショップ、パネリスト関連
トレバイト・A・ウィリス(Trevite A. Willis)が主宰する自主制作映画のデジタル(オン・ディマンド)配給サイト:http://www.bigshadetree.com/
トレバイトのプロダクション会社サザーン・フライド・フィルムワークスのサイト:http://www.sffilmworks.com/
トレバイトチームが作ったウェビソード『31』:
[youtube:34f8ZmyZ8U8]

www.twitter.com/31theseries
ダラス・ペン(Dallas Penn)とラフィ・カム(Rafi Kam)の人気ウェブビデオ
『ゲットー・ビッグマック』:

[youtube:QO6Bq4lQRZ4]

『ボデガ』:

[youtube:11nsZ3lEWD0]

ダラスとラフィのブログサイト『インターネッツセレブリティーズ』 http://internetscelebrities.com/
ダラスのヒップポップ・ブログサイト http://dallaspenn.com/
『これからどこへ向かうのか』公開討論会パネリスト関連リンク
チャールズ・オフィサー(Charles Officer)
Nurse.Fighter.Boy 予告編:

[youtube:UyEm7A7Ez6w]

Nurse.Fighter.Boy オフィシャルサイト:http://www.nursefighterboy.ca/
チャールズのIMDBページ:http://www.imdb.com/name/nm1031732/
チャールズのウィキページ:http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Officer
チャールズが言及したタンベイ・オベンソンの主宰するブラックシネマ・ブログサイト『シャドー・アンド・アクト』(Part1で詳しく紹介) http://www.shadowandact.com/
トーマス・アレン・ハリス(Thomas Allen Harris)
トーマスが主宰するチンパンジー・プロダクションのサイト
http://www.chimpanzeeproductions.com/
制作中の新作ドキュメンタリー“Through A Lens Darkly: Black Photographers and Emergence of a People”のページ
http://www.chimpanzeeproductions.com/films.html
予告編:

[youtube:PCfbCeHOmqI]

家族フォトをテーマにしたロードTVシリーズとウェブアーカイブ・プロジェクト“Digital Diaspora Family Reunion”のサイト:http://ddfr.tv/
予告編:

[youtube:IgoOuN-vJRs]

トーマスの最も有名な作品『ネルソン・マンデラの12使徒』(原題”12 Disciples of Nelson Mandela”)を紹介するPBS(米公共放送)のサイト http://www.pbs.org/pov/twelvedisciples/
ビデオ抜粋:

[youtube:MdgwCKwfb7s]

キーシャ・キャメロン・ディングル
キーシャの主宰するプロダクション、コンプリーション・フィルムズのサイト: キーシャが契約を取り付けたプログラム、フォーカス・フィーチャーズ・アフリカ・ファーストのサイト http://www.focusfeatures.com/africafirst/index.php
アフリカ・ファースト第一弾DVDが販売されているアマゾンのページ
インスタント・プレイ:http://www.amazon.com/dp/B004W4STI0/
DVD:http://www.amazon.com/dp/B004VNVLM8/
ショーン・ジェイコブズ(Sean Jacobs)
マスメディアの中のアフリカ像を批評するブログ『アフリカは一つの国』 http://africasacountry.com
ショーンが言及したdstvのサイト http://www.dstvafrica.com/dstvafrica/
ダヨ・オグンイェミ(Dayo Ogunyemi) http://www.wipo.int/meetings/en/2009/ip_fin_ge_09/bios/ogunyemi.pdf
宇野港芸術映画座
第2回は2011年8月5日(金)~7日(日)、12日(金)~14日(日)の2週末に開催決定!
骰子の眼リポート記事:http://www.webdice.jp/dice/detail/2587/
ファイスブック:http://www.facebook.com/UnoPortArtFilms
サイト:http://unoportartfilms.org (昨年の仕様のままなので昨年のプログラムが見れます)*今年のスケジュールは6月末-7月頭に発表予定ですが、ファイスブックで上映作品決まるごとにこれからどんどん発表して行きますので、お楽しみに~

タハラレイコ公式サイト
webDICEユーザーページ D.I.W.O(ドゥ・イット・ウィズ・アザーズ)の方法論を探す─黒人シネマ自主配給の挑戦 http://www.webdice.jp/dice/detail/3014/ Fri, 15 Apr 2011 20:37:03 +0100

『看護婦・ボクサー・少年』より。映画オフィシャルサイトから転載。







3月11日のあの日から、すでに1ヶ月以上が経ちました。仕事等で多忙な日々が続き、その後震災で、遠くに離れている身ながら心配で不安で何を書いていいのかわからず、今回の記事が大変遅れてしまったことをお詫びします。震災や津波で亡くなられた大勢の方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地で愛する人や生活を奪われてしまった方々や日本各地で不安な日々を過ごしておられる方々に、ニューヨークから、心からの声援を送ります。





マイノリティが自分の像(イメージ)を創り発信する





今回は、マイノリティがマイノリティの映画を創る、という意味について、考えたいと思う。日本にいると、ピンと来ない言葉かもしれない。実際にアメリカでマイノリティとして生きていると、誤解されたり差別されたりすることは日常茶飯事だ。マイノリティ同士が誤解し合い、争い合うこともしばしば。でも、実は誰もがマイノリティだと私は思う。ドキュメンタリーでもフィクションでも、テレビや映画というのは誰かの像を作り上げて映す媒体だから、ともすると私たちもそれに映った他者の像を見て「あー、この人達って、こんな感じなんだ」と紋切り型の像を頭の中で作り上げてしまう。でも実際は「この人達」の中にも色んな人がいて、多種多様な人生を送っているわけで、メディアにもできるだけ多くの多種多様な「像」が映されれば、より全体としての複雑な真実を理解することに近づく。しかし社会的に弱かったり数が少なかったりする人々の場合、多少違っていても文句は言われないし、客の“受け”がいい方がいいので、誤解したまま多少誇張されたキャラが横行することになる。海外から見る「日本人」というステレオタイプには、ガチガチのサラリーマン、オタク、ゲイシャ、ただ笑っている大人しい国民、と色々あるが、それのどれも少しは当たっているようで完全には自分だとは思わない、でも他者にそう描かれるとムカつく。



日本の中でも、男の子でしょ、女の子でしょ、に始まり、 勝ち組、最近の若い子は……と色々なステレオタイプに囲まれて生きづらいこともあると思う。自分は何か違うと思い続けると、ロシアン・ドールみたいにどんどん中へ小さくなり続け、最後のちっぽけな一人を自分と信じるか、あるいはタマネギみたいになくなってしまうかもしれない。でも本当は、皆一人一人が矛盾を含んだ複雑なレイヤーを持った一個のタマネギであるわけで。むく必要はないのだと思う。だったらそれをわかってもらうために、自分たちで新しい「像」を創らなくてはならない、そう言う意味で、私は社会的に弱く誤解されがちな世界中のすべての人々のメディア作りを応援する。今回取り上げるのは黒人シネマだが、黒人好きとか、黒人は苦手、とかいう色眼鏡や趣向をとりあえず置いておいて、誤解され続けて来た人達の戦いを理解しよう、そしてそれを通して自分の「像」を考えよう、という気持ちでこのリポートをしようと思う。また長くなると思うので、2回に分けてお送りする。



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R-2会議



R-2会議



先週末、マンハッタンのグリニッジ・ビレッジにあるニュースクール大学で開かれた『リミックス&リマスター:グローバル時代の黒人像と黒人メディアの配給』(Re-Mixed & Re-Mastered: Defining and Distributing the Black Image in the Era of Globalization)という会議に出席した。主催者はミッシェル・マテレ教授 (Prof. Michelle Materre)。過去25年に渡り、劇場公開・テレビなどの非営利・営利両方の分野で、配給・上映を通してアフリカ系映画制作者たちを支え、彼らが集えるコミュニティを創って来たパワフルな女性である。4月8日金曜晩と9日土曜全日にかけて、上映、公開討論会、ワークショップなどを通じて話し合われた主題は、「私たち黒人メディア制作者は、今後どうやって、主流に挑みつつ、自分たちの文化を映す作品を創り配給していけるのか」というもの。

私は2日目のみの出席だったのだが、1日目、金曜晩のプログラムでは新進気鋭の黒人女性監督エヴァ・デュヴァーニー(Ava DuVernay)の新作『I Will Follow』の上映&トークがあった。黒人の自主製作、自主配給を押しすすめる若きリーダー的な女性である。2008年に自主製作の長編ドキュメンタリー『This Is The Life』がトロント、ロス、シアトルでオーディエンス賞を受賞、その後ヒップポップやゴスペルの世界で生きた女性達を題材にした作品を作りネットワークに提供、アファーム(AFFRM, the African-American Film Festival Releasing Movement)という自主配給団体を起業し、仲間の黒人監督達とつるんでブラックシネマの配給の道を押し広げようと努力している。先月にはそこを通じて、彼女が脚本・監督の新作で初ドラマ作品の『I Will Follow』を全米の大手映画館に配給、全米でおそらく最も有名な批評家ロジャー・エバートから「愛する人の死を取り上げた近年の映画の中でもっとも優れた作品の一つだ。エヴァの描く物語はおセンチでも表面的でもない。実に深くリアルだ」と評されたり、ヴァラエティ誌、ニューヨークタイムズ、CNNにも取材されている。

これまでユニバーサルなテーマを追ったブラック・シネマは大手で配給されにくかったが、自分たちでできる、「心を動かせる」(We Move Minds)というのが彼女のメッセージだったようで、私が出席した2日目も、彼女が前の晩に言ったことに言及する人達が何人もいた。



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第一目から。R-2会議主催者のミッシェル・マテラ教授(左)とエヴァ・デュヴァーニー監督 写真はR-2会議のファイスブックサイトより転載。



ハリウッドと黒人



インディー配給に飛び込む前に、ハリウッドを中心としたメインストリーム(主流)映画界での黒人映画の位置について軽く見ておく必要があるだろう。60年代後半にスター・トレックのニョータ・ウフーラ役の女優を見て「ママ、ブラック・レイディーがテレビに出てるよ、でもメイドじゃない!」と叫んだというウーピー・ゴールドバーグや、70年代のビル・コスビー・ショーに影響を受けたエディー・マーフィーがハリウッド映画に登場し始めたのが80年代、86年にはスパイク・リーが『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット 』で衝撃の天才黒人監督として商業映画デビュー、その後もデンゼル・ワシントン、ウェスリー・スナイプス、モーガン・フリーマン、フォレスト・ウィテカー、アンジェラ・バセット、ウィル・スミス、そしてハル・ベリーなど次々にスターが生まれている(ハル・ベリー、クイーン・ラティーファが共にスパイク・リーの『ジャングル・フィーバー』で映画デビューしたことも興味深い事実である)。また、オプラ・ウィンフェリーもテレビ界の女王的な地位を築き、知的で社会的な黒人女性のイメージに貢献したと言える 。しかし、ヒット映画に出てくる黒人像はタフ・ガイやファニー・ブラック・ママやセクシー・レイディーというような型にはまった役柄が多かったり、また脇役として活躍することが多い。ナンセンス・コメディ系の総ブラック配役の映画はブラック・コミュニティ用の映画、といった印象が強く、実際に映画館に見に行くことは私自身ほとんどない。ブラック・ジョークは“内輪受け”で世界に通用しないという判断のもと、海外に配給されずにアメリカだけで終わる映画も多いようだ。黒人監督による黒人配役のいい映画が自主制作で創られても、“客層が少ない”という理由でか、または潜在的な差別意識か、従来の配給システムにも、最近は産業として成り立って来た自主映画配給システムにも、乗せてもらえることはほとんどないようだ。




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公開討論会ではオーディエンスも黙っていない


およそ100人の、肌の色が私より濃い仲間が集まり、それを熱心に話し合っているのを見ながら、あまりに違う歴史的背景ゆえ比較できないこととは知りながら、私は同じ有色人種として、何かうらやましい気持ちになった。 未来を築こうとする彼らの目の奥には、奴隷として連れてこられ長く虐げられて来たブラック・アメリカンたちの歴史的・政治的な深い哀しみと、60年代のアメリカ市民権運動とアフリカ独立運動の同時代性の中で育まれた“もともとは皆アフリカ人”という共通意識(Pan-Africanism)、また今では世界中に散らばった彼らの間に存在する「離散アフリカン」(African Diaspora)と呼ばれる独特の連帯感がある。視聴者の間にも、それは必ずある、自分たちの描く有色人種像を見たいと欲している人々が世界中に沢山いるはずだ、という祈りと信じる気持ちが溢れた集まりだった。




予習:配給面でのデジタル化の波



デジタル時代のアメリカ自主映画資金集め事情の記事では資金調達面にネットがどう使われているかに焦点を置いたが、配給方面でもまた、かなりの速度で状況は進化している。2000年代半ば頃にグーグルなどがネット上でビデオレンタルを開始したが、 ハリウッドが今ひとつ乗ってこず、採算が取れずに間もなくして閉めてしまった。インスタント・プレイ( 代金を払えばネット上で即座に映画を借りて見られるサービス)を我先に取り入れ業界をリードしてきたのはネットフリックスと呼ばれる宅配ビデオレンタル会社である(ここはインディー映画も相当充実している)。DVD宅配サービスが3枚貸し出しの場合返却期間自由でひと月20ドル程度なのに対し、インスタント・プレイ見放題だけのパッケージはひと月8-9ドルと安いが、まだDVDでしか見られないものも多い(特にハリウッドもの)ため、DVD宅配サービスを買うとインスタント・プレイ見放題 が無料でついてくる、という形態に現在のところなっている。iTuneストアでも、インスタント・プレイの映画レンタルとファイル・ダウンロード(料金はレンタルの3倍くらい)が単品購入という形でできる。今年2月にアマゾンがiTuneと同サービスをさらにTV番組も充実させて開始 、グーグルに吸収されたYouTubeが、いよいよハリウッドとつるんで有料ビデオ配信サービスを間もなく開始予定。これが始まると、ハリウッド映画もほとんどインスタント・プレイで観られるようになるのかもしれない。さらに現在アマゾンやネットフリックスなどがヨーロッパに進出、グローバル市場を次々に開拓中。日本にも進出準備が進められているようで、言語の壁があるのですぐにではないかも知れないが、これが起こると日本国内の映画配給の仕組みに大きな影響があるだろう。その他のデジタル化の波としては、無料部門では俄然影響力大のYouTube、見逃したテレビや昔の人気番組が好きな時に見れるhulu.comがある。またデジ録の普及(アメリカにもようやく)もデジタル革命が映画・メディア配給の様相を変えた一端を担っている。



それから、もっと小規模の個人経営のオンライン映画配給サービスも徐々に始まっている(これは第2回目の記事に登場)。消費者(視聴者)から見ると、これらの配信サービスを利用する場合に、自分のライフスタイルに合わせて、コンピュータのモニターや、ホームシアターの大画面で観るもよし、またベッドの中や電車でiPhoneやスマホで観る(見る、かな)もよし、ずいぶん便利な世の中になった。配給側から見ると、音楽業界で起こったのと同様、デジタル化は違法コピーに直に結びつくし単価も安いので最初は渋っていたものの、YouTubeやHuluの普及、電話・iPod、iPad、タブレットpcなどに大衆がこうも反応するとなると放ってはおけない、宣伝も入れて、タイアップして、ソーシャルメディアをフル活用して、新しい市場を構築するのにしのぎを削っている。




Netflix

ネットフリックス、タイラー・ペリーの『マデア牢屋に入る』のページ。右上の青ボタンが“今すぐ再生(インスタント・プレイ)”、そのすぐ下が“再生リストに加える”、赤が“DVD宅配希望”、白は“予告編を見る”。


配給面での D.I.Y.「ドゥ・イット・ユアセルフ」とD.I.W.O(ドゥ・イット・ウィズ・アザーズ)




では、制作者の視点で見たらどうだろう。この中のどれからコンテンツ・プロバイダー、とりわけ自主制作者が恩恵を受けているだろうか。しかも、金銭面での利益と、啓蒙やプロモーション面での恩恵は、分けて考えなくてはならない。後者的には、誰もが自分の作品をネットで配信し、見てもらえるようにはなってきた。ネットフリックスなどでインディー映画も大分流通されるようにもなってきた。特にここ半年で、インスタント・プレイになぜか自主制作のドキュメンタリーが急増している。インディー映画専門の配給会社も大小色々現れている。しかし、この新しい配給の世界も、大会社資本にどんどん牛耳られてきているのが現状であり、不特定多数の視聴者に自分たちの小さな作品の存在に気付いてもらうことは難しい。しかも単価が安いため、多数に配給されなければ、お金にならない。これは仲間の制作者から聞いたことだが、配給会社が勝手にネットフリックスなどにインスタント・プレイとして配給してしまい、インタント・プレイは 現在のところ“おまけサービス”的存在だからなのか、制作者には一銭も入らないらしく、配給会社に対し憤慨していた。



インターネットというものすごいハード・ツールは手の届くところにあるのだが、それをどうやって使えばいいのか、それが自主メディアのD.I.Y.(ドゥ・イット・ユアセルフ)運動の一つの大きな課題である。そして、マイノリティ(この会議の場合は黒人)制作者がそれを考えるとき、自分たちの作品を欲してくれるであろうオーディエンスは、必ずしもハリウッドのものばかりを欲している層ではないかもしれない(あるいは、他に手近にないので仕方なくハリウッド映画を見ている人達かもしれない)、だったらどうやって横の連携を深め、より大きな力となって自分たちの視聴者を開拓し、彼らにコンテンツを独自の方法で提供できるのか、つまり配給面でのD.I.W.O(ドゥ・イット・ウィズ・アザーズ)の方法論を探ろう、というのが、この会議の課題である。





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『男と女と精霊と拳銃』より。映画オフィシャルサイトから転載。



短編プログラム



まず最初の短編プログラムのラインアップは以下の通り:

『ハイチ:あの一日、運命共同体』(筆者訳:原題“Haiti: One Day, One Destiny”)─ハイチ地震の1ヶ月後、アフリカン・アメリカ人系公共テレビ番組支援団体NBPCの依頼で ハイチ生まれの女性監督ミッシェル・ステファンソン(Michele Stephenson)が現地を訪れ、地元目線での災害を描いた作品。

『MuseBK』(デモ)─恋愛・音楽・アート・サクセス・仕事などをテーマにブルックリンの黒人ライフスタイルを伝える新しいネットTV局のデモ。

『グロス』(原題“Gloss”)─とある大学機関のオフィスで働く女性監督ニコル・ドレイトン(Nicole Drayton)が職場のクレイジーな人間関係(人種も大いに関連している)の普段言えないようなことをレゴ・ブロックの人形キャラに劇をさせることで表現した風刺コメディ。

『ボデガ』(原題:“Bodega”)─ブロンクス出身のラティーノ系巨漢ヒップポップ青年ダラス・ペンが、 自らの子供時代の回想も含めながらブロンクスの貧乏人達を支え続けるボデガ(スペイン語“近所の店”)を相棒のラフィと訪れ、そこに売られる激安食品(と裏側の栄養表)を見ながら面白くコメントするYouTubeヒット作品。彼らはマクドナルドのスペシャル$1メニューをどうやってビックマックに変身させるかという話題沸騰ビデオも作っている。

『フライド・チキン・シネマ』(デモ、原題:“Fried Chicken Cinema”)─黒人御用達フードNo.1のフライドチキンを始めソウルフードのレシピを紹介しながら黒人向けのいい映画が楽しめる新しいネットTV番組。

『男と女と精霊と拳銃』(原題:“A Man, A Woman, A Genie, A Gun”)─間違った出口で高速を下りてしまいナイジェリア人地区に迷い込んだ若いアメリカ白人夫婦が、怯え争い、間違って銃を民家に打ち込んでしまい、結局“精霊”だと名乗るその家の住人に逆にだまされるというカンヌにも出品のコメディ作品。監督はナイジェリア生まれニュージャージー在住のCHUKS NWANESI。



……と、ブラック・シネマと一括りに言っても、ものすごく奥が深いことを示唆するプログラミングだった。アフリカン・アメリカン、カリビアン、大陸アフリカ人、それに有色系ラティーノも含めるとなると、その領域はかなり広い。カナダやフランスに住む黒人も仲間だ。






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『ボデガ』より。右が監督のダラス。左は相棒のラフィ。






『誰が黒人の物語を語るのか』公開討論会




ランチとネットワーキングを挟んで次のプログラムは、『誰が黒人の物語を語るのか?:黒人像は誰によって、どんな風に描かれ、どこへ配信されているのか』(“Who gets to tell the story?” Representation, appropriation and distribution of the Black image”)と題するパネル・ディスカッションだった。モデレーターは文学・女性学・文化学の分野の研究者トレーシーアン・ウィリアムス(Tracyann Williams)、パネラーは大衆文化で描かれる人種・性・社会的地位などについて研究するラケール・ゲイツ(Racquel Gates)、ブラック・シネマの配給会社を立ち上げブラック・シネマに関するブログで人気を博し黒人所有・運営のスタジオ映画会社の創設を呼びかける声明を国営ラジオで発表、自らが制作者/脚本家でもあるタンベイ・オベンソン(Tambay Obenson)、食物文化論の観点からフードとメディアの関係やフードに表れる人種・ジェンダーを論じる研究者でこの日唯一の純血白人パネリストだったイタリア人のファビオ・パラセコリ(Fabio Parasecoli)、そして、トリニダッド人の両親を持つイギリス人で、長年BBCラジオとテレビで制作し近年はトロントを拠点にカリビアン系の題材で制作した作品をテレビや映画祭で発表する他、子供向けのマルチメディア作品も多く手がけるフランシス・アン・ソロモン(Frances-Anne Solomon)。残念だったのは、年長の黒人女性パール・バウザー(Pearl Bowser)が体調不良で欠席だったことー彼女は1970年以来アフリカン・ダイアスポラ・イメージ(離散アフリカ像)というプログラムを立ち上げホイットニーやブルックリン美術館などでブラック・シネマ作品を紹介してきた人物だ。



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左から:トレーシーアン・ウィリアムス(モデレーター)、ファビオ・パラセコリ、ラケール・ゲイツ、フランシス・アン・ソロモン、タンベイ・オベンソン




ハリウッドで描かれる黒人像





まず、“誰が黒人の物語を語るか”に関し、「極端に言えば、ハリウッド型の主流の映画配給においては、ブラック・シネマにはオプションがない」という見方についてどう思うかが話し合われた。映画研究者であるラケールやファビオが指摘したのは、ハリウッドの作品は誠実に黒人像を描いているとはまったく言えないが、それでもそれらの作品は、制作者が意図しないところでブラック・コミュニティにとって特別の意味を産んで来た、ということだった。まずは、スピルバーグがアリス・ウォーカーの小説を映画化した『カラーパープル』。原作から歪められた部分(レズビアンの視点が削除されていたり、黒人男性が徹底的に暴力的で無責任と描かれている)があって原作者のウォーカーが主人公の女性像の単純化などについて気に入らないことを表明したり、アカデミー賞11部門にノミネートされロジャー・エバート等有名な批評家がその年の最優秀作品と評していたにもかかわらずなぜ受賞しなかったのかなど、物議を呼んだ作品だ。しかし、この作品が存在することで、黒人コミュニティ、特に女性達の間で自分たちの体験について話をするきっかけができ、色々な意味でブラックピープルにとって特別な意味のある作品であった、と二人が話した。



また、エディー・マーフィーの『星の王子 ニューヨークへ行く』も白人監督のジョン・ランディスによって製作されているが、エディー・マーフィーのアドリブには作者の意図に関わらず黒人コミュニティ共通の気持ちが勝手に表されている、という指摘もあった。ファビオがディズニー初の黒人プリンセスの物語『プリンセスと魔法のキス』(米2009)と『キリクと魔女』(仏1998)で描かれる黒人像の違いについて指摘し、後者の黒人像は前者より誠実であるように思えると言ったのに対し、残りのパネラーがそれに乗ってこないのはなぜだろう、と感じたのだが、これはおそらく両作品とも白人監督の作品なので、このパネルではあえて突っ込んで話すことではない、という判断だったのではないかと思う。後で調べたら、前者は黒人監督の別作品からの盗作の疑いが強く、また当初の脚本では主人公がもともとはフランス人の一家のメイドだったり、白人のプリンスと結ばれる設定になっていて黒人コミュニティからバッシングがあったため、背景も改め黒人のプリンスに変更、しかしプリンスが黒人の男らしくない、ナヨっとしている、など文句も出ているらしい。まるで知らなかった。『アラジン』などで差別主義を批判されているディズニーの作品だから、納得はいく。後者はフランスのアニメ作家の美しい作品で、フランス人白人監督のミッチェル・オセロットは幼少時代を当時フランスの植民地だったギニアで過ごしており、その頃の影響でアフリカの民話に基づいてこの作品を創ったという。




Carribean Tales

フランシス・アン・ソロモンが設立・主宰の「カリビアン・テイルズ」のサイト。教育用ビデオ&マルチメディア製作・映画祭・配給と活動は多岐。




どうやったら本当の黒人像を主流文化に反映できるのか




聴衆の一人がタンベイのブラック・シネマのためのブログ(Shadow And Act)を絶賛した後、ブラック・シネマと言えばタイラー・ペリーかクイーン・ラティーファなど超数少ないセレブに代表されてしまっていて他にない、どうやったらもっと数多くの黒人監督や俳優がメインストリームに入り込み、生活を立てられるんだ、と質問した。それに対し、タンベイは「僕はもうずうっと前から、ハリウッド型のモデルは捨て、既成外の新しい仕方でブラック・コンテンツを作り配給し、自分たちで盛り上げて行くことを考え、実践している」と答えた。箱の外に何があるか考えろ(Think outside of the box)ということだ。彼のバッググラウンド(前々段落参照)を考えると納得できる回答だ。彼はさらに最近では、3000ドルと小額ではあるが、NYU映画科の黒人大学院生などに制作援助をし、彼らの作品の配給を応援しているという。

また彼によれば、自主制作者への配給環境が整えば、大きなお金にはならなくても、いい長編作品を一本撮ったら、その配給から普通の暮らしができるくらいにはなるはずだという。フランシス・アンはまたその環境を整える上での横のつながりの大切さについて強調。資本がないのだから、つながり、皆でやるしかない。マーケティングにつきる。どうやって皆で売り込んでいくか、ということだ、と。タンベイがそれに付け加えたのは、とにかく沢山の作品を創り続けること、より複雑で広大なブラック・エクスペリエンス(黒人としての人生)を映像化していくこと、そして自分たち黒人はこちら側だけじゃなく、向こう側(アフリカ大陸)にもいる、ということを絶えず念頭に置いておかなくてはならない、ナイジェリアでは小さいけれども“ナリウッド”と言われる映画産業が興っている。自分たちから見ると説教臭くてメロドラマ調で、笑っちゃうものもある。でも、彼らは同胞だ。それに、ヨーロッパ、カナダ、アジア、南アメリカなどでも亜流シネマが興っている。点と点をつなげば線になる。とにかくたとえ50万円くらいしか資金がなくても、何か創ることだ。フランシス・アンが続けた。そうよ、とにかくハリウッド・モデルを捨てることよ。そして私たちとつながりたい人達とつながるのよ。世界のマーケットは巨大だわ。アフリカでも、ナイジェリアや南アフリカには大きなマーケットがある。インドもそうよ。タンベイがつけ加える。トーマス・イキミ(Thomas Ikimi)という若手黒人監督が去年長編ドラマを撮ってBAM(Brooklyn Academy of Music─質のいいアート作品を上映/上演することで知られる映画/劇場)で上映されたけれど(ここで聴衆から“超よかった Awesome!”とかけ声)、彼はナイジェリアから50万ドル(400万円強)を集めてそれで創ったんだ。ウッディ・アレンやジム・ジャームッシュだって外国から資金を調達してるだろう。僕たちだってできるはずだ。Look outside of the box─箱の外を見ろ!



Shadow And Act

タンベイ・オベンソン主宰のブラックシネマ・ブログ『Shadow And Act』






タイラー・ペリー





この日、最多数回、最低でも20回くらい名前がでてきたのがタイラー・ペリー。黒人セレブ監督の代表格のようである。最初、ピンと来なかった。話を聞いているうち、ちょっと前にBAMでやっていたブラック・コミュニティ伝説の戯曲『For Colored Girls』をついに映画化した若手監督であることがわかった。見に行きたいと思いながら見逃してしまった作品で、色んなひどい目に合った8人の黒人女性達が強く生きて行く内容だった。監督についての記事を読んでいたことも思い出した。南部出身の彼自らが父親からの家庭内暴力を受けて育ち、オプラ・ウィンフェリーの「書けば癒される」という言葉をテレビで聞いて刺激され、若くして自分の体験をもとに戯曲を書き始める。90年代以降アトランタで劇作家、舞台監督、自らが女装して演じるマデアというおばちゃんキャラが受けてシリーズ化し、黒人コミュニティで圧倒的人気を築く。2005年にそのあまりの動員力にハリウッドが目をつけ、商業映画に進出。以来、黒人コミュニティ専用とも言える内輪受け系映画にもかかわらず、出す作品はすべてボックスオフィス・ベスト10入り。今ではハリウッドで長者番付高位につけ、今をときめく美人黒人女優を沢山使い、ジャネット・ジャクソンやウーピーも出演、特に黒人女性に圧倒的人気を誇っている監督、と書いてあった。 にもかかわらず、ハリウッドが海外では売れないと判断してプロモートせず、日本にも一本も輸入されていない。また、サンダンスで注目された『プレシャス』(これはオスカーも受賞したので日本で昨年公開)というハーレムの太った女の子の映画を、オプラとタグを組んで応援し、それによってその映画が広く知られたことも書いてあった。




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タイラー・ペリー扮するマデア(『マデア牢屋に入る』ポスター)とタイラー・ペリー本人 写真ソース:http://theurbandaily.com/movies/the-urban-daily-staff/video-tyler-perrys-i-can-do-bad-all-by-myself-trailer/





パネラーの方々、特に学者たちはどちらかというと彼に批判的で、ほぼ総ブラック・キャストでスタッフもブラックという経済効果は素晴らしいし、黒人のための黒人映画で商業的成功を収めているという新境地開拓の功績は認めるけれど、ひ弱で経済力なくおどけてしまう黒人男性や、大きくて強くて人の言うことを聞かないブラック・ママの描き方、また貧困や、問題を抱えた家庭など黒人に対するステレオタイプを増幅させてしまっているのではないか、という懸念のようだった。家に帰って調べたところ、スパイク・リーが最初は応援していたものの、数年前から同様な批判をしているようで、イメージが古い、本当のブラックはもっと色々だ、というようなことを言ったようだ。それに対しペリーは侮辱だと憤慨し、そういう態度が問題の深刻さを軽視させ、こんな人達は存在しないんだとハリウッドに思わせてきたんだ、と反論したと言う。またオプラはペリーを擁護し、「強い黒人女性に育てられたのね。彼のマデアや他の作品は黒人女性像をあがめるものばかり。そういう、私が知っているような様々な強い黒人女性たちのこと、きっと(読者の)あなたもご存知でしょう?なぜ人気があるかといえば、私やあなたみたいな女性像が投影されているからよ。」(NYデイリーニュースより)と言ったそうだ。



パネラーの討論を聴いていた聴衆の一人、学校の先生をしているという女性が、道端の違法ビデオ売りからタイラー・ペリーを買っている女性に誰それ、と尋ねたら、「タイラー・ペリー、知らないの?」と驚かれ、現代アートに心得のある妹に聞いても「タイラー・ペリー、知らないの?」と同じ反応、70年代のエド・サリバン・ショー時代に子育て中だったおばさんに聞いても同じ、黒人が創って黒人に見せる映画などない時代を生きてきたおばさんにとっては、彼はオバマと同様、黒人の誇りなのだという。そしてその先生が感じたのは、オーディエンスには幾つもの層があって、それぞれの層の人が違う意味をくみとりながら皆タイラー・ペリーを愛している。だから、制作者としては、自主制作配給の共通モデルを探すよりも、まず自分のオーディエンスを知ることが大事なのでは。例えばブラック・コミュニティ内にも、知る人ぞ知るオタク文化が沢山ある、車オタク、バス旅行オタク、などなど。だから、それぞれの制作者がそれぞれのオーディエンスを探して作品を届ける方法は、まだまだあると思うし、自分たちのコミュニティ内で話す機会をもっと作ってお互いを知れば、ほしいものも届けやすくなるのでは。この先生のコメントには、皆が拍手をした。





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右から:回答するタンベイ、フランシス・アン、ラケール




反ハリウッド?




「さっきから聞いてると、反ハリウッドとか、主流に逆らってとか言っているけど、ハリウッドを変えよう、主流を変えようとはどうして思えないの?どう考えても、 黒人の映画だって、白人の映画みたいに世界共通の娯楽になり得ると思うんだけど?」と挑んだ聴衆もいた。それに対し、フランシス・アンが言ったのは、「別にアンチなわけじゃないわ。待たずに自分のストーリーを語りたいだけ。私はBBC(イギリス国営放送)に15年勤めたわ。BBCはおそらく、世界でも最も人種差別的な組織、また同時に文化的にとても豊かな組織、その渦中に身を置いてものすごい経験をさせてもらった。最初は“人種差別なんか私が撤廃してやる”と思ってた(オーディエンス笑 )。“有色人種たちの像(姿)をマスメディアでバンバン流してやる”と思ってた。でも、完全に負けた(オーディエンス爆笑 )。だから、今こうして人生を取り返しているのよ(オーディエンス再爆笑)。今の時代に生きて、テクノロジーを通して、自分たちのオーディエンスに直接アクセスできるようになった。だからそれを使わない手はないと、本当に思うの。」タンベイの返答は「ポール・ローベソン(20年-50年代にアメリカで活躍した黒人俳優、オペラ歌手、市民権運動家。ロブスンと訳されているようだ)から始まってスパイク・リーまで、それに白人や黒人やその他の学者達も、皆長年ハリウッドを変えようと戦って来た。でも、現実にはほとんど何も変わっていない。そればかりか、90年代初頭のブラック・ルネサンス時よりもむしろ状況は悪化しているように見える。不可能な夢なんだ。これまでも同じ討論、同じ会話、同じ戦いをしてきた人達が大勢いることを忘れてはいけないと思う」。




Leda Serene

フランシス・アン・ソロモンのシネマ・プロダクションのサイト「レダ・セレーン・フィルムズ」。彼女はかっこいい。



第2部では、ネットを利用した自主配給ワークショップ(ビデオ・オン・ディマンド、ウェビソード、デジタル・ダウンロード)と、『これからどこへ向かうのか』と題したこの日最後の公開討論会の模様をお伝えする。ゲストパネラーは日本では知られていないが米自主制作コミュニティでは評価の高い実力派黒人男性監督2名と、黒人シネマをプロデュースしフォーカス・フィーチャーズという大手主流の配給会社と提携して契約を取り付けているやり手の黒人女性プロデューサー、南アフリカ出身で政治科学の分野でメディア・グローバス化・民主化の接点について研究する学者、ナイジェリア出身の エンターテイメント弁護士(MITで工学士、コロンビアで法学士、MBAと学歴もすごい。しかもNY州の弁護士免許も持っている)で、アフリカ全土にまたがる低所得者層へのデジタルシネマ配給システムを構築する会社のCEO。そして最後に、近年見た中で私が最も“いい映画”と感じ涙を流しまくった映画の上映会の模様。しかもその作品は、ほとんど世界に発信されていない。お楽しみに。




(文章:タハラレイコ 写真:記載以外はタハラ)










リンクス


R-2会議フェイスブックページ:

http://www.facebook.com/R2conference



近々こちらに会議のビデオ・ストリーミングも載せるそうなので、乞うご期待。

http://www.youtube.com/user/thenewschoolnyc



デジタル時代のアメリカ自主映画資金集め事情についてはこちらを参照ください。

http://www.webdice.jp/dice/detail/2748/



エヴァ・デュヴァーニー関連:

『I Will Follow』劇場公開予告編


[youtube:QaxPNFou7js]

ロジャー・エバートのお薦め映画サイトで流れされている『I Will Follow』をエバートが批評したビデオ:

http://www.ebertpresents.com/movies/i-will-follow

エヴァのフィルムメーカーサイト

http://www.avaduvernay.com/

CNNインタビュー

http://www.cnn.com/video/data/2.0/video/bestoftv/2011/03/14/nr.i.will.follow.cnn.html



ショート・プログラムで紹介された作品関連のサイト:

『ハイチ:あの一日、運命共同体』(筆者訳 原題:“Haiti: One Day, One Destiny”)

http://blackpublicmedia.org/watch_min2.php?id=0_q5qgojxw(作品が見れる)

http://blackpublicmedia.org/haiti(シリーズ企画のサイト)



『MuseBK』

http://musebk.tumblr.com/



『グロス』(原題:“Gloss”)

http://www.glossfilm.com/



『ボデガ』(原題:“Bodega”)

http://www.rockthedub.com/2007/01/oh-word-dallas-penn-present-bodega.html



[youtube:11nsZ3lEWD0]

『ゲットー・ビッグマック』(ダラス・ペンの別の作品)


[youtube:QO6Bq4lQRZ4]

『フライド・チキン・シネマ』

http://friedchickencinema.com/

http://iiieyedigital.tv/ (主宰者Regi Allenのその他の活動)



『男と女と精霊と拳銃』(原題:“A Man, A Woman, A Genie, A Gun”)

http://www.manwomangeniegun.com/



パネラー(プロダクション関連のみ)サイト:

フランシス・アン・ソロモンが設立・主宰の「カリビアン・テイルズ」のサイト

http://www.caribbeantales.ca/web/



同じくフランシス・アン・ソロモンが設立・主宰のテレビ・一般上映用カリビアン・シネマ・プロダクションのサイト「レダ・セレーン・フィルムズ」

http://www.ledaserene.ca/web/



タンベイ・オベンソンの主宰するブラックシネマ・ブログサイト『シャドー・アンド・アクト』

http://www.shadowandact.com/



記事冒頭の写真は私が観た近年の作品で一番よかった映画『看護婦、ボクサー、少年』より。写っているのは主演のキャレン・レブランク・ロッカー。この作品については次回リポート

http://www.nursefighterboy.ca/











■タハラレイコ PROFILE


東京、吉祥寺出身。91年イリノイ大へ奨学生留学渡米、92年からNY。94年以降は夫の上杉幸三マックスと二人でドキュメンタリーや実験映画を製作。マックスと共同監督の『円明院~ある95歳の女僧によれば』(2008)は、ハワイ国際映画祭でプレミア後、NY、日本、スリランカなどの映画祭やギャラリーで上映、2011年夏にポレポレ東中野で公開予定。NY近郊の大学・大学院でドキュメンタリー史、制作、日本映画史などを非常勤講師として教えている。2010年夏より始まった宇野港芸術映画座上映シリーズ「生きる、創る、映画」( http://unoportartfilms.org , http://www.facebook.com/UnoPortArtFilms )は宇野港に拠点を移した上杉とブルックリンに暮らすタハラの共同プロデュース(+13歳の娘手伝い)で、毎年世界各地からの心を揺さぶる秀作品を紹介していく家族再会イベント(ボランティア・スタッフ募集していますので、ご興味のある方はご連絡されたし)。


公式サイト

webDICEユーザーページ




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アジアの血を引く女性の視点で見たウガンダ─世界の映画祭をまたにかけるキミ・タケスエ監督が連れて行くところ http://www.webdice.jp/dice/detail/2847/ Sat, 22 Jan 2011 22:34:39 +0100
キミ・タケスエさん。マンハッタン・ミッドタウンのカフェでインタビュー取材。(撮影:タハラ)

ハワイ出身マサチューセッツ育ちで日系3世の父、白人アメリカ人の母親を持つ映像作家、キミ・タケスエ(Kimi Takesue)。若く見えるが、経歴を見れば過去16年、地道に制作を続け着実に世界に認知されてきている実力派である。これまで作った7作品(”Bound”1995、”Rosewater”1999、”Heaven’s Crossroad” 2002、 “Summer of the Serpent” 2004、 “E=nyc2” 2005、 “Suspended” 2009、 “Where Are You Taking Me?” 2010)はサンダンス・チャンネル、インディペンデント・フィルム・チャンネル(IFC)、米公共放送で放映されたり、またサンダンス、ロッテルダム、ニューディレクターズ/ニューフィルムズ、ロカルノ、バンクーバー、ロンドンなど世界の名だたる映画祭や美術館などで上映されている。また、スラムダンス映画祭でスラムダンス・スピリット賞、ブルックリン国際映画祭で審査員特別賞、ブラック・マライヤ映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞など、受賞歴も豊富、栄誉あるグッゲンハイム財団フェローに選ばれた実績もある。フィクション、実験映画、ドキュメンタリー、とジャンルは多岐にまたがる。今回の記事では、最新作で初長編作品の『Where Are You Taking Me?』をご紹介し、NYを拠点に世界を飛び回るキミ監督の生の声をお届けする。


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“Where Are You Taking Me”より (撮影:タケスエ)

最新作”Where Are You Taking Me?”を見て


ロッテルダム映画祭のコミッションで制作されたというこの作品『Where Are You Taking Me?(筆者訳:私をどこへ連れて行く?)』は、キミが2009年にウガンダを訪れて撮影した作品である(あまりジャンル分けはしたくないが、読者のために一応実験ドキュメンタリーとしておく)。DVDの紹介文を読むと、ウガンダの首都カンパラで監督が見つけた人々の日常と、反政府軍に誘拐され兵士として戦わされたトラウマを持つ子供達のための避難/リハビリ学校のことが書いてあった。また、カメラを通して見る者・見られる者との関係を探り、何を探しているのか、何を見つけたのかを視聴者に問いかける作品、とあった。キミ・タケスエと言えば名前は知っていたが、これまで作品を見る機会はなく、ぼんやりと実験映画を作る監督だろうと思っていた。ビジュアルがすごいらしい、しかもパナソニックAG-DVX100Aというプロ用ではあるが今ではかなり旧式のミニDVカメラで撮影したらしいという前評判を、キミの友人である映像作家仲間から聞いた。


それ以外何の先入観もなくその友人と一緒に作品を観て、その友人と一緒に吹き飛ばされた。息を飲むようなビジュアル(色、フレーミング、miniDVだなんて、信じられない!)、印象派絵画のような美しい構図(長回し)の中で立ち止まったり立ち止まらなかったりしながら行き交う人々がカメラ─キミ自身─私たち視聴者に投げかける視線、色彩に溢れて生き生きとしたウガンダの人々の日常(ホテルでの豪華ウェディング、動物園を訪れる子供達、重量挙げ女性チャンピオンシップ大会、カンパラの市場など)、そして作品真ん中から後半に置かれた、元子供兵士で現在学生の子供達の学校での日常と、ほんの短いが忘れられないインタビュー・セグメント。そしてまた続く街の日常。万華鏡を覗くように、次は何が映し出されるのかを前の絵とは関係なく楽しみにし、徐々にそれらの繋がり、そして作り手は一体どこに私たちを連れて行くのか、私たちが他者の姿を見るのは何のためなのか、をゆっくりとした時間の流れの中で考えさせられる作品だった。3日間くらい、残像が頭を駆け巡った。


その後キミ監督が快く取材に応じてくれたので、フォルムメーカー仲間の対話という形で取材させてもらった(取材は英語で行われたので、本文の彼女の言葉はすべて筆者訳)。彼女はとても知的な人で作品は複雑なので、多少難しく感じる読者もいるかもしれないが、最後まで読んでくれた人にはキミに関する驚きの事実が待っている、ので最後まで読んでね!


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作品のポスター/DVDカバー(デザイン:リチャード・ビーナン Richard Beenen)

作品のできた経緯


──まず、この作品ができた経緯を教えてください。


過去にロッテルダム映画祭に私の作品3-4つが上映されていたので、そこのキュレーターの一人ガーティアン・ズイロフ(Gertjan Zuilhof)とはもともと知り合いだったの。2年前に短編”Suspended“(何かを待っている人々の映像コラージュ)をロッテルダムで見せた時に、彼からこの国際的プロジェクトに参加しないかという話があった。企画の内容は、ロッテルダムで今後アフリカ映画に力を入れたいのだけれど、調査をしないと全体像がつかめていない。特にフランスの植民地だった国(ニジェール、セネガル等)を除いては映画産業が発達していないため(筆者注1参照)、それらの国の映画は西側に伝わって来ていない。そこで、過去にロッテルダムで作品を紹介した世界中の監督の中から、一度もアフリカに行ったことのない12名を選び、それぞれの国の映画制作状況と制作者を調査、交流してもらい、見つかったアフリカの新進監督たちをロッテルダムのスタッフに紹介してもらう、そしてそのついでに、12名の映像作家には現地で作品を一本ずつ作ってもらう、というものだったの。


内容は現地の印象でも地元制作者とのコラボでも何でもよかったんだけど、予算は本当に少なくて、ほぼ航空費とホテル代のみ。あとは基本的に自分一人で作品を撮影・編集・仕上げできる人、というのが条件だったの。私がウガンダに行くことを選んだ理由はまず第一にもと英領で英語圏だということ、第二に首都のカンパラは比較的安全らしいこと、これは私は女だし、一人で撮影することが多いから重要だったの、そして第三に、親しい友人の一人にブルックリンの”651 Arts”というアフリカン・アート伝承のための非営利団体を運営している女性がいたので、彼女を通じてウガンダのアーティストを紹介してもらうことができたから。結果、そこで紹介してもらったアーティストの一人がダンサー・振付け師のオケロ・サム(Okello Sam オケロが姓)で、彼がホープ・ノース(Hope North)という元兵士や戦争孤児の子供達のための寄宿学校をウガンダ北部に創立した人物だったので、本当にそのご紹介が役に立ったの。そういうわけで、2週間半-3週間、ウガンダに行って創った作品がこれです。


じゃあ学校のことは撮影に行く前から知っていたの?


ええ、それだけはわかっていたことだったの。でも、この話を受けるにあたって、とにかく前もってアジェンダを決めたり、これについての映画を作ろう、というアイデアや期待を持ちたくなくって、ルーズに有機的な感じで制作を進めたかったの。確かにオケロ・サムが事前に持っていた数少ないコンタクトの一人ではあったし、彼の背景(注2)も知っていたのだけど、それに焦点を当てたくはなかった。戦争とか子供兵士の体験に重きを置いた作品を創りたいわけじゃなかったから。でも、その学校を訪れたいとは思ったし、結果として、子供達のことをセンセーショナルに取り上げるのではない形で作品中に収めることができたんじゃないか、と感じてる。でもそこに行けたのは、親しい友人がオケロに紹介にしてくれて、校長である彼が自ら私をそこへ連れていってくれ歓迎してくれたからこそできたことなの。学校に滞在したのは4日間だったと思う。


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カメラの前に集まる子供達(撮影:タケスエ)

アジェンダを持たずに紡いで行く手法


──どうして前もってアジェンダを決めていきたくない、と思ったのですか?いわゆるドキュメンタリーの多くは、アイデアがあって、リサーチして、ストーリーラインまで撮影前に決める場合もあったり、それにそぐうイメージを探して撮ったりするものもあると思うんですが、それへの反発?


撮影を通じて探索し紡いでいく(exploratory)作品にしたかったの。実はその頃、私がある小説をもとに書いた脚本でドラマ映画の製作の話が進んでいて、それはNYを舞台に、一人娘を亡くした日本人のかき氷売りの男性とアメリカ人のキャバレー歌手の女性との間のラブストーリーなのだけど(豊川悦司が主演を承諾しているらしい)、それはまだ実現してないプロジェクトなの。そのプロジェクトのために私はその頃、莫大な時間と労力をかけていて、そのことを考え過ぎて話し過ぎて神話化してしまって、ストーリーが魔法を失ってしまったかのように感じていたの。それもあって、この作品はまったく違うアプローチでやろう、と思ったの。でもそれだけじゃなく、ドキュメンタリー制作で皆がやっているような、何かのアイデアを持ってどこかへ行って、自分の言ってほしいことを言ってくれる誰かを探して撮影して目的を果たす、そういうのが私には作為的で押しつけのように感じられるし、時には乱暴に思える。そういう作品が全部よくないと思っているわけじゃないの。中にはとても面白いと思うものもある。でも私は、振り出しに戻って、直感でもって環境や周りのできごとに反応して行こう、みたいな決心と興味があった。その中で特定の選択をし物事を特定の見方で見ていく自分を表現したかったので、予想を立てたくなかった。


ただ一つ私の心の中で明確だったのは、アフリカやウガンダの惨状に焦点を当てたくない、ということ。アフリカの像として繰り返されるセンセーショナルで典型的なイメージづくりに貢献なんかしたくない、と思ってた。私たちが普段ニュースで見るアフリカのイメージと言えば、貧困、内紛、子供兵士、エイズ、腐敗政治……自然とそういう認識になってしまっているでしょう?それだけの訳はない、と思えるはずの知識階級の人達でさえも、私の映画を見て実際にとても驚くのよ。 わかる、わかる、こういう時あるよね、とか、そういう、何てことはない、複雑でニュアンスに満ちた日常。そりゃあ恐ろしい出来事はあるけれど同時に美しいことも沢山あって、そういう小さな瞬間たちを捕らえたかった。それって案外大切だと思うの。


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ウガンダの子供達を撮るキミ(撮影:ズイロフ)

撮影


──撮影は一人でやったの?


私の撮り方は、大抵土にへばりつくような感じのローアングルでフレームを決めて、座って、何かが起こるのを待つ、というもの。最初はカメラを珍しがって寄ってくる人がいて、それもそれで作品に入っているけど、そのうち皆慣れて風景の一部になったり、とにかくしばらくかかるの。それで、普通は一人でやるんだけど、今回は実は事情が少し違っていて、ロッテルダムのプログラマーでこの企画の首謀者であるガーティアンが撮影に同行したいというので、二人のことが多かったの。自分が選んだ12人の制作者がそれぞれどんな過程で作品を作るのかが見たかった、プロジェクトに参加したかったのだと思う。だから、あまり放っておいてもらえなかった。それで、ちょっと調整が必要だったわ。プレッシャーをかけないように彼はすごく気を遣ってくれたのだけど、やっぱり退屈しているんじゃないか、もう次に行きたいんじゃないかって、私の方も気を遣ってしまった部分もあった。でも、移動や荷物運びや撮影交渉など助かった面も多くあったわ。


──その彼は、白人の方?


そうよ、オランダ白人。だから、その人といることで、私も大分目立ってしまって……一人でいたってどちらにしても白人に見られたことにはかわりはないのだけど。たとえ私は半分日本人でも、白人アメリカ人としてしか見られなかった。


そうなんだ。私にはキミは白人には見えないけど。


私もそう思ってはいないんだけど、でもウガンダでは、大抵のアメリカ黒人だって白人とみなされるわ。


──えー、そうなんだ


うん、だって肌の色が薄いから。ウガンダでは皆が黒人、肌の色が黒いもの。


──じゃあ、アジア人はどう受け止められているんだろう?


私がもっとはっきりアジア人、例えば中国人に見えたらまた違っていたんだと思う。今中国がアフリカにもものすごく進出していて、工場とか建っていて、アフリカ人と中国人間の関係がおもしろいことになってるから……テンションもあり、混じり合いもあり。私の中のアジアを見抜く人も多少いたけど、大抵は白人と見られた。話が少しそれるけど、実はロッテルダムのプロジェクトの次段階はそのことに関連していて、ガーティアンは私たちの旅で見つけたアフリカのフィルムメーカー達をその後中国に連れていって、中国についての作品を作らせている。そして次には中国人のフィルムメーカーをアフリカに連れていくんですって。


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カンパラで撮影するキミ

──キミが被写体を選ぶ基準というのは何?


おもしろいと思えるものなら何でも撮った。時には撮る内容自体がすごくおもしろいこともあった。例えばホテルの宴会場で行われていた女性の重量挙げチャンピオンシップ。あれは、別のホテルでドリンク休憩していた時、街で起こっている会議の広告とかが貼ってある中に、一枚重量挙げの広告があったの。そこは、アフリカ中から集まった女性重量挙げ選手が泊まっているホテルだったみたいで、あちらこちらにそれらしき人達が歩いてた。それで、おもしろいから撮ろう!ってことに決めたり。でも例えばオープニングの町中の上から撮った交差点なんかは、ただ人が歩いて行き交っているだけだから、大抵の人にはおもしろくないかもしれない。でも私には、 社会のあらゆる階層の雑多な人達がすれ違っては織りなすダンスみたいな、人々の間のありえないような接点、組織化された混沌、そういう場所ってある意味文化の総体、まとめであるように思えるの。忙しくて、ガチャガチャして、でも皆自分がどこから来てどこへ行くのか実はちゃんと知ってる、この内緒の世界、皆どこかへ向かっている、それって作品のタイトルにもつながるんだけれど、ビジュアル的に交差点というのは私にとってとてもおもしろいもの。そういういろんなものの寄せ集めで撮影していったの。


──色、は被写体を選ぶのに重要な要素だったの?


もちろん。ウガンダの色は強くてビビッドで、素晴らしかったわ。人々の服など。この作品の一つのモチーフに、見る人の方向感覚を失わせること、というのがあったの。どこに行っているのかわからない、どこにいるのかわからない、これもタイトルとつながっているんだけど、わざわざそうさせたかったの。それからゆっくりと、居場所が明らかにされる─例えばたくさんの色が見えて、それが男の人の顔の前を交差している。彼は彼独自の世界に没頭していて、布たちとそのあざやかな色が彼の顔を覆い行き交っている(リンク集のトレーラー参照)。それからカメラは引いて、彼が布売りで布をバサバサと宙に投げていたことが明らかになる。タイトルも示唆しているように、作品自体がジャーニーだから、その場所の体験そのものに見る人を置きたい、だからその場所の色や音が強調されているの。


──タイトルの示唆するもの


──じゃあ、タイトルは、私の解釈では、あのインタビューで元兵士の男の子がキミをまっすぐ見て尋ねた『僕を連れて行ってどうするの?』という言葉であり、また見る者としてキミに向かって言う『私をどこに連れて行くの?』だと感じたんだけど、他に見逃している意味はなに?


彼らが『私をどこに連れて行くの?』と聞く時には、スピリチュアルな意味のこともあった。写真の概念が違う、誰かを写真に写すというのは、誰かの魂を奪うこと、それが理由で写真に撮られたくない文化圏の人達って結構いるでしょう?例えば市場であった少年が「僕をどこへ連れて行くの」って聞いたのは、僕の魂をどこへ連れて行っちゃうの、という意味だったの。タイトルに関連してもう少し言えば、一方で道に迷いどこにいるのかわからなくさせながら、一方で驚きを与えたかった。ウガンダと聞いて連想するものじゃないものをこの作品は見せる、皆が見たことのないウガンダの新しい一面、新しい見方を呈示することで、見る人に挑み続けたい。


同時にこのタイトルは、作品中数カ所ではっきり提起されているように、ドキュメンタリーの本質について疑問を投げかけるーつまり、他者の像を切り取って自分のものにして何に使うのか、その像をどう操作して、どう広めるのか、そういう倫理的な質問、簡単に答えられないし解決のない大きな疑問。それはどうしてもそこにあるわけだけれど、少なくとも私はそれを質問として作品中で触れたいし提起したい。そうすることで、自分が作り手として、また視聴者として、他者の像をどう消費するのかが多少でも変わってくると思うの。何が正しくて何が間違いか、何が境界線を超える行為で何が超えない行為かははっきりしないから、人々がカメラに写りたがっていないところさえも作品に入れた、だってそれが現実。写されたくない人がたくさんいたし、彼らの多くはとても懐疑的で、私が彼らを撮っている理由を考えればそりゃあそうだと思えるもの。


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カンパラでの撮影(撮影:ズイロフ)

理論と実践の微妙なバランス


──この作品を見ながら、他の今まで見てきているドキュメンタリーと呼ばれる作品も、カットされた部分をもう一回集めて再編集したらこんな場面が沢山あるんじゃないか、と思った。こういう風に編集することもできるけれど、大抵は皆“客観的”な“真実”に見せかけたいから、そう言う場面はカットするでしょう?ある意味、この作品って、制作の真実のオルタナティブ・テイク、だよね?


それも微妙なところだと思うの。だって自分を入れ込めば(self-reflexivity) いいってことでもないもの。制作の過程や制作者本人の存在を作品中に見せたり感じさせることで被写体に対しての責任をちゃんと取ろうとする、アイデアとしてはわかるけど、保身のためだけにそうしている人も多いでしょう?それって独りよがり(me jerk practice)よね。それもしたくないから、ますますややこしい。どのくらいまでが正しい行動で、どこからが自分本位になるのか、そのさじ加減が本当にデリケートで難しいところだと思う。


──うぐっ、何だか心に響くなあ。その境地にたどり着くには過去に痛い体験もあったとか?


ずーっとそんなことを考えて制作してきた。どうやったら複数のレベルでオーディエンスを惹き付けられるか、に興味があるの。惹き付ける要素には物語性もあるし、美もあるし、感情もある。知性やコンセプチュアルなレベルで惹き付けることもできる。私は、見る人が、それぞれの感性でそれぞれのレベルでおもしろいと思ってくれるような、そんな自由のある作品が創りたい。知的な要素は大切だけれど、頭でっかちにならないようにしたい。そのいろんな要素の微妙なバランスを見つけることが、私の人生の挑戦ね。理論に入り込みすぎるとがんじがらめで身動き取れなくなってしまうから、自分に正直に感じるままに、を心がけてる。過去にそう感じた時期があった。体が麻痺して動けなくなっちゃうみたいな。これもできない、他の国や文化を描いちゃいけない、「他者を描くことの複雑さを知ってる」ってオーディエンスに伝えないといけない……そうしているうち、“わかってる”ことを証明することが目的になってしまって、でもそれって、超少ない人数でのうちわの会話みたい。そこからどこにも行けない。だから、ある時点で自分は制作者として被写体に自分なりの仕方で誠実に接している、って自分を信用してあげないといけないと思うようになった。


それでも問題がないわけじゃないし、問題は起こる。今回だって考えすぎるとまた、アフリカを旅してウガンダを見せている自分は誰なのか、彼らのことは彼ら自身が伝えるべきなのじゃないか、と空回り状態に陥ってしまうから、 私のした体験をそのまま伝えることしかできない、私の目線で見たものを届けることしかできない。ウガンダやウガンダ人のために彼らに代わって何かを言うなんて、自分にその資格があると思えない。反発や抵抗のいろんな瞬間やその正当な理由や疑問を作品中に含みながら、絶えずそうしたことを考えながら撮り続ける。境界線は不確かだから、時には侵入したり強要したりしてしまっていることもあると思う。映画を撮るって、そういうことよね。でもそれに気を配りながら、自分と彼らの場所を感受性を持って受け止めようとしながら、自分の視点を見せる、それしかできないと思うの。自分の呈示したある視点に呼応してくれて共鳴してくれる誰かはいると思うから。あなたが呈示できるのは、あなたの見方、ポイント・オブ・ビューだけでしょう?いろんな間違いを恐れ過ぎて自分の視点さえも見せられなくなったら、それこそ出口のない堂々巡りだと思う。


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キミに挑んだ元兵士の17歳の少年、ホープ・ノースで(撮影:タケスエ)

あの、インタビュー


──私にとってあの元少年兵たちのインタビューはすごく強く印象に残った。作品真ん中過ぎ(後で見返したら72分中49分めでした)に、突然、そしてすぐ終わっちゃう。3人のごく短い、ディテールはまるでない、でも一言ずつ重みのある証言を、意図的なオフ・シンクで、彼らの黙った顔や手を見ながら聞いた後、おもむろにあの少年がまっすぐこちらを見ていて、「それで、なぜこれをUSAやNYに持って行こうっていうんだ。僕の名前についての話とか、今したみたいな。それをそこでどうするって言うんだ」とだけ言い、それでインタビューは終わる。大抵は彼らの話だけでドキュメンタリーの題材になり、最後にちょっとしたハッピーエンディングでキレイにまとめられ、裕福で“リベラル”なドキュメンタリー消費者のために使われる悲惨で“おいしい素材”、そういうのを指摘して批判するドキュメンタリー学者や制作者もいるわけだけど(注5)、キミの作品ではそれが何だか奇妙な感じに、短く不完全な形で、しかし盛り込まれている、それがとても興味をひいた。それまでは翻訳がまるでなく、そこにいるみたいに目に見える物だけで理解を強いられていたところへ持ってきて、子供達は急に英語で言葉少なでも的確に意図を伝えてくる。でも、キミによって彼らの話の大部分はカットされて、私たちに“理解”し、“消費”する特権は与えられない。


あれは、ある意味作品を突然分断するし、作品の美的な統一を壊すものでもあったと思う。でも、絶対入れなくてはいけないものに思えた。そうするなら、あの少年少女達をまず彼らの現在の環境の中で生徒として紹介したかったの。いろんな活動をしていることをまず見せて、それで彼らが誰かを捉えた後で、実は悲しく恐ろしい過去を持っていることを知れば、新しい人生を歩もうと決めて実際に生徒として機能して普通の生活を送ることができている彼らのたくましさや能力をもっとわかってもらえると思ったの。そういう形しか考えられなかった。彼らはあまりの体験をしてきているから、その話をだらだら続けたくなかったし、詳細に触れたくもなかった。分かってあげられる一瞬、それだけでいいのじゃないかって。私は彼らの体験の事細かな面も聞いたわ。でもそれを主題にしたくなかった。かといって、確かに存在するウガンダの歴史や現状に完全に背を向けてはいけないと思った。だから、作品の主題では決してないからこそ、後半部分に持ってきて、ある程度消化した上で、もっと大きな政治的社会背景を思い出してもらおうと思った。


──半分の私はキミの決断が理解できるし、半分の私はそれでももっと見たい、聞きたい、と思ってしまった。インタビューを少ししか入れないという決定は、制作のどの段階で下したの?


撮影中ではなかったわ。撮影中はただインタビューしただけ。でもしながら、とってもいやな気持ちがしていたの。その時だけは、私も他の人達がやるようなことをやっていたの。学校のスタッフが、どの子供が元兵士として“おいしい”話を持っていてしかも快く話をしてくれるか、“話したがって”いるかを指し示してくれた。でも第一、話したがっている、というのは大疑問に思えた。だって彼らは先生や校長先生に話しなさい、と言われているわけで、強要されている部分もあると感じた。だからこそ、その中の一人の少年が私に挑んできてくれたのには感心したわ。勇気のいる行動だったと思う。それがまず気にかかったこと。それに、私の滞在は短期間で、とても彼らを知ったとは言えなかった。何人かとはそれなりのふれ合いはあったし関係も築いたけれど、基本的には取材して、彼らの話のセンセーショナルな部分をゲットして、それで思い出したくない恐ろしい過去を無理に思い出させて、彼らを利用しているだけだわ。それを私はやっていたの。


なぜかと言えば、インタビューに使える日は3日で全員の話を聞きたいから、じゃあ一日3人取材と時間を切り刻んで、そうしているうちに気持ちが悪くなってきた。あの少年(撮影時17歳)との会話は、それだけで一つの作品のように思えたわ。カメラの前で私に向かって、「僕の話をどこへ連れて行くの?なぜ?」と彼は聞いたの。挑発的だった。でも実際には、彼の心配は他に色々あって、一番心配してたのは罰せられるんじゃないか、ってことだったの。戦争犯罪で。世界の人々が、(レイプや殺人などの)たくさんの罪を犯してしまった彼ら子供達のことをどう思うかを気にしてた。責任を追求されるんじゃないかって。そんなことない、逆に皆、なんて大変な目にあったんだろうってきっと同情してくれる、って私は言ったの。選択の余地のないことだったんだから、って。二人で時間かけて話し合ったわ。明らかに嫌そうだったから、彼のフッテージは使わないつもりだった。でも対話の最後の頃には、私がウガンダのいろんな別の側面を見せるために撮っていることや彼らのことも普通とは違った視点から見せたいんだということを理解してくれて、じゃあ出たい、って言い出したの。


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2002年作品 “Heaven's crossroad”より。これはヴェトナムで撮った作品。

被写体の出演同意・承諾


──作品のサイトに書いてあったけれど、カンパラの街で出会った男の人は、キミをジャーナリストだと思って撮影を拒否したけど、アーティストとして作品のために私的な視点から撮っていると説明したら撮影してもいい、って言ったのでしょう?西欧諸国からのジャーナリストは関係のない映像をアフリカのAIDSや貧困や内紛の惨状を知らしめるために使うから、間違って伝えられたくないってその人は言ったって。それってとても興味深いと思ったの。撮影への同意・承諾というのは、ドキュメンタリー界隈ではよく議論にあがるテーマですよね。ジャーナリストには長い間、公の場であれば被写体の像を大衆のために“盗んでも”いい資格が与えられてきたけれど、最近は視聴者のメディアを見る力がついて敏感になって、それも変わってきている。いつも間違って伝えられるアフリカの人にとっては余計にそう。一方で個人のアーティストがそれをすると大衆のためという大義名分もないから単なる“盗み”になってしまう。主人公がはっきりしている作品では、撮影への同意・承諾は取りやすいし、ある意味被写体が共謀者となって一緒に映画の中の現実を作るようなところがあるけれど、キミの作品のようなトラベローグでは、そういうわけにもいかない。と、いろいろ問題はあるかと思うんですが、撮影の承諾に関してのキミのアプローチは?


被写体の承諾というのは、たとえ自分の家族を撮っていたって本当に相互利益のあるものかというのは疑問だわ。関係が近ければなおさら利用している場合もあると思う。家族だから応援してあげたかったりあなたを愛してるからいやと言えずに撮影に承諾したりするわけでしょう?それに何の意味がある?観察映画というのは、何を使うかは編集の段階までわからない。たくさん撮影して、その中のショットとショットをつなぎ合わせる中で新しい意味が生まれ、そうして編集されていく、だから撮っている時点では何を使うかなんてわからない。なので、承諾を得るのはほとんど無理なの。でも、誰かにスポットを当てる場合、例えば作品に出てくる、ブルース・リーのカンフー映画を解説を交えて見せている街のビデオジョッキーの彼とか、インタビューした子供達とか、そういう人達には承諾書に署名してもらっている。でも、先月ウガンダで国際映画祭があって、この作品を見せる機会があった時は、作品に関わってくれたなるべくたくさんの人に連絡して見に来てもらったわ。VJ、ボクシング教室の人達、新婚さんカップル、カンパラのフィルムメーカー達、ホープ・ノースのスタッフ、私が泊まっていたホテルからは本当にたくさんの人が見にきたのよ(笑)。それで、できあがった作品のDVDもあげた。撮影に参加・協力してもらって、その後何も連絡せず、という“お互い様”の心のない制作者って結構多いでしょう?なるべくなら上映会ができれば来てもらって、招待できるならして、DVDを渡す、そういうのは皆ありがたがってくれたと思う。


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動物園に遠足で来ている子供達を撮るキミ(撮影:ズイロフ)

ビジュアル・スタイル、類似・影響


──この作品を見ながら、いろんな作品を思い出したんですが。まずはルミエール兄弟の映像。これが一番似てると思いました。


どうして?おもしろい!


──絶対的なビジュアル・ストーリー・テリングだから。水平のラインの強い構図の中に遠近何層もの動きがあったり(しかもワイド画面16:9じゃないのに!)、遠くから撮る静けさとか、構図的な類似点がたくさん見えた。でも何より、被写体をカメラに収める姿勢が似ていると思った。当時は音声録音はなかったわけで、それに編集というコンセプトが生まれる前のことだから、50秒のフィルムが回る間に、その瞬間のつながりに潜む“物語”をどう絵だけで捕らえるかに集中していて、同時に偶然起きるハプニングに心から感動し楽しんでいたと思うの。そこがキミがルイス・ルミエールに似ているところだと思った。それと思い出したのがジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』、だって映像で綴る街のポートレートだから。そしてトリン・T・ミンハ(注3)、だって私にはキミはアフリカ人を撮るアジア人女性に見えたし、他者を撮ることについての映画でもあるから。それからクリス・マーカー(注4)の『サンレス』、だってナレーションはないけど被写体の“返し目線”が重要だし、旅の記憶としての映像とドキュメンタリーの関係という意味でも共通のテーマがあるように思った。それにもちろん、これは似ているからじゃないけど、ジャン・ルーシュ。フランス人の人類学者としての自分がアフリカを撮る中で、征服者側の自分と被征服者の被写体の関係、植民地支配の歴史を絶えず思い出させた人。キミはアジア系でもあるから、それにさらにツイストが加わっているというか。 そういう人達の影響というのはあったの?


特にない。でも、ずっと昔、映画を撮り始めて初期の頃には、トリン・T・ミンハの影響は大きかった。その頃、彼女の影響で、理論的なアイデアを映画に反映することに興味があって、それで映画を撮り始めたの。私も彼女と同様、文化人類学から映画に移行していた背景もあって、彼女の思想自体にはとても興味があった。でもそこで、さっき言ったような身動きが取れなくなるという罠にはまったの。それで逆にその後、そういう理論からまったく離れようとした。まあ、映画作り全体の基礎としてはあるわ、でも罠にはまりたくないから、慎重にやってる。


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2009年作品 ”Suspended”より(撮影:タケスエ)

観察映画キミ・タケスエ流


──キミのビジュアルスタイルについてもう少し聞きたいのだけど、手持ちで被写体のライフにどんどん入り込んで行くシネマ・ヴェリテ流の昨今の風潮とまったく逆のところにある。その辺については、なぜそういう手法をとっているの?


自分がやりたいこと、やれることをやるべきだ、と思って撮ってる。トレンドに流されるのは間違いだと思う。最近のドキュメンタリーはフィクション映画のストーリー性を受け売りで使っているものが多いし、視聴者の感情を揺さぶるようなドラマがないといけない、とされてる。だから被写体も自ずと、高校生たちの1年、とか、歌のコンペ、とか、前もってドラマが期待されるものに限定されてくる。ウガンダの日常のニュアンスとリズム、なんて言っても、共感を呼ぶのは難しい。楽しんでもらえる自信はあるけれど、売りにくい。資金協力も募りにくい。でも今回は(ロッテルダムの)機会が与えられたわけだし、予算も極小だからリスクもない、だったらやりたいことをやろう、と思ったの。私が興味があるのは、様式的な美しさと自然主義の接点なの。もともとビジュアルの美や写真に興味があるから、自分の見えている世界を絵画的に切り取って構図をとる癖があるの。だからいつも、タブロー画のように完成された静止した構図をまず作る。作者の意図があるのは明らかだし、ある意味私の主観で切り取られた現実を見せつけようという姿勢でさえある。正確で、静かで、瞑想的な瞬間。でもその構図の中で繰り広げられることは、まったく自然発生的で予測がつかない。動きに満ちて、ダイナミックで、刺激的な瞬間。そういう、作意に満ちた様式的なものと、その中で起こるおおらかな野生のできごと、そのテンションに魅かれるの。


簡単そうに思えるかもしれないけど、実はとても難しいのよ。訪れるかどうかもわからない詩的な美しい瞬間を捕らえるために、私はいつも待ってる。いつ来てもいいように準備して、しかもその瞬間を逃さずに、いい構図で撮るー流れる時間の一瞬のことだから、とても難しいの。もし私がこれを「もと子供兵士達の告白」というようにセンセーショナルな内容にしていたら、そりゃあ売りやすいし、お客さんももっと興味を持つでしょう。人の興味をそそることだけが目的なら、もっと簡単で安全な方法はいろいろあったわ。私だって視聴者としては皆と同じようにそういうストーリーに魅かれるわ。でもそれは私の制作者としての第一目的ではない。私の手法は、いわば盲目の賭けのようなもの。2週間半以内に撮らなくてはいけなくて、もしかしたら何も撮れないかも、という恐れもあったわ。でも、子供達が農場でピーマンを投げ合って遊んだり、美しい瞬間はちゃんと来てくれた。おもしろいことに、様式的だからこそ、あれは頼んでやってもらったの?なんて聞かれることがある。でも、何かして、と頼んだことは一度もないし、邪魔にならないように心がけて撮っていたのよ。


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動物園で #2(撮影:ズイロフ)

人々の感想


──ウガンダの人達は作品をどう思ったの?


反応はとてもよかったわ。予想していたような“ドキュメンタリー”とは大分違っていたみたいだけど(笑)。その時現地のフィルムメーカーを対象に観察映画ワークショップもやったのだけど、彼らが「ボクらの街や身の回りの世界をまったく違う見方で見られるようにしてくれた。普段見落としてるものに気づかせてもらった」って言ってくれたときは、嬉しかった。


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2004年ドラマ作品”Summer of Serpent”より

──西欧諸国での反応は?


来月には、NY現代美術館(MoMA)の「ドキュメンタリー週間」での上映が決まっているので、楽しみなの。去年のロッテルダムでの初公開以来、これまでに、ロスアンジェルス映画祭のコンペティションに招待されたし、スウェーデン、ミラノなどでも上映され、来月にはスイス、その後ポーランドにも行く。でも、正直なところ、その後すぐ起こったITVS(注6)のフィクション短編映画制作であまりに忙しくて、十分なプロモーションができていないのが現状。そちらもつい最近仕上がったから、今後この『私をどこへ連れて行く?』を売り込んで行く予定!お客さんに挑戦を挑んでもいるけど反応も多く楽しんでももらえる作品だと思うから。フツウではない要素もあるんだけれど、とっつきやすくもあるし、作品のテンポに慣れるのに最初少し戸惑うだろうけれど、普段(アメリカでは特に)無理矢理慣れさせられているメディアのテンポからスローダウンすれば、食らいついてきてくれるという感触がある。この手の作品を受け止める視聴者の能力を信用せずに、もっとわかりやすい作品を選ぶキュレーターも結構いるんだけどね。


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キミ・タケスエ(撮影:ビーナン)

ヴァラエティ誌の記者ジェイ・ウェイスバーグは、この作品『私をどこへ連れて行く?』を評して「非アフリカ人を送り込んでほぼ白人のアートハウスの西洋人客に暗黒の大陸を見せるという設定の意図は疑わしいが、タケスエの美しく瞑想的なこの作品は外部者としての作り手の存在にすっかり気づいて作られている……映像と音で綴ったシーン間のつながりは見事で、はっとさせられる構図とともに、濃厚な視聴体験である」と言っている。今後の展開が楽しみな作品であり、日本でも公開されるといいと願う。取材後、彼女の過去作品も拝見させていただいた。フィクション、実験映画、ドキュメンタリー、多岐のジャンルにまたがってはいても、徹底的なビジュアル主義(しかも撮影者としてのすごい才能)、決してすべて分かりあえはしない人と人との偶発的なふれ合い、目線、ニュアンス、という共通のテーマが見受けられ、どれもさすがに大手の映画祭に引っ張りダコなだけあって秀作ばかりだった。もし機会があるならば、私たちの宇野港芸術映画座でも是非ご紹介したい。


そして最後に、これは取材後に彼女から聞いて知ったことなのだが、キミは実は、1985年のコカコーラ・ガールとして、日本で大ブレイクした元モデル(キミー・タケスエとして知られていた)。同年のテージンのキャンペーンガールでもあり、水着姿の彼女を覚えている読者も多いかもしれない。コカコーラの懐かしのCM集へのリンクはリンク集参照!いやあ、今もキレイですが、これには私も驚きでありました。


(取材・翻訳・文章:タハラレイコ トップ写真:タハラレイコ(マンハッタン・ミッドタウンの“カップケーキ・カフェ”にて ) それ以外はキミ・タケスエ提供、撮影者は写真下記載の通り)

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キミがモデル時代に出演したコカコーラのビジュアル



【リンク】
『Where Are You Taking Me?』オフィシャル・サイト:http://www.whereareyoutakingme.com/



Hope North Uganda ダンサーのオケロ・サムが作った学校:http://www.hopenorth.org/



ウガンダの政治状況についてのページ(ホープ・ノースのサイト内):http://www.hopenorth.org/sit.html



NY現代美術館(MoMA)“ドキュメンタリー・フォートナイト”:http://www.moma.org/visit/calendar/films/1142



キミー・タケスエとして出演のコカコーラCMリンク(1985): http://www.youtube.com/watch?v=vXbDJ8QfoQU


▼『Where Are You Taking Me?』予告編[youtube:auvRHoVWePE]

(注1):アフリカン・シネマ自体が、60年代の独立後、それまで西欧の人類学者たち(マーガレット・ミード Margared Mead やジャン・ルーシュ Jean Rouch を代表とする)の映し出したアフリカ社会への反発として、アフリカのイメージはアフリカ人が撮るという気概から発している。同時に、初期アフリカン・シネマの代表監督オウマルウ・ガンダ(Oumarou Ganda、ニジェール人 ガンダが姓)はルーシュ(フランス人人類学者/映画監督)のもとでリサーチャー/役者として働いており、ルーシュらを通してフランス政府が独立後のアフリカン・シネマを支援したことも事実である。アフリカン・シネマの父とされる巨匠センベーヌ・ウスマン(Sembene Ousmane センベーヌが姓)はルーシュとの1965年の対談の中で「あなた達は私たちを昆虫としてしか見ていない」と酷評している。(The Short Century: Independence and Liberation Movements in Africa 1945-1994, edited by Okwui Enwezor, p.440. Munich, London, New York: Prestel, 2001. Transcribed by Albert Cervoni and translated by Muna El Fituri.)

(注2):彼女の訪れたホープ・ノースというウガンダ北部地方にある元兵士や避難民の子供達のための寄宿学校は、これだけでも非常に意義深い場所である。創設者のオケロ・サムさんは自らが反政府勢力のキリスト教原理主義団体であるLRA(Lord’s Resistance Army)に誘拐されて子供兵士として戦った体験を持つ人物で、その後逃げてウガンダ北部のアチョリ族の故郷に戻るがその時にはすでに戦場となった故郷は廃村となっており、カンパラに出て新しい人生を送る。その後ダンサー・振付け師として名を馳せ財を築く。その後弟もまた子供兵士として誘拐され、戦死する。心を痛めたサムは川に守られた安全で広大な土地を北部に買い、 西欧諸国からの寄付等も受けて、自分の部族の家や家族を亡くした子供達、また兵士として戦った日々のトラウマから立ち直れる場所として学校を開設、現在に至る。2006年のハリウッド映画『ラストキング・オブ・スコットランド』では70年台ウガンダで大統領として独裁者となったイディ・アミンを演じたフォレスト・ウィテカーのダンスシーンの振り付けと担当し、それがきっかけでフォレスト・ウィテカーはホープ・ノースを訪れ、寄付もしている。一般からの小額寄付も受け付けているので、詳しくはリンク集の彼らのサイトを参照ください。

(注3):Trinh T. Minh-ha. ハノイ生まれ、ベトナム戦争時は南ベトナムで育つ。その後アメリカに移民。イリノイ大学で作曲、民族音楽学、フランス文学などを学び、博士号取得。現在UCバークレーで教壇に立つ女性映像作家、作曲家、著者、ポストコロニアル思想家、フェミニスト。第三世界出身で西洋で学び暮らす女性の視点から、禅・反植民地主義・マイノリティ・女性などのハイブリッドな見地から既成のジャンルをぶち壊す独自のアート理論と実践を展開。映画処女作のReassemblage(『ル・アッセンブラージュ』1982)はセネガルの村々を撮りながら、当時の西欧の人類学者たちの、2週間など“十分な”時を村で過ごすことで”my people”を調べて分かろうとする態度や、他者の像に説明、解説をつけて理解しようとするドキュメンタリー制作の態度を辛辣に批判。一つの村で録音した音楽を別の村の映像にかぶせたり、ルームトーンも何もない音のない箇所をわざと映画に入れたり、フレームの超端っこに被写体を持って行ったり、タブーを犯しまくる一方で、“speaking for”=被写体のためにではなく、”speaking nearby”=被写体の近くから話す手法を提唱し、波紋を呼んだ。

(注4):Chris Marker. ゴダール、アラン・ルネ、アニエス・ヴァルダ等とごく親しいヌーベルバーグの監督であるが、究極の平等を求めて世界中を旅するさすらいの政治的エッセイ映画監督として異色のカルト的映像作家。最も有名なのは『ラ・ジュテ』(La Jetee、『12モンキーズ』のベースとなった1962年モノクロ短編SF作品)だが、『サンレス』(Sans Soleil 1982年、日本─1981年1月の─とギニアビサウを主な舞台に植民地主義世界でのサバイバルを描いたエッセイ・ドキュメンタリー)はドキュ界では不朽の名作として評価が高い。日本ではクリス・マルケルと呼ばれているようだが、これは間違いであると思うので、あえてマーカーと書く。クリス・マーカーという芸名はアラン・ルネが世界中どこでも言いやすいようにマジックマーカーにちなんで付けたものであるということなので、フランス人だからといってマルケルと呼ぶのは何だか違うと思う。


(注5):ジョン・グリアスン流の、被写体を犠牲者サンプルとして扱うドキュメンタリーを批判し、ドキュメンタリーの(非)倫理性を指摘した学者として有名なのがブライアン・ウィンストン(Brian Winston 英)。また、1990年代後半にジル・ゴッドミロー(Jill Godmilow、アメリカの女性映画監督、インディアナ州ノートルダム大学教授)が、他者の悲惨を味わって楽しみそれに共感や憐れみを覚えられる知的な自分を快く思いながら劇場を去る昨今の先進諸国リベラル富裕ドキュメンタリー愛好者と、彼らに売るために作られるドキュメンタリーを“pornography of real”(筆者訳:現実ポルノ)と激しく非難する論文を次々に発表、物議を呼んだ。ゴッドミローは1960年代後半以来ラディカルで実験的、政治的な手法/題材のドキュメンタリー映画で特に知られる。代表作はフォーク歌手のジュディ・コリンズと共作の1974年ドキュメンタリー“Antonia: A Portrait of the Woman”(アカデミー賞ノミネート)、ポーランドの自主管理労組運動を扱った1984年実験ドキュメンタリー“Far From Poland”、彼女の唯一のドラマ作品にして1987年サンダンス映画祭審査員大賞をとった”Waiting for the Moon”(『月の出を待って』、20世紀初頭のアメリカ人著名女性作家ガートルード・スタインの生涯とその秘書アリス・B・トクラスとの同性愛を描いた作品、英・米・仏合作)、1991年の“What Farocki Taught”(米ダウ・ケミカル社のベトナム戦争用ナパーム弾開発の仕組みをブレヒト的に描いたドイツ人監督ハルン・ファロキ Harun Farocki の1969年短編映画“inextinguishable Fire”(筆者訳『消せない炎』)を湾岸戦争時のアメリカ人に見せるためにまったくまねて英語・カラーで再撮影した短編作品)など。彼女の論文: “How Real is the Reality in Documentary Film? Jill Godmilow in conversation with Ann-Louise Shapiro”, in History and Theory. 36:4, 1997, p.80-101( http://www.nd.edu/~jgodmilo/reality.html に全文掲載). “What’s wrong with the liberal documentary?” Jill Godmilow, in Peace Review, Mar 1999, 11:1, 91- 98( http://www.nd.edu/~jgodmilo/liberal.html に全文掲載)


(注6):Independent Television Service サンフランシスコにベースを置く公共放送関連団体で、自主制作の番組(ドキュメンタリー&フィクション)に資金提供、放映プロモーションサービスを行っている。アメリカの公共放送は民間非営利団体で、財団や市民からの寄付で運営されており、ITVSの資金の多くもそこから出ている。毎年助成金のサイクルがありITVSの額は他よりも高い(完成するのに必要なだけ出してもらえる)が、助成してもらえる確率は1-2%とものすごく狭き門。)




■タハラレイコ PROFILE


東京、吉祥寺出身。91年イリノイ大へ奨学生留学渡米、92年からNY。94年以降は夫の上杉幸三マックスと二人でドキュメンタリーや実験映画を製作。マックスと共同監督の『円明院~ある95歳の女僧によれば』(2008)は、ハワイ国際映画祭でプレミア後、NY、日本、スリランカなどの映画祭やギャラリーで上映、2011年夏にポレポレ東中野で公開予定。NY近郊の大学・大学院でドキュメンタリー史、制作、日本映画史などを非常勤講師として教えている。2010年夏より始まった宇野港芸術映画座上映シリーズ「生きる、創る、映画」( http://unoportartfilms.org , http://www.facebook.com/UnoPortArtFilms )は宇野港に拠点を移した上杉とブルックリンに暮らすタハラの共同プロデュース(+13歳の娘手伝い)で、毎年世界各地からの心を揺さぶる秀作品を紹介していく家族再会イベント(ボランティア・スタッフ募集していますので、ご興味のある方はご連絡されたし)。


公式サイト

webDICEユーザーページ


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ネットでの新たな潮流から、契約書の交わし方まで─デジタル時代のアメリカ自主映画資金集め事情 http://www.webdice.jp/dice/detail/2748/ Wed, 01 Dec 2010 20:58:16 +0100
“Future Weather”撮影風景(右がプロデューサーのクリスティン・フェアウェザーさん、真ん中が監督のジェニー・デラーさん)



今学期、ひょんなことからテンプル大学フィルム・メディア・アーツ学部で自主制作映画のファンドレイジング(資金集め)の授業を受け持つことになった。



私は90年代初頭以来ニューヨークのブルックリンに住んで、相棒の上杉幸三マックス(現在は次作の撮影もあって故郷の瀬戸内に住んで、現代アートを見に来る外国人観光客用の宿屋を頑張ってやっています)と地味に実験ドキュメンタリー映画を作ってきた。子育てもあったし生活も楽ではないし、ここ数年はニューヨーク近郊(一つはフィラデルフィア。近郊じゃないか…)の5つの大学をハシゴして毎学期複数の授業を教えながらどうにか暮らしを立てている状況で作品の数は少ない。今年夏から始めた上映シリーズ(宇野港芸術映画座)用も含めて、過去10年間で、資金集めにかけた時間と労力は私の生活の大きな部分を占める。2008年に完成した長編『円明院~ある95歳の女僧によれば』(2011年夏にポレポレ東中野で公開予定!)の時は、アメリカの公立または私立の財団や公共放送関連の団体から数年かけて約10万ドル(約1千万円)を集め、完成まで足掛け9年もかかってしまった。今もカレンダーとにらめっこしながら、来夏の宇野港芸術映画座のためのプロポーザルを書いては送っている。


つまり、資金集めに関しては素人なわけでもない。かと言って、自慢できるような資金集め歴があるわけでもない。でも周囲の自主制作仲間達を見回してもそんな感じであるから、まあ、そんな感じなのだろう、と。だったら私に教えられないことはないかとも思えた。しかも、昨年あたりから火のついているネットを使った新しい形の資金集めのことも方々から耳に入ってきており、その分野のエクスパートなんてまだかなり限られているはず。自分のためにも興味のある分野でもあった。 知っているフリなどせずに生徒と一緒に勉強しよう、という気持ちで引き受けた。


その他の今学期のメニューは同じテンプル大で日本映画史、マンハッタンのハンターカレッジでドキュメンタリー史/批評のコースを教えている。今回は、その3つの授業を飛び回り生徒や現場で働くインディー映画の制作者(監督、プロデューサー)と対話しながら、この数ヶ月にデジタルについて考えたつれづれを、アメリカの自主制作メディア事情に起こっている革命の渦の中からアナログにレポートする。





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クラウド・ファンディングの代表選手の一つindie GoGo




インディーゴーゴー & キックスターター



まず、アメリカの自主制作アート資金集め界(これは確かに存在する)を大変賑わわせているのが、indieGoGo(インディーゴーゴー)とkickstarter(キックスターター)である。大統領選の時にオバマがネットを使って小額の寄付を一般大衆から募り選挙資金の足しにしたことを受けて、資金集めの仕方自体を民主化しようという動きが2年前から活発になった。その後もファイスブックやツイッターなどのソーシャルネットワークサイトはますます人々(特に若い層)の生活に入り込み、誰もが自分のコミュニティを築くのにやっきになっている。そこで、それを活用して大多数の小額出資でそれなりの資金を集める“crowd funding”というコンセプトが生まれた。 indieGoGo も kickstarter も、これまで起業家や自主メディアにとってのコンセプトであった D.I.Y.「ドゥ・イット・ユアセルフ」を、D.I.W.O(ドゥ・イット・ウィズ・アザーズ)に変えて行こう、これはよいと思える事業にそれぞれができる範囲で出資し、皆の力で実際にコトを起こして行こう、というのが基本理念だ。自分で何かを作りたい・やりたいという人々が、計画を文章やビデオを使って説明し、いつまでにいくら集めたいというゴールを設定して資金集めキャンペーンをかけるサイトである。



出資者(前者ではファンダー、後者ではバッカーと呼ばれる)は一般の個人ユーザーであり、前者ではクレジットカード・ペイパル・またはユーザーの銀行口座のチェックで支払いを行い、後者ではアマゾンのアカウントを通してカードで支払う。出資者は、お金を出すかわりに、制作者側が設定した報酬(それぞれリワードとパークスと呼び方が違う)を出資金額に従って選ぶことができる。他の共通の特徴として、5ドルや20ドルから1,000ドル以上まで出資額やそれに応じた報酬の選択肢が広いこと、報酬の内容がとてもクリエイティブでパーソナルなこと(ありがとうの電話や手作りディナーへの招待からプロデューサー・クレジットや初公開日に航空券付きでVIP席へご招待など)、それに文章やビデオで出資を募るトーンがあくまでカジュアルなこと、などがある。また、運営者が小額のフィーを出資額の中から受け取り、それでサイトの運営をしている点も同じであるが、額は多少異なる。


基本的な違いは、indieGoGoはチャリティから新事業、アート・プロジェクトまで誰でもいいアイデアさえあればページを作れ、目標額や期限日に関係なく出資金が引き渡されるのに対し、Kickstarterは映画・出版・絵画といったクリエイティブなプロジェクトのみ参加が許され、しかも期限日までに目標額に達成できないと、出資者のカードからお金はひかれず、すべては水に流れてしまう。当然運営側もお金をとらない。アートは生活をかけてやるもの、実現しそうなプロジェクトのみ生き残るという仕組みだ。





クラウド・ファンディングでリアルマネーが集まるのか?







今年春頃からドキュメンタリー映像作家の友人数人からindieGoGoで幾ら集まっただの、kickstarterの締め切り日があと数日と迫っているのでヘルプ!などの連絡をもらうようになり、ふーん、そういうものもあるのか、くらいに思っていた。夏に日本に帰省中、興味本位でKickstarterを覗いてみると、直接知り合いではないが過去にアジア系映画祭などの界隈で何度も名を見かけたことのあるロディー・ボガワ(Roddy Bogawa)という監督が3年越しで作っているというドキュメンタリープロジェクトが1ページ目にフィーチャーされていた。ピンクフロイドのレコードジャケットをデザインしていたストーム・ソーガスンについてのおもしろそうな作品だ。そのゴール達成済みの金額が2万ドルを超えており、映画制作への財団等からの助成金額と張っていたので、ちょっと驚いた。ロディーは、みんなありがとう、これで数ヶ月は腕のいい編集者を雇って自分と二人フルタイムで編集作業に当たれるので、来年春までには見せられる物が作れるだろう、と書いてあった。


ニューヨークに戻ると、ロディーと友達であるという知り合いがそのことを興奮して話しており、やはり話題になっているようだった。生徒たちにそれを紹介すると、「キックスターターは友達や家族からしかお金が集まらないから、きっともともと金持ちなんじゃないか」という疑問が出た。そこでロディーに連絡を取って尋ねてみると、80人の「バッカー」のうち半数は知らない人で、しかも3,500ドルレベルの高額出資者3名のうち2名は知らない人だったということだった。つまり、フェースブックなどのソーシャルネットワークサイトの「フレンズ」にまず声をかけるが、その「フレンズ」がそのまた「フレンズ」に声をかけ…という具合に広がっていった、ということである。もうあのつまらないお役所相手のカチカチ文章の申請書ばかり書かなくても、顔の見えない選考委員が選んでくれることを祈りつつ悶々と数ヶ月を過ごさなくても、即時に結果が見え、出資者の顔が見え、そして何より同時に自分の作品に興味を持ってくれるオーディエンスと資金集めしながらにつながれるのである。これは、すごいことだ。




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もう一つの代表選手Kickstarterのロディー・ボガワのプロジェクトのページ。2万ドル以上集めた功績はまぶしい。




ところで、デジタル時代の資金集め戦略を考える前に、ちょっと長くなるが、戦後から今までのアメリカの自主制作映画制作と支援状況について大まかに把握しておく必要があるように思う。何をしてインディー映画と呼ぶかは議論の別れるところだが、ここではハリウッド及びそこから発展したメインストリーム・メディアの外で製作されたものと定義しておく。






インディー映画-フィクション界隈の支援事情






戦争は撮影・録音技術を発展させるというが、第二次大戦中には16ミリ軽量カメラ、録音技術、暗くても映せるフィルムなどが開発され、平和が戻ると、世界各地の若手監督達がそれらを我れ先に取り入れ、スタジオの外の世界、一般大衆の生活の中に体ごと飛び込んで、生きた映像を撮り始める。そうした流れが、イタリアのネオリアリズム、イギリスのフリーシネマ、フランスのヌーベルバーグと呼ばれている。しかしアメリカにはハリウッドがあり、ジョン・カサヴァテス、デビッド・リンチ、ジョン・ウォーターズといった例外を除いては70年までは概してハリウッドのスタジオが若い監督(ウォーレン・ベイティ、デニス・ホッパー、コッポラ、ルーカス、スコセッシなど)を取り込む形で50年代後半の低迷(ヌーベルバーグや日本映画の台頭により)から再発展しており、それらは本当の意味でインディー映画とは言えない。


70年代にサンダンス映画祭の前身がロバート・レッドフォードとユタの地方自治体によって作られ、カリフォルニアにIFP(インディペンデント・フィーチャー・プロジェクト、現在のフィルム・インディペンデント)という支援団体も生まれ、インディペンデント・スピリット賞が開設され、80年台からそれらが花開いてジム・ジャームッシュ、スティーブン・ソダーバーグ、スパイク・リーが登場、そして90年代初頭にはロバート・ロドリゲス、ケビン・スミスなどの出現でインディー映画はモーメンタムを迎える。


インディー専門ケーブルチャンネル(IFC)も登場。99年の『ブレアウィッチ・プロジェクト』で低予算のビデオによるインディー映画(DVムービー)が受け入れられ、その後はHDやレッドカメラも登場して加速的にインディー映画が台頭、ネットを使ったホームビデオ配給システム(ネットフリックス)やストリーミング・ビデオの配給(オン・デマンドなど)も進み、映画祭の数も激増、現在では制作、配給両面でハリウッド内外でインディー映画産業が確立している。


非営利の支援システムとしてはサンダンス・インスティテュートやIFPのフィルムマーケット(ほぼできた作品や制作途中の作品を上映し、配給会社や完成資金提供者を募るマーケット)やプロジェクト・フォーラム(脚本ができた時点で配給会社やプロダクション会社とロテーション制のミーティングセッションを行い、制作/配給の可能性を拡げる会合)、またプロデューサーや監督のためのブートキャンプ合宿やメンター制度なども行われている。NYにはフィルムフォーラム、アンジェリカ・フィルムセンター、BAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)といったアートハウス系劇場もたくさんあり、フィクションとドキュメンタリー両方を上映する。





インディー映画-アヴァンギャルド/実験映画界隈の支援事情






20~30年代はアメリカが社会主義化した時代であり、それまでに存在した実験映画グループやシネクラブは共産党系の団体だったりルーズベルトのニューディール政策のメディア部門に組み込まれたりしていた。また戦争中はハリウッドもディズニーも国を挙げてのプロパガンダ一色の時代だった。アートとしてのアメリカのアヴァンギャルドが活発化したのは第2次大戦後であるが、それはマヤ・デレン(NY)やケネス・アンガー(LA)が戦争中に秀作品を次々に作っており、準備万端で戦争が終わるのを待っていたためのように私には思われる。


特にマヤ・デレンは戦後になるとすぐさま自分の短編をカップリングし自ら劇場と交渉してアメリカ中で興行/レクチャーしたり、自分のアパートで若い映画人を集めて上映会をやったり、インディー映画の必要性を主張する映画理論を本や雑誌で発表したり、時代を遥かに先行していた人物で、それに刺激されて多くの若者が映画を作り始め、またNYにはシネマ16というインディー映画やドキュメンタリーのための最初の映画館も現れた。50年代ピーク時には7000年人の顧客を抱えていたという。


マヤ・デレンは若くして他界するが、60年代にはマヤの弟分のスタン・ブラケッジやジョナス・メカスなどが活躍、アンディ・ウォーホール、ニコ、ヨーコ・オノなどのアーティスト達と密接に関わりながらニューヨークのアヴァンギャルド映画の黄金期を作り上げた。NYのカルチャー新聞ビレッジボイスに長年続いていたメカスの“ムービー・ジャーナル”のコラムはもう終わってしまったけれど、そのころに作られたアンソロジー・フィルム・アーカイブ(実験映画専門の名画座/映画館, メカスが設立)やNYフィルムメーカーズ・コーポラティブ(実験映画人達の共同配給団体、メカス、ブラケッジ、シャーリー・クラークなどが設立)などは今だ健在で、それらをベースにして今でも沢山の実験映画制作者たちがNYに集まり活動している。もともと売れないだろうと思って作品を創っている彼らは、仕事を持ちながら、または後述の財団支援で制作を続けるケースが多い。




インディー映画-ドキュメンタリー界隈の支援事情




ドキュメンタリーもまた、自主制作ものは戦後に発展した。 ヌーベルバーグなどのフィクション界の一連の動きとシンクロしながら、1960年にはフランスとアメリカで自主制作ドキュメンタリー制作者たちがワイヤレス同時録音技術を自分たちで開発し、同時多発的にシネマ・ヴェリテ運動が起こる(“シネマ・ヴェリテ”-20年代ロシアのジガ・ヴェルトフのニューズリール・グループ「キノ・プラヴダ」のフランス語訳、意味は真実のシネマ。技術的には同時発生的だがその内容、意味合いは米仏ではだいぶ違っていた。またヴェリテ以前の50年代には、カナダやフランスですでにワイドアングルレンズ付きのカメラで一人のカメラマンが体当たり撮影する手法が始まっていた)。


また50年台にテレビが一般普及し始めて間もなく、現在の公共放送PBS(パブリック・ブロードキャスティング・サービス)の前身団体が登場、連邦政府の助成を受けながらもあくまで非営利の第3セクター団体として、ハリウッドとメディア大企業の作るメディアとは異なるより教育的で一般大衆のタメになるメディア製作が開始される。50年代アメリカはマッカーサー時代の赤狩りの時代、その後60-70年代はベトナム戦争、公民権運動、マイノリティー運動と激動の時代、また70年代にはビデオフォーマットが登場、それまでは“撮られる側”でお金や力のなかったマイノリティ制作者や女性達も70-80年台には作品を創れるようになる。


億万長者や大企業がチャリティーへの寄付で税金対策するための財団はもっと古くからあったが、50年代の非営利法の改定を受けて60年代半ばまでに非営利団体が急増、人のため世のためになる団体が沢山出現する。それらの変化に呼応する形でドキュメンタリー制作及び支援の状況も、被写体・撮影者・フォーマットに変化を見せながら急速に発展して行く。60年台には芸術活動を応援する様々な州で、州内の非営利芸術団体(またそれを通して非営利で作品制作する個人アーティスト)への独立支援組織が州政府の助成により整備され始める。1965年には連邦政府による芸術や人文系の様々な非営利活動を助成する基金(NEA&NEH)が設立される。また、ロッカフェラーなど大手の非営利団体も、メディアプロジェクト支援を開始する。


こうして60-80年代にかけて、多くのドキュメンタリー秀作品がインディー監督により制作された。その後も、エコノミーの善し悪しで助成額が増減しながら、ドキュメンタリー・ファンディングと言えば州・連邦政府や公立私立の財団からのグラント、という構図が確立した。そうして作られた作品の多くは主に公共放送で流されたり、大学等の教育関連の配給へと流れ、そのための非営利の配給会社も全米に多く現れた。7~80年代はそれだけで生活できている監督達も結構いたようだが、90年台になるとネコもシャクシもドキュメンタリー作家の時代になり、同じ出元を狙って助成金でやっていくのはどんどん苦しくなってくる。

もとフルタイム制作者だった人達は、全米の大学に散らばり、過去の栄誉で教授職を得ている人達が多い。デジタル革命で制作費がさらに低くなり、また2000年台に『華氏911』『スーパーサイズ・ミー』『不都合な真実』でドキュメンタリーがルネサンスを迎え、映画学校ではドキュ作家志望者の数が急増、各都市でドキュメンタリー学科が多く新設される。サンダンス、トライベッカ、また世界の大映画祭でもドキュメンタリー部門が新設・拡張され、ドキュメンタリーへの新たな資金援助プログラムも創設されている。ドキュメンタリーが一般劇場公開されコマーシャルなDVD配給網に乗るケースも今では珍しくない。


それでもやはり、ドキュメンタリーの場合、大手の配給会社から“アドバンス”と呼ばれるまとまった額(権利を売った代償)を受けとるケースは限られており(最近はインディー系フィクション映画の世界でもかなりアドバンスは減額されているそうだ)、支援状況はどう変わっているかと言うと、正直、制作者の急増には対応できていない現実が見える。ここ10年ですっかりおしゃれになってしまったブルックリンの人気地区のカフェなどでは、それこそ石を投げれば当たるほどドキュ作家が溢れている気がする。また、苦労して資金を集めて作れても、そのお金はすべて制作に使ってしまうため、できた後の配給でどうやって足が出た分をリクープしたり、自主制作映像作家として身を立てていくか、というのは非常に大きな壁である。いい作品を作り、光の当たらない人々に光をあて、世に知らしめ、その後フィルムメーカーは次の作品のプロポーザルを書きながら、生活苦でキューキューとするのである…。



非営利/営利、ドキュメンタリー/フィクションと一見混じり合わないように思われる分野が、この3~40年で細分化しつつ混じり合い、そしてここへ来てデジタル革命によって、複雑な自主制作映画支援環境のタペストリーを作り上げている。




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資金集めのクラス、テンプル大学(ゲストのクリスティン・フェアウェザーさんと一緒に)





そしてその中で繰り広げられる資金集めのクラス





さて、そういったメディア環境の中で映像アートを学ぶ私の「資金集め」のクラスの14名の内訳は、4名が院生、8名が学部部生、1学期(3ヶ月半)を通して自分のプロジェクトのための資金集め戦略を練り、書類、ウェブ、過去作品見本などを整備し、インディー作家として生き残って行く術を学ぶ。コースに参加する条件は、絶対に作ってやる、というプロジェクトがあること。初回2度の授業でどれほど競争は激しく生活は辛く実は孤独な日々であることを強調しても、それでもやりたいというのだから仕方がない。そうして集まった彼らが各々持ち寄った実現したいプロジェクトは、フィクション長編4本、フィクション短編2本、ドキュメンタリー長編3本、ドキュメンタリー短編2本、インスタレーション1作品、クラスの半数がフィクション(うち学部生2名はプロデューサー志望)、半数がドキュメンタリー、インスタレーション1名。ハリウッドへつながる道としてインディー映画を作りたいという生徒、自分のおばあさんの死をめぐる謎の殺人事件を追って母親の長年の苦しみに何らかの結論を見いだしてあげたいという生徒、自分たちの世代まるごとを映画にしたいという独立精神旺盛で感性豊かな生徒、労働問題に体当たりしビデオで社会を変えたいという生徒等、目的も様々だ。

私は財団等の資金集めはやってきているからプロポーザルの書き方はわりに自信を持って教えられる。ファウンデーション・センターという非営利の資金集め界のデータベースを管理する団体を皆で訪ね、そこのコンピューターを使って各々のプロジェクトに適したグラントを探し当てる方法を学ぶ。プロポーザルの必須項目、アーティストとしての履歴書の書き方などを、クラスの皆でお互いの書類をプロジェクターで映写して批評し合いながら、それぞれが卒業後に必要になる書類を着々と用意して行く。 卒業したら皆ライバルになる。でも今は皆家族だ。恥ずかしがらずに自分のこれまでやってきたこと、自分のぶつけたいことを素直に表現できるように、自分と自分の作品を最も良く見せ理解してもらえる方法を皆でアドバイスし合い、見つけて行く。


アメリカ原住民のことを撮りたいという白人の女の子には、ナバホ族の男性と結婚して現在北海道で暮らしている私の従姉を紹介し、誰のために何にために撮りたいのかを何度でも尋ねた。皆、個性はそれぞれかなり強いけれど、芯は素直だ。非営利財団のグラントは特殊な社会問題を支援するものが多いため、フィクション映画への支援は受けにくいが、最近はドキュメンタリーが商業化され、リアリティTVやモッキュメンタリーなどの台頭により形態的にも二つのジャンルの壁が薄くなるにつれそれも変わってきている。しかし不況で減額・凍結しているグラントも多い。


他の道は、企業や商店スポンサーや個人投資家などである。申請書の必須項目は、宛先が財団でも企業スポンサーでも個人投資家でも似通ったものが多いが、彼らの目的は大きく異なる。 財団にはそれぞれの目的があり、PRのために支援する企業はどんなオーディエンスに届くかが一番の興味であり、投資家は内容がよくてもビジネスとして成立しなければ乗ってこない。それぞれのプロジェクトにはどんな資金集めが合っているかを皆で模索する。私の未経験な部分をカバーするため、学長と話し合ってゲストを招く予算を増やしてもらえたので、予算内でやりくりしてメディア支援団体のスタッフ、エンターテイメント専門の弁護士、メジャーな映画祭で受賞経験のあるドキュメンタリー作家、長年かけてハイブリッドな方法で資金を集めて処女作の長編フィクション映画をもうすぐリリースするプロデューサーなど、色んな人をクラスに招待した。これから学期末まではあと2回を残すのみだが、インディー映画を数本手がけているプロデューサーをもう一人、予算とスケジュールの都合で、スカイプでのクラスビジットを予定している。いつも制作者仲間と言えば監督またはプロデュースも自分でやってきた映像作家が多いので、私にとってもプロデューサーとのトークは刺激的だった。



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ゲストで来てくれたリンダ監督




ゲストの生の声① ドキュ映画監督/共同プロデューサーのリンダ・ハッテンドーフさん






ドキュメンタリー監督/共同プロデューサーのリンダ・ハッテンドーフさん(Linda Hattendorf、『ミリキタニの猫』)の場合、普段は自らがプロの編集者であるため、自分が撮りためていた映像を自分で編集するつもりだった。しかし、ことの成り行きで自分もドキュメンタリーの登場人物の一人となる状況になったため、自分では編集しない方がいいだろうと考え、資金集めをしてもう一人、ドキュメンタリーからハリウッド映画まで幅広い経験を持つ出口景子さんを共同編集者として迎えた。どういうことかというと、日系人のホームレス画家ジミー・ミリキタニを主人公にしてアーティストと街の四季のミニ作品を撮っていたが、9.11.の晩に粉塵の中でたった一人、ソーホー地区のストリートに残り咳き込んでいる彼を放っておけず、監督はジミーを自宅に連れてくる。それをきっかけに若いアメリカ人女性監督と年配の日系人アーティスト、ジミーのユーモラスで切ない共同生活が始まる。そのうち、ジミーの日系人強制収容所での体験や広島で家族を失った過去が徐々に明らかになり…愛と友情の奇跡の物語である。


日本生まれのプロデューサー、マサ・ヨシカワと共に、アジア系アメリカ人のメディアを支援する公共放送関連団体(CAAM)、NY州の芸術基金(NYSCA)、インディー映画を支援する公共放送関連団体(ITVS)から資金を集め、あらゆる場面でチームとして一緒に作品を作った。また彼がいたために、『ミリキタニ』の日本での劇場公開が成功したという。その後国際交流基金からも助成が決まり、お金が入ればケイコさんに数ヶ月また来てもらって一緒に編集し、少人数の観客に見せてフィードバックをもらい少しずつよくして行く、という自転車操業のプロセスを経て、5年かけて完成した。プレミア上映となったトライベッカ映画祭で驚きの観客賞を受賞(ドキュメンタリーが取るとは珍しい)、その後数えきれないほどの映画祭に招待され、世界中を旅したという。ある映画祭で出会ったある人が35ミリのプリント(もとは3ccdのセミプロ用小型デジタルカムコーダーで撮影)を作る資金を寄付してくれ(!)、日本やドイツ、スカンジナビアでも公開された。内容、構成的にすばらしい作品である。


資金的に見た場合、どうだろうか。これは公立助成金及び公共放送関連団体との契約(放映料と引き換えに制作費を出してもらう)で作られた例であるが、テレビ放映用と同時にそれより少し長い尺のものを作って劇場公開している。劇場公開は非常にうまく行った例であるように思える。マックスの宿屋に泊まった客がヨーロッパで見たと絶賛していたし、東京に住む私の両親も結婚以来初めて(?)の映画デートに見たのがこの作品で行ってよかったととても喜んでいた。しかし、公開には宣伝費など多額なお金がかかり、自主制作の自主劇場公開でお金を儲けたと言う話はあまり聞かないのが現実である。現在DVD配給でリクープしているといいな、と願う。





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『ミリキタニの猫』主人公、ジミー・ミリキタニさん





ゲストの生の声② 芸能関係の弁護士のジャスティン・ワインバーグさん





エンターテインメントの弁護士のジャスティン・ワインバーグ(Justin Wineburgh)さんは、普段はハリウッド映画の契約を扱う超多忙な人物だが、Volunteer Lawyer for the Arts という市民の芸術活動を支援する弁護士の非営利団体に属していて、プロボノと呼ばれる社会貢献のための慈善事業として時々時間をさいて非営利のアート団体や大学にボランティアで講義に来たり、格安で契約や会社設立業務を手伝ってくれる。


彼が私の授業にゲストとして来てくれた時には、フィクション映画の生徒たちからさかんに質問が出た。幼なじみの体験をもとに映画を作ろうと、文才のある友人に脚本を書いてもらって制作を準備しているプロデューサー志望の生徒がいるが、なんとその脚本担当の友人のおじさんから2ミリオン(約2,000万円)の出資が約束されているとの話で、監督も雇う予定だという。その場合、どのような契約書を脚本家や監督と交わすべきか。また、長編フィクションの脚本を友人と書いてすでに撮影を進めている生徒が、仲のいいバンドに楽曲を提供してもらったが、万が一映画が売れた場合、お金のことでトラブルになるのはいやなので、今のうちにどのような契約をバンドメンバーと交わしておくべきか、など。




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ゲストで来てくれたプロデューサーのクリスティンさん


ゲストの生の声③ どこまでもエコな映画をもうすぐリリース予定のプロデューサー、クリスティン・フェアウェザーさん





始めての長編フィクション映画”Future Weather”(邦題はまだ未定だと思うが、『未来の天気』または『未来気候』?)を監督/脚本のジェニー・デラー(Jenny Deller)さんとチームで4年かけて仕上げているプロデューサーのクリスティン・フェアウェザーさん(Kristin Fairweather 名前もエコ)も、スケジュールを縫ってゲストとして来てくれた。自主制作ながら、先生役にリリ・テイラー(『シックス・フィート・アンダー』、『身代金』)、祖母役にエイミー・マディガン(『ロウ・アンド・オーダー』、『フィールド・オブ・ドリームス』)と大女優を配役している。しかし主人公は13歳の女の子、ラデュリー(ペリア・ハニージャーディン)、母親と二人でフィラデルフィア郊外で貧しいトレーラーハウス生活を送っている。


彼女のプロジェクトは、学校の周りのゴミ拾いやトレーラーのそばの空き地で種から育てた木々の成長を観察して地球温暖化を食い止めること。が、ある日母親がメモと50ドル札を置いて夢を追って出て行ってしまう。自活を決心するがおばあさんに感づかれ、母が育った町の小さな生家に引き取られる。しかし町で木を育てることはできず、やむなくプロジェクトをあきらめる。おばあさんはボーイフレンドとの新生活を夢見るがそれもうまく行かず、3世代の女性の微妙な家族関係の中、ラデュリーは地球の未来に心を痛めながら、新たな友人を見つけ、自分を見つけて行く…。制作過程もすべてエコを心がけ、「省エネ、ガス減、エコ製品、できるだけローカル」をモットーに、低予算でも許す限り地元の業者と提携し、撮影のセットもなるべくリサイクルや環境に優しい製品、ケータリングはなるべく地元の有機栽培系業者からと徹底して行った。




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クリスティンさんのクラスでのトークの様子





こうやっても映画が作れることをアピールしたかったそうだ(ハリウッドみたいに無駄に大きな映画予算がなくても)。資金集め戦略はグラント、脚本コンクール、企業、個人投資家と様々な分野で苦労してやったようだ。エコTシャツまで売り出している。どんなに先が見えないときでも2人で毎週カフェで会って、資金集めの新しいアイデアを出しあい、どうやったら投資してくれそうな人達に知ってもらえるかを考え行動に移し、決してあきらめなかったという。まずは脚本コンクールで入選して少しずつ注目を集め、いい役者を探した。長編の“連れ”作品として短編を作り、昨年ネットフリックスというDVD通信レンタル大会社のコンテストに応募、受賞は逃したものの最終選考に残り注目を集めた(後にリンクあり)。


その後、フィルム・インディペンデンツ主催の脚本家キャンプとプロデューサー・キャンプにそれぞれが参加、ネットワークを拡げた。そして今年春に超競争率の高いトライベッカ・インスティテュートのスローン・グラントを獲得。3度目の正直だったという。

『最初はこのガールズにできるのかという感じで相手にされなかったんだと思うけど、 毎年応募して、その度に他の団体や企業から少しずつ資金を集めて、プロジェクトが先に進んでいることを見てもらえたから、最後には完成した作品を見たいと思ってもらえたんだと思う』とクリスティンは生徒たちに話した。100万ドルを目指して資金集めしてきて、現在編集最終段階で今まで集まった分はほとんど使っていると思うが、まだ目標額には達しておらず資金が少し足りないそうだ。でも、ハリウッドの映画にまるで見劣りしないきれいな映像である。この日のトークは生徒たちのプロポーザルを一人ずつ批評する個人面談の後に行われたのだが、彼女は2児の母でもあり忙しいのに生徒全員の書類に事前に目を通し、私と一緒に座って批評してくれた。感謝である。日本でも上映されることを期待する。







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クリンスティンとジェニー、ロスアンジェルス映画祭で開かれたフィルムマーケット『ファストトラック』に参加して作品を売り込む






ウェブ・ポートフォリオ





さて、こうしてすばらしいゲストに恵まれた学期であったが、ゲストの話に頼るばかりでなく自分たちでも色んな発見があった。まずは今どきのアーティストになくてはならないウェブ・ポートフォリオ。自分のことを知ってもらうサイトである。生徒はお金がないから、ドメインネームを登録して毎月お金を払うことはまず考えない。無料でサイトを作るならばwordpressかbloggerが有名であるが(アメリカは特にwordpressが人気なようである)、最近はその他のプログラムでもテンプレートで誰でも簡単にサイトが作れる。


私はウェブは相棒のマックスにこれまで任せきりでどうしようかと思いながら勉強し、tumblrのテンプレートでyoutubeやvimeoから動画をはめ込める映像作家に適したテンプレートを探して生徒たちに紹介したが、あっさり一人の生徒がもっと使いでのいいテンプレート満載のweebly.comを発見、紹介してくれたため、クラスの多くがそれで自分のサイトを作り、weebly ファミリーとなって皆で笑った(生徒のサイト、後に幾つか紹介)。




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生徒のキムのポートフォリオ






その他デジタルに起こっているいろいろ




また、サンダンスやIFPを組織している人達は多分おじさん・おばさん(って、私と同じ年代くらいか…)なのだろうけれど、映画を消費する層は若い。ソーシャルネットワークを活用し口コミで拡げて行く戦略を持っていないとダメ、というのが非営利・営利を超えた業界のコンセンサスなようである。ネットで資金を集めたり配給する新たな展開としては、前述のindieGoGoやkickstarterの他に、幾つか新しいユニークな動きがあることもここ数ヶ月で学んだ。


まずは自分も是非使ってみたいのが、クラウド・コントロールズ。インディー・バンドや自主映画のウェブサイトに埋め込めるプログラムで、facebookなどのソーシャルネットワークサイトを通じて宣伝し、バンドや映画がもし自分の町に来たらライブや上映会に行く!と思う人達に自分のメルアドと郵便番号を打ち込んでもらう。バンドメンバーや映画制作者はそのリストを持って、ライブハウスや劇場のオーナーと交渉し、色んな町で演奏や上映ができる、とうプログラム。これはすごい。また、従来のグラントが枯渇しつつある中、ドキュメンタリーで“本当に”社会を変えようという新しい動きが始まっている。イギリスで始まったGood Pitch(グッド・ピッチ)は社会問題を扱う大手の非営利団体(グリンピースなど)やドキュメンタリー支援団体、財団、慈善事業家、メディアなどを観客として大ホールに招待し、社会派の映画プロジェクト8つを選んでピッチしてもらい、資金集めの仲人になろうという企画。

大変な反響で、ここ数年アメリカの映画祭にも遠征して仲人業務を行っている。また、オンラインで仲人業務をしてくれる素晴らしい団体も現れている( http://www.impactpartnersfilm.com/ )。トライベッカ(グッチ・ドキュメンタリー・ファンド)やフレッジリング・ファンドといった新しいドキュメンタリーへのグラントも、社会問題をテーマにしたもの、というのを大きく掲げている。配給の世界でも変革が起こっている。インディー映画の配給といえばこれまでオルタナティブな教育関連に強い配給会社か大手に買ってもらうなどしかなかったが、自主配給するインディー監督/プロデューサーが増えてくるにつれ、配給というものがいかに時間と労力のかかる作業であるかもわかってきた。そこでインディー映画を数都市に限って劇場公開しDVDセールスにつなげる手伝いをするブックング・エージェント/配給会社も色々現れていることもわかった。これにも、ソーシャルネットワークが大活躍する。


と、色々私が調べものをしては生徒たちにお伝えしている間にも、生徒の一人はKickstarterのキャンペーンをかけ、自分のプロデュースしている友人の作品に1,000ドル(現在の換算だと8万5千円くらい)を数週間で軽々集めた。やる者勝ちである。私もfacebookの友達を増やしておかなければ…。とは言っても、複数のゲストが共通に言っていたことで、心に残ったことがある。企業からお金を集めるにせよ、グラントに応募するにせよ、支援というのは結局人と人とのつながりで、そのつなぎ目になるのは作品そのもの。最後は作品に帰ってくる。これが人生だと思って、自分以外にいいと言ってくれる人がいなくってもふんばる。これは語られなくてはならない、という制作者の情熱と作品の質がコミュニティを作って行く。




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ミラー・マクーン誌主催のソーシャルネットワークやデジタル・ガジェットについての討論会





ソーシャル・ネットワーク・サイト活用の諸問題-問題、なのか?




ソーシャルネットワークサイト現象に関して、もう一つ面白いイベントに参加したのでついでにリポートしておく。11月初旬、仕事に行く前の朝8時、グランドセントラル駅すぐ近く、パークアベニューのビジネス・ビル内の広々としたイベントスペース“クラブ101”に、結構な数のおじさん・おばさん(自分もだって)が集まり、ソーシャルネットワーク現象について話し合っている。ミラー・マクーン誌(ジャーナリズムの雑誌)主催の「リアルを求めてーオンラインの世界のオフラインの価値観」と題した座談会。


ゲストはニューヨーク大学やコロンビア大学の教授、ジャーナリストなど。入場無料、ゴージャスな朝ご飯付き。私の勤めるハンターカレッジからのお知らせでいったのだが、ジーンズ姿は私一人。誰なんだろう、こういう会に来るのは…ディベートといっても、各ゲストがそれぞれの見解を話し、最後に質疑応答、という形態。ゲストの見解はソーシャルネットワークは子供をコンピューターにしがみつかせ、統計的に害ばかりだ、という心配派、大人である自分も朝起きたらすぐにブラックベリーをチェックし何を求めてるのかわからないのだから子供にどういっていいいかもわからない、という迷い派、ソーシャルネットワークは皆を結びつかせ実際に社会的にいいことを起こさせるすごい力だ、それにソーシャルネットワークで活発な人は実際のオフラインの世界でも社交的で違う価値観の人達と交わることが多いという推進派、その中間をとるバランス派、と分かれていた。


結論としては、現在の状況は混沌としていながらも前代未聞のすごいルネサンス期にいることだけは確か、自分たちは生まれたのが少し早くてアンラッキー、これからの子供達はものすごい情報をキャッチしながら毎日暮らし思考回路も脳の情報蓄積量も発達した新人類になるのだろうか、白黒、善し悪しと決めてしまうのはまだ早い、今は過渡期だ、グレーにも色んな濃淡がある、今のデジタル状況は例えて言えば1912年のラジオ、1950年のテレビ、または1996年のインターネット、これからすごいことも恐いことも両方起きるぞ、というようなことだった。子供達への影響が大きな論点の一つだったが、当の子供達は学校へ行っているのか、一人もゲストにいないのが何だか不自然に感じられた。大学生くらい呼べばいいのに、と思った。


その日はその後、2時間高速バスに揺られ、フィラデルフィアのテンプル大で日本映画の授業だった。その日に見た映画は森田芳光の『家族ゲーム』。80年代の東京にちょうど高校大学時代で、バリバリ家庭教師していた私にとっては、当時の東京のリアル感のない家族や受験の現実が強調された作風が大変リアルに感じられる作品であるが、2010年に生きるアメリカの若者達は映画は気に入ったがリアルに感じられるはずがない。そこで何が今リアルに感じられることか、というディスカッションに発展し、クラスの中で一番年少(18か19歳)の男子学生が言った言葉はなんと「『ソーシャル・ネットワーク』(facebookの創始者を題材にした映画)を見た。めちゃくちゃリアルだった。これが僕らの時代だ、って本当に思えた」。

私の104歳のおばあちゃんは何をリアルに感じて生きているんだろう、うちの両親は…と初めて考えた。現実感の違う世代がごちゃまぜに共に生きているのが人間界なんだ、と再認識する。今の時代をリアルに生きられるように、映画の資金集めのためにも私も頑張らなくちゃ、と心を新たにした一日であった。



(文章:タハラレイコ 写真:授業風景とミラー・マクーンのみタハラ、あとはウェブから転載または本人から送ってもらった)







リンク:

『円明院~ある95歳の女僧によれば』-マックスと私で作った長編映画(夏に東京で公開!皆様よろしく!):http://mrex.org



宇野港芸術映画座夏の上映シリーズ:http://mrex.orghttp://www.facebook.com/UnoPortArtFilms



インディーゴーゴー:http://www.indiegogo.com/



キックスターター:http://www.kickstarter.com



ロディー・ボガワさんのキックスターター・ページ:http://www.kickstarter.com/projects/search?term=roddy+bogawa

ウェブサイト http://roddybogawa.com/






サンダンス・インスティテュート:http://www.sundance.org/



IFP(ニューヨークの自主制作映画支援団体):http://www.ifp.org/



フィルム・インディペンデント(LAの自主制作映画支援団体):http://www.filmindependent.org/



フィルムフォーラム(ウェストビレッジのインディー映画と名画を上映する映画館):http://www.filmindependent.org/



アンジェリカ・フィルム・センター(ソーホーのアートハウス系映画館.ダラスやヒューストンにもある):http://angelikafilmcenter.com/



BAM(バム、ブルックリンのアートハウス系映画館):http://www.bam.org/



アンソロジー・フィルム・アーカイブ(グリニッジビレッジの実験映画専門映画館/名画座):http://anthologyfilmarchives.org/



フィルムメーカーズ・コープラティブ(アーティストが運営するインディー&アヴァンギャルド映画の配給組織):http://www.film-makerscoop.com/



サンダンスのドキュメンタリー助成プログラム:http://www.sundance.org/programs/documentary-fund/



トライベッカ・グッチ・ドキュメンタリー助成プログラム(最近創設された):http://www.sundance.org/programs/documentary-fund/



ファウンデーション・センター(非営利資金集めデータベース管理団体):http://foundationcenter.org/




『ミリキタニの猫』オフィシャルサイト:http://www.thecatsofmirikitani.com/

日本語サイト:http://www.uplink.co.jp/thecatsofmirikitani/



芸術活動へのボランティア弁護士団体(Volunteer Lawyer for the Arts): http://www.vlany.org/



“Future Weather”サイト:http://www.futureweathermovie.com/



“Future Weather”付属短編へのリンク:http://www.futureweathermovie.com/trailers.html




私の生徒のたちのウェブ・ポートフォリオ幾つか:



Craig: "http://craigscheihing.weebly.com/



Sarah: "http://sarahjoangreenleaf.tumblr.com/



Mark: http://mbcoffield.blogspot.com



Chris: http://chrisalbright.weebly.com



Colette: http://coletteboylan.weebly.com/



Kim: http://kimberlyburnick.weebly.com/



Santiago: trulygomez.blogspot.com(main page),vimeo.com/trulygomez(narrative & documentary),youtube.com/sucosoto(video art & music videos)



Audrey: http://asmiff.wordpress.com



Andrew: http://pabloagua.wordpress.com



Ginger: http://gingerjolly.weebly.com






クラウド・コントロールズ:http://crowdcontrols.cc/



グッド・ピッチ:http://britdoc.org/real_good/pitch/



インパクト(ドキュメンタリープロジェクトの仲人事業):http://www.impactpartnersfilm.com/



ミラー・マクーン誌主催のディベートの模様はこちらのビデオでフルで見れる:http://vimeo.com/16548379

詳しい記事:http://www.miller-mccune.com/media/offline-values-in-an-online-world-25100/








■タハラレイコ PROFILE


東京、吉祥寺出身。91年イリノイ大へ奨学生留学渡米、92年からNY。94年以降は夫の上杉幸三マックスと二人でドキュメンタリーや実験映画を製作。日本で見る西洋のイメージについての思索実験映画『レムナンツ 残片』(1994)は全米30以上の映画祭やアートセンターで上映、今年7月カナダの新世代シネマ祭でリバイバル上映される。マックスと共同監督の『円明院~ある95歳の女僧によれば』(2008)は岡山の老尼僧の人生を綴った探偵風私的長編ドキュメンタリー。ハワイ国際映画祭でプレミア後、NY、日本、スリランカなどの映画祭やギャラリーで上映、2011年夏にポレポレ東中野で公開予定、その後日本各地での展開を目指す。2007年度文化庁新進芸術家海外研修生としてデオドラ・ボイル教授(NY ニュースクール大学)のもとで先生修行、また映像作家アラン・ベルリナー氏に師事。以後、NY近郊の大学・大学院でドキュメンタリー史、制作、日本映画史などを非常勤講師として教えている(ニュースクール、NY市立大、テンプル大、ハンターカレッジ、来春からはNYUも)。2009年11月、次作の撮影のためマックスが故郷の岡山県玉野市宇野港に拠点を移し、瀬戸内海のアートアイランド直島を訪れる外国人観光客のための宿屋を開業、18年ぶりに日本に住み始めた。タハラは高校受験を控えた12歳の娘とブルックリンに暮らす。2010年夏より始まった宇野港芸術映画座上映シリーズ「生きる、創る、映画」( http://unoportartfilms.org , http://www.facebook.com/UnoPortArtFilms )は上杉・タハラの共同プロデュースで、毎年世界各地からの心を揺さぶる秀作品を紹介していく家族再会イベント。晩の野外上映では瀬戸内の島々を背景に、ビール片手にいい映画が見れる!世界中の映像作家とスカイプトーク等もあり。早稲田大学第一文学部卒、ニュースクール大学メディア学部修士課程修了。

公式サイト

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トシコの内的外的宇宙へのお誘い─ミディアムとしてアート作品を産み続けるNYの日本人女性アーティスト、トシコ・ニシカワ http://www.webdice.jp/dice/detail/2672/ Mon, 18 Oct 2010 06:03:29 +0100
トシコとオーブ(写真提供:ヴィルチェック財団)


来たる10月29日より、マンハッタン東73丁目(アッパー・イーストサイド)にあるヴィルチェック・ギャラリーで、ニューヨーク在住の日本人女性アーティスト、トシコ・ニシカワの 「千羽鶴:一千個の鏡球体に映し出される世界(Senbazuru: Reflections of the World in 1,000 Mirrored Orbs)と題されたミックスド・メディア作品の個展が開かれる。夏の始め頃、そのカタログのイントロ・エッセイを書いた。ある人物についての文章を書くのは、ポートレイト・ドキュメンタリーを作るのに似ている。今回は少し映画の話題から離れるが、日本の読者の皆さんにも興味を持っていただけるアーティストだと思うのでご紹介したく、そのエッセイの日本語訳に多少手を加えたものを今回の記事として掲載させていただくことにした。





イントロ・エッセイ

トシコの内的外的宇宙へのお誘い

タハラレイコ(映像作家)



トシコ・ニシカワは自分を“ミディアム”(媒介者)と呼ぶ。アーティスト・ステートメントの中でも二度繰り返している:

「私はアート作品を産むために生まれて来たミディアム」

「私は科学者でも哲学者でもないただのメディアム、だから何らかのエネルギーがやってきて生まれるべき何かが体内に形成されるのを待つだけ」

春、マンハッタンのアッパーウェストサイドにあるヴィルチェック・ギャラリーのスタッフから、この秋開催予定の展示会パンフ用のイントロ・エッセイ執筆の依頼を受けた。彼らによれば、そのアーティストの作品は“優しく”“パステル調で”“自然派”、そして“インタラクティブ”。その展示で使うというオーブ(球体)の見本を見せてもらった─半分が光る銀色、半分が透明の、シンプルな玉だ。 ギャラリースタッフのリックとアンは、瞳にいたずらっぽい笑みをたたえながら、ギャラリー内につり下げられた千個のこの玉が、来訪者の姿を反射しながらフシギな世界を創りだす構想を説明してくれた。



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トシコのオーブ(写真提供:ヴィルチェック財団)


過去の作品



家に帰ってトシコの過去の活動について調べてみた。様々な陰影の白とパステルの筋が下の層の流れを見せ隠ししながら流れ落ちる平面の作品、それらは雪、水、雲などを連想させる、とあった。その後、アクリル画の箱とキャンバスを組み合わせた新しいスタイルを発表、透明の箱にアクリル絵の具で描かれた多様な形がキャンバスに落とす影を利用して、見る人と共に創って行くアートの形態を提示した。



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Mr. 0525195500, 2006



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Mr. 0616195600, 2006


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Metamorphosis 1 , 2009


「光源の場所や皆さんの立ち位置によって私の作品の見え方はまったく変わる。だから、皆さんのイマジネーション抜きでは私の作品は完成し得ないのです」と彼女は書いていた。アゴラ・アーツ・ギャラリーのプレス・リリースによれば「絶えずうごめく西川の作品は静かで穏やかで、乱れ狂うことがない。繋がることを目指しながら、私たちが実はどんなに色々な方法でものを知覚できるかを親密に見せてくれる」。なんか、よさそうではないか。彼女のスタジオを訪れて会うのが楽しみになった。でもその時には、彼女の作品の“形を持った精神性”のパワーも、彼女のミディアムとしての存在感も、知る由はなかった。





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作業風景




オーブの秘密



トシコを初めて訪れた時、彼女は整列された半球たちの真ん中に姿勢よく座って、明らかに集中した様子で、その半球の内側に、一つ一つ、 線を描いていた。彼女のトライベッカのスタジオは静まり返っており、その空間で唯一認知できた動きは、彼女がひっそりと息を吐きながら手のひらの上の半球にあてる、筆運びの小さな弧のみだった。これがこれからの数ヶ月間に繰り返されてそれぞれの半球の内側に複雑な線の模様が描かれ、それが二千個作られて、千個のオーブができ上がるのだ。



彼女が説明してくれた、この作品の摂理、というか、奇蹟というか、は以下の通り:「この線たちが、オーブの真ん中に小さな地球を創りだすの。線がなければ、オーブの内側はただのぼんやりとした空間。もともとの太い線がまず反射して細い線を生み、その反射がさらに細い線を生む。そのうち私たちの目が、オーブの中の小宇宙の真ん中に美しい小さな地球を見始める。線が太すぎても細すぎても、地球は生まれないのです」。



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オーブ


アクリル・ボックスのシリーズを創った後、トシコの作品はさらなる進化を遂げた。自分自身と作品を平面性や箱という閉塞感から完全に解き放ちたいと考えていた2009年初頭のある日、突然に“ビジョン”はやってきた。いつものように、午前3時頃だ。そのビジョンにオーブの中の宇宙を見て以来、それを具現化する方法を探し始めた。「このオーブを店で見つけた時、単純に、あ、これだ、と思ったの。だってオーブの中の線のアイデアはすでに私のビジョンの中にあったから」と彼女は言う。同年春トライベッカのオープンスタジオ・ツアー「トーストウォーク」に参加した時、すでに幾つかの試作品を展示している。そのうちどこかで、どうにかして、たとえどんなに途方もないアイデアだとしても、千個のオーブを創って展示したい、と考えるようになった。ニューヨークをベースにアメリカ一世移民のアーティストや科学者を応援するヴィルチェック財団が、何か展示会をしてみないか、と偶然にもトシコに連絡したのは、それから間もなくしてのことだった。



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Gallery Guide April 2009より


一緒に創り一緒に存在し繋がっている世界



「私たち日本人は平和や病気の回復を願う時千羽鶴を折りますが、それと同じ気持ちで、この千個のオーブで皆さんに、皆さんご自身が実はどんなに美しいかに気づいてもらいたいのです。オーブの中の小さな宇宙に皆さんをご招待して、ご自分の姿を見てほしい。そして、皆さん一人一人こそが、この小さな、美しい世界であることを実感してもらいたい。私たちはこの世界に共存していますが、だからといってホコリの粒みたいに小さいということじゃないと思うんです。私たちが一緒に創る世界に共に存在している、ということだと思うんです。だから、このプロジェクトに参加していただくことでご自身のポートレートを創ってもらい、それがキレイだな……と感じていただけたら嬉しいです」と彼女は言う。展示では、オーブ同士すべてが糸で結ばれるという。トシコの世界の中では、オーブに触れたりその中に自分の姿を見たりする私たち“見る者”同士もまた、複雑で反射的でマジカルな回路で、繋がれるのである。



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ミディアムとしてのトシコ



数ヶ月に渡り彼女を訪れ幾度か座って話をする期間中、私はずっと、ミディアム〈媒介者〉として存在することについて考え続けていた。彼女はあのオーブの中の反射する線のように多次元的な意味でミディアムであるのだろうと思えた。まず第一に、トシコはヒトと自然を媒介する。作品群の着実な進化の過程で、様々な形態での自然が─雨、雲、雪、影、さらにはミトコンドリアまでも─彼女が世界を見る見方を表現している。ここで何よりも驚きなのは、トシコに単なる自己表現としてアートを創る気持ちが、からっきしないことである。今回のミックスド・メディアのオーブ・インスタレーションは、トシコの創る宇宙の小さな細胞になりませんか、という私たちへの誘いだ。そしてこの宇宙に足を踏み入れると、私たち一人一人の心にまた自分なりの宇宙を創るよう誘われ、その心の小宇宙が私たちを現実の外の宇宙へとつなげる窓となる。東洋思想か、はたまた手塚治虫の世界か、トシコのアートは見る者をミクロとマクロ、内向きと外向きの世界に同時に存在するよう誘う─“自然”と私たちが呼んでいるこの世界の一部として。




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第二に、トシコは私たちを分け隔てるすべてのもの─距離や時間や国籍や性別といった─を超えて人間を媒介する。彼女が最近の作品になるべく色を使わなくなったのは、光にはすでにすべての色が入っているからだという。自分の選んだ色で事物を表現したくない、そのかわりに、見る者に光そのものを見せ一緒にアートを創りたいのだという。色はただの光の反射、光が事物をどう照らすかにより私たちの目が受け取る錯覚に過ぎないという。「色にせよ人種にせよ、発生の時点ではとても単純だったと思うの。私たち人間はそれに名前を付け、カテゴリーに分類し、国境や民族を定めて分けてしまう。でも私は私たちの発生の起原に戻りたい」。



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Metamorphosis 3, 2009


2004年にトライベッカに移って間もない頃、トシコは世界貿易センタービル跡地を初めて訪れた。その時、失われた生命のエネルギー体を感じ動けなくなったという。「短く終わってしまってやりたいことができなかった命たち─それらがまだそこに残っていて私の中に入って来たのです。一千という数字はまた、彼らの希望であり平和への祈りでもあります。その意味では、今回のプロジェクトはここトライベッカで生まれるべきものだったとも言えます」。




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写真提供:ヴィルチェック財団


オーブに映る1000年後の子孫の姿



媒介者トシコのベクトルは、私たちを未来にも運ぶ。なぜこの作品を今創るのかというと、世界の終わりを唱える悲観論者たちが間違っていることを証明したいからだという。今から1000年後に、私たちの子孫は必ずここにいる、彼らとこのインスタレーション・アートを共有することが、今回のプロジェクトの最大の意義だ、とトシコは言う。西暦3000年を生きる子孫がどう思うか、と思いを馳せながら、自分だけの基準で作品を判断しないようにしながら創る。オーブにも人間にも生き残ってほしい、そしてオーブに現代人の顔とは色々違うかもしれない未来人達の姿を映し出してほしい。「その時その中に映る美しい球体を彼らがどう思うか……できれば、“これって、わたしそのものだな”って素直に思えるような子孫でいてほしい」。



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ミディアムというのは、古くから女性であることが多い。日本だけじゃなく、アジア全体を見ても古代ギリシャでもアフリカでもアメリカ先住民族でも、果てはハリー・ポッターに出てくる預言者シビル・トレローニーも、 いろいろな文化で霊媒の女性が登場する。あの卑弥呼も女性であり、シャーマンであった。それはなぜなのか。トシコはすぱっとこう言う。「私はアートを創るけれど、作品は私の創造物とは思えない。生まれるべくして出て来ただけのこと……私たちの子供と同じ。確かに産んだのは私だけれど、彼らを私が創ったわけじゃない。時々自分の子供を見て、“こんな子がよく私から出てきたものだなあ”と感心することがある。それと全く同じで、自分の作品でも、よくこんなのができたなあ、よく自分から出てきたなあ、と思うことがある。でも落ち込んだ時は、私が未熟だからせっかく生まれて来たものに対してそういう評価しかできないんだ、って自分は思うようにしているんですけど。自分の仕事は作品を宿し産むことであって、評価することではないんだ、って」。




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トシコ・ニシカワ(写真提供:ヴィルチェック財団)


光と影



こうした前向きな姿勢の裏側には、影がある。トシコは横浜で、石油業を営む裕福な家に三女の末っ子として生まれた。 両親は長男の誕生を待ち望んでおり、 望まれない3人目の娘だった。男の子として育てようと、両親はトシコの髪を剃った。幼稚園入園初日に、ベレー帽を取りなさいと先生にしかられた時のことを今でも覚えているという。ぼうず刈りの頭を他の子たちに見られたくなかったのだ。女の子でいるのはよくないこと、と子供ながらにはっきり感じていたその気持ちが、時とともに“なぜ女の子じゃいけないの?”、そして“私はトシコ、一人の人間、一つの命”と変遷していった。考え深く生まれつきの才能もあったトシコは、次第に胸のうちの言葉で説明できないような事柄はアートで表せばいいのだ、と思うようになった。年少にして多くの賞をもらい、多摩美術大学に合格した。そこでは油絵と版画を学んだ。卒業後ほどなくして結婚して立て続けに子供が二人生まれた。プロポーズを承諾する条件は、創作を続けることだった。子供達がまだ小さい頃に、夫の仕事で家族はアメリカに移住し、トシコはかなりの努力とエネルギーで創作活動を続けてきた。油絵の油が子供の体に悪いから、と、サンフラワー・オイル等色々なオイルで試してみたが、うまく行かず、結局アクリルに転向した。



障害は子育てだけではなかった。結婚生活の影もいつもつきまとった。それはきっと、日本社会の今の世代とその前の世代の間の価値観のゆがみのせいだ、とトシコは言う。今を生きる日本人女性にとって独特の挑戦:人生の目標に向かって生きろと教育されながら、一方では、意識的にせよ無意識的にせよ変化を望まない社会や配偶者、そして自分自身とも対峙してゆかねばならない。困難な時を子供たちのために耐え忍び、夫がいつか今の時代には受け入れられない行動を避けるようになって二人一緒に成長していけるように望み続けた。その間、創作は絶対にやめなかった。アーティスト・ステートメントの中の次の言葉が新しい意味を持ち始める:「悶えと想像を絶する痛みがあるから、自分の役割の重さを認識できる。女として生きるのは素晴らしい。アーティストとして生きるのはすごいことだ。人間として生きること自体が、私にとっては驚くべき体験だ」。純粋で光りに満ちた世界を生み出したいというトシコの欲求は、長く暗い夜に熟成されていたのだ。



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Metamorphosis into Love, 2008


ジャンプ



成長した子供達が家を出た2003年、彼女の夫が日本に呼び戻された。トシコはアメリカに残り、 創作に没頭できるようにニューヨークに単身移った。彼女の第2の人生はその日に始まった。 夜も昼もアートのことを考え、夢の中でも考えた。さびしいなんて全然思わなかったという。「ニューヨークに来て、私一人になって、すべてが変わりました。やはりすぐそばに家族がいて、子供がいて、その中から創る作品というのとは入り込み方が全く違って……それまで創っていた私のアートは、いわばスポーツ選手が怪我してしばらくスポーツできない間のリハビリ?だったのかな、と思いますね」とトシコは笑う。アートの世界に身を置くすべての女性にとって心に響く言葉だ。経済的・精神的な複雑な問題をお腹に抱えながら、私たちは皆それぞれに、ヴァージニア・ウルフが『自分自身の部屋(A Room of One's Own)』と呼び、アリス・ウォーカーが『母の庭(Our Mothers' Gardens)』と呼んだ場所を探し続ける。それは実は女性だけではなく、“お金がいる”“家族の必要が優先”の日常を送りながらもアートを続ける(または自分を探し続ける)すべての人に共通のジレンマなのだと思う。でも、その膝をかがめて待ち続けたリハビリのおかげで、いざ跳んだ時のジャンプはより高く、はじける瞬間のはじけ方が普通の人とは違ったという。



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その後の7年間に、トシコはニューヨーク・チェルシーのアゴラ・ギャラリーで個展を開き、さらに活動を拡げ、ニューヨーク州各所、韓国、日本、オーストリア、イタリア等でグループ展に参加している。「それは自分の中に、絵に携わる人間として“創りたい、やりたい”っていう気持ちが長年積み重なっていたからこそできたことなのです。私才能とかあんまり考えたことないんですけど、もしかしたらそういうものがある種の才能というか、一番作家として重要なことなんじゃないか、という気がしています。どんな状況/苦境をもバネの一つに組込めるかどうか、というのが大切なんじゃないかと思います」。成長した子供達が遠くの街で悲しい体験をして電話をしてくる時、トシコは夜通し彼らを思って絵筆を運ぶ。それが今、唯一彼女がしてあげられることであり、またそれが彼女の職業であり運命なのだ。





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20年使ってきた筆。これでないと繊細な線が描けない。




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トシコ、トライベッカのアトリエで


プラトンは太陽を善の象徴として捉えた。彼によれば、私たちの目とは、光がなければ機能せず事物を認識できない、つまり媒体を必要とするという点で特殊な感覚器官である。トシコはその媒体、光となって、私たちの心に太陽を届けようとする。私たち一人一人の心の中で光って、裸眼が認識してくれないかもしれない物事を私たちが見られるように照らしてくれる。そのやさしく、いたずらっぽい心で、私たちが光の中へと踏み出せるよう誘ってくれる。光は物事に輪郭を与えるだけではない。生体電子的な熱も生む。トシコの招待を受けて私たちがギャラリーを訪れるとき、私たち自身が周囲の人達と一緒に癒しのエネルギーを生み出し、ギャラリー内の特別空間は反射性の熱を帯びて光ることだろう。





(文章・写真:タハラレイコ[記載のあるもの以外])






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「Senbazuru: Reflections of the World in 1,000 Mirrored Orbs」1週間後のオープニングを待つギャラリー空間(撮影:トシコ・ニシカワ)





西川敏子ウェブサイト:

http://www.toshikon.com/



トシコ・ニシカワ

ヴィルチェック・ギャラリー個展インフォ:


10/29/2010 - 12/09/2010

The Vilcek Gallery

167 East 73rd Street, New York, NY 10021

Hours: Wednesday - Saturday, 12 PM - 6 PM and by appointment

Press Contact: Anne Schruth; 212.472.2500/ anne.schruth@vilcek.org

http://www.vilcek.org/gallery/on-view-now.html



トシコの作品を販売しているオンライン・ギャラリー:

アートネット

http://www.artnet.fr/artist/425796887/toshiko-nishikawa.html



その他、トシコの作品を掲載しているサイト:

Arts in Spectrum (レビューあり)

http://www.artisspectrum.com/Artist-Profiles/Volume-21/toshiko-nishikawa.html



アーティストレジスター

http://www.artistregister.com/nishikawa.html



アゴラギャラリー・アーティストページ

http://www.agora-gallery.com/artistpage/toshiko_nishikawa.aspx



Agora Gallery 2006年個展レビュー

http://www.agora-gallery.com/SpecialExhibitions/The_Enigmatic_Existence.aspx



Agora Gallery グループ展レビュー

http://www.agora-gallery.com/exhibitions/reviews/review_Japanese_Painting.aspx










■タハラレイコ PROFILE


東京、吉祥寺出身。91年イリノイ大へ奨学生留学渡米、92年からNY。94年以降は夫の上杉幸三マックスと二人でドキュメンタリーや実験映画を製作。日本で見る西洋のイメージについての思索実験映画『レムナンツ 残片』(1994)は全米30以上の映画祭やアートセンターで上映、今年7月カナダの新世代シネマ祭でリバイバル上映される。マックスと共同監督の『円明院~ある95歳の女僧によれば』(2008)は岡山の老尼僧の人生を綴った探偵風私的長編ドキュメンタリー。ハワイ国際映画祭でプレミア後、NY、日本、スリランカなどの映画祭やギャラリーで上映、2011年2月にポレポレ東中野で公開予定、その後日本各地での展開を目指す。2007年度文化庁新進芸術家海外研修生としてデオドラ・ボイル教授(NY ニュースクール大学)のもとで先生修行、また映像作家アラン・ベルリナー氏に師事。以後、NY近郊の大学・大学院でドキュメンタリー史、制作、日本映画史などを非常勤講師として教えている(ニュースクール、NY市立大、テンプル大、ハンターカレッジ、来春からはNYUも)。2009年11月、次作の撮影のためマックスが故郷の岡山県玉野市宇野港に拠点を移し、瀬戸内海のアートアイランド直島を訪れる外国人観光客のための宿屋を開業、18年ぶりに日本に住み始めた。タハラは高校受験を控えた12歳の娘とブルックリンに暮らす。2010年夏より始まった宇野港芸術映画座上映シリーズ「生きる、創る、映画」( http://unoportartfilms.org , http://www.facebook.com/UnoPortArtFilms )は上杉・タハラの共同プロデュースで、毎年世界各地からの心を揺さぶる秀作品を紹介していく家族再会イベント。晩の野外上映では瀬戸内の島々を背景に、ビール片手にいい映画が見れる!世界中の映像作家とスカイプトーク等もあり。早稲田大学第一文学部卒、ニュースクール大学メディア学部修士課程修了。

公式サイト

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手作り野外トレーラー・シアターも!『宇野港芸術映画座』奮闘記、映画祭はこうして作られる http://www.webdice.jp/dice/detail/2587/ Tue, 17 Aug 2010 13:00:01 +0100
宇野港芸術映画座の野外上映。この日、瀬戸内海の向こうの高松は雷雨(スクリーン右)、こちら側の宇野は満点の星空!(撮影:中村智道)



去る8月2~8日、岡山県玉野市宇野港で、夫の上杉幸三マックス(宇野港出身)と二人で映画の上映シリーズ『宇野港芸術映画座~生きる、創る、映画』を開催した。

さらりと言ってみたこの2行の中に、どんなに長い連続無睡眠の時間とドラマが詰まっていたことか、今回の記事では、その息吹をお伝えしたい。





なぜ今、宇野港なのか



まず、一体宇野港とはどこで、そこで何が起こっているのか、を説明する。

宇野港はかつての四国への玄関口、宇高連絡船(電車がフェリーに乗り入れる、あれです)と三井造船の町として70年代に隆盛を極めた。しかし造船業の不振や瀬戸大橋の開通等で、ここ30年ほどは過疎化が進み、その減退の速度があまりに早かったことに対し国からの補助が出ているほどだった。そのサビれた港町が今、アートで再生しようとしている。それには、フェリーで20分、瀬戸内海を挟んで浮かぶ直島が深く関係している。

ベネッセコーポレーション(もと福武書店)が自治体と安藤忠雄と一緒に直島に前衛的なアートを持って来るようになって既に約20年が経つ。ベネッセハウス(美術館&ホテルコンプレックス)ができたのは90年代前半、家プロジェクトとして島の古い家屋を保存しつつ現代アートをそれに絡めて展示したのが1998年から2002年。この頃から“サイト・スペシフィック・ワーク”としてアーティストを招聘してデザインしてもらい恒久展示する、というのが基本姿勢になった。そして2004年にはジェームス・タレル、クロード・モネ、ウォルター・デ・マリアというたった3人のアーティストの作品を、安藤忠雄の地中に掘った美術館に自然光のみで展示するという新しい発想の“地中美術館”を設立。展示された作品と美術館の建築との調和はまるで宗教的体験に近い(これは私の感想) 。そして今年、7月から10月まで、第1回瀬戸内国際芸術祭が開かれ(今後3年ごとに開催)、瀬戸内7つの島を島の風土・建築を活かしながらアート・アイランドとして開発、それに高松も含めて大きな現代アートの祭典となっている。 そういうわけで瀬戸内は今、国内外の美術館ゴアーから注目を集めている。



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緑の濃い直島。坂を上がって、地中美術館へ。


宇野は、そのベネッセのアート活動の拠点直島からフェリーで20分、直島が属する香川県の高松よりもずっと近い。県は違えど、直島と宇野の住民はベネッセが来る前から一緒に暮らして来た。直島には大きなスーパーがないから、おばあちゃんたちは毎日買い物車を押してフェリーで宇野に買い物に来るし、マックスが通った学校にも、直島町民が沢山いた。玉野市営図書館も、直島町民は使うことができる。今回の瀬戸内国際芸術祭では7つの島+高松と香川県とのタイアップのせいで岡山側は宣伝から除外されているが、宇野は実は直島や豊島に行くのに便利なので、敏感な旅行者(特にJRパス利用の外国人観光客)は宇野から直島を目指す。



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宇野港。手前の大きな空き地が宇野港芸術映画座の野外上映会場。右端真ん中のスカイブルーの建物の向こう側が駅東創庫。


そんなことで、宇野港に近年アーティスト達が集まり始めている。倉敷や県北など岡山の他の地域から来ている人、関東や関西出身で結婚で岡山にやってきて宇野を見つけてアトリエを構える人、玉野出身で海外や東京などでアートを学び戻ってくる人など、様々だ。その宇野のアートの中心、4年前にできた駅東創庫(えきひがしそうこ)は、もと工場に10人のアーティストがアトリエ/ギャラリーを構える創造性あふれる空間。



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駅東創庫外観


ガラス作家の森美樹(みき)さん、造形作家の佐藤史仁(ふみひと)さん、 造形作家の清水直人(なおと)さん、平面・立体造形美術家のシゲルさん、染色家の北野静樹(しずき)さん、などなど、それぞれが個性溢れる作品を創る方達(詳しくは 駅東創庫 サイト 記事最後リンク参照 ※1)。宇野の彼らは、岡山の他の地域、赤磐や倉敷などのアーティスト達との連携も強く、彼らの個展やグループ展のオープニングレセプションに行ってみれば、海外で勉強中の岡山出身のフルート奏者の演奏が聞けたり、長年ニューヨークに暮らすアーティストもいるし、着物姿の女性もいるし、美味しい手作りのお漬け物がでてきたり、と和洋折衷古いもの新しいもの混ぜ混ぜで、かなり刺激的である。



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創作中の清水さん(手前)と佐藤さん





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森美樹さんとガラス作品。彼女の作品はとても不思議な魅力がある。



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佐藤さんと清水さんの作品たち


宇野港芸術映画座上映シリーズ~生きる、創る、映画~の誕生



さて、前置きが長くなった。そういう場所で、この宇野港芸術映画座、Uno Port Art Films は誕生した。これには、連載2回目で触れたマックスの宿屋が関係している。彼が昨秋直島を訪れる外国人観光客用の宿屋を宇野港近くで始めて、どんな人達が何を求めて直島に来るのかが、肌で分かるようになった。実際に自分でも建築や絵画やグラフィックや音楽といったアート界隈で働く人が多く、どの人もアート・マインデッドでオーガニックな人が多い(記事最後リンク参照 ※2 )。彼らとなら繋がれる、という感触がまずあり、そして地元出身のマックスは地元の人達のこともよく分かっている。吉祥寺出身、ブルックリン暮らしの私にとっても、マックスと16年前に暮らし始めて以来、宇野港のある岡山県玉野市は第3の故郷である。だから、モノやヒトが通って行く宇野で、通りすがりの観光客と地元の人達が繋がれるイベント、そして私たちにとっては家族再会の夏、私たちが今離れて暮らすニューヨークと宇野の町を繋げるようなイベント、という気持ちで企画した。



少ない予算内でのプログラミング



まずはプログラム、テーマはこの連載と同じ、「生きる、創る、映画」。これまで色んな映画からもらったエネルギーを、皆にも伝えたい、運びたい。アートとしての映画の持つ力(特に治癒力、かなあ)を普段そういうものに触れていない人達にも知らせたい。と同時に、映画は若いアートフォームだけれど、それでもこの100年余の映画の歴史とキュービズム以降の近代/現代美術の歴史は、20世紀の世界の思想・政治の変遷とともに幾度も重なり合ったり離れたりしながら続いて来ているので、そういう映画とアートの関係みたいな大きなテーマを頭の片隅に置きつつ、ベネッセの提示するコンテンポラリーアートを意識しながら、古今東西のソウルフルな作品、制作者が人生を投影しているがゆえに私たちの心に響く作品を紹介していきたい。そして、こんな作品を見せたい、と希望で書いた企画書をベネッセ財団に提出、小額ながら今後3年間の助成が約束された。わかってもらえたような気がして、嬉しかった。その後玉野市からも小額の助成がいただけた。

ぶっちゃけ、集まった資金は56万円、それで何ができるか、が私たちに課された挑戦となった。当初の上映作品希望リストには1920年代のフランス、アメリカ、ロシアなどのアヴァンガルド作品、マヤ・デレン、今村昌平の『人間蒸発』、タルコフスキー、クリス・マルケル、寺山修司、原一男、それに世界中で活躍する映画仲間の秀作品などが満載されていた。皆さんと共有したい映画はゴマンとある。でも、今年は時間が少なく資金集めが十分にできなかったので、そのうちのほとんどは予算不足で上映できないことが調べるうちすぐにわかった。日本の古い名画も見せたいが、日本のスタジオ映画の配給システムがかなり乱暴で、スタジオ作品を見せるのはなかなか難しいこともわかった。そこで、今年は等身大のイベントとして、“世界のアート映画秀作品”“瀬戸内エイガ!”“アメリカの若者の声”、の3本柱でプログラミングした。改めて考えると、20年弱のニューヨーク生活で私たちが知り合った映画仲間達には人間的にも映画人的にも非常に優れた人材が多く、世界中にその後散って色々考えながら生み出される彼らの作品が私たちは大好きで、私たちだけでなく、彼らはカンヌやトライベッカやポンピドーやMoMaまで様々な映画祭や美術館で高い評価も得てきている。そのほとんどが、日本ではほとんど紹介されていない作品だったので、まずはその中の数人の作品を今年は紹介させてもらうことにした。








宇野港芸術映画座 Uno Port Art Filmsフライヤー、表裏 + クリックで拡大表示されます


3本柱とラインアップ


前述の3本柱は多少重複するのだが、“世界のアート映画秀作品”として私たちが今年紹介したのは以下の監督&作品:


■アラブ・イメージ・ファンデーションを創設し、アラブ諸国の庶民の写真や音声録音をアーカイブしつつ、その中から自分のアート作品を通じて西洋メディアが映し出さないアラブのイメージを提示し続けるレバノンのアクラム・ザアタリ(Akram Zaatari) の作品3点、『赤いチューインガム』『彼女と彼、ヴァン・レオ』『ディス・デー』



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『彼女と彼、ヴァン・レオ』は、カイロの白黒ポートレート写真家についての創作ドキュメンタリー



■アムステルダムの中国人社会の閉塞感とその中でどこにも属せずに生きる2世移民の姿を描いたオランダ生まれの中国人監督フー・ピン・フー(Fow Pyng Hu)の長編デビュー作『ジャッキー』。カンヌ映画祭で上映。


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『ジャッキー』共同監督/主演一人二役のフー・ピン・フー



■日系2世の母が故意に失った第2次大戦中の日系米人強制収容所での記憶を、3世の監督がイメージと物語を与えることで自分が紡ぐ歴史として取り戻した秀作品、リア・タジリ(Rea Tajiri)監督の『歴史と追憶』(History and Memory)。アメリカのドキュメンタリーの本には頻出する有名な作品だが、日本では山形で当時一度上映されたのみ。今回この複雑で貴重な作品に、クリエイティブに日本語字幕をつけて上映した。



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母親の失いかけた記憶に映像を与えたリア・タジリの『歴史と追憶』



■アメリカの女性作家ローリー・ハイリス(Lori Hiris)の現代遺伝子操作技術と優生学(白人至上主義)との関係性について問いかける非常に芸術性の高いアニメーション作品(チャコールで描いては消し、を繰り返す手法)『アトランティス・アンバウンド 1&2』



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『アトランティス・アンバウンド2、プロテウス』より




■超右翼系パンクバンドの雨宮処凛(現在ではゴスロリ作家/プレカリアート社会運動家として活躍)と伊藤秀人を左翼系の土屋豊監督が被写体にカメラを渡すことで撮りながら、被写体と制作者の間の壁が徐々に破れ、そうして視聴者との間の第4の壁も気づけば打ち砕かれているという、伝説的な思想的パンク青春ラブドキュメンタリー『新しい神様』。12歳のうちの娘、絶賛。



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『新しい神様』の伊藤秀人、雨宮処凛、土屋豊




■トライベッカの観客賞を取り世界中で公開されて話題を呼んだ、ニューヨークの日本人ホームレスアーティスト、ジミー・ミリキタニとアメリカ人の監督との友情を描いた奇蹟の感動ドキュメンタリー『ミリキタニの猫』



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『ミリキタニの猫』のジミーさん




■そして連載第一回 で紹介した旧ユーゴ、セルビア出身のドキュメンタリー界の新星イヴァナ・トドロビッチ(Ivana Todorovic)のセルビア時代の作品『ラップリゼント』(ベオグラードのホームレス・グラフィティアーティスト青年ボヤンの切ない物語)とアメリカでの新作でカンヌ上映された『ハーレムマザー』(twitterでつぶやいてくださっている沢山の方々、ありがとう!Ivanaに伝えました)。



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ボヤンとイヴァナ


“瀬戸内エイガ!”カテゴリーでは、私が長年敬愛する今村昌平監督の『黒い雨』(撮影は岡山県)の16mmプリントを今村プロダクションのご厚意でお借りすることができ、黒い雨が降った瀬戸内の海を背景に8月6日のその日に国際的なオーディエンスの前でそれを上映できる、と二人で盛り上がった。そして徐々に、本田孝義監督の自伝的ドキュメンタリー『ニュータウン物語』や絵画出身のアニメーターである中村智道監督の思想的なアニメ作品『ぼくのまち』や『蟻』など、岡山からのパワフルな作品も集まった。



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中村さんの『蟻』


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本田さん『ニュータウン物語』


“アメリカの若者の声”カテゴリーでは、連載2回目で触れたアドビ財団の協力で中高校生の作品を4点(トライベッカ上映を果たした娘の『投下者と被爆者と?』も含めて)と、私が教えるNY市立大の生徒3名とテンプル大の生徒2名の作品を紹介した。年齢、人種、テーマ的にも雑多で、NYで感じられる今のアメリカの息吹が伝えられたように思う。



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『プロブレム・キッズ(問題児)』NYの高校生たちが作ったラップ・ミュージック・ビデオ



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『ヴァレンティーノX』もとコソボ難民のNYの大学生監督が撮った、同じコソボ出身のヘアスタイリストのポートレート。人を幸せにする映画を作るのが彼の夢。



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テンプル大学に通うライアン・リーラッシュの『観ろ/見ろ』。ポスト9.11.のアイデンティティを扱った作品


それと、自分たちの作品


世界の秀作品に入れるのははばかられるし若者ではないし、『円明院』以外、瀬戸内で撮っていないけれど、とりあえず自分たちの作品も入れされていただいた。



『円明院』

宇野で95まで現役で働いた老尼僧さん“おじゅっさん”が語らなかったオンナの気持ちを探しながら、真言仏教界内の尼僧の居場所を探して高野山へ旅し、女性にとっての自由や独立や家族生活の意味を思索した探偵物語風私的ドキュメンタリー。ハワイ国際映画祭、スリランカ国際仏教映画祭、岡山映画祭など。高野山社会人権局から上映中止のクレームが入った問題作。

8月18日(水)なかのZERO視聴覚ホールで東京特別上映会

18:15開場/18:30上映、1,000円、定員100名、予約なし



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『円明院』の主人公、“おじゅっさん”


『現実の音パート1』

デジタル革命を生きる私たちの耳に“聞く”ことと“聴く”ことの違いをユーモラスに問うた上杉幸三マックスのラジオエッセイ第1弾。ニューヨークWBAIラジオで何度も放送。オーディオアートながら、主催者の紹介のために今回特別に日本語字幕を画面に映しながら上演した。



『レムナンツ 残片』


1994年制作の私の原点とも言える16ミリ作品。メディアが映す欧米像や日本像の中を駆けながら家族との対話を通して個の声を探した私的映像エッセイ。マーガレット・ミード、SXSW映画祭等、今年7月カナダのシンセダイ・シネマ・フェストでリバイバル上映された。



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『レムナンツ 残片』タハラレイコ 1994、12分


と、自分たちの過去作品も入れながら、前述の3本柱を軸に、長編7本、短編2プログラム、それに若者プログラム、と計10プログラムが編成された。



野外トレーラー・シアターを実現するために



内容が決まったら、場所である。晩の野外上映をメインにしながら昼や朝も加えて地元の主婦やお年寄りも来やすいように、と考えた。野外上映の場所は、もと連絡船跡地、宇野港第2突堤、行政がかつてスペイン村を建設しようとし、他の都市に先を越されて頓挫して、その後売却されたままダダっぴろい空き地になっている場所だ。この土地のオーナーは、駅東創庫のオーナーでもあり、地元のアートを応援してくれている。そのため、ありがたいことに無償で借りられることになった。昼間の会場は、 駅東創庫と港のすぐ前の産業振興ビルという市の所有の建物の会議/上映室をこれも市の協賛事業ということで無償で貸していただけた。問題は野外上映をどうやって実現するか、だった。私のイメージは、ニューヨークのルーフトップ・フィルム・シリーズ。夏の間毎週、工場や高校などの屋上でドキュメンタリーや実験映画等の上映をしているグループで、ニューヨークでは非常に人気があり、今では協賛も沢山ついて、毎回長い行列ができる。日本に来る直前に、下見としてルーフトップの上映会に行き、スクリーンやプロジェクターの設置等、見学して来てはいた。が、あちらの設備は立派なメタルフレームがついた風に負けない大スクリーンで、私たちの予算は56万円しかないのが現実だ。港町育ちのマックスがまず思いついたのが、フェリーの側面に投影する、だったが、これはプカプカ揺れすぎるだろうし、そのためにフェリーを停泊してもらうということは、無名の私たちには考えにくい展開だった。次の彼が注目したのは、港にドカドカ積み上げてあるコンテナだった。あれを幾つか借りて、スクリーン(その時点ではシーツをつなげるつもりだった)を貼れば、風にはさほどなびかなくてすむ、というアイデアだった。その後二人で、よくフェリーに乗り込むのを見かける長い長い大型トラックを借りられたらいいね、と夢を膨らました。大型トラックの側面が上下にグアっと開くのを見たことがある、バンドのゲリラライブなどで使われる、トラックステージ、それがいい、とマックスが言った。この、ヒトやモノが通り過ぎて行く宇野で、モノを運ぶトラックをシアターにして、瀬戸内の島々を背景にこのイベントをやる、ということに、マックスのふるさとへの思いがあった。宇野港第2突堤から見る瀬戸内は彼にとっては懐かしく、振り返って見る宇野駅側の宇野の街は、地元の人もあまり見た事ない新しい風景なのだった。そしてそれを喜ばしく思う私には、映写されるムービーもまた、イメージが動いてメッセージやストーリーを運ぶものであるので、なんて動きのある綺麗なコンセプトなんだろう、とも思えた。



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空き地から振り返って見る宇野の街の夜景(撮影:中村智道)


宿屋の洗濯やアイロンがけの合間に、自転車で港のそばをうろうろし、コンテナに大王海運というロゴを見つけた。その頃私が岡山入りし、二人で飛び込みで、大王海運という会社をダメ元で訪ねた。若い所長さんで、それまでさんざん町のおじさんたちに何でもダメダメと首を振られていたマックスは喜んだ。主旨を説明すると、気持ちよく賛同してくれ、ちょうど私たちが思い描いていた通りに開くトレーラーのコンテナ部分(“シャーシ”と呼ばれる)があるが、大王海運では“トラクタ”と呼ばれるヘッドの部分がなくて動かせないので、それも持っている商船三井に紹介してくださる、ということで、連絡をとってくださり、一緒に来て下さった。商船三井の所長さんは関東の方で、玉野に来てまだ1年経っていないということだったが、地元への貢献になるのならと、本社に掛け合ってくださり、気持ちよく“シャーシ”を連絡船跡地まで運んで下さり、一週間無償で貸してくださることになった。ヘッドはそこにいるわけにはいかないので、帰ってしまうと通常車のバッテリーでシャーシの開け閉めをするのでどうしよう、と困ったが、それも、携帯用バッテリーを貸していただけるということで、解決した。こうして、私たちの野外トレーラー・シアターが準備できることになった。一時は中古のプロジェクターを購入し、スクリーンはシーツを縫い合わせてやろうと思っていたが、岡山映画祭スタッフである河村さんに『黒い雨』のビスタサイズ映写機のことで相談したところ、ビデオの上映も含めて廉価で晩の上映を引き受けてくださることになった。過去には学校の校舎などに投影して野外上映したこともあるそうで、トレーラーにつる下げての上映に興味を示して下さり、また私たちを応援する気持ちで引き受けてくださった。

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これが7日間の晩上映の私たちのシアター!(撮影:中村智道)



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(撮影:中村智道)



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(撮影:中村智道)


電気!



さあ、場所が決まり、シアターができ、上映機材も手配できた。もうその時点で予定の8月2日まであと半月、という感じだったと思う。未経験の私たちはこれでほぼ揃ったように感じていたが、映写技師の河村さんに空き地での電気のことを聞かれた際に、それまでの土地のオーナーとの話し合いで空き地の周りの電信柱から取る、とか、駅東から(空き地のはじっこ、現場からは彼方にある)延長コードで引く、など言ってるんですが。もにゃもにゃ……と言った時に、「遠すぎますよ、無理です。延長コードでは電気が安定しませんから、映写中に止まったりしますよ」と言われ、さーっと血の気が引いた。それから急いで電気会社に問い合わせて、新しく電信柱を空き地の中に立てて電線を引いてきてもらうように手配し、そのお金が結構かかってしまった。



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映写技師の河村さんがコードを差し込もうとしているボックスがついているのが、新しく作った電柱。背後の電柱は、遠すぎた……。


スカイプQ&A


最後まで希望を捨てずにいたのが、スカイプでの質疑応答だった。四方八方をつなげたくてやっているこのイベント、制作者とお客さんが繋がれたら、どんなにいいだろう!二人とも、これがあきらめられなかった。電話会社は、玉野から撤退し、岡山にしか支局がないので、多分地元感覚がないので無理だろう、ということになった。ケーブル会社にDSLモデムを引いてもらっては、ということで倉敷ケーブルテレビにお願いしたが、時間がなさすぎて話をすすめられなかった。野外でのスカイプを半ばあきらめかけた頃、コンピューター関係に詳しい駅東の清水さんに相談したら、駅東の無線LANを延長できる機械があるんじゃないか、ということで、調べ始めたとところ、結局ポータブルWIFIというのがあることを知り、それを契約した。上映シリーズ開始前日、やっとポータブルwifiが作動し始め、世界中の制作者と繋がれる設備も整えることができた。



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レバノンのアクラムの顔が前方巨大スクリーンに!結構感動した。


チラシ、と翻訳、字幕付け



その一ヶ月間の間、忘れてはならないのがチラシ制作、印刷、配給、それに、翻訳作業だった。直島を訪れる海外からのお客さんと地元の人や国内からの観光客、なるべく色んな人にわかってもらえるよう、印刷物、上映作品すべて日英両言語で提供する、というのは目標だった。助成が下りて宇野港芸術映画座ができるとわかったのが春、その後ももう少しお金がないとできないと思ってマックスは宿屋をやりながら地元で資金集めに奔走していた。私はNYで授業の準備や採点の傍ら、作品を集めた。大学の期末試験の採点が終わった6月、できれば日本へ発つ6月末までに翻訳作業に入ろうと思っていたが、まるまる2ヶ月アパートをあけるため、その間の家賃を払ってくれるサブレッターや、犬のボボの行き先や、車を預かってくれる人を探したり、アパートをサブレッター用に掃除したり、アドビ財団を通じて子供達からの写真や作品の使用許可等を調整している間にあっという間に数週間が過ぎ、結局翻訳作業には入れないまま、岡山入りした。それからトレーラーを貸してくれと歩き回ったり色々して、複雑な日英両言語でのチラシを作成したりしていたら、冗談でなく、あと2週間しかなくなってしまった。



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『黒い雨』上映中。映写はスクリーンから約30m離れた車の中に置いた16ミリ映写機から。英語字幕は実はスクリーンから5mくらいのところから別プロジェクターでタイミングを一時停止ボタンで調整しつつビデオ映写しているのだ……。(撮影:中村智道)


細かくなって申し訳ないが、上映するのは10プログラム、29作品、そのうちもともと言葉がなくて字幕が必要ないものは短編3作品のみ。29本の作品のうち、オリジナル言語が日本語のものは3本(すべて長編)、英語のものが18作品(長編2、短編16)、それ以外の言語のものが長編2、短編3本 。日本語の長編3本のうち、英語字幕がすでについているものが2つ、英語の作品で日本語字幕が付いていたのは2作品(ともに長編)、その他の言語の作品で英語のみの字幕がすでに付いていたのが長編2、短編2本、日英両方付いていたのが短編1本、あった。残りは翻訳&字幕付けをしなければ、皆に分かってもらえない。つまりあと2週間の時点で、日本語から英語に翻訳/字幕つけする長編が1本、英語から日本語に翻訳/字幕つけする長編が2本、短編が18本あったことになる。あな、恐ろしや。その少し前から、その時点でチラシをまだ作成しながら、このままではヤバい、と感じ始めていた私は、東京の私の実家にのんびりいられるはずだった12歳の娘に、英語の起こし作業等を頼み始めていた。そのうち若者プログラムの作品等の日本語翻訳のたたき台づくりや、手直し済み字幕台本をファイナル・カット・プロ(ビデオ編集ソフト)で字幕に変えて載せて行く作業等も彼女にかなり手伝ってもらう結果になり、かわいそうに夏休みを全く返上して、私とチームで翻訳作業にあたり、その後は会場の受付を担当した。

労働基準法違反じゃないか、と胸が痛んだが、私たち自身お給料をもらってやっているわけではないのだった。マックスは地元の人達との連絡と宿屋のお客さんの世話で忙しく、それがなければ家族は食べて行けないのだから、仕方がない、という苦しい状況だった。結局ニューヨークの友人一人と、イベントでは娘と一緒に晩の上映の受付をずっとやってくれたしおりチャン(宇野のアーティスト&マックスの宿屋のお客さん御用達の定食屋さん、大阪屋の看板娘でニューヨークに4年いたバイリンガルの女の子)と、そのお友達のこれまたアメリカ生活の長い牧野さんに大変な長編の翻訳をやってもらって、幾晩も、幾晩もの徹夜の末、どうにか、毎回の上映に字幕を付けて上映することができた。NTSC、PAL、16:9、4:3、一秒29.97フレーム、一秒25フレーム、一秒24フレーム、SD、HD、H-264、.mov、mpeg-4、mpeg-2……ああ、このデジタル革命の中で、規格の違う世界の作品に字幕を付けて見せるということがいかに大変で、そしていかに意義があるか、ということを眠い頭にたたきこんだ7日間だった。夢中だったが、考えてみれば、字幕を焼き付けたものから、パワーポイントで一枚一枚タイミングを見計らって押して上映した作品から、字幕だけのストリーミングビデオファイルを作って映画と一緒に時々一時停止ボタンを押し押し流したものまで、ありとあらゆる方法で字幕を一緒に見せた。分かってもらうために。





今回の総評?


シリーズ全体としてはどうだったのか。まだ記憶が生々しすぎて、上手くアセスできないでいる。反省点は多くあるし(もっと早くから準備をする)、来年への課題も多い(チラシをもっと早く、広く配布する、特に岡山、倉敷方面)。字幕付けで貫徹のまま上映会に来て、お客さんがあまりに少なくて落ち込んだ回もあった。



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ドラマチックな会場に、お客さんが一人。この後も少しは増えたけれど、でもやはりお客さんが少ない日はさみしい。(撮影:中村智道)


周りの人達にももっと宣伝しないと、とずいぶん言われた。お客さんがいっぱい入れば私たちや手伝ってくれた人のお給料も出るし、制作者への還元もできる予定だったのに、最終的に電気を引いたりして予想外の出費があったりして、それもほぼ来年の夢になってしまった。でも、皆さんの協力で、今回は56万円の予算でどうにか開催でき、来てくれたお客さんたちはかなり喜んでくれた。スカイプで制作者仲間の皆と日本の皆さんとが繋がってくれて、対話をしてくれて、私たちも、参加した皆も嬉しかった。



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オランダ生まれの中国人監督フー・ピン・フー監督とスカイプ対話


こんなの他では見れない、体験できない、と言ってくれた方々が何人もいた。レバノンやセルビアの歴史や政治的背景を知らなくても、彼らと直接話して質問して彼らがどんなに真摯な気持ちで制作しているかが伝われば、それに笑顔で会話すれば、何となく興味も生まれて、googleして歴史を調べるかもしれない。そうしたらもっと彼らの気持ちがわかる。プエルトリコ出身の人を今まで一人も知らなくても、お母さんを失った哀しみは同じだから、何だか強く感動した、と言ってくれたお客さんが何人もいた。イヴァナの『ハーレムマザー』が3日間尾を引いて、家に帰って自分の子供を訳もなく抱きしめたら「お父さんくさい」って言われたとか、アクラムの作品は難しいけど映像や音の残像がずっと残っている、とか、こういうのは日本にはあまりない作りだ、とか、ローリーのアニメーションの映像がとにかくキレイですごい、とか、モエちゃん(娘)の作品は構成力でずば抜けている、とか、嬉しいコメントを沢山いただいた。『黒い雨』を見て「すばらしい映画だ、宇野でこんな映画が見れるとはラッキーだ!」と言ってくれたフランス人のご一家もいた。『円明院』を見て日本の仏教界に興味が出た、と言ってくれたオーストラリアのカップルや上海からの女の子達もいた。直島出身の女性と結婚していて毎年夏を息子と妻と直島で過ごすチェコ人のマーティンは、「このイベントはすごいよ!毎年来るよ。直島には夜、何もすることがないんだ」とコメントをくれ、期間中何日か来てくれ、『円明院』の上映が終わった時に「ブラボー!」と大きな声で言ってくれた。地元で音楽活動をしている男性も、『円明院』の上映後に「おもしろかった!予想以上!」と大きな声で言ってくれた。福武財団の方々は、私に「あなたって好奇心の固まりね」とコメントしてくれた。香川の丸亀の高校教師の方が何日も通って下さって、映像文化を生徒に教えたいので、ととても興味を示してくださった。

地元の元教師の女性も、幾つものプログラムに来て下さって、「映画、いいわあ!」と言って下さった。地元出身で現在大阪芸大で報道を勉強している若い女性は、自分が学校で習っている映像の作り方と今日見た作品は全く違うように思える、と感想をくれた。どういうこと?と尋ねると、自分の学校ではカメラを持たされてとにかく撮ってこい、と言われる、つまり映像主体、映像がないとストーリーを語ってはいけない、という感じなのに、今日の作品にはストーリーがあって、映像をそれに与える、という感じのものが多かった、と。どっちもあってもいいんじゃないか、と私は自分の考えを伝えた。 それに、お客さんとの繋がりだけじゃなく、地元のアーティストの面々がイベント設営/撤収スタッフとして手伝ってくれ、本当にありがたかった。他にも地元の若い方々が毎日お手伝いに来てくれ、皆自分の個展の準備やお仕事で忙しいのに上映にも毎日のように来てくれ、Q&Aにも参加してくれた。今回作品を上映させていただいた中村智道監督は岡山県赤磐市の方で近くはないのに何度もQ&Aに来て下さり、いいお話を聞かせてくださった。イベントのいい写真も撮ってくださり、本当に感謝している。新進気鋭のアニメーターの彼は、今回紹介された海外の監督の作品に自分とテーマや手段が類似しているものがあることに新鮮な驚きを感じてくれた。




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アメリカ人のローリー・ハイリス監督と私の通訳を通して対話する中村監督。二人はこんなに離れていて作風もまったく違うのに、同じように"遺伝"に興味を持って、自分で描く絵をアニメにしている。


土屋豊監督や本田孝義監督はわざわざ東京から来て下さり、Q&Aに参加してくれ、うちの宿屋に泊まってもいただき、楽しく色々お話できた。



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土屋豊監督と、宇野スロープハウスの朝。語った翌日で、皆眠い。


無理を聞いてくれて、風の強かった一晩以外、多少雨が降ってもずっとこらえて野外で上映してくださった河村さんは皆の人気もので、最終日撤収後の野外打ち上げの後のお別れの時には皆が拍手を送った。


最終日の私たちの作品『円明院』には、主人公の老尼僧“おじゅっさん”の生前の姿を一目見ようと、おばあさんたちがぞくぞくやって来て私たちやスタッフをびっくりさせた。地元の皆さん、このイベントのことを知らないわけではないのだ、ということも、よくわかった。だって地元のテレビや新聞には結構取り上げてもらった。アートの根付いていない一港町でこのイベントを根付かせるには、数年はかかるだろう。ベネッセだって、20年かかってやっと地元の人達の賛同を得たのだ。だからこそ、こういうところでやる意味もあるのかもしれない。でも、おばあちゃんたちは“おじゅっさん”を見に来てくれた。一番年上そうなおばあさんが、 4人くらいの中年女性に囲まれ 車いすを押してゆっくりと草ぼうぼうの空き地に入って来た時、私たちは音声チェックをしていて、"おじゅっさん"の声が流れた。その時、転ばないように真剣な顔で歩いていたおばあさんの顔がニヤっと崩れたのを私は見た。私とマックスが創作ドキュメンタリーをどう料理しようが、彼女は“おじゅっさん”に会えれば、どうでもよかったに違いない。それもまた、映画の持つ力なのだ、と思う。




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マックスの挨拶で始めた『円明院』の上映。ここに写っている後方の椅子にも普段野外上映にはあまり来ない、年配の方々の姿が見える。


イベントが終わった翌日、マックスと空き地で片付けをした。商船三井さんの“ヘッド”が来て、トレーラー・シアターから“シャーシ”に戻った私たちのシアターを連れて帰った。それを見送ったときは寂しく、ああ、終わったんだな、と実感した。来年もまた、エネルギーと動きあふれるトレーラー・シアターで皆さんに何かを運ぶことができたら、と願っている。






ありがとうの写真&ことば:



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映画座を手伝ってくれた仲間達(左上段から、中村智道さん、藤原くん、河村さん、さとこちゃん、シゲルさん、清水さん、レイコ、マックス、座っている3人左から、しおりちゃん、モエ、みきちゃん)。みんな、暑い中の重労働、ありがとう!いつも手伝ってくれていたけどたまたまこの時不在だった染色家の北野さん、ありがとう。それと、造形作家の佐藤さんはこの日、直島の人気のアート銭湯“I Love 湯”( 大竹伸朗デザイン)のすぐ前に住んでいて銭湯の写真を撮るために玄関に入って来る観光客に困っている羽田のおばあちゃんのために5円玉を敷き詰め(お金なら踏みにくいから)大きな鳥のオブジェを門に置いて、アートで迷惑問題解決を図るべく、直島に行ってたので写真に写ってません(詳しくは記事末尾にビデオリンク! 記事最後リンク参照 ※3)。佐藤さん、ありがとう。


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後日行って撮った、佐藤さんと直島「I Love 湯」お向かいに住む羽田さん(超いいキャラ!)


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朝と昼の回はみどりさん、ゆうさん(+ワタルくん)、ありがとう。東京からわざわざ手伝いにきてくれた役者さんの山口達也君とかおりちゃんご夫妻、ありがとう!萌を一日広島旅行に連れ出しにはるばる来てくれた東京のお父さん、ありがとう。翻訳と受付で12歳の夏を過ごさせて申し訳ないけどこれも運命だ、日本語の練習になったね、萌、ありがとう。(撮影:中村智道)



(文章:タハラレイコ 写真:中村智道、タハラレイコ、上杉幸三マックス、ほか)


リンク:

宇野港芸術映画座:http://unoportartfilms.org

宇野港芸術映画座フェイスブック:http://www.facebook.com/UnoPortArtFilms/



※1

駅東創庫:http://www.unokotochi.jp/ekihigashi/sakka.shtml



※2

宇野スロープハウス(マックスの宿屋):http://www.unoslopehouse.com/Testimonials.php


瀬戸内国際芸術祭(10月まで):http://setouchi-artfest.jp/



※3

佐藤史仁さんの羽田さん宅にまつわる「I love 湯」観光客迷惑解決防御アートのビデオ、上杉幸三マックス制作「宇野ー直島チャンネル」本邦初公開(パート1&2各約15分、パート3も秋にできる予定)!:http://www.youtube.com/user/unonaoshimachannel




宇野港芸術映画座2010上映作品関連リンク:

『円明院~ある95歳の女僧によれば』:http://mrex.org

『ジャッキー』:http://www.fortissimo.nl/catalogue/materials.asp?filmID=9#

『ハーレムマザー』:http://aharlemmother.com/

『ラップリゼント』:http://www.facebook.com/pages/Rapresent-documentary-film/127365037282823

『アトランティス・アンバウンド』:http://www.lorihiris.com/

『新しい神様』:http://www.st.rim.or.jp/~yt_w-tv/index.htm

『ニュータウン物語』:http://www12.plala.or.jp/toyama-honda/

『黒い雨』:http://ja.wikipedia.org/wiki/黒い雨_(映画)

『歴史と追憶』:http://www.wmm.com/filmcatalog/pages/c111.shtml

http://reatajiri.com/

『ミリキタニの猫』:http://www.uplink.co.jp/thecatsofmirikitani/

『蟻』『ぼくのまち』(中村さんブログ):http://www.gahaku.sakura.ne.jp/

アクラム・ザアタリ リンク:
http://portal.unesco.org/culture/en/ev.php-URL_ID=25805&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html

http://www.e-flux.com/shows/view/6540

http://www.vdb.org/smackn.acgi$artistdetail?ZAATARIA

アラブ・イメージ・ファンデーション(アクラムが共同設立):http://www.fai.org.lb/home.aspx



アドビ・ユース・ボイシズ:http://youthvoices.adobe.com/news_events/city_tour/newyork/

ライアン・リーラッシュの作品(英語のみ):http://www.youtube.com/user/solodiosbasta2190



娘の萌は相変わらずパワフルに活躍中:この夏、彼女の作品『投下者と、被爆者と?(With the Bomber or With the Bombed?)は宇野港芸術映画座で上映されたほか、毎日新聞で取り上げられ、偶然が重なって何と広島で『はだしのゲン』の作者中沢啓治氏と対談までした。関連記事は下の3つ。
http://mainichi.jp/kansai/news/20100802ddf041040014000c.html

http://mainichi.jp/kansai/news/20100804ddf041040030000c.html

http://mainichi.jp/area/ishikawa/news/20100805ddlk17040714000c.html






■タハラレイコ PROFILE


東京、吉祥寺出身。91年奨学生留学渡米、92年からNY。94年以降は夫の上杉幸三マックスと二人でドキュメンタリーや実験映画を製作。日本で見る西洋のイメージについての思索実験映画『レムナンツ 残片』(1994)は全米30以上の映画祭やアートセンターで上映、今年7月カナダの新世代シネマ祭でリバイバル上映される。マックスと共同監督の『円明院~ある95歳の女僧によれば』(2008)は岡山の老尼僧の人生を綴った探偵風私的長編ドキュメンタリー。ハワイ国際映画祭でプレミア後NY、日本、スリランカなどの映画祭やギャラリーで上映、今秋には東京で劇場公開予定、その後日本各地での展開を目指す。2007年度文化庁新進芸術家海外研修生としてデオドラ・ボイル教授(NY ニュースクール大学)のもとで先生修行、また映像作家アラン・ベルリナー氏に師事。以後、NY近郊の大学・大学院でドキュメンタリー史、制作、日本映画史を非常勤講師として教えている(ニュースクール、NY市立大、テンプル大、9月からハンターカレッジも)。2009年11月、次作の撮影のためマックスが故郷の岡山県玉野市宇野港に拠点を移し、外国人観光客のための宿屋を開業、18年ぶりに日本に住み始めた。タハラは12歳の娘とブルックリンに暮らすが、夏は日本で家族再会、宇野港芸術映画座上映シリーズ「生きる、創る、映画」を二人で共同プロデュースする。早稲田大学第一文学部卒、ニュースクール大学メディア学部修士課程修了。

公式サイト

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トライベッカ映画祭青少年部門「私たちの街、私の話」―カメラを持った子供達が教えてくれること http://www.webdice.jp/dice/detail/2525/ Mon, 05 Jul 2010 15:21:36 +0100
トライベッカ青少年セクション制作者たち


トライベッカ映画祭青少年部門「私たちの街、私の話」



マンハッタンの公立中学校にブルックリンから通う12歳の娘のMoie(萌=もえ)が、学校の選択のクラスで4分の短編ビデオを作った。題名は“With the Bomber or With the Bombed?”(『投下者と、被爆者と?』:筆者訳)、内容は広島・長崎の原爆とアメリカと日本とその中で育つ自分について。脚本、編集、作曲、自分でやっている。その作品を学校のデジタルアート担当のメリル先生とアドビ財団のビデオ・メンターとしてNY市中の学校を回っていたラウラが気に入り、トライベッカ映画祭青少年部門「私たちの街、私の話(Our City, My Story)」セクションに送った。4月、NY5区から選抜された13作品の一つとして大ホールで上映された。



ニューヨークの中高校生と教育者1200人の観衆の前で、萌は「原爆のことは友達も詳しくは知らないし、何だか話すことはタブー。でも私は小学校3年生くらいから原爆のことを習い始めて、皆知らなくてはならないことだと思うので、これを作った。私はNYで生まれたのに両親が日本人でアメリカ人とは誰にも見られないし、かといって日本人なわけでもない。だから私でしか言えないことを伝える映画を作った」と語った。作品中には『はだしのゲン』の英語版や被爆者の絵も許可をもらって使われており、米公文書館のサイトからダウンロードした16ミリ映像も出てくる(岩崎昶のクルーが原爆直後に撮影したが米進駐軍に取り上げられ1970年まで封印されていた映像)。原爆の実態を自分の住むアメリカ社会に知らせたい、という彼女のまっすぐな気持ちが表れた構成になっている。英語版『ゲン』を買い与えたのは私だが、それを友達に回したり、カリフォルニアの出版社に勝手に電話して使用許可を得たのは彼女だ。6月にはアドビ財団主催の映画祭Adobe Youth Voices(AYV「アドビ若者の声」:筆者訳)でも上映、この時にはNYタイムズ紙とABC7からの取材も受けた(記事最後リンク参照 ※1)




Moie Tribeca Day2-1

トライベッカ映画祭青少年セクション「私たちの街、私の話」



自分たちの教えられないことを学んでほしいと思ったが



娘の活躍は嬉しいけれど、両親は生活の日銭を稼ぐのに四苦八苦しながら映像制作を続けている身、質問されれば答えるし頼まれれば手伝うが、映画を作りなよ、と励ましたことがない。デジタルアートなんて取らずにジャズバンドのクラスを取れとずっと言っていたし、今でもそう思ってしまう。自分たちの教えられないことを学んでほしいからだろう。トライベッカはいいけれど、(私達の長編ドキュメンタリーは選んでくれなかったし)、講師をしている大学の授業の学期末採点で忙しい最中に“ドレス”を買いにつきあわねばならなかったり、明日までにハイレズ .movファイルのDVDが何枚必要、この肖像権リリースの紙にサインして…など、付き人状態だ。何だか子供なのにセレブ扱いされてマイケル・ジャクソンみたいになってしまってもいけないと思い、夕食後の皿洗いの手伝い回数を唐突に増やしたりする。昨年10月あてにしていた次作ドキュメンタりーへの助成が来なくて、同時にアメリカの不景気のおありもあって家族の生活が苦しくなった。夫で共同監督の上杉幸三マックスは、 昨秋18年ぶりにニューヨークを離れ、故郷の岡山県玉野市宇野港の彼の両親が残してくれた家で、瀬戸内海に浮かぶ直島の現代美術館を訪れる外国人観光客用の宿屋を営みながら、次作ドキュメンタリーの撮影を進めている。3年前に実家を片付け中に、14年前に他界した彼の父親が、戦前に思想家大川周明率いる特別アジア言語文化研究所である大川塾(東京裁判で“スパイ学校”と言及される)の生徒だったことが発覚。父親が語らなった、そして戦後平和教育が教えなかった大川周明像と父親のかなり特異な戦争体験を追っている。でも生活に追われ、思うように進まない。情熱はあるが、現実は厳しい。遠距離結婚中の映像制作者夫婦は娘の就寝後スカイプで顔を見合わせ、「何だか萌は大活躍ですごいねえ。Adobeだったら、ソフトウェアでもくれないのかな」とつぶやいたりする。




「NY1の撮影」トライベッカで

「NY1の撮影」トライベッカで


自主制作ドキュメンタリー作家の子供として育つということ



私たちの一番最近の作品は『円明院~ある95歳の女僧によれば』という長編ドキュメンタリーで、マックスの家が檀家だった、腰が逆Uの字に折れ曲がった、奇妙なお経をあげる老尼僧さん、通称おじゅっさんの語らなかった気持ちと人生を追い求めた物語。テーマは女性の自由、ヒトの幸せ。子育てしながら自由や独立を追い求めていた私自身の葛藤への答えをおじゅっさんの人生に見つけようとしてできた作品である。探偵物語風私的ドキュメンタリーと自分たちでは呼んでいる。自慢できないことだが資金集めから完成まで9年もかかった。つまり萌の人生の大半だ。作品内に、赤ちゃんのころの彼女と8歳くらいまでの彼女が登場している。演技もやらせれば、撮影助手をやらせたこともある。気の遠くなるような回数の居間での試写会で毎回しゃんと起きて見てくれるのは彼女だけだったし、その度に「アニメのところが好き」と言ってくれた。学校や習い事の送り迎えや食事の準備、食べるための仕事、それ以外の空いている時間の大半は母は編集や助成金への応募書類準備、父は作曲か編集チェック、夕飯の席でも映画の話ばかり、時には意見の食い違いでデッドヒートとなり、完成の日を誰より夢見ていた彼女。



その後やっと母親は時間があるようになるかと思えば、今度は数々の映画祭の“判決”に一喜十憂する日々。参加可能な『円明院』の上映会や映画祭には彼女もクルーの一人として連れて行った(写真を撮らせたりした)。私たちがいつもより少しドレスアップしているのも彼女はじっと観察していたのだ。その後でさえも被写体との関係で悩んだし、出演の高野山真言宗僧侶の女性に対する発言を巡って、高野山総本山から「差別発言を含む内容の作品を上映することは差別を助長するため、上映中止を依頼する」という手紙が来て頭を抱えていた親の苦悩も彼女は知っている(結局その旨をテロップとしていれることで納得いただき今は一安心している)。私たちは決して中立なんかじゃない、おじゅっさんの気持ちを探すうちに予想外に見てしまった仏教界の様々な驚くべき事実は共有したいし、その上でおじゅっさんの人生から幸せへのヒントを探す主観的アート作品として作ったし、できる限りの方法で誠実に被写体とも向きあって来た。それでもドキュメンタリーは色々起こる。作るのは困難、見せるのは至難だ。早く日本で劇場公開できる日が待ち遠しい(ちょっと宣伝:8/2-7の岡山県玉野市の宇野港芸術映画座、および8/18中野ゼロホールにて特別上映会します。記事最後リンク参照 ※2)そんな親たちの苦悩を横に見ながら、萌がトライベッカ出場で学校の有名人になりつつあった時、全く大人げなく、あなたのは青少年セクションだから、と言った私の顔を、娘の理解深い黒い瞳が「マミ、わかってるから」と見返す。




『円明院~ある95歳の女僧によれば』 娘出演のシーン

『円明院~ある95歳の女僧によれば』 娘出演のシーン


大学でのドキュメンタリー制作教育の現場から、思うこと



私はこの3年間、幾つかの大学で講師として映画の歴史や制作を教えて来た。当初、自分自身が制作者としてだけでは食べて行けないので教職に入ったわけであるが故、映画学校が卒業後の現実を砂糖をまぶすように隠して触れずにおき、作り方だけ教えて後は夢と希望で生きてゆきなさい、とほっぽり出すことにものすごい抵抗を感じていた。最初の頃は現実を言い過ぎたと今は少し反省している。最初の生徒達は夢も希望もなくしてしまったんじゃないか、と心配したが、いまだに貧乏でも生き生きと制作している私の教え子一期生たちから連絡が来るにつけ、ほっとする。



先学期、NY市立大学(シティカレッジ、授業料の安い大学で、ほとんどがマイノリティーや移民の子供達)の生徒の一人で、彼女がまだ高校生だった5年前に、長年の闘病の末36歳の若さで亡くなったお母さんへの追悼作品として、同じ病気(多発生硬化症という段々体が動かなくなる恐ろしい病気)で苦しんでいるカップルをヴェリテ・スタイルで撮りたい、というプエルトリコ系の女の子がいた。ナレーションはなく、たんたんと彼らの日常を追う、という構想が彼女の頭の中にできていた。



ところが思い描いたカップルがとうとう見つからなかった。悩んだ末、自分の家族のホームビデオや写真を使って、家族へのインタビューでストーリーを構成する、という計画に変更した。ところが家族のメンバーは、それぞれ言いたいことをいうわけで、自分が言ってほしいことを言ってくれない。彼女はお母さんの強さを強調したかったのだ。それにセットに入ってから従来のドキュメンタリーの手法に惑わされて三脚で照明をたいて撮ってしまったら、見た目はきれいだけれど何だか緊張感と距離が出てしまって自分の望んでいた気持ちと違う、でも撮り直ししたって同じ話は聞けない、自分のお母さんへの気持ちが上手く表せない、それにこんなプライベートなこと、退屈なんじゃないか、とすぐに自信のない状態に入り込んでしまう。でも、お母さんへの追悼をまずやらないと他の作品が作れない、それほど彼女にとって一番大切なテーマであることは、彼女自身が一番良く知っており、それを忘れてほしくなかった。お母さんの死を乗り越え、なお、お母さんを思う娘の気持ちほど強いものはない、退屈な訳がない、とにかく心を開いたままの状態で作りなよ、と励まし続けた。ドキュメンタリーにはナレーションやシットダウン・インタビューだけじゃなく、色んな方法で自分の気持ちや声を伝える方法があるよ、と過去のもっと詩的な実験ドキュメンタリー作品などを見せた。最終的に、お父さんとおばあちゃんの大切なインタビューは、手持ちカメラでお母さんの写真のつまったアルバムをめくりながら語ってもらうことで気持ちのこもった映像になり、また自分でお母さんに宛てて書いた詩を朗読して挿入することで、やっと彼女自身が自分を表せた、と思える作りになった。学期末の学部の卒業制作上映会で、彼女は審査員特別賞を受賞した。これは、この先彼女がどんなにすごい賞をもらっても、一番大切な賞として心に残るだろうと思った。だって、自分の心を開けば皆が分かってくれることを認められた賞なのだから。私は彼女が満足のいくものが作れたということが、とても嬉しかった。





『マリポサ』 シティカレッジの生徒アイネス・モラレスが作ったお母さん追悼の作品

『マリポサ』 シティカレッジの生徒アイネス・モラレスが作ったお母さん追悼の作品


そもそも映画祭とは何だ。自分たちが制作者として身を立てていくのに映画祭は必要ではあるのだけれど、大手映画祭のきらびやかな世界や昨今の産業化された映画祭体制は、どうしたって“名誉”を餌に私たちのようなハングリーな制作者から応募料を取って作品を集め、それで集客しスポンサーをつけ収益を上げるが、そのお金が制作者に還元されることはほとんどない。結果、制作者はお金で“名誉”を買おうとしてもお金だけ取られて売ってもらえないことが多く、長年と大枚をかけて仕上げた我が子のような作品は商品化されるにもかかわらず、配給会社など第三者からのオファーでもない限り、映画祭でお金を儲けることはありえない。映画祭は非営利であったり社会的意義をもってもちろんやってくれているのであるが、スタッフはお給料で暮らし、私たちは自腹を切り続ける。映画祭はあくまで商品見本市、ただし作品でお金を稼ぐ必要がない制作者であるならば、作品を広める絶好のチャンスではある。



トライベッカ映画祭の青少年セクションとAYVシリーズへ



そんなちょっと斜に構えた気持ちを抱きながら、 この5・6月、 娘の付き人として、トライベッカ映画祭の青少年セクション「私たちの街、私の話」と、AYVシリーズという、ニューヨークの二つの大きな青少年映像作品の上映イベントに出席した。映画で身を立てようとか、一儲けしようとか、有名になろうとか、そういう意図のない子供達の作品を見て、心が洗われるようでもあり、そのきれいな子供達の心が映画祭のカーペットの赤い色で汚れてしまうのがちょっと気がかりでもあり、何だか複雑な思いだった。ABCの取材の時、お化粧の濃いホストが若き制作者達に「大人になったらフィルムメーカーになるの?」とか、「レッドカーペットみたいな経験をして、どう思った?」とか尋ねているのを見て、その無責任さに無性に腹が立った。




ABCニュース 取材風景

ABCニュース 取材風景



トライベッカの「私たちの街、私の話」は、ニューヨークの公立の中学高校に通う子供達が作った作品を紹介することを目的として2007年に始まった、トライベッカ・インスティテュートのメディア・チャリティー活動の一つである。今年のラインアップ13作品は、娘の作品に加えて、テレビが映し出す“美”のイメージに洗脳されたティーンの女の子がテレビの故障を機に箱の外の世界の本当の友情に目覚めるフィクション、 家族内で初めての大学進学者になろうとしている高校生の女の子が問題の多い家庭環境から精神的に独立していくドキュメンタリー、ティーン・マムの日常を捉えた作品、「ゲットー」という言葉が人種の違う若者の間でどう使われているかについてのドキュメンタリー、NYのドミニカ文化を探して旅する男の子たちのユーモラスな町探検、何でもありのNYが当たり前に育ったニューヨーカーの女の子が自分の町のよさを再認識するコメディ、など。高校生の飲酒や恋人同士の間での暴力などを扱った社会的な短いパブリック広告もあった。



若い制作者たちをとても大切に扱っていた映画祭スタッフ




学校の授業でグループや個人で作ったものから、DCTV(ダウンタウン・コミュニティ・テレビジョンービデオジャーナリストのジョン・アルパート&津野敬子夫妻が70年代にマンハッタンのチャイナタウンに作った市民のためのメディアアートセンター)の放課後のユース・プログラムで作られたものまで、出所も様々だ。トライベッカ・インスティテュートの計らいで上映は2日あり、一晩はチェルシーの映画館の小振りなシアターを借り切って家族や友達を招待し、上映後の質疑応答も十分時間を取ってのアットホームな上映会、本番の2日目はダウンタウンのBMCCトライベッカ・パフォーミングアーツ・センターでの大きな上映会だった。ライフ誌やNY1テレビなどが取材に来た。スタッフは全員若い女性で、皆温かで、明るくて、ポジティブな人達だった。若い制作者たちをとても大切に扱っていた。




トライベッカ青少年セクション・ディレクター リサ・ルーカスさん

トライベッカ青少年セクション・ディレクター リサ・ルーカスさん



AYV (Adobe Youth Voices)映画祭は、ミッドタウンの立派なビル、アルビン・アイリー・ダンス劇場であった。アドビのチャリティー・アームであるアドビ財団の中心的活動であるこのプログラムは、実は2006年以来世界32カ国500団体を対象として行われている大事業である。団体のサイトによれば、その目的は「世界中の恵まれないコミュニティの子供達に、社会の実体験と21世紀のツールを与えることにより、彼らが自分の考えと可能性を呈示し、それぞれのコミュニティを変革して行く力を持てるようにしていくこと」(筆者訳)。そうか、公立学校に通うマイノリティの萌は、恵まれない子供と扱われるのか、と少し驚く。確かに彼女の周囲の白人の子供達は皆大きな家に住み、私たちは小さなアパート暮らしだが、アートをやっているのだからそんなことを気にしてはいけない、といつも言い聞かせて育てて来た。



アドビ・メンター、ラウラ・ロフォルティさんとの出会い



でも、映画作りを取ったら、確かにほとんどしてやれないことだらけ、かも、知れない。でも、キャンプに行ったり魚を釣ったり山登りには行っている。彼女には彼女で、親には言えない色んな気持ちがもちろんあるだろう、私たち一人ひとりがそうであったように。そのAYVのNYチャプターでは、アドビ・メンターと呼ばれる一人のスペイン人女性ラウラ・ロフォルティさんが、アドビがソフトウェアの提供を通して助成しているNYの公立学校を巡回し、そこの生徒のビデオ制作を応援してくれた。ラウラは今年4月下旬に一人目の女の赤ちゃんを出産したばかり、身重の体でNY中を駆け巡っていたようだ。子供達に大変人気と信頼のある女性で、娘も自分の心の中にあることをちゃんと言葉や映像で表せたと思えるまで、辛抱強くラウラが話を聞いてくれ、アドバイスしてくれた、と言っていた。




アドビ・ユース・ヴォイシズ スタッフ (右から:元メンターのラウラさん、ディレクターのパトリシアさん、現メンターのリサさん

アドビ・ユース・ヴォイシズ スタッフ(右から:元メンターのラウラさん、ディレクターのパトリシアさん、現メンターのリサさん



アドビ映画祭のラインアップはアクト1から3に分かれ、それぞれの主題が「教訓:私たちからのアドバイス」「アイデンティティー: 私たちの声」「問題: 私たちの心配」。アクト1の作品のテーマは、手を洗わないと細菌が蔓延するとかゴミをそこいらに捨てると地球がどうなるか、といった子供らしい楽しいストップモーションやアニメ作品から、ペットショップで売られる犬がどういう環境で交配され育てられているかを指摘するものや、アイボリーコーストの内紛で家族の多くを失った後アメリカに亡命して来た女の子がその変化とトラウマを乗り越えて幸せを探そうとするドキュメンタリー、また学校を辞めなくても“クール”でいられるよというメッセージのラップのミュージックビデオなど、多種多様だ 。アクト2は5人の中学生の女の子がNY株式市場を訪ね女性が一人も働いていないことに怒るビデオや、高校生一人一人が書いた詩や撮った写真を合わせたセルフ・ポートレイト集、数年間にブロンクスのギャング抗争で亡くなったお兄さんを偲ぶビデオ、中国から移民して来た男の子がNYの空を眺め故郷を思う作品、など。アクト3は自分の家の家庭内暴力を扱った生々しく力強い作品、ティーンの妊娠、またKFCのカーネルサンダースにひどい扱いを受けたチキンたちが彼を裁判にかけ復讐するコメディなど。




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“Girls Can Do Anything”NY株式市場に女性がいないことに驚く中学生



なぜマイノリティの子供達の作品が多いのか



二つの青少年映画祭で見たその多くの作品が、そう選んであるのかはわからないが、肌に色のある人種的マイノリティの子供達の作品だった。イーストビレッジにある娘の学校はリベラルな公立中学でレベルもよく、ミドルクラスの白人の子がむしろ多い。これはどういうことか。恵まれない若者というと、まるで貧困地区の学校を選んで助成しているようだが、実はそうでもないのかもしれない。きっとそういう学校と、混ぜ混ぜなんだろう。ではなぜマイノリティの子供達の作品が多いのか。見ているうち、これは大抵マスメディアには乗らない、NYの子供達のブルースとしてのビデオなんだ、と気が付いた。詩を書いて、リズムをつけて、絵を撮って、歌うように、自分の思いを綴った作品たち、それは若い彼らの、まっすぐな、魂の叫びそのものである。 見る人の心をゆすらずにおれるわけがない。彼ら自身の痛みもあるし、遠い先祖の痛みを知らずに受け継いでいる時だってあるのだ。





マイノリティだからこそ感じること、言いたくても飲んで言わないでいることがごまんとある。 言わないでいるうちに、しびれて大丈夫なように錯覚してしまうことも多い。でも本当は奥でズキズキと痛んでいるままなのだ。日本のわびさびのように、ひとの心の痛み、弱いものの痛みを分かち合う時人間の心が美しく膨らんで共鳴する。しかしアメリカの場合、弱いものでいようとするな、力を持て、と絶えず励ます強い者側の誰かがいる。偽物の応援者も多い。でも、トライベッカのスタッフやアドビの、毎日子供達と直に見つめ合っている女性スタッフ(どうして全員女性なんだろう?)たちは、会って話してみて、本物の応援者に思えた。ラウラが会場で初めて私に会ったとき言ってくれた「萌の学校は皆ワーワー騒いで収拾がつかないけれど、その中で一人じっと座って集中しようとしている女の子がいた。何か伝えたいことがあるのがすぐわかった。それが萌だった」という言葉が忘れられない。親ではだめなんだ、ラウラがいてくれてよかった、と思った。





AVYメンターだったラウラ・ロフォルティさん

AVYメンターだったラウラ・ロフォルティさん


考えてみれば当たり前の、文章で言えば純文学とマスコミ用テクストの違い、音楽で言えば南部の庭で弾かれたブルースと商業ロックの違い、絵画で言えばファインアートと広告アートの違い、そんなものが、歴史がわずか100余年の映画の世界ではいまだはっきりしないまま、片方ではお客さんの望むものを提供するとか、片方ではドキュメンタリーとはどうであるべきか、なんていうことが話し合われている。心の叫びとしての映画の世界では、ジャンル分けは力を持たない。なぜなら、力のある者が力のない者を描く時代はもう終わったからだ。ジョージ・ストーニーやジャン・ルーシュが社会的弱者の被写体との関係を崩すためにカメラを渡したり一緒にプロットを作ったり色んなことをかつてしたが、カメラを持った子供達には、こうしてテクノロジーに触れる機会があれば、その後望めば手が届くくらいの場所に、カメラや編集ソフトはある。友達にも借りられるし、バチもののコピーが回って来たっていい。テクノロジーはパワーだ、とつくづく思う。お金は儲からないかもしれない。やはりFame(名声)欲は危険だと思う。私たちは子供達から学ぶばかりだ。生きて創る映画は、子供達が体現してくれている。














ラウラへの質問。メールインタビュー




アドビの映画祭の子供たちの作品をみてから、ラウラという人物が非常に気になり始めた。そこで、子育てで大変な彼女に、メールでインタビューしてみた。映像作品を作り見せることの意味に関して、考えさせられる答えが返って来た。彼女のきれいな言葉でこの記事を終えることにする。





──どうしてアドビのメンターとして働こうと思ったの?



AYVの理念は、わたしのそれと全く共通だわ。つまり、若い人達はとっても沢山言いたいことがあって、かれらが自分の声を見つけることができる安全で健全な環境を作ってあげることがいかに大切か、ということ。メンターは上手く導き励ますためにそこにいてあげるべきだけど、ストーリーは彼ら自身の言葉で出てこなければ意味がないの。



──メンターをやっていて、一番の嬉しいことは何ですか。



何よりも嬉しいのは、一人の若い子が自分にとって大切なストーリーを本当に大切だと感じて、それを他の誰かと分け合うための、その子独特の方法を見つけた瞬間ね。最初は戸惑っていた彼らが、感情的な問題や技術的な問題を一つずつクリアして、ついには若いメディア制作者として成長するのを見るのは私にとって本当に嬉しいことよ。シャイで自信のなかった生徒がその過程を通して文字通り変身していくのよ、最終的な作品の出来が例えどうであっても。これもAYVと私の考え方は同じよ。過程は最終作品の出来と同じか、またはそれ以上に大切である、ということ。若い子が彼ら自身と世界について何かしらを学んで、楽しんで、新しいテクノロジーとクリエイティブなツールに触れることができて、それならば例え最終作品が完璧じゃなくても洗練されていなくても、もうそれでプロジェクトは成功だと思えるわ。



──では一番つらいことは?



ご存知の通り、私たちのプログラムは恵まれない若者のためにあるの。AYVメンターとして一番つらいのは、都市の貧困層の子供達がいかに自分たちには機会がないかを経験しているのを横で見なければならない時。彼らがプロジェクトの過程の中でポツポツ語るストーリーを通じて知ることが多いのだけど、彼らが幼いうちから暴力や貧しさや家族を失う経験などに触れて来ているのを知ると、心がもぎ取られるように感じるわ。それと、もう少し微妙なことだけど同じように見ていてつらいのは、そういう彼らが未来を良くしていくために大きな夢や希望を持つことができないこと。すべて、本当に心が痛みます。でもだからこそ、彼らをもっと知りたいと思うし、彼らのプロジェクトを手伝いたいと思うの。彼らには言うべきことが沢山あって、私たちはそれに耳を傾けなくちゃならないのよ。



──生徒たちに将来どんな風にメディア制作とつきあっていってほしいですか。



私は小さい頃から映像作家になりたくて実際になった口なので、メディアでストーリーを伝えて行くという職業がどんなにエキサイティングで魅力のあるものかはよくわかるわ。でもまったく正直なところ、フィルムメーカーになれと勧めたことはないし、またそれを選んでほしい、とも思っていないの。



メディア市場が飽和状態だから、とか、食べて行くのに困るから、とか、そういうことが理由ではないの。むしろ、彼らにはメディアの質をクリティカルに見定められる消費者になってもらいたいし、広告であれ政治キャンペーンであれニュース報道であれ、それがどういう意図で誰によって作られ自分達の考えにどう影響を与えるかを理解できる大人になってもらいたいの。メディア制作者が持つパワーと責任を分かった上で、私たちがどうメディアを使っていけるかを考えてほしい。



と同時に、メディアの発信者になってみて初めてわかることってあるわ。私の生徒たちは生活の至るところで絶望や不平等を間近に経験しながら育っている。だからこそ、彼らの声を伝える手段があることを学んでほしいし、社会をよくしていくことに自分が貢献できるんだ、と認識してほしい。



そして何よりも、自分や自分のコミュニティのストーリーを伝えるという行為が持つ治癒力を体感してもらいたい、かな。



【関連サイト】


・トライベッカ・インスティテュート “私たちの街 私の話”

http://www.tribecafilminstitute.org/youth/our_city/



・アドビ Youth Voices NY

http://youthvoices.adobe.com/news_events/city_tour/newyork/



※1

・New York Times記事アドビ・ユース・ヴォイシズ(AYV)について

http://cityroom.blogs.nytimes.com/2010/06/10/teenagers-turn-life-experiences-into-short-films/




・ABC 7 News AYVについて

http://abclocal.go.com/wabc/story?section=news/education&id=7490521



※2

・宇野港芸術映画座(岡山県玉野市)8月2日(月)~8日(日)

『円明院~ある95歳の女僧によれば』『投下者と、被爆者と?』またAYVの中高校生の作品数作品、『マリポサ』を含んだニューヨークの大学生の作品を数作上映します(筆者とパートナーの上杉が主催の瀬戸内国際芸術祭フリンジイベント)

http://www.unoportartfilms.org



・『円明院~ある95歳の女僧によれば』8月18日(水)

東京・中野ゼロ視聴覚ホール特別試写会 入場料1000円 定員100名

http://www.mrex.org/

http://www.nices.jp/access/zero.html



・ラウラ・ロフォルティが共同主催するフォトジャーナリズム(ドキュメンタリー)サイト

http://www.therawfile.org/




■タハラレイコ PROFILE


東京、吉祥寺出身。91年奨学生留学渡米、92年からNY。94年以降は夫の上杉幸三マックスと二人でドキュメンタリーや実験映画を製作。日本で見る西洋のイメージについての思索実験映画『レムナンツ 残片』(1994)は全米30以上の映画祭やアートセンターで上映、今年7月カナダの新世代シネマ祭でリバイバル上映される。マックスと共同監督の『円明院~ある95歳の女僧によれば』(2008)は岡山の老尼僧の人生を綴った探偵風私的長編ドキュメンタリー。ハワイ国際映画祭でプレミア後NY、日本、スリランカなどの映画祭やギャラリーで上映、今秋には東京で劇場公開予定、その後日本各地での展開を目指す。2007年度文化庁新進芸術家海外研修生としてデオドラ・ボイル教授(NY ニュースクール大学)のもとで先生修行、また映像作家アラン・ベルリナー氏に師事。以後、NY近郊の大学・大学院でドキュメンタリー史、制作、日本映画史を非常勤講師として教えている(ニュースクール、NY市立大、テンプル大、9月からハンターカレッジも)。2009年11月、次作の撮影のためマックスが故郷の岡山県玉野市宇野港に拠点を移し、外国人観光客のための宿屋を開業、18年ぶりに日本に住み始めた。タハラは12歳の娘とブルックリンに暮らすが、夏は日本で家族再会、宇野港芸術映画座上映シリーズ「生きる、創る、映画」を二人で共同プロデュースする。早稲田大学第一文学部卒、ニュースクール大学メディア学部修士課程修了。

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N.Y在住の映像作家が「生きて創る映像」をテーマに綴る新連載!第一回はドキュメンタリー作家、イヴァナ・トドロヴィッチのインタビュー http://www.webdice.jp/dice/detail/2452/ Fri, 21 May 2010 14:43:23 +0100
N.Y在住の映像作家が「生きて創る映像」をテーマに綴る新連載!第一回は、カンヌでの上映を果たしたドキュメンタリー作家、イヴァナ・トドロヴィッチのインタビュー

映像作家のイヴァナ・トドロヴィッチ


ニューヨークで、ドキュメンタリーや実験映画を制作しているタハラレイコがwebDICEコントリビューターとして“映像”をキーワードにした記事をお届け。第一回は、NYを経て現在カリフォルニア在住の映像作家、イヴァナ・トドロヴィッチ氏にインタビュー。”ビデオ・ストリート・ファイター”を名乗り、ポップにキュートに命がけで撮る彼女の作品は、先日閉幕したカンヌ映画祭アメリカン・パビリオン新進映像作家ショーケースで上映され、2010年8月には日本での上映が決定している。そんな彼女にタハラ氏が迫り、旧ユーゴスラビア・ベオグラードで生まれ映像作家を志してアメリカへ渡るようになった経緯、そして社会問題を描き続けるドキュメンタリーという方法について質問した。







自らを“ビデオ・ストリート・ファイター”と呼ぶ女性映像作家





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イヴァナ・トドロヴィッチ、コニーアイランドにて



ニューヨークに2年前にやってきたドキュメンタリー界の新星、セルビア共和国ベオグラード出身の映像作家イヴァナ・トドロヴィッチ。自身を“ビデオ・ストリート・ファイター”と呼ぶ彼女は、ビデオカメラを片手に声のない人々の声を世界に伝える。これまで撮った3つの短編は、40以上の映画祭を回り、最新作はニューヨーク・ハーレムの名劇場メイスルズ・シネマでプレミア上映後、現在世界各地の映画祭を巡っており、5月にはカンヌ映画祭アメリカン・パビリオンの新進映像作家ショーケースで世界デビューを果たし、翌日ロシアのヴィジョン・ドキュメンタリー映画祭でグランプリ受賞している。6月にはニューヨーク夏の風物詩『ルーフトップ・フィルム』で野外上映、そして8月には瀬戸内国際芸術祭のフリンジ・イベントとして企画されている宇野港芸術映画座上映シリーズ(岡山県玉野市)で日本上陸の予定。



昨年完成の新作、アメリカでの第一作『ハーレムマザー』は、一人息子をストリートでの狙撃で失ったマザー・ジーンが、その後同様に我が子を拳銃暴力に失った親たちへの支援団体“ハーレムマザーS.A.V.E.”を組織することで立ち直って来た軌跡を辿る感動の物語。画面には、今は亡き息子ラトロンが高校時代に親やハーレムへの思いを綴ったビデオエッセイと、マザー・ジーンの現在の戦う姿が交差する。奇しくもカンヌ上映が決まった直後、マザー・ジーンの残されたただ一人の肉親である13歳の愛孫(亡くなったラトロンの娘)が、母親、異父兄弟もろとも継父に殺害される痛ましい事件が起こった。8年の時を超えて立ち直りつつあったジーンは、今また悲しみの淵に引きずり戻された。




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『ハーレムマザー』(2009)カンヌで5/20に上映。2010年8月に日本上陸



普段の彼女はアップビートでおしゃれで太陽のように明るい。しかし2年前ニューヨークに来たばかりの彼女の前作品(『ラップリゼント』)を初めて観た時、私はその翳りを帯びた力強さと、カメラを抱えた彼女が傷を持って生きる者たちに対峙するひたむきさに打たれたのである。『ラップリゼント』の主人公、ホームレスのグラフィティ・アーティスト青年ボヤンは、生まれ育ったクロアチアで父親を内紛により失い、母・姉とベオグレードに移り住むが、母も11歳の時に死亡、孤児院で育つ。セルビアの法律では18歳になると公共施設に住めないため、18歳の誕生日にホームレスになる若者が多くいるという。ボヤンもその一人だ。



被写体に近づく、イヴァナのやり方



イヴァナはゴミ箱から誰かの誕生日ケーキの食べ残しや靴下を漁ったり、仲間と接着剤を吸ってハイになるボヤンの日常を追い、彼のラップ音楽やグラフィティへの熱い思いをカメラに収める。そうしながら、被写体に尋ねかけるイヴァナの言葉「腕にいっぱいある切り傷は何?」「なぜお巡りから逃げてるの?」「なんで接着剤を吸うの?」はストレートで、友達で、力を持つ撮影者(制作者)と持たぬ被写体の関係について長年うんぬん討議してされてきたドキュメンタリー理論を一気に吹き飛ばす。制作者/被写体の境界線(があるとするならば)を危なっかしく超えたり戻ったりするイヴァナを、ボヤンが自分の彼女と勝手に呼び始める場面もある。私は観ながら、トリン・T・ミンハ(ポスト・コロニアリズムとフェミニズムの思想家/映画作家)が『ル・アッセンブラージュ』(セネガルを撮ることを題材に人類学者やドキュメンタリアンが被写体/研究対象に向かう姿勢について疑問を投げた秀作品)の中で語った“speaking nearby(他者に近づいて語る)”という言葉を思い出していた。実はこの『ラップリゼント』が、ロンドン国際ドキュメンタリー映画祭、ベオグラード民俗映画祭(ベスト・セルビアン・フィルム賞)などですでに高い評価を得ていたことを知ったのは大分経ってからだった。




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『ラップリゼント』(2008)ホームレスのグラフィティ・アーティスト、ボヤンの物語



ドキュメンタリー・アートを真剣に学ぶためにニューヨークにやってきたイヴァナがニュースクール大学ドキュメンタリー特別コースで『ハーレムマザー』を仕上げていた昨年、ふるさとベオグラードのボヤンがヘロインのオーバードースで亡くなった。この春『ハーレムマザー』がカリフォルニアの二つの映画祭で上映されるのに合わせて、LAの壁に自分の名前“rApresent”(ラップリゼント)を“タグ”することが夢だったボヤンのために、イヴァナはLAのグラフィティ・アーティストを探そうとフェイスブックなどで呼びかけていた。その矢先に、マザー・ジーンの孫娘の殺害事件のニュースが飛び込んだのである。




ユーゴの共産圏で育った彼女だが、12歳の時にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発、19歳の時にはNATOのベオグラード爆撃を間近で経験、多感な時代を戦争と共に生きた。戦争のために家族の生活も貧しく、学校も閉鎖日が多かった。あきらめず奨学金で外の世界へと出て来たが、出会った人、育った街を忘れてはいない。その若くスレンダーな肩に他者の悲しみを背負いながら、前へ前へと進むイヴァナ。悲しみの炎で自分の身をも焼き尽くしてしまいやしないか、と心配になる。そんな彼女に、今の思いを聞いた。





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イヴァナ インタビュー、ブルックリンのカフェで



“手法”や“美”より“人との関係”や“繋がり”を優先



──ボヤンのこと、ジーンのお孫さんのこと、色々あったようですが、フィルムメーカーと被写体の関係について色々思うところがあるのでしょうね



わからないけれど、深入りしすぎて、私の彼らに対する気持ちはヘルシーではない気がする。それについて今まで沢山考えて来たけれど、難しい。なんでそうなってしまうのか……誰かのストーリーを撮るとき、私は私の心を彼らにあげるし、彼らも私に心を預けてくれる。このつながりは大きなもので、だからこそ私にとって彼らとその後も連絡を取り合っていくのはとても大切なこと。取り合うべきなんじゃなくて、取り合わなくちゃいけない、と思う。私にとって、今まで作った作品は皆それぞれの瞬間での私の人生そのものであるし、同じ瞬間の彼らの人生でもある。関係がどうあるべきか、というのは制作者それぞれの課題だと思いますが、でも今正直なところを言えば、今よりもう少し距離を置きたい。というのは……死んでしまうから。ボヤンが死んで、今度はハーレムマザーのお孫さんが死んで、ちょっとつらい。だから今考えているのは、自分の心が壊れないように多少でも守らなくてはいけない、ということ。でもどうやって? ステディなボーイフレンドでもいれば、心を分け合えるかな? なんて。でも、妙なことに、おそらくですが、何度も傷つくと慣れてもくるもので。それと、具体的な方法として、メディテーションの実践方法とヨガを学びたいんです。そうしたら、痛みを映画として置いておけるようになる気がする。“手法”や“美”より、“人との関係”や“繋がり”をいつでも優先してきたけど、近い将来にヨガと瞑想を学べば、境界線を引けるようになる気がするの。そう、これは映画なんだ、映画のためなんだ、って。分けて考える事がとっても大切なように今は感じられる。そうしたら作品も映画として向上するし、制作者としても成長できるというような。それでも撮影するときはやはり自分の心を全部あげてしまうだろうけど、いったん撮影が終わったら、もう少し自分を遠くに置いてみようかな、と……。やっていくうちに、きっと何かがわかると思います。



──マザー・ジーンにはどうやって出会って、どうやってプロジェクトになっていったのでしょうか?



ニューヨークにやってきて1日目に地下鉄に乗ったの。土地勘もないし、とりあえず地下鉄に乗ってどこかで降りてみようと思って。そこで地上に出て、ここはどこ? と聞いたら、「ハーレムだよ、お嬢さん」って言われて、ワーオ! と。私にとってのハーレムはジャズで、歴史で、マルコムXだったから。空気に歴史が感じられるようだった。それで歩いていたら通りでダンスしている老人たちがいて。普段からの癖でジロジロ眺めていたら「何やってんの、入んなさいよ」って。それで彼らと友達になって。彼らはフレデリック・E・サミュエル・コミュニティ・デモクラティック・クラブという団体の人たちで、クラブの歴史は50年にもなるって! すっかり感動しちゃって。だってベオグラードの民主主義の歴史はわずか20年だもの。そこである女性と知り合っていろんなミーティングに参加するようになったんです。



ここ(ハーレム)で何かが起こる、という直感はあった。ニューヨークに来た理由がそもそもドキュメンタリーを作ろうというものだったから、被写体を探していたんだと思います。あるミーティングにマザー・ジーンが来ていたの。そこでその背の低いシャイな感じの彼女が「またひとり、私たちのコミュニティで若者が死んだわ。何とかしないと!」と訴えている姿を見て、その後彼女自身が一人息子を銃で亡くしているということを知って、この人はただ者じゃないとピンと来たの。それで彼女に話しかけて、ビデオを撮りたい、彼女の活動にもきっと役に立つから一緒に作ろう、と持ちかけたの。彼女の信頼を勝ち得るのには時間がかかった。でもそのうち実は息子が作ったビデオがあって……と教えてくれ、だから一緒に作った、という感覚はあります。ジーンのインタビューをするのに8ヵ月も待ちました。最後に撮影したの。



──どうしてそんなに長くかかったのでしょうか?



彼女の心の準備ができていなかったからだと思います。人に話すのが当たり前の人ではないので。だからひたすら待ってたの。他にも彼女が撮ってほしくない、というのを感じる瞬間はしばしばあって、そういう時はカメラを回さなかった。彼女がやろう、というムードのときは一緒に映画を作った。あのインタビューをした日はラトロンの命日だったの。その後ハーレムマザーの集会もあって。その日は本当に精神的に疲れ果てた。でもジーンが、映画があったから自分の思っていることを言葉に出して言えるようになったって言ってくれて、嬉しかったんです。それにあるとき、ふと、こう言ったんです。「なんであんたに映画を撮らせたかっていうとね、あんた自身の身の上が興味深かったからだよ。それにあんたは急に空から降って来たみたいにハーレムに現れて、それで私の映画を作ろうなんて、そうあることじゃないからね」と。すごく嬉しかったんです。




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マザー・ジーンとイヴァナ、2009クリスマス



グラフィティ・アートとヒップポップに燃えるホームレスの男、ボヤンとの出会い



──『ラップリゼント』の主人公ボヤンとはどうやって知り合って、映画を作るようになったのでしょうか?



ホームレスの若者を探していたのには2つ理由があって、まずベオグラードで大学を出た後、セルビアがEUの一部でないという理由でヨーロッパの大学院に行く奨学金が取れなかったこと。じゃあそのセルビアの社会の一部でさえない人たちはどういう思いで暮らしているんだろう、って考え始めました。それと、その頃青少年の人権を訴えるグループ主催の学校の生徒だったので、ベオグラードに生きるホームレスの若者の権利について考えるようになりました。



ある非営利団体を通じて当時19歳のボヤンに出会いました。グラフィティ・アートとヒップポップに燃える男で、1年間ホームレス生活をしていました。友達になって、一緒に映画を撮ろうということになりました。借り物のソニーの小さなミニDVカメラでボヤンの生活を追い、話をしているうち、彼の生命力というか、ベオグラードのストリートでのサバイバル技術に本当に驚きました。撮影しているうち、その作品の共同製作会社だったアカデミック・フィルム・センター(AFC)の人たちがボヤンに興味を持って、彼はそこで雇われて活動するようになりました。私が一階で編集している間、ボヤンは2階でAFCのアートチームと一緒に働いていたんです! 編集は難しかった。だってボヤンはすっかり私の弟分になっていしまっていて、近すぎる関係だったから。でも、素直に彼のストーリーを伝えながら、最後はAFCでアートやって働いて長いトンネルの向こうに光が見えて来た、というはハッピーエンディングにすることができました。




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ボヤン、20歳の誕生日 2008



──ボヤンを自分のアパートに住まわせてあげた、と言っていましたよね?



それはなぜかというと、撮影中にボヤンが2年前からのヘロイン所持で裁判にかけられたの。彼は自分が刑務所に入るのをとても怖れていました。それで裁判の前に私に電話をしてきて、そっちに行って眠ってもいいか、一緒に裁判所に行ってくれないか、と頼んできたんです。だからボヤンに私のアパートをしばらく貸してあげて、私は友人の家に泊まっていました。それと、こんなこともあったわ。ボヤンがAFCで絵を描いてたとき、彼の生活が新しくなったのだから、新しい服がいるんじゃないかって。同じ頃ちょうど私が引っ越しをしたので、それでボヤンに仕事として私の新しいアパートの壁を塗ってもらいました。その時も何日かそこに住んだわ。彼の仕事ぶりは丁寧で、その後一緒に買い物に行って彼の服を買ったの。すごくかっこよくて、ボヤンは本当に嬉しそうだったわ!




──その後ボヤンはどうなったのですか?



私は編集を終えてニューヨークにドキュメンタリーを勉強しに旅立ちました。ボヤンとはメールなどでずっと連絡取り合ってた。ベオグラード市から作品に賞金が下りたから、完成した後みんなでお金を分けました。その後ボヤンは相変わらずグラフィティ・アートを続けて、AFC主催のオルタナティブ映画祭ではグラフィティ・ジャムを中心になって組織したりもしたのよ。AFCのアートチームはその後解散してしまって、ボヤンもそこにいられなくなってしまって。その後JAZASという非営利団体で働いていたのですが、映画を撮り終えたちょうど1年後の2009年6月11日にヘロインのオーバードースで逝ってしまった。21歳だったの。




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ボヤンの誕生会、2008 夏 ベオグラードで



──そのボヤンの映画『ラップリセント』をこの前LAで上映したのですよね? どうでしたか?



そうなの! 5月2日に南東ヨーロッパ映画祭で上映されたの。お客さんはそんなにたくさんはいなかったけど、反応はすごく良かったの。皆ボヤンを好きになってくれました。映画の作り方も良いって言ってくれました。ストリートで生活していて、いわばジャンキーで、社会のはみ出し者のボヤンを、人間としてとても好きになってくれたんです。泣いている女の人もいました。こうやって記録に残していくのはやっぱり大切なことだ、って思えました。



同じ頃に『ハーレムマザー』を上映したある上映シリーズ(ハリウッド・ゴワーズ・スタジオのニューフィルムメーカーズ)の人たちも来ていて気に入ってくれて、私が秋にヨーロッパから戻ったら上映してくれることになった。ボヤンがもし生きていたら一緒にLAに来ていたわ。LAの壁に自分のアーティスト名のrApresent(ラップリセント、写真はボヤンの生前の作品)をタグするのが彼の夢だったし、ボヤンをLAに連れてくるのが私のゴールでもあった。そしてふたりで一緒に色々な人に出会って、世界の若者に影響を与えて、戦争している大人たちにも影響を与えて、ボヤンのストーリーを知らせていくことが、一緒に映画を作ろうねと決めたときのふたりの目標だったの。起こってしまった事は取り返せないのだけれど。




ボヤンの死を加えたら、映画のユニバーサル・メッセージも一緒に死んでしまう




──LAでの上映が決まったときにはボヤンへの追悼になる、という気持ちがあったのでしょうね。



はい。上映自体はボヤンが一緒にLAに来るみたいで素晴らしいけど、LAの壁にタグするというもう一つの目標も一緒に果たしたかった。フェイスブックのLAのストリートキッズ系らしき団体に「上映するので見に来て。ボヤンはもういないけど、彼の名前をLAの壁に描いて私がそれを写真におさめるのを手伝って!」と呼びかけたんだけど、誰からも連絡がなかった。しかも、ちょうどその頃マザー・ジーンのお孫さんが殺されたと聞いて、私が機能できない状態になってしまって、満足な形でプロモートができなかった。



だったら美しくは描けないけど自分でやってやる、とLA滞在中に友人に頼んで車で徘徊してもらって手頃な壁を探していたんだけど、でもそうしたら上映の日にストリートキッズや問題児のためのアートスクールを開いている男性が来ていて、そこではグラフィティ・アートやヒップポップをやっているの。それで、秋の再上映のときに、そこの子供たちを集めて街の壁にRAPRESENTとタグしてもらえることになったのです。彼らこそボヤンの名前を描くのにふさわしいし、こんなに良いことってないじゃない! その学校で私がビデオのワークショップもやることになって、映画についてディスカッションなどもすることになっているの。楽しみです。




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ボヤンのタグ作品 RAPRESENT(RAP=ラップ、RES=リスペクト、ENT=終末)ベオグラード



いろんな人に、どうして映画にボヤンが死んだことを含めないのか、って聞かれた。ボヤンが死んだとき、皆このことを映画に入れるべきだって言った。色々考えた末、編集の人に相談した。「イヴァナ、ボヤンが結婚したとしたら、ボヤンは結婚しました、ともう既に出来上がっている作品に書くかい? もしボヤンが死んだって最後に字幕で加えたら、映画のメッセージはどうなる?」ってアドバイスしてくれた。その通りだと思った。もしボヤンの死を加えたら、映画のユニバーサル・メッセージも一緒に死んでしまう。それならむしろ、このままの形で見せて、子供たちと話し合いを始めればいい。道は2つあるけれど、どう思う? ボヤンが選んだ道じゃない方を、君は選べる? って。今こうやって問題を抱えたLAの若者がボヤンのタグをしてくれるのは本当に嬉しい。彼らがそうしてある意味ボヤンとつながってくれたら、これ以上の追悼はないと思えるの。




Ivana & Bojan

ニューヨークへ発つ直前にベオグラードでボヤンと撮った写真 2008年夏


いのちの魔法の中で私は生きている



──あなたはまだ若くて、人生先が長くて、カンヌ映画祭などビッグなことが起こっていて、一方でこうやって心を込めて作った作品3つのうち2つに絡んで、その後すぐに被写体やその大切な人が亡くなってしまうなんて。あたかも、消える直前の声にイヴァナが気づいて記録に残したのか、彼らが呼んだのか。そういうカルマみたいなものを感じますか?



もちろん。誰かが「あんたに撮られたくない」って私に言っていたし(苦笑)、他の誰かには「こうなりますよ、ってあらすじが出来てて撮ったみたい」と言われました。でも私がひたすら信じるのは、いのちの魔法の中で私は生きているんだ、ってこと。だからこそヨガや瞑想を勉強しなくちゃ、だってこれからもそういうことは起きるもの。変わりはしないわ。私はコメディに転向はしないし。ある映画祭で、メキシコからの映像作家がいたの。それで私がメキシコの魔術師の映画を撮りたい、って言ったら「良いけど魔術は怖いよ。問題ばかりだからねえ。死人に沢山会うよ。それが目的だから」と言われて。その通りだろうと思いました。魔術に魅かれるのは私の役目が何か“死”と関係があるからじゃないかって。



──今は、自分のいるべき場所にいる、という感覚がありますか?



はい。でも、ときには迷うし、わからなくなる。何やってんだろ、ワタシって。ニューヨークに来てしばらく方向を失った。“フィルムメーカー”があまりにも沢山いて、これをすべき、あれをすべきって。ドキュメンタリーという産業に飲まれたんだと思う。こう進まなきゃいけない道があって、それを外れたら……ゾーッ、みたいな。それに、映画を作っている人たちはそんなにお互いにナイスじゃなかったり。そうしているうちに、自分でもよくわからない場所に行ってしまって。だから今はまた自分の場所を見つけられてとても嬉しい。




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イヴァナ、ニューヨークで 2009



──どうやって自分の場所をまた見つけられたのですか?



多分まず、カリフォルニアに移った事が大きかった。NYは常にイベントがぎっしりと同時に起きていて、こうしないといけない、といつも追い立てられていて。だからこそコンピューターの前に座ってどこにも行かない、誰にも会わない、みたいなところがあって。それで参ってしまってお金も尽きたし、アーティスト・ビザの申請費用もかかるから、今年の頭からカリフォルニアのパーム砂漠の親戚の家に移ったんです。最近カリフォルニアでの上映が続いたけれど、本当にNYとは違うの。最近あったNYでの上映会には5人しか来なかったと編集の人が行っていたけど、私が先日参加したハリウッドのニューフィルムメーカーズでの上映は満員で、レッドカーペットが敷かれていて、完全にハリウッド状態。それからカリフォルニア州フレズノ市での上映は、小さな街だからザ・イベントという感じで盛り上がって、午後4時という半端な時間だったのに満員でした。皆、上映の後私と話したがって、こんなに大切ですごい事はないみたいに思わせてくれたし、子供を持つ親が沢山いてとても共感してくれました。カリフォルニアは広くてイベントがあれば人が沢山集まる。それは発見だった!



それと、同時にカリフォルニアで沢山の人が“映画”として良い、って言ってくれたのが衝撃でした。どうやって撮影したの? とか。“映画”として自分の作品を考えたことが今まで一度もなかったんです。制作者の私自身がいつも社会問題の方を重視していて、社会を変えないと、広めて行かないと、子供たちに見せないと、というように思ってきていました。それが「この“映画”はワンダフル!」なんて言われると、どう対応していいかわからず「あー、えー、どうも」みたいな感じでした。何だか妙でしたが、確実に違う場所から自分を見ることができました。場所によってものの見方は違うな、と。




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イヴァナ全米各地の映画祭で




映画は、東ヨーロッパでは文化、アメリカではビジネス



それから、南東ヨーロッパ映画祭(LA)に行ったのが良かったと思います。NYのルーマニア文化研究所所長の女性、その人は私の最初の作品をベオグラードで見てくれた人なのですが、その人がわざわざ飛行機で見に来てくれたのです。出席して、私が自分を “ビデオ・ストリート・ファイター”と呼んできたのはごく自然なことだったなあ、って思いました。私が育った東ヨーロッパでは、映画は文化として作るものでした。心を込めて作るものでした。それがアメリカに来てから大きなプロダクションがどうとか、資金を集めるにはプロポーザルを書いてとか、映画は産業、ビジネス。それで大切なものを見失ってしまっていたのですが、原点を思い出させてもらえました。

心で作ったり、社会を良くしていくことの方が、お金より大切なんだ、って。言い訳するわけではないですが、だからきっと私は他の人たちよりスローなんだと思います。お金がなくても、情熱さえあれば何ができるか、心があれば何が動かせるか、小さなカメラが一つあれば何が撮れるか、を見せたい。問題を見つめる目があって、それを変えたいと真剣に思って外へメッセージを送りたければ誰にでもできる、と言いたい。そうやってやってきたし、特に若い子たちには伝えたい。私ができるんだから、あなたもできる、って。






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イヴァナ小さなカメラと ベオグラード時代



メッセージを伝えるために“映画”が作りたい




今の理想は、自分を見失わないように、カリフォルニアとニューヨークとベオグラードと……みたいに、複数に拠点を置くこと。カリフォルニアといっても、私は砂漠に住んで次は本当の“映画”を作るの。“映画”といっても、もちろん次も社会派ドキュメンタリーなんだけど、でも“映画”として作りたい。皆に“映画”を作ったから観に来てください、と言いたい。その点でも“映画”好きのLA が近くにあるのはいいことだと思います。



私が言う“映画”というのは、技術とかそんなことではありません。砂漠にいて、そこに住んで、朝5時や6時に起きて撮影する自由と時間があって、カメラを立てる、ということなのです。まず初めに出かけて行って、砂漠の中を走る電車が通り過ぎる瞬間をカメラを構えて待つ。次に、その電車にどうにか飛び乗ってそこから撮る。感情を撮りたいのです。見る人が感じられる作品が。それが私が“映画”と呼ぶもの、だと思っています。



私はストリート出身の社会派だから、いつでもカメラを持って記録できるように準備できています。けれど……今とても“映画”作りを勉強したい。今やっと成長して同じメッセージを“映画”を通して伝えられるような気がするの。そうすれば、もっと多くの人に見てもらえるでしょう? 型にはまったドキュメンタリーではなく、もっとフィクションに近い形に発展させたいのです。私がスキルを磨けばきっとお客さんの層が広がると思って。一番の目的は沢山の人に観てもらうことだもの。それに、そうやって増えた新しい種類のお客さんたちの中にこそ、そういう社会問題をよく知らない人たちが多い訳で、実はその人たちにこそ観てもらいたいのだから。





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イヴァナ・トドロヴィッチ カメラを持った女



旧ユーゴスラビアで生まれ、公共テレビ局で働く父から影響を受けた



──あなたの生い立ちについて教えてくれますか?



私の出身はベオグラード、以前はユーゴスラビアだったけど、今はセルビアです。30歳です。



──30? 見えません。



本当はもうすぐ31なのですが、次の誕生日で30になる、と決めているのです。というのは、30になった3日後にボヤンが死にました。それまで30になったら良いことがあると思っていたのに、それが今年はとんでもない年でした。だから、次に30になることに決めたのです。1年くらい“留年”する権利はあるでしょう?




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イヴァナと犬



生い立ちに戻ると、お母さんとお父さんがいて、彼らはベオグラード出身で、子供は私一人、私はひとりっ子です。両親は戦後生まれで貧乏育ち。祖父母はどちらのサイドも第二次世界大戦世代で、ドイツ軍と戦ったり、弾丸が体に残っていたり、ロシア軍の侵攻で子供を亡くしたり。父は大学を終えたかったけれどできなかったし、母も高校までしかお金がなくて出られなかった。それで結婚して私を産んだ。祖父母と一緒に育ったわ。両親は苦労したから、良い生活にはかなりの価値を置いてる。私が12の年までは、まあまあ普通に暮らしてた。でもその年に戦争が起こって、爆撃で母が工場での縫子の職を失い、その後ずっと清掃婦として働いて生きてきました。今でも清掃婦の仕事をバリバリやっています。本当に尊敬してるんです。すごいきれい好きなんだから!



スカイプで話さなくてはならないときは、私のアパートの散らかってるところは写らないように気を遣っています。以前、引っ越しをするのでルームメイトの4人で一人10ドルずつ出してお掃除の人に来てもらったのですが、あまりの仕事のずさんさにびっくり。私の母だったらそんな仕事はしない! 父は長年定職につけずに家族のために何でも働いていたんだけど、結局親戚の紹介で公共テレビのスタジオアシスタントになって、朝や午後の国立放送のような仕事を長年やっていました。今はもう年ですが、子供にスタジオ技術を教えたりして、年金がもらえるようにまだ働いています。




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ベオグラードのイヴァナのお父さん クリスマス用に聖なる枝を採る



──じゃあイヴァナにとってテレビやビデオは身近な存在だったのでしょうか?



ええ、そうよ。いつもスタジオにいました。一度なんか父は私を連れて来たこと忘れて家に帰っちゃった(笑)。撮影にもずいぶん連れて行ってもらいました。溶鉱炉とか、夜の街とか…… スタジオにはまったく興味がありませんでした。でもね、今回ハリウッドの映画祭としてスタジオでイベントがあって、おかしなことに家に帰って来たように感じたの。スタジオの匂い、というのでしょうか。何だか心が落ち着いたのです。子供の頃はこうやっていつもスタジオに座らされてたなあ、って。だからかな、40~50歳になったらスタジオに戻ってフィクション映画を撮るわ。その年齢になったらああいう安定感が必要になるのよ、きっと。でも子供の頃はそれが退屈に思えてたまらなかったんです。ここでチマチマと色々やっているけれど、外の世界では全てが起こっているのに!みたいな。だから子供ながらにカメラを抱えて“外”から戻ってきて色々話をしてくれるカメラマン達が好きでした。



映像作品を作り始めたきっかけと、名カメラマンとの出会い




──どういう経緯で映像作品を作り始めたのですが?



5歳の時にカメラを買ってもらいました。皆の写真を撮るのが大好きでした。13歳の時最初のビデオカメラを入手して撮影にハマったんです。しゃべりながら撮り、撮りながら被写体にしゃべりかけた。そういうわけで手がカメラに慣れているし、スタイルも実はあまり変わっていないんです。でも編集という過程があることにはずっと気づかなかった(笑)! 高校の時に大学で映画制作を学ぼうかと考えたこともあるのですが、自分がクリエイティブだって思ったことがなかったから、なんだか怖かったんです。私は人情派(ライフ・パーソン)だし……。ああいう芸術家タイプの人たちに囲まれたらどうして良いのか分からないと思って辞めました。



それで代わりに人類学を専攻したの。それだったら文化だし、生命だもの。ある時その頃のボーイフレンドが誕生日にビデオカメラを買ってもらったので、私がそのカメラで私たちの生活を撮り始めたことがあったの。24歳くらいの頃よ。それまでは写真ばかり撮っていて、動画はいっさい関わりなし。ちょうどその頃に人類学の教授がルーマニアのドキュメンタリー映画祭に連れて行ってくれたの。私の最初の映画祭体験。その時に、これはすごいぞ、って! しかもそこで、ジョン・マーシャルに出会ったんです。




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イヴァナにメルアドを渡すジョン・マーシャル ルーマニアで



──あの有名なドキュメンタリー映像作家のジョン・マーシャルに?(50年代よりカラハリ砂漠のブッシュマンを撮り続け、フレデリック・ワイズマンのデビュー作『チチカット・フォーリーズ』のカメラマンとしても知られる)



彼がその映画祭に来ていたの。その頃、ルーマニアを訪れていた私はその小さな街に旅行者が来ていて盛り上がっていて驚いていたのですが、人々が履いている靴が雑多(ホームメイドの靴を履いている人たちもいて)で社会階級を表しているので面白いのでそれを撮影していたのです。ボーイフレンドのカメラで(笑)! それで、ジョン・マーシャルにそれを見せて「撮影するのが好きで私が見ているのはこんなもので、どうしていいかわからないんだけれども何かしたい」と相談したら、それをじーっくり見てくれて「ワーオ、君は才能あるよ。何か作りなさい」と言われて。その頃ちょうど奨学金をもらってどこかで勉強できる機会がありそうだったので、どこで勉強するのがいいか聞いたら、紙にメールアドレスを書いてくれて「それを編集して送りなさい。ニューヨークの知り合いに見せるから」と言ってくれたのです。それと「ニューヨークに来てドキュメンタリーを学べ」とアドバイスしてくれた。家に帰って来てどうやって編集するか考えていると、何と2ヵ月後にジョン・マーシャルは死んでしまった。なんてこと! でも彼はドキュメンタリー映画で人や社会に影響を与えられるということを教えてくれたの。




だからベオグラードの街でまず始めることにしました。セルビアの社会から外れた存在で、教育を受ける事ができないジプシーのローマ・キッズのことをまず撮ろうと、またボーイフレンドのカメラを持ち出して(彼がいなかったら今の私はいない、ありがとう!)。それが私の卒業制作で、10点満点で皆すごいとほめてくれて、映画祭に送りなよって。それで送ったらドイツの映画祭が気に入ってくれて、でも14分と短すぎるから、もっと長くしなよと編集者をつけてくれて…… それからその作品はモントリオールの人権映画祭など沢山の映画祭で上映されて賞をもらい、ジプシーの子供たちの現状を広いエリアに知らせることができました。その後ベオグラードで一番大きなジプシー居住区で働き始めて、大学進学を希望するジプシーの若者たちのことを撮っていたら、犬にガブリとここ(右の胸の上)を噛まれてとても怖かった。おっぱいがなくなるかと思ったくらい。それでこの作品は完成できなかった。




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ジプシーの子供たちと 2007




そのうちベオグラードでジャン・ルーシュ(フランス派シネマ・ヴェリテの始祖、民俗ドキュメンタリー作家)が創設したアトリエ・ヴァラン(社会変革のあった国々の若者にドキュメンタリー制作を教えるプログラム)のベオグラードでのワークショップに参加して小作品を作り、そしてそれからボヤンのドキュメンタリーを作ったというわけです。



──ジョン・マーシャルが与えた影響は多大だったのですね。



はい。それに彼の奥さんも。いまだに連絡を取り合っています。その後『ローマ・チルドレン』は、ジョン・マーシャルとティモシー・アッシュ(同じく著名なドキュメンタリー制作者)が作った会社で配給してもらっています。




イヴァナが考える、ドキュメンタリーの制作者/被写体の関係



──イヴァナがヨーロッパの民俗記録映画の先駆者たちとそういう形で関わっていたとは知りませんでした。あなたのバックグランドは人類学、つまり西洋白人社会から発生した“他者”を知るための学問で、ジョン・マーシャルというその中から生まれた民俗映画の先駆者と直接知り合う機会があり、彼の作品やルーシュのワークショップへの参加を通して、彼らの考える他者をカメラに捉える態度を学んだ。と同時に、イヴァナは外見的には彼らと同じヨーロッパ白人だけれども、実のところ、独裁者のいた社会主義ブロックの裕福でない社会で育った。そして今あなたはアートとしてのドキュメンタリー史を学んで、その論壇で西洋モードの民俗ドキュメンタリーへの疑問が投げかけられてもう久しいことや、トリン・T・ミンハ(先述のポスト・コロニアリズムとフェミニズムの思想家/映画作家)が指摘したように被写体と彼らの物語を伝える特権者の関係についても色々議論されていることも知っている。そこで、それらを全部ふまえて、ドキュメンタリーの制作者/被写体の関係について、どう思いますか?




私が一番大切だと考えるのは、被写体と長い時間を共有することです。たとえ短編を撮っていても、できるだけ長い時間を彼らと過ごす。目に見える現実をスクリーンに写し取るためには、撮影者自身がその現実の一部にならないとそれはできない、と考えるからです。自分にとっては新しい現実や経験に入り込むのはとても難しい。時間がかかるものです。だから被写体と一緒に長くいないとだめなのです。人類学にこういう表現があります。“参加して観察する“。そうやってリサーチをするの。長年ブッシュマンの部族のために生きたジョン・マーシャルと出会えたことは、私の人生でとてもラッキーなことだと思います。彼らの関係は本当の友人だったし、家族でさえあった。だから彼の作品を観るとき登場人物を感じることができるし、つながることができるのです。彼らの現実を感じることが。ジョンがそれをちゃんとスクリーンに写し取ったから。その後ジャン・ルーシュのワークショップで、感情で撮りなさい、撮られる人に近づいて、心で撮りなさい、と教わりました。




制作者としての私は、呼ばれればどこへでも行きます。誰かが私を必要としていて、映画を通して世界と心を分かち合いたいのなら、カメラを向ける人たちが私に心を開いてくれるのなら、私も自分の心を彼らに預けるほかない。だから、最低でも私にとっては、被写体と撮影者の関係はとてもとても近い。魔法のように!





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イヴァナとマザー・ジーン メイスルズ・シネマのプレミアで



国・国家・グローバル



──あなたにとって、国や国家と文化の関係とは何でしょうか?



国や国家は、閉ざされた空間。文化はグローバル! 今は私は世界の文化に属していると感じています。最初に参加した映画祭以来、映像制作の文化圏に帰属してるわ。



自分の祖国や出身の国家は自分の家族みたいなもので、好きじゃなくても賛成しなくても愛している。そこで育てられたから愛している、でもだからといって完全に尊敬しているわけではないし、一緒に住みたいわけでもないのです。



内紛があった後に他国から爆撃を受けた街で育ったからこそ、他者の厳しい現実に気づくことのできる人間になれたのだと思います。戦争も爆撃も体験していなかったら、イメージと音と自分の書いたシナリオを駆使して創作する普通のアーティスト/映像作家になっていたと思います。でもそういう体験があったから、隠された現実がいつもあることを知っていて、それを世界に知ってもらうことの大切さも知っているように思います。もしかしたら、私のフィルムメーキングは、自分の人生に起こって来たひどい現実を違う目で見つめ直す手段なのかもしれない……。





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国境を越え、他者の悲しみを共に背負いながら、どこへ向かうのか




パーム砂漠に住む誰かのストーリーを撮りたい



──新しいプランがあると聞きましたが?



はい。パーム砂漠で撮るのです。そこに住む誰かがストーリーを語りたがっていると感じるのです。あとは見つけるだけ。まず最初に見たのは風景でした。美しい風景。広がる砂漠の中に、列車が走り、風車が回る。そのうち、アクア・カリエンテというアメリカン・インディアンの居住地のことを聞きました。住民400人は、ほとんどが他部族からの移住者。この部族の酋長は彼らと一緒にカジノを立ち上げて成功しました。皆仲良くいい暮らしをしています。自然と共存し伝統文化を重んじながら共同生活を営んでいる成功例として伝説化しているのですが、同時に近代化社会とも共存しているのです。この部族の酋長の名はリチャード・ミラノヴィッチ、つまり、半分セルビア人! 彼のお父さんがセルビアからの移民。信じられませんでした。そしてさらに驚いたのは、彼は3月に肝臓癌の手術を受けているのです。ひょっとしたらもう長くないかもしれない。その部族と衰え行く偉大な酋長の関係に興味があります。その関係の一部になれたら光栄だと思います。だって、彼らのカジノ・ビジネスは巨大で、一方でそれと正反対に思える彼らの伝統文化との繋がりも巨大で。ある意味私の今の状況にも似ているような。映画というビジネスの中で、どうやったら心からの作品を作りながらお金を稼いで行かれるのか。





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次のストーリーが隠れているというパーム砂漠



だから、彼らネイティブ・アメリカンが文化や心を保ったままでビジネスをどう展開しているのか、しかも同時にもしかしたら指導者を失いながら、というところを見たいのです。コミュニティに何が起こるか、を。ネイティブ・インディアンのことならアリゾナやニューメキシコのナバホ族の惨状を見ろ、とよく言われます。でも今私は解決策を提示する映画が撮りたいのです。だからやはりあの砂漠で撮りたい。自分本位かもしれないけど、今の私にはその解決策を見つけることが必要な気がするのです。そこにいたときは、朝6時に起きて瞑想したわ。ところがニューヨークに着いたとたん、もう病んでしまった(笑)。





──今日会った最初の一言が「ニューヨークは臭い!」でしたね。



はい。でもだからこそ家に帰ってきたようにも感じるのですが。私には今はアクア・カリエンテが必要なのです。その酋長に手紙を出して、今は結果待ち。イエスと言ってくれますように。



(インタビュー・文・一部写真:タハラレイコ)






『ハーレムマザー』予告編





【関連サイト】


・映画『ハーレムマザー』公式サイト

http://aharlemmother.com/



・カンヌ映画祭アメリカン・パビリオン新進映像作家ショーケース

http://www.ampav.com/cannes/emergingFilmmakerShowcase.php



・宇野港芸術映画座上映シリーズ(ライフ、アート、フィルム)7月下旬~8月上旬(岡山県)

『ハーレムマザー』『ラップリゼント』日本語&英語字幕版上映予定

http://www.unoportartfilms.org




・マザー・ジーンの非営利団体ハーレムマザーS.A.V.E.

http://harlemmotherssave.com/



■タハラレイコ PROFILE


東京、吉祥寺出身。91年奨学生留学渡米、92年からNY。94年以降は夫の上杉幸三マックスと二人でドキュメンタリーや実験映画を製作。日本で見る西洋のイメージについての思索実験映画『レムナンツ 残片』(1994)は全米30以上の映画祭やアートセンターで上映、今年7月カナダの新世代シネマ祭でリバイバル上映される。マックスと共同監督の『円明院~ある95歳の女僧によれば』(2008)は岡山の老尼僧の人生を綴った探偵風私的長編ドキュメンタリー。ハワイ国際映画祭でプレミア後NY、日本、スリランカなどの映画祭やギャラリーで上映、今秋には東京で劇場公開予定、その後日本各地での展開を目指す。2007年度文化庁新進芸術家海外研修生としてデオドラ・ボイル教授(NY ニュースクール大学)のもとで先生修行、また映像作家アラン・ベルリナー氏に師事。以後、NY近郊の大学・大学院でドキュメンタリー史、制作、日本映画史を非常勤講師として教えている(ニュースクール、NY市立大、テンプル大、9月からハンターカレッジも)。2009年11月、次作の撮影のためマックスが故郷の岡山県玉野市宇野港に拠点を移し、外国人観光客のための宿屋を開業、18年ぶりに日本に住み始めた。タハラは12歳の娘とブルックリンに暮らすが、夏は日本で家族再会、宇野港芸術映画座上映シリーズ「生きる、創る、映画」を二人で共同プロデュースする。早稲田大学第一文学部卒、ニュースクール大学メディア学部修士課程修了。

公式サイト

webDICEユーザーページ



■イヴァナ・トドロヴィッチ PROFILE


1979年セルビア(もとユーゴスラビア)ベオグラード生まれ。13歳で初めてビデオカメラを手にする。ボスニア紛争、コソボ紛争、そして米率いるNATOのベオグラード爆撃まで、思春期を戦争とともに過ごす。ベオグラード大学人類学部在学中にルーマニアのドキュメンタリー映画際に出席、そこで著名な民俗派ドキュメンタリー作家のジョン・マーシャルに運命的に出会い、ドキュメンタリー作家になって世の中をよくすることを決心。卒業研究の一環として作った第一作『ローマ・チルドレンの毎日~第71ブロックから』がヨーロッパやカナダの映画祭で高い評価を得る。その後フランスのシネマ・ベリテの父、ジャン・ルーシュが設立したアテリア・バラン・パリのベオグラードのワークショップに参加。2007年製作の『ラップリゼント』はロンドン・ドキュメンタリー映画際でプレミア、第18回ベオグラード国際民俗学映画祭でセルビア国立大賞受賞。この作品の主人公、ホームレスのグラフィティ・アーティスト青年のボヤンは、2009年6月ヘロインのオーバードースで死亡。2008年渡米、ニューヨークのニュースクール・ドキュメンタリー・メディア・スタディーズ・プログラムで作った『ハーレム・マザー』がメイズルス・シネマでプレミア、カリフォルニア数カ所の映画祭で上映後、カンヌ映画祭アメリカン・パビリオンの新進作家セクションに選抜されている。拳銃暴力により壊れてしまったハーレムのある家族の姿を、若者の拳銃所持に対して戦うことで悲しみを乗り越える母と今は亡き息子が生前撮ったビデオで綴った作品。先月、主人公ジーンの唯一残った肉親の孫娘も継父に殺害される。この8月、宇野港芸術映画で日本初公開の予定。

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