webDICE 連載『Artist Choice!』 webDICE さんの新着日記 http://www.webdice.jp/dice/series/17 Mon, 16 Dec 2024 20:52:01 +0100 FeedCreator 1.7.2-ppt (info@mypapit.net) 「実家の造船所にあった大工道具で遊んでいた」維新派・松本雄吉インタビュー http://www.webdice.jp/dice/detail/3886/ Mon, 27 May 2013 16:36:36 +0100

「終わり」こそが醍醐味



大工さんになりたかったという。彼の世代の男子にとって、大工さんは、子どもたちの憧れの職業だったのだと。



「僕の家は造船所だったので、大人が使う大工道具をおもちゃにして、遊んでいた記憶がありますね。周りにも、大きくなったら、お父さんお母さんのために家を建ててあげるんだという友だちがほとんど。その後、高度成長期が来て、万国博があって、建築ラッシュが訪れた。みんな、その夢を叶えているんじゃないかな。建築家になったり、大工さんになったり」



しかし、大工に憧れていたはずの松本雄吉が選んだ道は「美術」であった。



「小さい頃から絵を描くのが好きでね。田舎だから、娯楽が乏しくて(笑)。当時流行っていた『少年画報』とかを真似して書いてました。それがいつか野望に変わって、大人になってみると、絵画に限らず、表現行為すべてについて、当時はとても大きくて早い潮流が来ていたんです。赤瀬川原平とか横尾忠則とか、新しい芸術家がどんどん出てきて、西洋一辺倒だった美術の流れが、クッと向きを変えた。若い者なら誰でも飛び込めそうな世界にね。そこに、きっちり染まりました」



やがて美術畑から演劇へと滲みだしていった彼の興味。松本の紡ぐ舞台は、まさに絵画のようだ。



「演劇を総合芸術としてとらえると、美術の力は圧倒的ですよね。俳優の立ち位置、レイアウト、照明の当たり方、音楽。それらを使った『絵』に全体をまとめていく作業が好き。しかも、それが、動くんですから。やり甲斐がありますよ」



松本雄吉が率いる劇団「維新派」の舞台は、「観る」というより「身をゆだねる」感じに近い。舞台上の奥の奥まで計算し尽くされたその劇世界は、「ヂャンヂャン☆オペラ」と称される独特のリズムで、俳優たちが規則的に、あるいは不規則的に動いていく。何だろうこれ、と最初は思っていても、ある瞬間、ふっ、と自分と劇世界との境界線が途切れる時が訪れる。その時、迷わず身をゆだねてしまうこと。それが、維新派の舞台を楽しむ大きなポイントのひとつだ。



「美術は、間接芸じゃないですか。壁に飾られるのは、自分の作品であって、自分自身ではない。でも演劇は、直接、その場で、反応が返ってくる。その直接性に惹かれたんですね。直接俳優を観て、直接訂正を入れて、上演する。終わったら、すべてを片付けて、また次の場所へ。そういう営み全体が好きで」



維新派がここ数年、力を注いでいるのが、瀬戸内海に浮かぶ「犬島」という孤島での野外公演だ。キャスト・スタッフ総出で現地へ赴き、ひと月をかけて劇場を建てるところからすでに芝居作りは始まっている。劇場が立ち上がって、公演が行われ、終われば粛々と撤収作業。何事もなかったかのように、いつもの通りの時間が流れだす。



「うちのメンバーは、何だか知らないけど、劇場を作る時よりバラす時の方が、表情がいきいきしてるんですね(笑)。人間って、そういう本能があるんじゃないかとさえ思う。何か作ったら、壊して、地面を平らにならして、更地にする楽しさ。自分たちが昨日までやってきたことの痕跡が、消えてなくなることの喜び。これは大人の発想だと思いますね。どんな祭りもいつかは終わるし、すべてのものは決して永遠には残らないということを、僕らは知っているから」



演劇を愛する人なら、きっと誰でも身に覚えがあるはずだ。明かりが落ち、暗闇に包まれた瞬間、今の今まで自分をとりまいていた劇世界の終わりを知る。それは音もなく、あまりにもあっけなく訪れる。寂しい、と思うから観客は、また次の観劇計画を立ててしまう。



「自分の身体ごと、何かに飛び込むということに惹かれるんですね。身体ごと巻き添えにする、っていうのかな。僕らは当初、野外劇は大阪の南港っていうところをホームグラウンドにしていたんですが、あまりにもその場所を知りすぎて、『野外でやっている』あるいは『劇場じゃないところでやっている』という感覚がぼやけてきてしまったんですね。そうしたら越後妻有(新潟県)の現代美術展に、10万人動員したという情報を聞いて。そうか、僕らだけじゃなく、お客さんも動きたいんだ!と都合よく解釈して(笑)、犬島での公演を始めたんです。お客さんも、旅の過程で演劇の現場に出会うというイメージ。大阪公演には来られないけど、犬島公演を愛してくださるお客さんも、少なくないんですよ」



「身体ごと、飛び込みたい」維新派・松本雄吉インタビュー



鼻と口の位置配分に感動する瞬間



旅の過程。松本はそれをこよなく愛する。旅先で起きる、自分の生理の変化を愛する。たとえば犬島に降り立てば、すぐさま潮風が鼻孔をくすぐる。浜辺がすぐそこにあり、素足になって、海の水に足を浸す。指先のすみずみまでが、いつもとは違う場所に来たのだと、一瞬にして理解する。この瞬間に起こる何かを、彼は演劇にしようとしている。



「今は世界中からニュースが押し寄せるから、行ったことのない国々の内戦や波乱について、まるで知っているかのような気になって暮らせるじゃないですか。人と話す時も、どこか、頭だけでしゃべっている気がするんですね。でも僕はやっぱり、頭でっかちになるんじゃなくて身体で感じていたい。この感覚って、演劇の根幹であるように思うんですよ」



確かにそうだ。そこでしか味わえない感動、そこでしか聞けない喝采。



「僕はアジアの国々によく出向くんですが、旅の途中で若い日本の女の子と知り合ったんです。ここまでどうやって来たのか尋ねると、時刻表とか旅行ガイドではなく、自分の嗅覚でルートを決めているって。それなんですよね、身体的な体験って。知らない世界に、自分の身ひとつで飛び込んでみるという」



僕らは、そういう身体感覚に根ざした芝居作りをしよう。それが今の、松本の志だ。



「稽古をしていると、ふと、小さなことに感動するんですよ。人間って、あんなところに鼻がついてるんだ!とか、その下に口がついてるんだなあとか、その位置が逆だったらやっぱりおかしいんやろなとか。他の演劇を観に行っても、僕はストーリーなんか追わずに、ただ、人の身体ばかりを観てますね。人が歩く、椅子があって座る、テーブルに肘をつく、コップの水を飲む。これだけのことがいちいち、宝石のように見えてくる。視点のシフトを少し変えると、街の風景もいつもとは違って見えますよ。人間がエイリアンのように見えたり、逆に『人間はこういう形であるのが必然なんだなあ……』と思えたり。人間、という生き物について、ぞくっ、と来る瞬間ですね」



それは、本番中にも起こりうる「ぞくっ」ですか?



「もちろん。特に野外劇場は、圧倒的に空が広いんですね。その真ん中にぽつんと、小さい女の子を立たせてみる。それだけで、この地球全体が彼女だけのもの、みたいな感覚があるんです。神様に奉納される『神楽』ってありますけど、野外で芝居をやっていると、その感覚がなんとなくわかる気がします。地球全体を独り占めしてしまう何か。その圧倒的な絶対性を感じるんです」




つきつけられていた問いかけ



演劇、という営みは、長らく分岐点を迎えている。有名タレントを主役に据えたからといって、チケットが売れてゆく時代はすでに過去の話だ。一部の作品を除き、多くの映画も演劇も、そう簡単にはお客が入らなくて困り果てている。



「それは、最近というよりも、20世紀が始まった頃からすでにわかっていたことのように思いますけどね。テレビができて、世界中のいろいろな光景を、家にいながら観ることができて。それに比べると、演劇なんてめんどくさいもんですよ。長いこと稽古して本番を迎えて、お客さんは決められた時間に決められた場所へ足を運ばなきゃいけない。これは、よっぽど考えんと、生き延びられないと思う。だって、現代劇の多くは、現代を描くわけでしょう。僕らが生きてる、この時代を。そこにはよっぽどの魅力がないと、足を運ぼうとは思わないですよね。歌舞伎や落語を始めとする古典芸能で触れられる『過去』や、あるいは何らかの『未来』を感じられるもの、そういうものにしか、お客さんは反応しない気がする。これは、ずっと昔、早い時期からつきつけられていた、演劇への問いかけだと思いますけどね」



それにね、と松本は続ける。



「文学的に言うたら、物語の時代はとうに終わっているんですよ。あらゆることが、書き尽くされている。だからギリシャ悲劇やシェイクスピアを現代版にアレンジ、みたいな舞台があふれていく。そうしているうちに、自然と、ある種の淘汰が続いていくんじゃないかな。物語の採り上げ方、編集の仕方、組み合わせ方で、新たな物語論が生まれてくるというようなね」



物語論。維新派におけるそれを尋ねると、あっけらかんとした答えが返ってきた。



「100年を、10秒で語りきるとして。他の作家さんはその間の物語を考えるのかもしれないけど、僕なんかは『100年過ぎました!』って言うたら終わりやと思うんです(笑)。そんなことよりも、強く描くべき何かをつないでいくような、そういう芝居を考えていけたらと思いますね」



揺らぎない。行く道を見据えている。そういう作り手を、人は、ベテランと呼ぶのかもしれない。



取材:小川志津子 撮影:吉田タカユキ









松本雄吉'S ルーツ



小さい頃、僕が育った田舎は、遊ぶ方法なんてほんとにわずかで。唯一安上がりで楽しかったのが、絵を描くことでした。当時流行ってた雑誌を真似て描いたりしてね。大人にほめられるうちに野望を持ったという感じかな。




松本雄吉(まつもと・ゆうきち)


1970年維新派結成。1974年以降のすべての作品で脚本・演出を手掛ける。1991年、東京・汐留コンテナヤードでの巨大野外公演『少年街』より、独自のスタイル「ヂャンヂャン☆オペラ」を確立。野外にこだわり、観客とともに旅をする「漂流」シリーズを企画。奈良・室生、岡山の離島・犬島などで公演を行う。代表作に野球グラウンドを全面使用した『さかしま』や、離島の銅精錬所跡地内に劇場を建てた『カンカラ』などがある。国内外で幅広く活躍し、2011年には紫綬褒章を受賞。今年10月に犬島にて『MAREBITO』を上演予定。












維新派『MAREBITO』

瀬戸内国際芸術祭2013参加



維新派『MAREBITO』


構成:松本雄吉

音楽:内橋和久

出演:岩村吉純、森正吏、金子仁司、中沢貴裕、石本由美、平野舞、境野香穂里、大形梨恵、吉本博子 他

日程:2013年10月5日(土)~14日(月・祝)

会場:岡山県・犬島海水浴場

お問い合わせ先:06-6763-2634

公式サイト

※チケットは7月発売予定
















連載"Artist Choice!"は、厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画です。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



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厳選シアター情報誌

「Choice! vol.31」2012年5-6月号




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「恥をかくのも、得をするのも画面に映る役者だからこそ」寺島しのぶインタビュー http://www.webdice.jp/dice/detail/3822/ Tue, 26 Mar 2013 17:55:05 +0100

宿命なのか業なのか。過酷な生き様を辿るしかない男たちの呪われた肖像を見つめる、中上健次原作の映画『千年の愉楽』。その世界観をかたちづくっているのは、小さな集落の産婆に扮した寺島しのぶの存在である。彼女は、あるときは中心に、あるときは外側にいることで、この物語が紡ぎ出す「円」のフォルムを描き出す。見守られること。抱きしめられること。そのような安堵を、寺島はただそこにいるだけでわたしたちに与えてくれる。それは母のようでもあり、神のようでもある。ひとつの宇宙を、一筋の光を作り上げた彼女に訊く。






人々の意気込みを感じて、ようやく役になれる



「やはり、見守るってことだなと思ったんです。映画の景色にある大きな海のように、彼らを見守る。だから私自身は仕掛けていくお芝居というよりも、彼らの生き方をずっと見守って、すべてを受け入れている。とても度量の大きな女性だと思うんです。『キャタピラー』とはまったく違う。『キャタピラー』は攻撃的な面もある役でしたが、これは本当に豊かな気持ちで彼らを見守る。そういうことを心がけました。なるべく豊かな気持ちでいようかなって」



窓を開ければ風景がある。その風景は圧倒的に人を包み込む強さを持っている。けれどもそうした風景もまた刻一刻と変化を重ねている。だからこそ風景は豊かなのである。『千年の愉楽』の寺島しのぶもまた風景のように豊かにそこにいる。



「毎日毎日、同じところで彼女は景色を見ているけど、でも毎日違うことが起こって、その違う状況を受け入れつつ、いちばん上から見守っている存在という感じです。自分自身も演じていて、こういう女性ってすごいなあ、こういう女性がいたらいいだろうなあと思いながらそこにいましたね」



理想的な存在。けれどもこのヒロインには辛い過去がある。



「それがあってこそ、でしょうね。その辛い想い、子供を失くした想い、自分の人生も含みつつの彼女ですから。自分の年齢からは程遠い役なので、そういう過去の部分を表現するのは難しいなと思いました。監督にこの役で、と言われたときは、『キャタピラー』のときより、できるだろうか?と思っていました。人生経験がまだまだなので、そこの(人間的な)深みは画面に出るものなのかと心配でした」



監督の若松孝二とは『キャタピラー』からのコラボレーション。確かな信頼関係があったからこその難役。最も大きな力になったのは何だったのだろう。



「いちばんはあの景色。監督もあそこに行かれて、一目で気に入られて『ここだ!』って。私も、この景色があるからこそ、そのいちばん上で集落を見守っていけたのかなあと思います。景色に助けられた部分はあるかもしれない。あとは高良(健吾)君とか高岡(蒼甫)君とか染谷(将太)君とか、彼らの芝居を見て、私が受ける。そこで余計なことはなるべくしない。そこは考えてました」



そこに自分が存在できる風景だった。



「信じられるというか。ここに(ヒロインが)いるのかなと思っていたので自分自身、すーっとそのロケーションに入れました。それはありがたかった。信じられる、ということはとても大事なことだと思います。メイクをして――若松組はほとんどしないんですけど(笑)――、その現場に立って、その相手役の人を見て、その相手の役を信じることができて、だんだん自分が自分の役を信じることができてくる。準備万端で(撮影)現場を迎えるということはないですね。『よーい、スタート!』という声を聞いて、色々な人の意気込みを感じて、自分がその役になっていく。とても豊かな時間でした」



映画『千年の愉楽』

映画『千年の愉楽』より (C)若松プロダクション





カメラの前に立ったら、役者は映りに行かなければ



ヒロインは、ただ見守り、ただ受けとめているわけではない。相手が変われば、対応も違ってくる。そこに人間性が感じられる。しかし、その変化は決してあからさまに見えるわけではない。その穏やかで細やかな、波のような拡がり方。単に大らかな女性がそこにいる、というだけではないふくよかさ。



「やはり愛ですね。深い愛。愛情でもあり、母性でもあり。彼らが女性を連れてきたら、ちょっとムッとする一瞬があったり。『頑張れや』と言ってる反面、女性としての嫉妬の部分は絶対にあったほうがいいなと思いました」



自身が産婆として出産に立ち会った男の子たち。だから彼らが一人前の男として成長しても、本来であれば我が子のように接するのが常套かもしれない。しかしヒロインは、あくまでもひとりの女として彼らに接する。そして彼らもまた彼女に甘えながら、しかしどこかで女性として扱っている。言葉の交わし方、距離の取り方など、コミュニケーションのありように、その微細な固有の感覚が息づいている。



「そこがカメラに映ってればいいなあって。あからさまに女を出していくっていうのではなく、そういうちょっとしたときの『この人、やっぱり女だよね』という感じ。微妙な流れが映ってたらいいなとは思ってました。映画が出来上がったら、辻(智彦/撮影監督)さんがそこをひろってくださっていたので、ああ、ありがたいなって思いました」



映っていたらいいな。ひろってくれた。謙虚な言葉に、この女優の姿勢がよくあらわれている。



「『ここにカメラがあるんだから(演じる側は)そこに映らなきゃどうしようもないんだ』という監督の教えがあるんですよ(笑)。だから『映るようにやってみせないと意味がない』という考えです。『映らないところでいくらやっててもしょうがない』っていうのは監督の口癖で、それは監督から学びました。いままではそんなこと何にも考えずに、自分が演じればカメラが勝手に撮ってくれるだろうって思っていましたが、そうではなくて、スクリーンに映っている自分自身の責任として『自分のやりたいことは映せ』っていう監督の教えはすごく新鮮でしたよね」



気持ちだけでは、何も映らない。



「カメラが『撮ってくれる』ではなくて、自分から『撮ってもらいに行け』『それが映画だ』『映ってなきゃ映画じゃない』っていう監督の考え。『お前、見えないところで芝居してんじゃねえ!』って他の役者に怒鳴ってるのを見て、あ、そうだな自分もって。辻さんがもう監督の意向をほとんどわかっていらしたので、それを全部レシーブするんです。辻さんはフットワークの軽い方なので、だから撮り損ないはないという信頼の下で私はできているんですけど。待ったなしの撮影なんです、監督の場合。できなかったら、そのカットはもういいやというぐらいなので、自分が映ってるそのカットがなくなっちゃったら困るから、役者は必死でやらなきゃいけないし、スタッフさんも必死でやらなきゃいけない。そのギリギリのところでやっている感じは、若松組でしか味わえない快感なんです。もし、撮られてなかったら、どうしよう! とかね。そういう精神状態と緊張感と刺激のある現場っていうのは、もうないんじゃないのかなっていうくらい。心臓飛び出しそうな緊張感ですよ。本番一発っていうのは」






編集中の監督が、ちょっと楽しんでくれますように



若松孝二はやさしい人間である。そして彼の映画もまたやさしかった。若松作品はどんな犯罪者を描いても、どんなアウトローを見つめても、その人間を断罪することがなかった。人が生きていることを肯定していた。だが『千年の愉楽』のやさしさは破格の領域にあるといってよい。若松がもっていたやさしさが包み隠さず表現されている。



「私もびっくりしたんです『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』も『キャタピラー』も『17歳の風景 少年は何を見たのか』も、どこか厳しい部分を映すというのが監督だったと思っていましたけど、『千年の愉楽』は監督の生き様というかそれを見た感じがして。いままでと違うテイストですごくやさしくて愛にあふれた作品になっている。監督とは『キャタピラー』『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』と一緒にいさせてもらう時間がありましたが『千年の愉楽』を観たときに、こんな顔の監督まったく知らなかったと思いました。やわらかい愛が作品にはあって。監督は『この作品をやるまで死ねない』って、ずーっとおっしゃってた。もちろん他にもやりたい企画はあったでしょうけど、これは特別だったみたいです。これがほんとに遺作になってしまいまいたが。でも……『これが、最後かな』って、ふっと思ったときがあったんです。監督の身体は本当に疲れていたので『千年』の現場でも、毎日高い階段を登っていくときに大丈夫かなって。一作ごとに疲れきってそしてリカバリーをして、次の作品に取り組むのが監督だったので、それぐらい産みの苦しみがあったんだなあとは思います。でも『千年』の現場には、やけに平和な空気が流れていて、観終わったときも、ざわざわした感じがまったくなくて。監督は次は何をやるんだろう? いったん、行き止まりまで行ったような感じがしました。最後のほうは涙が止まらなかったんです。自分が出た映画だからというのではなく、監督が生きたということ、この作品を残すのか若松監督はということにじーんとしてしまって。結果論になってしまいますけど、これが最後にならなきゃいいな、と思う瞬間はありました」



一映画ファンとしては、これが若松孝二の最後の映画になってしまったこと、そして、その画面の中心に寺島しのぶがいたことは、やはり幸福なことだったと考える。死はかなしい。しかし、達成された映画のことを考えれば、それはかなしいばかりではないと思うのだ。



「私ができたことは微々たることです。監督から与えられたものが大きすぎるので。監督と出逢えたひとりになって本当によかったなあと思います。ひよっこの私を『キャタピラー』で呼んでくださったことに感謝しているし。監督から台本を受けとっていなかったら、ベルリン(映画祭)にも行けなかった。賞(ベルリン映画祭銀熊賞=最優秀女優賞)だっていただけなかった。いただいたものが大きすぎて、返せたものがまったくなかったのではと思います。でも編集のときに、『寺島はこんな顔してるんだ』っていうのを気づいてくださったらいいなと思っていました。監督は撮影になるとものすごく集中なさるから、たぶん細かいところは見てらっしゃらなかったと思うんです。役者は『お前が映れよ』という言葉で渡されているし。編集のときにそこをちゃんと映ってることを確認しつつ、あ、こういう顔してたんだと思ってもらえることがあればいいなあと思っていました。『キャタピラー』のとき『寺島さん、こんな顔してたんだね』とおっしゃってくれたシーンがひとつあったので『千年』もそういうところがあればいいなあって。(監督というものは)現場中は、色々なことに目を向けなければいけないし、スタッフさんひとりひとりにダメ出しをして『オレが照明やるか!?』っておっしゃるので(笑)。どこでも、いつでも、常に戦闘態勢に入ってらっしゃるから、役者ひとりに集中できないんです。編集のときに、ちょこっと楽しんでもらえればいいなってそれは思ってました。きっと監督にとって編集っていちばん楽しいんじゃないかと思うんです。『そんな下手な芝居するならカットするからな』ってしょっちゅうおっしゃってましたし。ありきたりの芝居ではなく、あ、このときこんな顔してたんだ、って監督を驚かせたいなあという気持ちでいたかな。

そういえば高良君も(撮影)初日、緊張していました。若松監督とご一緒できるってそういうことなんですよね。私も『キャタピラー』のとき、『連赤』を観ていたから、いったいどんな撮影現場なんだろう? ってわなわなしながら初日を迎えたことを思い出しました。高良君も高岡君も挑戦の意欲――もう監督に挑んでいく、っていう姿があって。彼らも、若松監督に出逢えて良かったなあって思います」








すべてに責任をもって臨めば、その分すがすがしくなれる



さて、寺島が若松から受けとったものは、いったい何だったのだろう。



「結局、いちばん恥をかくのも、いちばん得するのも、役者だということでしょうか。映るのは役者だから。スタッフさんがどんなに優秀だろうが、芝居が駄目だったら、『ヘッタクソな芝居』と言われてしまう。だからこそ、『責任持ってやれ』という監督の考え方も一理あるなって思うんです。監督は経費削減で、『そんなの役者が自分でやればいいんだよ』っておっしゃるんだけど、ふっと考えるとこういう髪型にしたいとか、こういうメイクはないほうがいいとか、衣装は汚したほうがいいというのも、自分の身体を通してる演技の一部だから。そこに役者が責任を持つっていうのは、当たり前のことなんだなっていうのは気づかされた。役者は(スタッフに)やってもらうことが多いからやってもらうのが当たり前って思ってしまいがちですけど。シンプルにシンプルに削いでいく監督の現場にいると、役者自身がもっと責任を負ってやらないといけない部分っていうのはあるんだ、やろうと思えば全部ひとりでできるんだって。たしかに疲れるけど、自分が映る責任ってそういうことなんじゃないかっていう感じはしましたね。髪型や、メイクひとつにしても、それを見て『このヘアメイクを担当したのは誰だ?』と思うお客さんってそんなにいないと思うんです。見て不自然だったら、やっぱり役者がヘンだと思われるから。監督をはじめスタッフさんの仕事の全部を背負って役者は映りにいかないといけないんだ、って改めて感じました。それは監督から学んだことですね。恥をかくのがイヤだったら、ちゃんと責任を持ってやれってことなんだと思うんですよね。ふと思えば当たり前のことだなって思います。全部やってもらえる立場になっているけど、マネージャーさんも付き人さんもいなくて、ひとりで衣装の管理からメイク、髪型まで自分の身なり全部に責任を持って、そのシーンに臨む。それはとても大変なことだけど、すがすがしいんですよね。やり終わったあと。充実感が違う気がします」



寺島しのぶというひとの存在には、湯上がりの心地よさに通ずる爽快感が感じられる。彼女が言う通り「すがすがしい」のだ。



「自分に課されている負担が大きい分、その作品に深くかかわっているような気がして、楽しかったなあって思います。それを忘れないってすごく難しいことですけどね。役者は楽をしようと思えば、楽ができるんですよ。自分が好きなことをやってお金ももらえて、楽しいことやって、みんなにちやほやされて……ということになったら、それは気持ちいいことですよね。でもインディペンデント系の映画はやり続けなければいけないなって思います。若松組は二度とないわけだから……忘れたくないなあって思います」



取材:相田冬ニ

撮影:taro

スタイリング:河部菜津子 ヘアメイク:片桐直樹









寺島しのぶ'S ルーツ



「板の上」ということかな。歌舞伎では「板の上に立つ」って言うんですけど、「板の上に立っている役者」である表現者としての父(七代目尾上菊五郎)を、ずっと小さい頃から見て、生きているから。




寺島しのぶ(てらじま・しのぶ)


1992年文学座に入団。1996年に退団後は舞台を中心に活躍。2004年に『赤目四十八瀧心中未遂』『ヴァイブレータ』(2003年公開)の高い演技力が評価され、第27回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を始め国内外の映画賞を多数受賞。2008年には舞台『私生活』で第63回文化庁芸術祭賞優秀賞を受賞。2010年には映画『キャタピラー』(若松孝二監督)で、日本人として35年ぶりのベルリン国際映画祭・最優秀女優賞(銀熊賞)受賞の快挙を成し遂げた。最新作『千年の愉楽』が現在公開中。











映画『千年の愉楽』

2013年3月9日よりテアトル新宿ほかにて公開中




監督:若松孝二

原作:中上健次「千年の愉楽」(河出文庫刊)

脚本:井出真理

出演:寺島しのぶ 佐野史郎 高良健吾 高岡蒼佑 染谷将太 山本太郎 原田麻由 井浦新 他

配給:若松プロダクション/スコーレ株式会社

公式サイト



[youtube:h3CnGAzTkDA]










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厳選シアター情報誌

「Choice! vol.30」2012年3-4月号



Choice!30 表紙


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「自分自身を表現はしない 僕は、そこで、感じているだけ」津田寛治インタビュー http://www.webdice.jp/dice/detail/3758/ Fri, 11 Jan 2013 12:43:13 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。




2月2日(土)から公開となる、竹中直人監督の最新作『R-18文学賞vol.1 自縄自縛の私』に出演している俳優の津田寛治氏のインタビューをお届けします。



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観客として感動したまま、ストーリーと役に入る



『R-18文学賞vol.1 自縄自縛の私』でキーパーソンを演じている津田寛治。表裏ある難しい役どころをさらりと妙演し、映画を活気づかせる。竹中直人の監督作品にはこれまでも出演。俳優として共演もしている。気心が知れているからこそ成立している?と思いきや「竹中さんの演出に助けられました」と即答した。



「最初『自分を縛る役』と聞いたときは、やはり異空間に突入していかないといけないのかなと思っていたんです。家では家族が出払ったのを見計らって(笑)ひとりでコソコソ練習したりしていました。でも、どうしてもエロティックな気持ちになれないんですよ。職人的な気持ちになってくる。この気持ちと演じる役が重なってくるか不安だったんです。でも(撮影)現場に入ると竹中さんが、本番直前に『いま、外では雨が降ってるよ……すごい哀しい気持ちだよ……』と言ってくれたりする。その言葉にすごく助けられたなあって。竹中さん自身もSMへの興味はなかったようで、『オレ、わかんないんだよね』とおっしゃってて。たぶん、竹中さん自身がそんなふうにして、よりどころを見つけていたというか。やっぱり俳優をされている方だから、もし自分がこの役だったら……という想い――つまり竹中さんの役作りをそのまま映し込んでくれているみたいな気がしたんです。そうか、竹中さん、いつもこんなふうに考えながら演じているのかな?みたいな気持ちになって。



竹中さんの映画はもう4本目なんですけど、いままで竹中さんの演出にそういうことを感じたことがなくて。これまでは監督というものを演じてらっしゃるな、と。こんな監督に出逢えたら楽しいだろうなという監督を演じていらっしゃったと思うんです。現場を盛り上げるという意味も含めて。今回はこれまでのそういう印象がなくなっていて。俳優としての自分を監督業で出されているような気がした。いままでとはちょっと違う感じがあった。いつもの(俳優としての)竹中さんでいらした。だから、俳優として俳優に言ってくれてるみたいな気がして。すんなり入ってきたし、竹中さんが乗り移ってきたような気がしたんですよね。結構、口笛をたくさん吹かれていて。俳優業されているときは結構口笛吹かれて、飄々とした感じでいらっしゃるんですよ。でも監督のときはそうではなかった。それが今回は口笛を吹いていらした。竹中さんの口笛がこの役に入るためのサウンドトラックのようでした。そのシーンのテーマ曲として、あの口笛はなっていたような気がするんです」



構えることなく、そう話す。自分を縄で縛る。そんな秘密の趣味を持つ男の焦燥と開き直りを体現する様には、津田独特のリアルが滲む。けれども自分がどう演じたかよりも、竹中の現場のありようこそを気持ちをこめて描写する。



「楽しいな。楽しいな。そう思いながらやっていました。竹中さんが(役の)気持ちを芝居で表現するのを見ていると感動してしまうんですよ。僕もそこに感情移入できて。観客として涙も出てくる。だから、観客としてその場(撮影現場)に(俳優としての自分が)ばっと入る感じ。これはすごくやりやすかった。俳優として何をやるかではなく、観客として感動したままの気持ちで、その役になっていく。いままで味わったことがないような感じ。感動している時点で、もうストーリーのなかに入っている。ストーリーに入った状態で演じる……すごく不思議な感じでした」









カメラの前に立たないとき、どう生きているか



津田は生粋の映画青年である。俳優であるいまも映画青年であり続けている。『無能の人』を観て、竹中直人にラブコールを送り、『119』で出演を果たしたあとも、一観客として竹中監督作品に接してきた。自身が出演していない『さよならCOLOR』では「日本映画史に名を残す監督になるんだろうな」と感激したという。



「今回はそれとは違う一面を見させていただいたなと。監督を超えたところに映画がある……というのかな。映画作りって不思議だなあと。まだまだ新しい作り方に出逢える。素敵だなあって」



津田が他の俳優と決定的に違うのは、観客としての自身の抱え方だと思う。彼は単なる「映画好きの俳優」ではない。



「たぶん、ごっちゃになってるんですよ。僕の頃はあんまりそういう俳優がいなかったんですね。映画ファンが監督になる、ということはあるんですけど、俳優はやっぱり見せる仕事で。映画ファンよりは、たとえば芸能界に憧れているとか、自分が大好きとか、そういう人が俳優をやっていた。映画ファンが俳優やってるって、あんまりなかったんですよ。いまだと西島(秀俊)君とか映画好きはいるけど。当時は珍しい方だった。よくスタッフさんに『津田さんはスタッフなんですか? 俳優なんですか? どっちなんですか?』と訊かれるくらい、ほとんど控え室にいずに、ずっと現場にいたんです。自分の大好きな監督が、どうやって映画を作っているか、見たいっていうのがすごくあって(笑)。その合間に出演しているみたいな。見学がメインみたいな(笑)。そのことと演じるということを、別に分けてもいなかったんですよ。まず、自分に何かを期待されているということを思ってなかった。たけしさん(=北野武監督)の『ソナチネ』からずっとそうです。



たけしさんは俳優に何かをやってもらうことを求めていなかった。ただそこに立ってるだけのことしか望んでない。(いわゆる)芝居をやり出すと、どんどんNGになってしまう。竹中さんも『役者に役作りは必要ないんだよ。僕がキャスティングした時点で役作りは終わってるんです。何にも考えないで現場に来てくれるだけでいいから』とおっしゃった。たけしさんは言葉にしなかったけど、演出はまさにそうでした」



キャスティングすること。それが監督にとって、俳優に対する最大の演出であることを津田は知っている。役者として。そして映画ファンとして。



「この人に出てもらいたいと思ってくれたんじゃないですか。それは『じゃあ、何やってくれるんだろう?』ではないんですよね。逆に何かやられてしまうと、キャスティングした意味が薄れてくる。そういうことだったんじゃないかなと」



津田の芝居を見ていていつも思うのは、その自意識の取り扱いである。自分自身を表現する、というところとは別のところにある演技だという気がする。



「たけしさんに『俳優はカメラの前に立って何かをやっているときよりも、カメラの前に立ってないときに何をやっているかが重要なんだ』と言われたことがあったんですね。要は日常をちゃんと生きてれば、カメラの前でもそれが出るし、カメラの前に立ったからといって、わざわざ何かをやる必要はない、と。それが身体に刷り込まれているからかもしれません。カメラの前で何かを表現しないことに対する抵抗がまるでなかったんです。たぶん僕は気質的に、そういう表現者的な部分が薄いのかなと。たとえばイッセー尾形さんは生粋の表現者ですよね。出ている映画はどれも素晴らしい。でも僕はそこにはいけないんです。表現するより、感じるタイプというか。そのとき自分が何を感じているかが重要で、その感じている自分がどう映るかは全部カメラの向こう側にいる人(監督他スタッフ)に任せるというか。(周りに)表現してもらって、自分はそこで何かを感じているだけというか。表現者としての俳優は意識したこともないし、それに対するプライドもないといえばないですね」



アウトプットより、インプットが重要なのだ。



「僕の場合、それはいくつになってもそうなんだろうなと思います」





Artist Choice!








いま映画は、生まれ変わりの時代に入っている



映画ファンであることと、俳優であることが「ごっちゃになっている」と津田は言った。その意味で、津田の特筆すべき点は、まだ無名の監督のインディーズ作品にも軽快に出演してしまうことだ。それは映画にデジタル技術が導入されて、映画を撮ることがカジュアルになった時代よりも前から始まっている。そのアプローチは現在一段落していると語るものの、自主映画に津田のようなプロの俳優が出演することは、かつてはありえなかったことだった。



「キューブリックがすごく昔に、『近い将来、そこらへんの少女が紙と鉛筆の感覚で映画を撮る時代が来るだろう』と書いていて。それを読んだとき、すごくワクワクしたんですよ。映画を撮りたいと人が考えるとき、シーンが浮かぶわけじゃないですか。こういう映像を撮ってみたいとか、役者のこういう芝居を撮ってみたいとか。でもいざ撮るとなると、いろんな人の力を借りて、いろんな人の意見を聞いて、気がついたら全然やりたかったことと違うケースになってることが、かつてはすごく多くて。それをとっぱらって、いま自分が何かを見ているような感覚で、パッと撮って、パッと切り取って、パッと出す。もし、そういうふうにできるとしたら、世の中にはもっともっと名監督が隠れていて、発掘される時代がくるんじゃないかと思ったんですよね。それはなんて素敵なことなんだろう、と。どんどんそうなればいいと思っていたら、どんどんパソコンが映像に特化してきて、いまの状態が訪れているんですよね。



異業種の方が簡単にパパッと撮れるようになった。編集のセンスがあるひと、撮るセンスがあるひと、役者に芝居をつけるセンスのあるひととか、いろんなひとが才能を開花させてきたいまの時代になって、でも、これは何か違うなと、そこにも行き着くところがあって。それ(そうして出来上がった作品)が映画なのか、そうでないのか、というところもあるじゃないですか。じゃあ、映画って何なの?と考えてみると、ああだこうだ言われて違うものになってしまうのが映画だったの?って。1カット、1カット、ものすごい緊張感のなかで大事に撮って、大事に撮ることによって変わるものこそ映画だったんじゃないかなとか。いま、またそこに気づき出している。映画というものが、すごく面白いステップアップの仕方をしていると思うんです。それはすごく興味深いなあと思っていて。そこにはひょっとしたら役者の自意識とかも含まれているのかもしれない。カメラの前で何かをするという緊張感とか。この緊張感をとっぱらう文化が盛んだったと思うんですよね。なるべく楽にカメラの前に立つ。そういう演技法とかメソッドもあったりしたし。でもそれがこれだけ若い人が映像慣れして、簡単に撮れる時代になって、いままた逆にカメラの前での緊張感が求められ出すんじゃないかなあって。そうなったときには、僕も自意識というものに向かい合ってみるのも面白いかなとは思いますけどね」



撮る側と撮られる側。カメラという垣根で分割されていたふたつの場所がなくなり、キャスト・スタッフが共に映画作りに立ち向かう自主映画の世界が楽しかった時期もあったという。けれども誰もが映画が撮れるようになったいま、何かが失われたのかもしれないと懸念する。



「カメラのこっち側とあっち側がゆるくなってて、それで面白いこともあれば、失ってしまったこともあったりして。逆にそこの垣根を高くしてみて、こうあるべきだろう、ということも、いまならありえるかもしれない。かつて映画というものはお金がかかるものだから簡単に撮れないと思われていた。でも、いまの時代は簡単に撮れるようになった。それでみんなが好き勝手撮るようになっていいものになったかと言ったら、求めてる理想とは違っていた部分もある。だとしたら何が足りないのか。何かが欠如しているとしたら、それは何か。そこを考える段階なのかなとは思うんですよ。緊張感なのか、空気なのか。目に見えないエーテル的な何かかもしれないけど。そこにみんなが目を向け始めているかなって。かたちにならないものっていうか。そこを探り始めていると思うんです。一回壊れないと生まれ変わらないだろうなと。映画はこれから先、生まれ変わりの時代に入っていくような気がしています」









明日、どこに連れて行かれるかもわからない人生



シリアスな話をしたあとに、ぽろっと次のようなことを言う。そもそも、なぜ自主映画に出演していたかという理由について。



「何かで聞いたことがあったんですよ。海外の俳優って、どんなに売れてても、めちゃくちゃ小さい自主映画のチョイ役でも平気でやったりするんだよね、って。そこが日本の俳優と違うんだよね、って。それはめちゃめちゃカッコいいなあ!って(笑)。だから、なんで自主映画に出てたの?というよりは、これ、海外だと当たり前のことなんだ、と思うことで、自分のなかでナチュラル化してたところもあったと思います。でも、日本映画界もそうなったら絶対面白いなと思って」



北野武、竹中直人、行定勲、森田芳光、黒沢清……そうした監督たちと仕事をしながら、一方でインディーズ映画にも出演してきた津田寛治。そのキャリアの交差点ともいうべき作品が、2012年に公開された『旧支配者のキャロル』だった。これは高橋洋監督が映画美学校の生徒たちと作り上げた中編で、低予算ながら映画ならではの力強さに打たれる傑作だ。



「高橋監督は、映像技術とは違うところで、一種の緊張感を作って撮り続けていた。かつて、お金をかけないと得られなかった緊張感を、今度はお金をかけずに得ようとするひとたちが、次世代から生まれてくる可能性はあるかもしれません。それを高橋監督は若い人たちにちゃんと受け継ごうとしている。お金をかけることが映画じゃない。かといって、低予算でガンガン作るのも違う。予算のない現場で、あの空気感を作り出すことが重要なのだと」



「僕にとっては演技もひっくるめて、すべて映画」と当たり前にように話す。



「俳優としてこれからどうするかとか、本当に考えにくいし、何も見えてこないんですよ。どういう俳優になりたいか……タレントだったら、それもあると思うんですけど。こういうタレントになりたいというものが。俳優は役がないと成立しない。自分発信でいろいろ作っていける職業ではないんで。こういう役があるから、こういうアプローチ、というか。将来が見えにくい、言ってみればお座敷稼業なんですよ。もちろん、自分の世界観は持ってないといけないけど、それを表現するのはまた違うこと。世界観を表現しないで、ただ持ってるだけ。何かが来たときに、持っている世界観が色を変えて出てくる。その世界観単体だけで何かが表現できるわけではない。不思議な仕事だなあと。でも、先が見えない仕事だから続けてこれたのかなあとは思いますね。僕、同じところに通うのも苦手だし、先が見えてしまう人生も苦手なので。明日、どこに連れていかれるかもわからないなかで、行った先、行った先で、自分の想いが変わっていくというのは楽しいし、これこそ求めてた人生だなあって」




取材:相田冬二 撮影:平田光二










津田寛治'S ルーツ



僕の田舎(福井)に放送会館という映画館がありまして。中学、高校の頃、その映画館に行きたくて映画を観ていました。ときには学校もサボって(笑)。僕にとっての映画はスクリーンに映っているものよりも、その外側にある闇だった。その闇に自分を埋め込んでしまうことで、現実逃避してたんですね。闇が自分を抱え込んでくれる、みたいな。すごく薄暗くて、二階にあがる階段の下に売店があって、そこでおばちゃんがいつも文庫本をじっと読んでいた。そこで待っていると壁伝いに微かに客席から映画の声が聞こえてくる。静かななかで、これから観る映画の音が聞こえてくる。あの瞬間が本当に幸せで。中に入って客席に座って。客電が消えて、ふわっとなる。あの瞬間がすごく好きだったんです。映し出されている中身より、環境の方が大事でした。入り込める環境作りをしていてくれたんだなあと。ああいう映画館があったからこそ、本気でスクリーンの向こう側に行こうと思ったんだと思います。





津田寛治(つだ・かんじ)プロフィール


北野武監督の『ソナチネ』で映画デビュー。以降、北野作品を始め、映画、テレビドラマに出演し注目を浴びる。第45回ブルーリボン賞で助演男優賞受賞、第17回東京国際映画祭「日本映画ある視点」部門作品『樹の海』では特別賞を受賞。『東京日和』(竹中直人監督)『贅沢な骨』(行定勲監督)『模倣犯』(森田芳光監督)『妖怪大戦争』(三池崇史監督)『恋の罪』(園子温監督)『月光ノ仮面』(板尾創路監督)など数多くの映画に出演している。2月には竹中直人監督作品 『R-18文学賞 vol.1 自縄自縛の私』が公開される。












『R-18文学賞 vol.1自縄自縛の私』

2013年2月2日(土)新宿バルト9、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開



監督:竹中直人

原作:蛭田亜紗子「自縄自縛の私」(新潮社刊『自縄自縛の私』所収)

脚本:高橋美幸

出演:平田薫、安藤政信、綾部祐二(ピース)、津田寛治、山内圭哉、馬渕英俚可、米原幸佑(RUN&GUN)、銀粉蝶 他

配給:よしもとクリエイティブ・エージェンシー

上演時間:106分

(C)吉本興業

公式サイト



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「自分らしく居ること、それがコミュニケーションに必要なこと」 http://www.webdice.jp/dice/detail/3659/ Thu, 27 Sep 2012 19:10:09 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。




自身のプロデュース公演「DEDICATED 2012 IMAGE」が10月19日(金)より、KAAT神奈川芸術劇場にて行われるダンサー・首藤康之氏のインタビューをお届けします。



webDICEの連載・Artist Choice!のバックナンバーはこちらで読むことができます。












失われつつあるイメージの復権のために




昨年6月、首藤康之は『DEDICATED』と題したシリーズを開始した。



「僕自身が本当にやりたいこと――プロデュース公演と言ったら大げさですけど、これは僕自身の呼びかけで、(一緒に作品を)作りたい人と、あるテーマに沿って作っていく。本当に自由にできる企画です。昨年は社会的にも3月11日以降、誰もが考えたと思うんです。自分自身が、なぜ、どういう意味があって生きているのか。これから何をすれば社会に貢献できるのか。社会に対して自分はいままで何をしてきたのか。いろいろな自問自答を、ほとんどの人がしたのではないでしょうか。僕自身もそのひとりで。僕はずっとダンスをやってきましたが、では、自分にとってダンスは何なのか。ただただ好きで、それが職業になったり、癒しになったり、たまには闘いになったり、いろいろなことがありましたが、去年のことが、もう一度、自分自身のなかでダンスを見つめ直す機会になったんです。僕自身の想いで何かを企画して、そして観に来てくださってるお客様と一緒に、一歩でも前に、僕のダンスを通じて進んでいければいいなという企画で、『DEDICATED』というタイトルにしました。この言葉は「捧げる」という意味で、この言葉もすぐに思い浮び、スタートしました」



自分自身を捧げる。そもそもそれは、身体を駆使するダンス表現の根底にあるものかもしれない。



「『捧げる』という意識はあまり持ったことがないのですが、実際ダンスをやっていて、もう一日24時間ほとんどダンスのことを考えてる状態で。物理的にもそうですし、すべての想いはダンスに帰着する。ダンスに往って、ダンスに還ってくる。それを『捧げる』と表現するのは大げさなのかもしれませんが、結果的にはそういうかたちになっているんだろうな、という気はします。『捧げる』といっても、そんなに重苦しいものではなくて、素敵なことなんだということを、みなさんと共有したいなと思っています。何よりも僕にとっては、劇場という場所がお客様とコミュニケートできる場所なので。僕はダンスを踊ることで、いろんな疑問符を投げかけたり、答えを出したりする。それには劇場がいちばん。そういう意味でも、僕にとって貴重な公演だと思います」



第2弾となるこの『DEDICATED 2012』の大きなトピックは、「映像」だ。操上和美が数年前に撮影した首藤の未公開映像作品の再編集版『The Afternoon of a Faun~ニジンスキーへのオマージュ~』や、世界的振付家であるイリ・キリアンをアドバイザーにむかえ、同じく操上撮影による映像と中村恩恵の振付による舞台のコラボレート『WHITE ROOM』、そして今年1月に公開された首藤のドキュメンタリー映画『今日と明日の間で』で披露されたダンス作品『Between Today and Tomorrow』の初舞台上演がラインナップされている。



「あのドキュメンタリー映画で、初めて自分の映像というもの――自分が話したり、踊ったりする姿を、あれだけ長い間見て、いろいろなことをイメージしました。普段、自分の舞台をライヴで見るということはできないだけに、あのドキュメンタリーを見たときに、僕自身も自身に対して、いろいろなイメージを持ったんです。もしかしたら、お客様も、僕自身のイメージを、映画を観ることで、何か持たれたのかもしれないし、また舞台とは違うイメージを持った方もいらっしゃるのかもしれない。すごくシンプルなことですが、イメージを持つことはすごく大事なことだなと、映画を通じて感じました。それで今回の副題は『IMAGE』としたんです。



イマージュは直訳すると、映像という意味もありますし、イメージする、想像する……いろいろな意味合いがあります。人って、イメージで生きてるところがあって。僕自身も、舞台の前には『こういう舞台だったらいいな』ということをイメージして、練習する。自分自身のイメージに(ダンスを)重ね合わせようとします。



イメージの素晴らしいところは、非現実的にもなれるところ。人は絶対、鳥のようには飛べませんが、飛ぶイメージを持つことはできます。なるべく自分自身で方法を見つけて、それに近づこうとする。それはとても素敵なことだと思います。でも、いまの社会情勢や情報社会を見ていると、イメージすることが、普段の生活のなかで閉ざされてる感じがしています。たとえば、イメージする前に、本当の情報が入ってきて、夢も何もなくなってしまうとか。あとはヴァーチュアルになりすぎていて、イメージ以前のものになってしまう。なかなか、いま生活しているなかで、『こうあったらいいな』というイメージを持つというシンプルなことが、だんだん少なくなっていってるような気がします。でも、イメージを持つことで、自分自身は成長してきたと思っています。



今回の公演では、自分のなかで作り出す映像やイメージ、イマージュというものと、そこに近づいていく自分、そこに到達しようとする、そして日々闘っていく、自分自身が探している感覚を、お客様と一緒に共有できればいいなと思います。この公演を見たことで、やっぱりイメージを持つことっていいよね、素敵だね、って思ってもらえるような公演にしたいです」




ドキュメンタリーを通して、彼は自分自身に何を見出したのだろうか。



「映像というものは、技術的に悪い部分は一目瞭然なわけです。いままでは映像は、真の感情みたいなものは伝わらないなあ、ダンスは生で見るべきだ、といつも思っていました。でも、普通のライヴは、圧倒的で、生のものをものすごく感じるんですけど、そのときに(見ながら)何かをイメージすることはあまりないんですが、映像は、イメージしながら見られるんです。そこがちょっと違うところかなと思っています。映像は、現実的なものから非現実的なものまであって、人によって想像の範囲は拡がる。でも劇場は、ライヴで踊っていると、(客席と舞台が)ひとつになっていくのはわかるけど、映像のほうがいろんな考えの拡がりを持てるような気がします。その拡がりが持てるものと、ひとつになっていく舞台でのパフォーマンスを一緒にしたら、どうなるのかな? という興味がすごくあります。そんなふうに今回の舞台は進んでいきます」









ルールがなければ自由は始まらない



首藤が希求するのは、シンプルなものだ。



「削ぎ落していきたいんです。たとえば外を歩いていると、いろんなものが付いてきますが、それを洗い流して、イメージして作り出していく。肉体もそうですが、常にシンプルでありたいなとは思ってます。でも、シンプルこそが難しい」



彼のダンスは、バレエでもなければコンテンポラリー/モダンでもない。技術でもなければ構造でもない。彼のダンスは精神そのものとしてそこにある。



「まず、いちばん強いのは、僕はバレエという確固たる基盤を持てているということだと思います。そこに還るととてもシンプルになれるというか、自分自身を出せるというか。基盤というものが必要なんです。何か軸があれば、きっとそのなかで自由になれるのですが、自由ってすごく難しい。自由ほど制約のあるものはないと思います。たとえばひとつのカンパニーに入っていると、ルールというものが存在します。複数で生きていると、ルールが存在しないといけない。でも、そのルールがあるからこそ、ちょっとそのあいだに見えてくる自由が素敵に見えたり、光がすごく大きく見えたりする。



実際カンパニーを辞めてすごく実感したのですが、まるっきりひとりになると、一見自由なんですが、急にがんじがらめにされたような気がした。それはルールが、自分自身のなかから、まったくなくなったからなんです。僕がずっと生きてきたなかでルールってなんだろう?と思ったら、毎日基本のレッスンをお稽古することだと気づいた。それをしていれば、すごく自由になれます。精神的にも、肉体的にも。だから毎朝決まった時間に稽古することだけは、フリーランスになってからも決めてやっていると、僕自身というものが保てる。その基盤を持っているということは僕の強みでもあるし、精神的にも自由になれて、僕のダンスにシンプルさを与えてくれる秘訣だと思っています」



自らにルールを与える。



「常にルールを与えないと、自由がないような気がして。なんでもやっていい、と言われると迷ってしまうと思います。でも、何かこれをひとつ使ってやって、と言われると、そこで自由になれたりする。たとえば部屋に入れられて、あなたは自由、と言われても、わからなくなると思う。僕の場合は、その部屋にレッスン用のバーがあると、レッスンして、踊れて、そこからどんどんどんどん拡がりを出していけます。何かひとつ、点みたいなものがあれば、それがスタート地点になるような気がします。本当に小さな点だけでいいんです。真っ白いキャンパスだけでは、そのどこに立っていいかわからない。きっと、真っ白な部屋に入れられたら、わからなくなると思います。そのきっかけが、僕の場合、バレエというものなのだと思います」



基点は、始まる場所であり、還る場所なのだ。



「そこに戻ると、いつも、すごくニュートラルになれるポジションですね」








首藤康之







コミュニケーションには遠近も大小も関係ない



素晴らしいダンサーがすべて映像的かと言えば、決してそうではない。首藤が語っている通り、ダンスはそもそも「ひとつになる」ために駆使されてきた歴史があり、その求心力は映像という拡散的なフォーマットとは相容れない部分がかなりある。だから、たとえば、あるダンサーの姿を撮影しても、それが単なる「生の記録」に留まってしまうことは少なからずある(これは演劇の舞台中継などのことを考えても理解できると思う。映像におけるクローズアップは、生の肉体によって発信されるパワーとはやはり別種のものなのである)。しかし、首藤は映像的である。そのダンスは映像に溶け合う。



「僕は映画が大好きで、映像にすごく憧れというものがあります。舞台は、すごく非現実の世界なのに現実的ですよね。そこに生身というモノがあって。でも、映像の世界というのは、同じく劇場で体験するものですけど、すごく非現実に連れていかれる。劇場内とは別の空間を、そのなかに持ってこられる。ライヴのダンスはその存在そのもの、その場所でしかあり得ないもの。だから、外の世界を、ライヴの場に持ってくると、面白いリンクをするんじゃないかと思いました。だから僕自身も、すごく楽しみにしているんです」



首藤が映像的なダンサーである理由は、彼がどんなところでも踊ってしまえる資質の持ち主であることとも無縁ではない。彼は、劇場にこだわらない、というよりも、あらゆる場所を劇場にしてしまう力を持っている。つまり、劇場ではない空間に劇場性を見出す。そうした意味でも、首藤は映像的、つまり、イマジネイティヴなのである。



「僕が9歳で、初めて劇場というものに出逢ったときに、客席にいようと、舞台にいようと、そのとき出演者と話しているわけではないのに、お客様と話しているわけではないのに、何かコミュニケーションがとれている感じがすごくしました。友だちでもないのに、友だちになったような感じ。8年前にカンパニーを離れたのですが、カンパニーにいたときはクラシックバレエが中心ということもあり、2000~3000人の規模の劇場でしか踊ったことがありませんでした。



でもカンパニーを辞めて、ジャンルの幅を広げていくなかで作品に合わせて200人の劇場で踊ったり、いろんな経験をしました。 そのときに、お客様がすぐそばにいようが、10メートル先にいようが、100メートル先にいようが、1キロ先にいようが、まったくコミュニケートの感覚が変わらなかった。あ、これは劇場の大きさじゃないなと。(コミュニケーションというものは)自分の想いであり、観客の想いなんだな、ということがわかったときに、いろんな場所で踊るのが楽しくなってきました。昨日は50人のところで踊ったのに、今日は3000人入るところで踊ってる。それをすごく楽しめるようになって。いまはどこか大地を与えてくれれば、 どこでも踊れるような感じがしています」



つまり、パフォーマンスは、現実的な距離や空間の大小には左右されないということだ。



「まったく関係ないと思います。(コミュニケーションは)小さなところでも、とれないときはとれないし。すごく大きなところでとれたり。(観客の)人数でもないし(舞台と客席の)近さでもないですね」



じゃあ、常に自分を試してる?



「そうですね。まだまだ、ダンスを通して、何が見つかっているか、わからない状態で。だからこそ、いろいろなことをやろうとしているんでしょうし、次に何が見えてくるか、僕自身にもわからないし、観客にもわからないと思うんですよ。それを一緒に探したいなと思うんです。せっかくコミュニケーションをとれる場所なので。



『これはこうだ』というものを提示するのは簡単なんですけど、『これはこうなんですけど、皆さんは、どう思いますか』というところまで、この公演ではつなげていきたいというのがテーマです。だから、作品のなかに余白を作って提供する。お客様が何を感じるのかわからないし、それを訊いてみたいし、僕自身も何を感じるのか未知の世界。本当に挑戦です、この公演は」









舞台の上で生と死を行き来しながら



首藤康之の核にあるのは、コミュニケーションする感覚だ。



「生まれて初めて劇場に入ったときに『それ』がついた、ということですね。自分らしくいないと、コミュニケーションはとれないんです。コミュニケーションというのは、思ってもいないことを言うことではなくて、思ったこと、感じたことを、そのまま言葉として出したり、何か通じ合ったりすることです。そして自分らしくいられる場所が、いちばんコミュニケートできる場所であるべきだと思います。僕の場合、それは劇場。実際、どういうコミュニケーションが起こったのかと問われると、困るんですけど(笑)。何か、自分らしくいられるんです。正直になれるというか」



つまり、それが「伝える」ということ。



「そうじゃないと伝えられなくて。劇場がいちばんニュートラルにダンスがしやすい場所です。ダンスをしていると正直でいられる自分がいる。やっぱり劇場が好きですね。見る場所があって、踊る場所がある。それはどこでもいいんです」



首藤は「劇場」を必要とし、そして愛している。



「プライベートでも、劇場に行くと、ニュートラルになれます。映画館でも、映画の出演者と共に、映画の一部になったような気がします。見ている人の空気、気持ちもわかりますし。すごく素敵な時間です。ひとつのものを見る、集中する。そういう場所に起こる何か――魔法というか。同じものを見ているわけですから。でも、それぞれ、いろんな感情がわいてくる。ひとつの感情じゃない。そこがすごく面白いなと思います」



訊いてみたいことがあった。観客の視線は無数だ。そのまなざしがこわくなったりはしないのだろうか。



「2000人いれば、4000個の目があるわけで、そう考えるとこわいですよ。でも、その恐怖が快感に変わる瞬間があります。そこは自分自身のなかで楽しんでいる。それは初めて舞台に立ったときから変わりません。(舞台に)立つ前は、本当に逃げ出したくなるくらいの緊張と恐怖に襲われますが、一歩舞台に足を踏み入れて、何か音が鳴って動き出すと、その恐怖が少しずつ薄れてきて、喜びに変わっていく。人生の全部を一瞬にして経験しているような感じです。大げさに言えば、舞台の前は全部血液を抜かれる感じがします。その血液を舞台でお客様に与えられて生き返ってくる。死から生に。そして生からまた死に。生き返っては死んで、死んでは生き返って。いつもそれを舞台の上で体験しています」



変わらないもの。



「それは変わらないですね。初めて舞台に立ったときから。舞台に立てば立つほど、その怖さも、その喜びも、より知っていく。だから、そのことには慣れないです。血を抜かれる頻度は高くなる」



抜かれるから、入れられる。入れられるから、抜かれる。



「そうなんです。そこは切っても切れないでしょうね。でも、抜かないと、それ以上血液は入らないものだから、きっと抜いて正解なんでしょうけど……。本当に怖くなるんですよ。危険なくらい怖くなります。寒気がしてきて、どんな舞台でもそうなんですけど。舞台に出た途端に、一気に血が戻ってくる場合と、なかなかその血の気が戻ってこない、どうしよう……というときと、両方ある。毎回違います。それがライヴの面白さであり、大変さでもあります」



ライヴは人生。人生はライヴ。生きて死んで。死んで生きて。そうやって首藤康之は自分を捧げている。




取材:相田冬二 撮影:平田光二 ヘアメイク:小林雄美










首藤康之'S ルーツ



やっぱり、劇場ですね。何かひとつのことをやりたい、という想いが詰まったところに人が集まってるから、素敵なことが起こる。だから劇場って好き。何か目的意識がある。みんなの目的は同じだから、シンプルなんです。「気」が集まると思います。そして、何かが生まれるのだと思います。





首藤康之(しゅとう・やすゆき)プロフィール


15歳で東京バレエ団に入団、モーリス・ベジャール振付『ボレロ』、マシュー・ボーン振付『SWANLAKE』などで主役を務め高く評価される。退団後は、映画『トーリ』や、『SHAKESPEARE'SR&J』でストレートプレイに出演するなど幅広く活躍し、2007年には自身のスタジオ「THESTUDIO」をオープン。同年、ベルギー王立モネ劇場にて『アポクリフ』世界初演。その後世界中で上演された成果を認められ、第42回舞踊批評家協会賞を受賞。昨年はKAAT(神奈川芸術劇場)にて『DEDICATED』を主催。今年3月にはウィル・タケット演出・振付『鶴』に主演するなど、国内外を問わず活動の場を広げる。第62回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。

http://www.sayatei.com












DEDICATED 2012 IMAGE

2012年10月19日(金)~10月21日 (日)



出演者:首藤康之、中村恩恵

会場:KAAT神奈川芸術劇場(横浜市中区山下町281)

チケット情報はこちら



昨年6月、首藤康之がスタートさせ好評を博した「DEDICATED」シリーズ。第二弾は舞台をホールに移し、"IMAGE"と題して、舞台と映像のコラボレーションに挑む。



椎名林檎の音楽、中村恩恵の振付によるソロ(『Between Today and Tomorrow』)の初の舞台上演、写真家・操上和美と首藤による未公開映像作品(『The Afternoon of a Faun~ニジンスキーへのオマージュ~』)の初上映、イリ・キリアンをアドバイザーに迎え、中村恩恵の振付、操上和美の映像とのコラボレーションによる新作(『WHITE ROOM』)を世界初演する。




「DEDICATED2011/ブラック・バード」より (C)MITSUO

「DEDICATED2011/ブラック・バード」より (C)MITSUO

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「自己満足より、褒められたい」生瀬勝久インタビュー http://www.webdice.jp/dice/detail/3586/ Tue, 31 Jul 2012 16:04:11 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



現在公開中の映画『スープ~生まれ変わりの物語~』で主人公を演じる俳優・生瀬勝久氏のインタビューをお届けします。




webDICEの連載・Artist Choice!のバックナンバーはこちらで読むことができます。












シワ、汚れ、無駄がポリシー



父ひとり、娘ひとり。そんな生活を送っていた中年男が天災で事故死。娘と気持ちがすれ違ったまま逝ってしまった彼は、彼女に想いを伝えるために、あの世である決断を迫られる――映画『スープ~生まれ変わりの物語~』で主人公を演じている生瀬勝久は、特異な状況下における人間のリアリズムを体現している。言ってみればそれは、完璧な虚構から滲み出てくる感情の機微である。



「僕自身とすれば、いろいろなことを思うわけですよ。僕なりの死生観はありますから。僕はあの世はないと思ってる。だから、これは"ありえないこと"なんですよね。あの世で現実のことを考えるなんてことは、思いつかないんですよ。つまり僕にとっては"ないこと"。ただ、僕がするのは"演じる"ということですから。今回の映画は、それが"ある"という設定で。でも、演じるということ自体、どこかウソですから。"え?あの世?"なんて思ったら先に進めませんよ」



つまり、世界観を受け入れるということ?



「演じること自体がそういうことですからね。自分じゃないわけですから。自分のなかの引き出し、つまり自分の経験も加味することはあるんですけど、観てるひとが"ウソ"って思った時点で僕らの仕事はダメになるわけで。こういうときにはどういう行動をするのか。どういう話し方をするのか。どういう表情をするのか。そういうことを演じるしかないんですけど」



フィクションというものについて考えさせる映画である。フィクションにはフィクションにしか伝えられないことがある。俳優はそれをテーマやメッセージとしてかたちにするわけではない。あくまでもその世界に存在する人間としてきめ細やかに表現する。その結果として何かが伝わる。そこではいったい何が起きているのだろうか。



「監督さんが、リアリズムに見せるための努力をされてると思うんですよね。あの世を、みんながイメージするあの世にはしなかった。こういう世界も、あるのかな?と思わせるような造型になっています。僕としては、演じる上で、いちばんの近道を通らなかったことかな」



近道を通らない。いきなり、核心を衝くような一言がこぼれ落ちる。



「僕の芝居は、どれだけシワを作るか、汚れをつけるか、つまり、どれだけ無駄なことを入れるかってこと。汚しの芝居なんですよね(笑)。僕はこういうビジュアルですし、実際にこういう風に生きてるんですけど。その僕というものは、リアルじゃないですか。リアルなものっていうのは、どういうものなのか。それは無駄な動きをしていることだと思うんです。それが僕の芝居をする上でのポリシーで。たとえば、わざと足踏みしたり。ここでダッシュしなくてもいいじゃないか、というところでダッシュしたり。たぶん、そういう演技プランが、他のひととは違うところだと思うんですけどね。無駄に大きく声を出したり、あるいは、聞こえないくらいの声を出してみたり。それはやっぱりセオリーではなくて。そういうのが楽しくてしょうがないんですよ」




Artist Choice! 生瀬勝久








台詞を覚えず、自分を浮遊させる



生瀬勝久の演技には、演じ手が意味を確認していくような悪しき「もっともらしさ」が見当たらない。もちろん発せられる台詞=言葉には意味がある。映像=画にも意味がある。しかしながら生瀬がそこに居ることそれ自体は意味に陥らない。



「台詞って、作家が、ものすごく考えて書くんですよ。たとえば、ちゃんと(言葉の)韻を踏む作家さんもいらっしゃいますし、この言葉をどれだけ素敵に聞かせるかということを考えるひともいる。でも、普段の会話のなかで、そんな時間はないんですよ」



日常のなかで、ひとは考えに考えた末に何かを言っているわけではない。



「相手がどんな話をしてくるかわからないじゃないですか。そうなると、こっちは、はずみ車で(ある種の勢いで)しゃべってる場合もある。借りてきた言葉でしゃべっていることもある。それがリアルじゃないですか。ということは、台詞は練習しちゃいけないんですよ。本当は、相手のある質問に対して、そのときに返事をしなきゃいけない。それを目指すんです、僕は。だから台詞はちゃんと覚えない。覚えないっていうか……台詞の内容は"入れます"よ。たとえば、そこで韻を踏んでしゃべったら、歌になるじゃないですか。ミュージカルにしても歌舞伎にしても、そこに理想のかたちがあるわけだけど……会話っていうのは、そういうものじゃなくて。絶対、流暢ではないし、ノッキング(スムーズにしゃべれないこと)もするし、勢い余って自分の気持ちより先に言葉が出る場合もあるし、噛むし。だって、普段こうやってしゃべっていても、身体が頭に追いついてないですよ(笑)。それが本当の会話だと思う」



生瀬の芝居にはときに、その場で求められている意味を、大きく超えている瞬間がある。それは逸脱ではない。超越である。そのような明確な超越が、生瀬の表現からは感じられる。



「それは僕が楽しんでいるときなんですけど。スタンダードと思われる芝居のところから、自分を浮遊させる。それはもう、わざと(笑)。それは僕の技術(笑)。自分にウソをつくんです。やっちゃいけないことを途中でやる。それをセレクトするひとはあんまりいない、っていうことをやる。でも、そればっかりやってたら面白くない。きっちりと、ちゃんと、たとえば校長先生のように、お話をする。それもやらないといけないこと。そうでないと変化球も生まれない。緩急というか。まったくの暴投であったりとか、牽制球であったりとか、でもピッチングっていうのは基本やっぱりストレートですからね。ど真ん中ストライク、っていうのをきちっとコントロールよく投げられなきゃいけない。あるいは、本当にど真ん中に投げちゃいけないときに、ど真ん中に投げるとかね。それをどのように見極めるのか。そういうことを僕は家では考えずに、その場の体調とかで(笑)決めるんで、つかみどころがない……役者なんでしょうね。体調は大きいと思います。前室(楽屋など)で盛り上がったまま(撮影)現場に入って、その調子でやっちゃったりとか(笑)」







言葉を超えた音が、琴線に触れる



スポーツの世界に「メイクドラマ」という言葉がある。だがそれはアスリートの本道ではない。彼ら彼女らにとって、それはアクシデントのようなものだ。だが、役者は「メイクドラマ」が日常である。つまり芝居は「勝つ」ためになされているわけではない。



「自在にできる役者になりたいですね。いや、自在な役者になりたいですよ、ほんとに」



同じ現場はひとつもないだろう。ひとつの現場も刻一刻と変化する。そうした流動性のなかで自在でいるためには、どうすればいいのか。



「……誰にも文句を言われないような役者になることでしょうね。それはありえないですけど。いやいや、そんな大それたことは考えてないんですが……お芝居は楽しいですね。うまくできれば、うれしいですね。あと、なんか、褒められたいですよね。そりゃそうですよ。誰だってそうでしょう。何かをしたときに褒められるのはうれしいですから。なかなかひとって、褒められないですよね。僕も褒めないし、ひとのこと。だから……褒められるためにやってるんじゃないですか。自己満足だとやっぱり、よくないでしょ。自分が面白ければ、とか、自分が楽しければ、というのは、趣味ですからね。それは仕事ではない。やっぱり、たくさん褒められることが、その仕事の結果だと思う」



それはつまり、芝居が「見られるもの」だからだろうか。



「見られるものだし、見せているものでしょ? 見せているものだから、やっぱり、僕らが提供するものに対して、何か動いていただきたいなと。もちろんお金を払っていただいてるわけだから、それにも応えたいし、プロの技を見たとか、あの話が本当に見えたとか。なんでもいいんですけど」



さて、生瀬の芝居が意味を超えるというのは、何も彼が突拍子もないことをやらかす、ということではない。発せられた言葉の意味に規定されない、人物の命や呼吸がそこに出現する、ということだ。それは「そのひとが、いま、生きている」という状態のクリアな提示でもある。



「舞台観に行ったり、映画観に行ったりして、ワード(言葉)が僕のなかに残る場合もあるんです。でも、もっと印象的に残るのが、叫び声であったりとか、動きであったりとかする。しかも、話とはまったく関係のないある瞬間。それが舞台の、いちばんの印象だったりするんですね。それを計算してやっているものがいちばん心地よいんですよ。で、僕もそういうものがやりたい。僕、ひとつ印象に残っているのは、『贋作・罪と罰』っていうNODA・MAPの公演の初演(1995)に出たんですけど、その再演(2005)を観たら、松たか子さんが叫ぶシーンがあって。再演で野田(秀樹)さんは松さんに、あーっ!っていう声を出させた。それがいちばん印象に残ってて。どんな話か云々よりも、あの松さんの声が、うれしいやら、悲しいやら。とにかく気持ちが高ぶって。そんなふうに、このために俺は金(チケット代)払ったんだ、というようなことが、ときどきあるんですよね。映画で言ったら、『ゴッドファーザー』の声のないシーンとか。言葉を超えた音、みたいなものが琴線に触れる。それを意図して(音として)出させるっていうのは、ものすごく高度なことだと思うんですけど、『贋作~』のときには野田さんにそれをヤラれました。あそこで叫ばせた、っていうね。あれは、すごい演出だな。あれだけシンプルなことを計算してできるっていうのは、本当にすごい。とにかく、言葉を綺麗に、きちんと伝えることも大事なんだけど、いろんなことで表現というものはできるし、それをこれからも探求していきたいなと思っております」




Artist Choice! 生瀬勝久








なぞるな、探るな、バイブルはいらない



声とは身体の音でもある。そのような音に遭遇するとき、私たちは理屈を超えた感動に出逢うことにもなる。



「たぶん、それは用意しちゃ、いけないものでしょうね。もちろん、心づもりというか、準備はいると思うんですが、でも、"探る"といけない。リハーサルのときにできたものが良かったな、なんて思っちゃいけない。そうすると、なぞるんで」



芝居とは、再現ではない。



「リハーサルであんまりいいものが出てしまってはいけない。これは永遠のテーマですね。そうなると、もうね、毎回違うことやればいいんですよ。"いいもの"というのを、あまり自覚しないっていうか。もし、それらしきものが出たとしても、一応、引き出しに少し入れとくだけにして、そのあとは、どんな感じであろうと、気持ちと、そのときの声が、合っていれば正解っていうぐらいにしておくしかない。絶対、なぞりたくはないんで。ただ、共演者は困るでしょうね。それは申し訳ないとは思います。でも、これが僕のスタイルなんで。ほんと、申し訳ないんですけど(笑)」



しなやかで揺ぎない俳優を前にして、つい書き手のひとりとして、人生相談めいたことをしてしまう。わたしたちは、ときに俳優の演技の素晴らしさを記そうとする。それを伝えようとする。しかし言葉を費やせば費やすほど、比喩を用いれば用いるほど、それは遠ざかる。そして、しばらくしてから気づくのだ。それは、言語化できないものなのだと。



「もし、できた、とか思ったとしたら、そのときは疑ったほうがいい(笑)。表現できた、とか思ってしまったら、それは危機的状況なのかもしれない。怖いですよ。それが正解だとか、すべて表現できた、なんて思うと。そうなると、もうバイブルになっちゃうんで。ちょっと、危ない。もうその先がなくなる」



「書く」ということに関しては、こうも。



「自分で戯曲を書くときに思うんですが、本当のこと、ストレートなことを書いてしまうと、その先はなくなる。ストレートなことを書く場合、それはもう借りてくるしかないなって。ひとの言葉を。もちろん、そもそも言葉っていうのは全部、ひとのものなんですけど。自分の言葉っていうのは、たぶんない。言葉を愛おしいって思うよりも、これはいい言葉ですよね、みんなで共有しましょう、っていう感じになればいいんじゃないですかね」



すべての言葉は借り物である。だったら、その言葉を慈しむのではなく、解き放つべきだと思う。誰かが手にとれるものとして。生瀬が言った「見られるものだし、見せているものでしょ?」もそういうことだし、「褒められるためにやっている」もそういうことだと思う。ほんとにそう思う。




「僕はこういうことを、取材でしか話さないんですよ。お酒も飲まないし、あまり酒の席にも行かない。何ヶ月かに一度、こういう場で、ひとと、自分の思ってることをまとめて話す機会が、僕のなかで非常に健全な活動なんです。いま、自分が何を思ってるのか。想いを言葉にするっていうのが、訓練になっている。ああ、俺、いま、こういうことを思っているのか、と」



生瀬勝久は、会話をしていた。用意してきた言葉を「なぞる」のではなく、本当の会話をしていた。




取材:相田冬二 撮影:taro











生瀬勝久'S ルーツ



やっぱり、両親ですよ。遺伝と環境で、いまの僕のすべてがあるので。この容姿、体力、両親のくれた環境、教え。そういうものがベースになってます。ポジティヴシンキングであったり、どこかだらしなかったり。そういうのも、全部親の責任(笑)、いや、親のおかげです。





生瀬勝久(なませ・かつひさ)プロフィール


1983年劇団に入団。1988年4代目座長に就任後は、脚本家、演出家としても活躍。退団後は、舞台、映画、TVドラマ、ラジオ、CMなどさらに活躍の場を広げ、唯一無二の存在として注目を浴びる。最近の主な作品に舞台『PRESS ~プレス~』、映画『カイジ2』『ステキな金縛り』、TV『サラリーマンNEO』(NHK)『ストロベリーナイト』(CX)『リーガル・ハイ』(CX)『ゴーストママ捜査線』(NTV・7月より放送)などがある。7月7日(土)より主演映画『スープ~生まれ変わりの物語~』が公開。










『スープ~生まれ変わりの物語~』



うだつのあがらない中年男性の渋谷健一は、何をやるにも生気が感じられない。妻とは5年前に離婚し、それがきっかけで娘の美加とはギクシャクする日々を送っていた。
美加が15歳の誕生日を迎えた翌日、出張中の渋谷と、上司の綾瀬由美の頭上に突如、落雷が直撃。目を覚ました二人が立っていたのは死後の世界だった…。



この世界には伝説のスープというものがあり、そのスープを飲めば来世に別人として生まれ変わることが出来るというが、その代わり、前世の記憶はなくなってしまうのだという。 死んだ今でも娘のことが気がかりな渋谷は、前世の記憶が失われるというスープを飲むことをかたくなに拒否するのだが…。



監督・脚本:大塚祐吉

出演:生瀬勝久、小西真奈美、刈谷友衣子、野村周平、広瀬アリス、橋本愛、大後寿々花、山口紗弥加、伊藤歩、羽野晶紀、古田新太、松方弘樹 他

公式サイト



[youtube:FGl7DjKQPIk]




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「このあたりの者でござる」から始まるカタルシス http://www.webdice.jp/dice/detail/3534/ Tue, 05 Jun 2012 15:39:24 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



6月12日より世田谷パブリックシアターにて公演がはじまる、井上ひさし作『藪原検校』に出演する狂言師・野村萬斎氏のインタビューをお届けします。




webDICEの連載・Artist Choice!のバックナンバーはこちらで読むことができます。












人間の根源に向かって




野村萬斎が「悪」を演じる。自身の演出による『国盗人』(2009年)でも「悪」を体現した彼は、今度はどのような「悪」を見せるのだろうか。井上ひさし作の『藪原検校』は、悪行のかぎりを尽くしてのし上がっていくひとりの座頭の物語である。



「狂おしくも生きる――というか。生の根源みたいなことを僕は感じますね。盲人の社会の出来事にしているから、そのことがストレートに出ている。生きて、偉くなりたい、という人間の根源。『国盗人』の基になったシェイクスピアの『リチャード三世』は王家のなかでの覇権争いですけど、『藪原検校』は最底辺からどこまで上がれるかという人生ゲームみたいなもの。より根源的な人間の欲望を衝いてる気はしますね。だからこそ、自分にとって邪魔な者は斬って捨てるし、本当にストレート。『オイディプス王』(2002年、蜷川幸雄演出)のときと同じように、脚本を読んですぐやりたいと思いました。単純明快、かつ、人間の代償行為という感じがすごくします」



俳優としてのアプローチもストレートなものになるという。



「もちろん、盲人の役ですから、そこにひとつの様式性もあるかもしれませんが、ただ、盲人であることの演技が重要なわけではない。狂言で座頭ものを演じるときの型は、使えるところは使いますけどね。音だけが支配する緊張感は絶対ありますから。対人関係の緊張感。日常性とはちょっと違うところですよね。盲人が出てくる芝居は、そこにひとつの緊張をもたらします」



そう、舞台上に目の見えない人を観るとき、私たちは自ずと五感を研ぎすますことになる。



「台本に書かれていないことについての演技がしやすいですよね、盲人の役は。通常、相手に対して意識がカッとなったとき、もっと動きだけで ――普通だと、気持ちだけで、ということなんでしょうけど―― 盲人の場合は、気持ちと同時に、もっと様式的に型が使えるような気はします。ただ、それ以上に、素直に演じるほうがいいのかなという気がしますけどね」



ひとりの演じ手として参加する場合、作品の選択基準はどこにあるのだろう。



「自分がやりたいと思うかどうか。『藪原検校』の場合は一読して、『生きるために仕方がなかった』という熱いものを感じたからかもしれません。殺しのギターが響いてくる……という箇所もあり、僕もギターの好きなロック小僧でしたからね。青春、のような何かもそこで重なったのかもしれません。孤独と、殺しと、愛欲と。暴力的生と言いますか、非常に肉食的ですよね。人間の生がここまでストレートになる。その面白さかなと思います」



つまり、生きものとしての能動性だ。



「あまり自虐的にものを考えないで済む役ですね。非常に頭のいい男の話ですけど、いわゆる複雑な心理の話ではない。たとえば『ハムレット』なんかとは真逆の世界。考える前に相手を斬ってる、犯してる、ということですから」



内面ではない、もっとダイレクトなものが表出するキャラクターになりそうだ。








すべては狂言から生まれる




「生きることにストレートだというところは、狂言のキャラクターに似ているのかもしれませんね」



やはり自分の根本には狂言がある、と語る。



「たとえばこの前演出した『サド侯爵夫人』からは、全然狂言なんて見えないかもしれないですけど、あの語りの技術は狂言の手法。『マクベス』(2010年)も、そこには狂言の狂の字もないようでありながら、そこにある俯瞰した目線などは、森羅万象と人間の存在は一緒だという狂言の『このあたりの者でござる』という思想 ――つまり、どんな偉いヤツも、このあたりの者でしかないだろう、王様だってスコットランドあたりの者じゃないかと。つまり、ひとつの虫けら同然なんだと。そういう目線が魔女の発想としてある。近代的な人間としてシェイクスピアを読み解こうとすると、魔女は自分自身の深層心理のあらわれである……というような心理主義をとることも多いけれど、魔女という自然を司る存在から見れば、人間なんてこんなもんじゃん!って僕なんか思うんですよね。魔女の言うことがマクベスの心理的裏返しとは思わないんですよ。だったら、魔女3人が操る世界にしてしまえ、と。あの演出の発想は狂言からきてますよね。『国盗人』も能舞台を使ってますし。マスク=面を使うことも含めて、狂言とまったく無縁であるというものは、僕の演出作品ではないです。役者として作品選びをするときも、どこかで狂言を意識しているのかもしれません。『藪原検校』にある、ものすごい負のエネルギー、それは狂言師として知っているつもりですから」



去る3月に行われた三島由紀夫の『サド侯爵夫人』では女優だけの出演者陣を前に、演出に専念した。こうした活動を経て、彼にとって演じることはどう変容しているのだろう。



「他の演出家に演出されるときは、基本的に役者に徹しますね。もちろん柔軟な役作りはしていくつもりですが。ただ、自分でも、現代劇ってこういうものなのかな?という想いは生まれてきました。僕が『サド』を演出しきれたかどうかはわからないけども、現代劇の役者さんにも納得してもらえるような物言いになってきたかな、とは思い始めました。『サド』に関しては言えば台詞の修飾語がほんとうに多いので、抑揚をきちんと付けないと、意味が成立しないわけですね。主語に対して修飾語がふたつ付くんだけど、修飾語をカットしてもいいような話し方をしてはいけないわけです。つまり、修飾する意味がわかるように話さなければいけない。音を整理して言わなければいけない。音が、なぜ、その音でなければいけないかを、感情の裏打ちとして、演出の言葉を言えるようになった。狂言の世界では感情が先に現れてはいけない、と教わるので、感情の裏付けというのは自分でしないといけない。つまり、感情をすんなり出さないことが根本にあります。現代劇では、感情や事象に対する裏付けを重要視しますよね。そこには慣れてきました。演出する側として『あ、この音が足りないのは、役者がその気持ちになっていないからだな』と。これまでは、それは音楽的な感覚でしかなかったものが、なぜそうなるか、ということを言葉で意味づけできるようになってきたということはあるかもしれません。ただ、『藪原検校』にそれほど長い台詞があるわけではありません。『サド』は語りの世界とも言えるので、みなさんに(その語りの世界に)来てもらったけど、今度は僕が初めて、そちらの(語りではない)世界に行く。『藪原検校』には過激な性描写もありますからね。僕にとっては、そういうことのほうが単純に衝撃があるでしょう」







野村萬斎





攻めるためにリングにあがる




それにしても、肉食の野村萬斎はなかなか想像しづらい。

様々な意味でのチャレンジになるのではないか。



「僕がいままで組んできたのは外国人の演出家に、蜷川(幸雄)さん、そして三谷(幸喜)さんという全然違う顔ぶれなわけですが、そのなかで(『藪原検校』の)栗山(民也)さんはいちばん現代劇的なひとでしょうね。蜷川さんはダイナミックな演出を主眼にしていたように思いました。では、新国立劇場の芸術監督でもあった栗山さんはどんなアプローチをなさるのか。それは楽しみですね。日本の作家で言うと、木下順二(『子午線の祀り』)、清水邦夫(『わが魂は輝く水なり』)という方々の作品をやってますが、それは全部物語として平家がかかわっていたりするので、狂言と近い部分もあったんですけど、『藪原検校』になると毛色が変わってますよね。まあ、狂言の座頭の演技も含めて、ある程度自分に『近い』ものならやれる、という感覚はあるかもしれないですね」



三谷幸喜演出の『ベッジ・パードン』では、意外な芝居も見せた。かなり動きが封じられた役どころで、一貫して夏目漱石の思索を体現している。



「三谷さんのときは、ある意味、苦しみましたね。あれ?オレ、演技してるのかどうか、わかんないな?というか(笑)。受けや守りが中心の芝居でしたからね。僕が現代劇に出てくるときは、どちらかと言えば、あえて好戦的に、その場に挑戦していくという目標があるんです。だから、ああいう守りの役になると新鮮でしたね。やっぱり、狂言師があえて現代劇をやるのだとすれば、攻めていきたいですね。異種格闘技戦に挑んでるわけですから。狂言の世界から『出て行っている』わけですから。そういう意味では『藪原』はやれるだけやれる、というか。何か演じ倒せそうな気がして。それが嬉しいです」



リングにあがるような感覚はこれまで通り。だが、「異種」という感覚は薄れてきた。



「別に全員をなぎ倒して、ぶっ倒そうというわけではなくて。ひとつの作品を作るわけですからね。あと、僕でなくてもできる役をやる必要があるのか、ということはいつも、考えますね。僕でないとできない役もやりたいし、でも、本来、他の人がやるような役を僕がやるとどうなるのかな?という興味と、両方あります。『藪原検校』に関しては、狂言での盲人役の経験値も含め他の人よりアドバンテージがあるんじゃないかなと、自分のなかでは思ったりするんですよね」






ドラマツルギーが辿り着く場所




結果、彼が得る手応えはどのようなものだろう。



「自分で演出するときは、自分なりの発想で全部作れてしまうので、手応えはあります。役者として参加するときは、演出家とどう作品を考えていくかという共同作業になりますね。たとえば、蜷川(幸雄)さんはヒーローが好きだけど、僕はヒーローが嫌いだ、とか(笑)。そういう考え方の違いはあるんです。僕は、最終的にヒーローになりたい。でも蜷川さんは最初からヒーローであってほしいっていう人だから。僕はどちらかといえば、ダメなヤツが、最終的にヒーローになるのが好きだし、そこにカタルシスを感じます」



役そのものに宿っているドラマツルギー。それを信じているのではないか。



「それはそうですね。狂言でもそうですけど、徐々にそうなっていくものだと思うんです。『このあたりの者でござる』というドラマツルギー、『一観客の一人である』というのが狂言の考え方。『ここに集った者の一人だ』ということが『このあたりの者でござる』という発想ですから。今回で言えば、そのなかから、たまたま藪原検校になるヤツが出てきたと。観客みんなの代表となって、ドラマを生ききったときに、最終的にヒーローになる。そのほうが物語を観ていく必然を感じるわけですね。僕は、だから、人はカタルシスを感じるんじゃないかと思うんです。最低のラインから、どれだけ勝ち上がっていくか。その上昇気流を一緒に観ていくから面白いんじゃないですかね」



無数の可能性のなかをくぐって、突き抜けていく生命と言ってもいいかもしれない。



「子供が泥んこが大好きだ、みたいな感じかな(笑)。最初は泥んこでいるようなところが『藪原検校』の好きなところなんです。だんだん洗練されていって、上がっていく。つまり、ただのエロ・グロから、どんどん一つの権力にまで上がっていく。それに従って、身なりも非常に綺麗になっていく。そんなゲーム感覚で、上がっていくけれど、最後はものすごい血があふれるわけですね。そのとき、人間のなかには同じ血が流れている、ということが、最後に確認される。あれだけ血を流すことでのし上がってきた男のなかに、どれだけの血が流れてたか?というのが、この『藪原検校』の物語の根幹なわけで。だから『血』が一つの主役かなという気はしますね」



「血」ということでいえば、野村萬斎は狂言師の家に生まれ、そこに留まらず、現代劇の舞台に立ち、演出し、映画やドラマにも、才能の矛先を拡張してきた。自身のDNAの冒険を、どう捉えているのだろう。



「おかげさまで毎年、楽しいですね。『30歳になったら狂言に専念しなきゃ』が『40歳になったら』になり、もう46歳になってしまった。50歳になったら、いい加減、狂言に戻ろうか。そう言いながら別の舞台に居るんだろうなという気はしますね」



では、常に「いつか専念しよう」という感覚はある?



「そうですね。でも、これだけ、それぞれの世界で身につけてしまったものがあったり、経験値があがってきたりすると、面白さは倍増してるかもしれないですね。映像の世界だけは、トシをとると、使い物にならないんだろう、と思いつつ、40歳を過ぎてもまだ主演させてもらっている(2012年には主演映画『のぼうの城』が公開される)というのは、ありがたいことだなと思ってますけど。60歳になったら、さすがに専念してるんじゃないですか?(笑)でも、そんなこと言ってて、狂言に戻ってなかったら、何を言われるかわからないけど(笑)」




取材:相田冬二 撮影:平田光二










野村萬斎'S ルーツ



やはり狂言です。僕は基本的に、演出家や俳優とは名乗らない。「狂言師 野村萬斎」としか名乗らないですから。そういう意味でも、すべてのルーツが狂言。僕の演出的発想、演技的発想の根本にはやっぱり狂言があります。





野村萬斎(のむら・まんさい)プロフィール


「狂言ござる乃座」主宰。国内外で多数の狂言・能公演に参加、普及に貢献する一方、現代劇や映画・テレビドラマの主演、舞台『国盗人』『マクベス』『サド侯爵夫人』の演出など幅広く活躍。94年に文化庁芸術家在外研修制度により渡英。文化庁芸術祭演劇部門新人賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞、朝日舞台芸術賞、紀伊國屋演劇賞等を受賞。2002年より世田谷パブリックシアター芸術監督を務めている。











井上ひさし生誕77フェスティバル2012 第四弾

こまつ座&世田谷パブリックシアター公演『藪原検校』



2012『藪原検校』


作:井上ひさし

演出:栗山民也

出演:野村萬斎/秋山菜津子/浅野和之/小日向文世/熊谷真実/山内圭哉/たかお鷹/大鷹明良/津田真澄/山﨑薫/千葉伸彦(ギター奏者)

日程:2012年6月12日(火)~7月1日(日)

会場:世田谷パブリックシアター

チケット料金:8,500円 他

当日券:あり

お問い合わせ先:世田谷パブリックシアターチケットセンター 03-5432-1515(10時~19時)

公式サイト









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後ろへ下がろうとする集団(笑)大人計画、平岩紙 http://www.webdice.jp/dice/detail/3469/ Wed, 28 Mar 2012 17:53:34 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



下北沢本多劇場で『ウェルカム・ニッポン』を公演中の大人計画、俳優・平岩紙氏のインタビューをお届けします。




webDICEの連載・Artist Choice!のバックナンバーはこちらで読むことができます。












平熱と熱血をゆく人



この人の、少女時代を思う。うっすら、その姿が見えてくる気がする。たぶんクラスの中心人物ではない。かといって、すみっこでいじいじと、膝頭だけを見つめている感じでもない。どちらにも属さない、ゆるりとした佇まい。



「たしかに、友だちとべったり付き合う方ではなかったですね。一度だけ、学校に行ってみたら、私以外の女子全員が、同じ色のゴムで同じ髪型にしてきたことがあって。でも私がそれに気づいたときは、すでに授業中でした(笑)」



ああそうか今日は私が"対象"なんだ、と悟りながらも心はそんなに動じない。なぜなら彼女は当時から「学校だけが世界のすべてだとは思っていなかった」から。



「家族も大好きだったし、相棒みたいな友だちもいたし。好きなものだけを見て、見たくないことは見ないようにしていましたね。算数とか、平気で0点を取ったり。たまに『一回くらい、90点超えしてみよう!』って思い立って、一夜漬けで猛勉強して、実際に90点台を取ってしまうと、そこで満足してやめちゃうんです(笑)」



とにかく、愉快なことをしていたい。その一念が、10代だった彼女の進路を指し示す。



「吹奏楽部にいたので、まずは音大かな、と思ったんですけど、ピアノの試験があるから断念して。次は"カメラマンとか?"って勝手に思いついたんですけど、その専門学校ではデッサンの試験があったので、ちょっと無理だなと。それでなんとなく、俳優さんってどうだろう、と思ったんです」



そこで意外にも母親が背中を押す。プロを目指すなら、大阪の実家を出て、東京の演劇学校へ行くようにと。
「まさか一人暮らしをするつもりはなかったのでびっくりしました(笑)。だって、何が何でも舞台俳優になるぞ!!っていう感じではなかったんですよね。できるかどうかわからないけど、やってみるかなあ……みたいな。自信も何もないまま、勢いで、東京に来てしまって」



そして多くの舞台人を輩出する、舞台芸術学院へ入る。



「バレエとか日舞とか、いろんな授業があるんです。だけどやっぱりここでも、好きなものだけをやっていました(笑)。演技実習の時間だけは皆勤賞でしたね。既存の台本を、グループに分かれて、自分たちで考えて、発表して。それが本当に楽しかった。『あー私は本当に演技が好きなのかも』って思ったらもう、じっとしていられなくて。学校を出て、一度この道から離れたら、私はきっと我に返ってしまって、恥ずかしすぎて戻ってこられない気がする。だからこの波に乗ったまま、卒業したらすぐにでも、この仕事に就きたいと思ったんです。演劇の養成所とかも考えたけど、足踏みするのは嫌だと思って、速攻で実戦に出られる方法を探していたら、ものすごくいいタイミングで、友だちがチラシを持ってきてくれて」



劇団「大人計画」、オーディションの告知チラシだ。



「大人計画はそれまでに2回ぐらい、友だちに勧められて観に行ったことはあったんです。この人たち、すーごく面白いけど、すーごく怖い!って思いました(笑)。まさか自分が劇団員になろうとは、思ってなかったですけどね」



……さあ、ここからのオーディション話が、何というか、ちょっとすごい。









思った通りに、やってみる




「書類審査に残ったのが、男子10名、女子10名。実技審査の課題は『2分半の自己PR』だったんですけど、特にPRすることもないので、ホルンを持って行って。そしたらみんな『NYでストリートダンスをしていて』とか、何だか華麗な経歴をわーっとしゃべっていて。うーわ、私、間違えた!って思いました」



しかしもう引き返しようがない。順番が来て、前に出て話しだす。ヒライワといいます、専門学校を春に卒業します、それで、えーと……次が出てこない。静寂が全身に刺さる。彼女は耐えきれず、素直に白状することにする。今日は何か特技をするんだと思って、ホルンを持ってきてしまいました、と。



「『じゃあ吹いてみてよ』って松尾(スズキ)さんに言われて、あわてて楽器を組み立てました。カチャカチャカチャ……っていう音だけが響いて、もう一刻も早く帰りたい!と思いました」



そして彼女は装備を整える。大きなホルンを組み上げて、カバンから大きなサングラスと、遊園地で買ったヒョウ柄のかぶりものを取り出して、装着。



「視界が暗いと、気持ちが楽になれるじゃないですか。それと、ここらへんを防護して吹けば、なんか大丈夫じゃないかと思って」



側頭部とほほ骨のあたりを指しつつ、彼女は話を続ける。



「今思うと、狙ってるみたいでものすごく恥ずかしいんですけど。でもあの時は本気で怖かったし、それにこれで最後だし、準備してきたし、着けるだけ着けよう!って思ったんです。松尾さんに『え、それ着けなきゃ吹けないの?』って聞かれて、『あ、一応、はい』って答えて、『風の谷のナウシカ』を吹きました」



事前の音出しもできず、楽器も温まっていないため、わりとしっちゃかめっちゃかのナウシカを吹き終えると、彼女は「すみませんでした」と頭を下げたという。



「宮藤さんだけがワーーッと笑っていた、っていう光景しか、記憶にないです。受かるはずがない、早く帰ろう、ってホルンを片付けながら思いました」



しかし、これが受かってしまうんである。



「本当に私はラッキーだと思います。大変な思いも味わったことがないし、学校時代の友だちも、芝居を続けている人は決して多くはないし。なのにこうして居場所に恵まれて、この仕事だけで生活できるというのは、本当に幸せなことだなあと」



ふうわりと、そう言う。この人になら、そういう幸せもありうると思う。何らかの無理や苦労を元手に、自分の身を他者にすり合わせるのではなく、自分がただ素直でいることによって、出会えたものたちと共に幸せでいる。



「まずは、自分が思った通りにする。っていうのを自分の中で決めているんですけど。昔とある現場で、自分の中にすごく違和感があるのに、言われた通りにやってしまって、オンエアをみてひどくがっかりしてしまったことがあって」



幸せな人は、不幸せについても敏感だ。



「劇団外のお仕事だと"大人計画の人"っていうプレッシャーをわりと感じていたんですけど、でも、今は違いますね。たしかに大人計画の人間だけど、私は普通の人間だ!って思ってやるようにしています(笑)」



普通、という揺らがぬ軸。それを獲得して、彼女はさらに飛躍する。








Choice!「アーティスト・チョイス!」平岩紙





後ろへ下がろうとする集団



ああ、ここは本当に私の居場所だ。そんなふうに思うことが、彼女には、ままあるという。たとえば、新作の初めての本読み稽古。読めない漢字があって、先輩に尋ねていると、向こうの方では別の先輩が、漢字を読み間違えて松尾に正されている。あるいは、駅から稽古場への道中。前を行く劇団員を見つけても、追いついて声をかけるということを誰もしない。同じ速さで、同じ間隔をおいて、稽古場へ向かう劇団員たちの列。



「つながっているんだかいないんだか、このドライな感じが心地いいんですよね。ふわあっと稽古場に入っていって、なんとなく様子をうかがって。自分は今回ここが頑張りどころなのだと思うところがあったら、そこを頑張りつつ、様子を見つつ」



様子を見る、というのがこの劇団のデフォルトらしい。



「全員が舞台上に出るシーンだと、みんな何となく、後ろに下がろうとするんです(笑)」



大人計画の凄みはここにある。我が我が、というわけでもないのに、あふれかえってしまう個性の泉。それを2時間強にわたって浴びせられても決して胸焼けしないのは、彼らの根底に何らかの慎ましさがあるからだ。



「松尾さんにすごく変な動きをつけられても、繰り返すうちに"あ、なんかしっくりくるな"っていう瞬間があるんですよね。最終的には、役者オリジナルの動きみたいに見えてくる。だから外の仕事に行くと、最初から面白い人だと思われてるみたいで"さあ、やっちゃってくださいよ、平岩さん!"って言われてしまうんですけど(笑)」



しかしその事態は同時に、彼女への期待も注目も上がっていることの証でもある。



「最初はほんの小さな役でもどきどきして、大きな声が出なかったんです。それがものすごいコンプレックスで、(劇団の先輩の)村杉蝉之介さんに相談したら"数を踏めば踏むほど、びっくりするくらい出るようになるよ"って言われて。今考えてみると、確かにそうなんですよ。昔は出なかった声が、今は普通に出るようになっている。少しずつでも成長しているんだ、っていう実感があって、今はそれが楽しいですね。自分の成長とか変化とか、そういうものを感じる余裕が、できてきたのかもしれないなーなんて」



そう言われて、思い出す光景がある。2006年、廃校になった校舎で行われた『大人計画フェスティバル』。文化祭のように、各メンバーがやりたいことを1から準備して披露する、そのイベントの中で彼女は「紙オケ」なる企画を立てた。方々から集めた有志による吹奏楽の合奏会。演奏も練習も、仕切りは全部、平岩紙。ステージに現れた彼女の、凛々しさというか何というか、"引き受けた覚悟"感がただごとではなかった。



「ああ、あれは経験として、すごく大きかったと思いますね。最初はほんとに自信がなくて。みんな、吹奏楽だけ聞かされたところで、どうなんだろう?って。でもとにかくやりたかったんですよ、合奏が。部活以来だったから。ずっと温めてた夢が叶う!っていう喜びで、人を集めて、8ヶ月ぐらい練習して」



自分たちが持っているものを、とにかく全部ぶつけよう。全員でそう誓い合って、全員がその持ち場に着く。



「演奏を終えたらものすごい拍手で、泣いてくださってる方も見えて。私も緊張の糸が切れて、やってよかった!って思って泣いちゃいました」



そんな経験を経て、彼女が得たのはたぶん余裕だ。頑張れば、あそこまで行ける。そんな実感ひとつで、世界は変わって見える。平岩紙はそうやって、一歩ずつ、歩を伸ばしてきたのだ。







ブレない定点を目指して



素直な人だと改めて思う。目の前で起きたことを受け取って、笑ったり悩んだり、くすんだり体当たりしたり、やがて大切な何かをその手につかんで、彼女のペースで、歩いて、来た道を帰っていく。



「いつも、ゼロに戻ってる気がするんです。初顔合わせのたびにむちゃくちゃ緊張するし、読み合わせも、その後の稽古も、いちいち緊張してしまう。なんでこんなにうまくならないんだろう、って毎回思います」



そんなふうだから、与えられたせりふの真意に本番中に気づいたなんていうことも、あったりしたり、しなかったり。



「でも芝居を観る側として考えると、お芝居の全てを理解しきれなくても、楽しめたりしますよね。謎が残されている方が、むしろ余韻として、あとで思い返せたりする。私が好きなのはそういう余地のあるお芝居なので、自分が出演するときも、どこか曖昧な部分を残した人物を演じるのが好きなんです」



だから、プライベートでもみっちりと役柄の人物造形について必要以上に考察をめぐらせたりはしない。自分が俳優であることも忘れて、散歩とか、買い物とか、ごく普通のことをするのが好きなのだという。



「あと、家でラジオを聞きながらごろごろするのも好きですね。平日昼間の、AMラジオ。何十年も続いている長寿番組とか、あのブレなさが好きです。自分さえブレなければ、一度離れた人も、いつか戻ってくる。そんな感じがして」



定点。平岩紙の魅力のひとつはそれだ。飛び抜けて華麗でも突飛でもないけれど、画面や舞台のどこかで彼女は確かに、素直な色を醸しつづける。それを人はよく「存在感」なんて呼ぶんだろう。



「人生におけるすべての経験に、全部意味がある仕事だと思うんです。うれしいことも、悲しいことも。だからこそ、この仕事に就いてよかったなあと今あらためて思います」



そう言って彼女はきらきらと笑った。











平岩紙's ルーツ



小学校の時から、ごっこ遊びが好きでした。



学校の帰りにヘリコプターが飛んでいたら、狙われた犯人の気持ちになって逃げまわったり。水筒のお茶で酔っぱらいのふりをしたり。完全に、ひとり遊びの世界でした(笑)。





平岩紙(ひらいわ・かみ)プロフィール


2000年大人計画入団。同年上演されたミュージカル『キレイ~神様と待ち合わせした女~』で俳優デビューを果たす。その後現在に至るまで、舞台、映画、ドラマ、ラジオ、声優まで幅広いジャンルで活躍。2006年には吹奏楽団「紙オケ」を結成し、特技のホルンを披露した。最近の主な作品に、舞台『母を逃がす』『奥様お尻をどうぞ』、ドラマ『蜜の味』(CX)『本日は大安なり』(NHK)、映画『ハッピーフライト』『ゲゲゲの女房』などがある。2012年3月には大人計画『ウェルカム・ニッポン』に出演する。












大人計画『ウェルカム・ニッポン』




作・演出:松尾スズキ

出演:阿部サダヲ、宮藤官九郎、池津祥子、伊勢志摩、顔田顔彦、宍戸美和公、宮崎吐夢、猫背椿、皆川猿時、村杉蝉之介、田村たがめ、荒川良々、近藤公園、 平岩紙、アナンダ・ジェイコブズ、松尾スズキ、青山祥子、井上尚、菅井菜穂、矢本悠馬

公式サイト



東京公演

会場:下北沢本多劇場

2012年 3月16日(金)~ 4月15日(日)



大阪公演

会場:シアター・ドラマシティ

2012年 4月18日(水)~ 4月22日(日)



大人計画『ウェルカム・ニッポン』











厳選シアター情報誌

「Choice! vol.24」2012年03-04月号




厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の"オビ"としても無料で配布されています。



毎号、演劇情報や映画情報を厳選して掲載。注目のアーティストをインタビューする連載"Artist Choice!"の他にも作品紹介コラム、劇場紹介など、盛りだくさんでお届けします。

公式サイト










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演劇集団キャラメルボックス 俳優・西川浩幸インタビュー 「馬鹿みたいに、芝居をやるしかないじゃないか」 http://www.webdice.jp/dice/detail/3302/ Fri, 11 Nov 2011 15:37:37 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



今回は、キャラメルボックス2011クリスマスツアー『流星ワゴン』で瀬戸際を迷う人々の物語を演じる演劇集団キャラメルボックスの西川浩幸氏インタビューをお届けします。




webDICEの連載・Artist Choice!のバックナンバーはこちらで読むことができます。













ピースサインで、終われたらいい



「馬鹿みたいに、芝居をやるしかないじゃないか」。彼は劇団の緊急会議でそう言ったのだという。すべてが哀しみに押し流された、あの3月。数々のライブや演劇が公演中止を決め、キャストやスタッフ一同が沈鬱な空気に飲まれる中、この人はそう言った。「僕らには、芝居があるじゃないか」と。



「その時点で僕らが公演をする予定だった劇場が、ふたつあって。参加できる劇団員がたくさんいる。ほとんど全員が勢ぞろいできる日まである。これって、すごく恵まれた状況じゃないか?これなら、何でもできるじゃないか!と」



といった温度が高めのことを、西川浩幸は何とも平穏に語る。旗揚げ当初から、演劇集団キャラメルボックスの顔であり、支柱である。



「状況が、きわめて限られている。だからこそ工夫が生まれるわけだし、それにこれだけ大勢のメンバーがいるわけですからね。誰かが何かに長けているだろうし、誰かが何かを思いつくだろう。これは、受け取りようによっては、チャンスなんじゃないかと。劇団の今日明日うんぬんではなく、もっと大きな規模で、この星のこれからだって変えられる、千載一遇のチャンスなんじゃないか!って、会議ではひとりで盛り上がってしゃべりまくってました(笑)」



そもそも、チャンスなんてものは普通、ないのが基本だ。チャンスは訪れるものではなく、「これはチャンスなのだ」と思える力のことをいう。



「たとえば“なんか今日はよくつまづくなあ”っていう日があったとして。足の筋肉が弱ってるのかもしれない、と思ってその日からジョギングを始めたら、その人の身体は確実に変わっていきますよね。いいことでも悪いことでも、些細な何かに気づけるかどうかが、鍵なんじゃないかと思うんですよ…って、元気なときには思えるんですけどねえ」



そう、元気なときには。気づくどころか、顔を上げることさえできない夜が、人生にはわりとしょっちゅうある。



「お芝居をしてない間は、毎日の反省がものすごく大きいです。特に観たいわけでもないのにテレビを観たり、ツイッターを開いたりしているうちに日が暮れて、なんとなーく1日が終わってしまう。“こうやって終わっちゃうんだよ人生は!!”って激しく悔いるんですよね」








おろしたてのシャツのように



おそらく、誰もが身に覚えのある光景ではある。じゃあ、どうすれば日々は充実するのでしょう、と尋ねると、返ってきたのは即答だった。



「早起きだと思います!」



もちろん、皆、そうしたいのはやまやまだけれど。



「朝起きた瞬間が好きなんですよ。新しい、白いシャツを買ったときみたいな感じがして。かっこいいじゃないですか、おろしたてのシャツって。僕が着ると大して似合わなかったりもするんですけど(笑)」



青空の下、陽の光を反射して、白くはじける綿の質感。



「ぱん!って広げた瞬間の、あの感じが好きなんです。大切に着よう、って思うんですよ。白いシャツだからこそ、余計に。そういう感覚が、朝、目覚めた瞬間にあるんです」



目が覚めることの喜び。彼の場合、それはひとしおのはずである。4月、西川は突然の病に倒れた。自分で異変に気づき、救急車を呼び、示された台に横になる。



「とても、冷静ではあったんです。でも何秒か後に、このまま意識がなくなってしまうのかもしれない、と思ったらものすごく怖くて」



死、の一文字がその時よぎったのかどうかは、彼しか知らない。でも少なくとも、その一文字について、人は無力だ。それと直面する者の心を、人は、完全には共有することができない。そして自分がそうなった時も、自分で、それと格闘する他ない。願うのはただ、その瞬間、その人の心が"ひとり"ではないこと。



「誰にでも、その瞬間は訪れるじゃないですか。本当にあっという間に、その時はやってくる。その受け入れ体勢を整えるための時間が“生きる”ってことなんだと思うんですね。最期の瞬間にピースサインで“いい人生だった!”って言えれば、きっといい。ただ、それがいつ訪れるのかが、誰にもわからないんですよねえ…」



この冬、彼はそんな瀬戸際を迷う人々の物語を演じる。



「Choice! vol.21」2011年11-12月号







思い残すことがあるだけで、その人生は素晴らしい。



「死んじゃってもいいかなあ、もう」。物語はそんな自嘲から始まる。言わずと知れた重松清のベストセラー小説『流星ワゴン』。その舞台化に、演劇集団キャラメルボックスは挑もうとしている。妻との齟齬、息子の不登校、父との確執。すべてに疲れ果てた主人公の前に、1台のワゴンが停車する。乗っているのは一組の親子。こまっしゃくれた少年と、穏和に微笑む父親だ。主人公が乗り込むとワゴンは発車し、彼のこれまでの、いくつかの岐路へと導いていく。



「ふたりは、主人公の話を、ただ聞くんですよね。何を問われても、答えはしない。口出しもしない。ただ、聞くんです」



導かれた先で、主人公は“やり直し”を許される。しかしどうあがいても、その先の結末はまるで変わらない。一体これはどういうことなのか、この旅に何の意味があるのか。何度問われても親子は答えず、ただ、微笑む。



「何も言えないですよね。誰かの人生について何かを言うっていうことは、その人の人生の一端を担うっていうことだから。それくらいの覚悟がないと、できないことだと思います」



劇団における西川の立ち位置を思う。観客の多くが知るとおり、彼が目指すのは独走ではない。しかし、日々悩みの淵にある後輩たちに対して、稽古場での彼が何かを語り諭すことは、ほぼない。ただ彼らの奮闘を見つめ、そして自分の仕事を示す。若者たちは、その真意を後になって知る。それぞれの奮闘の果てに、それぞれのタイミングで。そして西川自身もまた、大いに迷いの人である。インタビュー取材のたびに、その時々に胸を占める葛藤と、その果てに在った発見とがあふれかえる。



「小さなことに喜んだり悲しんだりできる人が一番、まわりから見たら魅力的だし、中身の濃い生き方をしてるんじゃないかなあって最近思うんですよ。…って、変な話ですよね。人生に、“濃い”も“薄い”もないのに」



自問をし、自答をして、そこにさらなる自問を重ねる。決して器用な思考法ではない。でも、だからこその人間味が、彼が演じる人物にはある。



「よくぞこのタイミングで、この役が巡ってきたなあと思うんです。この春から自分が感じてきたことの、大きな集約点になりそうな気がします」





今朝から、スタート。



芝居をする、という感覚がどんなふうだか、私たちは知らない。どこかの誰かがのりうつるとか、登場人物の人生を真に生き直すとか、“3日やったら辞められない”とか、そういった類の都市伝説は聞いたことがあっても、その実感については想像の域を超えている。しかしこの人と対話していると、それは実にシンプルなことのように思えてくるのだ。目の前にある何かに気づき、それに沿って心を動かすこと。例えば相手役の表情だったり声色だったり、客席から不意に飛んでくる笑いや涙の気配だったり。そしてそんな営みは、私たちの日常生活にだって置き換えられる。日に日に増してくる冬の匂い。脇道を行く猫のしっぽ。それらのものに、妙に心が冴えわたる日というのが、きっと誰にもあるはず。演じるという営みは、彼にとってはその延長線上にあるものらしい。



「お芝居ってたいがい、そういう側面を持っているんですよ。その役を演じることで経験値が上がって、今までとはちょっと違う自分になれてしまうような感覚が。生死というものに向き合わざるを得なかった僕が、既に死んでいて、死のうとしている人を迎え入れる男を演じる。一体どんな実感が待っているんでしょうね」



だから、西川浩幸は芝居をやめない。続けている限り、知らなかった自分をまたひとつ、知ることができるから。経験を重ねれば重ねるほど、可能性は広がるばかりだ。



「よく“今日が人生最後の日だとしたらどうしますか”っていう質問を見ますけど、たぶん24時間あれば、その人がどう生きてきたのかっていうことが全部そこに出ると思うんですよ。もし“それじゃ全然足りない”って思えるのなら、その人の人生はそれだけ充実していたということ。思い残すことがあるっていうのは、実はとても素晴らしいことなんじゃないかと」



だからもしあのワゴンが自分の目の前に止まったら、その日の朝に戻りたいのだそうだ。華やいだ青春時代でも、悲しみや怖れにふるえたこの春以前でもなく。まっさらの白シャツみたいな、今日の朝に。すべての日々は、そこから始まる。





取材:小川志津子 撮影:平田光二










西川浩幸'S ルーツ



幼稚園の時、先生が歌をほめてくれたこと。



最近、なでしこJAPANの澤穂希さんの本を読んでいるんですが、彼女も幼い頃にボールを上手に蹴れたことが最初のきっかけだとか。ほめる、っていうのはすごく大事なんですね。




西川浩幸(にしかわ・ひろゆき)プロフィール


演劇集団キャラメルボックス所属。1986年の入団以来数多くの作品に出演。劇団を牽引している。主なキャラメルボックス出演作に、『銀河旋律』『サンタクロースが歌ってくれた』『エンジェル・イヤーズ・ストーリー』『容疑者χの献身』など。外部作品への出演も多く、舞台、テレビ、CM、ラジオなど幅広く活躍している。次回作は、キャラメルボックス2011クリスマスツアー『流星ワゴン』。









キャラメルボックス2011クリスマスツアー

『流星ワゴン』



原作:重松清

脚本:成井豊

演出:成井豊+真柴あずき

出演:阿部丈二/西川浩幸/大森美紀子/坂口理恵/岡田さつき/菅野良一/前田綾/岡内美喜子/畑中智行/三浦剛/林貴子/原田樹里

日程・劇場:

【神戸】11/18(金)~25(金) 新神戸オリエンタル劇場

【東京】12/3(土)~25(日) サンシャイン劇場

チケット料金:6,500円 他

当日券:あり

お問い合わせ先:キャラメルボックス03-5342-0220(12~18時 ※日祝休み)

公式サイト















厳選シアター情報誌

「Choice! vol.21」2011年11-12月号




厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の"オビ"としても無料で配布されています。



毎号、演劇情報や映画情報を厳選して掲載。注目のアーティストをインタビューする連載"Artist Choice!"の他にも作品紹介コラム、劇場紹介など、盛りだくさんでお届けします。

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舞台『朱雀家の滅亡』出演、俳優・木村了インタビュー “変わりゆく姿もさらすのが仕事” http://www.webdice.jp/dice/detail/3208/ Tue, 13 Sep 2011 18:44:59 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



今回は、現在公演中の作・三島由紀夫、演出・宮田慶子の舞台『朱雀家の滅亡』に出演している俳優・木村了氏のインタビューをお届けします。




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自分の足場を踏みしめて歩きたい

芯が欲しくて。



惹かれるのは、ゲーリー・オールドマンなのだという。理由は「高い演技力」でも「独特の存在感」でもなく、「あまりに自然すぎて、出ていても、気づかないときがあるから」。



「俺はこうしてやろう、こういうふうに演じよう、みたいな自我が見えないんですよね。作品の世界に、本当に住んでいる感じ。だから違和感がまったくなくて、エンドロールで『あっ!』となる。改めてもう一度観返すと、要所要所ですごい技術を駆使しているのがわかるので、圧倒されます」



経歴は、実に華やかだ。14歳のとき、イケメン輩出の殿堂とも言うべき「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」で審査員特別賞を受賞。2年後に初めての映画『ムーンライト・ジェリーフィッシュ』で藤原竜也と共演。陽の光に当たることのできない病を生まれ持つ、主人公の弟役で無垢な天性を発揮した。



「今思えば、あのときは感受性だけで芝居をしていたなあ、と。右を見ても左を見ても、初めて見るものばかりで楽しくなっちゃったんですね。主義も信念も特にないまま、ただただ、のめりこんでいった感じで」



ただ、そのときにひとつ、刺さった光景があった。



「藤原さんが、本番前に何度も何度も、次のシーンをひとりで練習されるんです。かっこいい、と思いました。“役柄が”とか“芝居が”ではなく、演じるという行為そのものが、こんなにかっこいいものなんだ、と」



やがて彼は数々の現場で、数々の先輩に出会い、役者人生には数々のスタイルがあることを知る。



「高校を卒業する頃、思ったんです。この世界で自立しなきゃいけない。自分の芯になる何かを持たなくちゃいけない。それがないままこの道を進んでしまったら、この先、きっと壊れてしまうと思って」



慧眼の人である。字幕も読めない幼い頃から、親に連れられてビデオ屋に行き、親がチョイスした映画を観ていた。テレビ画面の中で今何が起こっているのかを、アンテナ全開で察知する日々。わからないものを、全力でわかろうとする日々。観察力や分析眼については、ある意味、英才教育である。



「自分の感受性だけを武器にしてきたことは確かだけど、それはそれでいい。捨てるものでもないし。でもこれからは、自分の範疇外の役でも演じきれるような、無色透明な役者になりたいと思ったんです。何にも固定されない、自由な役者に」



そう聞かされてから、彼の出演歴に目をやると、ちょっとのけぞる。人気映画のリメイクで話題となったドラマ『WATER BOYS2』(04年、CX系)以降、ほぼすき間なく、何らかの連続ドラマに出ている。映画はだいたい年2本ペース。舞台だって7本。“自由”にも程がある。



「何でも考え過ぎちゃうんですね、僕は。台本を読み込んでしまうと、がっちがちに役作りを固めてしまって、その通りにしかできなくなる。なので、ドラマの台本はあえて読み込まないようにしています。あとは現場で感じたままに演じたいので」



何かが、降ってきたんです。



自由になりたい。なのに、自分が自分を、不自由にしている。そのせめぎ合いはきっと年齢を問わず、誰の心にもあるはずで、だからその壁と誠実に向き合っている役者ほど、観る者を惹きつけるのだと思う。



「『赤と黒』っていう舞台に出たときのことなんですけど」



09年、赤坂RED/THEATERで11日間だけ上演された作品である。フランスの文豪・スタンダールによる代表作の舞台化だ。



「それまでは舞台の仕事に対して、そんなに特別視はしていなかったんですね。だけどそのときはすごくハコが小さくて、舞台袖に入ったらすぐ全員一緒の楽屋、なんですよ。そこで開演前に準備してたら、急に、何かが頭の中に降ってきたんです」



出演者たちが、楽屋に集まる。何を申し合わせるでもなく、それぞれの方法とタイミングで、ウォーミングアップやメイクを始める。時間が来ると、壁ひとつ向こうに観客のざわめきが聞こえだし、やがて明かりが落ちて、すべてが始まる。




「ドラマや映画の現場では、それぞれ楽屋が違うわけです。でもそのときは鏡越しに、みんなの様子が全部見えた。ああ、舞台ってこういう世界なんだ…!っていう実感が、すごい勢いで湧いてきて。僕はこの世界が好きだ、ってはっきり思いました。あと、舞台袖で落ち着いてる役者さんって、実はそんなにいないんだな、とも(笑)」



演じる者同士の、何らかの波長とその共鳴。それが直接客席へ響いていくから、演劇はやっぱり刺激的だ。むろん、決して、和音に限らず。ほんの一瞬入る異質なノイズこそが、実は醍醐味だったりもする。それはきっと、人生だって同じこと。



「新しく担当になることが決まったマネージャーさんに、一度聞いてみたことがあるんです。僕って、どういうイメージですか?って。そしたらすごく率直に答えてくれたんですね。“木村了、と言われても、パッと顔が思い浮かばないです”って。もちろん痛い言葉だったけど、でもすごくリアルな意見だなと思って。よし、じゃあもっと頑張ろう、って素直に思えたんです」



自分の立ち位置を確認することにおいて、彼はきわめて貪欲だ。やわらかな砂地の道を、自力で踏み固めながら進む。



「そうしないとたぶん、不安でしょうがないんですね。土台をまず作ってから、その上にいろいろと積み上げていきたい。今はその作業の真っ最中で、これからもきっと終わることはない気がします」





Choice! vol.21






変わりゆく姿もさらすのが仕事

わかりやすい、と言われたい。




そんな木村了を、新たな大仕事が待っている。新国立劇場小劇場で9月に幕を開ける『朱雀家の滅亡』。三島由紀夫が晩年に遺した戯曲を、宮田慶子の演出で舞台に乗せる。太平洋戦争の末期。古くから天皇家に仕えてきた侯爵家の朱雀家。天皇への固い忠誠を胸に、誇り高く人生を重ねてきた当主・経隆(國村隼)が、天皇のために首相を失脚させ、自らも辞職して帰宅したところから物語は始まる。木村が演じるのはその長男・経広。父親譲りの"誇り"のために身を律して、敗色の濃い戦地へ出征、その命を落とす。



「三島作品については『弱法師』(08年、新国立劇場)でも実感したんですけど、語調とか比喩表現とか、とにかく“どうしてこんな書き方をしたんだろう”というところから読み解いていかないと太刀打ちできないんですね。演じる側が何もわからないまま、技術だけでごまかそうとしてしまうと、お客さんにはまるで伝わらない。“三島由紀夫の、何だか難しいエンゲキを観てきた”で終わってしまったら、やっぱりもったいないじゃないですか」



自らが演じる「経広」については、「本当はすごく臆病だけど、言葉や立ち振る舞いでそれをひた隠しにしている」と分析。



「僕は僕、みんなはみんな。僕の世界にみんなは関係ないし、誰も入ってこない。三島作品には、そういう人物像が必ず描かれているんですよ。そしてその気持ちは裏を返せば、“僕を理解してほしい”っていうことなんじゃないかと思うんです。僕が叫ぼうと暴れようと、みんなは気づいてくれないし、理解しようともしてくれない。立場や外見や弱々しさから、愛情を注いではくれるけど、でもそれは僕が欲しい愛ではない。そういう複雑な心境が、三島作品の根底には流れているように思うんですけど…」



…でもなあ。三島作品を長く愛してこられた方たちに言わせれば「何言ってるんだこのワカゾーは」ってとこなんだろうな…などとつぶやきつつ、木村は続ける。



「ぱっと見はわかりづらくても、三島さんは本当に、自分の気持ちをストレートに書いていらっしゃると思うんです。それに一度気づくことができれば、ものすごく胸を打たれる作品だと思うんですよ。だから、僕が役者として媒介になることで"木村了がやるとわかりやすいね"って言っていただけるようになりたい、というのが今の思いです」



わからないものをわかろうとする、ことにかけては底知れず貪欲なワカゾーが、今回は観客をも“わからない”では帰すまいと心に決めている。ワカゾーも、そうでない人も、ここはひとつ、その情熱に身を委ねてみるのもいいかもしれない。



“絞りきる”美しさを



今回の『朱雀家の滅亡』は、“滅びゆくものに託した美意識”をテーマに上演される。そこでためしに尋ねてみた。木村了が、美しいと思うものについて。



「山(即答)!絶景の名所とかそういうんじゃなくて、普通の田舎にある、普通の山。不思議ですよね。どうしてあんな形をしてるんだろう。誰かがどうこうしたわけじゃなくて、自然に、あの形になってる。それがどんなにイビツでも、しっくりと風景に馴染むでしょう。なんか単純に、すげーな、って思う」



ただし、登らないのだという。あくまでも、見るだけ。



「あと、美しいと思うのは、藤原(竜也)さんのあり方。芝居の始めから終わりまでずーっと、身体の奥底から、最後の一滴まで絞り出し続けている姿は、もはや芸術に近い美しさだなと」



渾々と湧き上がる泉ではなく、自らが、渾身の力で“絞り出す”何か。



「そう、それです。僕はたぶん、普通に蛇口をひねったら、ちょろちょろっ、と出てくる程度だと思うんですけど(笑)、でも、ああなりたい、って思うことはありますね。あんなふうなお芝居も、してみたいなあって思います。そして『朱雀家の滅亡』が、そうなるんじゃないかな、っていう予感もしています。特に経広の最後のシーンは、かつかつまで絞り出しきらないと厳しいと思う」



かつかつまで、絞りきる。そんな営みを生業とするには、絞りきったスポンジを潤す何かがきっと要る。



「地元にひとり、親友がいるんです。何でも話せるし、特に何にもしゃべらないときもある。生きてる世界も仕事も違うから、ものすごくフラットに話せるんですよね。そいつに言われて、気づかされることがいっぱいあって。いくら自分の足場を固めたいといっても、自分との闘いを続けてるだけじゃ、僕を観てくれる人も、ついてきてくれる人も、いなくなっちゃうんじゃないかと思うんです。それに、僕の祖母から亡くなる間際に言われたんですよ。“天狗にだけはなるな”って。え、今このタイミングで言う!? って思いましたけど(笑)」



木村了が繰り返す自己分析は“自分探し”とはどこか違う。相対する人によって照らされて、ほんの一瞬浮かび上がる自分像を、彼は見極めようとしている。



「今はなんか、自分のあり方としては、すごくいい感じなんですよね。この感覚を、忘れたくない。変わらずに行きたい。ほんと、このまんまでいたいです」



たぶん、もちろん、そうはいかない。時間は誰の身にも流れるし、新しい出会いだってあるだろう。それでもおそらく木村了は、その都度、自分の足場を見据える。人に向き合い、照らし出された自分を見つめて、変わりゆく姿を観客にさらす。だから彼を愛する人たちは、彼から、目が離せないのだ。












木村了'S ルーツ



初めて出演させていただいた映画『ムーンライト・ジェリーフィッシュ』(2004年)。



兄役でご一緒した藤原竜也さんが、本番前に何度も何度も練習しておられる姿を見て、芝居ってすごくかっこいい仕事なんだと思いました。




木村了(きむら・りょう)プロフィール


2002年、第15回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストで審査員特別賞を受賞。その後、2004年に『ムーンライト・ジェリーフィッシュ』で映画初出演、『WATER BOYS2』でドラマデビューを果たす。映画『赤い糸』『東京島』、ドラマ『オトメン』『BOSS 2ndシーズン』、舞台『蜉蝣峠』など出演作多数。現在、ドラマ『絶対零度~特殊犯罪潜入捜査~』、映画『うさぎドロップ』が公開中。2011年9月20日からは舞台『朱雀家の滅亡』に出演する。









『朱雀家の滅亡』

2011年9月20日(火)~10月10日(月・祝)



朱雀家の滅亡


作:三島由紀夫 演出:宮田慶子

出演:國村隼、香寿たつき、柴本幸、木村了、近藤芳正

劇場:新国立劇場 小劇場

チケット料金:6,300円 他

当日券:あり

お問い合わせ先:新国立劇場ボックスオフィス 03-5352-9999

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厳選シアター情報誌

「Choice! vol.21」2011年9-10月号




厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の"オビ"としても無料で配布されています。



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「第三舞台の復活は、ノスタルジーでも同窓会でもない」鴻上尚史インタビュー http://www.webdice.jp/dice/detail/3144/ Thu, 14 Jul 2011 20:25:06 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



今回は、8月に虚構の劇団『天使は瞳を閉じて』の公演、11月に10年ぶりの第三舞台の復活公演が控える鴻上尚史氏のインタビューをお届けします。




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幸福のための、あきらめと決意を。



すべての物事は、巡りめぐる。もうおしまいだと思っていても、案外そうでもなかったりする。二度と逢わないと固く誓っても、いずれ笑い合えてしまったりもする。だから人生ってものは、これでなかなか、やめられない。



この人も、そんな季節を重ねている。大学時代、その才気に火がついて、8~90年代の「小劇場ブーム」を牽引。大高洋夫や筧利夫ら個性豊かな俳優たちを輩出し、異例のロンドン公演まで成功させつつ、2001年、その活動の「10年間封印」を宣言した劇団「第三舞台」。主宰である鴻上尚史は今年、ふたつの再会を仕掛けようとしている。まずは、この夏。1988年に初演された、同劇団の代表作『天使は瞳を閉じて』を、現在彼が率いている若手中心の「虚構の劇団」公演として舞台にのせる。高校演劇での上演希望が、今なお押し寄せる人気作だ。



「ひとつひとつのキャラクターが際立っている、というのが(人気の)理由のひとつかもしれないですね。かつて天使だった人間とか、やりたいことが見つからなくて七転八倒している女の子とか。そして、その人たちの希望と絶望を、ただ見守ることしかできない天使がいる。そんな構図が、共感をいただけたのかも」



描かれるのは、世界の終わりだ。放射能汚染で滅んだと思われた人類が、しかしわずかに生き延びている街を、世界の監視員たる天使が見つける。相棒の天使と共に駆けつけると、彼らはちょうど結婚パーティーの最中で、だから全員が満面の笑顔であり、そのあまりにも幸せな光景に思わず、天使のひとりは人間へと"転職"を決める。残された天使はその日から、彼女と街の人々の日々を、静かに観察することに。



「具体的にお金をもらうわけでも、ほめてもらえるわけでもない。でも、誰かに見守られている、と思うだけでひとつ、生きる勇気を得られるような局面が、人生にはあると思うんですよ」



たとえば、何らかの悲しみに見舞われたとき。孤独を痛感してしまったとき。亡きおじいちゃんやおばあちゃんの顔が、ふと頭をよぎったりする瞬間が、特に日本人には多くあるだろう。



「僕たちは"絶対的に強力な他者"としての神や救世主を想定せずに生きている。かといって、代わりに家族や会社や手近な恋愛にすがるのも、どうも違うと思うんですね。だって、絶対的に強力な存在なんてものはそもそも、どこにもないんだから。何かを頼りにするのではなく、脆弱で無力な何者かを自分なりに想定して、そのまなざしを支えに生きていくのだという、ある種の踏ん切りとあきらめと決意が、この時代には必要なんだと思うんです」




勝ちながら大人になる



大人になる、というのはつまりそういうことのように思う。親とか、先生とか、揺らがぬ指針として心をあずけてきたものたちが、わりとあっけなく、そうでなくなる。そして不意に気づくのだ。そうか、立派に見えた親も先生も、同じように揺らいでいたのだ、と。



「初演のときに"マスター"(編注:劇中、街の人々が集うスナックの経営者)を演じた大高洋夫に、今回も同じ役で参加してもらうんですが、初演当時の大高は29歳だったんですね。そして今は「虚構~」のメンバーが、その年齢に差しかかりつつある。僕らが20代で作った物語を、今20代を生きる彼らは、果たしてきっちり引き受けられるのか。それが楽しみで」



劇団にしろ、バンドにしろ、アイドル・グループにしろ。ひとつの集団を長きにわたって見守る喜びは、おそらくそこにあるのだろう。だんだんと個別認識ができるようになり、ああ自分はこの人が好きだ、と思うようになり、やがて彼もしくは彼女の動向ひとつひとつに、一喜一憂するようになる。




「そしてその役者をある日テレビで見かけたりすると、うわあっ!とテンションがあがりますよね(笑)。観る側の中に、役者の歴史が積み重なっていくというか。それと同時に、その役者は、その歴史を支えられるだけの技量を持ち続けなきゃいけないわけです。その点、「虚構~」のメンバーは大変だと思う。一時期の巨人軍じゃないけど"勝って当たり前"みたいなところで戦ってきているわけだから」



「虚構の劇団」が始動したのは3年前。鴻上自身による綿密なオーディションを勝ち抜いた、即戦力の俳優集団として、その一歩目を踏み出した。



「第三舞台の頃は僕だって、初めてのことだらけだったから、その不器用な試行錯誤のすべてをお客さんに暖かく見守っていただいてたわけですけど。でも「虚構~」のメンバーは「さんざん試行錯誤をし終えた鴻上が、ここへきて一体何をしようとしているのか?」という、どこかシニカルな視線の中を突き進まなきゃいけない。「ほらね? 順調に育ってるでしょう?」と言い切れる結果を残し続けるのは、彼らも、そして僕だって、相当腹を決めてかからなきゃイカンなと思うんですよ」




Choice!20





"手応えが一緒"の確信は最強です





鴻上尚史が仕掛けるもうひとつの"再会"。それが前述の「第三舞台」再始動である。この報にふれて、おおっ、と半腰があがった読者も少なくなかろう。そしてその誰もが、あれから10歳、年齢を重ねている。幾度も訪れる、何らかの希望に青空を仰ぎ、何らかの失望に唇を噛みながら。



「僕のところにも、熱狂的なメールが届きますよ。"復活するんですね!"とか"ホームページを見て号泣しました!"って」



第三舞台の芝居はいつも、希望と絶望にあふれていた。孤独や終末といった絶望を、嘆かず生き抜く術について。あふれかえるギャグとダンスと飛び散る汗の、向こうにあるのは静謐(せいひつ)な覚悟。凛と生きていく、という覚悟である。



「大人でもそうでなくても、それぞれの世代ごとに、向き合わざるを得ない切実な現実があるわけです。だから例えば『天使~』の初演の時に、芝居が胸に刺さりすぎて席を立てなかったお客さんが"今回はあんまりピンと来なかった"となれば、それはそれでとても幸福なこと。だってその人は、はっきりと成長しているわけだから。自分はここまで来たのだと、その道のりを確認していただけたら、僕はむしろうれしいんです」



そしてもちろん鴻上自身も、すっかり50代に突入している。



「第三舞台の復活は、ノスタルジーでも同窓会でもなくて。僕らと同じく40代や50代になった人間が、いま何を考え、いかに生き抜こうとしているか。そこにちゃんと向き合い、描きたいから、このメンバーで芝居をしたいと思ったんです」



前述の大高洋夫をはじめ、小須田康人、筧利夫ら、それぞれのキャリアを重ねてきた面々が顔を揃える。となれば、やはり尋ねたくなってしまう。第三舞台の、来し方行く末について。



「ここまで続けてこられた理由?何だろうなあ……いつも面白くなりそうだから、かな。だって自分が面白がれなかったら、こんなに長いこと続けられませんって!」



その率直な言葉に思う。1990年前後、第三舞台は熱狂の嵐の中にあった。時代を読み取り、掘り下げ、先取りしては作品に織り込む鴻上尚史は、時代の寵児と呼ばれた。チケットは速攻でソールドアウト。公演が始まれば、当日券を求める人の列が、その前夜から長く長く延びる。そして終演後の楽屋口には、これまた出待ちの長い列。あの荒波の中で"自分が面白いと思うこと"の羅針盤を保ち続けるのは、どれほどのことだったろう。



「ええと……忘れた(笑)!だってここで"当時の自分"を語ろうとしたって、それはただの曖昧な記憶でしかない。今の僕が考えているのは、これからのこと、でしかないので」



ややかっこいいことをひとつ言い、たははっ!と笑ってから鴻上は続ける。



「それにね、第三舞台を封印してからの10年間も、僕は芝居を作り続けていたわけですから。それなりの経験値もつきましたし、お客さんの反応もだいたい予想できるんですけど、僕が思わず没入して見入ってしまうシーンはたいてい、お客さんもやっぱり没入しているんですよね。その"手応えがお客さんと一緒"感がある限り、僕は何も怖くない。だから、こうして今があるんです」




演劇は快楽。だから滅びない



そして今。鴻上作品の客席は、何とも不思議なことになっているという。



「昔からずっと観に来てくださっている、年上の先輩方や評論家。あるいは僕らと同世代、つまり中年配のお客さんたち。さらにはその人たちが連れてくる、10代の子どもたち。こんなにも幅広い世代が入り交じる客席というのは、他にないんじゃないかと思えて」



こと、演劇における作品や劇団と観客は、ある種の絆で結ばれている。一度出会ってしまったら、どんなに足が遠のいても、その糸がちぎれることはない。両者が各々の人生を歩き続けているかぎり、不意に「また行ってみようかな」なんて思う瞬間が訪れたりするのだ。



「そして演劇はどんな時代にあっても、絶対に滅びないと僕は思うんです。目の前に人間がいて、そいつがどう生きて、あがいて、泣いたり笑ったりしているのかを、直接目撃できるのが演劇だから。その息づかいや、成長や、ひいては人生までをも共有しあえることが、演劇の快楽なんだと思うなあ」



鴻上尚史が思う演劇。それは「芸術」でも「表現方法」でもなく「関係」である。作り手と役者、劇団と観客。上達したり衰えたり、愛されたり飽きられたり。その継続的な移ろいのすべてを、彼は演劇と呼び、愛している。



「実は第三舞台復活公演の前に『ハルシオン・デイズ』のロンドン公演があるんですよ(編注:8月23日から9月18日まで、リバー・サイド・スタジオにて上演)。正直なことを言ってしまえば、今はそのことで頭がいっぱい(笑)!何しろ僕は純愛派なのでね。一作品ずつちゃんと愛し切らないと、次には進めないんですよねえ」



などと高らかに笑いながら、鴻上尚史は今日も何らかの"関係"をやめない。





取材:小川志津子 撮影:平田光二









鴻上尚史's ルーツ



母親に連れられて観た演劇の記憶と、中学校の演劇部。



子供の頃、母親に連れていかれたいくつかの演劇の記憶と中学校の演劇部がルーツかなぁ。初めて演劇の台本を書いたのが、中学2年。それ以来、高校も大学も演劇部(サークル)でした。




鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)プロフィール


1981年に劇団「第三舞台」を結成。以降、多くの作・演出を手掛け、1987年に『朝日のような夕日をつれて'87』で紀伊國屋演劇賞団体賞を、1995年には『スナフキンの手紙』で岸田國士戯曲賞を受賞。2001年に「第三舞台」の10年間封印を宣言してからは「KOKAMI@network」「虚構の劇団」を拠点に活動。2010年に戯曲集『グローブ・ジャングル』で読売文学賞受賞。8月に『天使は瞳を閉じて』『ハルシオン・デイズ』ロンドン公演の他、11月には「第三舞台」の復活公演が控えている。









虚構の劇団『天使は瞳を閉じて』

2011年8月2日(火)~21日(日)



虚構の劇団『天使は瞳を閉じて』


劇場:シアターグリーン BIG TREE THEATER

チケット料金:4,500円 他

当日券:あり

お問い合わせ先:サンライズプロモーション東京

0570-00-3337(10~19時)

公式サイト



作・演出:鴻上尚史

出演:出演:大久保綾乃/大杉さほり/小沢道成/小野川晶/杉浦一輝/高橋奈津季/三上陽永/山﨑雄介/渡辺芳博 ・ 大高洋夫



















厳選シアター情報誌

「Choice! vol.20」2011年7-8月号



Choice!20


厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の“オビ”としても無料で配布されています。



毎号、演劇情報や映画情報を厳選して掲載。注目のアーティストをインタビューする連載"Artist Choice!"の他にも作品紹介コラム、劇場紹介など、盛りだくさんでお届けします。

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『あぜ道のダンディ』(石井裕也監督)主演・光石研インタビュー “変わらない、んじゃなくて、変われない” http://www.webdice.jp/dice/detail/3030/ Mon, 25 Apr 2011 16:33:56 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



今回は、石井裕也監督の最新作『あぜ道のダンディ』で主演を務める光石研氏のインタビューをお届けします。『あぜ道のダンディ』は、2011年6月18日(土)テアトル新宿ほか、全国順次公開。




webDICEの連載・Artist Choice!のバックナンバーはこちらで読むことができます。











誰でもみんな、自分なりにカッコつけている



市井の人間の、ささやかな誇り。誰もが気どることなく、ごく当たり前に大切にしている何かを、光石研はいつも独特の「匂い」で体現してくれる。岩井俊二、青山真治、李相日、瀬々敬久、そして井筒和幸ら多くの監督たちに愛されている事実は、豊かで裾野の広いフィルモグラフィが証明している。



デビュー作『博多っ子純情』から実に33年ぶり。キャリア2本目の主演作が公開される。タイトルは『あぜ道のダンディ』ーまさに光石のために用意されていたかのようなフレーズである。



「率直に、嬉しいことは嬉しいんですけど、あまりそういうふうには気負わず、普段通り、いつも通り、現場に行こうと心がけていました。こういう話の主演は、ただいちばん最初に名前が出てるだけで、みんなで作って、みんなの映画ですから。なにか力が入ったとか、そういうこともなく普通にやれたと思います」



控え目な物腰から繰り出されるその言葉通り、この新作においても、光石研は一切の誇張から遠く離れた風を画面に吹かせている。風が運んでくるのは、やはり人間の匂いだ。人間には匂いがある、という普遍を体現しているという意味では、確かに「いつも通り」だ。



「どんなヤツなんでしょうかね。とっても言葉が下手で、学もなくて。でも一生懸命にカッコつけて生きようとしてるんだけど、カッコつかないひとだと思うんです。わりとこういうひと、いっぱいいるんじゃないですかね。僕が演じる上では、スーパーマンみたいなことをやるよりは、とっても手がかりがありますね。自分もこういうダメ親父ですので。ダメな中年ですので」



主人公は、妻に先立たれ、男手ひとつで一男一女を育ててきた中年男。イマドキを解さず、時代錯誤なまでの頑さで己が思い描く父親像にこだわる彼が、共に受験を迎えた息子と娘への対処で七転八倒する様を、映画は描く。そのカッコのつけ方は、主義や主張ではなく、彼が彼であるための何かで、純粋な意味で人間的だ。



「僕もこういうタイプの人間ですので。それはやりやすかったですね。近い部分がたくさんあります。世間体気にしてたり……。誰でもみんな、自分なりにカッコつけてるんだと思いますよ。大小はあるにしても」



この俳優ならではの、人間に対するまなざしのありようを感じさせる発言だ。






『あぜ道のダンディ』

映画『あぜ道のダンディ』 (C) 2011『あぜ道のダンディ』製作委員会






見られている、のではなく、見てくれている


 

監督は『川の底からこんにちは』などで注目を集める新鋭、石井裕也。新人監督の作品に登板する機会も多い光石だが、一役者としての低姿勢は常に乱れがない。



「監督は、タイミングだとか、声のトーンだとか、間だとか、ほんとうに細かく言ってくださいましたね。なので僕は忠実に一生懸命、その要求に応えるのに精一杯だったんですけど。一緒にいてくださる位置もほんとうに近くて。そこの俳優の息遣いみたいなものも感じてくださって。それで演出してくださるんです。ほんとにそばで見てくださって。映らないギリギリのところまで、俳優に近いところで見てくださいましたね。とっても近かったです」



おそらく石井監督がすぐそばで演出したのは、光石が「そばにいること」を許容する懐の持ち主だったからからではないだろうか。



「『近すぎるよ!』ってときも(笑)。でも、遠くにいられるよりは、安心できますね」と彼は、自身の出発点を振り返る。



「その昔、僕がデビューした頃、映画の撮影現場は、カメラという軸があって、そこにまずスタッフが全員集まっていて。そこの目線から被写体を見る、というものだったんです。とにかく、その軸の地点で、みんながいい位置をとろうとする。そういう現場で僕は育ったので、それが僕のなかのスタンダードになってるんです。いまは、モニターがあったり、カメラが二台あったりで、だんだんそうじゃなくなってきたんですが、その(スタッフと被写体の)距離が僕にとっては、スタンダードなんです。だから石井さんの現場はそれにとっても近くて。とにかく一緒に撮ってる感じがありましたね」



「みんなの映画」という冒頭の表現は、光石が考えるスタッフとキャストの「スタンダード」としての関係性からもたらされている。

 

「カメラがあって。その横のいちばんいいところに監督が座って。その横にスクリプターが座って。照明部が座って。もちろんキャメラマンは(ファインダーを)覗いてて。キャメラマンの助手は横でスケールを計ったり、ピントを計ったりしている。メイクさんはメイクさんで、どう映ってるか見たいから、そこから顔を出して。カメラの三脚の間から、上から、いっぱい顔があったんです。僕ら演じてて、ぱっと見たら、とにかく顔がいっぱいあったんですね。カメラを中心に。それが安心でもありました。みんなが見てくれているということ。カットがかかると監督だけじゃなくて、照明部のひとも、『お前、こうしたほうがいい』とか、言ってくださる。つまり、そこにいるひとがみんな、被写体にぐっと集中している。それがとっても心地よかったんです」



いくつもの顔が、俳優を見つめている。

 

「僕らは相手役に集中しているだけですけどね。見られてる、というより、見てくれている。見られてる、という意識よりも、あのひとたち(スタッフ)が見てくれているから、こっちは自由にできる。そういう感覚ですかね。安心して、こっちで遊べるような……。あのひとたちの映し鏡みたいになっているところがあるんですよね。あのひとたちの想いで僕らは動いているっていうか。遊ばせてもらってる。スタッフが僕たちを遊ばせている、ということですかね。全部のパートの想いが、その1カットに入ってる」



撮影を前提とした演技である以上、俳優の芝居は決して自由なエリアにあるわけではない。制約は様々にあり、それに応えるのは責務でもある。けれども、光石はそれを踏まえた上で、「遊ばせてもらっている」と語る。 



「遊びなさい、と言われてるようなものですね。洋服着せてもらって、髪の毛やってもらって、顔をメイクしてもらって、そこにポンって。それは理想でもありますよね。そのなかだけで遊べたら、いいですね」



固有の信頼ではなく、総体としての信頼が光石研の魂には備わっているように思える。スタッフや現場、ということだけに留まらない、「もの作り」そのものに向けられた敬虔なまでの信頼の意志は、次のような談話が浮き彫りにもする。



「基本的に、いただいた役には、監督はじめスタッフみなさんの、『この役はこうしてほしい、光石にこういうふうにやってほしい』ということがあると思うんです。そこの要求は確実に満たしたい。その上で、欲を言えば、ちょっとでも僕らしさが出れば、とは思います。それが自分が意図して出すものかどうかはわからないですけど。でも、それよりは、みんなが『こうしてほしい、こう動いてほしい』ということを、まずやりたい。それをやり遂げたいということのほうが先決ですね。まず現場入ったら、そこの察知から始める。まず、自分にどうやらせたいのか。そこに、いつも神経とがらせてます」










「おれらが普通にしゃべってる言葉でやろう」



日本を代表する名優が、こんな話をしていたのを見たことがある。



「羞恥心がないヤツは、役者をやるべきじゃないと思うね」



人前に立って、何者かを演じるのが、俳優である。だからこそ、恥ずかしいという意識なしで、それを体現するべきではないのかもしれない。光石研は間違いなく、そうした羞恥心を有している。本人としてテレビ出演したものなどは「どうしても見ることができない」と話す。



「自意識もあるんでしょうが、自分に自信もないんでしょうね」



出演作を目の当たりにするのも、できれば避けたいという。



「あまり見たくないですね。自分以外のシーンは見れますけどね。自分が出てると、アラばっかり見えちゃって。でも、もし、もう一回やって上手くできるのか? って言ったら、わかんないですけどね。でも、そんなものですよ。いままでも。それの繰り返しというか。でも、もうしょうがないんですよね。映画は。完成してるんだから。次、頑張るしかないんですけど」



「自分らしさ」について問うたときも、彼はこの感覚を垣間見せた。



「どうなんですかね……まず、自分らしさがどういうものか、あんまりわからないので。周りのみなさんがいろいろ言ってはくださいますけど……ただ、えてして、役者がそこで自分らしさを思うっていうのは、単なる自意識だったりして。こう見せたい、っていう。そういうのはとってもいやらしく映るときがあるので、そこだけはいつも避けたいと思っているんですけどね。やっぱり夢中になってやってるのがいちばんいいんでしょうね。役者がこうしたい、と思ってしまうのは、どうも恥ずかしくて……。若いときなら、いいでしょうけどね」



ならば、その「若いとき」のことを訊いてみたい。



「ふざけたことをしてたんですよ。学校の先生の物真似をしたり、友達の物真似をしたり。でも、それはほんとうに小さい範囲のなかで。自分の席から見渡せるぐらいの。決して教室の前に出てやるタイプではなかったんですよ。ほんとうに小さいグループのなかで。たまーにクラスのなかでやることはあっても、全校生徒の前でやるなんていうことはなかったですね」



あくまでも身内、つまり自分の手が届く範囲で、というのがこのひとらしい。



「中学で、クラス対抗演劇会、みたいなことやったんですよ。友達と小さい役をアレンジして、台詞はちゃんと言うんですけど、あとの動きとか、自分たちで考えて。僕らが日常使ってた北九州弁で舞台に立ったんですよ。そういうとこはいまと全然変わってなくて。当時も、嘘くさいことが嫌だったんですね。芝居をやる、ってことになったら急に、みんなが、普段はみんな北九州弁のくせに、『どうしたの?』なんて標準語になる。僕はそれがとっても恥ずかしかったんですよ。その友達と、『全部、北九州弁でやろう。おれらが普通にしゃべってる言葉でやろうよ』って言って。台詞は変えないで、言葉だけ北九州弁にして、やったら大受けしたんですよ。みんな大笑いして。そこはいまだに変わらないところで。だから、いまだに、"出て行って演じる"みたいなのはあんまり好きじゃないんですよね。あの感覚はいまだにどこかにあって」







『あぜ道のダンディ』 光石研 








10代のときに感じたことが、しつこく残ってる



デビュー作は映画『博多っ子純情』。まだ高校生だった。その友人がオーディションに応募したのが、すべての始まりだったという。



「全校生徒の前でやるほどの度胸はないから、そもそも役者を目指したことなんて、まったくなかったですよ。でも、とにかく最初の映画に出たときは楽しかった。もうほんとうに楽しくて。こんな面白い世界があるんだ、って。スタッフになりたいとは思いましたね。当時の映画のスタッフって、とっても下品なんですよ(笑)。荒っぽくて。でも、そこがカッコ良くて。何か、ちょっとアウトローな感じで。いわゆる勤め人とは違う。みんな、フリーランスな感じで」



忘られない想い出がある。忘れられない場所がある。



「博多でロケやって、セット(撮影)は東京の大船(撮影所)だったんですね。何日か遊ばせてあげよう、ということで新宿のプリンス(ホテル)に泊まらせてもらって。遊びに連れてってもらったんですよ。高校1年生だったけど、1970年代後半の新宿二丁目に連れてってもらったんですよね。それがすごく面白かったんです。おかしかったなあ。小さいカウンターの店で、髪の長い女のひとが、いきなり上半身裸になって踊り始めたり。そういうところに連れてってもらって。すごい厚化粧のおばちゃんが猫抱いて隅っこにいるとか。二、三日だったですけど、そういうところに連れてってもらったんですよね。これはヘンな世界だなあと。いま言えばアンダーグラウンドということになるんでしょうが、当時は"こっちの世界"って感じでしたね。こういう世界の大人のひとはみんな、こういうところでお酒飲んでるんだなあと」



生粋のフリーランスたちがかたちづくる、本物のアウトローな世界。その「匂い」が、少年を惹きつけた。決して大仰な演技論は語らない光石研は、その「匂い」こそを大切に胸にしまって、そして素敵な大人になったのだと思う。



「現実味のないことばかり、子供の頃から言ってましたね。漫画家になりたいとか。絵描きになりたいとか。洋服屋になりたいとか。古着屋をやりたいとか。喫茶店をやりたいとか。そういうことばかり言ってて。そういうことを言ってた子が、たまたまこういう商売に出逢って。この商売も勤め人じゃないから。いまだに洋服は好きだし、音楽は好きだし」



「商売、いい言葉ですね」、思わずそう言ってしまった。彼が口にする「商売」はとてもかっこよかった。フリーランスでアウトローな響きだった。



「商売って、なんか下世話ですけどね。クリエイティヴじゃないですね」と、光石は笑う。



「あの時期、10代のいちばん多感な時期に、音楽でも、洋服でも、何でもそうなんですけど、その頃のことがいまだに、しつこく、自分のなかに残っているんですよ。だから、あの頃買えなかったレコードとか、いまガンガン買ってて。当時、全然お金なかったから。で、いまだに聴いてるんですよね。そういう成長してないところがあるんですよ。大人になりきれない、というか。カッコ良く言えば、ブレてないんでしょうけど。でも、成長できないところがあって。でも、中学のときにやったあの舞台の感覚は、いまだに持ってて。それを僕は大切にしてる。10代のときに感じたことは、いまだに変わってない気がしますね。まあ、その頃のダメだった自分は忘れちゃってますけどね(笑)」



変わらないのは、変わりたくないから?


 

「変わりたくない、というより、変われない、んでしょうね。自分で自分の首を絞めてるようなところもあるのかな、と思ったりはします。そんな石頭だからダメなんだよ、と思ったりもしますね(笑)」



照れたように「……一人っ子なんですよ」とつぶやいたことが忘れられない。光石研は彼だけが持ちうる羞恥心を有している。





取材:相田冬二 撮影:押木良輔










光石 研's ルーツ



中学のときのクラス対抗演劇会で台詞を北九州弁にして喋ったこと。



みんな、舞台になると急に標準語になるのが、恥ずかしくて。友達と「おれらが普通に喋ってる言葉でやろうよ」って。やったら大受けしたんですよ。みんな大笑いで。いまだに「出て行って演じる」みたいなのはあんまり好きじゃないんです。あの感覚は自分のなかのどこかにありますね。







光石 研(みついし・けん)プロフィール


1978年『博多っ子純情』の主演に抜擢され俳優デビュー。以降、映画、ドラマ、舞台等で幅広く活躍している。なかでも映画出演は140本以上を数え、日本映画界に欠かせない存在となっている。2000年の『EUREKA / ユリイカ』では、第16回高崎映画祭最優秀助演男優賞を受賞。今年も『太平洋の奇跡ーフォックスと呼ばれた男ー』『毎日かあさん』の他、5月には『岳―ガク―』、6月には主演作『あぜ道のダンディ』の公開が控えている。










『あぜ道のダンディ』

2011年6月18日(土)テアトル新宿ほか、全国順次公開



監督・脚本:石井裕也

出演:光石研、森岡龍、吉永淳、西田尚美、田口トモロヲ 他

配給:ビターズ・エンド

(2011年/日本/110分)

公式サイト

















厳選シアター情報誌

「Choice! vol.19」2011年5-6月号



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日本で最も新しい劇場“神奈川芸術劇場”の初代芸術監督・宮本亜門インタビュー:こけら落とし作品は自身の演出による『金閣寺』 http://www.webdice.jp/dice/detail/2843/ Thu, 20 Jan 2011 20:13:13 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



今回は、今月オープンしたばかりのKAAT(神奈川芸術劇場)の初代芸術監督に就任。そして、こけら落とし作品となる『金閣寺』では演出手掛ける宮本亜門氏インタビューをお届けします。『金閣寺』は2011年1月29日(土)より上演。




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「一緒に考えよう」と言い続ける



表現について考える時、いつも問題になるのは「数と質のバランス」だ。多くの人から支持されることは重要だが、それだけが判断材料であるはずがない。質が高いことは大前提だが、それを証明するには遠い未来を含めた時間が必要だ。



劇場の芸術監督とは、この問題の回答を常にシビアに求められる職種を指す。劇場によって、人によって、その定義はまちまちだが、心ある芸術監督なら、すぐに正解が出ないことを承知で、ひとりと大勢、深さと広さをカバーする奇跡の観劇体験を、どの作品でも実現しようともがく。



宮本亜門が、日本で最も新しい劇場、神奈川芸術劇場(愛称、KAAT/カート)の初代芸術監督に就任した。1月11日のオープンに向けて昨年から就任したが、前任のいない、また、自身もまったく未経験の職域で、こけら落とし作品『金閣寺』の演出と並行してその作業を進めるのは、間違いなくストレスフルな日々だったと思う。ところが現れた本人は、いつもの人懐こい明るさを保ったままだった。



「就任の反響は予想以上です。特に演劇関係の人に会うと、ほとんどの場合、"大変でしょ?"と聞かれます。こっちがひとことも言っていないうちから"大変でしょ?"(笑)。しかも僕が"ええ、そうなんです"と答えるのを期待しているような空気なんですね。で、僕が"まぁ、いろいろあります"と言うと、それを大変だという意味に受け取って、うれしそうな顔になる。でも、その人達を裏切ってしまって悪いけど、やってみてわかってきたんです。意外と僕、こういうことが嫌いじゃない(笑)」



笑顔で言う「こういうこと」が示す範囲は、とてつもなく広い。



「制作に関することがメインではありますけど、営業担当の人とも話すし、劇場の誰に対しても"何かあったらすぐに言って。みんなで話し合おう、一緒に考えようよ"と言い続けてます。仕事の量と比べたら職員の数が少なくて気の毒なんだけど、それでも"一緒に考えよう"と言うんです。だからむしろ僕が"また来た"って顔をされるんだけど(笑)、それでもいい。でもさすがにこの前、"駐車場の利用が少ないんですけど、どうしたらいいでしょう?"と相談された時は、ふっとめまいがしましたけどね。そうか、僕は駐車場の車の台数のことまで考えなきゃいけないんだ、と思って(笑)」



もちろん、それは自分の管轄外だと言うことはできるし、そうしたとしても誰にもとがめられない。でもここでコミュニケーションを断たないのが、宮本だ。



「真剣に考えましたよ。"じゃあ、多く利用されてるのは何曜日?"と聞いて、打てる手立ては何だろうと」



出演俳優を超える本数の取材、本業である演出プランの詰め、照明家や美術家などスタッフとの打ち合わせ、先々に予定されている作品の打ち合わせ……。多忙を極めながらここまでコミットする理由は、おそらくふたつある。ひとつは、演劇への感謝。


 

「劇場の目の前で生まれ育った(生家は、新橋演舞場前の喫茶店だった)こともあるけど、芝居によって何度も救われてきたということが、どうしても根源にあるんです。高校時代は今で言う引きこもりだったし、その前もうまく周囲とコミュニケーションが取れない時期が長かった。そのたびに、いろんな形で演劇に助けてもらって、間違いなく今の僕がいるんですね」



KAAT_外観

KAAT(神奈川芸術劇場)の外観





街の中へ出かけていく劇場へ



演劇によって動く自分を改めて自覚したのは、芸術監督就任の挨拶文を書く段になって。



「実を言うと、挨拶らしい型にはまった言葉が何も思い浮かばなかったんです。(他の劇場の芸術監督である)蜷川幸雄さんや野田秀樹さんや串田和美さん達の所信表明の文章を読ませてもらって、それぞれに、なるほど、そういう決意があって引き受けられたのかと感動しました。でも、じゃあ自分はとなると、どう考えても出てこない。その時に気付いたんです。自分は0から1を生み出すのではなく、曲でもせりふでもいいから、とにかく演劇の断片が何かひとつあって、そこから創作意欲が湧いてスタートする人間なんだということが」



挨拶文は、芸術監督というポジションに就く演劇人としてではなく、演劇とつながったひとりの人間として自分を問い直し、書き進めたという。結果的にそれは、KAATという劇場をどう人々とつなげるかという考えと合致していった。



「僕が演劇を支えにして生きてるみたいに、みんなは何を喜びとして生きているんだろう? それをいろんな形の演劇にして再現して共有できないだろうか。だとしたら、劇場に来てもらうだけでなく、劇場が街に出かけて行って芝居をデリバリーするとか、劇場にアートを飾ってそれをきっかけに来てもらってもいい。例えば喫茶店を開くとして、お客さんに喜んでもらう方法はメニューとか店構えとか、いろんなサービスが考えられますよね。今は間違いなく大きな時代の変わり目だから、そういった自由を存分に活用していいんじゃないのかと思ったんです」



演劇のフットワークを軽くし、触れ合う人を増やすことが、観劇体験者を増やすことになる。ひいては演劇ファンを増やすことになる。それが宮本の狙いだ。実際、KAATは神奈川県立の施設だが、横浜市などと協力してイベントを増やしたいと「あちこちの担当者に会いに行っては"一緒にやりましょう"とお願いして」いると言う。



そしてこの人のアクティブさのもうひとつの理由。それは、人と人を分けるさまざまなボーダーラインを嫌う精神だ。



「さっき、僕に"大変でしょ?"と聞く関係者の話をしましたけど、白状すると僕にも、最初は公共の劇場に対する偏見がありました。現場の意向は関係なく、上からのお達しで決められていくという噂も聞いていましたし。でも違ったんですよね。やっぱりお互いに目標とするのは、最高の作品をつくってお客さんに楽しんでもらいたいことですから、根本は同じだし、表現が違っていたら修正すればいいだけだし、出会って最初の頃は話が通じなくても当然ですよね。偏見はお互いさまだったんだな」



ボーダーラインをなくすと、表現者として大きなものが手に入れられる。



「僕はこれまで商業演劇の場で活動してきて、それなりにシビアに、動員とか、そのためのキャスティングとかを考えてきました。でもKAATでいろんな人と出会って話をする中で──それこそ駐車場の話も含めて──、今までよりもずっと広い視野で演劇のことが見えるようになりました。だから今は、これまでは触れることのできなかったものに手を伸ばせる、関係を持てなかった人たちとも協力して仕事ができる事が、楽しいんですよ」



※宮本氏による、芸術監督就任の挨拶文はこちら




KAAT_ホール

ホールの客席は最大約1,300席








KAATは楽しみ方が単色でない劇場に



人と人を隔てるボーダーラインに対して敏感なのは、宮本亜門の核にある資質だ。その気配は、この人が手がけてきた作品群から明らかに立ち昇ってくる。90年代の『香港ラプソディ』『月食』『マウイ』、2000年代の『キャンディード』や『ユーリンタウン』に『INTO THE WOODS』『太平洋序曲』、そして近年の『三文オペラ』や『亜門版ファンタスティックス』……。どれもミュージカルや音楽劇だが、それらは一般的なミュージカルや音楽劇のハイテンション&ストレートなイメージと違い、複層的な世界観を持つ。宮本が積極的に選ぶのは、悲劇と喜劇の共存、切れ味鋭いシニカルさ、社会問題、哲学的命題などを含んだ作品なのだ。それらがあぶり出すのは、差別や偏見や規制の愚かさ、弱者や敗者の権利だ。



宮本のその資質が通り一遍でないことは、こんなエピソードからもわかってもらえると思う。販売を託すことでホームレスの自立を支援する雑誌「ビッグイシュー」を、たまたま筆者が買った時のこと。購入した男性から「この号には宮本亜門さんって人が載ってるんだけど、知ってる?」と話しかけられた。知っていると答えると、その人はうれしそうに、自分とは以前から懇意で、時々電話がかかってくる仲で名刺も持っていると教えてくれた。



「それ、渋谷にいる人でしょう?いい人なんだけど、おしゃべりだから話が長いんだよね(笑)。僕にはホームレスにも知り合いがいるんです。というのは、ニューヨーク在住の日本人ホームレスの方が書いた文章を読む機会があって、それが本当に素晴らしくて。じゃあ僕が推薦文を書くという話から、その人と仲良くなったんです。で、ある時、彼に案内されてニューヨークを歩いたら、それまでとは全く違う風景が次々と見えてきたんです。"あの店、○時になると煙が上がるんですよ、なぜでしょう?"とか"あそこにいる女性、この前はすごく泣いてたんだけど、今日は幸せそうだからうれしいです"とか。そうやって歩くうち、人を通じて、いろんな人間の生き様を通して、街を見る僕の視点がどんどん変わってったんですよね。その時は僕自身がブロードウェイで演出してて、悩みを抱えてもいたけど、これこそがドラマだ、自分はやっぱり人間を知りたくてこの仕事をしてるんだ、ということがはっきりわかりました。もともとそれで演出家になったのに、劇場という空間の中だけで上手いとか下手とか、どうやったら受けるとか考えてたらダメだって気付かせてもらったんです」



相手に寄りそう柔らかな視線は、芸術監督として大切な要素のひとつかもしれない。



「そもそも僕がひと色の人間じゃないからでしょうけど、KAATもいろんな楽しみ方のできる劇場にしたいんです。単色が悪いわけじゃないんですよ。ひとりの芸術監督のカラーが強く打ち出されるのは、それはそれで素晴らしいことです。でも僕は、KAATでいろんな舞台を体験してほしいから、『金閣寺』とほぼ同時に、三好十郎『浮標』(長塚圭史演出)もやれば、チェルフィッチュの新作『ゾウガメのソニックライフ』も上演するし、芥川龍之介の作品をモチーフにした『Kappa/或小説』(三浦基演出)もやる。そして、たとえば劇場のロビーをギャラリーにしたいとも考えているんです。そうすれば、芝居を観に来てくれた人が絵や彫刻も観て帰れるじゃないですか。そのうち劇場自体が広場のようになって、人と人が出会えたり、いろんなことが生まれる場になったらいいと思うんです」




KAAT_アトリウム

高さ約30mの開放的な空間が広がる劇場へのエントランス






『金閣寺』は現代にこそ響く作品



『金閣寺』


相手の世界に自分が割り込むのでなく、相手の世界を受け入れ、それを通して新しい発見をし、次の交流を生む。それは当然、クリエイターとしての作品づくりに反映される。KAATのこけら落としとして上演される『金閣寺』は、三島由紀夫の代表作として名高く、過去に映画にも舞台にもなった。洗練された文体のみならず、人物配置も完璧で、誰に照準を絞っても読み解きが可能だが、宮本が最も見つめるのは、三島その人だという。



「この4~5ヵ月、三島のことしか頭にないです。『金閣寺』に関する本はもちろん、三島について書かれた本は徹底的に読みました。もう自分が自決するんじゃないかってくらい、気持ちをたどりましたね。彼はやっぱり『金閣寺』に、相当のことを託して書きこんでいます。主人公である溝口には、戦時中と戦後の日本を重ねていると思うんですが、金閣寺を心底愛した溝口が、なぜ金閣寺に火を点けたのか。金閣寺は何のシンボルなのか。そういうことを三島は非常に緻密に考えて書いている。それを全部"ここはこういう意味です"と舞台上で説明することには意味がありません。あえて舞台ならではの表現をふんだんに採り入れ、三島がこの作品に込めたものをできるだけ伝えたいですね」






原作そのものの魅力についてはこう語る。



「発表された当時も高く評価されたし、読んだ人は感動したと思いますけど、どこか"三島文学"というありがたい先入観でバイアスがかかっていた部分もあったんじゃないでしょうか。むしろ今の若い人達にとってのほうが生々しく感じられる内容だと思いますね。主人公の溝口は、ある人から見たらグダグダしているだけなんだけど、彼の中には常にたくさんのものが詰まっていて、いつも真剣勝負なんです。ただ、それが上手く外に向かって表現できない。僕自身、もともと溝口のような思春期を送ってきたところもあるから、彼のもがきや痛みには、強く惹かれます。だから僕にとって『金閣寺』は、ただ舞台として完成度の高いものをつくりたいというより、あの時の自分の抱えていたものと今もう一度向き合い直す体験なのかもしれません。何か生きる実感がほしいという溝口の思いは──彼は間違った行動に出てしまいましたけど──現代の若者に、より強く通じるんじゃないかと思っています」



そのため、溝口役の森田剛、柏木役の高岡蒼甫、鶴川役の大東俊介らとも、それぞれの役について、作品について、時間をかけてディスカッションしたという。また亜門版『金閣寺』で特筆すべきは、戯曲の場合はせりふ等の変更が厳しく制限されている三島作品にあって、『金閣寺』は元々が小説のため、大胆な構成が可能だということ。ホーメイ演奏家であり、現代アートの分野で注目を集める山川冬樹が出演し、パントマイムから発達させた独自の動きで活躍する小野寺修二が振付で参加するなど、演劇的なふくらみがいくつも仕掛けられている。



「どうしたって舞台でしか観られない『金閣寺』ですよ。僕自身、口で説明するのが難しいですもん(笑)。できれば、これまで劇場に足を運んだことのない人達にも観てほしいな。その人達がどんなふうに感じるか、とても知りたいです」



今までと変わらない明るさ、と最初に書いたのを、ここで訂正しなければならない。一流の勝負を続けてきた人だけが手にするタフな明るさが、そこにはあった。



 "Artist Choice!" 宮本亜門氏





取材:徳永京子 撮影:平田光二










亜門's ルーツ



実家が新橋演舞場の目の前の喫茶店、母は元SKDと、芸事が身近でした。

それと、趣味で仕舞を習っていて、ガンで亡くなる直前に舞台で舞った祖父の姿も、

確実に今の僕をつくっていると思います。



◇新橋演舞場前の喫茶店

茶房絵李花(Cafe Erica)。亜門氏が生まれる3 年前にオープン。亜門少年は、コーヒーを届ける母に付き添い頻繁に楽屋を出入りしていたらしい。現在も営業中。



◇SKD

松竹歌劇団[1928-1996]の略称。東京浅草・国際劇場を本拠地とし、「西の宝塚・東の松竹」と称されるなど日本を代表する少女歌劇団として一時代を築いた。主な出身者は、水の江瀧子、美空ひばり、加藤治子、草笛光子、倍賞千恵子、など錚々たる面々。



◇仕舞

能における略式上演形式のひとつ。曲の一部を囃子なし、面も装束もなしで、地謡のみを伴奏に紋付袴や裃を着て舞う。






宮本亜門(みやもと・あもん)プロフィール


1987年にオリジナルミュージカル『アイ・ガット・マーマン』で演出家デビュー。翌年、同作品で昭和63年度文化庁芸術祭賞を受賞。2004年にブロードウェイにて"太平洋序曲"を手がけ、2005年に同作はトニー賞4部門でノミネートされた。近年では米・サンタフェ・オペラで現代オペラ『TEA』、音楽劇『三文オペラ』、ミュージカル『ファンタスティックス』など幅広いジャンルで活躍。










公演情報




『金閣寺』


『金閣寺』


演出:宮本亜門

原作:三島由紀夫

出演:森田剛、高岡蒼甫、大東俊介、中越典子、瑳川哲朗 他

日程:2011年1月29日(土)~2月14日(月)

劇場:KAAT神奈川芸術劇場 ホール

料金:8,500円 他(前売券は売切)

上演時間:約180分予定

お問い合わせ先:チケットかながわ 045-662-8866

公式サイト


















厳選シアター情報誌

「Choice! vol.17」2011年1-2月号



「Choice! vol.17」2011年1-2月号


厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の"オビ"としても無料で配布されています。



毎号、演劇情報や映画情報を厳選して掲載。注目のアーティストをインタビューする連載"Artist Choice!"の他にも劇場・映画館周辺をご案内するお役立ちMAPやコラムなど、盛りだくさんでお届けします。

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厳選シアター情報誌[Choice!連動企画] 女優・内田慈×コント作家・ふじきみつ彦対談+新年おすすめ舞台情報 http://www.webdice.jp/dice/detail/2807/ Tue, 28 Dec 2010 15:21:58 +0100
(左)コント作家・ふじきみつ彦 (右)女優・内田慈氏


厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"が今月よりリニューアル!ミニコーナーの記事もwebDICEでご紹介していきます。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。



今回は、対談コーナー"C!パートナー"より、女優・内田慈氏、コント作家・ふじきみつ彦氏のインタビューと、演劇ジャーナリスト徳永京子氏のおすすめ舞台を紹介する"ステージ・チョイス!"をお届けします。



webDICEの連載・Artist Choice!のバックナンバーはこちらで読むことができます。











"C!パートナー"

女優・内田慈×コント作家・ふじきみつ彦対談




今注目のアーティストが素顔で向き合う、その愛すべき"パートナー"とは?


小劇場に限らず数多くの舞台に出演し、秋には映画初主演も果たした女優・内田慈。彼女がパートナーに選んだのは、コント作家として活躍する、ふじきみつ彦。そのなんとも言えない絶妙な距離感は、"友達の友達"以上"友達の友達"未満!?



── 二人の出会いは?



ふじき(以下F):2005年の『ニセS高原から』の時ですね。照明オペレーターの手伝いで入ってたんですけど、その時に慈ちゃんが出演してて。でも、ほとんどそこでは喋ってないですね。覚えてないでしょ。



内田(以下U):覚えてますよ。ただ、「照明オペのふじきさんでーす」みたいな紹介もなかったし、最初の印象は、つるがもみあげみたいになってるメガネの不思議な人っていう(笑)。公演終わってから、鍋、行きましたよね。



F:その時にちょっと喋ったかな。鍋行ってもあまり周りに打ち解けられなくて、打ちひしがれて帰ってるときに駅で、「また遊びましょうね」みたいなことを言ってくれたんですよ。唯一それで、今日来て良かったなって思った(笑)。



── ふじきさんから見た"素顔の内田慈"はどんな人?


F:『友達の友達』っていう企画に出演してもらった時にも鍋をやったんですけど、お酒飲んでても飲んでなくても、ずっと喋ってるんですよ。だから、うるせえなってその時は思って(笑)



U:でも、ふじきさん、ブログには「"慈ちゃん"って呼びたいのに"内田さん"と呼んでしまう」みたいなこと書いてて、そんなうるせえなんて思ってる気配は微塵もなかったですけどね(笑)



── ふじきさんをパートナーに選んだ理由は?


U:ふじきさんとは『友達の友達』を一緒にやっただけのことはあって、友達になったはずなんですけど、例えば飲もうって言っても、なかなか実現して来なかったんですね。でも最近、友達と会う度にふじきさんの話が出たり、いろんな偶然が重なって、きっと、なんか会いたいし会えそうな気がすると思っていたらこのお話を頂いたので。



F:そういうタイミングだったんですね。きっと。



内田慈×ふじきみつ彦

(左)コント作家・ふじきみつ彦 (右)女優・内田慈氏





── ふじきさんが今後観てみたい"女優・内田慈"は?


F:舞台で内田さんを観た人から「内田慈って、エロいよね」っていう感想を聞くことが多いんですけど、観てる作品がたまたまなのか、普段のサバサバした印象からなのか、僕はあんまりそういう部分を感じないので「あ、やっぱエロいんだ」っていう感じを観たいですね。



U:そそ、それって、役柄によってはま、まずいですね…。エロいってなんですかね、危うさですかね。



── 今後挑戦してみたい仕事・役は?


U:内田:私、一応役者という肩書きですが、面白かったら本当になんでもいいんです。でも演劇バカですけど(笑)。食べ物とかでもいろんなものがぐっちゃぐっちゃに入ったものの味とか、あまりいろいろなものが整理されていない状態が好きなんです。なので、そういうぐっちゃぐっちゃな女というテーマで一人芝居もやりたいし、映画ももっとやってみたいです。言い訳できるスキは残しておきたくないですね。



── 内田さんにとって初の再演作品となる『投げられやすい石』の意気込みなど聞かせてください。


U:『投げられやすい石』再演の話があがった時点から、「これをやるまでは死ねない」と思って過ごしてきました。気持ち悪い言い方ですけど、本当に。大好きなんです。役によって、憑依するみたいな感じで向こうから来てくれる役もあれば、すごくがんばってこっちから斬り込んで行く役もあって、『投げられ~』の美紀はふっと入ってきてくれた役でした。今の私がやったらどうなるんだろうと、自分でも楽しみです。



写真:大重成男

取材協力:カフェマメヒコ渋谷店





内田 慈 (うちだ ちか)プロフィール


Birth:1983.3.12 BloodType:O From:Yokohama



ふじきみつ彦 (ふじきみつひこ)プロフィール


Birth:1974.12.19 BloodType:A From:Yokohama






出演情報




ハイバイ『投げられやすい石』


ハイバイ『投げられやすい石』

日程:2011年1月19日(水)~2月20日(日)

劇場:こまばアゴラ劇場 他、全国ツアー

作・演出:岩井秀人

出演:松井周、内田慈、平原テツ、岩井秀人

料金:3,000円 他

公式サイト









映画『ロストパラダイス・イン・トーキョー』


日程:2011年1月10日(月)~15日(土)

会場:下高井戸シネマ

監督:白石和彌

出演:小林且弥、内田慈、ウダタカキ、奥田瑛二 他

公式サイト














"ステージ・チョイス!"

演劇ジャーナリスト・徳永京子のおすすめ舞台公演をご紹介




ステージ・チョイス!M&Oplaysプロデュース『国民傘-避けえぬ戦争をめぐる3つの物語』





『国民傘-避けえぬ戦争をめぐる3つの物語』



─ 見えない場所で何かが起きる



岩松了は隠す。この人が「静かな演劇」を切り拓いたひとりだと言われる所以は、登場人物が同時に話し始めたり、淡々としたトーンで劇が進むからではない。壁の向こう、隣りの部屋、あるいは階段の上や下といった、舞台から見えないところで何か重要なことが起きたらしいと観客に感じさせる、それが最も「静か」で「劇的」なことだと示したから。つまり、オフモードの顕在化とそれによる想像力の拡大を、実に文学的に実現したからだ。



愛嬌も色気もない不思議な新作のタイトルには、本人は無意識だろうが、岩松特有の隠す美学が潜んでいる。何しろ傘だ。差す人の姿を隠し、視線をさえぎり、雨に濡れるのを防ぐ。たとえばR&Bのプロモーションビデオには、かなりの確率でずぶ濡れの男女が登場するが、雨の中を歩いて洋服を濡らすことで、ボディラインが強調される彼や彼女に色気はあるだろうか。あるのは、わかりやすいという意味でむしろ子供っぽいセクシーさであり、次の展開に豊かにイメージが広がる文学的な色気ではない。



─ 「傘」から広がる戦争の物語



『国民傘』は戦争にまつわる3本の短編を交互に上演しながら、それぞれのエピソードのつながりが次第に明らかになっていく形態になるという。その中心が、同じ男性に想いを寄せ、罪を犯してしまった母と娘の物語。彼女達の犯罪と深く関わってくるのが傘だ。近年、独自の角度から戦争を描いている岩松だが、身を守るには心許なく、けれど人を刺す武器にもなる傘をモチーフにどんな物語を生み出すのか。俳優をオーディションで選んだ冒険心も心強い。会場はスズナリ。濃密な演劇の時間に、きっと全身ずぶ濡れになる。




作・演出:岩松了

出演:足立理(D-BOYS)、石住昭彦、佐藤銀平、浅野かや、長田奈麻 他

日程:2011年1月20日(木)~2月13日(日)

劇場:ザ・スズナリ

料金:4,500円 他

当日券:あり

上演時間:約120分

お問い合わせ先:森崎事務所 03-5475-3436

公式サイト










ステージ・チョイス!『金閣寺』





『金閣寺』



─ 演劇界の逸材・森田剛が、新しい三島ワールドへ



08年の『IZO』もよかったけれど、とにかく『血は立ったまま眠っている』(10年)が衝撃的だった。60年代の社会背景と若者の焦燥感が、寺山修司特有の詩的言語で編み上げられた戯曲を、森田剛は苦労のあともなく体現して見せてくれた。あれができた俳優に死角があろうか。だから『金閣寺』も、森田が主演の点でも、心配していない。三島由紀夫×宮本亜門の世界を、安心して堪能しよう。



演出:宮本亜門

原作:三島由紀夫

出演:森田剛、高岡蒼甫、大東俊介、中越典子、瑳川哲朗 他

日程:2011年1月29日(土)~2月14日(月)

劇場:KAAT神奈川芸術劇場 ホール

料金:8,500円 他(前売券は売切)

当日券:1月上旬以降に発表

上演時間:約180分予定

お問い合わせ先:チケットかながわ 045-662-8866

公式サイト









ステージ・チョイス!東京芸術劇場プロデュース『チェーホフ?!』





『チェーホフ?!』



―脚本が絵コンテ。きっと史上初のチェーホフ



元・精神科医の演出家というプロフィールは刺激的だが、タニノクロウのつくる舞台は、実際に刺激的だ。直接的な暴力や性ではなく、それらの衝動が生まれる前の静かな混沌を可視化する点で。そんなタニノがチェーホフを題材にするのだから一筋縄ではいかないと思っていたら、チェーホフが書いた小説と論文を組み合わせるという。しかも脚本はすべて絵コンテ!タイトルの「?!」も納得。



作・演出:タニノクロウ

出演:篠井英介、毬谷友子、蘭妖子、マメ山田、手塚とおる

日程:2011年1月25日(火)~2月13日(日)※プレビュー公演は1月21日(金)・22日(土)

劇場:東京芸術劇場 小ホール1

チケット料金:4,500円 他

当日券:あり

上演時間:約90分

お問い合わせ先:東京芸術劇場 03-5391-2111

公式サイト














厳選シアター情報誌

「Choice! vol.17」2011年1-2月号



「Choice! vol.17」2011年1-2月号


厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の"オビ"としても無料で配布されています。



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フェスティバル/トーキョー10にて公演中:演出家、女優としても活動の場を広げる黒田育世インタビュー http://www.webdice.jp/dice/detail/2714/ Wed, 10 Nov 2010 18:21:37 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動インタビュー企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載です。



今回は振付家、ダンサーとしてだけではなく、演出家、女優としても活動の場を広げており、現在開催中のフェスティバル/トーキョー10で『あかりのともるかがみのくず』を公演中の黒田育世氏インタビュー。





webDICEの連載・Artist Choice!のバックナンバーはこちらで読むことができます。












ダンスに"なる"



およそ現実には起こり得ないことを、平然と、ごく当たり前の事実のように言ったダンサーがいた。「フェスティバル/トーキョー09秋」記者発表の壇上にいた、黒田育世だ。



「踊って30分ぐらい経つと"もう立てない(踊れない)"と思うようになる。それでも踊り続けると"立てない"という言葉を思い浮かべることすらしなくなり、次の一瞬を乗りこえるためだけに体が勝手に舞い始める。運動の連続と次の一瞬という時間の境目が徐々に消えていき、体が人のあいだに、中に溶けだすようになる」



その感覚を「ダンスになる」とも言っていた。ダンスを"踊る"のでも、ダンスで"表す"のでもない。ダンスに"なる"のだ。飴屋法水が演出を手掛けたソロダンス公演『ソコバケツノソコ』で筆者は、まさに黒田の体が空間に溶け出す感覚を実体験した(と信じている)。今に壊れてしまうのではないかと思うほど消耗した状態で、黒田はなおも激しく踊り続ける。それは心を開いて、広く手を伸ばし、必死に世界を抱きしめようとしているかのよう。やがて劇場空間は踊る黒田と一体になって、ぐにゃりと弾力を持って歪み、観客を包み込んだ。私は背筋から後頭部にかけて奇妙な鈍いしびれを感じ、涙した。それはただの思い込みだと簡単には否定できない、非常に生々しい肌感覚だった。ダンスに"なった"のは踊っていた黒田だけではない。その場にいた観客を含む空間全てがダンス"だった"のだ。







降って来た絵をそのままに実現



全てをさらけ出して、限界を超えても踊り続ける、研ぎ澄まされた身体能力。誰の目も惹きつける美貌。傑出した演出力。黒田は天が二物も三物も与えたと言わざるを得ない稀有な逸材だ。だが本人に会ってみると、神がかりな雰囲気など一切まとわない、いたって朗らかで自然体の女性だった。



「6歳から20年間、老舗のバレエ団に在籍していました。厳しい面もあったけど、私は仕方なしに大目に見てもらえてたような生徒で(笑)。発表会でもアドリブをしちゃったり、おとなしくは踊っていなかったんです。」



コンテンポラリー・ダンスとの出会いは、ロンドンに1年間留学していた大学3年の時。初めてなのに"すでに知っている"感覚があり、バレエよりも馴染み深かったという。



「ダンスでも大学の単位が取れたので、座学はほとんど受講せずに踊っていました。実はバックパッカーになって放浪もしてたんですが(笑)。放浪して、とにかく色んなものを観て回りました。ダンスはもちろん、お芝居やコンサート、美術館も。取得単位はぎりっぎりでしたね」



長年熱中していたクラシック・バレエとは異なる文化・芸術をたっぷり吸収して帰国。バレエと並行してさまざまなダンスのワークショップに参加した後、コンテンポラリー・ダンス・カンパニー"伊藤キム+輝く未来"のメンバーになる。振付家・黒田育世の鮮烈なデビュー作『SIDE-B』が生まれるきっかけは、ある時、突然やってきた。



「キムさんがいない3カ月ほどのお休みの時期に、突然(頭の中に)バーッと絵が降って来たんです。真っ黒な衣裳の6人の女性がいる絵で、細部まであまりにも鮮明で。これは形にしないともったいないと思って、すぐに知り合いのダンサーを集めて、イメージそのままに実現しました」



『SIDE-B』は初振付作品でありながら数々の賞を受賞した。同じメンバーで作った2作目の『SHOKU』も好評で、国内外の多地域ツアーが次々と決まり、ツアー先からグループ名を尋ねられたのを機にBATIKを結成することに。



「楽しいし仲良しだし、このメンバーで続けたいなと思ったので、じゃあ一応カンパニーってことで…となって。カンパニーの名前をつける時は、身の周りの大切な人たちのことを思い浮かべました。そういえば親友の妹がBATIK(インドネシアのろうけつ染め)をやりたいって言ってたな、いい教室は見つかったかしら…あら、バティックってとてもいい名前…と。実は色々となし崩し的なんですよ(笑)」



飾らない晴れ晴れとした笑顔がまぶしい。隠すことなど何もないと言わんばかりに無邪気で、恐れを知らないやんちゃな子供のようだ。だがその微笑みは、起こること全てに身をゆだねる覚悟を決めた、成熟した大人ならではの心の静寂も湛えていた。







洋裁ではなく編み物のように



黒田は振付家、ダンサーとしてだけではなく、演出家としても抜きん出た才能を見せている。朝日舞台芸術賞など多くの賞を受賞した『花は流れて時は固まる』は、真っ青な空間で白い衣裳の女性ダンサーが命を貪るように踊り、剥き出しの生(=性)を残酷なまでに暴き出す大作だった。花びらの舞い散る水路や高くそびえる飛び降り台が、この上なく美しく、恐ろしい。舞台装置のミニチュアを頭に被った人物を登場させて、公演そのものを批評する視点を持ち込むなど、演劇的演出の意味でも鋭い示唆に富んでいた。振付、美術、照明、音響といった多くの要素を、どういうバランスで扱い、舵を取っているのだろうか。



「舞台のクリエーションは振付だけが特別なのではなく、それぞれが同じバランスなんだと思います。洋裁みたいに切り取った布と布とをミシンで縫ってくっ付けるのではなくて、編み物に近い気がするんですよね。振付、照明や音響、稽古期間などの全ての要素が1つひとつの細い繊維であり、それを微妙な力加減で編み込んで、色んな模様を作っていくような感覚です」



全ての素材が平等に出会い、混じわり合って、1つの舞台が編み上がっていく。創作の営み全体を見渡す広い視野と、1つひとつの細かい作業を見落とさない緻密さが、驚異的な完成度を支えているのだろう。



11月に発表する新作『あかりのともるかがみのくず』のテーマは"母"。母は肉体と切り離せない故郷であり、生きていることの根幹に常に直結している。誰にとっても身近で切実だからこそ、非常に難しい題材だと思う。母から生まれた子供であり、いつか母になるかもしれない黒田が想像し、舞台化する母とは何なのか。



「綿々とずっと続くもののひとつの大きなシンボルとしての"母"だったり、母の母の母の…とずーっと遡ってたどり着いたら"宇宙"だった、みたいな感じだったり。自分の母も祖母も、友達のお母さんも、会ったこともない先祖の、そのまた先祖の先祖のイメージも入ります。性別、年齢の差も関係なく。"お母さん"と言ったらすなわち、私が自分の中でずーっとイメージできる"全部"ってことかもしれない。"命のつながり全て"みたいなことだと思います」



振付には参加ダンサーのアイデアが反映されるという。



「今回はメンバーに宿題を出しています。『あなたにとって○○とは何ですか?』という問いに対して、みんなが歌や踊り、テキストで提出してくれて、それらを1個の有機体にしていきます。みんなが持ち寄ってくれた小さなシークエンスを、編み物のように編み込んでいくんです。今はまだ映画『風の谷のナウシカ』の巨神兵みたいに体がドロドロな状態なんですけど(笑)、ちょっとずつ二足歩行ができてくると思います」




哲学的ともいえるヴィジョンに聞き入っていると、急に人気アニメの話に飛んだ。物事の深淵、世界の高みを洞察する力と、人懐っこい自由奔放さがシームレスに共存している。話せば話すほど興味と親近感を抱かせる普段着の言葉も、黒田の魅力の一つだ。




黒田育世





演劇の振付と映画出演への挑戦



2002年のデビュー以来、国内外を問わずさまざまなダンサー、振付家と共同創作を行ってきた黒田だが、ここ数年で活動の場はダンス以外にも広がっている。彼女にとって初めての挑戦となった仕事で、最近注目を集めた2つの作品について詳しく訊いた。



まずは野田秀樹作・演出の演劇公演『ザ・キャラクター』の振付だ。物語の舞台は町の小さな書道教室。日本人であるはずの登場人物が、ギリシア神話の神々へとメタモルフォーゼ(変容)していく。序盤は活気のあるコミカルなシーンが続くが、やがて教室はある新興宗教団体のアジトとなり、冷えた狂気を帯びながら、実在した無差別殺人事件の内情を暴いていく。演じる役も物語そのものも次々と姿を変える、変容尽くしの野心作だった。



メインキャストとアンサンブルを含む数十名の出演者は、広い舞台を所狭しと駆け回り、横にも縦にも組み重なって、人体で構成される動く絵画になった。大人数の俳優が一瞬にして集まり、難易度の高いポーズでピタリと静止するさまは、得体の知れないグロテスクな怪物を見るようだ。



「"人がモノになる"という野田さんの指示を受けて、出演者がすごく小さな組み体操を見せてくれて、それをデザインしたという感じです。もちろん振付もするんですけど、私がやったのは出演者に対する質の統一というか、エッセンスの注入みたいなこと」



ダンスとは違って演劇にはセリフがある。しかも野田戯曲はその量が膨大で意味も複雑だ。さらには筋立てが幾層にも分かれ、重なっていく。ダンスを振りつける時とは異なる難しさがあったのではないか?
「稽古を進めていく中で、メタモルフォーゼしていくのは刺激的だなと思う反面、野田さんじゃなかったら(この試みを成立させるのは)無理なんじゃないかと感じていました。正確に伝えなきゃいけない事柄がものすごく多いんです。たとえば"なんとなく書道教室かもしれない"ということじゃ済まされなかったり。時制が飛ぶように入れ替わるのも、ちゃんと伝わった方が面白いですし。でも私がどんなに抽象的なことをしようとも、最終的には野田さんの構成・演出できちんと伝わるストーリーにしてくださる。野田さんという器に入れてしまえば、私が詳しい説明をする必要はない。そんな安心感があったから、すごく自由で、遊べて、楽しかった」



2つ目は映画『告白』への女優としての出演。原作は2009年本屋大賞を受賞した湊かなえのミステリー小説で、中島哲也の脚本・監督により映画も大ヒットを記録した。今年度の米国アカデミー賞外国語映画賞部門の、日本代表作品にも選ばれた話題作だ。黒田が演じたのは主要人物の母親で、本人いわく"すべての元凶""諸悪の根源"という重要な役どころだった。



「映像作品には振付で携わったことはありますし、映画として上映されたダンス・カンパニーの公演映像には出演していましたが、役者としては初めてで。中島監督から"中学生の母親役をやってください"と依頼された時、私はてっきり踊るものだと思っていたんです(笑)。でも脚本を読んだらちゃんとセリフがあって!演技なんて1回もやったことないですし、できませんと言ったんですが、監督に"そんなの全然大丈夫です"って言われて…。役作りといっても何をするのかも知らないし、できないし、そのまま撮影に突入して…。あーごめんなさい!」



恥ずかしそうに何度も謝るのは、自分からは特に"何もしなかったから"のようだ。だが実際は心に闇を抱える優秀な科学者を好演。結婚してごく普通の主婦になり、研究への執心や高い自尊心と、退屈な日常との板挟みに苦しんだ末、幼い息子を虐待してしまうという難役だった。落ち着きはらった態度から放たれる殺気は、背筋をぞくっとさせるほどの鋭さ。出番は多くはないが、重みのある確かな存在感で鮮やかな印象を残した。



「息子の顔をぶつシーンでは、実際に叩きました。監督が本気で叩いてくださいとおっしゃったので、本気で。言われたとおりにやっただけなんです。全部監督のおかげです。あのシーンの後、(私に)叩かれた男の子が3時間ぐらい泣きやまなくって…ずっと抱きしめてました。ごめんねーって言いながら」



本当に何も準備せずただ"叩いた"のだとすると、それは本質的に自然な演技であり、俳優が目指すものではないだろうか。その状態を引き出したのは中島監督の手腕によるものだろう。だが、黒田の実力があってこそである。





床で丸まった体は一番小さなダンス空間



前述の飴屋、野田、中島をはじめ、Noismの金森穣、黒田が笠井先生と呼ぶ笠井叡や、海外の有名振付家など、一緒に創作をしたアーティストに対して黒田は「生きてる内にこんな素晴らしい方に会えて、本当に良かった」とストレートに感謝の意を表す。他の振付家や演出家のもとで仕事をする際は、心を開いて身を任せ、出しゃばらずに、それぞれの現場で求められるベストを尽くすタイプのようだ。家の玄関の壁に貼ってあるという座右の銘は、「今日も一日 感謝の気持ちを忘れずに 大切に」。本物のアーティストは決して威張らないし、底抜けに謙虚なものだと納得する半面、核心が掴(つか)めていない気がしていた。自己を徹底的に俯瞰して毒や風刺を利かせ、観客を突き放すような過激な表現もいとわない彼女の作品と、このインタビューでの印象が、必ずしもぴったりとは重ならないからだ。そこで質問の矛先を、作品創作から普段の生活へと切り替えてみた。



「稽古は基本的に夕方4時から夜10時までの6時間。でも休憩ばっかりしてますよ(笑)。寝るのは朝の6時からお昼11時ぐらいまで」



朝6時に就寝?では稽古の後から深夜にかけては読書や映画鑑賞など、インプットの時間に充てているのだろうか。



「稽古から帰って来るのは夜11時ぐらい。それからご飯を食べてお風呂に入って、そして、このポーズです」



そう言うなりすっくと席を立ち、床に正座をして両手を額の前につけて、前方にかがみこんだ。背中を丸めて小さくなるポーズだ。



「両手をグーの形にして親指の方をおでこに当てて、頭の下にその両手を敷いた状態で、考えるんです。ちゃぶ台の真横に丸まって3時間ぐらい微動だにしないですね。深夜3時から5時ぐらいは一番いい時間。絶対にこのポーズ。ずっとコレです。私の人生、コレなんだと思います(笑)」



床に丸まったまま3時間以上、一体、何を?



「踊ってるんです。細胞が体の中でプチプチ、プチプチと。考えてるっていうより、体がずっと踊ってるんですよね。全身を一番小さなダンス空間にしたような感じ。思考の果てに煮詰まって疲れ切って、もうだめだ!って思ったら、寝ます。それが朝の6時ぐらい」



一気に謎が解けた。溜飲が下がるとはこのことだ。毎日の長時間にわたる深い、深いイメージ・トレーニングこそが、創造の源泉だったのだ。natural(ナチュラル)という英単語はよく"自然の"と和訳されるが、"生まれながらの、天性の"という意味もある。ありのままの状態そのものが非凡である黒田に、ぴったりの形容詞ではないだろうか。ナチュラルなダンサー・黒田育世の今後の野望を、未来予想図を教えて欲しい。



「自分からやりたいことなんて何もないんですよ。私、からっぽなんです。でも絵やメッセージが降りてきた時には、生きてる限り、それに全力で応えます」



さも当然のことのようにサラリと、真剣に答えてくれた。素直で柔軟、でも芯はゆるがない。いつでも未知の領域に飛びこむ勇気があり、努力を惜しまない。天賦の才能は、天真爛漫で無垢な器に与えられるべくして与えられた。





(取材:高野しのぶ 撮影:平田光二)

















黒田育世's ルーツ



4歳ぐらいの頃、お友達のバレエの発表会で見たチュチュがどうしても着たくって。その後引っ越した家の近所にあった「谷桃子バレエ団」に通うようになりました。



◇チュチュ

バレエで使用する衣装。円形で丈の短い「クラッシック・チュチュ」、長いスカート状の「ロマンティック・チュチュ」の2種類がある。名称とは裏腹に、バレエ技法の複雑化に伴い「ロマンティック・チュチュ」を改良して作られたのが「クラッシック・チュチュ」である。



◇谷桃子バレエ団

小牧バレエ団を退団したバレリーナ・谷桃子らによって1949年に設立。日本人ならではのきめ細かな作品づくりにより、戦後のバレエブームを牽引する存在となる。昨年創立60周年を迎え、この秋2年間に及んだ記念公演6作品の上演を終えた。





黒田育世(くろだ いくよ)プロフィール


BATIK主宰、振付家、ダンサー。6歳よりクラシックバレエをはじめる。97年渡英、コンテンポラリーダンスを学ぶ。02年、「BATIK」を設立。代表作は『SIDE-B』(02年)、『花は流れて時は固まる』(04年)など。近年はBATIKでの活動の他、飴屋法水、笠井叡、野田秀樹などさまざまなアーティストとのクリエーションも話題に。今年公開された映画『告白』(中島哲也監督)では女優として初めてスクリーンに登場し、強烈なインパクトを与えた。















公演情報




フェスティバル/トーキョー10

『あかりのともるかがみのくず』



日程:2010年11月9日(火)~15(月)※11月12日(金)休演日

会場:にしすがも創造舎

構成・演出・振付:黒田育世

出演:大江麻美子、大迫英明、梶本はるか、黒田育世 ほか

主催・製作:フェスティバル/トーキョー

公式サイト








BATIK トライアル vol.10 『ペンダントイヴ-studio version-』


BATIK トライアル vol.10

『ペンダントイヴ-studio version-』



日程:2010年12月10日(金)~12日(日)

会場:森下スタジオ・Cスタジオ

構成・演出・振付:黒田育世

出演:BATIK

主催:BATIK

制作:ハイウッド

BATIK公式サイト



写真:(C) Yohta Kataoka
















厳選シアター情報誌

「Choice! vol.16」2010年11-12月号



「Choice! vol.16」2010年11-12月号


厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の"オビ"としても無料で配布されています。



毎号、演劇情報や映画情報を厳選して掲載。注目のアーティストをインタビューする連載"Artist Choice!"の他にも劇場・映画館周辺をご案内するお役立ちMAPやコラムなど、盛りだくさんでお届けします。

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演劇ジャーナリスト・徳永京子による

今月のおすすめ舞台公演をご紹介



ステージ・チョイス! マームとジプシー『ハロースクール、バイバイ』






マームとジプシー『ハロースクール、バイバイ』


― 繊細さが強度を持つことは可能か?



若い世代の台頭を「怒れる若者たち」と呼んだ国や時代もあったけれど、新しい才能は基本的に、前世代の繊細さを更新(/変形)して枝葉を伸ばしていくものだ。特に、とりあえず平和で豊かなこの国では、若い表現の繊細さを否定するような蛮行は、よほど旧体質の人間だってしないだろう。でもそこには問題もあって、あまり大事にされると、繊細さは根腐れを起こして枯れてしまう。だから多くの才能は、生き残るために繊細さを卒業し、引き換えにマスに通じる強い表現や、座りのいいテーマを獲得して大人になっていく。



繊細さは強さと両立しないのか。たとえば「忘れていたあの微弱な自分だけの感情がなぜ今、演劇という形になって目の前で再現されているのだろう?」という、幻覚と紙一重の確信。そんな1対1の関係が客席中で多発すること、その確率が公演を重ねるごとに増すような奇跡は、ないものねだりなのだろうか。



― 多くの人の記憶の底にリーチする



という、長く持ち続けてきた疑問に、私はひとまず、マームとジプシーで保留をかけようと思う。結成は07年とキャリアは浅く、作・演出の藤田貴大は25歳、レギュラーメンバーも同様に若いが、彼らが粛々と、かつ果敢に取り組む演劇には、そう感じさせるものがある。最大の特徴は、ひとつのシーンを別の角度から繰り返す映像的な演出だが、精度を極めた結果、角度が変わるたびに物語の重層が切り拓かれ、デリケートな感覚が流れ出て、多くの人の記憶の底にリーチする。『ハロースクール、バイバイ』は中学の女子バレー部を舞台にした新作とのことだが、すでにスキルの高い演出と俳優達の演技は、さらに強靭かつ新鮮になっているはずだ。









作・演出:藤田貴大

出演:伊野香織、荻原綾、河野愛、木下有佳理、斎藤章子、成田亜佑美、緑川史絵、尾野島慎太朗、波佐谷聡



◇京都公演

2010年11月12日(金)~14日(日)

アトリエ劇研



◇東京公演

2010年11月24日(水)~28日(日)

シアターグリーンBASE THEATER



チケット料金:2,000円 他

当日券:あり

上演時間:約90分

お問い合わせ先:090-9137-8647(制作:はやし)
公式サイト













ステージ・チョイス! 『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』







『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』


― エルダー世代、個人史のドラマ



ますます注目度が増すフェスティバル/トーキョーの、今年の目玉と言っていいかもしれない。構成・演出の相模友士郎は、昨年、伊丹市の依頼で制作したこの作品が、フェスティバル・ディレクターの目に止まっていきなりの起用となった。伊丹市の70歳以上の一般住民が個人史をとつとつと語り、それがやがて大きな歴史へ、さらに私達ひとりひとりとつながっていく、唯一無二の演劇体験。



写真: (C)Takashi Horikawa








構成・演出:相模友士郎

出演:増田美佳、足立一子、足立みち子、飯田茂昭、相馬佐紀子、中川美代子、藤井君子、三木幸子

日程:2010年11月26日(金)~28日(日)

劇場:東京芸術劇場 小ホール1

チケット料金:3,000円 他

当日券:あり

上演時間:90分

お問い合わせ先:F/Tチケットセンター 03-5961-5209(12時~19時)

公式サイト













ステージ・チョイス! 現代能楽集V 『「春独丸」「俊寛さん」「愛の鼓動」』






現代能楽集V 『「春独丸」「俊寛さん」「愛の鼓動」』


― 割り切れない古典の世界をどう料理?



古典特有の、現代の理屈では計算しきれない不可思議な物語性。生活の動作とは切り離された様式。それらを今の演劇の中に採り入れる試みが、この現代能楽集シリーズ。第5弾は『俊寛』など3作を川村毅が翻案。演出に当たるのは、今、劇作家としても演出家としても乗っている倉持裕。ロジカルに見せて、理不尽なほど感情を高めることが得意な倉持は、古典との相性が意外といいかも。



撮影:阪野貴也








企画・監修:野村萬斎

作:川村毅

演出:倉持裕

出演:岡本健一、久世星佳、ベンガル、西田尚美、小須田康人、玉置孝匡、粕谷吉洋、麻生絵里子、高尾祥子

日程:2010年11月16日(火)~28日(日)

劇場:シアタートラム

チケット料金:5,500円 他

当日券:あり

お問い合わせ先:世田谷パブリックシアターチケットセンター 03-5432-1515

公式サイト











◇シネマラインナップ



『スプリング・フィーバー』

公開日:11月6日(土)~

上映館:シネマライズ



『クリスマス・ストーリー』

公開日:11月20日(土)~

上映館:恵比寿ガーデンシネマ



『海炭市叙景』

公開日:12月18日(土)~

上映館:ユーロスペース










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「壊すかもしれない」怖さに向き合うこと ─女優・美波『乱暴と待機』について語る【後編】 http://www.webdice.jp/dice/detail/2611/ Mon, 30 Aug 2010 16:08:17 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動インタビュー企画“Artist Choice!”。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載です。



今回は10月9日に公開される、本谷有希子原作を冨永昌敬監督が映画化した『乱暴と待機』に浅野忠信らと出演する女優・美波氏のインタビュー後編。



【関連記事】 - この記事は後編ですので前編よりお読みください。

“なにか、壊れる音がする。それって、ずっと残る” ─女優・美波『乱暴と待機』について語る【前編】(2010-08-31)













見せかけではない、ほんとうの緊張感



『乱暴と待機』は、男女4人だけの関係性を凝視する映画である。そこで美波は、ある状態を「演じつづける」特異なヒロイン、奈々瀬に扮している。



「それは、見せかけの緊張感じゃない。ほんとうの人間の、落ち着かない不安、崩していけない怖さ。その緊張感がずーっとあって。大きな怪獣に追いかけられているようで、なかなか振り向けない。ほんとうは、意外と振り返ると、たいしたことがなくても。だから、振り返れれば、きっと乗り越えられる」



美波が話すことは、作品の分析であり、キャラクターの読解であり、演技の方向性であり、自分の気持ちのありようであり、そのすべてが「同時にある」ことでもある。



奈々瀬に語りかける言葉が、美波自身の吐露に思えてくる不思議。



いわゆる「役になりきる」ということとは違う。そうではなく、もっともっと「現実的」なのだ。きっと、リアリストなのだと思う。「これは役」「これは私」「これは演技」というふうに、脳内フォルダに振り分けて処理してしまういい加減さが、彼女にはない。物事をわかりやすく「片付ける」のではなく、現実の不可解さ、とりとめのなさ、無尽蔵さに、冷静に対処しているから、様々なファクターが連なり、蓄積され、結びつき、弾け合うことにもなる「演じる」ことの奥の深さが、言葉と言葉のあわいからこぼれ落ちることになる。








自分で芝居を編集できる場、それが舞台




ところで、『乱暴と待機』はもともとは演劇作品でもあり、ある種の密室劇でもある。しかし、明らかに舞台とは異なる感触がある。



美波が、演じ手として、舞台と映画の違いをどんなふうに認識しているのか、気になるところだ。



「演劇は自分で芝居を編集できるんですよ。編集しながら冒険もできる。だから舞台ははかないんでしょうね」



やはりこのひとは現実主義者なのだと思う。舞台での演技を「編集」と関連づけたとき、舞台経験のない人間にもそれがどういうことか、どういう輪郭なのかが、感覚的に伝わってくる。



「ただ、舞台が怖いのは、壊すこともできちゃうこと。役者が。だから、最高に緊張して、それが面白い部分でもある。ふとよぎることがある、これが壊れちゃったら……と」



舞台は一回性を生きざるをえない。映画と違ってやり直しがきかない。だからこその真剣さも、本気さもある。しかし、その「怖さ」を、「失敗」ではなく「壊す可能性」として認識しているあたりに、彼女の非凡がある。



けれどもそれをスリルと呼んではいけないとは思う、とつづける。



「たとえばジェットコースターのような、とは言いたくない。だって……お芝居で気持ちよくなってはいけないから」



おそらく、永続的ではない関係性を生きることこそ、演技なのだろう。



願いや祈りに似た何かを抱えながら、美波は敬虔に演技表現をつづけている。そう思った。





取材:相田冬二 撮影:平田光二 ヘアメイク:小濱福介(D&N) スタイリスト:井伊百合子










美波's ルーツ



ハーフということもあり、他の人との違いを気にしていた。

自分が傷つくことも、相手を傷つけることもあるアイデンティティ。





美波(みなみ)プロフィール


2000年に映画『バトル・ロワイアル』でデビュー以来、舞台、映画、ドラマ、CMなど幅広く活躍。若手実力派女優として注目される。主な出演作は、舞台『エレンディラ』NODA・MAP『ザ・キャラクター』、映画『さくらん』『デトロイト・メタル・シティ』、ドラマ『有閑倶楽部』など。9/4(土)から舞台『ハーパー・リーガン』に出演する。













映画情報



映画『乱暴と待機』


『乱暴と待機』(2010/97分)



2010年10月9日(土)テアトル新宿 他にて公開

監督・脚本・編集:富永昌敬

原作:本谷有希子

出演:浅野忠信、美波、小池栄子、山田孝之

配給:メディアファクトリー・ショウゲート

(C)2010『乱暴と待機』製作委員会

公式サイト















厳選シアター情報誌

「Choice! vol.15」2010年9-10月号



「Choice! vol.15」2010年9-10月号 表紙


厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の“オビ”としても無料で配布されています。



毎号、演劇情報や映画情報を厳選して掲載。注目のアーティストをインタビューする連載“Artist Choice!”の他にも劇場・映画館周辺をご案内するお役立ちMAPやコラムなど、盛りだくさんでお届けします。

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◇ステージラインナップ



『シダの群れ』

日程:9/5(日)~29(水)

劇場:Bunkamuraシアターコクーン



・さいたまゴールド・シアター第4回公演『聖地』

日程:9/14(火)~26(日)

劇場:彩の国さいたま芸術劇場 小ホール



・表現・さわやか『アラン!ドロン!』

日程:9/1(水)~14(火)

劇場:駅前劇場










◇シネマラインナップ



『乱暴と待機』

公開日:10/9(土)~

上映館:テアトル新宿



『ブロンド少女は過激に美しく』

公開時期:9月

上映館:日比谷 TOHOシネマズ シャンテ



『悪人』

公開日:9/11(土)~

上映館:シネクイント新宿ピカデリー








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“なにか、壊れる音がする。それって、ずっと残る” ─女優・美波『乱暴と待機』について語る【前編】 http://www.webdice.jp/dice/detail/2610/ Mon, 30 Aug 2010 15:34:33 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動インタビュー企画“Artist Choice!”。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載です。



今回は10月9日に公開される、本谷有希子原作を冨永昌敬監督が映画化した『乱暴と待機』に浅野忠信らと出演する女優・美波氏のインタビュー前編。後編は9月下旬更新予定です。












俳優は関係性を立証しなければいけない



映画『乱暴と待機』が素晴らしい。今年のベストワンかもしれない、と正直な感想を、ごく控え目に伝えると、美波は「ねえ?」と素直に表情を輝かせ、そのまま作品について語り出した。



「四人だけ、なんですよね。それだけに密に詰まってて。空間も詰まって、人も詰まってて。そのすれ違いが繊細に映されたんじゃないかな。四人だけだと、その人の不器用さ、エグさ、滑稽さに共感できると思うんですよ。あの空間……人数って、すごく大きいなと思いました」



「密に詰まってて」が「蜜が詰まってて」と聞こえた。素敵な表現だと思った。実際、この映画には「蜜」がたくさん詰まっている。美波はその蜜の一部なのだが、彼女自身がその蜜を享受している。そのいささかもためらうことのない、オーガニックでスポンティニアスな語りが、心地よく響いてくる。



自身の出演作について話すことが、そのひと自身についての表現につながることがある。作品論でも監督論でもない。演技論でも俳優論でもない。『乱暴と待機』について話す美波のすがたそのものから、彼女という人間がくっきり浮かび上がってくる。



四人の男女が蠢く愛と憎のストーリーである。それぞれのキャラクターの「芯」と「面」の触れ合わなさが、すぐそばにいる感覚で伝わってくる。そんな映画。



「明らかにその『芯』が、みんな、噛み合わないから、いくら『面』で合わせようとしても、絶対に合わない。だから、もどかしい。こういうことでしか、一緒にいられない。この四人が合わない、ということを立証しなければいけないと思った。それを理解しておく必要がありました」



理解と立証。演技をこのように形容する人はあまりいない。理詰め、のようでいて、そうではない。デジタルではなくアコースティックなひたむきさで、彼女は立証しようとする。何を? 立証すべき何かを。








わからないことほど繊細に楽しんで



「(挙動不審なヒロイン)奈々瀬の行動の基になる根源の考え方は、わからない。でも彼女は、彼女の基準で生きているから。でも、彼女も、それでいい、とは思ってない。どこか、甘えて生きてきてもいる。それでいいとは思ってないけど、どこかぐだぐだ。たとえば、何でも臭いを嗅いでしまうひとがいるでしょう?他人から見たら、それは気持ち悪いってわかってるけど、ちょっと嗅ぎたいんだよね、っていうような。これはおかしい、これは違うって、わかってるけど、でも、たまらない、っていう」



言葉が飛翔する。話すこと、伝えることを、平明に信じているから、話題が越境することが突飛にならない。ナチュラルに共感回路を刺激してくる。演じ手という存在が、言葉を生業としている人であるという当たり前の事実に不意打ちをくらう。



客観的認識と圧倒的主観。それらがせめぎ合うというより、平行線のまま存在すること。美波の人物に対する視座は、冷静なように見えて実はあたたかい。



「本来であれば、自我が芽生えて、通過する地点。社会に出る上での通過点、それが超えられてない。自分にも似ているところがあるけど、一応、超えてはいるので、超えられてない奈々瀬を演じるのは、すごく楽しかった。でも、繊細なところだから、はみ出さないように、すごく気をつけてはいた」



ちょっとだけ上から。低空飛行するように紡ぎ出されるその表現。

ある場面、演じた人物が迎えた推移を悔やみ、そして心を痛める。役を自分の支配下に置かず、寄り添い、いたわるようなまなざしが無意識に宿っているからだろう。それは俳優としての生理や技術ではなく、ひとりの人間としての性質や反応に近い。



「なにか、壊れる音がする。それって、ずっと残る」



美波は、付き合っている。映画の撮影が終わり、作品が完成したいまも。奈々瀬という女性と。そんな気がする。そうでなければ、こんなふうには話せない。



演技だが、それは経験なのだ。



取材:相田冬二 撮影:平田光二 ヘアメイク:小濱福介(D&N) スタイリスト:井伊百合子










美波's ルーツ



ハーフということもあり、他の人との違いを気にしていた。

自分が傷つくことも、相手を傷つけることもあるアイデンティティ。





美波(みなみ)プロフィール


2000年に映画『バトル・ロワイアル』でデビュー以来、舞台、映画、ドラマ、CMなど幅広く活躍。若手実力派女優として注目される。主な出演作は、舞台『エレンディラ』NODA・MAP『ザ・キャラクター』、映画『さくらん』『デトロイト・メタル・シティ』、ドラマ『有閑倶楽部』など。9/4(土)から舞台『ハーパー・リーガン』に出演する。













映画情報



映画『乱暴と待機』


『乱暴と待機』(2010/97分)



2010年10月9日(土)テアトル新宿 他にて公開

監督・脚本・編集:富永昌敬

原作:本谷有希子

出演:浅野忠信、美波、小池栄子、山田孝之

配給:メディアファクトリー・ショウゲート

(C)2010『乱暴と待機』製作委員会

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「Choice! vol.15」2010年9-10月号



「Choice! vol.15」2010年9-10月号 表紙


厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の“オビ”としても無料で配布されています。



毎号、演劇情報や映画情報を厳選して掲載。注目のアーティストをインタビューする連載“Artist Choice!”の他にも劇場・映画館周辺をご案内するお役立ちMAPやコラムなど、盛りだくさんでお届けします。

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◇ステージラインナップ



『シダの群れ』

日程:9/5(日)~29(水)

劇場:Bunkamuraシアターコクーン



・さいたまゴールド・シアター第4回公演『聖地』

日程:9/14(火)~26(日)

劇場:彩の国さいたま芸術劇場 小ホール



・表現・さわやか『アラン!ドロン!』

日程:9/1(水)~14(火)

劇場:駅前劇場










◇シネマラインナップ



『乱暴と待機』

公開日:10/9(土)~

上映館:テアトル新宿



『ブロンド少女は過激に美しく』

公開時期:9月

上映館:日比谷 TOHOシネマズ シャンテ



『悪人』

公開日:9/11(土)~

上映館:シネクイント新宿ピカデリー







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「けじめをつけるために1回、終わりにする」劇団M.O.P.解散について語る ─女優・キムラ緑子インタビュー 【後編】 http://www.webdice.jp/dice/detail/2567/ Mon, 02 Aug 2010 16:48:12 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動インタビュー企画“Artist Choice!”。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載です。



今回は8月に、約25年在籍した劇団M.O.P.の最終公演『さらば八月のうた』への出演が決まっている、女優・キムラ緑子氏のインタビュー後編。




【関連記事】 - この記事は後編ですので前編よりお読みください。

「理想はやっぱり“ただ居る”をやり続けること」 女優・キムラ緑子インタビュー 【前編】(2010-07-01)













解散は冷静に受け止められた




こまやか、という字は「細やか」とも「濃やか」とも書く。一見、相反する内容のようだが、ほんの短い登場シーンでも鮮やかな印象を残すキムラ緑子の演技を思う時、「細やか」と「濃やか」の一致を納得できる。



しかしその一方でキムラは、物語の中心にいて作品全体を引っ張っていくヒロインとしても、華々しく輝く。情にもろい優しい女性であれ、相手を手玉に取る計算高い女性であれ、男を破滅に導くファム・ファタルであれ、120%の説得力で体現して見せる。特に所属劇団M.O.P.では1984年の旗揚げから“ザ・ヒロイン”を演じてきた。



「役者になるつもりなんてなかったんですけど(笑)。大学で、芝居をやりたいという友達に“サークルの見学に行くからついてきて”と言われて、初めて観たのがマキノノゾミ(M.O.P.の作・演出家。かつては役者としても活躍)がやってた、つかこうへいさんの芝居で。それが格好よくて、ものすごい衝撃だったんです」



そしてマキノが立ち上げた劇団M.O.P.にも入団、外部の仕事も精力的にしながら、これまで、在籍してきた。



「だから劇団は、私の演劇の原点であり、今やっている演劇のすべてですよね。ここであらゆることを学んだし、こうして今も仕事がやれてるのは、間違いなくM.O.P.のおかげですもん」



そのM.O.P.が、現在上演中の『さらば八月のうた』をもって解散する。26年も続いた、大人が楽しめる作品を提供し続けてきた人気劇団のピリオドを惜しむ声は、あまりにも多い。



「最近はお子さん連れで観に来てくれたり“家族が増えました”ってメールをくださったり、長く観てくださっていたファンも多い劇団でしたからね。でも私達としては、とてもすんなり受け止められたんですよ」



解散の話は3年前に聞かされたという。



「マキノ(作・演出・主宰のマキノノゾミ)が言ったんです、“3年後に解散したい”と。反対する人や理由を聞く人はひとりもいませんでした。なんとなく、そういう空気をみんな感じていたんでしょうね。劇団でなければ経験できない、めちゃくちゃ楽しい時間を過ごしたのは間違いないんです。でも、もうずっと公演ペースが年1回で、たとえ1回でも仕事とは違う種類の楽しさがある素敵な時間だったんですけど、それぞれの優先するものの順番が変わってきたのかもしれません。稽古も入れたら2ヵ月、そういう時間を持つのが段々と大変になってきたりして。ただ、時間のことを言ったら、誰よりもマキノが大変だったと思います。外部の仕事が忙しくなってきて、どの仕事も責任をもってやろうとすると、時間のやりくりだけで苦しかったんじゃないかしら。それに、解散と言っても2度と会わなくなるわけじゃないですから。“けじめをつけて1回辞めてみようよ”みたいな感じなので、本人達は意外と冷静なんですよ」






改めて原点に戻って新鮮な気持ちで



その冷静さが保てているのは、マキノが仕掛けたソフトランディングの効果だったのかもしれない。楽しそうな空気のまま、楽しめる余力のあるまま解散するのは、ある意味で理想的な終わり方だと言えるのだから。



「ファイナルの前の年にセミファイナル公演と名付けてたりしたせいか“あれ、まだ解散してなかったの?”と聞かれたりもしたんですけど(笑)。でも“あと2年、あと1年”と考えながら公演ができたのは、すごくよかったと思います。起きることどれもが、関係しているひとりひとりが、これまで以上に大切に感じられたんです。“ああ、何十年か前に初めて出会ったんだよね”って思いながらせりふを返せたこととか“小道具、あの人がいつも作ってくれてたよな”と思いながら改めて小道具を手に取るとか、そういうことができたんです。その意味では、劇団という形にこだわってダラダラ続けているより本当によかったと思います」



さっぱりとした表情で、真っ直ぐ言う。その顔つきと言葉からは、思い残したことはひとつもないという気持ちが容易に汲み取れる。だが「この公演が終わったあと」に話が及ぶと、急に涙ぐんだ。



「やだ、なんだろう、ごめんなさいね。今、劇団がなくなったあとの時間を想像したら、すごくリアルに寂しくなっちゃった。(全公演が終わった)8月の終わりとか、一気にぼんやりしちゃうのかな」



ポロポロこぼれる涙を拭きながら、こう続ける。



「ちょっと前からだけど、時間を使って、お金使って、劇場に足を運んで来てくれるお客さんがいることの凄さ、ありがたさが、実感としてわかるようになってきたの。……これだけ長いことやってきて、今頃それがわかったなんて言ったら怒られちゃうかもしれないけど(笑)、そこは本当にごめんなさいだけど、これからまた原点に戻って、新鮮な気持ちでお芝居ができたらいいなと思ってるのね。だからM.O.P.も私も、そこをまた楽しんでもらえればいいかな、と思うんです。と言っても、先の見えない商売ですからね、どうなることやら、ですけど。アハハ!」



笑顔、涙、そして最後にまた笑顔。いずれにしても、目が離せない引力を放出し続ける。核にあるのは、真剣さだ。この瞬間ごとの真剣さが、どんな役の輪郭も「こまやか」にする秘密なのかもしれない。




取材:徳永京子 撮影:平田光二













キムラ緑子’sルーツ



つかこうへい作品。

マキノはつかさんが好きでお芝居をしてて、

私はそれを観て衝撃を受けてお芝居を始めました。



◇劇団つかこうへい事務所 [1974-1982]

劇作家・つかこうへいにより旗揚げ。風間杜夫、平田満、加藤健一、柄本明、萩原流行、石丸謙二郎、根岸李衣などの人気俳優を続々と世に送り出し、演劇界に「つかブーム」を巻き起こした。“新劇臭”を払拭した作品世界は特に若者層から熱狂的に支持された。74年、「熱海殺人事件」で岸田國士戯曲賞、80年、「蒲田行進曲」で紀伊國屋演劇賞を受賞。82年解散。






キムラ緑子(きむら・みどりこ)プロフィール


1984年の劇団M.O.P.の旗揚げ以来、看板女優として、『HAPPY MAN』『エンジェル・アイズ』『阿片と拳銃』などに出演。劇団以外にも、テレビ、映画、外部公演と幅広く活躍。十三夜会賞・個人賞(93年)、第32回紀伊國屋演劇賞個人賞(97年)、第12回読売演劇大賞優秀女優賞(05年)など受賞歴も多数。











公演情報




劇団M.O.P. 最終公演

『さらば八月のうた』



日程:[東京公演] 2010年8月4日(水)~16日(月)

劇場:紀伊國屋ホール

作・演出:マキノノゾミ

出演:劇団M.O.P.全メンバー 他



劇団M.O.P. 最終公演 『さらば八月のうた』


撮影:林建次













厳選シアター情報誌

「Choice! vol.14」2010年7-8月号



「Choice! vol.14」2010年7-8月号


厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の“オビ”としても無料で配布されています。



毎号、演劇情報や映画情報を厳選して掲載。注目のアーティストをインタビューする連載“Artist Choice!”の他にも劇場・映画館周辺をご案内するお役立ちMAPやコラムなど、盛りだくさんでお届けします。

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◇ステージラインナップ



・パルコ劇場公演『空白に落ちた男』

日程:7/24(土)~8/3(火)

劇場:パルコ劇場




・ナイロン100℃『2番目、或いは3番目』

日程:6/21(月)~7/19(月・祝)

劇場:本多劇場




・DuckSoup produce 2010『透明感のある人間』

日程:7/3(土)~11(日)

劇場:ザ・スズナリ




『真夜中のパーティー』

日程:7/4(日)~19(月・祝)

劇場:PARCO劇場




『ファウストの悲劇』

日程:7/4(日)~25(日)

劇場:Bunkamuraシアターコクーン




・劇団、江本純子『婦人口論』

日程:7/15(木)~25(日)

劇場:東京芸術劇場劇 小ホール1






◇シネマラインナップ



『ルンバ!』

公開日:7 /31(土)~

上映館:日比谷 TOHOシネマズ シャンテ




『SR サイタマノラッパー2~女子ラッパー☆傷だらけのライム~』

公開日:6/26(土)~

上映館:新宿バルト9




『ぼくのエリ 200歳の少女』

公開日:7/10(土)~

上映館:銀座テアトルシネマ




『バード★シット』

公開日:7/3(土)~

上映館:新宿武蔵野館




『恐怖』

公開日:7/10 (土)~

上映館:テアトル新宿




『トルソ』

公開日:7/10 (土)~

上映館:ユーロスペース




『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』

公開日:7/17 (土)~

上映館:新宿武蔵野館




『何も変えてはならない』

公開日:7/31 (土)~

上映館:ユーロスペース








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「理想はやっぱり“ただ居る”をやり続けること」 女優・キムラ緑子インタビュー 【前編】 http://www.webdice.jp/dice/detail/2516/ Tue, 29 Jun 2010 15:08:02 +0100

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動インタビュー企画“Artist Choice!”。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載です。





今回は8月に、約25年在籍した劇団M.O.P.の最終公演『さらば八月のうた』への出演が決まっている、女優・キムラ緑子氏のインタビュー前編。後編は、8月上旬更新予定です。













余計なことをした自分に気付いてショック




どんな役でも変わらない気持ちで演じます──。これまでしてきたたくさんのインタビューで、何人もの役者の口からその言葉を聞いてきた。それが嘘でなかった人も少なからずいたと思う。でも、気持ちだけでなく技術でもそのふたつを成立させられる人は、とてもとても少ない。キムラ緑子は、いつもブレなくそれを見せてくれる貴重な女優だ。



「えー、本当?本当ならうれしいですけど」



美人なのに人懐こい、外に開かれた笑顔。



「でも作品そのものがしっかりしていれば、どんな役だって根付いて見えるんじゃないかと思うんですが」



何も秘密はありません、とばかりにカラリと言うが、もちろん現実はそんなに簡単でないことを、私達は実感として知っている。短い登場シーンで強い印象(強烈なインパクト、ではない)を残して「あの人、誰?」と思わせる役者がのちのち売れていくわけだが、しっかりしていない作品でもそういうサクセスケースはあるし、作品がしっかりしているからと言って、隅から隅までそうした役者で埋められていることなどないからだ。



だからやっぱり、根付きの深さが違うという点で、キムラ緑子は別格だと言わなければならない。たとえば『命』(02年)という映画があった。キムラの役は、豊川悦司演じる演出家の病室にほんの一瞬だけ訪れる、ベテラン劇団制作者。『嫌われ松子の一生』(06年)では、父親との関係が主人公・松子の性格に大きく影響を与えたという設定の、松子の母親役。作品紹介のあらすじには登場しないそれらの人物が、キムラ緑子という演じ手を通すと、途端に重要性を帯びてくる。ウソであるはずの映画の時間を本当にする。スクリーンには映っていない物語の時間を、ちゃんと想像させてくれる。



「背景が見える感じ?ああ、うれしいですね。言ってもらって嬉しいのは “そこにいる感じがする”という言葉です。薬屋さんなら薬屋さんでずっと働いてきた人に見える、みたいな」



観客にとっては観たい、役者にとってはそうありたい、監督にとってはありがたい。そんな演技はどこから生まれるのだろう。



「印象に残るとしたら声じゃないですか。“あの太い声の女の人、誰?”みたいな(笑)。違う?でももしかしたら、芝居がちょっと濃いのかもしれませんね。たとえば舞台で、誰かとデュエットするとか、同じ振り付けをするとか、全員で並んで歌うとか、そういう時、たまにね、必要以上に頑張っちゃう自分を見つけたりするんですよ。何かちょっと、余計なものをくっつけてみたくなるんでしょうね。見つけた時は落ち込みましたよ。“うわ、私、ダメだわ”って。理想はやっぱり“ただ居る”をやり続けることですもん」



無自覚と自覚の間で、反省と努力を繰り返す──。つまりそれは、プロフェッショナルであるということだ。それを実際の演技に落とし込むことが、きわめて難しいわけだが。



「……必死でやるしかないんですけど(笑)。真ん中の役でも、そうでない役でも、基本はやっぱり一緒ですよ。その人の人生を一生懸命考えて、こんな人だったらこういう喋り方するなとか考えていく。でもやっぱり、だいたい台本通りにやっていけば出来上がっていくんですよ」




キムラ緑子








自分の生理に正直に、相手を喜ばせる




その具体的な作業手順を、最近の出演作を挙げて教えてくれた。



「山田洋次監督の『おとうと』という映画にワンシーン出たんですけど、私の役は(笑福亭)鶴瓶さんが演じる鉄郎と付き合っている、頭がちょっと緩い女の人だったんですね。せりふが少しだったので、あまり細かく(役のプロフィール的なことは)書いてない。“この中でどうしようか?”と考えて私がやったことは、まずメイクさんにお化粧を濃く頼んで、髪はバサッとしてもらう。それから左利きの人にしてみたんです、文字を書くシーンがあるから。左利きだと多少、書き方も仕草もたどたどしくなるかなと。あとはもう、お金欲しいから来たとか、あの人が大好きだからいるとか、台本に書かれている気持ちみたいなものを核に持ってせりふを喋ったんですね。だから……本当に基本的なことを心がけているつもりです」



ほらやっぱり秘密なんてないのよ、と言わんばかりに照れまじりに「基本」という言葉を口にするが、演じる役と作品の世界に溶け込んで生きる努力を、当たり前にしていることがわかる。もしかしたら、そういう作業が単純に好きなのだろうか。



「好き、とは違うかな。役をつくる作業は苦しいです。散々、すったもんだします。まったく違う方向に行ったり、何も浮かばなかったり、浮かんでもできなくなったりとか、いろんなところに行ってジタバタして、最終的になんとか間に合う感じですね。舞台だとその期間が長い分、七転八倒や遠回りしたりもたくさんしますよね。もしかしたら、役者はそういう人が多いんじゃないかと思いますけど、私、体がすごく正直なので、腑に落ちないと本当に気分が悪くて吐きそうになるんです(笑)。だから自分の生理(と役)がつながるまでは、身体も心も本当につらいですね。そこから脱出するためには結局、何度も何度も稽古するしかないんですけど」



もちろん、自分の気持ち良さだけを求めて、ひとりの世界で自問自答を繰り返すのではない。悩めば監督や演出家に積極的に質問するなど、常に気持ちを開くことを心がけている。



「監督や演出家さんが言ってくれることは絶対に試します。その人が男性であれ女性であれ、演出家の好む女になりたいタイプなので(笑)。やってみてそれが合わない、納得できないと思ったら、それも言います。“私は違うと思うんだけどな”と思いながら、黙って言われたことだけするのも苦手なので。……言わなくても、私が気持ち悪そうなのが伝わって、向こうから“違うこと試そうか”って言ってもらったりもしますけど(笑)。でもいずれにしても、やってみて、自分が納得できたことを向こうも喜んでくれたら、最高にうれしくなる。演出家を喜ばせたいんです。劇団(M.O.P.)の演出家と夫婦だったこともあって、その癖がついてるのかもしれません(笑)」



約25年在籍していたその劇団が、この8月で解散する。キムラ緑子の原点をつくった劇団M.O.P.について、次回で聞く。




★インタビューは後編に続きます。後編は8月上旬更新予定。



取材:徳永京子 撮影:平田光二












キムラ緑子’sルーツ



つかこうへい作品。

マキノはつかさんが好きでお芝居をしてて、

私はそれを観て衝撃を受けてお芝居を始めました。



◇劇団つかこうへい事務所 [1974-1982]

劇作家・つかこうへいにより旗揚げ。風間杜夫、平田満、加藤健一、柄本明、萩原流行、石丸謙二郎、根岸李衣などの人気俳優を続々と世に送り出し、演劇界に「つかブーム」を巻き起こした。“新劇臭”を払拭した作品世界は特に若者層から熱狂的に支持された。74年、「熱海殺人事件」で岸田國士戯曲賞、80年、「蒲田行進曲」で紀伊國屋演劇賞を受賞。82年解散。






キムラ緑子(きむら・みどりこ)プロフィール


1984年の劇団M.O.P.の旗揚げ以来、看板女優として、『HAPPY MAN』『エンジェル・アイズ』『阿片と拳銃』などに出演。劇団以外にも、テレビ、映画、外部公演と幅広く活躍。十三夜会賞・個人賞(93年)、第32回紀伊國屋演劇賞個人賞(97年)、第12回読売演劇大賞優秀女優賞(05年)など受賞歴も多数。











公演情報




劇団M.O.P. 最終公演

『さらば八月のうた』



日程:[東京公演] 2010年8月4日(水)~16日(月)

劇場:紀伊國屋ホール

作・演出:マキノノゾミ

出演:劇団M.O.P.全メンバー 他



劇団M.O.P. 最終公演 『さらば八月のうた』


撮影:林建次













厳選シアター情報誌

「Choice! vol.14」2010年7-8月号



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厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の“オビ”としても無料で配布されています。



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◇ステージラインナップ



・パルコ劇場公演『空白に落ちた男』

日程:7/24(土)~8/3(火)

劇場:パルコ劇場




・ナイロン100℃『2番目、或いは3番目』

日程:6/21(月)~7/19(月・祝)

劇場:本多劇場




・DuckSoup produce 2010『透明感のある人間』

日程:7/3(土)~11(日)

劇場:ザ・スズナリ




『真夜中のパーティー』

日程:7/4(日)~19(月・祝)

劇場:PARCO劇場




『ファウストの悲劇』

日程:7/4(日)~25(日)

劇場:Bunkamuraシアターコクーン




・劇団、江本純子『婦人口論』

日程:7/15(木)~25(日)

劇場:東京芸術劇場劇 小ホール1






◇シネマラインナップ



『ルンバ!』

公開日:7 /31(土)~

上映館:日比谷 TOHOシネマズ シャンテ




『SR サイタマノラッパー2~女子ラッパー☆傷だらけのライム~』

公開日:6/26(土)~

上映館:新宿バルト9




『ぼくのエリ 200歳の少女』

公開日:7/10(土)~

上映館:銀座テアトルシネマ




『バード★シット』

公開日:7/3(土)~

上映館:新宿武蔵野館




『恐怖』

公開日:7/10 (土)~

上映館:テアトル新宿




『トルソ』

公開日:7/10 (土)~

上映館:ユーロスペース




『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』

公開日:7/17 (土)~

上映館:新宿武蔵野館




『何も変えてはならない』

公開日:7/31 (土)~

上映館:ユーロスペース








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“最終的には、一坪の土地と一人の俳優でいい。” 蜷川幸雄インタビュー 【後編】 http://www.webdice.jp/dice/detail/2423/ Fri, 07 May 2010 18:53:12 +0100

2010年5-6月号より再創刊し、パワーアップしてかえってきた厳選シアター情報誌「Choice!」との連動インタビュー企画“Artist Choice!”は音楽劇『ガラスの仮面~二人のヘレン~』の公演も8月に予定されている演出家・蜷川幸雄氏のインタビューの後編。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載です。



【関連記事】 - この記事は後編ですので前編よりお読みください。

“新旧の世代、両方を認め、理解したい” 演出家・蜷川幸雄インタビュー 【前編】(2010-05-10)













経済的な問題は、

いつの時代も付いて回る




もし今“日本の興行"という海で投網漁よろしく網を放ったなら、景気の悪い話が大量に引き揚げられるだろう。演劇の世界でも「観客が入っていない」や「助成金が削減」という不景気な言葉があちらこちらで飛び交っている。そんな中で、休憩を入れた通し上演が10時間の『コースト・オブ・ユートピア』(2009年9月、Bunkamuraシアターコクーン)や、同じく通しが8時間となった『ヘンリー六世』(2010年3月、彩の国さいたま芸術劇場)など、大作をつくり続けている蜷川幸雄。だがいくら “世界のニナガワ"とはいえ、この逆風を感じていないはずはない。世界を覆う不況感をどう受け止めているのか、そう水を向けると、一瞬の間の後にきっぱりとこう返ってきた。



「そういう問題は、いつの時代でもあるんだよ」



言外に、そんな問題は大前提であって今さら騒ぐことではない、と言っている。つまり、悩むべきは状況ではなく、表現についてだろう、と。



「俺はアングラの劇団をつくる時、ひとり10万円ずつ持ち寄って資本金40万でスタートした。当然、金なんかないよね。その後、商業演劇で仕事するようになって、そっちは豊かだろうと思ったら、実は使い道にすごく厳しかった。そのあとロンドンで芝居をやったら、さらにシビアだったんだよ。“ニナガワ、ウエストエンドだからお金は使えないよ"というのが、あっちのプロデューサーの第一声だったんだから(笑)」



大げさな話かと思ったら、「シビア」という表現がぴったりの徹底した倹約ぶりだった。



「ボール紙1枚買うのにもプロデューサーの許可が要ったの。ボール紙を人型に切ったものがたくさん必要になって、見込みで100枚欲しいと言ったら“何にどう使うの?本当に100枚必要なの?見込みじゃだめ"って。たかが、と言ったら悪いけど、特別なものじゃない、普通のボール紙だよ?一事が万事その調子で、経費という点ではすごく大変だった。やっぱりロンドンで『夏の夜の夢』をやった時は、舞台下手(しもて)の入口にアーチ型の穴をつくりたくなって、ベニヤ板1枚切っていいかって聞いたら、地方に出張に行ってたプロデューサーが帰ってきて言うんだよ。“ニナガワ、だったら小さいべニヤの切れ端を3枚合わせればできるでしょ。新しいベニヤを買う必要はないよね"って。やってみたら確かにできたんだけど、さすがにそれには驚いたね。稽古場で使った物は本番でも必ず使ってほしいとも言われたし、徹底してるんだ。1円も無駄にできないってことが本当に骨身に染みた」



楽に作品がつくれる場所などどこにもない。でもそれはおそらく、蜷川自身が無意識のうちに予感していたことだろう。なぜなら、楽をしたくて演劇を選んだはずなどないのだから。大切なのは、そうした体験を通して、自分にとって1番大切なもの、絶対に捨てられないものを確認するという作業だ。だから蜷川は言う。



「最終的にどう腹をくくってるかってことだよね。それで言うと、一坪の土地と一人の俳優と俺がいりゃ、芝居ができると思ってる。それはもうはっきり決めてるの。仕事の依頼が来なくなって、使わせてくれる劇場がなくなっても、まぁいいんだ」



さいたまネクスト・シアターについて聞いた時(前回インタビュー)、「表面的なものを全部取っ払って残った自分がどの程度の表現力を持ってるか、そのことを問う作業をしない人とは共同作業はできない」と語った蜷川だったが、自身に対してもその問いを持ち続けているのだ。



「そう考えるようになったきっかけ?社会的にはそれなりに売れていたんだけど、自分ではダメだなと思った時期があったんだよ。“いい仕事、来ねぇな"って、ちょっと腐ってて。これじゃダメだって、自分のお金でベニサン・ピットを借りて『夏の夜の夢』を自主上演したの(94年)。マネージャーが足してくれた分と合わせて400万円でね。その時の演出が、竜安寺の石庭を引用した美術だったりして、後々世界に出ていくきっかけになるんだけどさ。かつらが買えないから、黒いビニール袋を割いて自分達でかつらをつくったり。その時に“あ、これだ、何もいらないんだ。一坪の土地があって一人のいい俳優がいてくれれば、何だってできるんだな"と思えた。そう思って腹をくくったら恐れるものはなくなった。……そりゃ、使える時は製作費を使うけどさ(笑)」






お客さんを呼ぶためには3つの要素を押さえる




一坪の土地と一人の俳優。その言葉をたどっていくと、おびただしい数の仕事は、いつか来るかもしれない、自分と1対1で芝居をつくってくれる相手を探す過程なのかもしれない。



「そうそう。運命の恋人を探すみたいに。たとえば僕が社会的に何もかも失ってもだよ、それでも一緒に芝居をつくってくれる人、“あいつと何かやってあげよう"と思ってくれる人がいるといいなって思うよね。だから、僕は結構マメなんだ。(自分が演出した舞台を観に)俳優さんが来る日は、なるべく劇場に行って挨拶するようにしてる。でも長い休憩時間より、短い休憩時間に顔を合わせたほうが、向こうも気を使わないで済むかな、とか考えてさ。そうやって出てもらえる人を探して、普段からコミュニケーションしてるんだ。“出てほしい"と思う人には、ロケバスやスタジオに押しかけたり撮影所で口説いたり、とどめは“早く出ないと、俺、死んじゃうよ!"(笑)。実際の恋愛だと口説けなかったんだけど、これは頑張れるんだよなぁ」



相手を気遣うこと、恥ずかしがり屋であることに関しては人後に落ちない蜷川が、あえてそんな行動を取るのは、究極のパートナー探しであると同時に、劇場により多くの人を集めるためでもある。



「俳優を見たくて舞台に足を運ぶ人はたくさんいるでしょ。それは当然、演劇の大事な要素だから。理念ばっかり語っても──作品に理念を持つことが悪いとは全然思わないし、僕自身がそっちに行きがちだけど──、お客さんに観てもらわないことには演劇は始まらない。たとえば(自分が芸術監督を務めている)彩の国さいたま芸術劇場なんて都心から離れているわけで、相当の発信力がないとお客さんには来てもらえないんだよね。だから男優に女性役やらせて(彩の国さいたま芸術劇場のオールメール・シリーズ。シェイクスピア劇をすべて男優で上演する)、気持ちとしては呼び込み口上みたいなものですよ。“はい、難しいことはいいません、芸能です、どうぞ来てください"って。イメージとしては、映画『天井桟敷』の見せ物通りみたいなワイワイした感じ。でも大勢の人に観てもらおうと思ったらそれくらいしなくちゃ。俳優、演出、ドラマ全体、それぞれが見たい人がいるんだから、それぞれにアプローチできるものにしなくちゃいけないとはいつも考えてる。チラシのデザインだってそのひとつだよね。つまり演劇が持ってるいろんな要素の中の、せめて3つぐらいは話題になるものを打ち出していかないとお客さんは足を運んでくれないよね」



さて、そうした演劇を観たくなる要素のひとつに、演出家と劇作家の組み合わせが生む化学反応がある。この5、6年、初めての劇作家と組む機会が増えている蜷川だが、岩松了、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、青木豪に続き、遂に今年は30代の松井周の戯曲を演出することに。平均年齢71歳の演劇集団、さいたまゴールド・シアターの9月公演だ。



「俺、本当は人見知りだしさ、すごく怖いんだよ、新しく出会う劇作家の言葉をちゃんと演出できるかどうか。でも(若い世代の劇作家と組むと)自分が勉強するかなと思って。歯が立たないような世界が描かれていたり、わからないせりふがあったりすると、今までの自分を疑わなきゃいけないでしょう。そうしたら、どうしたって自分が勉強するだろうと。勉強して、観た人から“蜷川さん、今度のいいね"って言われたいんだ、単純に。それと、せいぜい130度ぐらいで、180度は無理かもしれないけど(笑)、ある程度開かれた年寄りもいるんだってことを伝えたいからね」



やはりこの人は、未来に向けての大きな希望だ。






(取材:徳永京子 撮影:平田光二)








蜷川幸雄’sルーツ




劇団青俳時代。

留年や受験失敗でコンプレックスだらけ、

それを隠そうとしてとがってた俺を、先輩たちがおもしろがってくれたんだ。




◇劇団青俳[1952-1979]

岡田英次、織本順吉、金子信雄、木村功、本田延三郎らが「青年俳優クラブ」として設立(54年改名)。昭和の舞台・映画・放送界を代表する数多くの才能を輩出した。おもな出身者は、西村晃、小松方正、蟹江敬三、石橋蓮司、宮本信子、斉藤晴彦、本田博太郎、三田村邦彦など。79年解散。





蜷川幸雄(にながわ・ゆきお)プロフィール


彩の国さいたま芸術劇場芸術監督。1955年に劇団青俳に入団、67年には劇団現代人劇場を創立。69年『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビューを果たして以来、多数の作品を手掛ける。近年の主な作品は『ムサシ』『コースト・オブ・ユートピア』『血は立ったまま眠っている』『ヘンリー六世』等。










公演情報



ガラスの仮面~二人のヘレン~


彩の国ファミリーシアター

音楽劇『ガラスの仮面~二人のヘレン~』



日程:2010年8月11日(水)~27日(金)

劇場:彩の国さいたま芸術劇場 大ホール

原作:美内すずえ

脚本:青木 豪

演出:蜷川幸雄

音楽:寺嶋民哉

出演:大和田美帆 奥村佳恵・ 夏木マリ 他

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厳選シアター情報誌

「Choice! vol.13」2010年5-6月号



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◇ステージラインナップ



NODA・MAP『ザ・キャラクター』

日程:6/20(日)~8/8(日)

劇場:東京芸術劇場 中ホール




『裏切りの街』

日程:5/7日(金)~30日(日)

劇場:パルコ劇場




ブルドッキングヘッドロック『Do!太宰』

日程:5/14(金)~23(日)

劇場:三鷹市芸術文化センター・星のホール





◇シネマラインナップ



『さんかく』

公開日:6/26(土)~

上映館:ヒューマントラストシネマ渋谷 / 池袋テアトルダイヤ 他





『川の底からこんにちは』

公開日:5/1(土)~

上映館:ユーロスペース




『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』

公開日:5/15(土)~

上映館:新宿武蔵野館 他






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“新旧の世代、両方を認め、理解したい” 演出家・蜷川幸雄インタビュー 【前編】 http://www.webdice.jp/dice/detail/2394/ Wed, 21 Apr 2010 10:57:27 +0100

2010年5-6月号より再創刊し、パワーアップしてかえってきた厳選シアター情報誌「Choice!」との連動インタビュー企画“Artist Choice!”がwebDICEでも連載再開!「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載です。



連載再開、第一弾は美内すずえ原作の音楽劇『ガラスの仮面~二人のヘレン~』の公演も8月に予定されている演出家・蜷川幸雄氏のインタビューの前編です。後編は6月上旬更新予定です。こちらもお楽しみに。












性格も育ちもいいけど、

想像力と厳しさがない



インタビューの始まりの蜷川幸雄は、いつも少し照れている。この日の開口一番のひとことも、それを自ら吹き飛ばそうとする気分が、少なからず含まれていたに違いない。



「リニューアルの第1弾に、俺みたいな年寄りが出てきたらダメなんじゃない?」



とんでもない。今年75歳になるこの人こそ、観客にとっても、つくり手にとっても、現在進行形で大きな希望だ。年に10本近い舞台を手がけながら、大きさと深さの両立を諦めない。胸のすくようなスペクタクル性を実現させながら、その中に、胸を刺すような繊細さを根付かせる挑戦を、飽きることなく続けている。そんな課題を背負って走っている理由は、ふたつの未来を諦めていないから。ひとつは自身の。そしてもうひとつは、日本の演劇の。



ガラスの仮面~二人のヘレン~


「一昨年やった『ガラスの仮面』で多勢の若い俳優と仕事をして、彼らが人との距離感を(物理的に)うまく取れないことに気が付いたんだよ。誰かとぶつかりそうになっても上手に身体をかわせない。相手に届く声が出せない。それはやっぱり、パソコンとか携帯とか機械を通じて人と付き合うようになったことが大きいんじゃないか。メキシコや韓国の映画を観てると、若くて野性むき出しの荒っぽい肉体を持った俳優がたくさん出てくる。このままじゃ、日本の俳優は世界に太刀打ちできないよ」










その危機感から、彩の国さいたま芸術劇場で若い役者を育てる機関として、さいたまネクスト・シアターと名付けた団体を立ち上げた。昨年の第1回公演『真田風雲録』は大好評を博したが、このインタビューの数日前、メンバーを、それまでの半数に当たる23人に絞ったという。



「みんな性格はいいんだよ。辞めてもらうことにした時も、ちゃんと挨拶に来てね。育ちがいいんだろうな。カリキュラムも言われたことはまじめにやる。でも、そこから先はどうしたらいいかという想像力がないんだな。うまくなるために今、自分は何をすべきなのか、俳優は常にそれを考えなくちゃいけないのに、それをしない。だから僕は、自分で実際にエチュードをやってみるか、うまい人を観るしかないと言ったんだけど、やらないんだよね」



もともと、前述のようにアグレッシブな役者を育成するために立ち上げた集団だから、受動に徹するメンバーの態度は蜷川を落胆させたが、猶予期間は設けていた。



「稽古場をオープンにしたの。『ヘンリー六世』(2010年3月上演)もそうだし、『コースト・オブ・ユートピア』(2009年9月上演)も、いつでも見学に来ていいよと(※この2作の稽古場は、ネクスト・シアターの拠点である彩の国さいたま芸術劇場だった)。海外だったら稽古場なんて滅多に見せてくれないよ。でも、芝居ってこうやってつくられていくんだってプロセスを目の前で見ると、ものすごく勉強になるからね。たとえば大竹(しのぶ)さんと(吉田)鋼太郎さんの(『ヘンリー六世』での絡みの)シーンなんて、演劇生活の長い僕からしても興奮するんだ。“そっちがこう来るなら、こっちはこう出る"って、モダンジャズのセッションみたいに自由でスリリングで、本当におもしろいんだよ。なのに彼らは一向に来なかった」



実は『真田風雲録』の稽古場を取材した際、こんな場面に出くわした。あるシーンをスローモーションにしようと蜷川がアイデアを出したが、ネクスト・シアターの面々はなかなかできない。何度かコツを伝えてもうまく行かないことに業を煮やした蜷川はこう檄を飛ばしたのだ。



「スローモーションは『コースト~』で多用した動きで、何度も稽古をしたんだよ。それを見ていれば、先輩達がどうやって形にしたかわかって、すぐにできたはずなんだぞ。なんでひとりも見学に来ないんだよ。勉強しないってことは才能がないってことだ」



ネクスト・シアターの稽古は、そうした演出的な動きや発声の指示から始まって、戯曲に書かれた時代の身のこなし、戯曲が書かれた時代の社会背景、演劇の歴史、参考にすべき映画のタイトルなど、蜷川自身が硬軟取り混ぜたさまざまな角度から作品をひもとく刺激的なものだった。それを「世界一受けたい演劇の授業」と私は呼び、当日パンフレット用にレポートを書いたのだが、その価値を切実に感じていた人は、残念ながら多くなかったらしい。



「なぜ来ないかと聞くと “バイトがあるから時間がつくれない"と言うんだな。結局、自分に対して厳しくないんだと思う。ネクスト・シアターは埼玉県が運営資金を出してくれてる活動なわけで、そんな連中に公共の金を使う理由はないからね」




蜷川幸雄




新しい世代と断絶するのではなく、受け容れる




志ある者は貧乏に耐えろと言っているのでも、今どきの若者は甘いと嘆いているのでもない。



「貧しくないのはいいことだよ。便利さや文明の進歩を享受できることが間違っているはずはない。ただ、生活の中心に何を置くべきかを考えないと。バイトを中心にして、そこそこいい家に住んでて、そこそこいいものを食べたり着たりして、うまくなりたいなんて。表面的なものを全部取っ払って残った自分がどの程度の表現力を持ってるか、そのことを問う作業をしない人とは、やっぱり共同作業はできない」



こう言葉を重ねながら、激怒はしても絶望しないのがこの人だ。妥協せず、自分のやり方だけを押し付けず、次の一手を探っている。



「授業のカリキュラム、どんな戯曲を選んで公演するか、そして、どうやって彼らと関わっていったらいいか。こちらとしても、いろんなことを再考しなければいけないと思ってる。一方的に僕の世代の暑苦しい思いを伝えてもダメだってことはわかってるからね。こっちは肉を食いちぎりながら走ってるんだけど、草を食べて“おいしいおいしい"というのもわかるからさ(笑)」



そうした世代格差は、もちろん今に限ったことでも、演劇に限ったことでもない。あらゆる表現は、新しい世代が生み出す新しい文化によって少しずつ更新されていく(時には天才の出現によって数段飛ばしで)。それを知っている蜷川は、自身が創作の最前線に居続けるためにも、自分が高い位置にいる傍観者でいることを好まない。



「まだ舞台を観てないし、戯曲も読んでないけど、岸田戯曲賞を獲った『ままごと』の柴(幸男)さんのラップを採り入れた演出なんて、そういう世代だから生まれたものでしょう。俺にはつくれないし真似もできない新しい才能は確実に台頭してて、それを無視することはできないよね。両方を理解して認めることが教養だと思うし。だから断絶するのではなくて、どちらも受け容れることはできないだろうかって考えてる。ゲームや漫画も含めてビジュアル的なものがつくろうとしている世界は、いまや無視はできないよね。一方で言えば、インターネット上の情報をチョイスしていく時は“選ぶ私"に対する疑問を持たないと、“私"の小ささがそのまま世界の狭さになってしまう。そこのところは大いに言っていいんじゃないかという気はするんだよな。だから、さいたまの稽古場を使った公演を少しずつ若い演出家達に使ってもらって、実験も大いにしてもらおうかと考えてるんだ。それを俺も見たいんだよな。若い演出家が一体どうやってつくるのかを目の当たりにしたい。そうすれば、俺がちょっと勉強できるかなって。うん、まだまだ負けたくないからさ(笑)」




★インタビューは後編に続きます。後編は6月上旬更新予定。



(取材:徳永京子 撮影:平田光二)











蜷川幸雄’sルーツ




劇団青俳時代。

留年や受験失敗でコンプレックスだらけ、

それを隠そうとしてとがってた俺を、先輩たちがおもしろがってくれたんだ。




◇劇団青俳[1952-1979]

岡田英次、織本順吉、金子信雄、木村功、本田延三郎らが「青年俳優クラブ」として設立(54年改名)。昭和の舞台・映画・放送界を代表する数多くの才能を輩出した。おもな出身者は、西村晃、小松方正、蟹江敬三、石橋蓮司、宮本信子、斉藤晴彦、本田博太郎、三田村邦彦など。79年解散。





蜷川幸雄(にながわ・ゆきお)プロフィール


彩の国さいたま芸術劇場芸術監督。1955年に劇団青俳に入団、67年には劇団現代人劇場を創立。69年『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビューを果たして以来、多数の作品を手掛ける。近年の主な作品は『ムサシ』『コースト・オブ・ユートピア』『血は立ったまま眠っている』『ヘンリー六世』等。










公演情報



ガラスの仮面~二人のヘレン~


彩の国ファミリーシアター

音楽劇『ガラスの仮面~二人のヘレン~』



日程:2010年8月11日(水)~27日(金)

劇場:彩の国さいたま芸術劇場 大ホール

原作:美内すずえ

脚本:青木 豪

演出:蜷川幸雄

音楽:寺嶋民哉

出演:大和田美帆 奥村佳恵・ 夏木マリ 他

公式サイト

















厳選シアター情報誌

「Choice! vol.13」2010年5-6月号



「Choice! vol.13」2010年5-6月号


厳選シアター情報誌「Choice!」は都内の劇場、映画館、カフェのほか、演劇公演で配られるチラシ束の“オビ”としても無料で配布されています。毎号、演劇情報や映画情報を厳選して掲載。注目のアーティストをインタビューする連載“Artist Choice!”の他にも劇場・映画館周辺をご案内するお役立ちMAPやコラムなど、盛りだくさんでお届けします。

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◇ステージラインナップ



NODA・MAP『ザ・キャラクター』

日程:6/20(日)~8/8(日)

劇場:東京芸術劇場 中ホール




『裏切りの街』

日程:5/7日(金)~30日(日)

劇場:パルコ劇場




ブルドッキングヘッドロック『Do!太宰』

日程:5/14(金)~23(日)

劇場:三鷹市芸術文化センター・星のホール





◇シネマラインナップ



『さんかく』

公開日:6/26(土)~

上映館:ヒューマントラストシネマ渋谷 / 池袋テアトルダイヤ 他





『川の底からこんにちは』

公開日:5/1(土)~

上映館:ユーロスペース




『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』

公開日:5/15(土)~

上映館:新宿武蔵野館 他






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