骰子の眼

cinema

2019-12-19 14:50


楽園を見た男ジャック・マイヨールが死を選んだ理由

宮台真司による映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』公開記念トークイベント
楽園を見た男ジャック・マイヨールが死を選んだ理由
映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』の上映後トークに登壇した宮台真司さん。

映画『グラン・ブルー』のモデルとなった伝説の素潜りダイバー、ジャック・マイヨールの生涯を追ったドキュメンタリー映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』の公開記念イベントが、去る12月8日にアップリンク渋谷で開催された。ゲストに登壇した社会学者・首都大学東京教授の宮台真司さんのトークの模様を以下に全文掲載する。


<社会>と<世界>

ジャック・マイヨールは2001年に亡くなりました。僕の母は8歳年少で、同じ上海のフランス租界で生まれ育ちました。同じくフランス租界で生まれ育った3歳年少のJ・G・バラードのSFを読むと、眩暈に満ちた上海のカオスが分かります。豪奢なパーティ会場を出ると貧困者らが路上で凍死している。日常と非日常、現実と夢がないまぜになったそんな時空にマイヨールは育ちます。そんな時空に育てば人は超越系になります。超越系と内在系の対概念。内在系は毎日が幸せならば幸せですが、超越系は毎日が幸せでも幸せになれない。マイヨールも、3歳下のバラードも、8歳下の母も、同じでした。

皆さん、映画をご覧になって「ああ、深海は素晴らしい」と思うのでは足りない。もっと深く感覚を働かせてほしい。なぜマイヨールが自死したのか。その理由を考えて感じていただきたい。彼のお兄さんピエール・マイヨールが、マイヨールの死後すぐに『ジャック・マイヨール、イルカと海に還る』(2003年)を出版します。マイヨールに何が起こっていたかが描かれている。幼少時から千葉県の海で兄弟で一緒に潜り、最初は兄の方が深く潜れたのに、あっという間に弟の方が頭角を現します。それが或る種の感受性のなせるわざだったというのです。

謎を解くために、<社会>と<世界>という概念を説明します。<世界>は「あらゆる全体」。「あらゆる全体」には外がない。つまりコンテキストがない。コンテキストがないとテキストを指し示せない。だから<世界>は指し示せない。<世界>は規定不能です。他方<社会>は「コミュニケーション可能なものの全体」。"社会が崩壊した"といっても<社会>は消えない。だから<社会>は"社会"より大きい。宮台用語で記述しましたが、概念の中身は初期ギリシャに遡ります。初期ギリシャとはアテネがスパルタとのペロポネソス戦争に負けるまでを指します。

元来は<世界=社会>でした。それが前6~前5世紀、エジプト・ギリシャ・メソポタミアなど文明(大規模定住社会)で同じことが起こる。<世界>が<社会>の外に拡がる、<社会>には外があるという観念です。分かりやすいのが占星術。前6世紀の古代バビロニアで誕生した「星を読む」技術です。以前は「星を動かす」呪術でした。つまり星とコミュニケーションできた。星は<世界=社会>にあった。それが惑星運動の法則を理解することで、星が動かせないことを知った。星とはコミュニケートできない。読むことしかできない。<社会>の外に拡がる<世界>があることが分かったのです。

こうして<世界>と<社会>が分かれると、人は<社会>に閉じ込められるようになります。<社会>とは言語/法/損得の枠。<社会>に閉じ込められるとは"言葉の自動機械/法の奴隷/損得野郎"になること。多少なりともそうならないと社会を生きていけないからです。しかし、初期ギリシャのオリンピアードを含めて、そうした文明社会でも、文明以前の定住社会が祝祭を通じて定住以前(所有以前=法以前)を回復したように、祝祭を通じて<世界=社会>だった頃の<世界>との滑らかない一体性を回復し、 <社会>に閉じ込められている営みが“なりすまし”である事実を再確認したのです。

『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』 ピエール・マイヨール(著)、岡田好江 (翻訳)/講談社刊/2003年
ピエール・マイヨール著『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』(翻訳:岡田好江/講談社/2003年刊)

楽園を見た男が、なぜ自死を選んだのか

今回の映画にあるように、マイヨールは、仕事をしていた水族館での「クラウン」という名のイルカとの出会いをきっかけに、ヒトは元来“ホモドルフィナス(イルカ人間)”だったと思うようになります。これも映画にありましたが、水深60メートル以上潜ると肺がつぶれ、脈拍が10分の1になり、血が脳に集ってトランスに陥ります。彼はイルカが始終そうした体験をしている事実に魅せられます。深海に潜る意味は、競争よりも、イルカがそうであるような<世界>に滑らかに繋がった古い在り方を、ヒトが取り戻せる事実を実証することにありました。彼はそれに成功したのです。

だから、マイヨールは、誰よりも<世界>と一体化し、<社会>という不自由な檻の外に出て自由になったはずの存在です。お兄さんピエールの言葉で言うと「楽園を見た存在」。そんな彼がなぜ自死を選んだのか。今回の映画では、お兄さんピエールの本ほど深くは説明しません。皆さんはそれを知りたいはずです。それを知るには、終生のライバルだった、彼より2メートル少ない潜水記録を持つエンゾ・マイオルカとの差異に注目する必要があります。お兄さんの本のクライマックスは実はそこにあります。本から紹介してみましょう。とても大切なことが書かれています。

映画『グラン・ブルー』のエンゾ・マイオルカは実像と違い過ぎるのでエンゾ・モリナーリと役名が変わっています。どういうことか。お兄さんは『グラン・ブルー』のラストがクソだと断定します。「深海から陸に還る理由が分からない(<世界>から<社会>に還る理由が分からない)」というマイヨールの言葉の意味を、マイオルカが死の直前に悟ったというラストが、誤りだからです。マイヨールよりもマイオルカの方がずっとステージが高かったというのが兄の見立て。今回の映画でも『グラン・ブルー』同様、その見立てが「マイヨールのカリスマ化」を損なうとされたのかも知れません。

マイヨールと違ってマイオルカは先祖代々素潜りを生業としてきた家系です。そのことが、マイオルカが深海で<世界>と一体化する体験を持ち帰り、<社会>を生きる血族の仲間とシェアしてきた事実を示すのだ、とお兄さんは言います。ちなみにイタリアでは大きな血族を営むのが伝統です。お兄さんによれば、<世界>と滑らかに繋がるのも喜びですが、<社会>を生きる仲間は喜びをシェアする営みはそれに勝る喜びであるはずです。ところがお兄さんによると、弟マイヨールは自分の体験を人とシェアする喜びを知らなかった男なのです。それが彼の「女の扱い」に現れていると言います。

映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』より
映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』より

映画『イントゥ・ザ・ワイルド』との共通点

今回の映画でも分かるように、マイヨールは希代のナンパ師ですが、一人だろうが複数だろうが特定の女にコミットできませんでした。これを抽象化してパラフレーズしてみます。彼は<社会>を"なりすまして"生きていた。それはいい。でも"なりすまし"が過剰だった。初期ギリシャの発想ではギリシャ悲劇に見るように<世界>は<社会>をも貫きます。例えば"<社会>の中"に在る"<社会>の外"が性愛です。実際に性愛は言葉の外/法の外/法の外だと観念されてきました。性愛は言外・法外・損得外のシンクロを体験できる時空です。今の若い人たちは駄目ですが、昔からそうだったのです。

性愛を通じて"<社会>の外"に出ることがマイヨールにはできませんでした。言い方は悪いけど、彼にとって女はある種の道具に過ぎなかったのです。彼は日本語を含めて複数の言葉を話せるポリグロットでした。世界の5~6カ所に家があって女を取り替えながら生活してきました。"そこ"に問題があったのだとお兄さんは言います。"そこ"とはどこしょうか。皆さんは俳優のショーン・ペンが監督した『イントゥ・ザ・ワイルド』という名作を観たことありますか? あの映画の主人公がジャック・マイヨールによく似ているとは思いませんか?

『イントゥ・ザ・ワイルド』は僕も鮮明に記憶する実話が元になっています。ウィキペディアから拾ってみます。

「恵まれた環境で育ったクリスは大学を優秀な成績で卒業します。両親は進学を望みますが、損得にばかり敏い両親に嫌気が差した彼は学資を全学寄付、アラスカに旅立ちます。身分証を切捨てた彼はアレクザンダーを名乗り、ヒッピー夫婦と出会い、穀物倉庫で働き、ボートで川を下ってメキシコに渡り、再び米国に戻って夫婦と再会、歌う少女と交流し、キャンプ中に老人ロンと出会います。革彫りを生業とするロンに身寄りはありません。共に時間を過ごした後、自分の養子にならないかと誘われたクリスは、振り切ってアラスカに戻ります。廃バスを拠点にしながら日記を記し、ジャック・ロンドンやトルストイを読んで生活します。食料が減ってアラスカを出ようとしますが、川の増水で閉じ込められます。100日が過ぎた頃、毒草を食べて衰弱したクリスは、「幸福が現実となるのはそれを誰かと分かち合った時だ」と書き込んで、涙を流しつつ息絶えます。」

Into the Wild (C)MMVII by RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC and PARAMOUNT VANTAGE, A Division of PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved.
映画『イントゥ・ザ・ワイルド』より (C)MMVII by RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC and PARAMOUNT VANTAGE, A Division of PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved.

僕はマイヨールとそっくりだった

マイヨールもジャック・ロンドンの自らの冒険体験を踏まえた小説が愛読書でした。さて、長く映画批評をしてきた僕は、『イントゥ・ザ・ワイルド』が僕自身に近すぎて、批評を断わざるを得なかった過去があります。その『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公とマイヨールが似ています。そう、僕自身もかつてマイヨールに似た存在でした。僕が彼を崇めたのは、潜るのが好きだからというより、同じように<社会>はクソだと思ってきたからです。<社会>では"なりすまし"続けてきた僕もまた、"<社会>の外"で自分が飛散する体験をいつも味わおうと思って生きていたのです。

結局、僕はマイヨールと同じように世紀の変わり目に鬱になります。でも、離島に籠った僕は、偶然にヒルギの森で覚醒し(今回は話しません)、マイオルカ的な方向にシフトできました。それまでのクズなナンパやパーティー的なものをやめて生き方を完全に変えた頃、ピエール・マイヨール『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』に出会って、覚醒の意味を再確認できました。その直後に『イントゥ・ザ・ワイルド』が公開され、「幸福が現実となるのはそれを誰かと分かち合った時だ」という言葉にシンクロして心が震えます。作品と自分が近すぎて、批評をする資格がないと思ったのです。

今回の映画が「いま」作られたのはなぜなのか。<社会>はクソだという感覚がやっとポピュラーになったからでしょう。その意味で今っぽい。"<社会>の外"に出たマイヨールに痛切な共感を抱く人も多いはずです。確かに、"言葉の自動機械/法の奴隷/損得野郎"が溢れる<社会>のクソぶりに比べれば、"<社会>の外"には、言葉も法も損得もなく、カオスを含めて誘惑とシンクロだけがあります。"<社会>の中"の相対的な快楽じゃなく、"<社会>の外"で<世界>とじかに接触する絶対的な享楽があります。マイヨールはそのことを知っていた。だから皆さんはきっと彼にシンクロします。

でも、彼を生き方の見本としていいだろうか。そこが今回お話ししたかったこと。彼は<世界>とじかに接触した絶対的な享楽の中に、<社会>を生きているという事実を上手く位置づけられませんでした。彼は年老いて潜水に失敗します。<世界>との滑らかな繋がり=ホモドルフィナスとしての存在形式を失いつつありました。それが人間です。そして彼は人間としての生存に意味はないと感じたのです。老いたマイオルカが旺盛な執筆を通じて自らの体験をシェアし続けたのとは対照的に。兄ピエールは必死で弟を正そうとします。要は、マイオルカを見習えと。でも弟は聞く耳を持ちませんでした。

今回の映画には肝腎のそこが描かれていません。兄ピエールの本に登場するほとんどの関係者が映画に登場しますが、エンゾ・マイオルカとその親族、そして兄ピエールが出てきません。明らかに意図的です。だからマイヨールの自殺の背景を推測する材料が映画には不足します。しかし兄の『ジャック・マイヨール、イルカと海に還る』を併せて読めば、"海が素晴らしすぎること"、もっと言えば"素晴らしき海からの帰還場所がなかったこと"が彼の命を奪ったのだと分かります。とすれば、皆さんが考えるべきことは何でしょうか。

映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』 ©Mayol family archive/Daniele Padovan/Daan Verhoeven/Junji Takasago/Mehgan Heaney-Grier/Bruno Rizzato
映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』より

<往相>と<還相>は映画に繰り返し登場するモチーフ

仏教には<往相>と<還相>の観念があります。一度"<社会>の外"に出て、超越と絶対に触れて、その上で"<社会>の内"に戻る。するとクズに過ぎなかった"<社会>の内"が──日常が──奇蹟に見える。様々な映画に繰り返し描かれてきたモチーフです。"<社会>の外"に往って還ると、<社会>が存在する事実が奇蹟だと感じられるのです。<世界>の存在が奇蹟であるほど、その中に<社会>が在ることがますます奇蹟だと感じられるという形式。直近では、去年公開された『アナイアレイション-全滅領域-』がそうです。

『ザ・ビーチ』の脚本で一躍有名になったSF好きのアレックス・ガーランドが監督した映画です。ちなみに『ザ・ビーチ』の舞台ピピ・レ島は僕が死にかけた場所です。さて、彼自身が語るようにJ・G・バラードの破滅三部作(『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』)の『結晶世界』が元ネタです。『結晶世界』は、<世界>が結晶化によって時間を失っていく中、<社会>を生きる意味が渾沌に見舞われる話。『結晶世界』では「結晶化した森」が少しずつ拡がりますが、『アナイアレイション』でも時空がねじ曲がったゾーン「シマー(煌めき)」が徐々に拡大し、反作用で日常が壊れていきます。

だからこそ『結晶世界』では「結晶化した森」で絶対の享楽を体験できることが人を引きつけます。最初は恐れていた"<世界>の終末=結晶化した森"を、神経症的に「見たいもの(言葉/法/損得)」だけを見て生きる<社会>の受苦的営みから離れ、<世界>とのホモドルフィナス的一体性を取り戻すための福音として受け止め、こぞって「結晶化した森」に入って行きます。主人公サンダース博士だけがギリギリのところで思い留まり、「結晶化した森」を流れる川を船で下って<社会>に戻ります。『アナイアレイション』でも、"受苦にすぎない<社会>"への帰還を指し示すラストが印象的です。

サンダース博士の<社会>への回帰は、夫婦喧嘩・三角関係・同僚による落とし入れなどに満ちた日常における受苦こそが、奇蹟の福音なのだという理解に基づきます。その延長線上で『アナイアイション』の主人公レナ博士も、「夫」が正本ならぬ摸造であるという事実を、福音としての受苦として受け容れるのです。ただし『アナイアレイション』は『結晶世界』よりも一歩先に進んでいます。そこに描かれる"<社会>の外"が、想像を絶したカオスだからです。"<社会>が消えるにせよ、それが存在したという事実は消えない"という『結晶世界』のヴィジョンを、完全に無化するような「無」です。

映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』より
映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』より

滑らかに一体化できる美しき<世界>というビジョンは人間的すぎる

かつて絶滅し、今や存在の痕跡すら残っていない動植物の視座に立てば、自分たちが存在したと言う事実は消せないという理解も、過剰に人間的です。これは「徹底した正気で狂気を生きよ」という『ザ・ビーチ』から『エクスマキナ』までをも貫くガーラントの優れたモチーフです。そこから視ると、『結晶世界』が描く"<社会>の外"も<社会>の内部表現──<社会>がスクリーンに映したビジョン──に過ぎません。実はそうした理解こそ、実は『クラッシュ』に代表される後期バラード、そして彼が深い影響を受けたヘルベルト・マルクーゼの「コスモス=カオスモス」が要求するものです。

「徹底した正気で狂気を生きよ」という場合の「徹底した正気」とは、所詮は人間的な視座に過ぎない視座には絶対に耽らないぞという意味です。「徹底した正気」にとっては、「<社会>という受苦からの解放」自体が途方もない受苦を構成します。そこから視ると、マイヨールが一体化した滑らかに一体化できる美しい<世界>も、過剰に人間的です。マルクーゼ的=後期バラード的=ガーラント的な視座は、「受苦からの解放」自体が構成する「途方もない受苦」に開かれることを、解放のためではなく、まして享楽のためでもなく、絶対の倫理として要求するのです。

この十年間、マルクーゼ的=後期バラード的=ガーラント的な視座が浮上しています。そこには既に幾つかの映画が登録されています。そうした動きが、この十年で浮上したビッグ・ヒストリー──宇宙の始源に遡りかつ極大の宇宙にまで届く生態学的思考──に支援されているのは明らかですが、思考自体は20世紀半ばのマルクーゼを介して初期ギリシャにまで遡れるので、実は新しくありません。でも、それを踏まえることができれば、<社会>から<世界>へと旅立ち、<世界>から<社会>に還ることの意味も、マイヨールの兄ピエールおよびマイオルカ的な地平を大きく越えることになるのです。

いずれにせよ、今回の映画に描かれるのは、<往相>と<還相>を完結できる存在と、<往相>に留まる存在がいるという潜在的な構図です。「海は美しい、だから皆に伝える」という人と、「海は美しい、だから死ぬ」という人がいるのです。自分が分解・溶融し、<世界>と一体化する体験を知るからこそ、死にたくなることがある。そのことをご理解いただいた上で、皆さんにはマイヨールの体験を我が事として追体験してほしい。それを通じて、皆さん自身が<社会>に帰還する動機を持つかどうかを考えてほしい。そのことが、今回少し触れた「絶対の倫理」に触れた映画群に進む準備になります。


宮台真司(みやだい・しんじ)

1959年宮城県生まれ。麻布高校卒業。社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。公共政策プラットフォーム研究評議員。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。社会学博士。『社会という荒野を生きる。』(KKベストセラーズ)、『日本の難点』(幻冬舎)など著書多数。


映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』

『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』
全国順次公開中

監督:レフトリス・ハリートス
出演:ジャック・マイヨール、ジャン=マルク・バール、ドッティ・マイヨール、ジャン=ジャック・マイヨール、成田均、高砂淳二、ウィリアム・トゥルブリッジ ほか
ナレーション:ジャン=マルク・バール
製作・提供:WOWOW
配給・宣伝:アップリンク
2017年/ギリシャ、フランス、日本、カナダ/78分/カラー、モノクロ
映画公式サイト

(c)2017 ANEMON PRODUCTIONS/LES FILMS DU BALIBARI/GREEK FILM CENTRE/IMPLEO INC./STORYLINE ENTERTAINMENT/WOWOW
写真:Mayol family archive/Daniele Padovan/Daan Verhoeven/Junji Takasago/Mehgan Heaney-Grier/Bruno Rizzato

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