映画『イサドラの子どもたち』ダミアン・マニヴェル監督 © Locarno Film Festival Ottavia Bosello
2014年『若き詩人』、2016年『パーク』そして2017年『泳ぎすぎた夜』(五十嵐耕平 共同監督)。これまでに発表した長編が何れも日本で上映されてきたフランスのダミアン・マニヴェル監督。新作『イサドラの子どもたち(原題:Les enfants d’Isadora)』は、元コンテンポラリー・ ダンサーである監督が長年取り上げたいと模索していた「舞踏」を満を持して主題とした作品。上映時間84分をかけて徐々に観客の心身奥深くまで浸透し、体を覆う空気の存在を意識させ、呼吸を変えてゆく。舞踏そのものと言えるかもしれない。
2019年8月13日(火)、第72回ロカルノ映画祭での世界初披露冒頭、映画祭ディレクターのリリ・インスタンは「この作品は直線的な『物語』というより、まさに『映画』なのです」と紹介。観客は、作品の光(映像)と音がもたらす立体的な魅力に引き込まれ最後まで過ごす者と、せっかちに途中退席する者に二分され、後者の数も目立った。上映後、残った観客からは作品との別れを惜しむように長く温かい拍手が湧き起こり、席からなかなか立ち上がれない人も見受けられた。マニヴェル監督は映画祭最終日、最優秀監督賞受賞にあたって審査員に対し「この作品を繊細に受け止めて下さったことに感謝します」と述べている。
本記事では、本記事のためにマニヴェル監督が語った『イサドラの子どもたち』独特の体感が生まれた経緯と、世界初披露に伴って開催された記者会見及び上映後Q&Aで伝えられた本作品の製作背景をお伝えする。
マニヴェル監督 ロカルノ映画祭現地インタビュー
──『イサドラの子どもたち』は、冒頭から独特のリズムで時間が進み、映画を見ている側の呼吸もやがてそのリズムに乗ってエンディングまで運ばれてゆきました。本作のリズムはどのように構築されていったのでしょうか?
とても複雑な工程でした。脚本の段階では頭でイメージしながら何かリズムのようなものを感じ取ろうとします。ただ、それがどう具現化されるかは分かりません。脚本の段階でも、感情と、身体的なリズムは自分の内にはあるのですが。撮影が始まると、リズムを探し出そうとします。内面から滲み出るような動きです。それぞれの場面で、日々の生活の動きであれ踊りの動きであれ、同じように見ています。全てが踊りであるように構成します。これはあくまでも撮影段階ですが。
『イサドラの子どもたち』ワールド・プレミア上映前挨拶(撮影:維倉みづき)
編集が、いよいよ本格的にリズムを具現化する段階です。直感的に脚本、撮影の段階で持っていたリズムが良いか悪いか実際にみてゆきます。作品を通じて漂うリズムは長い時間をかけて築き上げていったものです。脚本を書く最初の段階から、映画として完成するまで、最初から最後まで続くなかなかの重労働です。
──製作としても作品の中でも、最初から最後までを通して築かれてゆく形でしょうか。
作品の最初のシーンから最後のシーンまで上昇してゆくエネルギーを生み出したかったんです。最後のシーンで解放され、何かが起こるような。映画は3部構成ですが、水のように何か流動的なものが、根底にずっと流れている表現を試みました。言うまでもなく、最初の登場人物は次の2人へエネルギーを送り、その2人は最後の人に送る。人から人へ「送る」ことは、この作品の重要な考え方だと思っています。
──「水」という表現をされましたが、鑑賞中、まさに自分のまわりの空気の重さを感じて、水のような動きを感じた気がしました。
動きのスピードについて意識したんです。それから空間。時に、ゆっくりと動くと、観客が見るものは動きだけではないんです。動きと、空間、そして周囲の空気。あなたが感じたことはまさにその表れだと思います。動きは足跡を残すんですね。
──季節も特徴的でした。舞台は秋、すでにかなり寒くなっているようです。その中での踊りは、温かさの違いが際立って感じましたが、なぜある一時の季節を選ばれたのでしょうか?
ほぼ直感ですね。踊るためにスタジオの中にいるとき、閉じられた小さな温かい世界で、自分の体と向き合います。そして外に出ると空気も違い、気温も違い、たくさん着込まないといけません。良い意味で対称的だと思いました。
それから秋は特別な季節だと思います。特別な感情が漂う季節。メランコリックというか。葉は落ち、色彩も特徴的ですね。この作品を夏に撮るイメージは全く湧かなかったし、秋は面白くなると思いました。冬だと寂しすぎるかなと。
──全ての女性は踊る前に着替えますね。そして少し、体が映ります。
踊り手にとって、リハーサルやウォーミングアップと言った全ての動きや、衣装を着ることなど、これらはすべて準備を整えてゆく段取りです。気持ちを切り替えるというか。「踊る」というスタートボタンをしっかり押し「これから踊る」という気持ちを込めます。体を敢えて見せたのは、彼女たちの姿に新鮮さを与え、親密さを出したかったからです。
イサドラの子どもたち』出演者・製作チーム © Locarno Film Festival Ottavia Bosello
──登場人物は皆、イサドラの言葉を読んだり書きとめたりしています。イサドラの言葉はあなたにとってどんな意味がありますか?
まず、イサドラの言葉を引用することで、イサドラ自身が映画全体の中に存在するようにしたかったのです。写真もあわせて常に映画のどこかかにいる、亡霊といってもいいかもしれません。彼女の素晴らしい言葉を朗読することは、イサドラの内面に入ってゆくきっかけになります。動き方や、空などの周囲を見渡す目が変わってゆくんです。何より私自身が彼女の言葉に感銘を受けたので、引用することによって感情とどんな繋がりをするかを見てみました。
私自身、本当に彼女を知ることができたと感じたのは『イサドラの子どもたち』の製作を通じてです。彼女について感動したのは、感情が雄大なこと。「これまでで一番の痛み/喜び」や愛の表現など、過剰気味に聞こえる時もありますが、今日の世界で詩的な表現はあまり人気がなく奇妙に見られます。でも当時、彼女は思うがまま自由に話した。彼女の詩的な表現をこの今の世界に持ち込むことが重要だと思いました。何も恥じることはありません。
──詩的な表現をすることは、何かリスクを負ったとお考えですか?上映前に「最後まで残ってくれると嬉しいです」と半分冗談で仰っていましたが。実際、上映中に席を離れた方も少なくなかったです。
もちろんです。リスクは承知です。ただ表現者としての自分を定義したまでです。誰にも自分の作品を見るよう強制はしません。でももし貴方が私の作品に対してオープンであれば、最後には何かが起こるんです。
──はい、起こりました。自分で自分に驚くほどに。近くの席に座っていた方も同じ反応をしていらっしゃいました。
他にも何人かの方から、同じような経験をしたと伺いました。
──そんな反応を引き起こしたエルザ・ウォリアストンのダンスはどのように製作されたのですか?
先程お伝えした通り、先の3人を通じてゆっくりゆっくり大きくなったエネルギーを、エルザはまるごと受け取ります。脚本をジュリアン・デュードネと執筆している時から既に、たった数行の言葉からでも、エルザの前1時間に起こったことを全て受け取った結果であることが明白に感じられたんです。ただ日常の動きをするだけでも、その中に只ならぬものが見て取れます。そこには自信がありました。そしてエルザ自身が偉大な表現者であり、吸引力があります。受け取ったエネルギーに生命力を注ぎ込む力があるんです。一言も発しなくても、彼女の動きを見ているだけで観客は彼女のことを知ることができます。
私は沈黙を多く用いますが、それは生活の一部だと思うからです。なので私の作品は全くフランス映画とは言えないですね。心理劇でもなく、会話劇でもありませんし。アジアでは沈黙を取り入れることは一つの手法として多くの例がありますが。
『イサドラの子どもたち』概要
舞踏家イサドラ・ダンカンが子ども2人を自動車事故で亡くした体験を元に創作したソロ舞踊「Mother」。『イサドラの子どもたち』では、約100年後の今日を生きる4名の女性が「Mother」及びイサドラ自身に向き合う様子を描く。映画は全3部で構成され、第1部をアガタ・ボニゼール、第2部をマノン・カーペンティエとマリカ・リッツィ、第3部をエルザ・ウォリアストンが演じる。
舞踏家 イサドラ・ダンカン
「モダンダンスの祖」と称えられるイサドラ・ダンカン。1877年に米国カリフォルニア州サンフランシスコに生まれ隣接するオークランドに育つ。幼い頃から自発的に踊り、シカゴ、ニューヨークを経てロンドンに渡り西欧や旧ソ連でも活動。1913年、イサドラの息子パトリック(2歳)と娘ディードル(6歳)が乗った車がパリ市外でセーヌ川に落下し死別。イサドラの待つヴェルサイユのホテルへ共に向かう途中の事故であった。1927年初夏、イサドラは南仏ニースで自伝を書き終え、同年9月、首に巻いたスカーフが乗っていた自動車のタイヤに巻き込まれる事故に遭い、約50年の生涯を終えた。
自伝『My Life(原題)』は1927年12月に初版出版。以降、多くの言語に翻訳され、新版も後を絶たない。日本では1975年に『わが生涯』(小倉重夫/阿部千律子訳)、2004年に『魂の燃ゆるままにーイサドラ・ダンカン自伝』(山川亜希子/山川紘夫訳)として共に冨山房より翻訳出版された。
イサドラの死後、彼女の人生に基づく芸術作品も創作されている。1968年には『裸足のイサドラ(原題:Isadora)』としてカレル・ライス監督、ヴァネッサ・リンドグレーヴ主演にて映画化、カンヌ映画祭最優秀女優賞を受賞。1976年にはモーリス・ベジャール振付、マイヤ・プリセツカヤ主演で全1幕のバレエ『イサドラ』がモナコで初演された。イサドラが後世残した影響力の強さが伺える。
映画『イサドラの子どもたち』
マニヴェル監督と「Mother」
マニヴェル監督は2007年に初短編『男らしさ』を発表する前、コンテンポラリー・ダンサーとして活躍。映画監督へ転身した後も、いつかはダンスに纏わる作品を手掛けたいと思っていた。しかし、余りにも身近なテーマであったこともあり、製作のきっかけとなる踊りや人物像を長年探し求めていた。
ある日、マニヴェル監督が後に『イサドラの子どもたち』第1部を演じることになる女優アガタと即興劇の準備していた時、アガタが腕をゆっくりと上へ伸ばす様子を見た振付師の友人が「イサドラ・ダンカンの『Mother』みたいね」とコメント。マニヴェル監督はフランス語の「la mere(母)」を「la mer(海)」と最初聞き間違えたそうだが、その場で「Mother」とその背景について簡単な説明を受けると、すぐに探していた主題であると確信したそうだ。
程なくイサドラと「Mother」についてリサーチを開始したマニヴェル監督。イサドラは撮影されることを嫌ったため彼女が踊る映像は残っていなかったが、彼女の生徒たちが口頭で伝承した振付が、ルドルフ・ラバンが考案したラバノーテーションという舞踏譜の一種に則り記号化され残されていた。マニヴェル監督は舞踏譜を一目見てその美しさにも感銘を受け、譜面自体も撮影することを決定した。
映画『イサドラの子どもたち』
音楽もマニヴェル監督を引きつけた。イサドラが「Mother」のために選んだのは、ロシアの作曲家アレクサンドル・スクリャービンが15歳の時に作曲したエチュード。楽曲の美しさもさることながら、子を失った母が、その感情表現に15歳の早熟な少年による楽曲を選んだ事実も非常に興味深く、映画でもスクリャービンがそのまま使用されている。
『イサドラの子どもたち』は2018年5月に韓国の全州(チョンジュ)映画祭で若手作家の映画製作を支援する「Jeonju Cinema Project」国際部門に選ばれ出資を受けることが決定。その時はまだ脚本もない状態だったが、同プロジェクトの条件は翌年の全州映画祭で上映することであったため、約1年間で完成まで漕ぎつけた(結果的に世界初披露はロカルノ映画祭で行われた)。因みにマニヴェル監督は2017年全州映画祭で『パーク』により最優秀作品賞を受賞している。
4人の女優たち
マニヴェル監督は「Mother」が異なる身体/年齢/境遇にある複数の人物によって表現されることに興味があり、その実現が『イサドラの子どもたち』の条件と考えたそう。第1部のアガタは、本作が始動した経緯もあり直ぐに起用を決定。第2部のマノンはアヴィニョンで行われた発表でその創造性にマニヴェル監督が感銘を受け声をかけた。
マノンと共に第2部を演じるマリカは著名なコンテンポラリー・ダンサーで、マニヴェル監督とは約10年前から知り合いで一緒に踊ったこともあった。監督は密かにいつかマリカを撮りたいと思っており、本作がその時だと思いコンタクトを。マリカにとってイサドラ・ダンカンを踊るのは初めてであったため、特徴的な「ダンカン流」動きを知るため撮影前にじっくり1人で準備を行ったそうだ。
第3部エルザはマニヴェル監督2010年の短編『犬を連れた女』にも出演。舞踏家、振付師、女優として活躍し、現在は特にワークショップの開催に力を入れている。50年にわたり世界各地で踊り続けてきたその存在感は圧倒的だ。
映画『イサドラの子どもたち』
『イサドラの子どもたち』は山形国際ドキュメンタリー映画祭2019「Double Shadows/二重の影2 ー映画と生の交差する場所」特集で2019年10月12日(土)19:20~山形市民会館 小ホール(定員300名)で上映あり。上映後には監督または関係者との質疑応答を予定(2019年8月22日付情報)。