骰子の眼

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東京都 中央区

2018-12-10 12:00


ネット時代に新聞の映画評は必要か?! 5大全国紙映画担当記者座談会

激論!東京国際映画祭と東京フィルメックスの合併はありかなしか?!
ネット時代に新聞の映画評は必要か?! 5大全国紙映画担当記者座談会
第19回東京フィルメックスにて行われた国際批評フォーラムにて

2018年11月25日に閉幕した第19回東京フィルメックスにおいて、国際批評フォーラム「ラウンドテーブル:映画担当新聞記者と語る」が11月18日、有楽町朝日スクエアにて開催された。この日は東京フィルメックス・ディレクターの市山尚三さんを司会に藤井克郎さん(産経新聞)、石飛徳樹さん(朝日新聞)、勝田友巳さん(毎日新聞)、古賀重樹さん(日本経済新聞)、恩田泰子さん(読売新聞)といった新聞各氏の映画担当者が登壇。インターネット以降の新聞における映画の記事の作り方や批評のあり方について活発な議論が交わされた。また後半には、先日、東京国際映画祭のブリランテ・メンドーサ審査委員長が「娯楽性とアート映画は共存しない」と発言したという報道についての各氏の持論も語られた。

■インターネット登場以降の試行錯誤

市山尚三(東京フィルメックス・ディレクター) ※以降、市山:今回なぜこの方たちにご登壇いただいているのかというと、FILMEXがはじまってから18年になるんですが、この間に特にインターネットの登場によって、かなり大きな変化があったのではないかと思います。

まず一つは新聞の批評です。今から18年あるいは20年くらい前は、アート映画にとっては相当重要でした。今重要ではないとか、そういうことではないんですが、実際に新聞の批評が出ると急に数字が上がる事があったんですね。

もちろん、大量宣伝で公開されている映画に関しては、そういう事があってもなくても入る。ですが、いわゆるアート系の作品は、公開前に出るといいのですが、公開中に出る記事もある。出るとその次の日に増えていたんですね。僕は個人的に言いますと、『ブラックボード 背負う人』(配給:オフィス北野、アーティストフィルム)というサミラ・マフマルバフの映画があって、結構苦戦していたんですけど、読売新聞に土屋さんが絶賛する批評がでたら、本当にその次の日には平日なんですけれども数字が上がった。いわゆる紙面の購読者が減少してきているなか、今も決してないわけではないと思いますが、確実に、観客動員に結び付いた時期というのがあった。

それから、果たしていわゆる映画ファンが、何を当てにして映画を観に行っているのかと。それは新聞以外にも例えば、Yahoo!映画の星取表とか、僕も実はそういったサイトを見て、行ったりすることもあるのですが、いわゆる映画批評ではない、一般の人たちが投票して、それぞれになんかいいところ悪いところを言っている。それがもしかすると動機になっていることもあるかもしれない。あるいはTwitterとかSNSが影響しているのかもしれない。宣伝サイドも何が影響があるのか分からないので、とりあえず、いろんなところに手を出しているという状況だと思います。

あともう一つ、一般の新聞社とは関係のない立場からすると、どういう趣旨で紙面が構成されているのかと、単純に聞いてみたいということもありました。

ではまず、インターネットとの切り替わりの時期はいつ頃なのか。各紙状況は違うと思うので、そういう話をおひとりおひとり聞いてから議論を発展させていきたいと思います。 今から14~15年くらい前、ウェブに映画がシフトしていきそうなとき、マイクロソフトを使っていると、毎日新聞の記事にかなりヒットして、そのあとには産経新聞の記事にヒットするということがありました。これはどれくらいの時期だったのか勝田さんの方で説明していただけますか。

勝田友巳(毎日新聞)※以降、勝田:あんまりはっきりいつ頃というのは覚えていないのですが、やはり10数年前になるのかな。ネットという媒体が広がってきていて、そこに新聞も出ていかなければならないと。いろいろと試行錯誤を重ねて、今でも模索しているところです。

国際批評フォーラム 撮影:村田麻由美
勝田友巳さん(毎日新聞)

当時MSNと提携し、そのうち自前で流すようになっていったんだと思います。しばらくはあまりうまくいかない時期が続きました。新聞の読者が少なくなっているという状況は前々からあったので、なんとかネットに可能性を見いだせないかと。しかしそこでどうやって読者を獲得していくのか、購読料を得るか手探りでした。やっとビジネスとして本格的に始まったというのが、ここ3年とかじゃないですか。

市山:検索すると最初に毎日新聞の記事が出るというのは、提携していたという事ですか?

勝田:そうですね、最初のうちは、そこに頼ってやっていたんだと思います。

市山:今は提携していない?

勝田:そうですね、今はYahoo!などにパートナーとしてニュースを売るというのはしていますが、がっつり組んでるというのはないです。

市山:産経新聞がMSNでよくヒットするというのは、そのあとの話?

藤井克郎(産経新聞)※以後、藤井:もともと毎日新聞とMSNが提携していたんですが、その後2008年に産経新聞とMSNが組むことになりました。MSN側から「とにかくページビューを稼げ!」と強い指示があり、ページビューを稼げる記事を載せることが至上命題でした。産経新聞の場合は幸か不幸か新聞があんまり出ていないもので、すんなりとネットにシフトして、最初はどういう記事がページビューが稼げるのかを社内で検討して、とにかくライブだと。まず最初に法廷ライブみたいのを社会部の方でやりまして。中に入っている記者が5~6人、入れ代わり立ち代わり出てきて、速記みたいな形で打つという。それがものすごくヒットしまして。全部ライブをやることになりました。

国際批評フォーラム 撮影:村田麻由美
藤井克郎さん(産経新聞)

私はその時映画からは離れて、文化部のデスクで、しかもウェブ担当をやっていました。で、芸能人のスキャンダルをライブでやるという事になって、ちょうど、小朝さんと泰葉さんが離婚する時に、5~6人で行って皆で10分毎に速記を交代するというのをやったり、結構大変だったことがあります。

映画に関しては、アカデミー賞の授賞式で、賞が発表される度に、速報を一行でいいから載せる、というのが最初にありました。当時『おくりびと』が外国語映画賞を獲得して、のけぞったことがありました(笑)。

市山:アカデミー賞の速報はうまくいったんですか?

藤井:更新が早いとYahoo!の見出しにヒットするんですね。その当時は、新聞系のウェブが強くなかった時代ですし、他のニュースサイトというのも今ほどなかったものですから、Yahoo!の方にかなりヒットして、それでMSNは喜んでいたという。ただ、それがどれ程の広告収入になっていたのかというのは、私の方ではわからないですね。

市山:映画評にはあまり関係なかったのですか?

藤井:映画評に対する要請というのは全くなかったと思いますね。深く掘り下げて読む記事というよりも、そういう「速報性というものを第一にやれ!」というのが10年前の状況だったと思います。

石飛徳樹(朝日新聞)※以降、石飛:このテーマについては、紙媒体至上主義の私が最も相応しくない人物なような気がします(笑)。いろいろやっているのですが、少なくとも映画評に関しては、新聞に載ったもの、紙に載ったものをまんま流しているだけで、あんまり力をいれてはやってはいませんね。

国際批評フォーラム 撮影:村田麻由美
石飛徳樹さん(朝日新聞)

市山:新たに別の長いヴァージョンが出るとか、そういう事もやってない?

石飛:はい。批評はまったくそのままですね。

市山:ウェブは日経が一番成功しているというお話を聞きましたが、いかがですか?

古賀重樹(日本経済新聞)※以降、古賀:これも私が代表して喋るべき問題ではないですが、知っている限りで申し上げますと、2000年代後半に電子版を本格的にはじめて、課金システムをちゃんと自前で作って、電子版で稼いでいくということを最初にはじめたのはうちだと思います。なぜそれが出来たのかというと、よそと違って販売店をそんなにたくさん抱えていないからです。地方はほとんど各新聞に配ってもらっているわけですから、紙の部数の落ちをそれほど気にせずに電子版にシフトできた。ですから、そこは最も戦略的にやったのは日経だと思います。

国際批評フォーラム 撮影:村田麻由美
古賀重樹さん(日本経済新聞)

無料会員で登録して、限られた数の記事だけを読むこともできますが、その先は有料会員にならないと読めないシステムになっていて、映画評はなぜか無料で読めるページに入っています。

我々としては電子版をどう活用するのか、電子版独自のコンテンツを求められましたから、それについては僕自身は、2011年からカンヌ映画祭レポートは電子版で会期中にどんどん送る、毎日とか2日に1回のペースで更新することをずっとやっています。それまでは映画祭が終わってから行った人が書いて、何日か経過して出るというのが紙の場合は普通だったんですが、今、カンヌに行く人もすごく増えたし、ライターさんもいっぱい来てますし、そういう人がどんどんネットで発信してますから、いつまでもこんなことやってちゃダメだろというのはありました。

市山:カンヌ映画祭レポートは楽しみに読ませていただいているのですがウェブ限定なんですか?

古賀:そうですね、ウェブに書いているものはウェブ限定です。紙面はまた紙面で書きます。だから内容的にダブっていることもありますが基本的にウェブ先行です。いまうちの社は経済ニュースとか、政治ニュースとか含めてすべて電子版先行でやれ、という流れになっていると思います。

恩田泰子(読売新聞)※以降、恩田:読売は試行錯誤がずっと続いています。2010年過ぎた頃からは、映画に関しては一週間遅れで紙面と同じ記事を載せていたんですが、全社的なコンテンツをどんな風に出していくのかという割り振りを試行錯誤しているうちに、いつの間にか「あれ、載らなくなった」というのを自分たちでも後から気が付いて。もっとうまく活用できないかと考えているのですが。映画祭がある時期には特設のページを作ってもらって、そこでレポートを毎日発信するということくらいしかできてないです。

国際批評フォーラム 撮影:村田麻由美
恩田泰子さん(読売新聞)

市山:映画祭のレポートというのもある種の映画批評として重要で、速攻性という点でウェブは機能しているなというのは、たしかに思います。

■映画評が金曜日に掲載されるようになった理由

市山:もう一つテーマとして聞いてみたい事があります。紙面の構成が、ここ十数年変わっていると感じます。今、新聞の批評は金曜日に出るので、みんな金曜日に各紙を買ってチェックしていますが、『ブラックボード 背負う人』は平日に批評が出て翌日に興行収入がアップしたという記憶があるので、今から20年くらい前はそうじゃなかった。恩田さん、紙面の展開が金曜日になっていくのは、なにか原因があったのですか?

恩田:ありました。私がちょうど2003年ぐらいから映画担当になったんですが、映画担当になった時は読売新聞の場合は音楽と演劇と映画はみんな相乗りの1ページが夕刊に毎日あって、そこに映画評が一本ぼんと入ったり入らなかったり。そこで、まず紙面を見直して、ジャンルごとに曜日を分けて掲載して、情報性を高めた方がいいんじゃないかという話になってきた。それを後押ししたのが映画で、公開本数が半端なく増えていて、従来のペースでは紹介しきれないという状況が出てきたのが一番大きかったですね。今から比べるとまだ少なかったなと思うんですけど、映画は特に映評のページを別に作らないとフォローしきれませんっていう話になって、それで始動しました。

古賀:日経は要するにジャンルという縦割りにはしてないんです。2005年くらいに夕刊の紙面が変わりましたけど、その時私はデスクで、各紙はそういう風にしてたけど、うちはしませんでした。

市山:しない理由というのは特にあるのですか?

古賀:なんとなくそういう雰囲気だったという気がしますね。もともと朝刊の文化面もちょっと変わった作りをしていて、ユニークな研究をしているとか、体験をしている市井の人の記事を頭に持ってきて、左側に「私の履歴書」。そもそもが各ジャンルのニュースを割るというような紙面ではないので、そういう精神で夕刊文化面も作ったということでしょうね。ただし、金曜日だけは映画評をまとめるというのはやりました。それ以外の、月曜日は美術とか、火曜日は音楽というやり方はしなかった。

石飛:朝日新聞は一番遅かったような気がします。個人的には縦割り反対です。新聞っていろんな人が読む、映画ファンだけではない人たちの目に触れるものなので、音楽が好きな人や美術が好きな人、いろんな人に読んでもらいたいわけで。そしたら映画面としてどん!とあると映画好きな人以外に素通りされてしまうことを避けたいけど、今はそうなっている。だけど、僕は個人的には反対。せっかく新聞なのにもったいないなと、すごく思っています。

古賀:90年代に新聞の文化面と芸能面という枠が変だっていう話を蓮實重彦さんが書いていたのを覚えています。そんな問題はあったけれども、毎日何が出てくるかが分からないという面白さもあったんですね。春になったら桜の話が出てくるとかね。それこそ、突然蓮實さんが出てきてフィルメックスという素晴らしい映画祭があるという記事が朝日新聞かなにかにでてくるわけですね。それはとても目が離せないというところがありました。

市山:個人的なことを言うと、今会場にいらっしゃるある方の薦めで、朝日新聞を購読しはじめて、そのままずっと、いまだに購読していますが、昔は朝刊も夕刊も毎日読んでいた気がするけど、もう金曜日にしか読んでいない感じがある、もちろん演劇とか音楽にも興味はあるけど、忙しくて見に行けないというか。映画だけは、業界にいる以上、今週どういう映画が公開されるかとか、どんな批評があるかとか、ウェブで検索すればパッと出てくるが、新聞の紙面にポンっと出ていると、今週はこれだとわかりやすい。

古賀:教養ってなんだって言われたら困ってしまいますけど、90年代まではある意味で教養というものを担うという意識が、新聞の文化部にはあったと思うんですが、それが崩れていったというのがあると思います。

市山:新聞では批評が、毎回何作品も出ていますが、本数はどれぐらいなのかということや、選定がどういう基準になっているのかと、もちろん取り上げるべき映画を取り上げていると思うけど、けなしているものもあったり、必ずしも全部絶賛しているわけではない。その各紙の構成の基準についておうかがいしたいと思います。まず、星取表をやってらっしゃるところは日経産経のみですが、星取表は褒めているのか、けなしているのかわかりやすいからだ思うんですが、やらない方の理由は?

石飛:星取表については、とてもアンビバレントな気持ちです。星取表、建前上僕はとても嫌いなんですよ。映画ってそんな点数化できるものではないと思っているんですけど、自分自身が読者の時は、他の星取、雑誌の星取表、キネマ旬報とか、まず星取表のページを見てしまうということもあって、すごく悩ましい。だから、建前を堅持しようと思って、星取表をやっていません。

勝田:毎日新聞は、星取ではなく、批評に別の意見を添えるという形をここ十何年か続けています。誰かひとりの評に別の記者なり外部筆者なりが、違う観点から短い評を載せる、いろんな意見を反映させるという紙面を作っています。たぶん20年前ぐらいに、最初に毎日新聞が金曜日に映画の記事を集めたんですね。それは単純に書き切れないからで、恩田さんもおっしゃっていましたけど、あまりにもたくさん書いてくれ書いてくれと要請があって、さばき切れないから、当時の担当者がじゃあ全部やるって言って、今は5本ぐらいですけど、当時は1人で15、16本書いてたんじゃないかな。とにかくたくさん載せましょうというところから始まりました。しばらくそれが続いて、僕が担当になったぐらいから、もう少しいろんな意見を入れましょうと試行錯誤しながら、今はメインが1本と、小さいのが2本、それに目立たないけど注目作を1本と、あとは興行についてのコラムという構成で作っています。なので、単純に映画の情報を提供するというのではなく、こんな面白さもありますよ、こんな風にも見ることもできますよ、と様々な見方を提案しようというのが、毎日新聞の紙面です。

市山:日経はいつごろからですか?

古賀:2005年から、夕刊の文化面をつくって、他の新聞と同じように、金曜日に映画評をまとめましたが、特に積極的に星取を売り物にすることは考えていなかった。ただ、さっき恩田さんがおっしゃったように、2000年代前半から各紙で金曜日に映画評をまとめる傾向が出てきました。その前に僕は関西にいまして、その時点で関西でそんなことをしている新聞、文化面は全然なかった。東京では毎日さんは最初からやってらっしゃったけど、他の新聞も、朝日以外は金曜日にまとめていたので、そういう意味ではうちは後乗りでした。背景としてはまず何よりも、勝田さんがおっしゃったように、公開本数がものすごく増えちゃって、週に1本、2本の映画評では、とてもじゃないけど全体像を追えないということですね。小さいものも含めて7本、当時は7本でいけたと思ったけど、今はその倍ぐらいは必要なんじゃないかと思っています。他紙との差別化ということもあるけど、それ以上に思ったのは、7本載せれば、いわゆる話題作、大作みたいなものも、週1、2本のおすすめには入ってこない作品でも、一体どんな映画なんだろうと知りたい読者も多いわけで、それはそれでちゃんと短い映画評をつけて、良いのか悪いのかはっきりと表明する、それはとても重要な情報なんじゃないかと思いました。星取表ありきではなく、結果的に星をつけたほうが、おさまりがいいんじゃないかと。それと欧米のクオリティペーパーはみんな星をつけているから、うちもはっきりと批評しようということで、星をつけました。

恩田:ひとつ付け加えたいのですが、ガイドライン的な意味を強めていったというのは、他の紙の媒体がどんどん減っていったことが理由としてある。映画を観るときに、皆さんが今週どんな映画があるんだろうと一覧できるものがとても減ってきたんですよね。それを考えると、批評性というのはもちろん大事にしているんですけど、一般的な人のこともどれぐらい考えればいいんだろうかと、ずっと試行錯誤しています。

うちの紙面で、一昨年ぐらいまでは、都内の映画館を見開きで、どこで何をやっているかっていうのを表にして2ページでバーンと出していた。ところが上映スケジュールが決まるのが遅くなってきて、すごく短い締切の間で、その誌面を完成させることができなくなったんです。とても困ったという方の声をいっぱいいただいて、そういうことを考えると、作品のために書いていくということとは別で、観に来てくれる人っていうことを考えなければいけないと、すごく迷っています。その視点というのも、新聞には考えなきゃいけないことだと思っています。

市山:批評を掲載するとき、紙面の読者がどういう層だから、こうしなければと思うことはありますか?

恩田:いや、具体的にこういう人が読んでいるからっていうのはないですが、すごい話題作だからこれはどうなのかって知りたいっていう人が多いであろうっていうものに関しては、なるべく取り上げなければいけないなと思っています。良いにせよ、悪いにせよ、心がけています。

市山:新聞を読んでいると、わざわざこれを持ち出して、ここまでけなさなくてもいいのにと思う映画評がたまに出てくることもあって、びっくりすることもある。それはやはり、話題作だからでとにかく取り上げて、それがだめなときにいろいろ批判するということになるんでしょうか?

恩田:難しいのは、良くないのをわざわざ大きく取り上げて、けなすことはないんじゃない?という議論と、これだけ注目が高まっているんだから、やらなくちゃいけないんじゃないの、というののせめぎ合い。あと、同じ週にもっと作品としては素晴らしく良い作品がいっぱいあったときに、その話題作に触れなくなってしまう恐れもあるわけです。そういうときはいつも悩みどころで、玉虫色的な、小さく載せておく、みたいな決着になることが多いんですけど、果たしてそれでいいのかなと思うこともあります。

市山:朝日新聞の秋山さんが書かれた評だったと思うんですけど、かなり前に、ある作品をけちょんけちょんにけなしていて、勇気あるっていったら失礼な話ですけど、これ配給会社からクレーム来ないかなと思った。編集部では、そういうことを紙面構成のときは考えられるんですか?

石飛:考えますね。基本的に僕は、どういう記事を出しているかというと、映画館にたくさん人が来てほしい、たくさん人が来るのがうれしいし、僕ら映画記者の商売的にもそうしてもらったほうが嬉しいということがあるんですけど、この映画を観ることで映画が嫌いになるみたいなクソな映画がときどきあるわけですよ。こんなものを観に行ったら映画が嫌いになるよ、観に行かないでねっていうようなときは、そういう風に書くような気がします。

市山:原稿を頼むときは、この人は褒めるだろうなと、あるいはけなすだろうなと思って頼むのか、漠然と訊いてみて、あとはどういう風に書くかわからないものを待つのか、どんな感じなんですか?

石飛:どういうふう感想をもたれたかという話はして、依頼しますね。

市山:石飛さんが人が来てほしい、という作品は、褒めているであろう人に原稿を依頼するんですか?

石飛:どうかな。完全なケースバイケースですけどね。ちょっと今、僕は映画評の担当を離れていて、後輩に任せているところはあるんですけど、自分がやっているときは、文章が面白くなるかどうかを一番重視して選んでましたね。評価もちろんなんですけど、面白く書いてもらえる視点を持っていらっしゃる人に書いてもらいたいと、筆者の方と話していました。

市山:石飛さんはご自身で批評も書かれていると思うんですが、そのときは、どうしてもこれは推したいからと書かれるのか、書く人がいないから自分で書くのか、どんな感じなんですか?

石飛:映画評論家の書きたいとおっしゃるものを書いてもらっています。それが最優先で、誰もこれを観ていらっしゃらなかったけど、僕が見てこれはすごく推したいというのは書きます。逆もあります、これは絶対許せないというときも(笑)。

市山:毎日新聞は記者の方が書くのですか?

勝田:原則的には記者で書きたいと思っていたんですが、手がまわらなくなって、外のライターさんにもお願いしている。選ぶのは担当記者で、言ってみれば独善的に選びます。ただ、単純に面白いからというばかりではなくて、石飛さんおっしゃったように、これは公開規模が小さいけど見てほしいとか、公開規模がでかいけどたいしたことないとかいうのも、毎日新聞だと複数で評するので、けちょんけちょんにけなしてもどこかで救える、逆に絶賛したものにケチをつけることができる。そういう意味では、いろんな作品を取り上げやすい作りになっている。

市山:僕なんかはプロデュースをしていると、宣伝の立場で、記者の方が試写に来て面白いって言う場合と、ライターが面白いって言う場合と、どちらの方が通る確率が高いのかなと気を揉んでます(笑)。

勝田:誰かがものすごく面白いって言ったものは、やっぱり取り上げなきゃいけないだろうと。原稿を書いてもらって、なるほどなって思う場合もあるし、そればかりではないだろうと、違う切り口の評を出すとこともある。評者が5~6人いますけど、誰かが書かせてくれと言ったものに関しては、尊重する傾向はありますね。

■映画評と広告の関係

(客席からの質問):金曜日に映画評が集まったのは、広告の要請だったように思います。金曜には映画の広告が並びますよね?よりそれを集めるには、より記事を上に欲しいと。広告局の強い要望があったと記憶していますけど、他紙でどうなったのか。ただ、今、ちょっと変ですよね。今、広告も記事仕立ての広告もあって、どっちが評論家かわかんなくなってしまっている、と変な感じもします。

恩田:もともと金曜日に広告が入っていたので。広告の人はもちろん幸せだったと思うけど、そればかりではないです。

勝田:広告から要請があったというよりは、金曜日に集まって広告が喜んだということではないかと思います。記事か広告かわからない紙面については、新聞社の広告担当者と映画の宣伝担当が、いろいろ作戦を練ってやっています。一応区別して書いていますが、確かにおっしゃるように、境目が見えにくいというのはあるかもしれません。

(客席からの質問):アメリカのロッテントマトって、どういうふうに利用するかって利用者によって変わるんですが、いわゆるアグリゲーションサイト、映画評を集めて、それが良好なものなのか、あまりよくないって言っているものなのか、パーセンテージで出しているサイトですよね。個人的には映画評を読みたいと思っているんですが、ネットがでてきて、まとまっていると見やすいというのがひとつあって、そういうサイトができたらなと思うんですね。もちろんこれは映画サイトが企画して、何らかの形で協力を仰ぎながらやっていかなければいけないものだとは思います。そうすると、毎日さんのように、良いと言っているものに対して、違う意見がバーっとなって、そこからリンクしてそれぞれのサイトにいけるという。そもそもサイトに映画評を載せられるのかっていうのもあるので簡単なものではないとは思いますが、みなさんと評論家として、新聞記者として、それぞれ映画をどう観ているのかって、作品毎で観れたらと思った次第です。

古賀:キネマ旬報で宇田川幸洋さんが映画評の評をやっていましたね。あれものすごく面白くて読んでいたんですけど、終わっちゃいましたね。

浅井(アップリンク):昔、岩波ホールで映画を配給して、劇場に新聞の映画評をコピーして掲出したのですが、新聞社の人から「これは著作権違反だ、剥がせ。購入した紙面を貼れ」と言われたんですけど、オンラインに皆さんが書かれたあるいは編集された記事が有料で読めなかったり、タイミングが遅かったりした場合、記事を写真で撮って、Twitterであげるという行為は、何らかの著作権違反なんでしょか?アップリンクの配給作品の記事が新聞に掲載されたとき、うちは著作権の観点から全文を撮らないように指示して、タイトルを見せるぐらいにと言っているんですが、宣伝側としては記事を全文に読める形でTwitterにあげたいなと思っています。多分グレーで、違反かなとは思っているんですけど、記者のみなさんたちはどうなのかなと思って。

石飛:個人的には全文載せて、みんなにより多くの人に読んでほしいと思います。が、著作権法がいろいろ関係しているような気がします。

市山:僕らも良いかなと思うんだけど、海外でスクリーン・インターナショナルヴァラエティに出ているコメントを、日本で宣伝によく使っているんですよね。これって許可をとらなきゃいけないのか、訴えられたっていう話はきかないので、チラシにいれたりとかはしているんですけど、もしかしたら本当は各誌にコメントを載せてもいいですかと訊かなきゃいけないと思います。これは著作権に詳しい人にきかなきゃと思いますけど。

恩田:揉めたということはないんですけど。ただ転載についてのお問合せがあったときは、よくわからないので、知的財産部にお電話していただいて、でもたぶん解決しているので、どうなっているのかよく分からないですけどね。

古賀:たぶん知的財産部の窓口が、浅井さんがおっしゃったように指導しているのだと思います。市山さんがおっしゃった、文章のここを使いたいという場合、外部筆者が書いたものは、例えば村山匡一郎さんが書かれたものは村山さんに著作権がありますから、村山さんがOKと言えばOKですよ。一応そういうものを転載しますというのを、会社に届けはしてもらいますけど、うちはお金をもらわない、というシステムになっています。

市山:許可をとれば大丈夫?

古賀:記者が書いた記事を全文を載せると言えば、お金を払えとなるのではないでしょうか。よく朝のテレビで新聞の切り抜きやっていますけど、あれはお金貰っていますよね。

勝田:私としても自分の記事がそういうとこに出るのは大歓迎でやってほしい。でも、ちょっと前に比べるとそういう状況が厳しくなっている。以前は宣伝担当から「転載してもいいですか」ときかれて、「毎日新聞に掲載したといれてくれればいいですよ」って、私のレベルで許可できたんですけど、最近は「担当部署に許可をとってくれ」と伝えます。知的財産ビジネス室が判断しています。ただまあ、映画界も同様で、昔写真貸してくれっていうとホイホイ貸してくれたのに、今はどこにいっても金をとられる。あっちもこっちも窮屈になっているなといった印象があります。

■誰もが発信できる時代における批評の役割

市山:批評があらゆるところに広まっていく。すばらしい批評もあるけど、ただ単に書きなぐったような批評もあったりして逆にいろんなものが氾濫していて、どれを信用していいのか、どれがいい批評で悪い批評についてわからなくなっているのは事実の問題です。

あとはライターの問題で、フィルメックスでも、一般の方たちにフィルメックスで観た作品の批評を書いてもらって最終日に発表するというイベントを行います。批評は今後どのようになっていくのか、みなさんに聞きたいと思います。

日経の古賀さんには去年のイベントでも尽力いただき、多くの批評を読んでいただきました。その中で印象に残ったものはありますか?

古賀:昨年登壇されたジャン=ミッシェル・フロドンさん(フランス/映画評論家)のお話を受けて言うと、批評はなくならないと思っていますし、会場に来た方々の批評を読んでも、なくならないと思いました。批評というのは、映画の受け手、映画を観る側の創造的行為で、絶対なくならないし、なくなってはいけないもの。映画というのはスクリーンに映写してそれを不特定多数の人にみせて、はじめて映画として成立するから、受け手が受け取るということを含めて映画なので、それがなくなることはないだろうなと思いました。ただ問題は、そういう批評が読まれる空間、批評同士が交わされる空間がなくなっているということで、それは映画状況の拡散ということと密接に関わっている。あまりにも映画の本数が増えていて、多いことは決して悪いことではないけど、結果的にそれによって非常に小さい規模で公開され、内輪で受けてそこで充足しているという状況がとても増えている。その中にいい映画もたくさんあるので、私は歓迎します。90年代に比べればずっとよくなっている。ただし、批評の空間としては弱くなった。全体の状況は見えにくくなったというのは間違いなくあります。

今日本では年1,200本くらい公開されていて、それを全部観ている批評家はいない。批評家も得意分野以外の作品はなかなか手が回らないという状況になってきていて、その全体をトータルに論じるということが非常に難しくなってきていることを感じます。

恩田:全くその通りです。入口をどこに当たればいいんだろうというところ。市山さんはスクリーン・インターナショナルやヴァラエティなど、映画祭の時はそこに頼ればいいのというのがはっきりしているけど、普段映画がお好きな方がどこから行けばいいのだろうか。すでにリテラシーができている年代の方ならまだいいですけれど、まだ最初から入るときに、いろんなものが拡散されている中でどこにとっかかりを持てばいいのかというのはすごく迷う状況であると思います。それぞれがどういうつながりを持っているのか見えてこない。

批評を頑張らないといけないと思う一方で、大ヒットというのは映画を観に行く上での起爆剤になっていることは確かですが、何が論じられるかということよりも、いいとか悪いこととも全部数字みたいなことになっていくのがとても嫌だなと思います。人と話が通じなくなってきているのがとても嫌なんです。そこも含めてなんとかしなくてはいけないと思っています。

市山:海外ではスクリーン、ヴァラエティ、ハリウッドレポーターという3つの雑誌があって、映画祭のプレス試写が終わるとそこにまず批評が紙面の前にネットに掲載される。そこで作品をけなされると公式上映の時にしらけるから、今年のカンヌ映画祭では、公式上映前にみせないようにプレス試写の日程を変えるというすごいことを行った。プレス試写を公式上映の前にやらず、公式上映と同時、または公式上映の後にプレス試写を行うというのを始めました。それもある種面白いなと思いますが、媒体もレベルが下がっているというか、ばらつきがでてきている感じがする。得にスクリーンは昔から書いている人が書いているので、ある程度信用しながら見ていますが、ヴァラエティ、ハリウッドレポーターは、誰が書くかによって全然ちがっている。特にアジア映画は、アジア映画について詳しい人が書いていると、ちゃんと説明してくれているけれど、そうでない人が書くとものすごくとんちかんな評がでてくる。

映画祭のマーケットでたまたま観に来た人に左右される時代になっていて、それは媒体の方の問題ですが、こういった現象が起きてきている。映画祭における批評空間は90年代ぐらいまではある程度のレベルを保っていましたが、ここ最近は崩れてきている気がする。ただ一方でネットには即効でフィードされる。そうするとあまりにも多くの批評があがるので制御しきれない。どれを信じていいのかわからないというのは映画祭に行っている現場の人間として感じます。

勝田:ウェブに関して話をしますと、止めようがない。これからどんどん、誰かが何かを発表する場として大きな位置を占めてくるし、映画の観客にとっても入口としてはとても入りやすい。これまで我々新聞は、新聞に載っているからという理由で内容を担保していた部分があるのではないかと思うし、そこに甘んじていた。でも新聞の読者は減っているし、情報の発信源としては、新聞もウェブと差別化がしにくくなってきている。特に芸能文化の面においては新聞に載っているから、新聞の映評で褒められているからという理由で、それを頼りにしようという観客はだんだん少なくなってきていると思います。新聞の批評もウェブの批評も同列に捉えられるようになってきている。

そうした中で批評が生き残っていくためには、書き手がどうやって育っていくかだし、読み手も、映画が単なる娯楽だとか、お金に換算できるコンテンツではないと思ってくれないと、成り立たなくなっていく。これからウェブが広がっていくことによって、新しい書き手もどんどん出てくる。そうした才能をどうやって見つけて、読ませていくのかも、新聞は考えなければならないと思う。どうするかはまさに模索中です。

新聞社が発信するニュースについても、たまたま現場にいた人によるSNSの書き込みとの差別化を考えているところで、批評も曲がり角に差し掛かっているのではないかと思っています。

石飛:批評が読まれないことについてはいろんな思いがあるんですけど、自分がどんなことを書こうと思っているかというと、誤解を恐れずいうと正しくその映画を評価したいという思いはあまりない。正しいって何だろうと思うんです。それよりもこの文章はおもしろく書きたい、それから金曜日に映画評はでるわけですから、みなさんと違う論点や視点で書きたい。それで賛否両論を巻き起こしたい。そうすることによって朝日は何を書いてくるかわからないということで注目されることが含まれる必要なんじゃないか。その議論のひとつのきっかけにしてもらいたいといつも思っています。実際にそうできてはいないかもしれないですけど。

あとは読んでもらうために、今は論争が少ないというような気がします。かつて激しくやりあう論争があったと思うんですが、若干お行儀よくなっている感じがするので、論争があるとみんな注目すると思うし、その激しい何かが批評には必要ではないかなと思っています。

藤井:石飛さんがおっしゃる感覚を私も思っていまして、映画批評として独立した文章、高いレベルでいえば文学と言ってもいいのですが、そういったものがあるべきだと思いますし、映画評を書く上では目指すべきだと思います。一方でウェブが発達して、SNSで誰でもが発信できる時代で、そこで書いているものも映画評と同じレベルで受け取るかもしれない。その違いをみんなどういう風に把握できるかが一番問題ではないかと思います。映画自体もシネフィル向けだけの映画だけではないのと同じように、映画評もいろんな人が読むべきであり、受け手をどのレベルまでにもっていくのか。単なる感想文ばかり書いているブログでもアクセス数が非常に高かったり、読み手がそれを映画評として捉えるのも問題だと思いますし、そこを今後どうしていくのかが今後の課題だと思います。

■娯楽性と芸術性の両立、東京国際とフィルメックスの合併

浅井:今年の東京国際映画祭の審査委員長ブリランテ・メンドーサが「娯楽性とアート映画は共存しない」という問題提起をした石飛さんの記事を読みました。また、東京国際映画祭とフィルメックスを木下グループが支援しているのなら合併させたほうがいいのか、という問題提起もされていました。ご自身の意見はどうでしょうか。

石飛:私はとにかく議論を巻き起こして賛否を得たかった。ちょうどふたつの映画祭が木下グループになり、可能性が高まったので、そういった意味を込めて書きました。僕の個人的意見ですが、メンドーサさんの意見に必ずしも賛成ではありません。芸術性を重視した映画祭は世界にたくさんありますし、TIFF(東京国際映画祭)がここ数年やってきたコンペでみせてきた作品、特に受賞作で観ると『最強のふたり』のような芸術性もあるけど、娯楽性もあってヒットする映画を選んでいるような気がするようして、それがTIFFでのひとつの個性になりうるのではなかろうか。娯楽性を重視した、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭などを除いて、これが独自性を主張できるのではないかと、ここ数年、そんな記事を書いてきている。なので、どちらかというとメンドーサさんとは反対の意見です。今年のグランプリの『アマンダ』も娯楽的にもヒットする作りになっていましたと思います。

藤井:基本映画はなんでもありがいいと思うので、カンヌやベネチアもなんでもありでやっているので、なんでもありでいいと思うですが。

勝田:私はTIFFはあまり取材できなかったので、みなさんの記事を読んでの意見ですが、私もあまりメンドーサさんの言っていることに納得できませんでした。あの発言をうけて考え直すべきだという論調がありましたが、そうかなと思っています。面白くて芸術的な映画なら一番いいに決まっているけれど、そういう映画は集めるのが大変で、TIFFが苦戦しているのもよくわかります。ただその方向に進もうとしてよくやっているし、これだけ様々な映画祭がある中で、いい作品も上映できていて、それなりに頑張っていると思います。だから、方向性としては間違っていない。もうちょっと続けてもいい。東京でやるとなると、ヨーロッパの映画祭とは位置付けが違う。ヨーロッパの映画祭に行くと、お客さんが、単に映画を観るというよりも、お洒落して知的体験を楽しむというような、単純に娯楽ではないものを求めて映画祭に集まってきている。日本で映画を観るという行為は、文化に親しむというより娯楽として楽しむという意味合いが大きいので、そこから入って芸術性を見つけていくというのは悪くないと思います。むしろ芸術に特化して、芸術的だけどわからない映画を集めてくるなら、東京で行う必要はないと思います。

ふたつの映画祭の合併については、確かに作品に並べてみると、フィルメックスにはいい作品があって、TIFFに持ってきてしまえばいいなと思いますが、いろんな映画祭があっていいんじゃないかと思います。フィルメックスはフィルメックスでアジアに特化するし、TIFFはTIFFでもっと大きな規模で娯楽と芸術の難しいところを追求していくと。ただ時期が近いということと、場所が近いところが問題ではないのかと。その辺もう少し考えてみてはどうだろうと思います。

古賀:私もメンドーサの発言を直接聞いたわけではないので、他の新聞を読んだり、取材した後輩からの報告を聞いただけですが、メンドーサの発言は要するに娯楽性よりも芸術性を取るべきだということではなく、プログラマーが娯楽性と芸術性の両方を追求していると説明したが、それ自体ナンセンスだと言ったと理解しています。そのメンドーサの発言は全く正しいです。一体、プログラマーは何という説明をしたんだと僕は愕然としました。世界の映画祭でプログラマーが審査員に対してそんな説明をすることはあるんでしょうか。それは、ウケる映画を選んでくれと言っていることとほとんど同じじゃないかと思うんですね。僕は東京国際映画祭はおかしいと思いました。ですからメンドーサが言う通りなのであって、娯楽性と芸術性がバランスをとるということを議論すること自体がナンセンスだと思っています。東京国際映画祭に関わる人もトップがそういうことを方便として言うことはあっても、現場レベルではそんなことは考えていないと思うんです。

それから、東京国際映画祭とフィルメックスの合併については、全くの愚論だと思います。東京国際映画祭は日本の映画祭の中で国からの桁違いの助成を得ている非常に公的な色彩の強い映画祭ですよね。これと民間の映画祭を合併させるなんてほとんど民業圧迫だと思います。そういうことを新聞が書くのはいかがなものかとも思います。全く愚劣な議論だと思っています。大反対です。市山さんがやりたいというんだったらまた別ですけど、私は反対です。

フィルメックスがすごい点は、だれのための映画祭かということがはっきりしていることですね。一つは映画ファン、それもかなりコアな映画ファンですね。それから作り手。それから、日本の独立系の映画配給興行関係者。ここに向けて明確に映画祭をつくりあげている。映画ファンにとっては、日本で上映されるめどのない、でも海外で非常に高く評価されたアジア映画が観たいですよね。そういうものを入れてくる。ワールドプレミアにこだわると、そういうふうにはならないわけですよね。だけど配給が決まってないものを入れてくるので、配給会社も作り手も観にくるし、そこに非常に重要なゲストが来ますから作り手同士の交流もできる。このサイズの映画祭をやっていることに意義があると思っています。これが東京映画祭と決定的に相いれないと僕は思います。

東京国際映画祭はとてもステークホルダー(利害関係者)の多い映画祭で、そこと相いれないからこういう映画祭ができたというふうに理解していますし、これは未来永劫合わないと思います。現実的には、世界の映画祭はフィルメックスが向き合っているコアな映画ファン、作り手、映画配給興行のプロに向けて作られている。カンヌもベネチアも基本そうですね。その部分ができていないから東京国際映画祭がなかなか世界標準の映画祭になれない。しかしふたつをくっつければ解決するとは到底思えません。

恩田:私も今年は東京国際映画祭を全然取材してないので、メンドーザが直接なんと言ったのかというのも聞いてない、実際に具体的にどういう説明があったのか検証もしていない状態ですけれど、ただ記事上の言葉で見て、言葉の定義自体がわからなくなって。娯楽性と芸術性と言っているけど、この人の中の娯楽性、芸術性とはなんだろうと、そもそもそこから考えてしまうところがあるんですね。みなさんも、何をもって娯楽性と芸術性とを分けていらっしゃるのかも、一人ひとりみんな同じかな?違うんじゃないかな?という気はするんです。メンドーサが娯楽性ではなく商業性と言ったらすぐにわかるんですけれど、でもプログラミングする人がそんな言い方をするわけではないので、もちろん娯楽性と芸術性という言い方をしたと思うんですが。両者が両立できるかできないかというのは個別の作品について議論することはあっても、概念的に議論できることではないような気がします。ですので、あのコメントが広く強力に流れて、「審査委員長からこう言われたから日本は考え直さないといけない」というような議論になるのは嫌だなと思いました。そうじゃなくて、もっと本質的に掘り下げて考えてゆっくり考えるべきではないでしょうか。そんなことを言っているとどんどん遅くなってしまうんですけれど。

東京国際映画祭とフィルメックスの合併については、私もちょっと現実的ではないと思います。というのは、構造的な部分について古賀さんがおっしゃったのを聞いて、あぁそうかと思ったんですけれど、もし合併があるとしたら東京国際映画祭の目的が明確にならないと議論にならない。取材をしていても、具体的プログラムなど個別のものに関しては理解できるんですが、終わってみると結局何がしたかったのかと毎年検証しないといけない、それぞれの思惑がうまくいっていないという気持ちがする。それに対して、フィルメックスのように、誰のために何を具体的にしていこうというものが明確になっているものが一緒になるのは、今の状況ではあまり好ましくないと。ただ、すごく思うんですけど、今も聞いていて思ったんですけど、娯楽性と芸術性と言う議論と、コアな映画ファンとそうじゃない映画ファンというように分けるのが、あれ、そうだっけな、という気がしないでもないです。よく日本が「中間層がいなくなって」と議論されますけど、すごく大衆的な人とそうじゃない人というような極論じゃなくて、真ん中をすごい豊かにすることを考えなければならないと思う。真ん中を豊かにするためには幅広く説明が通じるようにしなければならないわけですよね。優しく説明するだけではなく、ハイブローに説明するだけではなく、真ん中の人たちを説得するのにいちばんいいのは、何がしたいのかを明確に、納得できるような説明ができなければだめだと思うので、何を議論するにしてもそこが明確になってからが出発点だと思います。

(客席からの質問):メンドーサの記事を読んでいないのですが、その前に内部情報として今年もコンペティションの作品の選定がとてもひどい、審査員の中でひどく不満が高まり、メンドーサが責任者に理由を聞きたいと言っているという話を聞いたんです。それでどなたか責任者の方の娯楽性と芸術性という説明を苦し紛れにでっちあげたんじゃないかなと思いました。私の感想なので事実とは違うかもしれませんが。東京国際映画祭の最大の問題は、プログラマーに映画側が合わないことと、東京映画祭をAランクの映画祭にしなければならないので、ワールドプレミアの作品を選ばないといけない。そうすると、他の強い映画祭に作品は行ってしまうので、どうしても残り物の落穂ひろいみたいになり、コンペティションがひどくなるんです。

市山:メンドーサの話はおっしゃる通りじゃないかなと僕も推察します。メンドーサが娯楽映画をコンペに入れるなと変に線引きしているというよりも、セレクションに関する不満が、ああいう形で出たのではないかと。メンドーサさん今年のフィルメックスに来てくれたらこの続きをやりたかったんですが。

国際批評フォーラム 撮影:村田麻由美
写真右:市山尚三さん(東京フィルメックス・ディレクター)

フィルメックスの立場から言うと、基本は娯楽性と芸術性とか何も考えていない、と言うと変ですが線引き不可能なので、今年はいわゆる娯楽作品はないと思うんですが、過去を観ると香港映画で『天使の眼、野獣の街』というジョニー・トーがプロデュースしてヤウ・ナイ・ホイが監督した作品で、普通に香港映画の良くできた娯楽映画にも見えるけど、これは素晴らしい映画なんでやりましょうとコンペでやったり。いくつか過去をみているといわゆる娯楽映画と分類されるものがコンペに入っていて、それは審査員によってはこれは娯楽映画だから出さないようにしようという人もいるかもしれないし、『天使の眼、野獣の街』の時は審査員特別賞を獲ったのですが、そういうふうに賞を出す審査員もいると。もし説明を求められたら、「とにかく、我々が観ていいと思ったものをやっている」というような言い方しかできないし、芸術性を重視しますよとか、娯楽性を加味しましたなどとそんな簡単に分類できるものではない。東京国際での説明も本気で言ったのか苦し紛れかはわかりませんが、それに関する反発がああいう形で出たのではなかろうかというふうに推測されます。

僕がひとつ思ったのは、世界の潮流は芸術性を重視する、シネフィル的といたほうがいいのかもしれませんが、特にカンヌ、ベネチア、ロカルノといったところが比較的そういう傾向が強くて、ベルリンが唯一違って、ディーター・コスリックというディレクターが来年最後の年になりますが、『ミスター・ロン』というSABU監督の映画に私もプロデュースで加わったのですが、これはディーター・コスリックが気にいってコンペに選んだんです。再来年からは元ロカルノ映画祭のカルロ・シャトリアンがディレクターになるということで、彼がどういうセレクションをするのか僕にはわかりませんが、もし、ロカルノのようなセレクションをすると、非常にシネフィル的な映画祭が増えてくる。いろんな映画が行き場を失う時に、東京国際が娯楽性を兼ね備えた映画をやると、もしかしたら別の意味の存在意義が出てくるかもしれません。ベルリン、カンヌ、ベネチア、ロカルノには入らないけど、東京国際ならやってくれるということもあり得る。ただそれは東京国際が戦略的に決めなきゃいけないと思うんですね。

僕は今年の東京国際で何本かしか作品を観ていないので、セレクションをどうこう言えるわけではないんですが、一方でエミール・バイガジンの『ザ・リバー』というゴリゴリのアート映画、フィルメックスに入ってもおかしくないような映画もあったりするので、統一の取れたセレクションなのかどうか、どうなんだろうなということは僕にもありました。フィルメックスはあまりそういうことは考えずに、観て、いいと思った映画を選んでいるということでしかないんですけど。

フィルメックスのセレクションとしては、一つには「これはやらなければならない」というのはありますね。やはり、いろんな映画祭でプレミアに出ているけれど、配給が決まりそうにない作品。今回で言うと、今日これから上映する『象は静かに眠っている』という4時間の中国の映画とかですね。あるいは『マンタレイ』というベネチア国際映画祭オリゾンティ部門で賞を取っている映画ですが、簡単に配給できるものではないというものが全く見逃されて日本で上映されないということは避けなければならないというところもあって。Aカテゴリの映画祭ではないので、プレミアにこだわらないセレクションを誰からも調整されないので、やっているというのが実態ですね。

さきほどの東京国際との合併の話というのは、フィルメックスが3、4回目くらいに内部ではそういう動きがあったんですね。合併があり得るかとなったときに、当時の林さんや森社長に相談しないで僕の個人的な意見としては、ありえない話ではないと。ただし、今やっている資金がそのままでできるんだったら、一緒にやらないほうがいいに決まっているので、例えば今東京国際で使っている膨大な資金の一部が保証されると、つまりはその時僕もオフィス北野の支援がそんなに長く続くとは思っていなかったので、何かしなきゃいけないと思っていた時に、資金面で東京国際が使っているものの一部で保証があるんだったら考えられないわけではないと言ったのですが、その後の返事はなくなって。都合よくフィルメックスに入ってもらって、東京国際全体で盛り上がってますよとしたかったのかもしれませんが、それだと逆に行く意味がないだろうと。ただそこで開催が保証されるんだったらやむなしというのも変ですが、その時に感じたことではありました。

もともとフィルメックスを始めた趣旨というのが、東京国際でシネマプリズムという部門を浅井さんと一緒にやってまして、あの時に一番フラストレーションがたまったのは、こちらでもかなり自信をもてるプログラミングをやっていると、実際に来る人も良かったと言ってくれるのに、ほとんど報道されなかったんですね。なぜかというと、インターネットがなかったことが一番大きいです。やっぱり、新聞の紙面とかキネマ旬報のレポートだとどうしても、コンペの行方を追わなきゃいけない。それは当然のことと思いますし、当時、新聞や雑誌は、今もそうなのかもしれませんが、配給の決まっていない映画を紹介することに非常に抵抗が多かったということがありました。例えばタル・ベーラの『サタンタンゴ』という映画があって、これはすごく話題になりました。それを観たライターの人がある映画雑誌に批評を書くので載せてくれと言ったんですが、「日本で配給されるんですか」と。「いや、決まっていません」と答えると、「配給されないものを載せると読者から苦情が来るかもしれない」「なんで観られない映画をここで紹介するんだ」と言われると。それは今明かすと『キネマ旬報』なんですが、結局、ライターの熱意と『キネ旬』編集者の配慮でかなり長い批評がでました。ただ最初にそういうことを言われたということを聞き、愕然とした部分もあったんですね。シネマプリズムで上映するものは、大半がお客さんが観て喜んで帰っていくだけで、上映したことすら世に出ていかないのは何なんだろうと、それがフィルメックスをはじめた大きな理由でした。

今ではその問題はある程度解消されます。同じ時期にやっていたとしてもネットを通じてフィルメックスの作品の評が出ていく、それに対して長文の感想等も出てくるだろうし、それを見て「これは面白いだろう」と気が付く配給会社の人もいて、買い付け金を増やすこともあるだろうし、そこまでいかなくても海外で売られているDVDを購入して観る人もいるだろうし。インターネット時代において、さっき僕が言った話はだいたい解決されている気もするんですね。そういう点では、合併したらフィルメックスがなくなるかどうかということもなくできるかもしれないという気もしてはいます。ただ、いち映画ファンとしては、そうすると観るものが重なって困るだろうなという、この前の石飛さんの発言に対してTwitterでも評判で、一緒にやられると困るというのはそういう関係ではありました。東京国際の映画を観に行ったらフィルメックスが観られないという観客の意見もありました。

浅井:市山さんに教えてもらいたいのですが、カンヌも結局コンペと監督週間、批評家週間、バラバラだったものが変わってきて、ベルリンもフォーラムも一応別カタログを作っていたけれど、今メインのカタログに入っていたりしてますよね。だから、合併するというのは愚論・暴論と思うのですが、フィルメックスというセクションは自立した形で、行政の資金援助も含めて東京国際に入るのであれば、観るのがダブるという問題はいち映画ファンとしては出てくるけれど、そちらのほうが世界へ向けてのアドバンテージはあるんじゃないかと、今、皆さんの話を聞いていて思いました。

市山:考慮すべき事項かもしれないと思います。ただ、フォーラムはもともとグレゴールさん(ウルリッヒ・グレゴール&エリカ・グレゴール夫妻)の指揮下に完全に独立してやっていたのが、ある時期からコンペのほうに取り込まれてしまった感じがあるんですね。グレゴールさんが引退した後に、クリストフ(クリストフ・テルヘヒテ)、彼も今年で辞めましたが、彼になってから、彼もコンペの審議員に入るという形になってしまったので、クリストフが観て素晴らしいと思ったものでも結局コンペのほうに入ってしまったり、コンペの中にフォーラム的な映画が入ったりして、ある意味取り込まれたというような感じがあって、それを批判する人たちもいます。フォーラムとしての独立性がなくなってしまったと。

フォーラムではもちろんコミッティがあって、そこで決めているのでフォーラムらしい映画があるんだけど、それをうまくディーター・コスリックが取り込んだのかもしれません。クリストフもコンペのほうの委員会に入っているので。自分でこれはコンペ向きと思ったものはコンペに推薦したり。そういうことがあってグレゴールさんがやったときのカラーはなくなったと批判する人もいます。カンヌの場合は完全に別のセレクション・コミッティで、どの程度情報共有しているかわかりませんが、別々にやっているのであまりそういうことは聞きません。

ただ、カンヌの場合は、コンペが非常に強力になってきているので、監督週間のほうに出すとジャーナリストが逆に観に行かないという問題があるだろうと。会場も離れているという物理的な問題もあります。コンペと、ある視点の会場を行き来して観られるので、監督週間に出すよりもある視点に出したほうが批評が出る可能性は大きいというような問題は最近聞きますが、セレクションは独自にやっているという感じはあります。それぞれ状況は違うのですが、フィルメックスも安定してできるのであれば。合併をこちらから持ち掛けるつもりは全然ないというのが本音というか……。

浅井:合併というか、1セクションとして同時にというのはどうなんだろうと。石飛さんは提案された立場としてどうでしょう?

石飛:僕は、フィルメックスのためというよりは、むしろ、東京国際映画祭のためにフィルメックス的なものが入ったほうがいいんじゃなかろうかという思いがありますね。だから吸収合併とかそういう意味では全くなく、むしろフィルメックス的なものをいれて東京映画祭を運営できる可能性があるのではないかという気はしていますけど。

市山:批評フォーラムとはまた別の話になってしまいましたが、こういう機会でもなければ皆さんの話を一堂に聞けることもないので、私にとっても貴重な機会になりました。

(構成:駒井憲嗣 撮影:村田麻由美)

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