骰子の眼

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東京都 渋谷区

2018-10-12 16:00


ろう者の内面描く『ヴァンサンへの手紙』のレティシア監督「手話はとても映画的な言語」

禁じられていた手話教育、10年にわたる復権への道 ろう者の今を伝えるドキュメンタリー
ろう者の内面描く『ヴァンサンへの手紙』のレティシア監督「手話はとても映画的な言語」
映画『ヴァンサンへの手紙』レティシア・カートン監督

ろう者の立場でろう者の内面を描くドキュメンタリー『ヴァンサンへの手紙』が10月13日(土)よりアップリンク渋谷ほか全国にて順次公開される。公開に先立ち、レティシア・カートン監督が7月に来日した際のインタビューを掲載する。


「手話は、とても映画的な言語だと感じています。手話にはクローズアップ、ロングショット、場面の切り替えがあり、一人で複数の人物を表現する役割の変更も行いますから。ところが手話を話す人を撮影する場合は、まさにその映画的表現が制約になります。手話で話す人の表情だけをクローズアップで撮るわけにはいかないからです。動作も含めた手話全体を撮らなくてはいけないし、話を聞いている人にカメラを振り向けることも難しい。そういう枷が生じることは、作りながらの発見でしたね」(レティシア・カートン監督)


手話は三次元の言語

── 『ヴァンサンへの手紙』は、すでにこの世を去った友人ヴァンサンに便りを送る形で、ろう者の今を伝えるドキュメンタリーです。冒頭で、レティシア監督とヴァンサンの出会いが語られます。手話を習いたかったそうですが、そのきっかけは?

幼い頃からの友達に、ろう者がいるのです(映画にも登場するサンドリーヌ)。当時は彼女も私も手話を学んでいなかったので、十分にコミュニケーションをとれないフラストレーションを常に感じていました。

実際に私が手話を学び始めたのは、クレルモン=フェランの美術学校の生徒だった1990年代後半。25歳になってからです。学校の向かいに語学の学校があり、そこで手話クラスが開講される案内を見て、授業を受けることにしました。

とはいえ上達するには、手話を話す人との会話が必要になります。そこでろう者のクラブに行き、友達募集の広告を出しました。返事をくれたのが、ヴァンサンだったんです。

── 手話は三次元の言語とも言われますね。身振りや表情も言葉の要素であり、聴者にとっては手話自体が一つの美しい表現に感じられます。監督は美術からドキュメンタリー映画製作に進んだわけですが、手話に視覚的な魅力を見出していましたか?

確かに手話は、とても映画的な言語だと感じています。手話にはクローズアップ、ロングショット、場面の切り替えがあり、一人で複数の人物を表現する役割の変更も行いますから。 ところが手話を話す人を撮影する場合は、まさにその映画的表現が制約になります。手話で話す人の表情だけをクローズアップで撮るわけにはいかないからです。動作も含めた手話全体を撮らなくてはいけないし、話を聞いている人にカメラを振り向けることも難しい。そういう枷が生じることは、作りながらの発見でしたね。

映画の中の手話詩のテーマは、愛、平和への賛歌

── その手話による演劇を上演している俳優がレベント・ベシュカルデシュ。映画の中で紹介される手話劇の舞台はとても美しく、思索的です。ヴァンサンと生前からの交際があった人なのですか?

ヴァンサンとレベントには、直接の交際はありません。でもヴァンサンにとってレベントは、ろうの表現者としての先輩、憧れのスターでした。

映画『ヴァンサンへの手紙』
映画『ヴァンサンへの手紙』レベント・ベシュカルデシュ

レベントは優れた俳優であり、フランスのろう者なら誰でも知っている存在です。ニコラ・フィリベール監督の『音のない世界で』(1992)に出演していて、私はこの映画で初めて彼を知りました。私とレベントが知り合ったのは、ヴァンサンが亡くなってすぐのことです。

── レベントは映画のカメラに向かって、手話詩を語ります。彼のあの表現に、パントマイムとの共通点はあるのでしょうか。

いえ、両者は全く異なる性質のものです。パントマイムは動作のみによって状況や感情を表現するもので、手話詩は手話によって詠む詩ですから。手話かどうかの違いだけで、言語の組み立てによって情動を表現する点、リズムを重んじる点では、日本の俳句に通じているかもしれません。また、詩には効果的に韻を踏む形式がありますが、手話詩にも同様に、手などの動きの反復によって韻を踏んでいく表現があるんです。

もちろん、パントマイムの要素は手話の中に内在していますが、その割合は、手話言語の中のほんの一部なんです。

── レベントが映画の中で詠んでいる手話詩は、どんな詩ですか?

愛について。手話詩は音声言語にそのまま翻訳しにくいため、字幕による説明などはしていませんが、レベントは愛についての大きなイメージや、解放、人生、そして平和への賛歌を手話で表現しています。

── 終盤には、聴者である歌手のカミーユがろう者と集まって歌うシークエンスがあります。監督からの提案だったのですか?

カミーユからです。音楽を担当してほしいと初めて相談したとき、彼女がすぐに「手話と一緒に歌いたい!」とアイデアを出してくれたんです。ろう者は手話で、聴者はフランス語でそれぞれ歌いながら調和していくコーラスにしたいと。すでにある曲の歌詞の一部をヴァンサンの人生に合わせて書き換え、それをレベントが手話言語に翻訳してくれました。

── 日の当たる部屋のなかで、朝を待つ夜の歌。その対比が印象的です。

そう見えましたか? 実はあの場面の光は、全てライティングです。地階にあるダンススタジオで撮影したんですよ!

── ああ。まるっきり騙されました。

それが映画の魔法というものです(笑)。あの歌で歌われている「夜」には「厳しく暗い冬」や「争い」といった意味があり、やがて訪れる朝には、「新しい生命の誕生」と「再生」の意味が歌い込まれています。

映画『ヴァンサンへの手紙』
映画『ヴァンサンへの手紙』

編集は、大きなタペストリーを編み上げるような作業でした

── 『ヴァンサンへの手紙』は、ヴァンサンの死後、彼を通じて出会った人たちとの交流が続く。その関係の長さが魅力になっています。

完成までには10年かかりました。こんなに長くかかってしまった一番の直接的な理由は、資金調達なんです。でもそのおかげで、映画の中に年月の厚みを持ち込むことが出来ました。 子どもたちは、登場したときは幼稚園児だったのに小学生、中学生になり、成長していますよね。彼らは、ヴァンサンが幼い頃に学べなかった手話を早いうちから教わり、将来の選択肢を拡げています。彼らの姿は、手話教育の復権がもたらしたものの掛け替えのない証明だと思っています。

── 長い時間撮影した素材をここまで編むのは、大変な作業ですね。

まったくです。ラッシュ映像が200時間ありましたから。

『ヴァンサンへの手紙』は、聴者である観客をテーマに導入するシークエンスから始まります。ろう者の世界はどんな世界か、ろう者として生きるとはどういうことなのか、深く知ってもらうためのヒントを示しています。

そのためには多くの情報を入れ込むことが必要ですが、そこに傾き過ぎてルポルタージュのようになってもいけない。同時に詩情や繊細な感覚も伝えなくてはいけない。映画と情報のあいだの微妙なバランスを保つ必要があって、余計に編集に時間がかかりました。

── そうなると、愛着があっても全体を優先してオミットせざるを得なかった場面もあるのでは。

それはもう!大好きな場面は、涙なしではカットできません。編集の期間はとても創造性があって、何かを表現できる一番好きな時間です。同時にとても、とても辛い時間でもあります。

映画は作り始めると、独立した一つの生き物のように動き始めます。映画との烈しい闘争の始まりです(笑)。やがてこの場面は必要、不要という判断を、映画のほうが決めるようになります。私は途中から、その決断に従って導かれるしかなくなるんです。でもそこには愛としか言いようのない、深い感情が生まれる……。

いずれにしても、編集の期間はとても濃密。静かな川の流れとは全く逆の状態なんですよ(笑)。

映画『ヴァンサンへの手紙』
映画『ヴァンサンへの手紙』

ものごとは常に、コインの表と裏

── 冒頭と終幕で、絵画の額のような役割を果たしている空の雲。雲で始まり、雲で締めくくる演出は当初からの構想だったのでしょうか。

ヴァンサンへの手紙を私が読む場面は、常に雲に向かって呼びかける形をとっています。撮影期間がとても長かったため決めたのがいつかまでは覚えていませんが、途中から頭に浮かんだことだと思います。もともと雲の写真や映像を撮るのが好きだったので。

編集に入る時点では明確に、雲の映像を一つのアレゴリー(寓意)として活かすと固めていました。

── 雲もそうですが、『ヴァンサンへの手紙』はどこか東洋的な親しみやすさを持つ映画です。陰陽のマークのようだな、という印象も強く持ちました。大人が過去の思い出を語るとき、内容は辛いのですが、大人になってようやく話せるだけの整理がついた安らかさもある。逆に、今の子どもたちが手話教育を受ける幸福感たっぷりの場面には、しかしこの恩恵をヴァンサンは受けられなかったのだ、という怒りが滲んでいる。暗いシークエンスの中に光があり、明るいシークエンスに影が宿る、非常に精緻な表現となっています。

とても頷けるご指摘です。陰陽のマークではありませんが、編集中の私はその点について、コインの表と裏をイメージとして持っていたからです。

おっしゃる通り、活き活きと手話を学ぶ子どもたちの姿の背景には、この教育を受けられなかった、また、受けられずにいる多くのろう者がいます。でも、登場する大人たちの過去の回想も暗いものばかりでなく、幸福な記憶がセットになっています。

どんな事象にも二面の意味があり、良い面と悪い面は常に同時に存在している……いつも頭の片隅に置いている考えでした。

映画『ヴァンサンへの手紙』
映画『ヴァンサンへの手紙』

映画の中の〈時間〉は、全て幻想なのです

── 『ヴァンサンへの手紙』は、〈時間〉が大きなサブテーマになっていると感じます。ヴァンサンがいなくなってしまった後の日々は同時に、子どもたちが成長し、少しずつ物事が進んでいく期間でもある。

確かに〈時間〉は、映画の登場人物のひとりです。これまでの作品でも、〈時間〉の存在に比重を置く手法をとっています。

でも私には一方で、実は〈時間〉というものは存在しない、という深い信念があるんです。アインシュタインのようなことを言っていますけど(笑)。この十年近く、物理学の理論を学んでいるんです。

── 〈時間〉は存在しない……!思いもよらないお話です。

全ては幻想なんですよ(笑)。

── そう言われてみると、映画は不思議な表現です。機材がなければ作れないし、残されたヴァンサンの映像だって挑発的に言えば、実はビデオの磁気信号が変化した状態に過ぎない。徹底して物質的なのに、完成すれば見る人の心に訴えかけるものになる。

映画は、観客に一つの体験を提供するものだと私は考えています。その提供を映画館の暗闇の中で行うあいだに、一時間半から二時間の現実の時間は確かに流れますよね。しかしそこには物質性は介在しません。物質的プロセスで製作されていても、スクリーンに投影された途端に実体を持たない、単なる光になります。

つまり映画は、非物質的な存在になったときに初めて映画となって観客に届き、感情を揺さぶるのです。〈時間〉とは、あくまでその幻想の中で表現された、物語の一つなのではないでしょうか。

実際、この映画を見てくれた人たちの多くがヴァンサンの名前を口にし、ヴァンサンのことを覚えてくれます。まるで彼が2018年の世界に降り立ったように。ヴァンサンのいなくなった後の時間は、観客が〈時間〉の物語を受け取ってくれることによって存在しなくなったのですよ。

── なるほど。手で触れることはできないが、目には見える。映画は一種のファントマ。

そう。それを司る映画監督は、この世で最も美しい仕事なのだと私は思っています。

映画『ヴァンサンへの手紙』
映画『ヴァンサンへの手紙』

僕らと聴者のあいだには、何も違いはない

── 大切な友人の不在をいつも考えながら映画を作る。いわゆる〈喪の仕事〉です。辛い作業ではありませんか。

うーん。そうとも限らないです。確かに彼を失ったことで私は深い悲しみを味わい、苦しみました。ですが映画は創造的な仕事です。作業のあいだは、創造が生み出す生命の力の中にいましたから。

『ヴァンサンへの手紙』で描いた、コインの二面のような悲しみと喜びの関係は、私自身の心境でもあったんです。そういう意味での重要人物は、手話講師として登場するステファヌです。彼はヴァンサンの少年時代からの友人です。

ステファヌは、決して自分を犠牲者のようには考えない人物です。差別を受けることに常に怒り、悲しんできましたが、最終的には自分のやりたいことを全て達成しています。人生にどんな罠や壁が待ち受けていても、それを乗り越え、あるがままに生きていく力を備えているんです。

ステファヌの生き方が示す教訓は、ろう者だけでなく多くの聴者にとっても参考になるでしょう。これは、『ヴァンサンへの手紙』を日本で配給してくれる牧原依里さんに対しても言えることです。

ヴァンサンが亡くなった後も映画を作ると決めたとき、私はステファヌに「これから作る映画に必要なことはなんだと思う?」と意見を求めました。彼の答えは「とにかくあるがままに撮ればいい。僕らと聴者のあいだには何も違いはない」。ハンディキャップを持った存在として描いてほしくない、ということです。私も、そのつもりは一切ありませんでした。

映画『ヴァンサンへの手紙』
映画『ヴァンサンへの手紙』

── ろう者を描いたフランスのドキュメンタリー映画として高名な『音のない世界で』。1995年に日本で劇場公開されたときは、大きな反響を呼びました。今見ると、ろう学校で子どもたちが発声を学ぶ姿が中心で、『ヴァンサンへの手紙』で描かれた教育とは異なることが分かります。

私が『音のない世界で』を初めて見たのは、25年ほど前のことです。あの映画には手話教育はほとんど描かれていません。印象的なのは、口話教育を受ける子どもたちが教室で失敗する姿でした。

私とヴァンサンは逆に、彼らが聴者の子どもと何ら変わりなく学び、成長する姿を描きたかったんです。

それでも私は、『ヴァンサンへの手紙』は『音のない世界で』の続編なのだと考えています。

ニコラ・フィリベール監督は聴者の視点からろう者を描きました。私はろう者を、彼らのコミュニティの中から撮ることを目指しました。2本の映画のあいだには長い歳月があり、ろう者を描くのにふさわしい視点もまた、そのあいだに変化したのです。

理想を言えば、将来は『ヴァンサンへの手紙』の続編が生まれてほしいですね。ろう者の監督が、ろう者のコミュニティを内部から描くドキュメンタリー。もしかしたら、その映画の監督は牧原さんかもしれません(笑)。

(オフィシャル・インタビューより)



レティシア・カートン(Laetitia Carton) プロフィール

1974年生まれ、フランス・ヴィシー出身。フォー・ラ・モンターニュにて活動し、現代アート作品を発表するが、学士入学したリヨンの美術学校でドキュメンタリー映画製作と出会う。卒業制作“D’un chagrin j’ai fait un repos(直訳:あまりの悲しみに休息を取った)”や長編ドキュメンタリー“Edmond, un portait de Baudoin(直訳:エドモン、ボードワンの肖像)”などが海外各国の映画祭で上映され、グランプリなど様々な賞を受賞。




映画『ヴァンサンへの手紙』
映画『ヴァンサンへの手紙』

映画『ヴァンサンへの手紙』
2018年10月13日(土)、アップリンク渋谷ほか全国順次公開

友人のヴァンサンが突然に命を絶った。彼の不在を埋めるかのように、レティシア監督はろうコミュニティでカメラを回しはじめる。美しく豊かな手話と、優しく力強いろう文化。それは彼が教えてくれた、もう一つの世界。共に手話で語り、喜びや痛みをわかちあう中で、レティシア監督はろう者たちの内面に、ヴァンサンが抱えていたのと同じ、複雑な感情が閉じ込められているのを見出す。

「ろう者の存在を知らせたい」というヴァンサンの遺志を継ぎ、レティシア監督はろう者の心の声に目を澄ます。社会から抑圧され続けてきた怒り、ろう教育のあり方、手話との出会い、家族への愛と葛藤…。現代に生きるろう者の立場に徹底して寄り添いながら、時に優しく、時に鋭く、静かに、鮮やかに、この世界のありようを映し出す。

監督:レティシア・カートン
音楽:カミーユ(『レミーのおいしいレストラン』主題歌)
編集:ロドルフ・モラ
共同配給:アップリンク、聾の鳥プロダクション
宣伝:リガード
ドキュメンタリー/112分/DCP/2015年/フランス/フランス語・フランス手話

公式サイト


▼映画『ヴァンサンへの手紙』予告編

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