骰子の眼

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東京都 その他

2018-09-14 23:40


文化発信の街の核となる映画館へ―「アップリンク吉祥寺」設計の北嶋祥浩さんが語るコンセプト

「洞窟フラメンコの情熱がほとばしるような熱い空間が、吉祥寺地下に生まれる」
文化発信の街の核となる映画館へ―「アップリンク吉祥寺」設計の北嶋祥浩さんが語るコンセプト
「アップリンク吉祥寺」の模型

webDICEを運営するアップリンクは、2018年12月にパルコと共同で映画館「アップリンク吉祥寺パルコ(通称:アップリンク吉祥寺)」を作ります。アップリンクでは、新規会員募集と様々なコースで映画館作りを支援するクラウドファンディング「PLAN GO」にて10月31日まで実施しています。

webDICEでは、映画館作りに関わる人々を紹介していきます。まず第1回は、設計を担当するアビエルタ建築・都市の北嶋祥浩さんへのインタビューを掲載します。北嶋さんはかつて所属していた内井昭蔵建築設計事務所で天皇陛下の吹上新御所の設計をはじめ、都市計画から、公共建築、個人住宅など様々なスケールの建築物を担当。今回のインタビューでは、自身のルーツとなるスペインの建築についてなどについて語ってもらいました。

バルセロナの大地に根ざした建築に魅了された

── 北嶋さんは北海道ご出身で、小さい頃から建築については興味をお持ちだったのですか?

小さい頃から趣味で絵を描くのは好きだったのですが、大学生までは建築に興味が無くて、大学に進学して東京に来たときも理学部を専攻していました。北海道出身者の学生寮にいたときに、毎夜、先輩に飲みにつれて行かれ、明け方戻ってくると、隣室の建築学科の先輩はいつも製図台に向かって図面を描いていました。彼から建築の話を聞いて、初めて建築を意識しました。頭の中のアイデアを図面に描き、それが具体的なスケールをもって、建築としてできあがる過程が興味深かったんです。

北嶋祥浩さん
北嶋祥浩さん

理学部はどちらかというと学問を追求してゆくもので、卒業後の自分自身のイメージが欠落していました。それで結局、東京都立大学建築工学科を受け直したのです。建築の素晴らしさを知ったのは遅かったけれど、あの時方向転換ができて良かったと思います。

── 建築は都市や環境をデザインするという意識はその頃からお持ちだったのですね。

建築を学び始めて、教科書の中のアントニオ・ガウディの白黒写真が非常に印象に残っていました。どうしても実物が見たくなり、スペインのバルセロナにガウディの建築を見にいきました。スペインはフランコ政権が終焉して民主化が始まって10年。当時見た『エル・スール』や『みつばちのささやき』等の映画の世界が色濃く残っていいました。そこには、今まで抑圧されたものから自由を求める気力に満ちていました。時々、その力は別方向に過激に進むのを目にしました。パンプローナを訪れた時、ジャックされた町中のバスが大通りにジグザグに列をなして停められ、すべてのタイヤの空気は抜かれて、バスの横面に自由を求める言葉がほとばしるように書かれていた。その横では警察の催涙ガス弾の煙と銃声がする。でも、反対側を向くと市民の日常生活が平然を営まれている。そんな時代でした。
その頃にガウディ研究で有名な田中裕也さんに連絡をとって、ガウディの建築の研究を半年くらい手伝いました。

バルセロナの街も、束縛から開放感に満ち溢れていました。でも、他のヨーロッパの国々と比べて街の中には古臭いものが沢山残って、文明として少し遅れているように感じました。
新しいものと古いもの、自由なものと昔ながらのものが混在していて、ちょうどいいバランスでゆるやかに統一されている。それでいてエネルギーを感じる。その感じが僕は好きでした。
わりとグレーシュな感じの街のなかで、ガウディのサグラダ・ファミリアが一際カラフルに色づいて見えました。それは、決して新しいものではないけれども、そこにしかない唯一無二のデザインでバルセロナの象徴となる存在感がありました。グエル公園から街を見下ろすと、サグラダ・ファミリアを中心に町が未来に向かっていくように見えました。

サクラダ2w
北嶋さんによるサグラダ・ファミリアのスケッチ
グエル公園図面
北嶋さんによるグエル公園の図面

その頃、私がのちに勤めることになる内井昭蔵先生がバルセロナに来ていて、スペインに研修所を作ろうとしていました。もし、この事務所に入れればバルセロナに何回も来られるという考えが湧き、田中さんが新研修所の為に集めた「マシヤ」という土間つきの農家の空き家情報を内井先生のところに持って行き、同時に「私を事務所に入れてください」と言ったのです。

内井先生のところに行きたいと思ったのは、そればかりではなかったのです。その頃、建築の原点は住居にあると思っていましたし、集まって住むということに特別な意味があると考えていました。そんな時に先生が設計された桜台コートビレッジを見たとき衝撃を受けました。丘の下から眺めると圧倒的なコンクリートのボリュームと複数の住居が重なって複雑性を生み、私の心をわし掴みにするほどの力がありました。「集合」をデザインするということを初めて知ったのも内井先生の作品からでした。
住居でいえば、スペインのアンダルシア地方にはカーサ・クエバスという、土を掘っただけの住居があって、地面に蟻の巣のように住居がたくさんあり、人が通る道の下が住居というものです。建築のように作り上げるのではなく、掘り進んで空間をつくる、いわばマイナスの建築です。土を掘ることで気温も保てて湿度も保てる、人間にとって過ごしやすい場所になっています。ドキュメンタリー映画にもなった「サクロモンテの丘」は、グラナダのアルハンブラ宮殿の真向かいにあって、そういう、土に接した生き方、大地に根ざした生き方は、私のものを作っていく根源にあります。
「アップリンク吉祥寺」も地下ですし、都市の地下につくる映画館は特別な意味があると思います。洞窟のような空間で繰り広げられるフラメンコの情熱がほとばしるような、熱い空間が吉祥寺地下にできたら良いと思っています。

スペイン地中住宅
北嶋さんが撮影したスペインの地中住宅
スペイン1
北嶋さんがスペイン時代に撮影した街並み
グアディクス3
北嶋さん撮影によるスペイン、グラナダ近郊の町グアディクス

内井先生のもとでは、個人住宅から、公共建築やニュータウン開発等の都市計画まで幅広いプロジェクトに携わることができディテールのインパクトの大切さ、集合をデザインすることの大切さ、そして、そこに住む人が色々な発見できるような複雑性をもちつつもゆるやかにまとまるデザインの大切さを学びました。

── 街や社会と一緒にある建築と存在といっていいでしょうか。

コンセプトに向かって、余分なものを削いで、研ぎ澄ましてコンセプチュアルに空間や建築を作っていくデザインの進め方も一つだと思いますが、その方法だと、カオスとか複雑さといったものが削がれていく。装飾も大事だと思うし、ある程度自分が意図していないところで生じる複雑さというのは、人間のいる場所として必要だと思います。スペインには皮肉にもフランコ政権があったので、古い時代の自然発生的な街がまだ残っていました。スペインには「スポンターネオ(自然発生的な)」という言葉があります。技術が限られた、あるいは、材料が限られたときに、一つ一つは個性的に作りますが、その技術や材料の制限を受けて全体としての調和がとれている。そういう感じが古い町並みの調和だと思います。そこに現代、新たな鉄やアルミの新技術、新材料による新しいものが割り込んで、街が更新されていく、その時、新たなものが、何らかの古い町との関係性を持ちながら作られていくと、街は適度な複雑性を増しながら新らたな調和が生まれる、そんな関係性をつくる仕組みがあれば、新たな自然発生的な魅力が生まれると思います。私はそれを、「ネオ・スポンターネオ」と呼んでいます。
そして、少し遅れた感じのあるスペインでは私の目の前でそれがくりひろげられていったのです。

時代的にも、フランスでアルシュテキト・シヴィル(街の建築家)という、建築家をまとめる建築家がいて、ゆるやかにまとまった街を作るというシステムがあって、日本では内井先生が「マスター・アーキテクト制度」という複数の建築家の個性を活かしながら街を作っていくシステムを構築しました。いろんな想いがぶつかり合うなかで複雑性が生まれ、お互いに張り合うことで個性が研ぎ澄まされ、一方で、マスター・アーキテクトのゆるやかな調整が程よい複雑性と、ゆるやかな調和を生む。そのようなプロジェクトも担当していました。

内井事務所でラッキーだったのは、まちづくりの視点も持てたし、皇居のようなセレモニーを含んだハレの場、建築の根源と思う個人の住宅や、集合住宅と様々なスタイル、スケールの建築を担当することができたことです。そしてそれは、ミクロの面とマクロの面、いろんな視点を持ちながらものを作っていくのが私の作り方となりました。

山岳都市
北嶋さんによるフランス、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュールにある街ゴルドのスケッチ

皇室の新御所設計は和の連続がテーマ

── 沖縄の首里城書院の復元について教えてください。

戦争でほとんど失われてしまっていて、沖縄の重要文化財は数が少ない。失われたものを蘇らせるのが大きな課題でした。沖縄の伝統的な工法を探って、日本にない工法として上げ蟻下げ蟻という台風が来るところだからこそできた建物を強くする工法があったんですが、どういうかたちで復元したらいいのか誰もわかる人がいなくて、大学の先生に我々が調べた資料をもと作った復元図を作って委員会の先生方に判断をしてもらって作るというようなやり方でした。

首里城
沖縄の首里城書院

── 皇室のお仕事についても教えてください。

皇室の方が住まわれる住居の部分と、特別な方を招いてセレモニーを行う場所と、来賓の方の宿泊と事務のスペース、新御所と呼ばれる場所に携わりました。1年くらいかかったと思います。内井先生が天皇陛下と打ち合わせをされ、それを事務所で組み上げていくという流れでした。

基本的には鉄筋コンクリート造だったので、昭和の初期に流行った木造をまったく真似てコンクリートで作るという方法ではなく、和と何かというのを考えながら、ある程度合理的に形を組み上げていくやり方をしました。鉄筋コンクリートは鉄筋コンクリートのよさがありますので、そのよさを活かした造形で、空間的には和の寸法を使っていきながら、和の空間が連続するシークエンスを作り上げていきました。

和の空間を作るのはコンクリートでも鉄骨でもできますから、そこで和と何かというのを考える。木造=和ではなくて、空間のスケールとか色使いとかテクスチャーをひっくるめて和がある。その和をコンクリートで再現するにはこうしたらいい、というものはその都度考えていきます。建築の持つ明確なスタイルに固執しない作り方、その場その場で場所の持つポテンシャルをみながら答えを導き出す方法が、私には合っています。街や都市、地球環境も含めたといった大きな視点で建築を考えること、それとは別にクライアントの要望といったものを組み合わせて何がベストかをその都度考えていきます。

皇室からは最初、コピー用紙よりも保存がきくというので「設計図を和紙に書くように」と言われたんです。でも既に鉛筆で書く時代ではなく3次元CADだったので、実際にはやりませんでした。ただ、図面の管理は非常に厳格で、図面のコピーの枚数まで報告しなくてはいけません。テロ等も考えてプランは公に出せないんです。一度、図面が1部なくなったと大騒ぎになったことがありました。

文化発信の街の核となる映画館

── 2005年にご自身でアビエルタ建築・都市を立ち上げられてから現在までの活動を振り返って、どのように感じていらっしゃいますか?

滋賀県立大学の設計に携わり、彦根のまちづくりをおこなっている最中に、内井先生が急逝され、私は彦根で設計事務所を立ち上げました。自然環境、太陽の光や水の流れを建物のなかに通すといったことが多く、木造、鉄骨、コンクリート、その場で必要な、求められるものに適した構造を使うことができました。そういう意味では恵まれていたと思います。

── 府中の北山幼稚園については?

田中裕也さんに幼稚園設計の話があったのを一緒に作ることができました。園長先生がとても先進的なイメージを持たれており、教室に壁があるべきではなく、すべての先生が全園児を見守るというお考えで、私も共感できました。大学時代に流行ったオープンスクールという、壁を取っ払ってしまった小学校というのを研究していたこともあり、壁のない園舎の中で児童の集団が様々な場所でゆるやかなまとまりのある幼稚園をつくりました。オープンというのは、ただ広い無味乾燥なフレキシブルな空間という意味ではなく、個性的な空間にしなければ活発な活動は起きないことを過去の建築を見て知っていました。子供たちの活動を誘発するような、いろいろな発見ができるような個性的な仕掛け、ディテールや空間をちりばめてこそ、本来の子供的な活動生まれると思います。この作り方は、今回の「アップリンク吉祥寺」でも共通するところがあります。廊下やコンセッション等の大きな共有スペースの中にシアタールームがある。「ハウス イン ハウス」の設計思想です。回遊する廊下の中に活動の中心がある、逆に言えば、まさに、「サクロモンテの丘」の熱いフラメンコのステージの周りに、都市との中間に位置する回廊がある。みたいな、今までの映画館のように奥にシアターがあるのではなく、シアターの周りの空間も大切な映画のための空間なので。

北山幼稚園2
北山幼稚園外観
北山幼稚園
北山幼稚園内観
北山幼稚園
北山幼稚園内観

幼稚園では国が定める幼稚園の指導要綱や設置要項には合致しないことが多く、基準を満たしながら作ることは苦労しました。国の基準では「教室」がひとつの単位で、それを崩すことはなかなかできない。そこで、可動の間仕切りである程度区切りながら、床の色を変えて教室の単位を表現するなど、いくつかのアイデアでクリアしました。その経験は今回の設計にも活かされたと思います。

「アップリンク吉祥寺」で書店を映画館につくりかえることは、法的にも、空間のボリューム的にも課題が多く、法をクリアするための方策や映写機室を廊下天井裏に作るなどの工夫することによる、独特な狭間の空間が複雑性を生み魅力になっていったと思います。

── 今回「アップリンク吉祥寺」の設計をお願いしていますが、映画館の設計はこれまで手がけられたことがありますか?

今までオーディトリアムは手がけたとはありましたが、映画館は初めてです。シネコンプレックスとは別の方向で、アップリンクのようなミニシアターがあって、そういうものが街のなかで新しくできることで、街の多様性を生むと思います。私は田舎の出身なので、銭湯や文房具屋さんが街中から消え、郊外に大型の店舗ができる、といった空洞化が生まれるのを見てきました。

地方では中心市街地に空洞ができ、郊外が繁栄していくのです。今回の「アップリンク吉祥寺」のような中心市街地の既存部分を活かしながら新たな映画館や文化的施設をリニューアルして入るということは、街の視点からみてもいいことだと思います。こうしたやり方が、「アップリンク吉祥寺」だけで終わらずに、各地につながっていくといいと考えています。

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「アップリンク吉祥寺」スクリーン3、4、5、受付付近の図面

例えば岐阜県の可児市にala(アーラ)という劇場空間があります。そこでは劇場としてはもちろんのこと、劇を創作する場があり、そこで作った演劇をそのまま他府県の劇場で上演したりすることもやっていて、劇場関係者の方もそこに勉強をしにきています。もちろん市民参加の場もあるといった具合です。そういった活動の場が映画の分野でもできるといいなと思います。可児市ではそれがまちづくりの核になっていますし、文化的なものが核になるというのはとても良いことだと思います。演劇、音楽のような文化は公共主体で大きな規模で進められますが、映画分野は民間主体ですのでこのようには行きません。

かつて映画館は多くの小さな街にありました。それが昔のままの映画館ではだめだと思います。街と密接に結びついた、それこそ『みつばちのささやき』に登場する移動巡回映写のように、文化のひとつとして映画というのがあると思います。

私が住んでいる滋賀でも街中の古い映画館は無くなってしまって、でも、屋外の広場で樹木や街灯にスクリーンを架けて上映会をしたりしていますので、そうした発信の仕方もある。映画館はそういった活動の拠点、文化発信の街の核として機能するような新しい映画館になってゆけば良いと思います。

(取材・文:駒井憲嗣)



北嶋祥浩(きたじまよしひろ) プロフィール

建築家、一級建築士、滋賀県立大学非常勤講師、東京都立大学非常勤講師歴任。
1961年 北海道生まれ。北海道人寮において建築科生であった隣室の先輩の影響を受け建築家を志す。東京都立大学建築工学科に進学。在学中にスペインカタロニア州立大学ガウディ研究室で、田中裕也氏に師事しガウディの研究を行う。卒業後、内井昭蔵建築設計事務所勤務し、個人住宅、集合住宅の設計・監理に携わる。首里城書院・鎖之間復元設計で主任技術者を務め、古建築の伝統技法を修める。2005年、株式会社アビエルタ建築・都市を設立。
http://www.habierta.com/




【PLAN GO】12月オープン「アップリンク吉祥寺」の新規会員になる
http://plango.uplink.co.jp/project/s/project_id/74

キーワード:

北嶋祥浩 / アップリンク / 吉祥寺


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