映画『三里塚のイカロス』より、中川憲一さん © 2017 三里塚のイカロス製作委員会
成田空港建設反対闘争を描くドキュメンタリー映画『三里塚に生きる』の代島治彦監督による新作『三里塚のイカロス』が9月9日(土)より公開。webDICEでは代島治彦監督、作家の雨宮処凛さん、そしてこの作品に登場する中川憲一さんによる鼎談を掲載する。
1966年、日本政府が成田市三里塚の農村地帯に巨大空港を作ると決定したことに対し、三里塚の農民たちは日本史上最大といえる国家権力に対する抵抗運動を始めた。それが成田空港建設反対闘争=三里塚闘争だ。『三里塚に生きる』で国家権力と闘った農民たちを追った代島監督は今作で、農民の支援に加わった若者たちにフォーカスした。今回の鼎談は映画制作の経緯を皮切りに、78年の空港管制塔占拠事件に実際に加わっていた中川憲一さんによる当時のエピソードとともに、今今の辺野古や福島などにつながる日本の抵抗運動まで視点を広げて縦横無尽に語られた。
「誰でもみんな若い頃って翼を広げて自由に生きたいと思うけど、あの時代の人達って、時代そのものに翼が生えてしまった感じですよね。でもそれが堕ちちゃった。時代そのものがイカロスって感じがするんですよね。いま日本ではなんとなく時代が委縮してしまっている方向になってしまっている。そういうところにこの映画を投げ込みたいっていう思いはあるんです。委縮してる、閉塞感を感じてる若者たちに観てほしい」(代島治彦監督)
時代と共に飛ぼうとして堕ちたというか
死なないけども翼がもげてしまったイメージ(代島)
雨宮処凛(以下、雨宮):『三里塚のイカロス』を観て、知らないことばっかりでした。三里塚で闘争していた人が現地の農家の方と結婚していたとか、そういうことも全く知りませんでした。
こんな時代があったのかと改めてびっくりすることの連続でした。20歳くらいの時に思ってた新左翼のイメージってただただ危ない、危険、とんでもない過激な人たちっていうイメージだったので、なぜこういうことを誰も教えてくれなかったんだろうって。三里塚の映像を初めて見た時、農民の人達の必死さとか顔とか、本当に自分たちに何かあったときには闘って抵抗するっていう、そういう姿に鳥肌が立つくらいにびっくりしました。こんなに根源的な問題に当事者が立ち上がっていった事をなんで何も知らなかったんだろうと思いました。
私は75年生まれなんですけど、映画を見て、こういうことが自分が生まれる前や、子どもの頃にあったのに歴史から葬られて、なんで知らなかったんだろうって改めて思いました。自分たちの青春時代の閉塞感とは全く違う世界がたった数十年前に日本にあったという事はすごく新鮮な驚きでしたね。
代島治彦(以下、代島):僕の中では、そういう時代もあったけど、そういう人たちがある程度年齢を重ねてもう一度その時代を見て、確かに当時は燃え上がることはできたけど、その後どうなったのか、どう引き継がれているのかっていうのも『三里塚のイカロス』のテーマでした。
右より、映画『三里塚のイカロス』代島治彦監督、雨宮処凛さん、中川憲一さん
雨宮さんの文章で、あの時代の若者たちの運動が悲惨に挫折したことがその後の世代に政治的なアレルギーを植え付けたっていうことを書かれていたのを覚えてるんですが、アレルギーとまでは無いんですけど僕自身もそういうところがあったんです。
僕の場合は1958年生まれで、10歳の時が1968年、ちょうど全共闘運動や若者の政治運動が一番盛り上がっていた時期に、学校では教えられないけど、自由と平等と友愛みたいなことを目標にしてかっこいいなぁとか、もしかしたら革命が起きるんじゃないか、自分も大学生になったらこういうことやるのかなぁとか、いろんなことを感じた時代が思春期で、ある意味、全共闘少年だったんですよね。でもその後、連合赤軍事件とかいろいろあって、その時代が挫折して革マルと中核の内ゲバの殺し合いとかがあって、その果ての1977年頃に僕は大学に入るんですよ。
1978年には、中川憲一さんも参加した管制塔占拠事件(1978年3月30日に新東京国際空港[現:成田国際空港]を開港するという内閣発表を受け、3月26日、空港反対派農民を支援する新左翼グループから選抜された行動隊が空港に乱入。管制塔の機器等の破壊活動を行った)があって、三里塚闘争は続いていたけれど、僕は逆にそこを遠ざけて好きなことやって自分探しして、そんな風にその時代を生きたんですよね。
ただ自分が50歳になって、『三里塚に生きる』(2014年)で三里塚に行ってみると、どこか全共闘少年だった自分を自分自身が引きずって生きている感じがして、そこからなんとなく三里塚で出会った人を通して、あれはなんだったんだっていう、自分探しというより時代探しみたいなことを始めた。それでこの映画を作ったわけです。
今回『三里塚のイカロス』ってタイトルにつけましたけど、時代に巻き込まれて時代と共に飛ぼうとして堕ちたというか、死なないけども翼がもげてしまったというイメージなんですね。
誰でもみんな若い頃って翼を広げて自由に生きたいと思うけど、あの時代の人達って、時代そのものに翼が生えてしまった感じですよね。でもそれが堕ちちゃった。映画の登場人物の誰がイカロスなのかってことじゃなく、時代そのものがイカロスって感じがするんですよね。
象徴的なのは1971年の2月に「赤い鳥」っていうバンドが「翼をください」という曲を出したんですよ。その後も結構歌われましたよね。でも1972年に連赤事件が起きる。それで「翼が~ほしい~」って大きな声で歌えなくなっちゃうような感じになったんですよ。
映画『三里塚のイカロス』 © 2017 三里塚のイカロス製作委員会
敵対矛盾と内部矛盾
その矛盾をどう捉えるか(中川)
中川憲一(以下、中川):68年の全共闘の闘いの中で三里塚の農民たちが、どんな助っ人も受け入れると声明出したことで、最初は共産党や社会党もみんな一緒にやってたんですよ。その頃八派全学連とか色々あったんですけど、それも全部受け入れてたんです。
71年くらいまでは、それこそ三里塚の闘いそのものが革命運動みたいな形でしたね。そして71年に、第一次代執行と第二次代執行があって、第二次代執行で警官3人が死ぬわけです。そこで青年行動隊が全員逮捕されて、一方では連合赤軍や東アジア反日武装戦線が仲間殺しをやってくという中で、もうついていけないとなった人たちが引いていった。
72年を過ぎるとオール革命組織という感じはなくなりました。どうなるかというと、自分の党派の主張をしていくようになる。それで83年の反対同盟の分裂になるわけです。と、いろんな波がありましたけど、何千人、何万人と逮捕者がでた、労働者や学生、若者たちが青春をかけた闘いだったわけですよね。
代島:その中で78年3月26日の管制塔占拠があったわけですよね。
中川:私は3月26日から始まった開港阻止決戦の後の事はもう何も考えてなかったです。言葉通りすべてそこで終わるんだと思ってました。三里塚で闘う青年先鋒隊の中の突撃小隊に選抜されたんですが、逮捕されるとか怪我するとか、そういう事じゃない。ここでもう決着するんだってことしか考えてませんでした。
代島:ここで終わらせるんだ、ぶっ壊してって。
中川:そうです。ここまで来たんだから行けるところまで行く、もう後はないからとにかく管制塔の上まで行く、それしか頭になかったですね。迷いはなかったです。ゲバラじゃないけど闘いか死かっていうね。そう思ってましたね。
ただはっきり言って、本当に管制塔を占拠できるとは誰も思ってなかったんです。管制塔部隊はゼロ部隊って呼ばれて、主力部隊じゃなくて二軍、三軍だったんです。その時の私、30歳ですよ。
代島:管制塔部隊の最年長。
中川:30歳でカミさんもいて。人選の優先順位からいけば下なんですが。
雨宮:いつ運動に入ったんですか?
中川:70年に大学を出て、上京してからです。生まれは石川県で、東京に就職して一旗あげようと思ってたんですが、労働組合で“赤旗”あげるわけです。それでストライキ。革命を認めさせるストライキだった。ストライキに入って次の日が70年11月25日で三島由紀夫が自決した。革命を起こすんだっていうそういう時代ですよ。
雨宮:すごい時代ですよね。
中川:いい時代だったんですよ。
雨宮:“いい時代”?! たしかに (笑)。70年に組合を立ち上げた後は?
中川:組合を作って2、3年でその職場を辞めまして、それで国鉄の下請け会社に。我々は国鉄で働いていても国鉄職員とは言われないんですよ。あちらは国鉄職員で、我々は国鉄労働者。事務所も集まる場所も全部別々で下請けに対する格差があって、我々はゴミ屋と呼ばれたり、竹の大きなカゴを担いで電車の中のゴミを集めていたのでカゴ掻きって言われてたんです。
代島:ますます燃えますよね、差別されると。
中川:風呂でもたまたま一緒になると出ていけと言われる。それで国鉄の青年団のバリバリの活動家に、職場の中でそんな差別しておかしいだろって言ってましたよ。それで下請けで働きながら三里塚の援農に……。
映画『三里塚のイカロス』 © 2017 三里塚のイカロス製作委員会
代島:その時からプロレタリア青年同盟?
中川:71年くらいに入りました。朝ドラの「ひよっこ」見てると当時の事を思い出すんですけど、女子寮があって、東大の食堂で働くウエイトレスがいて、そこの社長が女子社員にふんどしまで洗わせるくらいのワンマン社長で、社員は不満がたまってた。その寮に行って、別に自分は大したことを喋ったわけではないんですが、一発で全員が組合に入りましたね。
雨宮:“いい時代”ですね。今は声を上げている人は逆にぶっ叩かれるというか、声を上げている人を嘲笑してバカにすることに命懸けになってますよね。命懸けで闘うんじゃなくて、命懸けで声を上げる人をバッシングして引きずり落とすみたいな、そういう空気があります。
代島:でも雨宮さんももしあの時代に生まれて時代に巻き込まれてたら、三里塚に入ってるタイプじゃないですか?
雨宮:絶対そうですね(笑)。
代島:農家の嫁になってるかもしれませんよね。農家の嫁になった人たちも映画に出ている三人以外にもカメラなしのインタビューはしたんです。最初は農家の人ってすごいな、国家権力と闘うってすごいな、農家の長男かっこいいなとかそういう思いで入ってるんですよね。そこに共感もするところもあったでしょうが、その後どう感じながらどう思いながら生きてきたのかって事ですよね。
映画『三里塚のイカロス』 © 2017 三里塚のイカロス製作委員会
雨宮:熱狂の中で結婚するという気持ちはわかるんですけど、その後がキツそうというか、いろいろあるんでしょうね。もともと支援者で農家の人と結婚して、自殺した人の話がありますよね。その人が、自分は裏切ったからもう皆に顔向けできないと言う。それって運動に付き物だと思うんです。やむを得ず寝返ってしまった時の厳しさをどうフォローするか。寛容性がなくて裏切り者と名指しされたり……そういうことが内ゲバにも繋がってきたと思うんですけど。
2年前にSEALDsが出てきた時も、こいつら放っておいたらどうせ内ゲバして自滅する、というようなバッシングもありましたよね。運動イコール内ゲバ。運動と内ゲバのセットがどこからきてるのかというのが不思議というか……。それを乗り越えるべきなんでしょうね。
運動にはいつも内ゲバみたいな事がついてきて、裏切った、裏切らないとか、現場にいたらそういう気持ちもわかるからこそ悩ましいと思うんですが、中川さんはどう思われますか?
中川:いわゆる革命党派を名乗るということは規律が必要になるわけです。宗教団体でも教義を守ったり実践すると排他的になるわけですよ。プロ青も名称問題でやりましたよ。学生なんとか戦線とかと名称問題でゲバやりましたよ。私も1回目の集会終わって帰るときに後ろから殴られてね、この野郎ふざけんじゃないと思って、次に会うときに三里塚から長い竹竿を持って行って、やられたらやり返さなきゃと思ったんです。ちょっとかわいそうだとは思いましたけど(笑)。
映画『三里塚のイカロス』 © 2017 三里塚のイカロス製作委員会
代島:中川さんは今それをやったことを正当化できるんですね?
中川:正当化はできないけど内ゲバの質の問題なんです。要するに普通は論争をする。それがエスカレートして行くわけですが、その矛盾をどう捉えるかです。敵対矛盾と内部矛盾。敵対矛盾や階級闘争については命賭けてやらなきゃいけない。ただ内部矛盾については内部矛盾の解決の仕方をやるべきで、旗竿でペンペンやってそれ以上はやるべきじゃないんです。内部矛盾の解決を敵対矛盾の解決方法にしてしまうと反革命にエスカレートしていく。これは大きな間違いだと思う。内ゲバの一番の問題として内部矛盾を敵対矛盾にした革マルや中核派は解体すべきだったと思う。
管制塔占拠に関わることができて良かった(中川)
代島:今の政治運動は、SEALDsは盛り上がったけど、それは武装はしない、非暴力・不服従という路線ですよね。それは昔そういう過激なことがあった闘争へのアレルギーでもあり、学びでもあったという事でしょうね。
雨宮:そうですね。たとえば映画の中で、空港公団職員の家を爆破したという話を聞くとドン引きする自分がいる。あの最後の方のシーンはずしんと大きかったですね。そういう過激なやり方で人が離れていくのを、どう言葉で埋めているのかというのが気になります。映画でも語ってましたけど、もっと聞きたいという気持ちになりました。
中川:私は管制塔占拠に関わることができて良かったです。人生で三度もいい思いをしてるんですよ。一度目は、管制塔占拠に関わったこと。二度目は、2005年に民事裁判で管制塔を壊したということで一億円の賠償請求があったんですが、二千人を超える人たちからカンパで集めて、国交省に一億をばーんと叩きつけてやった。それが二度目のいい思いですね。三度目は、私はもう70歳になるんですが、代島監督がこういう映画を撮ってくれた。一生のうちに三度もいい思いができるなんてすごい事ですよ。極端な話いつ死んでもいいくらいです。
映画『三里塚のイカロス』 © 2017 三里塚のイカロス製作委員会
代島:今の若い人たちにこの映画を観てもらいたいと思ってるんですよ。あの時代、60年安保を含めてもいいけど、そこから70年代くらいのあの時代の動きってなんだったんだろうって。今がだいたいそこから50年後で、これから語られなくなっちゃうと思うんですよ。例えば8月になると終戦記念日には必ず戦争がテーマの報道が出て来る。戦後72年になっても。あの時代では、樺美智子さんが亡くなった事とか東大の安田大講堂の事なんかは事件として今後も残るかもしれないけど、他の多くのことは忘れられていくでしょうね。だからこそ若い人にも観てもらいたいんですよね。
雨宮さんの周りにも若い20代、30代の人がたくさんいると思うんですけど、彼らはこの映画をどう観ると思いますか?
雨宮:やっぱり知らないことばかりでびっくりすると思う。中川さんの話を聞くと、人生に三度も良いことがあって、運動やって良いことばかりという感じですが、そんな風に言えるのはやっぱり中川さんが人を傷つけてないからですよね。内ゲバとか負の記憶があれば、そんな風には語れないですよね。
立場によって二度と語りたくない人もいれば、関わっていた事を知られたくない人もいる中で、中川さんみたいな人って少数なんじゃないですか?良かったと堂々と言える人って。
そういう立場の人からもっと話をしてほしいですね。あの時代って何か後ろ暗いものとセットになっていて、関わってた事で、この人、人殺してるんじゃないかとか思っちゃうところがある。だから中川さんのような立場の人の話を若い人にも聞いてほしいですね。
映画『三里塚のイカロス』 © 2017 三里塚のイカロス製作委員会
代島:この映画では、中川さんみたいに時代を肯定的に捉えられる人と、雨宮さんが言っていたようにこの人は何か後ろめたいことがあるんじゃないかというような否定的な過去をもつ人たちにも、ちゃんと語ってよ、隠していないでよと両方描きたかったんですよね。
雨宮:当時はやっぱり皆は正義感というものがあって行かれたんですよね?
中川:我々は毛沢東というか、人民に入り人民に学びみたいなそういう気持ちがありましたから。
代島:三里塚の場合はそうですね。日中派といって毛沢東語録なんかを掲げてた。マオ思想ですね。文化大革命がちょうど中国で起きていて、下放政策で都市の学生が地方に送られて農作業によって思想改造するっていうことがあったんです。三里塚も農民に学べって多くの若者が農業に入っていった時代もありますね。
雨宮:なるほど。今だと社会正義のために動くなんてほぼありえないというか、その前に消費者教育しか受けてないから消費者としての振る舞いしか知らないんですよね。そういう空間と時間があって全く違う学生と農民の交流があるっていうのはすごく余裕があって豊かな社会という感じがします。
今は、長時間労働をして、それが終わったら、消費者として尊大なクレーマーとして振る舞って、でも絶対に政府には楯突かない。逆に、国や政府に楯突いている人に対して寄ってたかって叩くという社会なので。いつからこんなに日本が消費者マインドオンリーで、一主権者であり一成熟した市民であることを禁止するようになっていったのか。この断絶は50年で完成してしまいましたよね……。
代島:いま日本ではなんとなく時代が委縮してしまっている方向になってしまっている。そういうところにこの映画を投げ込みたいっていう思いはあるんですよね。委縮してる、閉塞感を感じてる若者たちに見てほしい。
映画『三里塚のイカロス』 © 2017 三里塚のイカロス製作委員会
雨宮:韓国ではパク・クネ退陣のデモがあって、香港の雨傘革命とか台湾のひまわり運動があるけど、日本だって加計学園問題とかの安倍政権の権力の私物化とか闘うべきものはあるのに、ほぼなにも起こらない。日本の人達は立ち上がらないというのが今の常識みたいになっていますけど、一昔前にはこの映画に登場する人たちのように立ち上がってた時代があったわけだから、今後、一般の人が運動と無縁でいられない状況というのはあり得ると思う。運動の事は絶対学んでおいた方がいいというか、ノウハウを知っておいた方がいいと思いますね。もちろん、反面教師的なことも含めて。
今は世界でいろんなことが起きて声をあげてるけど、日本だけが声も上げず、いつまでも消費者でいられると思うなよって。この映画が波紋を投げかけるような、一つのショック療法みたいな感じになってほしいですね。
(オフィシャル資料より)
映画『三里塚のイカロス』
9月9日(土)、シアター・イメージフォーラム他にて全国順次ロードショー
監督:代島治彦
出演:加瀬 勉、岸 宏一、秋葉恵美子、秋葉義光、前田深雪 ほか
撮影:加藤孝信
音楽:大友良英
写真:北井一夫
2017年/日本/カラー&白黒/138分/DCP/5.1ch
配給:ムヴィオラ、スコブル工房