映画『ありがとう、トニ・エルドマン』© Komplizen Film
悪ふざけが好きな父と、仕事ばかりの忙しい毎日を送る娘との交流を描き、第69回カンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞をはじめ世界の映画祭で絶賛された映画『ありがとう、トニ・エルドマン』が6月24日(土)より公開。webDICEではドイツのマーレン・アデ監督のインタビューを掲載する。
突飛な行動で娘を驚かせようとする父・ヴィンフリートと神出鬼没に現れる彼の行動に振り回される娘・イネス。ルーマニアでの大事な仕事をぶち壊されながらも「自分にとっての“しあわせ”は何か」という父の問いかけに、本来の自分を取り戻していくイネスの変化を通し、普遍的な父と娘の愛情が浮き彫りになる。宅配便の受け取りのために出っ歯の入れ歯を装着し「トニ・エルドマン」という別人格になりきる冒頭の登場シーンから、ヴィンフリートのユーモアは笑うに笑えない。しかし、そのなかに見え隠れする不器用ながらも娘との愛情を育もうとする姿に胸を打たれるだろう。
父ヴィンフリートは、娘のイネスが自分を殺して経営コンサルタントという仕事をしていることを良く知っています。彼が"役柄"を演じることで自分を解放するのに対して、娘は"役柄"を放棄することで自分を解放するという物語にしたのです。(マーレン・アデ監督)
トニ・エルドマンの発想の源は自分の父
──『ありがとう、トニ・エルドマン』は極度に繊細な感受性と、喜劇的な効果のバランスの上に成り立っています。これはどうやって達成できたのでしょう。
長い執筆期間のおかげです。前作『恋愛社会学のススメ』が終わった直後から作業を始め、撮影に1年、編集に1年半、全部で6年かかりました。『恋愛社会学のススメ』がリアリズムだったので、次はコメディをやりたいと思っていました。この映画の繊細な側面は父と娘の物語に由来しますが、これは私にとって自然なものでした。一方、トニ・エルドマンのキャラクターは自然さの中に風穴を開けますが、私はこれがどれだけ滑稽なものになるか確信は持てなかったのです。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』マーレン・アデ監督
──ヴィンフリートとトニ・エルドマンという二重のキャラクターの発想はどこから?
私の父からです。彼はしょっちゅう、架空の人物やとんでもない状況を創造して芝居をするのです。しかも皮肉たっぷりに。あの入れ歯は私が彼にあげたものです。20歳の頃、ミュンヘン国際映画祭でボランティアをした時に、『オースティン・パワーズ』のプレミア上映のチケットと、入れ歯をもらいました。父なら使い道を知っているだろうと。家族でレストランに行った時、入れ歯をつけてウェイターの振りをして笑わせてくれました。彼にはそうしたユーモアの才能があり、それを私はずっと見てきたのです。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』© ヴィンフリート(トニ・エルドマン)を演じるペーター・ジモニシェック Komplizen Film
──経営コンサルタント会社に務める娘のイネスがルーマニアで働いているという設定にしたのはなぜですか?
グローバル化された社会のせいで、父は娘を失うのですから、異国での撮影は必須でした。ブカレストは知らなかったのですが、知人である映画監督コルネリウ・ポルンボユと、私の共同製作者アダ・ソロモンはルーマニアの出身でした。コルネリウは企業の人たちを知っていました。そして、ルーマニアでかなり調査をし、働く女性にインタビューしました。ルーマニアには今、多国籍企業がたくさん入っているのですが、私自身はそうした企業に批判的な意識を持っていました。しかし、実際会ってみるとちゃんと話ができる、そして彼女らなりの言い分がある、人間らしい人たちでした。経営コンサルタントという仕事は実績を問われるという点で興味があったのです。コンサルタントは常に"役柄"を演じています。ヴィンフリートは、娘が自分を殺していることを良く知っています。彼が"役柄"を演じることで自分を解放するのに対して、娘は"役柄"を放棄することで自分を解放するという物語にしたのです。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』イネス役のザンドラ・ヒュラー(右) © Komplizen Film
──多くの監督は、コメディは本当に難しいと言いますね。あなたの場合はどうでしたか。
コミカルな場面を撮るのは本当に難しかった。レストランの場面は丸3日かけ、徹底的にリハーサルを行いました。ヴィンフリートを演じたペーター・ジモニシェックと私は様々なアプローチを体系的に試してみたのですが、彼にとって一番難しかったのは、いかに巧みな俳優であるかを隠さなければならないことだったのです。ヴィンフリートはトニを演じている普通の教師であって、プロではありません。そして良い役者にとって下手な役者を演じることは極めて難しい事なのです。ペーターの技術があれば、トニをもっとリアルに見せ、ドラマを高め、もっと滑稽にすることもできたのですが、トニを演じているのがヴィンフリートであって、プロの俳優ではないところからユーモアは生まれて来るわけですから、そこをうまくクリアすることが難しかったのです。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』© ヴィンフリート(トニ・エルドマン)を演じるペーター・ジモニシェック Komplizen Film
親と子供の関係は、別れに満ちている
──撮影監督パトリック・オースとはどのような準備をしましたか?
撮影中俳優に最大限の自由を与え、ものごとをできるだけオープンにしておくのが狙いでした。技術的に言えば180度の照明をしておき、例えば想定より場面が長くなるとか、思いがけない方向に行ったとしてもその流れに対応できるようにしました。準備段階でパトリック・オースはすべてのリハーサルに参加し、その模様を撮影したり、写真を撮ったりしてセットと照明の感じをつかんでいました。ストーリーの面も徹底的に議論しました。従って、俳優とカメラとの作業は苦労の多いものだったのです。各場面について細部に至るまでセットで検討するのに時間を費やし、時には撮影日に全てを断念するようなこともありました。カメラが俳優に対応しながら、しかしドキュメンタリーには見えない、そこまで至るには、事前に俳優と多くの時間を共にする必要があると私は信じています。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』© Komplizen Film
──できるかぎりリアルにするのが狙いだったわけですね。
物語を語ることにおいて近道をすることはしたくありません。物語の中でキャラクターが経験するあらゆる段階を信じられる必要があります。ありそうだ、というほどでなくても、少なくともそういうことはありうる、という風でなくてはなりません。リアリズムへの配慮は重要なことですが、それでもサプライズ、本物以上の「映画的瞬間」もあっていいと思うのです。でもそれは監督としての私から来るものではなく、キャラクターの経験してきたことから自然に生じるものであってほしい。
だから私はキャラクターが映画の中で演技をしているような状況を生み出したいと思ったのです。トニがそうした要素、つまり遊び、大胆さ、自由といったものをイネスとヴィンフリートの生活に持ち込み、それで彼らは新しく物事を経験できるようになる。ヴィンフリートの間抜けなアイディアのおかげですべてが可能になるわけです。従って私としては、一段高められたリアリズムというのが、撮影とシルク・フィッシャーのセット・デザインで狙っていたことだと言えると思います。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』© Komplizen Film
──この映画は、何かが終わることに関する映画でもありますね。
親と子供の関係は、別れに満ちています。子供にとって何か新しいことが始まる時、親にとってそれは何かの終わりです。私は息子に関してそれを経験しているところです。息子は1センチ背が伸びる度にワクワクしていますが、私は物思いにふけってしまいます。
だからこの映画にも一連の別れを入れたのです。ヴィンフリートの生徒が去る、飼い犬が死ぬ、そして彼と娘は何度もお別れを言うのに、一度たりとも心温まるさよならをしたことがない。最後の抱擁は彼らにとって、そんなさよならの試みなのです。クケリの衣装がヴィンフリートを変えた。それでほんの一瞬、イネスにとって彼は子供の頃知っていた、大きくてよたよた歩く、心温かい父親に見え、彼女はかつてそうだった少女になれるのです。
性差別は現実の一部、事態をありのままに描こうと思った
──あなたの映画の女性キャラクターは常に葛藤に捕らわれています。これは、現代社会の中であなたが見聞きしている女性の典型的なあり方なのでしょうか。
イネスは男性中心的な領域で働いていて、それをもう内面化してしまっているのです。彼女は自分のことを一人の男性とすら見なしているかもしれません。問題なのは、いざとなると彼女がそうした態度を翻すということです。上司の立場にある女性をかなりインタビューしましたが、彼女らの多くは自分たちを例外的な存在と見なしており、そのことを楽しんでいると言っています。そのことで時に孤独を感じるとしても。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』© Komplizen Film
その意味でイネスは現代的な女性のキャラクターなのだと思います。自己責任と平等が彼女の世代の女性にとっては当たり前なので、フェミニズムなど必要ない。「私はフェミニストじゃない、じゃなかったらあなたみたいな人を許さない」と彼女が言う時、彼女は本心を言っているのです。彼女は皮肉っぽく「女性たちグループ」とか「職場でのセクハラ」に言及したりするし、助手のアンカを「エロい」と言いますが、そこには嘲笑的で、性差別的なトーンもあります。でも正直なところ、私はビジネスの世界における性差別を批判しようと思っていたわけではありません。ただ事態をありのままに描こうと思っただけで、性差別は現実の一部なのです。ジェンダーを巡る問題には本当のところイライラします。特にそれがあまりにも重視されるような時には。女性として私は、男性キャラクターに自己同化しますね。つまり、ジェームズ・ボンドの映画を見る時、私はボンド・ガールではなく、ジェームズ・ボンドになっているのです。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』© Komplizen Film
多分イネスについては、現代的な、ジェンダー的には中立的な女性とみなすのが一番いいと思うのです。どちらかというと男のようで、でも時には泣いてしまったりもするし、父親との問題を抱えているような。
悲しげな頭部を持つクケリは、内なるヴィンフリート
──巨大なぬいぐるみ、クケリはどこから?
ラストシーンのために、人物が丸ごと隠れるような衣装を探していたのです。この生き生きした生き物に夢中になってしまいました。私にとってこの大きくて、温かみがあって、悲しげな頭部を持つクケリは、内なるヴィンフリートなのです。それに、この着ぐるみはとても重いので、事故で命を失う可能性があります。そう、これが最期の冗談になり、彼は以後二度とふざけた真似はしなくなる、と私は考えていたのです。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』ラストに登場する巨大なぬいぐるみ、クケリ © Komplizen Film
クケリはシナリオを書いている時、インターネットで見つけました。パーティーで知り合った婦人宅を尋ねるシーンで、ホイットニー・ヒューストンの「GREATEST LOVE OF ALL」を使うことを決めたのもその段階でした。この歌は登場人物の心理状態にぴったりだと思ったのです。クラブでイネス役のザンドラ・ヒュラーと試しに歌ってみたのですが、拍手喝采でした。ミキシングの際、彼女の声が攻撃的な調子だと気付きましたが、それでも見る人から肯定的なリアクションがもらえるものと確信していました。みな、彼女がこんな風に自分を表現できたことに幸福な感情を覚えるはずだからです。
(オフィシャル・インタビューより)
マーレン・アデ(Maren Ade) プロフィール
1976年12月12日ドイツのバーデン=ヴェルテンベルク生まれ。ミュンヘンテレビ・映画大学(HFF)で映画の勉強後、00年にヤニーネ・ヤツコフスキーと共にKomplizen Filmを設立。第62回ベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞とアルフレッド・バウアー賞をW受賞したミゲル・ゴメス監督の『熱波』(13)など数々の作品をプロデュースする。監督・脚本家としては、00年と01年に一作ずつ短編を発表後、03年にHFFの卒業制作として発表した” Der Wald vor lauter Baumen”で長編デビューを果たす。続く長編2作目となる『恋愛社会学のススメ』(11)で第59回ベルリン国際映画祭では銀熊賞をふたつ(審査員グランプリと女優賞)とフェミナフィルム賞を受賞。長編3作目『ありがとう、トニ・エルドマン』では、第69回カンヌ国際映画祭において批評家から絶大なる支持を獲得したものの、国際批評家連盟賞を受賞するに留まった。カンヌ以外では、第29回ヨーロッパ映画賞作品賞、監督賞、男優賞、女優賞、脚本賞、2016年国際批評家連盟賞年間グランプリ、第51回全米映画批評家協会賞外国語映画賞、第32回インディペンデント・スピリット・アワード外国語映画賞など数多くの賞を受賞。第89回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。
映画『ありがとう、トニ・エルドマン』
6月24日(土)よりシネスイッチ銀座、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
ヴィンフリートとコンサルタント会社で働く娘・イネス。性格も正反対なふたりの関係はあまり上手くいっていない。たまに会っても、イネスは 仕事の電話ばかりして、ろくに話すこともできない。そんな娘を心配したヴィンフリートは、別人<トニ・エルドマン>となって、イネスの元に現われる。職 場、レストラン、パーティー会場──神出鬼没のトニ・エルドマンの行動にイネスのイライラもつのる。しかし、ふたりが衝突すればするほど、ふたりの仲は 縮まっていく……。
監督・脚本:マーレン・アデ
出演:ペーター・ジモニシェック、ザンドラ・ヒュラー
2016年/ドイツ=オーストリア/162分
配給:ビターズ・エンド
© Komplizen Film