映画『バンコクナイツ』 ©Bangkok Nites Partners 2016
甲府に生きる地元の派遣労働者と外国人労働者たちを描きロングランを記録した『サウダーヂ』(2011年)をはじめ、『国道20号線』(2007年)『雲の上』(2002年)など地方都市の現実を描き続けてきた映像制作集団・空族。ソフト化をせず劇場上映にこだわり活動してきた彼らの新作は、タイ・バンコクの歓楽街で働くタイ人娼婦と日本人の男たちの旅を描くロードムービー『バンコクナイツ』だ。webDICEでは2月25日(土)からの公開にあたり、監督・脚本の富田克也と共同脚本の相澤虎之助のインタビューを掲載する。
ふたりは“娼婦・楽園・植民地”をテーマに、バンコクの歓楽街タニヤやアピチャッポン・ウィーラセタクン監督がテーマとしてきたことで知られる東北地方イサーン、そしてラオスで撮影を敢行。今回のインタビューでは、構想から10年にわたる制作の経緯、気心の知れたスタッフととも行った撮影について語っている。
『バンコクナイツ』は“娼婦・楽園・植民地”をテーマにしています。“楽園とはどこか”とは、思えば一貫して空族のテーマだったのだと思います。しかし、“楽園”は常に目の前にあり、ただ覆い隠されているだけかもしれないと『バンコクナイツ』の制作過程で思うようになったのでした。(富田克也)
タイの歓楽街は、ヴェトナム戦時下、1969年にタイ政府とアメリカ軍の間で締結されたベトナム戦争で闘う兵士のために休暇と保養の施設をタイが提供するという条約から始まっています。こういった歴史的背景は『バンコクナイツ』にも大きく影響しています。(相澤虎之助)
構想10年―『サウダーヂ』から『バンコクナイツ』へ
──『バンコクナイツ』はどんな構想からスタートしたのですか?
富田克也(以下、富田):『サウダーヂ』(2011年)からさかのぼること5年ほど前、つまり10年前から僕らの頭の中には『バンコクナイツ』の構想がありました。『サウダーヂ』が、甲府の街を舞台にしたシビアな現実を描く映画だったのもあり、海外ロケで楽しそうな『バンコクナイツ』を先に撮ろうなんて考えた時期もありました。でもその時に『サウダーヂ』の主演の鷹野毅に「いや、これは今、撮らなければ駄目だ」と言われて、その通りだと思い直し『サウダーヂ』を撮りました。そして2011年に自主配給で公開してから、一年ほどは上映活動や海外の映画祭を回っていて、それがようやくひと段落したころに、具体的に『バンコクナイツ』のリサーチが始まりました。でも、そもそも始まりは、20年ほど前、空族として活動を始めるより前、相澤がまだバックパッカーだった頃に遡ります。
映画『バンコクナイツ』監督・脚本の富田克也
相澤虎之助(以下、相澤):バックパッカーで東南アジアを旅していた時期があったんです。その時に、どこに行ってもトゥクトゥクっていう三輪タクシーとかがバーッと集まってきて、客の取り合いになる。それでこちらは気の合いそうなドライバーを選んで、ゲストハウスに連れて行ってもらったり、世話になるんですけど、彼らがその後カタログを出してきて必ず言う三つのキーワードがありました。「女?」「麻薬?」「ガンシューティング?」どこに行ってもやたらとしつこく聞かれるので、これらは社会の裏側にある重要な要素なんだと思い、それをテーマに据えて「麻薬」「戦争」「売春」についての映画を撮ろうと思いました。
映画『バンコクナイツ』共同脚本の相澤虎之助
富田:その1作目が『花物語バビロン』(1997年)で、テーマが「麻薬」だった。相澤がタイ、ラオス、ミャンマーにまたがった山岳地帯にあるゴールデン・トライアングルの世界的なアヘン栽培地に乗り込んでいって、山岳少数民族のモン族がケシの栽培に従事させられていた事実を描いています。2作目が『バビロン2‐THE OZAWA‐』(2012年)、今度は「戦争・武器」を。これは僕が主演で、『バンコクナイツ』での〈元自衛隊員のオザワ〉というキャラクターがここで初登場します。そして残るテーマが「売春」ということで、今回の『バンコクナイツ』に結実していったという流れです。当然相澤は“バビロンシリーズ”の第三作目を自らの監督作としても鋭意準備中です。
映画『バンコクナイツ』 ©Bangkok Nites Partners 2016
相澤:そういう流れで『サウダーヂ』の前作『国道20号線』(2007年)から、実はタイについて言及する部分があったりします。そして『国道20号線』の撮影が終わった後に、「一回行ってみようと」富田を東南アジアに誘いました。
富田:36歳当時、その時まで日本を一度も出たことのなかった僕は、そういうわけで、初海外旅行がカンボジアになったんです。で、日本からカンボジアに行くには、トランジットのために行きと帰りに必ずバンコクに寄る。一泊してバンコクの夜の街をふらふらと歩いていた時に、タニヤ通りに初めて行き当たったんです。タニヤ通りというのは日本人の集まる歓楽街で、看板は日本語ばっかり。道を歩いている店の女の子や客引きも日本語ぺらぺらだし、独特の雰囲気の場所でした。驚きました。そして、この街を撮りたい!と強く思ったところから『バンコクナイツ』がスタートしました。
相澤:タニヤ通りについて調べると、70年代日本企業の海外進出と共に形成された街で、その日本人駐在員たちを相手に発展した歓楽街ということが分かりました。そして、もう少し歴史を遡ると、タニヤに限らずタイの歓楽街は、ヴェトナム戦時下、1969年にタイ政府とアメリカ軍の間で締結されたレスト&レクリエーション条約から始まっています。これはベトナム戦争で闘う兵士のために休暇と保養の施設をタイが提供するという条約なのですが、こういった歴史的背景は『バンコクナイツ』にも大きく影響していくことになります。
映画『バンコクナイツ』 ©Bangkok Nites Partners 2016
イサーンの発見
富田:そうして、4年ほど前からバンコクに行って、まずはとにかく夜の街を歩き回りました。バンコクはトゥクトゥクも普通のタクシーも安く、乗る機会が多いので、そのたびに運転手さんに「どちらの出身ですか?」なんて話しかけていたら、90%が「イサーンから来た」と言うわけです。夜の街で働いている女の子たちにも同じことを訊くと、彼女たちの80%近くがやっぱりイサーンから来ている。そこでイサーンとは何だ?というところから僕たちの関心は膨らんでいきました。
相澤:こちらも歴史を辿っていくと、イサーンは古来から国境紛争でタイとラオス、カンボジアがせめぎあっていて、もともとラオスだった部分がいまはタイに編入されています。言語や文化は全部ラオスのものなので、タイの中央部からは田舎者だと差別されたりしてきた歴史もある。従って中央タイへの対抗心がすごく強い。また、ヴェトナム戦争の時代になると、軍事政権と戦うために抵抗勢力がみんなイサーンにやって来て森に立て籠りました。そうやって、解放区=〈イサーンの森〉が出来ていったわけです。
映画『バンコクナイツ』 ©Bangkok Nites Partners 2016
タイで“戦闘的詩人”と呼ばれた<チット・プーミサック>、この実在した詩人の幽霊役として、スラチャイ・ジャンティマトンさんという方に出演頂いたのですが、彼はカラワンというバンドのリーダーです。カラワンは「プア・チーウィット」という音楽ジャンルの始祖で、それは、訳すと「生きるための歌」という意味のタイで大人気のジャンル。彼らも軍事政権の弾圧を命からがらかわし、楽器だけを持って〈イサーンの森〉に逃れ、潜伏していくことになる。そこでタイ共産党やヴェトナム、ラオスの後方支援を受けながら中央政府と対立していたという歴史がある。だから〈イサーンの森〉というのは“抵抗”がメタファーされる場所でもあったんです。それで、僕らの中でいろんなことが符合しはじめてイサーンにシビれていたら、本作の音楽面で多大な協力を頂いたsoi48というDJユニットに出会いました。
富田:「イサーンから人間国宝みたいな歌手が日本にくる」という情報を得て、駆け付けたんです。それがsoi48のやっていたイベントで、結果的に本作にも出演頂いたアンカナーン・クンチャイさんの来日公演だった。その時に、soi48に「モーラム」というイサーンの代表的な音楽ジャンルの講義を受けて、それがすごく勉強になりました。そしてアンカナーンさんのデビューアルバム『イサーン・ラム・プルーン』を買ったら、表題曲がすごい良くってこの曲をエンディングテーマにしたいと思い、soi48にコンタクトを取ったら気が合って、全面的に『バンコクナイツ』の音楽に関わってもらうことになりました。
相澤:モーラムには昔自分たちが聴いてかっこいいと感じてたレゲエとかファンクとかの黒っぽさを感じました。とは言え、それは黒人の黒っぽさじゃなくて、僕たちアジア人のなかにある祭りの感覚とかに入ってくるもので。“アジアにグルーヴがある!”と今さらながら発見したという感じだったんです。
富田:そうやってイサーンの歴史的な部分と音楽的な部分、そして僕たちも非常に親和性を感じていたアピチャッポン・ウィーラセタクンの作品群などもイサーンを舞台にしている。その辺りがすべて繋がっていく中で、シナリオの骨格が、例えば主人公の故郷はイサーンであろう、という風に決まっていき、物語はバンコクからイサーン、そしてラオスに広がることになっていったわけです。
映画『バンコクナイツ』 ©Bangkok Nites Partners 2016
スタッフ編成、現地の人々との協力
富田:今回は撮影を『サウダーヂ』にも出演して親交を深めてきたstillichimiyaの映像制作ユニット、スタジオ石(向山正洋、古屋卓麿)にお願いしました。彼らにはロケハン段階から同行してもらい、作品の意図を完璧に理解して撮影に臨んでもらったと思います。今回はそのスタジオ石の2人がカメラと照明、今まで山﨑巖さんが1人でやっていた録音にstillichimiyaからトラックメーカーのYoung-Gが参加してくれました。だから撮影班2人、録音班2人という体制で、これまでより少し人数を多くして臨むことができました。
相澤:それでも普通の映画に比べれば全然少ない体制だと思いますが。それと今までは週末や盆暮れ正月に撮ってきたんですけど、3か月という連続した撮影で、しかもバンコクに始まってラオスの中部山岳地帯まで行くという行程を予定していたので、あらゆる意味でハードな現場になるだろうなと予想してました。その意味でもタフな彼らにお願いするのがよいのだろうと判断し、結果は想像した以上の成果をあげてくれました。
映画『バンコクナイツ』 ©Bangkok Nites Partners 2016
富田:Young-Gは現場からタイで合流したのですが、音楽の吸収の仕方が半端じゃなかった。俺たちなんかあっという間に追い越されて。これがDJかと、その神髄をみる思いでした。空き時間にはひたすら、あらゆる音楽を流して聴かせてくれたし、暇さえあればヘッドフォンしてピコピコ音を弄ってた。編集で「こういう感じの曲が欲しい」となれば、スパーンと曲が返ってきて、ピタっとハマる。それは、録音として現場の全行程を共有していたからこそ。だからYoung-Gもsoi48と同じく「DJ」としてクレジットしています。
相澤:加えて『国道20号線』から参加してもらっている音声担当の山﨑巖氏に今回も完璧な音響に仕上げてもらいました。山﨑さんには、僕の監督作『バビロン2-THE OZAWA-』でも音楽を担当してもらったんですが、その時に60年代のロック・ポップスを使いたくて、そこで山﨑さん自身ミュージシャンでもあるのでスリ・ヤムヒ&ザ・バビロン・バンドというバンドで、楽曲を作成してもらったんです。『バンコクナイツ』でも、それらの楽曲を使用したり、更に新しい曲も作ってもらいました。
富田:日本のスタッフに加えて、タイやラオス、フランスでの協力者やスタッフ、キャストの協力が無くしては完成しませんでした。いわゆる普通の映画スタッフではありませんが、皆さんが、僕らの映画を完成に導くために尽力してくれました。特に難航を極めたタニヤ通りは、一度撮影がストップして、もはや撮影は不可能かと思った瞬間もありましたが、出演してくれた女性陣の後押しが大きくて、結果、撮影することが可能になりました。その意味でも『バンコクナイツ』は、日本人、タイ人含めた信頼関係を築くことが必須でした。その関係を築くためにこれだけ時間をかけたと言っても過言じゃないと思います。
娼婦・楽園・植民地
富田:リサーチをする過程で強く思ったことはタイやラオスは母系社会だということです。女性が中心になって大家族が結びついているように感じます。男性はその大きな輪の中にポツポツといる感じ。その家族構成を聞いて、自分の日本の家族に当てはめようにも、ほとんどが会ったことのないような親戚になってしまう。さらに言えば、僕たちは親戚でもお互いに個人の名前で呼び合いますが、彼らは目上の人間だったら「ピー」、年下だったら「ノーン」という風に呼びます。例えば、ある女の子が、会って間もない年上の女の人を「メー」って呼んだとする。「メー」はお母さんって意味なんですけど、そうしたら相手もすかさずルーク、つまり娘、と返す。一瞬にして繋がりの中に入る、という感覚があるような気がしますね。
映画『バンコクナイツ』 ©Bangkok Nites Partners 2016
相澤:映画を作る際に参考にした映画はいくつかあって、溝口健二監督の『赤線地帯』も勿論、意識していましたが、山中貞雄監督の『河内山宗俊』という映画にも非常に影響を受けました。江戸時代の話で、幼い原節子演じる町娘が一大事を抱えて困っていると、そこにヤクザの親分と浪人風情がやってきて、当たり前のように手を貸しはじめ、その問題が割と深刻なことだったので状況は追い詰められちゃって、しかし乗りかかった船だと最終的に彼らは、割とあっさり命を賭けてその娘を守って死ぬ、みたいな話です。命をかけて赤の他人を助けるなんて、今の時代では考えられない話です。
命を賭けるとか聞くとやたらとマッチョな話に聞こえますけど、中国にもそういう話は多いんです。実はアジアって仁義の“義”の部分が非常に強くて、それはアジア特有の義侠心だと思うんです。
富田: バンコクなんて大都会ですけど、タイは敬虔な仏教徒が多いから、下町なんかでも、近所で産まれた親なしの子供がいたら近所で引き取って育てちゃいます。それが彼らにとっては普通の論理として未だ存在している。でも、日本だってかつてはそうだったんじゃないかと。日本にかつてあった何か、それがタイ、そしてラオスにはありました。
『バンコクナイツ』は“娼婦・楽園・植民地”をテーマにしています。“楽園とはどこか”とは、思えば一貫して空族のテーマだったのだと思います。しかし、“楽園”は常に目の前にあり、ただ覆い隠されているだけかもしれないと『バンコクナイツ』の制作過程で思うようになったのでした。2011年の東日本大震災で福島第一原発が爆発し6年が経過しましたが、その間、どうして日本はこうなってしまったんだと考え続けざるを得なかった結果、構想10年の『バンコクナイツ』が、『サウダーヂ』を経た2017年のこのときに、この内容でもって完成したのだと思います。
(オフィシャル・インタビューより)
富田克也
1972年山梨県生まれ。2003年に発表した処女作、『雲の上』が「映画美学校映画祭2004」にてスカラシップを獲得。これをもとに制作した『国道20号線』を2007年に発表。『サウダーヂ』(’11)ではナント三大陸映画祭グランプリ、ロカルノ国際映画祭独立批評家連盟特別賞を受賞。国内では、高崎映画祭最優秀作品賞、毎日映画コン クール優秀作品賞&監督賞をW受賞。その後、フランスでも全国公開された。その後の監督作はオムニバス作品「チェンライの娘(『同じ星下、それぞれ夜より』)」(’12)がある。
相澤虎之助
1974年埼玉県生まれ。早稲田大学シネマ研究会を経て空族に参加。監督作、『花物語バビロン』(’97) が山形国際ドキュメンタリー映画祭にて上映。『かたびら街』(’03)は富田監督作品『雲の上』と共に7ヶ月間にわたり公開。空族結成以来、『国道20号線』(’07)、『サウダーヂ』(’11) 『チェンライの娘』(’12)と、富田監督作品の共同脚本を務めている。自身監督最新作はライフワークである東南アジア三部作の第2弾、『バビロン2-THE OZAWA-』(’12)。
映画『バンコクナイツ』
2017年2月25日(土)テアトル新宿ほかロードショー、他全国順次公開
タイの首都、バンコク。日本人専門の歓楽街タニヤ通りの人気店、「人魚」でNO.1のラックは、イサーン(タイ東北地方)からバンコクへ出稼ぎに出て5年が経った。日本人のヒモ、ビンを連れまわし高級マンションで暮らす一方、ラックの支える大家族は、遥かラオスとの国境を流れる雄大なメコン川のほとり、ノンカーイ県に暮らしていた。確執が絶えない実母ポーンと今は亡きアメリカ軍人だった2番目の父との息子、ジミー。ラックは種違いの弟ジミーを溺愛している。ある晩、謎の裏パーティーで、ラックは昔の恋人オザワと5年ぶりに再会する。
監督:富田克也
脚本:相澤虎之助、富田克也
出演:スベンジャ・ポンコン、スナン・プーウィセット、チュティパー・ポンピアン、タンヤラット・コンプー、サリンヤー・ヨンサワット、伊藤仁、川瀬陽太、田我流、富田克也
撮影・照明:スタジオ石 (向山正洋、古屋卓麿)
録音:山﨑巌、YOUNG-G
DJs:SOI48、YOUNG-G
ラインプロデユーサー:長瀬伸輔
助監督:河上健太郎
VFX:定岡雅人
スチール: 山口貴裕
タイトルデザイン:今村寛
HP作成:石原寛郎
コ・プロデューサー:大野敦子、筒井龍平、フィリップ・アヴリル、アピチャ・サランチョン、ドゥアンメニー・ソリパナン、マチエ・ドゥー
アソシエイト・プロデューサー:小山内照太郎
宣伝:岩井秀世、佐々木瑠郁
製作:空族、FLYING PILLOW FILMS、トリクスタ、LES FILMS DE L’ETRANGER、BANGKOK PLANNING、LAO ART MEDIA
2016年/日本・フランス・タイ・ラオス/182分/DCP
配給:空族